周り巡る連月
(つらなづき) (7)



 人の集まりつつあった屋敷門近くで、痴話ゲンカから睦言めいた事までやらかしたのだ。
 しばらくは口さがなく里人の噂に立ち上るだろうと菜津は赤い顔で後悔し覚悟したが、二人が建前上だけでも夫婦であった事が幸いしたのか、意外にもそんな事は大して無く。
 日々は、穏便に過ぎて行った。

 相変わらず九郎は留守がちだ。
 そしてあの寸止めまがいがあったというのに、それ以降は何故か今まで同様菜津に一切手出しがない。
 時折思い出したように指先で頬や髪に触れてくる時があるが、しかしそれだけだ。
 夫婦と名付けて呼ぶには少々おかしい関係ではあるが、しかしながら菜津にとってはそれで充分と感じる日々であり、建前だけの奇妙な夫婦である二人の距離は、少しずつでも確かに縮まりつつあった。

 九郎に名を呼ばれるのが嬉しいのだ。
 いつもいつも不意打ちな「今戻った」の言葉にも、最近ではぎこちないながらも素直な笑顔で迎える事が出来る。その笑みを見て、九郎も柔らかく笑んで返してくれる事が、ささやかながらも夫婦なのだという実感を菜津にもたらしてくれる。
 屋敷での奥向きの事にも慣れてきた。
 菜津が長らく過ごしてきた侍屋敷の万事其々とは何事もが少しずつ違う上、忍衆についてはなかなか慣れず戸惑いがちだったが、いつも穏やかなシエを助けて立ち働くのは、亡くした実母の側に居るようで心安らぐ。
 声を上げて笑う事など勝島邸に居た時は考えられなかったが、ここでは自然に笑みが浮かんで声が出た。
 到底近寄れないような殺伐たる空気を発する者も一ヶ谷の里には少なからず居たが、忍里に住まうそんな皆とも大抵は怖いような事もなく付き合って行けている。
 遠回しにではあるが、近頃になって急に跡継ぎを催促してくるようになった高次の言も、そういう事は九郎様にお願いして頂かないと無理ですからと軽く流せるようになってきた。


 だから、この穏やかな日々はひょっとしたらこれから先もずっと続くのではないかと……菜津がそう思い始め、心ひそかに期待し始めた、その矢先。
 ――それは起こった。



「お方さまぁ、お文が届いてますよー」
 菜津の身の周りで小間用に使っている少女が、ある日笑顔で文を持ってきた。
 この少女は、親を亡くして身寄りが無い所を屋敷に置いて奉公させているものだ。少女と呼ぶよりは子供であると言った方が正しいようなその幼げな娘は菜津によく懐き、菜津もその子を年の離れた妹のように可愛がった。名を、こや、という。
「文? ……誰から?」
 以前に一度、どこをどうやってこんな山里まで手配したのか、勝島が菜津に対して機嫌伺いのような付け文のような何とも言えず未練がましい内容の文を寄越して来た事があった。それを思い出して菜津は顔をしかめたが、その少女は菜津の心中には気づかず元気に返す。
「えっと、ちばさまからだそうです!」

 その声に菜津の目が見開かれた。
「……伯父上」
 自らの手駒として姪を主人に売った者。
 しばらく振りに聞いたその名に、菜津の声は曇る。
「一体今更……、何のご用で……」
「お文を持ってこられた使者さまは、茅野の関にごとーりゅーしてるそうです。へんじはそこへ運ぶように言われたって、彦左が言ってました」
 茅野は一ヶ谷からそんなに離れていない場所にある里だ。ここら一帯の街道近くの山間にあり、旅籠なども在る。伯父からの書状を携えてきた使者は、菜津からの返事を受け取るまではそこに居るつもりなのだろう。

 忍里である一ヶ谷に、里人以外は入れない。
 書状を携えた使者であっても同様だ。里の入口にさり気ない風を装って立つ見張り番達――これを一ヶ谷では『目』と呼ぶ――が穏便に、時には力ずくでもそれを阻むからである。そこで仔細を検分され、問題が無ければ通される。……問題ありと見なされた時は推して知るべしだ。今回は書状だけが問題無しとされて通されたのだろう。
 そして彦左とこやは幼馴染であった。身寄りを無くしたこやを彦左は何かと構って気遣い、こやは彦左を兄のように慕っている。こやの口から彦左の名が出ない日は無い。
 大方、『目』の者が彦左に書状を託して使い走りを命じ、その彦左は菜津宛と知って菜津の側仕えであるこやに渡したのだろう。
「おへんじ書きますか? 彦左は足が速いから、茅野に持ってくのもすぐですよっ。お方さまのお役にたてますよっ」
 微笑ましさを醸すこやの話し振りに、曇っていた菜津の表情に笑みが戻る。

 手紙の内容は、再嫁した菜津に嫁入り先の状況を問う気遣いと、久方振りに千葉家へ顔を見せに来ないかと里帰りを誘うものだった。

「――……里帰り……」
 気遣いが嬉しい内容であるとは言え、菜津の中には未だ伯父に対する遺恨がある。
 この時代、実子や弟妹ですら使おうと思えば簡単に駒となる。育てた姪を伯父が自身の出世の役に立てる事は、別段おかしい話では無い。しかし頭で理解はしていても、それは菜津の中で消えない傷となった。
 一ヶ谷での穏やかな日々でその傷も大分薄れては来ていたが、それが消え去るにはもう少し時間がかかる。過去を思い出すような事にはあまり触れたくない。
 申し訳ないが嫁いだばかりなので、と丁重な断りの返事を書き、それをこやに預けて彦左へと託し、彦左はそれを使者へ渡し、使者は返事を携えて、そして千葉家へと戻って行った。


 だが、それだけでは終わらなかった。……しばらくして、また千葉家から書状が届けられたのだ。
 内容は前回のものとそう変わらない。嫁した先への遠慮もあろうが、お前の伯母も会いたがっているからと、再度里帰りを勧めるものだった。
 帰るつもりは未だ無い。……が、伯母の名を出され、菜津は揺らいだ。
 儚げで万事大人しく、夫の言に逆らう事など出来ない女だったが、菜津と実子とを分け隔てなく育ててくれた恩人だ。面影を思い出せば会いたくもなる。
 しかしそれでも申し訳ないがと今回も断りの返事を出し、伯母には伯母個人宛で別の手紙をしたためた。そしてそれを前回と同じ行程で使者に託す。
 伯母からの返事はすぐに来た。菜津の息災を喜ぶ言葉と、出世の糸口に姪を使おうとしていた夫の思惑を薄々知りつつも結局止められなかった事、その所為で菜津に辛い思いをさせた事を深く詫びる内容が真摯な言葉で綴られており、いつか機会があったらそちらの夫君に是非挨拶をさせてもらいたいと締め括られていた。

 伯母との手紙のやり取りはそれから二度三度と、幾度か続いた。

「お方様にお届けものでっす!」
「でーす!」
 内容自体は女同士の他愛の無いものである。屋敷にそれを届けに来る彦左とこやも、もう手馴れたものだ。

 九郎が留守がちである事をしたためた時の返事は、『例え他所に幾人女を作っていたとしても表立って責めてはいけない、笑って迎える事こそ妻のつとめである』等と母のような言葉でとくとくと書かれており、それを菜津から見せられたシエも、先代が生きていた頃の苦労を思い出したのか、それは全くその通りだと神妙な顔で頷いていた。


 だからである。
 幾度目かの伯母からの手紙に、『今、茅野まで来ている。是非会いたいので出て来られないか』と書かれていたのを、菜津が疑わなかったのは。


「伯母上が来ていらっしゃるの……?」
 千葉家は一ヶ谷の里から遠く離れた藩に在る。しかし、離れていると言っても到底来られないというほどでは無いのだ。――その事も菜津の判断を鈍らせた。
「遠慮せずにどうぞ行ってきなさいな。大分落ち着いたとは言え、何があるか分からない世の中ですもの。会いたい時に会っておかなければ、後悔しますよ」
 シエが笑う。
 九郎は三日ほど前から屋敷を出ており、今日も留守だ。
「いつ戻られるのかは分からないけれど、妻の外出を怒るような方じゃあないから、もし戻ったなら私からお話しておきますよ。積もる話もあるでしょう? たまには外でゆっくりしておいでなさい。でも、おもてなしもしたいから、帰りは是非一ヶ谷にお連れして頂戴ね」
 屋敷の中では何やら数日前から下人達が忙しそうにしていたが、菜津やシエが采配しなければ進まないような事は何も無いようだ。忙しいのは忍仕事がらみの所為らしく、シエもこの忙しさにはあまり関係がないらしい。だから私も今日は自分の事をしようかと思うのよとシエが笑う。
 手伝ってもらわないといけない事も無いし、折角だからゆっくりしていらっしゃいと、実母のようなシエの言葉を聞いて、菜津も笑顔で頷いた。
 いつも几帳面な伯母にしては書状の手跡が乱れていたのが気になると言えば気になったが、旅先に着いてすぐ出した物だからだと思えば不思議ではない。

 そして葛木屋敷の門を出たのだ。こやだけを連れて、罠であるとも知らずに。





 結論を言えば、茅野に伯母は居なかった。
 その代り忌まわしい記憶の権化に菜津は出会う。


「――おお、菜津……!」


 菜津を待っていたのは、下卑た慕情を示しながら現れたのは、菜津が、一番見たくなかった顔だった。




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