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イタリア旅日記 (2) ミラノ
2/27(金)
6時50分起床,一晩ぐっすり寝て長いフライトの疲れがとれた。
ホテルの朝食はまあまあ! 野菜類が少ないこととフルーツは缶詰ものだけなのがちょっと不満。
8時40分ホテル発。
先ずは,スフォルチェスコ城へ。
正面入り口前の広場は日本人観光客で一杯!
この城塞は,1368年頃,ヴィスコンティ家のガレアッツォ二世が兵営を造らせたのが始まりでその後増改築が絶えず続けられ1466年スフォルツァ家ガレアッツォ・マリア治世に完成したと言う。
フランス軍,オーストリア軍,スペイン軍などに占拠された時代が続き,何度か取り壊しの危機があったが,前世紀末イタリアの統一を機に・・・・・煉瓦と石の装飾,胸壁で飾られた中庭,回廊,堀,ヴィスコンテ家とスフォルツァ家の紋章である十字架と蛇(アルファ・ロメオのエンブレムとは左右が逆)のついた塔・・・・・はミラノのかけがえのない位置を占めるようになった。
「ロンダーニのピエタ」 1552年頃から彫り始め、死の6日前まで何度も彫り直されていた作品。 ミケランジェロ 1552〜64年 大理石 高さ195cm ミラノ スフォルツェスコ城 朝日百科 世界の美術 45より |
この城塞の中には,古美術博物館,絵画館,ミラノ市歴史資料室などがあり,ミケランジェロが死の数日前まで制作を続けたという「ロンダーニのピエタ」は必見しかも入館無料だとガイドブックにあるが,ツアーはさっさと中庭へ。
残念!残念!
ところで「ピエタ」とは聖母子像のうち、死んだキリストを抱く母マリアの絵や彫刻で,「ピエタ」とはイタリア語で「悲哀」を表す言葉。
ミケランジェロは,生涯に4つのピエタ像を手がけている。
サンピエトロ寺院のピエタ | 1498年(23歳)着手、1500年(25歳)完成 |
ドゥオーモのピエタ | 1550年(75歳)着手、未完 |
パレストリーナのピエタ | 1555年(80歳)着手、未完 |
ロンダニーニのピエタ | 1559年(84歳)着手、未完 |
「ロンダニーニのピエタ」は死の直前まで彫り続けたもの。この時ミケランジェロは既に視覚を失っていた。
サンピエトロ寺院のピエタは後日お目にかかれる筈だ。
中庭はかつて練兵場だったところ。ふりかえって見ると,胸間城壁や見張り塔など,「城」からイメージする優雅さは無く,無骨で堅固なつくりでいかにも要塞という感じ。
正面入り口にあるフィラレーテの塔 | ミラノ市章にもなっている十字架と蛇の紋章 | 中庭(回廊の柱はどこかイスラム風?) |
中庭を通り抜けた裏門(城はフランスのある北西を向いて建てられているというから,もしかしたらこっちが表門かも?)からはセンピオーネ公園が見える。夜は麻薬の密売など,かなりやばいところだそうだ。
はるか遠くに平和の門(ナポレオンが建てた凱旋門で、後にオーストリアの進駐で平和の門となる。ブランデンブルク門に似ている)が見える。
この城塞からは四方に地下道が掘られていたそうだ,午後に行くサンタマリア・デッレ・グラッツィエ教会にも通じていたという。それらは現在地下鉄に転用されているそうだ。ミラノ市内地図を見ると,なるほど地下鉄1線と2線がスフォルチェスコ城の地下を通っている。
城壁に沿って城の北東側道路からバスに乗り込んで、ドゥオモへ移動。
ミラノのシンボル ドゥオモ へ
ドゥオモのかなり手前でバスから下車して石畳の道を進むと,前方にたくさんの尖塔を林立させた大きさと形に圧倒されるような白大理石の建物がぐっと迫ってくる。
ドゥオモを背景に全員が写真を撮るが,でかすぎて全景はまったく入らない!
ドゥオモとは大聖堂のこと。カテドラルと同意と解釈する。
ミラノのドゥオモは、イタリアの代表的なゴシック建築でヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ教会建築。
14世紀後半に着工され、500余年をかけて19世紀半ばに完成。最後はナポレオンの命により,超特急で工事が進められたそうだ。
外観は白大理石で造られた荘厳なゴシック様式。空に向かって伸びる135本の尖塔と2245体の彫像は見る者を圧倒する。その高さは109m,一番高いところに黄金色の「マリア像(
マドンニーナ)」が輝いている。
入り口で,手荷物の内容をチェックしながら「キャンデー 持ってたら貰いたいね〜」と冗談を言う警備員orポリスのボディチェックを受けて中へ。
中に入るとなんとも荘厳な雰囲気,両側のステンドグラスからほのかに射し込む光に映し出される林立する巨大な柱(全部で52本,1本で最大3600tの荷重を支えているという),聖人を祭った祭壇,建物の至る所にある絵画や彫刻,装飾品には驚くばかり。とくにキリストの誕生から始まる聖書の物語が描がかれている美しいステンドグラスに眼がひっついたままになって説明を聞く。
ここは床から壁から柱まですべて大理石,80km北方の北イタリア産で,模様が入った白っぽさがなんともいえない味のある大理石である。
石材は,アルプスから流れてくるティチーノ川と町の南西でつながる運河を城壁の内側まで環状に掘って,運搬したそうだ。
運河は19世紀の都市計画で埋め立てられ、道路に変わり、今は街の南にナヴィリオ運河として一部残っているのみ。
キリスト教会の祭壇は常に後ろが東向きのなっているそうだ。朝の陽光が背後から射しこんで荘厳な雰囲気を演出する効果を考えてのことか?(はじめて知りました)
階段とエレベーターで屋上に上れるそうだ。
塔へ上れる教会は珍しくないが、屋上へ出られるのはめずらしい、白大理石の彫刻の林,2245体の聖人像,金色のマドンニーナ,晴天に恵まれると,遠くアルプスの山々の連なりが見えるという。
上りたいのは山々なれど,パック旅行の悲しさ! ぐっとこらえて,外に出ると
うおっつ 寒い! 気温計が摂氏1度を示している。
出た所が,ドゥオモ広場
この広場は治安が悪く、ジプシーなどがたくさんいるそうだ。
ハトの餌を勝手に手に乗せられ,法外な金を要求するとか,プラダとヴィトン(もちろん偽物)を両手と首にぶら下げて売っているとか,スカーフを売っているアジアっぽい人とか・・・・・。
やばそうな感じ! でも、わたしたちにはジプシーかどうか見分けるのが難しい。
「千円!千円!千円買ったら,おまけするよ〜」と絵葉書や本を売るおじさんが寄ってくる。
ガイドの「この人は大丈夫」の声で,何人かが絵葉書などを買い求める。
ビットリオ・エマヌエール2世ガッレリアからスカラ座へ
ガッレリアとはアーケードのことか?
イタリア統一の父ビットリオ・エマヌエーレ2世が作ったアーケード(1877年完成 長さ200m、高さ32m )で,舗道はモザイク模様が施された大理石で,ガラス張りの美しいアーチ型の天井で覆われ,プラダなど有名ブランド店,高級レストラン,お洒落なカフェ,ブティックなどが入っている。なんとマクドナルドまで。
中心部の四つのコーナーの上部には四つのフレスコ画が描かれていて,それは四大陸を表している絵だと言う。アジア,アフリカ,アメリカそしてヨーロッパだと説明していた。
その下に雄牛のモザイク画が描かれていて,おチンチンの上に踵をおいて1回転すると幸せになる(子宝に恵まれると言う説もあり)そうだ。
子宝はもう無理な妻とわたしも挑戦した。
みんながそうやってくるくる回るものだから,おチンチンが擦り減っている。モーちゃん可愛そう!
アーケードを抜けてスカラ広場へ
広場中央にレオナルド・ダ・ヴィンチと四人の弟子たちの像
科学と芸術にたぐいまれなる天分をいかんなく発揮したルネッサンスの人間中心主義を代表するレオナルド・ダ・ヴィンチに
はじめて知ったのだがレオナルド・ダ・ヴィンチとはヴィンチ村のレオナルドという意味だそうだ。
レオナルド像の正面がスカラ座 だ。
1778年に着工し、15ヶ月で完成。第二次世界大戦の爆撃で消失したが,設計図が残っていたために忠実に再現された。
現在、改修工事中のため休館している。
世界三大劇場のひとつで,完成当時,馬車に乗ったまま客が入れるように設計された正面ファザードが話題になったとのこと。
ネオ・クラシック様式の空間の広がる内部も豪華で,博物館も併設されていて工事中で無ければ内部を見学できるそうだ。
機会があれば,本場のオペラを味わいたいものだ。
ちなみに「スカラ」は,文化擁護者であったヴィスコンティ家の妃スカラの名にちなんだ名称。
再びバスに乗り込み,ムッソリーニが作らせたという ,壮麗なミラノ中央駅近くのヒルトンホテル脇のみやげ物屋「Botique Fire」に寄りトイレ休憩。
わたしはここで大枚82ユーロをはたいて皮製手袋を買う。今持っているのが古くなっていたし,こんなに寒いとは思っていなかったので今回の旅行に持参していなかったので, だが,いささか「縫い」がいまいちであった! すぐに縫い目がほつれてきた。こういう店では買わないことにしていたのだが,矢張りか!の感。
昼食は,町のややはずれ,静かな住宅街にある PIZZERIA RISTORANTE 「OROSCOPO 91」
サフラン入りの黄色いリゾット(少しやわらかめであった)とミラノ風カツレツ(薄めの肉,まあまあいける味)。ドリンクはカプチーノ。
わーさんの話 :イタリアの人は,食事と一緒に温かい飲み物は摂らないそうだ。
現地ガイドさんの話 :ミラノに住む日本人は2500人で短期滞在者を入れると常時3000人位。主婦はコシヒカリならぬ”イタヒカリ”でリゾットをつくるそうだ。
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