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■ 飛騨高山へ

 出発前にまず,カーナビに目的地を登録する。高山市内の本町通りにある市営駐車場を地図上で見つけポイントマークを移動し決定キーをクリックしてOKだ。
これで目的地まで道を迷わずに行ける。知らない土地をドライブする時には大変便利な仕掛けができたものだ!
自分で道を選ぶとしたらいったん松本まで出てから高山方面に向かう国道158号に入る筈だが,カーナビは三角形の一辺を走る山沿いの県道を「右へ曲がれ」,「左へ曲がれ」と指示を出してくれ,島々の手前で無事国道158号に出る。あとは高山市まではカーナビ無しでも迷わず行ける。
 
 やがて,道は
梓川の深い渓谷に入っていく。両岸には新緑に藤や桐の花のムラサキ色が映えて目を楽しましてくれる。
 
稲核ダム水殿ダムを右に見てトンネルと急カーブの多い急坂を上り,中で道が左右に分かれている珍しい構造のトンネル(左は奈川村へ向かう野麦街道。右側が国道158号)を出ると道は奈川渡ダムを渡り梓川の左岸を,更にいくつかの長いトンネルを抜けて,上高地方面への分岐点までおよそ1時間半ほどで到着。
 
 通過してきた三つのダムは,昭和30年代後半に東京電力が建設した揚水式発電所の嚆矢となるダム群である。

 上高地線と別れるとすぐ,国道158号は,中の湯の脇を通って九十九折の急坂となる安房峠越えに向かう。およそ1時間もかかる難所である。
 ところがいまは,1997年12月に開通した
安房トンネル(長さ4.4km)のおかげでわずか5,6分で信州から飛騨に抜けられるようになった。
 
安房峠は国道158号の最大の難所で,豪雪の為11月中旬から5月上旬まで約6カ月にわたって通行止めとなる。
 安房トンネルは温泉化作用により地質が非常にもろく,かつ岩盤が60〜70℃にもなる高熱トンネルで工事が難航した。平湯側の工事を見学をした際には,トンネル内の岩盤のいたる所から温泉が湧き出していたことが鮮明に思い出される。

 
 安房トンネル(通行料 普通車750円)を抜けると,右手に平湯への分岐を通過し,平湯トンネル(L=1684m)を抜ければあとは一目散に高山市へと下る。
 ここら当たりは35年前に上高地の帰りに高山〜名古屋〜東名経由〜東京と長時間ドライブをしたとき通っているのだが,当時と道路状況がまったく変わってしまっている。その当時はくねくねした未舗装の区間もある悪路の連続であったことを記憶している。

 12時前高山市内に入り,カーナビのおかげで迷わず車を市営パーキングに入れる。(駐車料金3時間 900円)

■ 高山散策

 
さぁ〜ラーメン食べるぞ〜

 ちょうどお昼時なのか,鍛冶橋際のラーメン店は,店頭にまで待ち客が列を成している。パーキングのおじさんに近くに美味しいラーメン食べさせてくれる店を聞いたら,すぐ裏通りに「
桔梗屋」という”さっぱり味”のお店を教えてくれた。15・6人ほどで一杯となるような小さな店で,幸い席がふたつ空いていてすぐにラーメン(普通盛り 1,大盛り 1)を注文。飛騨高山の中華そばは醤油味しかない。スープは脂分が少なく,和風仕立て,麺は平打ちで細く縮れがやや強い。縮れているためスープがよくしみこんでいる,具はチャーシュー・メンマ・刻みネギと極めてシンプル。(普通盛り 600円 大盛り 750円)

 おなかを一杯にして,本町通りを「高山陣屋」方向へとぶらぶらと歩き始める。あちこちに”飛騨牛”の看板やポスター,幟が目につく。このころから雨が本降り状態なって来た。天候のせいもあるのかこの商店街は閑散としている。”大のや”という味噌屋さんに入る。飛騨出身のおばあちゃんの知り合いの方(故人)から,この店の味噌をよく頂いたそうだ。赤味噌とあいだ味噌を各500g買いもとめる。

【高山ラーメン 大盛り】 【閑散とした本町商店街】
【大のや本町店】大のやは,江戸時代より代々麹屋を業としており,50年程前より味噌とたまりの製造も手掛ける様になり赤味噌・糀味噌・あいだ味噌・生だまりなどを販売している。

 高山陣屋へ

 本町通りの南のはずれ右手にある高山陣屋を見学 (入館料 420円)
高山陣屋は1692年に天領になってから25代177年間,幕府直轄の統治が行われた役所跡。

 陣屋の見学は,まず靴を脱いで上がる。今の時期でも床がひんやりしている,寒気厳しい冬期には大変だろう,昔の人はよくこんな生活の場で過ごしたものだと感心する。
 
 順に玄関の間,役所(郡代や手付け,手代の執務室),大広間(会議室?),居宅,台所,吟味所・御白洲,御蔵を見学。御蔵を除いた殆どの建物は1800年代初期のもの,お蔵8棟は1695年に高山城三の丸から移築されたもので,築後400年を経た日本で最古の土蔵といわれている。御蔵内には,1560年代からの高山飛弾守,その子高山右近の時に大名として勢力を広げ,一方ではキリスト教を広めた時代,江戸時代に入って,キリスト教が弾圧され右近一族がマニラに追放されるに至り,その後高山城主となった金森氏が上ノ山(山形県)へ移され,幕府の直轄地(天領)となった経緯などの説明やら,資料が展示されている。
 江戸幕府が神岡鉱山の地下資源(銅,鉛,亜鉛)と豊富な木材資源に目をつけて,天領とした 理由がよく理解できた。

【国史跡高山陣屋正面門】
 門前の広場では毎日朝市が開かれる。
【居宅(嵐山の間)】
郡代(代官)の居室。右手奥に茶室も併設されている。縁側越しに見事な庭園も望める。郡代(代官)の居室のほか,御奥(奥方の生活する部屋),座敷,居間,茶の間,台所などがある。
【玄関の間】
10万石の格式であると言われる2間半の大床があり,幕府が好んで用いたという「青海波」が描かれている。この紋様は,大名は遠慮して使わなかったそうだ。

 陣屋の手前にある長崎屋という店で,山味屋の赤かぶら漬けを購入。

 その後,おばあちゃんは,先ほど見つけた筏橋際の山野草の店へ,わたしは宮川を渡って上三之町をぶらついて山野草の店で落ち合うことにする。
 
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