周り巡る連月(つらなづき) (8) 宿場町は、ひどく静かだった。 元々一ヶ谷周辺は山深い。常時賑やかな街道がある訳でもなければ、市が出ている訳でも無く、物見遊山の旅人達などは居ない。交易の荷駄と隊商が行き交うくらいで、他と比べれば穏やかなものだ。 それでも、菜津の記憶の中にあるこの宿場町は確か、もう少し…… 「……今日は静かなのね」 宿場町の辻をこやを連れて歩きながら菜津が呟く。独り言と大差無いつもりだったが、その言葉に先をちょこちょこと歩き行くこやがくるりと振り返った。 「お方さまもそう思いますかー?」 「え?」 小首を傾げるこやのその仕草に、菜津の足が止まる。 「……そうね、前に来た時はもっと賑やかだった様に思ったの」 九郎に連れられて初めてここらの地に足を踏み入れた時、菜津はこの茅野に立ち寄っている。その時のこの宿場町はもっと活気があったように記憶していたが、それが今日は妙に静かに感じる。 人通りはあるものの、心なしか数が少ない。 あの時、大声を張り上げながら荷駄を勘定していたような交易商達の姿が、今日は無い。 宿場町らしくあちこちに繋がれた馬が時折せわしなく嘶き、小鳥がその辺でのどかにさえずり舞い飛んでいるくらいで、後はこれと言った賑やかさが無いのだ。 「でも、そういう時もあるのかもね」 大きな目で自分を見上げるこやに視線を合わせ、菜津は伯母への手土産として用意した茶菓子の包みを見せながら微笑んだ。 「伯母上がお待ちだわ。早く行きましょうか」 こやがこくりと神妙に頷いたのに合わせ、今度は菜津が先に立って歩み出す。 「――失礼、お菜津さまとお見受け致しますが」 その時、男の声がした。 振り返った菜津の目に映ったのは若い男だった。しかし、男とただ呼ばわるには語弊があった。 その男は髪の無い禿頭(とくとう)――僧侶だったのだ。 「そうですが……貴方は?」 「ああ良かった、千葉の奥方様に伺っていた通りの方が通られたので、もしやと思ったのです。お待ちしておりました……!」 安堵の笑みを浮かべたのも束の間、その僧侶は周囲を気にしながらも素早く近寄り、真摯な視線を菜津に向けた。……その顔は、切羽詰ったような複雑な表情をしている。 「私は千葉様にご懇意にして頂いている寺の学僧で、道顕(どうけん)と申します。此度は千葉の奥方様に供を命ぜられてこちらへやって参りました」 学僧と言うだけあって、道顕という男の声音は落ち着いて理知的だ。良く通る音で滑らかに告げられた声を聞き、どうけん、と小さくポツリとこやが呟いた。墨染めの僧衣も袈裟も身分に相応しく質素で落ち着いた物で、そんな僧侶が何故連れられてと、真摯な瞳に見据えられながら菜津はふと思う。 だが、次に道顕の口から発せられた言葉は、深刻な響きだった。 「不思議にお思いなのも無理ありません。ですが、事は一刻を争うのです。どうかお菜津さま、私と一緒にお逃げ下さい」 そして道顕は菜津の腰にぴったりとくっついていたこやに目をやり、告げる。 「ああ、貴方は一ヶ谷の里の子ですね? 良いですか……、急いで里に帰り、どなたか信用できる人を、ここへ呼んできて下さい……!」 墨染めの衣の袖を小さく翻し、道顕がこやに歩み寄った。腰を折り、こやの目の高さに自分の視線を合わせて真摯に言葉を紡ぐ。さらりと翻った道顕の袖内の手には数珠がしっかりと握られているようで、墨染めの袖の内側からは絶えず数珠の揉まれる音が聞こえていた。 道顕の眼は真剣だ。幼い少女の顔を、瞳を、射抜くような強さでじっと見つめている。 「……今から呼びに行くのです。あなたが住んでいる所の、大人を、ここへ……!」 道顕と名乗った学僧の眼を、同じように強い視線で見返しながら、こやの小さな手がぎゅっと強く握られる。 深い呼吸を一つ置き、こやから視線を外し、必死の僧侶は更に続けた。 「これは罠なのです。菜津さま、どうぞお逃げ下さい……!」 聞き分けよく、しかし硬い動作で菜津の腰から手を離したこやをその場に置き、道顕は菜津の手を引いて動き出した。その拍子に茶菓子の包みが落ちたが、道顕は一顧だにしない。 「待って下さい、あの子も」 「いいえ、助けを呼んでもらいましょう。私一人では菜津さまをお守りできないかもしれないのです。……早く、どこかに身を隠さねば……!」 小走りに近い態で手を引かれ連れられ、菜津はそれでもこやの方を振り返った。 こやはいつもの愛らしい顔をきゅっと引き締めて、こぶしを固く固く握り締めたままで、その場に立ちすくんでいるようだった。走り去っていく菜津達を、ただじっと見送っている。 何かを言おうとしたのか口を開きかけ、すぐまた唇を閉じる。じっと、立っている。動かない。 ――その頭上、一見のどかな宿場町の空を、小鳥が数羽飛んでいるのが見えた。 大通りを避けて進み、辺りを窺い、早足になりながら僧侶・道顕は言う。 ここに、千葉の奥方は居ないのだと。 「途中までは共に。……ですが、道中で……どこの方かは分からないのですが、何やら御身分ありそうな方がご同行になりまして、それから奥方様の様子が……おかしく」 気分が優れないからと道行きを渋る奥方を、その『御身分ありそうな方』とやらは道中の旅籠に残し置いてここまで来たと言う。……千葉の奥方が、姪に会いに来る事が今回の旅の主題だと言うのに。 「その……同行者、は」 菜津の背を粘つく汗が伝った。 目の前の視界全てが急に黒ずんで見える。連れられて歩んでいた足が鉛の様に重くなる。 ……嫌な予感しか、しなかった。 「今、この宿場町に居られるはずです。……私は、奥方様から危険を伝えてほしいと命ぜられ、別の道で単身やって来ました」 どこかを目指しながら呟く道顕の口調は暗い。絶句して青ざめ、歩みの止まりそうになる菜津の手を引き、時に早くと叱咤しながらそれでも進み続ける。 「……帰ります……私も、一ヶ谷へ……」 「もう遅いのです、この宿場町は囲まれております。逃げ場は無いのです」 「でももう少し待てば誰か……一ヶ谷の者が」 帰りたい。 立ち眩みの様にふらつく頭を押さえ、俯いて菜津が呟いた。 屋敷の、皆の顔が浮かぶ。 先程別れた、いつも愛らしい小間使いの少女。折角行くのだからと手土産を用意してくれた優しい義母。 今日はいなかったが、出かける際にはいつも行ってらっしゃいを言ってくれる顔馴染みの門番。その息子の元気な少年。口煩いが、それでも何かと気遣ってくれる側役殿。 そして。 「……九郎、様……」 帰りたい。――あの人の元へ。 「――ああ!」 その時、掠れた声で囁かれた名前に、道顕がくるりと振り返った。 「……そうでした、お菜津さまは葛木に嫁がれたのでしたね」 先程までの緊迫した空気が一変し、道顕は――僧侶の姿をしたその男は、急に笑んだ。 「あの男の処に」 「……っ」 その笑みに菜津の背が凍り、肌が粟立つ。 感じる悪寒はただの嫌悪とは種類が全く違う。細められた瞼の奥、こちらを見据えているその目で舐め回すかのような視線。 その視線の持主に見られている事に対する、恐怖。その恐怖の元は―― 「そう思うと……ああ、楽しくなってきました」 獲物を見定める、獣の如き邪眼。 「道顕どの?! ……っ、放して!」 「さあ見えてきましたよ」 とっさに振りほどこうとするが、いつの間にか両腕を強く掴まれていて身動き取れない。 蒼白になりつつも周りを見渡すが、大通りと人影を避けて裏路地を突き進んで来ただけあって、当たり前のように周囲はただ閑散としていて誰もいない。土地勘の無い菜津にはここが宿場町のどの辺りかも分からない。 「無駄ですよ。――……逃げ場は無いと言っただろう?」 道顕が――否、『僧侶』の皮を被っていた男が、変貌してニヤリと笑う。 「……騙したの?!」 「は? 何言ってんだ、最初っからこれは罠ですって俺は言ってた筈だがなァ」 酷薄に歪む笑みで宣告され、菜津の顔から今度こそ血の気が引いた。 引きずられながら連れてこられた民家の陰、打ち棄てられた様にみすぼらしいその傍らには粗末な造りの駕籠が用意されている。加えて、眼に嗜虐的な色を浮かべた男達の姿がその脇に見えた。それらは連れて来られた菜津を無遠慮に眺め、一斉に笑み崩れる。 「おう、待たせたな」 気安げに呼びかけた道顕の声にその内の一人が駆け寄って来て、未だ道顕に掴まれたままの菜津のその口に手際良く布を噛ませた。そして別のもう一人が嫌がる菜津を後ろ手に縛り付ける。 どこか薄暗そうな雰囲気の男達と、片や高潔な空気すら纏う僧侶。 今となっては道顕のその空気は霧散していたが、これは一体どんな集団なのかと疑問が菜津の脳裏をかすめる。 だが今はそれどころでは無い。縛されつつも菜津は必死で足掻き、もがく。 「いい格好だな。命令じゃなかったら、このまま皆で廻して喰っちまうところだ」 その声に男達が呼応し、下卑た笑い声を上げる。 本性を見せた道顕に、先程まで見せていた真摯さは一切無い。あからさまに怪しげな男達に囲まれて縛められ、一体何がと混乱する菜津に対してわざと恐怖を与えて愉しんでいる様子さえ感じさせる。 綺麗に剃られた禿頭(とくとう)と、墨染めの衣に袈裟掛けの凛とした立ち姿。その外観だけ見れば徳高そうな僧侶に他ならないと言うのに、表情は一変した。 聖から邪へ。賢から狡へ。――この、豹変。 「さァて、じゃあ行きますか。……さっさとしないと湧いて出るからな、一ヶ谷の連中が」 袖の中から数珠と小さな香袋を取り出して菜津に見せながら、道顕が嘲笑う。菜津の顔の前でひらひらと振られた小さなそれからは、鼻の奥に深く忍び入るような不思議な香りが――一瞬嗅いだだけでするりと意識が抜けてしまうような、普通では無い香が漂っていた。 「どうだ、いい香りだろ。さっきのガキにはこれ使ってちょいと暗示かけて、『ここに』連れて来いと言っといたからな。助けと迎えが泡食ってさっきの場所へ来たところで、肝心の奥方様は其処には居らず、哀れや既に何処かへと連れ去られしまいてってな筋書きだ」 ……朗々と節をつけて謳いあげた僧姿を見上げ、菜津は絶望を知った。 ――こやは大丈夫だろうか。せめて、あの子だけでも無事に一ヶ谷へ―― 道顕に抱えられて駕籠に押し込まれる寸前、菜津の脳裏を過ぎったのはそんな思いだった。 荒々しい様な外見とは裏腹に、道顕の配下らしき男達が担いだ駕籠は思いのほか滑らかに山道を往く。外見(そとみ)の小窓は全て閉じられている為に外の様子などは分からないが、それでも普通の駕籠衆が担ぐよりも相当な速さで進んでいるだろう事は容易に予測がついた。 ――茅野から離れたのか、それとも未だ茅野の近隣に居るのか。後ろ手に縛され、口には猿轡を噛ませられ、挙句に狭い駕籠内で僧衣の膝上に乗せられ上半身を押さえつけられた屈辱的な姿では、駕籠の外どころか駕籠内を覗う事すら出来ず、菜津の身の内には焦燥感ばかりが募っていく。 どこに行こうと言うのか。 誰の処へ連れて行かれようとしているのか。 ――命令じゃなかったら、このまま皆で―― ……命令。道顕が直前に漏らした一言を思い返し、菜津の喉が鳴る。 この僧侶の姿をした賊に、何事かを命じた者がいるのだ。千葉家の名を出し、伯母を使い、菜津を誘き出した何者かが。 容易く思い浮かぶ人影を強く頭を振って振り払うが、それでも菜津の背からは悪寒が消えない。それらや道顕の膝から逃れようと必死に身を捩り、少しでも離れようと足掻いてもがく。 そんな抗って動く菜津の身体を押さえながら、道顕が鬱陶しそうに呟いた。 「……思ったよりも活きがいいな」 だが一見細身に見える道顕のどこにそんな力があるのか、菜津の身体は墨染めの僧衣の膝に押さえつけられたまま、身を離す事が出来ない。 「しかしまさかあのお菜津様に、こうして間近で触れる日が来るとはなあ」 膝に乗せて横抱きにした菜津の乱れた髪と肩、続く腰とを、愛玩するかの様に緩く撫でながら道顕が囁いた。 「御召しの時でも嫌々言って泣くばっかだった頃は全く興味無かったが、あんた、毎晩あんまり泣くからとうとう一服盛られた事があったろう? ……あん時の乱れ方はなァ、天井裏から涎を垂らすかと思ったぜ」 その言葉に菜津の肩がビクリと震え、動きが止まる。それと同時、道顕の笑んだ唇が菜津の耳元を這う。そして笑んだ形のまま囁いた。 「……嫌いな男に抱かれてる筈なのに、我を失うほど悦かったんだろう?」 (どうだ菜津、身体が火照ってきたのではないか) (……熱いのだろう? 座っているのも辛いのだろう?) (意地を張らずに言う事を聞けば、……素直になれば、楽にしてやるぞ) (そうだ……、そう……っは、はは、……さあ――) 一ヶ谷での暮らしで、すっかり忘れたと思っていた悪夢の日々。 ――明らかな悪意と共に耳元に吹き込まれた言葉は、捨て去った筈の記憶を強く喚起させ、そして菜津の身から血の気を奪っていった。 「妙薬を殿に奉じたこの俺は、その時以来の重用よ」 僧衣の膝の上、短く浅い呼吸を繰り返しながら青ざめて震える菜津を見やり、可笑しくて仕方がないと言う様に低く笑って道顕は続ける。 「あんたは知ったこっちゃねえだろうが、俺ァあんたの事をよーく知ってるぜ。色んな声を聴かされる度、俺も一回くらいお相手頂きたいもんだと常々思ってたんだが、まさか葛木……」 そこで道顕の声が止まる。震えたまま動かない菜津を見下ろし、口を閉じる。 そして俯いたまま顔を背けて押し黙る菜津の顎を掴み、ぐいと自分に向かせて嗤いかけた。 「……おいどうした。もっと暴れて見せろよ、つまんねえなァ!」 勝ち誇ったように嗤う道顕と震えながら静かに涙をこぼす菜津を乗せ、駕籠は、山道を何処かへと進んで行った。 |