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イタリア旅日記 (4) ベネティア
2/28(土)
パンがとっても美味しかった(が,野菜類は全くなし)朝食をすませて,8時出発。
今日はヴェネツィアを半日で観光して,フィレンツェへ移動するまたしてもあわただしい一日の始まり,はじまり〜!
ホテルのあるリド島は長さ12km巾は狭いところでは500mにも満たない細長い島だ。アドリア海に面した長い海岸線は夏のビーチリゾートのメッカで,映画「ヴェニスに死す」にも登場したと言う。また,ベニス国際映画祭もこの島で開かれるとのこと。
ホテルの前の岸壁から船でヴェネツィアの町があるリアルト島に渡る。着いたところが高級ホテルが立ち並ぶスキアヴォーニ河岸の船着場。歩いてすぐ,ドゥカーレ宮殿に到着。開館までまだ間があるので写真撮影時間が取れ,みなさんサンマルコ運河の対岸マッジョレ島やジューデッカ島の教会をバックにパチリ,パチリ!
ドゥカーレ宮殿
ドゥカーレ宮殿は9世紀に建てられたベネチア共和国の歴代総督(ドージュ)の華麗なる住まいで,立法・行政・司法の中枢だった建物。何度か火災に遭い,改築され15世紀に現在の形となる。
宮殿の前には、ヴェネツィア(ベニス)の守護神、聖マルコの象徴として作られた翼を持つライオン(有翼のライオン)像(ベネツィアのシンボル)と聖テオドール像がある。
日本語の流暢なベネツィア婦人が案内してくれた。生粋のベネツィア人らしく「フランスはベネツィアから多くの美術品を本国に持ち去っていった。ベネツィア人は,みんなフランスが嫌いです!」と言っていた。世界各地で行った昔の乱暴狼藉が一切無かったかの如く振舞う鼻持ちなら無ぬ,現在のフランスの国民性をいつも腹立たしく思っているわたしは思わず「同感!」
写真撮影が許されるのは中庭まで。
外観はゴシック様式で、白とピンクの大理石で造られている。
まずは四階へ。
回廊部分の天井は唐松材でできている,日本の古い建物を思い出す。
四つ扉の間,謁見室,元老院の間,裁判所,検事の部屋などの内部は天井から壁まで金細工とベネチア派画家の見事な絵画で飾られている。
2階の国会議事堂はおよそ3000uの大広間でその広さと天井画の美しかったことがとくに印象に残っている。
こんな大スパンの木製の天井をつり構造で造ったそうだ,しかも15世紀に。すごいに技術だと感心する。1960年までは世界一広い広間であったという。
この広間の正面にあるティントレットの「天国」は必見とガイドブックには書いたあったが,実を言うとどんな絵だったのか記憶が無い。必死になってインターネットで探したが日本のサイトでは見つけられなかった。
横文字で検索してやっと探し当てたのが下記のサイトである。
ここに載せた画像は「De Cou Archive Venice 」から拝借したもの,色合いが本物とちょっと違うがご勘弁を。
もう少しましな画像は「Venice A Photographic Tour 」でご覧になれる。
ドゥカーレ宮殿の東側に運河を隔てて牢獄だった建物があり,宮殿側から通称「ため息橋」を渡って行くことができる。
罪人は、橋の小さな窓からこの世に別れを惜しみ,ため息を漏らしたということが名前の由来である。
牢獄はさすがに宮殿とは違ってむき出しの石と煉瓦造りで光もあまり入らない寒々しい雰囲気だ。
厳しい寒さで凍死した罪人も多かったと言う。牢獄は1922年まで現役だったそうだ。
ドゥカーレ宮殿入り口 | 回廊部分の唐松材を張った天井 | ため息橋(左手:宮殿,右手:牢獄) |
サン・マルコ大聖堂
聖マルコの遺骨を祭るため11世紀にギリシャ人によって建てられた寺院で,なんとなくアラビックで内部の装飾にはビザンチン工芸の粋を凝らしていることが分かる。
東洋的な丸屋根を持ち,床は大理石の,壁面・天井は金箔地の精巧なモザイクで埋め尽くされていた。気が遠くなるほどの精巧さと圧倒的な量である。
信者の座る椅子の高さが不揃いなのと大理石の床が波打っていることに驚く。
地盤沈下が予想以上に進行しているようだ。
大聖堂の建設は828年ごろにはじまり,一度,火災を受けて1060年ごろに完成。その後の改築で,ゴシック・ロマネスク・ルネサンスのさまざまな建築様式がもとのビザンティン様式と入り交じり,なんとなくアジア的,東欧的な不思議な魅力をもつ現在の姿になったようだ。
わたしたちが見学したとき,祭壇ではなにか祭事が行われていたので,静かに,かつ,さ〜っと見学を終えた。
ここを出たところが
サン・マルコ広場
ヴェネツィアに来た旅行者が,まず目指すのがこの広場。
ドゥカーレ宮殿,サン・マルコ寺院,ヴェネチィア共和国の新旧政庁,コッレール博物館などの歴史ある建物に囲まれて,誰もがヴェネツィアを実感する場所である。
この広場の隅にある鐘楼はエレベーターで上ることができる。(この鐘楼でガリレイが天体観測を行ったそうだ)
自由時間の際,エレベータ順番待ちの行列に一度は並んでみたが,上に登ったら集合時間に間に合わなくなるかもしれないので残念ながらあきらめた。
広場を囲む新旧政庁の1階部分に軒を連ねるカフェ,土産物屋,宝石店をウインドウショッピングした。
えっつ! 観光には長靴が必要?
広場な片隅に高さ7〜80cmの縁台のようなものがいくつも並べられている。
おっつ これが例の渡り桟橋だ!
ヴェネツィアは最近,地盤沈下が進んでいるらしく秋〜冬の大潮の満潮の時間に水が上がってきてしまう。
時には寺院の前が水浸しなってしまうらしい!。しかも,1mくらいも。
イタリアは10月頃から雨季に入るので水かさも他の季節より高くなりそう。ヴェネツィアに行く場合は、10月頃は避けた方がよさそうだ。
潮位を「Tide Table:Venezia Italy」 で事前に調べて見学時間を計画するのも Good Idea かもね!
ヴェネツィアングラス工房へ
広場の裏手にある店に連れて行かれる。
ヴェネツィアングラス工房の見学と言う触れ込みだが,要するに買わせるのが目的だ!
作るところを実演し,その後はお決まりの製品の説明をして,さあどうぞお買いくださいというコースである。
妻が,レース模様のカップに興味を示す。待ってましたとばかり,別室に案内され,とうとう買わされる。値段は秘密とのこと。この後,妻はこの高価なちいさな壊れ物を後生大事に抱え込んで旅行を続けることとなる。
ヴェネツィアングラス イスラムの技法を受け継ぎ、13世紀に製法が確立される。 1291年、火災を防ぐためと技術の秘密を守るために、すべてのガラス工房がムラーノ島に移される。 ルネッサンス時代にはヴェネツィアの一大輸出産業として優れた製品が造られ,以後ムラーノ島はヨーロッパのガラス製造の中心となる。 コバルト,マンガン,金など鉱物を溶かし込んで造ったヴェネツィアンブルーや,ヴェネツィアンレッドと呼ばれる深みのある色ガラスを使う。 |
リアルト橋へ
この後,11時半までフリータイム,40分位しかないが,リアルト橋まで行って来れそう。
町の辻々の至るところに「Per Rialto(リアルトはこっち)」という案内がある。
人通りの多い土産物を売る店や高級らしいブティックや宝石店が並ぶ小路を足早に15分位歩くと,大運河の水上バスの発着所に出た,右手にリアルト橋が見え難なく到達。
ヴェネツィアを逆S字状に大きく蛇行するカナル・グランデのほぼ中間にかかる長さ48m,幅22mの大理石の橋。
橋の上はショッピング・アーケードになっていて,宝飾品や皮製品,土産物を売る店が軒を並べていた。
フィレンツェのヴェッキオ橋もそうだが,橋の上を商店街にするのは日本には無い習慣だ。わたしとしては落ち着かない感じがしてならない。
対岸の商店街を瞥見,写真を撮って引き揚げる。
ゴンドラで運河めぐり
今朝の船着場近くのゴンドラ桟橋から1艘に3人ずつ乗って出発。
黒く塗られたゴンドラは細長く、乗るときはぐらぐらゆれて安定が悪そう。だが,赤いクッションの敷かれた席に座るとそうでもない。
ゴンドラは,まずため息橋をくぐって小運河に入ってゆく。
建物と建物の間を通る裏道のような細い水路である。
ヴェネチアでは運河が道である。
どの建物も縁の下部分に運河に面した船着場が付いている。
ゴンドラから見ると運河沿いの建物は,水の中から直接建物が建っているように見える。逆に言うと,建物下部が水中に没している感じだ。
窓に干された洗濯物やバルコニーに置かれた花,漆喰がはがれて煉瓦むき出しの壁・・・・・・この街で暮らす人々の生活の匂いを感じる。
ゴンドラから町を眺めながら疑問が湧いてきた,「水道は,電気は,ガスは・・・・どうやって水路を渡しているんだろうか? 何でこんな不便なところに住みつくようになったんだろう?」と。
ゴンドラは狭い水路をあっちへ曲がりこっちへ曲がりして,どこをどう通って来たのか分からないうちに,40分の運河めぐりが終了。
ゴンドラはどうして黒いか。 ゴンドラは水の都ヴェネツィアの生活に欠かせないもので、金持ちは何艚もの自家用ゴンドラを持ち,装飾を施すことを競い合うようになり、弊害がはなはだしくなったので、1562年に法令で黒一色に統一された。 当時はゴンドラの数が1万にも上り、形も大きさも色々で、狭い運河での交通渋滞、衝突事故が絶えず,また船着き場も不足になったため、 大きさを統一し、すれ違ったり船着き場に入ったりするのに便利なように、船首と船尾が細く跳ね上がった形に統一されたそうだ。 長さ約11.5m、幅約1.4mで、船首に付いている飾りはフェッロと呼ばれ、元来は船首に乗る漕ぎ手(ゴンドリエーレ)との間で重さのバランスを保つ物だった。 今では、曲がり角や見通しが利かない所での先触れの役目をしている。 |
昼食はドゥカーレ宮殿の裏手に当たる小路を入った「TAVERNA dei DOGI」というレストラン。
メニューは いかすみスパゲッティ,イカ,エビ,小魚のフリットペイシェ(要するに天婦羅),むらさきキャベツ,パセリ,人参のサラダ。
これから向かうフィレンツェへの途中にアペニン山脈越えがあるが,雪が降り出したとの情報を掴んだ現地ガイドさんの少しでも早く出発したい方がよいとの判断で食事を早めに切り上げる。
フィレンツェへ
スキアヴォーニ河岸の船着場発 13時20分
フェリー埠頭着 13時40分
ヴェネチィア発 14時
リベルタ橋を渡って,高速道路を西へ,2〜30分走ったところで昨日通ったミラノ方面へ向かうA1号線と分岐して南西,ボローニャ方面へ向かう。
右手彼方に雪をいただくドロミテアルプスをかすかに眺めながらイタリア一の穀倉地帯ポー平野を快調に進む。
フィレンツェまでおよそ250km 夕方6時頃にはホテル着の予定だ。
ところが,異変が発生!!
15時過ぎた頃,雪が激しく降り出した。
高速道が大渋滞! 今晩中にフィレンツェへ着けないかもしれない!
15時30分 | ボローニャの手前15kmあたりでストップ。反対車線は除雪車が4台通過し,車は途切れ途切れ動いている。こちらはストップしたまま。 |
16時過ぎ | 少しずつ動き出す。 |
16時10分 | SAに到着。万一のためにパンとケーキと水を購入する。バスのドライバーはトラック運転手仲間の助けを借りてチェーンを装着。 |
16時50分 | SA出発 少しずつ動く状態が続く。 |
18時頃 | まったく動かなくなった。 この先の道路情報がまったく分からないと言う。道路情報伝達システムが出来ていないのか? わーさんやドライバーが携帯であちこちと連絡している。 わーさんが「もし宿が見つけられたらボローニャで宿泊する」ことにしてもいいかどうか全員の意見を聞く。 みんな「可」という返答をしたようだが,東京と連絡をとったわーさんが「明日以降のスケジュールが大幅に変更になるが,それでもよいか」と,改めて個々に同意確認作業をする。 結論として「いつ着くか分からないが,例え明朝の到着になってもよいから,このまま進む」という事になった。 |
23時30分 | やっとボローニャを通過。 15kmを5時間かかっている。 このあたり道路の除雪がよく出来ている,雪も殆どやんだ様だ。少しずつだが何とか走り出した。 ちょっとの渋滞でストップした隙に,ドライバー氏,本線上も何のその,堂々とでチェーンはずし作業をやってのける。( 日本では考えられない行為だ!) |
24時 | SAに到着,上り線と下り線両方から入れる売店までアイスバーン状になったり,ぬかるみ状になったりした雪に足をとられながら売店へ。 トイレは大混雑,とくに女性用が。外人女性はこういう時たくましい!男性トイレにどんどん入ってくる。男性トイレの「大」は殆ど空いているんだから「どうぞ!どうぞ!」(何故か大和撫子はこういうことを嫌がるようだ)。 先のSAで食料を買い求めなかった人もここで夜食(朝食になるかも)を仕入れる。 |
00時40分 | SA出発 フィレンツェまで約80km。ここからは先ほどまでの大渋滞がうそのよう。おそらく,ボローニャから山間にかけての区間を通行止めにして,除雪を徹底的にやっていたものと思われる。 |
01時50分 | フィレンツェICを出る。 |
02時05分 | ホテル着 |
深夜 2時過ぎ やっと着いた〜!
風呂に入って疲れを癒し,就寝したのが3時近く。
病院が近いのか救急車のサイレンがうるさくて時々眼を覚まされた。
この大雪で列車もストップしたそうだ。最初に停まったSAでは,「トラベルはトラブル!」と冗談を言っていたわーさんも
18時を過ぎても先の見通しが一向に立たない状態では,真剣な顔になっていた。
が,その対応は見事であった。 同行者の皆さんも落ち着いていた。わたしはボローニャで1泊もやむ無しという意見だったが,若い人たちが「このまま行けっ!」ということになって,結果として正解であった。
若さのおかげで,以降も予定通りの旅行を続けることが出来た。 グラツィエ!
この大雪はヨーロッパ全体が異常気象で,はるか南のナポリでも降雪があったとか。
またわたしたちより遅れて,ベネチィアを発った別の日本人ツアーグループ3組はSAで一晩明かしたという。