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10/4(月)続き     オルヴィエート&アッシジ(2)                  

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アッシジの町全景


  車窓には,なだらかオリーブ畑と丘の上の白い集落と小さな教会が流れていく。
おなかがいっぱいになって時々うとうとしているうちに

  
 ペルージャの町をあっという間に過ぎアッシジに到着。(13:45)

 アッシジ
(Assisi)はイタリアの国の守護聖人で第二のキリストとも呼ばれる聖フランチェスコの町である。イタリア人だけではなく,全世界のカトリック教徒巡礼の地。
 アメリカのサンフランシスコという地名は聖フランチェスコから来ているそうだ,知らなかった!

 昨日(10/3)が聖人の昇天した日であるとかで,今日は町中が物凄い混雑,とくにお目当ての聖フランチェスカ教会では行事が行われていて信者達でいっぱい,ほとんど何も見れずにただ周ってきただけみたいになってしまった。

 まず,訪れたのは
聖マリア・デッリ・アンジェリ教会(Chiesa di Santa Maria degli Angeli)
 アッシジの麓の平野部にあり,大きな建物(長さ116m・高さ75m)と金色に輝く聖母像が目を引く。
 聖マリア・デッリ・アンジェリ教会

 頂点に金色の聖母像が光る
ファザード
カトリック信者や観光客がよく訪れる教会

 この大きな教会は,実は中にあるもうひとつの教会(フランチェスコが伝道を始めた場所として知られるポルツィウンクラ聖堂 )を保存するために建てられた建物だそうだ。
 1569年に建てられたが,19世紀の地震でこのドーム以外はほとんど崩壊して,その数年後に再建された。
 現在のファザードは,ルネッサンス・バロック様式を模倣したもの。

 内部には左右にいくつもの礼拝堂が並んでいる。

 中央にあるのが
”ポルツィウンクラ礼拝堂”(Porziuncola)

 建築は4世紀と推定されている,もとはベネディクト会の教会で,フランチェスコ(1182 - 1226)が布教を始めて間もない頃に譲り受け,ここで仲間達と住んだそうだ。

 内部は、とても狭く14世紀の絵がびっしり。この小さな教会こそ,聖フランチェスコが神の声を聞いて修復させたものなのだそうだ。

 1226年10月3日,フランチェスコが隣の小屋で昇天し,また
聖キアラが親の反対にもかかわらず出家を決意した時に、隠れ家として使った場所でもあるともいう。

 「ポルティウンクラ」とは小さな耕地という意味,10坪にも満たないとても小さな建物。

  教会内では,多くの人がお祈りを捧げていて,厳粛な雰囲気で満ち満ちている。
 とてもカメラのシャッターを切る環境ではない。


 外国人に「あなたの宗教は?」と聞かれたら
 わたしは「Buddist」と答えることにしている(無宗教と答えると,こいつアホかと思われる)。
 が,実はほとんど無宗教であるわたしには,おごそか過ぎるこの場所を早々と撤退する。

  教会を出ると,

  
ほんとうに,生きてる鳩が出入りしているぞ!

 鳥の巣を持った
聖フランシスコ像棘の無いバラ園がある。(フランチェスコが,これまでの生活を投げ出してしまいたい誘惑をおぼえた時,これに打ち克つため裸になりバラ園に身を投げたら,体に触れたバラから棘が消え花が咲いたという話が残っている)

   聖フランチェスコ像

 動物と会話を交わしたという聖フランチェスコには動物との逸話がいくつもある。

 この像には鳩が棲みつき,いつも卵を温めているとの話です。
(写真の鳩はほんもの,籠に出入りしていた・・・)


  実を言うと,ここに着いた時ここが何処なのか? なんと言う教会なのか?分からなかった。
 よし子さんが早口なので。
 ガイドブックに載っている地図とにらめっこしても分からない。そこで,地図を見せながらよし子さんに「ここは何処なんですか?」と聞いた。すると答えて曰く「それっ ”地球の歩き方”ですか? その本,嘘ばっかり書いてあるんですよね,嫌いです」と来た。 そんな言い方は無いだろう!
 確かに不正確な記事,古すぎる情報もあるけど,わたしら個人旅行者にとっては頼りにしている本なんだよ!

 さて,いよいよ古いアッシジの町へ

アッシジの地図

 イタリア中部、「緑の大地」と呼ばれるウンブリア地方の丘の上に建つ町”アッシジ”は長さ5kmの城壁とオリーブの畑に囲まれた幅400m,長さ約1500mの要塞都市である。

 
城内へは,”ヌオーヴァ門”(Porta Nuova)@から入り, だらだらした石畳の坂道を5分くらい歩くと左手にある

”サンタ・キアーラ教会(Basilica di Santa Chiara)(A)に着く。

 
途中で,妻が日本語のガイドブック「アッシジ」を売っているショップを見つけ購入。           
5 
 
その間も,ツアーの一行は,どんどん行ってしまう。わたしが中間に入って,迷子にならないように待つ。
ツアーでの見学はゆとりが無い。これが嫌なんだが,効率重視だからしかたないか!

    サンタ・キアーラ教会

 ファザードはスバシオ山で採掘された白と淡紅色の大理石が使われている。
 聖フランチェスコ教会の上堂と正面が向かい合う形で建てられていて,バラ窓を中心にもつ正面の格好もそっくりである。

 建物の左側に見慣れない半円アーチがついているが,ランパンテ(跳ね馬)と言うそうだ,建物の側面を支えるために設けたもの。実は右側にもあるんだがこちらは化粧板でカバーされていて,教会内部空間となっている。

 

 この教会は,家族の反対を押し切って家出して女性で最初のフランチェスコの弟子となった聖キアラ(1193−1253)の死後にその偉業を称えて,1255年から1265年にかけて建てられた。
 

 
教会内部は,たったの15分間の自由見学 
 
 ここも内部は信心深き人々でいっぱい。
 聖キアラの生涯を描いた板絵やキアラの遺体が安置されている。板絵に描かれた僧服に3つの結び目がついた腰縄が見えるが,今でもフランチェスコ会の伝統として受け継がれているそうである。
 
 地下室に安置してある聖キアーラ遺体には長々とした行列が出来ていて,時間を気にしながら拝ませていただいた。

   聖人が出生したと伝えられる馬小屋
 教会前の広場から東への小路を行くと小さなチャペル,

”サン・ピッコリーノ礼拝所”(Oratrio S. Francesco Piccolino)(B)
 
 に着く。
 フランチェスコの両親の家だったもので1階にある馬小屋で聖フランチェスコが生まれたという言い伝えがあるところ。

 馬小屋にしては立派なもんだ。言い伝えによると母親のところに天使が現われて,馬屋で出産するように誘ったということ。キリスト生誕とおんなじじゃ,作り話であること見え見え!

 

 
再び小路をすこし登ると

 ”ヌオーヴァ教会”(Chiesa Nuova )B

 ここもフランチェスコの父親(大織物商)の住居があった場所に17世紀初頭スペイン王フィリップ3世が造らせたバロック式の教会である。

 聖フランチェスコが出家を決意した時に父親に反対され監禁された通称”牢獄”が残されている。


 ヌオーヴァ教会を出た前の広場が,

  ”コムーネ広場”(Piazza del Comune)C

 ローマ時代から中世の時代を通してアッシジの行政の中心地として町の歴史を刻み込んできた広場と言える。
 広場の周囲には,
ミネルヴァ神殿(BC1〜AC1初頭),プリオーリ宮(AC14),隊長の館とポポロの塔(AC13),聖ベルナルディーノの説教台(AC14),多角形の噴水などが建ち並び中世の佇まいを色濃く残している。

 前日からのお祭りで,たくさんの人々が集い,周りの建物には色とりどりの旗が飾られ賑わっていた。


 色とりどりの旗が飾られ人々で賑わっているコムーネ広場
               ミネルヴァ神殿とポポロ塔

 低めのペディメント(三角形の切妻壁)をコリント式柱頭をもつ6本の溝つき円柱と台座で支える典型的ローマ建造物。内部は16〜17世紀にバロック式の教会に改造された。

 ポポロ塔の上方にはアーチ型の開口部が二段あり,屋上部は皇帝派を示す狭間が造られている。
 尾根筋の通りを北西に歩くと,両側は中世のままの建物をそのまま使っている町並みが続く。
 右のレストランにしている建物は,カラフルな”ツフ”(凝灰岩)
をふんだんに使っている。
 地形に合わせた造ったまがりくねった道と石造りの家々はえもいわれぬ中世の面影を感じさせる。

 サン・フランチェスコ通りを西へ下るとこの町の最大のみどころ,世界遺産に登録されている壮大な

”サン・フランチェスコ聖堂”(Basilica di S.Francesco)D

 に突き当たる。

 広場の前でよし子さんから簡単な説明を受け,あとはご自由に観てきて下さいという,一緒に中に入って説明はしてくれ無い。
 
 ジョットの
「小鳥への説教」だとか「夕日の聖母」は是非見てきて下さいというが,聖堂内はフェスタの行事の真最中で礼拝に訪れる人々と観光客で大混雑!
  フリータイムもたったの30分くらいしかなくてあちこち動き回ったが,ご推薦の絵は見つけられなかった,また写真撮影も禁止で不本意ながら時間切れで引き揚げざるを得なかった。
 やっぱり ツアーてぇ〜のは,こんなもんか!
 
 ということで,以下は先ほど求めたガイドブックから抜書きしたものとわたしが感じたこと!。

 サン・フランチェスコ聖堂は,1226年に他界したフランチェスコを祀る聖堂で,1228年フランチェスコが聖人となった翌日から建設が開始され1253年に完成,その時点から装飾工事も開始された。
 ピサーノ,ジョット,チマブエ,「フランチェスコ画の名人」と呼ばれる無名画家達が腕を競い,キリスト教文化のシンボル的存在の教会となった。

 聖堂は上下2層の独特の形式で,上堂
(Chiesa Superiore),下堂(Chiesa Inferiore),宝物館(seo del Tesoro)に分かれておりそれぞれにみどころあり。

 
上堂は,イタリアンゴシック様式で全体に天井が高く,階段や柱も無くステンドグラス越しの光が入り明るく伸びやかな感じがする。
 
 天井と両壁に描かれた聖フランチェスコの生涯を描いた28枚のフレスコ画が有名。
その中にある一場面がジョットの
「小鳥へ説教するフランチェスカ」

 
下堂は,ロマネスクーゴシック様式,低いアーチ天井と柱で区切られた空間と薄暗く濃厚な色使いの絵と相まって,神秘的かつ荘厳な雰囲気である。

 シモーネ・マルティーニのフレスコ画,ジョットのフレスコ画,ピエトロ・ロレンツェッティのフレスコ画がたくさん描かれている。
 「乞食にマントを与える聖マルティーノ」,「キリストの降下」,「最後の晩餐」,「嬰児虐殺」,「わたしに触れてはならない」,「キリスト誕生」,「エジプトへの脱出」,「玉座の聖母と4人の天使と聖フランチェスコなどなどの傑作がずらり!
 中でも ピエトロ・ロレンツェティ Pietro Lorenzetti の
「聖母と聖人たち」は窓から差し込む夕日が金色の背景に当たると際立って美しいことから「夕日の聖母」とも呼ばれている。(これは必見といわれたが,あとで分かったことだが,祭壇に近い左翼部の壁にあって,場所が分かっていたとしても人がいっぱいで到底そこまで進むことが出来なかっただろう。)

           上堂と鐘楼

 傾斜地に建っている大聖堂はなかなか複雑な構造をしているようだ。人工地盤を造って上堂,下堂を2階建てみたいに配置している。自然の傾斜を上手に利用した設計に感心させられる。
    右から下堂ファザード,鐘楼と
   修道院入り口

 右手小アーチの連続する構造物は,柱廊式回廊で巡礼者や病人達を保護する為に造られたと言う。

 16時 下堂前に集合し,鉢植えの花で飾られた石造りの家々の並ぶ静かなフラーテ・エーリア通りを下り”サン・ピエトロ門”(Porta S. Pietro)から城外へ 

 かくして,あわただしいアッシジ見学が終了した。
 ウニタ・ディターリア広場(Piazza Unita Del Italia)E)で,バスが回送されて来るまで,ジェラードで休憩。 16時30分 一路ローマへ

* アッシジの町は,1997年9月,イタリア中部を襲った強い地震(アッシジ地震)に見舞われ,大きな被害を受けた。サン・フランチェスコ教会のジオットなどの壁画などが剥がれ落ちて粉々になるなどの被害を受けたとのことだが,現在は修復されている。
 最初に見学した聖マリア・デッリ・アンジェリ教会の壁面にはクラックが見られわたしたちの気付かぬところにまだまだ傷跡が残っているのだろうか?

 ローマ着 19時ごろ,ホテル近くのスーパーの前で降ろしてもらい買い物をする。。

  
ローマのスーパーストアーって 進んでるよ〜

 果物少々とミネラルウォーターを買う。
 レジで,果物は自分で計量してきてくれと言われる。
 日本には無いシステムなので少々面食らったが,果物売り場のそばに秤が置いてあって,売り場の品物にはそれぞれ番号が表示されている(例えばみかんは30,いちごは31とか)。
 好きなだけの量を,秤りに載せて品物の番号を打ち込むと重量と料金が書かれたレシートが出てくるので,品物を入れた袋に貼ってレジに持っていくというシステムである。 
 
 日本ではほとんどパックされていて,好きなだけの量を選べないのに比べなかなか合理的な方法だと感心した。

                            
みかん,イチゴ,ミネラルウォーター     5.42     

  夕食はホテル近くの大衆的レストラン(というよりトラットリアに近い)で,

  うわ〜つ 凄く込んでいる! 

 団体さん,グループなどで大入り満員!
 席の詰めすぎ! 
 にもかかわらずまだまだ詰め込んでくる!
 ウエイトレスの態度が横柄! 

 パスタ入りスープ,魚介類のリゾット,モツェラチーズピザ すべて美味しいとは言えない!  
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 今日はノンアルコールデー   早々に退散する。

  

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