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9/30(木) ポ ン ペ イ              

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 町の誕生は,紀元前9〜8世紀と推定されカンパーニヤ地方の原住民オスク族により建設された。その後ギリシャの都市国家エトルリア,サムニュウムなどに支配され紀元前290年ごろからローマ帝国の植民都市となった。
 悲劇の起こったのは紀元79年8月24日(日本ではまだ弥生時代)。
 ヴェスヴィオ火山の噴火によって噴火開始からわずか19時間で滅亡したと言われている。人々は「
熱雲(高熱の細かい火山灰)によって一瞬のうちに窒息死し,火山灰,火山礫,火砕流によって街全体が埋もれた。
 1784年に開始された本格的な発掘によって1700年ぶりに姿を現したポンペイは,まるでタイムカプセルのように当時の建物だけでなく人々の生活の様子,その行動までを私達に見せてくれる。

 ◆ ヴェスヴイ鉄道(Ferrovia Circumvesviana)でポンペイに向かう

 8:22発のソレント行きの電車に乗り込む。ホームでアナウンスがあったと思ったらみんな前方の車両に移って行く? 客が少ないからなのか
「後部車両が切り離されて出発する」と近くの人が教えてくれた。
 言葉が理解できないと言うのは厄介なもんだ,いつも五感を働かせ周囲にアンテナを張っていなければならない。
 
 かくして電車は,ナポリ郊外の住宅地を抜けてヴェスヴィオ火山の雄姿を右左に見ながら走る。都心に向かう方の電車は通勤客で一杯だ。
  
 
 電車はシートが硬くて,台車のスプリングも硬めなのかトロッコ列車のようにガタガタ にも拘らずスピードは一人前以上で極めて乗り心地が芳しくない。
 停車時間が結構短いので,乗り過ごさないよう停まる度に駅名をチェックしながら約35分後,ヴィラ・デ・ミステリ
(Villa Misteri)駅(別名 ポンペイ・スカビ(Pompei Scavi))に到着。 
                                                      
乗車賃 2.3


 ◆ ポンペイ遺跡見学
 
 ぞろぞろ歩いて行く皆に着いていくと左手に入場口あり。
 オーディオガイド(残念ながら日本語はない)とかガイド(これも日本語なし)の案内があるが,日本語無しではしょうがない。小学館「ポンペイの遺産」からコピーしてきた地図を頼りに見学開始。
                                                      
入場料 10
  マリーナ門をくぐってフォーロへ
        
       
(以下の写真はクリックすると大きな写真が見られる。)

  
”フォーロ”は昔も今も繁華街,日本人団体客が次から次へとやってくる。
 おかげさまで二人並んで写真を撮って貰えた。

      マリーナ門

 ポンペイ周囲を巡る市壁の西側にあり,海の方角にあるためこの名で呼ばれている。二つの半円アーチを並べた形で,狭い方は荷駄用,もう一方は歩行者用。
       バジリカ

 古代ローマにおけるバシリカは裁判所である。紀元前100年頃の築。奥の部分に一段高くなった法廷がありその正面は2列の円柱で強調されている。バジリカという名称は後キリストに初期のキリスト教会を示すようになった。
      アポロ神殿

 最初に作られた部分は紀元前6世紀,その後増築され1世紀のネロ帝時代に美しく装飾された。
48本(現在は2本のみ残存)の円柱で囲まれた長方形建物。
 階段手前にあるのはいけにえ台とか。
 フォーロとジュピター神殿

 手前はフォーロ(公共広場)後方にヴェスビオ火山を望む
 神殿は広い階段上に聳えていた,62年の地震で建物は深刻な被害を受けて79年の噴火の際にはまだ修復されていなかったと言う。
 両脇のアーチはほぼ完全な形で残る。

 
   市場(マケルム)

 この建物は1世紀のもので正方形。
    市場内部

 中央に12本の円柱で支えられた水槽があってその排水溝から魚の骨が見つかり魚市場だったのではないかと推定されている。

 奥に神殿。
   奴隷の石膏型 

 市場に入ってすぐ左手に置かれていた

 ポンペイの犠牲者の姿は火山灰の中の空洞となって残り,それを石膏でかたどったもの

 ”ジュピター神殿”の北側には,紀元前1世紀に造られた”フォーロの浴場”があり,62年の地震の後も唯一使用されていた浴場だと言う。
 内部は男性用と女性用に分かれそれぞれ”冷水浴場” ”温水浴場” ”熱水浴場”があり,壁の間を通したパイプを使って冷暖房をしていた。冷水浴場は円形のゆったりした部屋で漆喰に絵画装飾がされている。紀元前にこんな優雅な生活を送っていたなんて驚きだ!

 ”フォーロの浴場”の一部は現在,レストラン,バール,ショップとして利用されている。個人で見学される方は先ずここに寄って地図とかガイドブック(日本語あり)を求めてから歩き出すことをお奨めする。


 アボンダンツァ通りから円形闘技場へ

 ”フォーロ”から”サルノ門”まで東北に延びる幹線道路を通って東北隅の円形闘技場まで途中横道に迷い込みながら歩く。
こちらの方にはツアー客は来ないようで少し静かになる。
 

  アポンダンツァ通り

 今も昔もポンペイの銀座通り,大勢の観光客が行き来する。
 幅8.5mで安山岩の大塊で舗装されている石畳道路。
 この通りはポンペイの主要道路の中でもとくに大切な通りで,片側は公共広場,一方は大劇場や円形闘技場へと通じる。
 通り沿いは商店が多数建っていたという。
 (写真左手の建物は,当時の主要産業であった布加工業組合事務所のあったエウマキーア)
      横断歩道?

アボンダンツァ通りは荷駄の通る車道と人が歩く歩道に分かれている。
 車道を渡るための飛び石があり雨の日には排水路ともなる車道を足をぬらさずに渡れる横断歩道の役目をしていた。
 仕事や買い物に行く人々は安全な歩道を歩き、歩行者天国となっていた公共広場に向かったのだろうか。紀元一世紀,日本では弥生時代である。 驚き!

       給水所

 
通りには彫刻が施されたいくつもの水汲み場がある。

 写真は豊穣のシンボルである果物や花を詰めた角(コルヌ・コピア)を持つ少女をかたどった給水栓。
 
 ポンペイには3種類の水道が引かれていたそう。ひとつは共同の水汲くみ場のための水道,二つ目は公共浴場のための水道,三つ目は富裕層の家庭に送られる個人のための水道だ
      大劇場

 紀元前2世紀に造られた収容人数5,000の立派な建物。

 観客席に椅子が置かれている様子から現在も時々催し物が開かれるようである。この辺りは溶岩台地の縁に辺り傾斜した地形を上手に生かした建築構造と見た。
   剣闘士の宿舎

 元々は劇場関連の建物で観劇中の中休みに観客のための溜まり場となる場所だったと言う。
 ネロ帝時代に剣奴の宿舎と練習場に当てられた。
 数多くの武器が発掘され,ナポリの考古学博物館に所蔵されているそうだ。

 
     狼の家

 玄関の床に施された「犬に襲われる狼」と幾何学模様が際立つモザイク装飾。
 何故か中には格子扉があって中には入れなかった。光線の加減でモザイク模様が見ずらいのはご勘弁を!
               円形闘技場

 古代ローマの最大の娯楽は剣闘士の戦い。ポンペイの人口2万5千に匹敵する1万2千人収容を誇る円形闘技場である。
 造られたのは紀元前80年,現存する建物のうちで最も古いものの1つで,後に造られたコロッセオのモデルとなったと考えられている。
 
 左の写真は外壁,35段ある観客席は上方ほど庶民の席で,外壁に階段が設えられている。競技するレベルは,一部堀下げ式になっているようだ,地形を上手く利用している。

 水道施設といい,碁盤目道路の都市計画といい,先の大劇場といいローマの建築・土木技術には脱帽!
     大運動場

 前2世紀にポンペイの人口が急増して今まで使われていたフォーロにある運動場では間に合わなくなって建設されたそうだ。大きな四角い柱廊で囲まれ運動場の中央にはプールらしきものも見えた。

 スタビア(別称ヴェスヴオ)通りからヴッティの家・ファウナの家へ


  富裕層の家が比較的多いポンペイ市街地の北西のブロックに向かう。
 スタビア通りからは 正面にヴェスヴィオ火山がよく見える。
 
 日差しが強くなった
”スタビア通り””水道調圧塔”の脇を通って”金色天使の家””ヴェッティの家” ”ファウノの家””悲劇詩人の家” ”フォーロ浴場”。(ヴェッティの家は何故か中には入れなかった。)
 
 バール・ショップで昼食とトイレ休憩,ガイドブック購入。
 
 この後,もう一度アポンダンツァ通りに戻って,1本道筋が違うのでまだ見ていない
”スタビア浴場””娼婦の館””モデストのパン屋”を見学。
   スタビア通り

 長い年月をかけて轍が出来た道路。
 スタビア通りの水飲み場

 後方の塔は水道の圧力を上げるための柱。その水圧によって鉛管を通して町の隅々まで給水される仕組み。この時代既に鉛管が使われていたなんて驚き!

 話は変わるが,ワインカップにも多量な鉛が含まれていて,当時の人々は鉛中毒に侵され,それがローマ帝国の滅亡の一因だという説がある。
   居酒屋?
 
 石で作られたカウンターに飲み物を混ぜるための甕を入れる穴がある。現在のバールの原型かも?
ファウノの家
    列柱式中庭

 ファウノの家は紀元前5世紀に建てられ前世紀に改造されたローマ時代の典型的な富裕層の家。建築上の美しさと華麗な装飾で有名。広さは3,000uで市内で一番大きな家。
    床のモザイク装飾

 左上の写真向かって左手の談話室フロアーにはかの有名な「アレクサンドロ大王とペルシャ王ダリウスとのイッソスの会戦」のモザイク画(ナポリ考古学博物館蔵)があったところ。
   踊るファウノ像

 庭の水盤の中に立つ牧羊神
    スタビアーネ浴場 

 ポンペイで最も古い浴場。右手の柱廊に沿って男子用,女子用浴室が並び運動場の反対側には遊泳用プールもある。
 
 部屋の多くに洗練された漆喰装飾がなされている。また,隔壁の間にパイプを通して冷暖房が行われていたと言うから驚きだ!
          娼婦の家の壁画

 二階建ての建物は陰気な感じのする小さな部屋に分かれていて壁にはさまざまなセックス場面が描かれている。
 個室のベッドは石で出来ている。
 
 こんな昔からあったんだ!驚きとともに当時の庶民の赤裸々な姿がわかる。
  モデストのパン屋

 溶岩製の石臼で粉を挽き左手の半円形の口のレンガ製の窯で大量の(一度に80個も焼けるそうだ)パンを焼いた。

 こうしたパン屋さんは市内の各所にあって,ポンペイの人たちの昼食を提供したと言う。現在のコンビニ弁当屋さんみたいだ。
 
 
 エルコラーノ門から墓地通りをぬけて秘儀荘へ

  最後は墓地通りを通ってポンペイ市街地からやや離れた秘儀荘を見学した。

 墓地通り一帯はポンペイがもっとも栄えた時代に市壁からはみだした郊外に数々の高級住宅や店舗が建ち市街地を形成した場所である。

 エルコラーノ門から下りきったところに,ナポリ湾を見晴るかすように海に向かった斜面に建つのが秘儀荘。
 部屋の壁にはポンペイレッドを背景に宗教儀式を行う人々が様々なポーズで描かれている。
 別荘の持ち主がこれらの絵を何の目的で描かせたのか謎だと言う。屋敷が建てられたのは紀元前2世紀ごろ,その後改造修復され装飾が加えられた言われている。
 
 ポンペイ遺跡見学で,普通はここまで来る人は少ない,
「ポンペイ レッド」と呼ばれる深い赤で描かれた『ディオニュソスの秘儀』の壁画は薄暗い部屋に一種異様な迫力を感じる。ここまで来たかいがあったというもの。

 
イスタチディ一族の墓

 台上に造られた神殿が特徴
    霊廟型の墓

 このまま青山墓地へ持ってきてもその立派さは郡を抜くであろう。
  秘儀荘外観   大作「秘儀物語」の一部

 少年の姿をしたディオニソスが宗教典礼書を読み,椅子に座った女性がそれを聞いている。
 若い女性が奉納物を運ぶ。
 座った女性が二人の若者の手を借りて穢れを清める。
 
  これでポンペイ遺跡の見学を終了。約6時間歩き詰めで,疲れたあ〜!

  午後3時ちょっと前の電車でナポリに戻る。帰りは終点の一駅手前のナポリセントラルで下車,ヨーロッパでは珍しく改札をしていた。

 ローマ時代の文明の高さを改めて認識させられた一日であった。

                                                       乗車賃 2.3

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