周り巡る連月
(つらなづき) (6)



「――詳しい事は申し上げられませんが」

 ただでさえ共に過ごす事の少ない夫に、事情を知らされないまま待ちぼうけを食わされている新妻を気遣ったのだろう。もう一度腰を落ち着けると、意外にも高次は、今回一ヶ谷を空けた理由を述べ始めた。


 大坂の夏が終わり早数年。世は名実共に勝者となった徳川が統べ、戦乱の熱の無い穏やかな時間が到来しているかのように余人には見えている。
 しかし勝者徳川によって、敗軍の将達――西軍諸大名にもたらされた苛烈な改易減封の嵐の中、恨みの火種はうららかな陽だまりの陰に確実に根付いたのだ。
 主だった叛乱武将は大坂の陣が終わって幾年か経った今では殆どが処罰され、もしくは自刃しており、すぐさま大戦がまた起こるといったような危機は無い。
 その代わりに叛逆の爪牙を上手く隠して徳川に取り入った輩は、腐るほどいる。
そういった者共はそんな火種を上手く使って大火を起こすのだ。そういった燻りを調べ上げ、事前に察知し消していくこと――それが頻繁に続く留守理由であると、高次は語る。

 この里を根城とする一ヶ谷衆は、決まった主を持つ忍軍では無い。
 請われれば馳せ参じて戦い、数多の戦場を一族郎党を率いて渡り歩く。その為、単一不変の主こそを持たないが、戦乱時分より長く縁のある武将はこの国に多く点在している。今回の留守に限らず、ここ数年一ヶ谷衆が請けた仕事は、それらの武将がこの国の真新しい統治者より受けた、西軍残党追捕の命に関するものが殆どらしい。
 数ヶ月前、菜津が嫁いでくる前に加後院家や勝島家に一ヶ谷衆頭目の九郎が長らく詰めていたのもその為で、勝島の隠し子の一件は、残党狩りをこの国の新しい覇者から命ぜられたその両家共が忙しい最中に、明るみに出たものだったようだ。

「武将に子飼いされる名高い忍軍は東西に多々ありますが、我ら一ヶ谷衆、それらにも引けは取らぬと自負しております。我らを頼みにするも公家から武将まで多種多様。……分かりやすく言うなら、一ヶ谷の『得意先』は一つ所のみではなく、この国の津々浦々にあるという事です」
 戦に出ない者でも分かるよう、意外な心遣いで噛みくだいて説明する高次の言葉に、菜津の顔が曇り始める。
 何となくでも理解していたつもりだったが、これは……

「……しかし残党狩りと言えど、実際に兵を出し追捕し首を獲るのは侍共。我ら忍軍はそれらの仔細を事前に調べ内々を探る、云わば先遣りの様なものです。危険な事などはございません」
 今までの話に徐々に神妙な顔付きになり表情が曇っていった菜津に対して、高次が巧妙な間合いで補足を入れた。
 その言葉に強張っていた菜津の頬が目に見えて安堵し、本人も知らぬうちにそれは緩く笑みを形作る。
「そう、ですか。じゃあ」
「此度九郎様がされている別行動は、それら任務や御役目とは離れたものだと思っています。私は危険のあるような事柄を残して御頭をお一人には致しません。――どうぞご安心を」
 けろりとした顔で半分嘘を述べ、高次は頭を下げた。

 忍仕事に危険の無い訳がないが、別に今ここで主の新妻を脅す必要は無い。
 九郎が単身で道中分かれた理由を知らないのは事実だが、いつもの気まぐれだろうと踏んでそれ以上は聞かなかったのだ。
 ……もう放って置きたかったという気持ちが無かったとは言えないが。

 任務は一段落付いている。
 寄り道に危険の臭いが無かった事だけは確かである。
 乱破稼業の詳細については、自分の女房なのだから菜津には九郎の口から追々説明してもらえば良い。

 それでは、と再び言い置いて、高次は今度こそ部屋から出て行った。



 ――胸に渦巻く思案の所為で、もう足音高く歩くような勇ましい気持ちにはなれない。
 しかし部屋の中で鬱々としているのも、泥沼にはまっていきそうで嫌だった。
 任務や御役目とは離れた用件で別行動をしている九郎。側近にすらその詳細は明かしていない。――それは、一体どんな用件なのだろう。
 九郎が何をしようと自由であると分かってはいても、心は酷く落ち着かない。

 高次が先程述べていた内容を胸中で反芻しながら、菜津はどこへ行くでもなく葛木屋敷の門に向かう。そこでいくらか馴染みとなった門番に声をかけられた。
「お方様、供も連れずにお出かけで?」
 門番からの気安い挨拶に、思案に沈んでいた菜津の顔が若干明るさを取り戻す。
「ちょっとこの辺りを散歩がてら周るだけですから、大丈夫よ」
「そりゃあこの里内なら安心ですが、そんでもよろしくねえですよ。お一人で外に出したと御頭様に知れたら大目玉だ」
 そう口では言いつつも門番はすこぶる笑顔である。
 自分達のような下々に声をかけられても気分を害する事無く返してくれるこの奥方は、名家の殿様に寵愛されていたのだと里人の間でも評判高い――流石忍の里と言うべきか、その辺りの情報は何故か皆に周知されていた――その容姿も手伝って、屋敷の下働きの者に富に人気があった。
 ……一人で黙している時は冷たくも高慢にも見えるような冴えた眼差しが、里人に声をかけられると途端にふわりとほころぶのだ。高次が近くに居る時は身を弁えよと叱責を食らうのが見えているので皆自重するが、そうでない時はその笑顔見たさに先を競って菜津に声をかけた。
 今回も、それである。

「……あの方は、そんな事では怒りません」
 曖昧な作り笑顔で視線を外して菜津が言う。
 何しろ本当の夫婦では無いのだから、などと皆に言えるものでは無い。高次に理由も言わず九郎が帰路を別れたのも、ひょっとしたら他所に通う場所――誰か他の女性
(ひと)が在るからではないかとも、菜津は思っている。
 複雑な胸中を曖昧な笑顔で押し隠していると、門番はああそうだと手のひらを一つ叩いて懐から手の平ほどの大きさの笛を出した。
 そして小鳥の鳴き声そのものとしか思えない巧妙な独特の節で、高く長く吹き鳴らす。
「……それは?」
「うちのせがれを呼びました。いつもそこの道場辺りで駆け回ってますから、すぐに来るはずです。バカ息子でチビですが腕はまあそれなりですんで、こいつをどうぞ供にお連れくださ――ああ来た」
 来たと言われても姿など何処にも無い。声も足音も無ければ、人影すら無い。ぐるりと周りを見渡しても、門からずっと遠く離れた井戸で下女らしき姿が数名水を汲んでいるのみだ。
 菜津が怪訝な顔をするのと同時、門の上から音も無く――しかし勢いよく影が舞った。

「父者、呼んだかっ」
「来たか彦左、おめえちょっと奥方様のお供をさせていただけ。いいか、くれぐれも粗相の無いようにな」
 舞い飛んできた影はよくよく見れば年若い少年であった。それが小猿のように身軽な動作でくるりと菜津の方を向く。
 突然人が落ちてきた事に驚いて声も出ない菜津を見やった少年は、菜津が見知った顔をしていた。
「あなた……あの時の」
「こんちわ!」
 ニカッと大きく音が出るようなその笑顔は、あの時の神社で小さな笛を握っていた顔だ。
 なるほどあの鳥笛の妙技は父親譲りなのかと菜津は嘆息し、そして今度は心から笑む。
「じゃあ、お供をお願いしようかしら」
「うん分かっ……じゃなくて、かしこまりましてございます」
 父親のゲンコツを間一髪でかわし、彦左と呼ばれた少年は菜津に向かって膝を付く。

 そして菜津は門番に見送られ、彦左と共に門をくぐった。


 戻ってきた高次と同時、里から出ていた配下も多く帰郷したのだろう。田に挟まれた大きな一本道を通り、菜津達とすれ違うようにして今まで里で見かけなかった顔の老若が続々と葛木屋敷へと入っていく。
 皆一見はどこにでもいるような格好と服装、風貌をしていたが、自らの住処である里の中ではそれ以上の『普通』を装う事などしないのだろう。菜津を見やるその視線は単なる好奇心などではなく、主の屋敷から出てきた見慣れない者を見定める色をしている。
 誰何を小さく鋭く門番に問い、皆の留守中に頭目が迎えた奥方であると聞かされて、そこでようやく警戒を解いている。

(な、何だか怖い……)
 多少は好意的になったものの、変わらず背中に視線を感じながら菜津は心中で呟く。
 要は菜津が今まで接してきた里人は、一ヶ谷という集団の中のいわゆる非戦闘民ばかりだったのだろう。主力とも言える忍衆には今初めて間近で接したと言える。

 その中には身体に損傷がある者も多く居た。
 道の向こうから颯爽とやってくる男は隻眼だ。醜く潰れた眼には弓矢か槍の穂先かを受けた痕がある。異形とも言える傷を別
段隠す訳でもなく足早に歩み、そんな陰惨な容貌とは裏腹に、菜津たちとすれ違う際には軽く笑んで会釈をしていった。
 その次にすれ違った壮年の男は、明らかに片耳がそげて欠けていた。刀にでも斬り落とされたのだろうか、顔にも目立つ刀瘡が古傷として額から顎を壮絶に彩って、古朱の肉色をしている。その傷は、濃紺に染められた着衣に壮絶に映えていた。

 ――彼らはいずれも、歴戦を潜り抜けて尚生きてここに居る、古強者なのだろう。
 恐らくは里外では隠すであろうその傷を隠すでもなく堂々と晒し、誇示し、道々を往く。傷を受けても尚生きて戻ってきた事こそが、武勲の証であると言わんばかりに。

「こんちわっ」
 異相をさして気にする様子も見せず、刀瘡の男に彦左が子供らしい元気な挨拶をした。その挨拶に男はちらりと視線を流して片頬で笑い、彦左の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でながら過ぎ去っていく。
「秋津さまも帰ってきたんだなー、あとで遊んでもらおっと」
 あんな怖い顔でも子供好きで有名で、軽業トンボきりの名人なのだと、乱れた頭を気にする風も無く彦左が笑う。

「あっ、あとあっちから来るジジイは鉄砲の名人なんだけど、ヘンクツだから気をつけてください」
 そう言って少年の手が指さした先を見、菜津は思わず叫びそうになった。
「ひ、彦左……っ、あの人、かっ、顔……っ!」
「長久手の戦で敵の大将首を狙ってたら返り討ちにあって、横っ面に弓矢喰らって片っぽの目玉ごと顔がえぐれて飛んだんだって。でも何でかフツーに長生きしてんだよなあ……あのクソジジイ」
「聞こえとるぞ! このバカもんが!!」
 目を吊り上げて、痩身に古傷だらけの老爺が叫ぶ。だが怯えた様子の菜津に気が付くと、咳払いを一つして懐から変わった形の頭巾を取り出してかぶり、怖い部分は隠しましたよとおどけた様子で笑って見せた。
 そうして屋敷へと吸い込まれていく。門口で彦左の父親に、お前の育て方はなっとらんと文句を言っている様が見えた。

 この里は、単なる山里などではない――
 ……凄惨な異彩を放つ住民たちの姿を目の当たりにし、菜津は痛感する。


「……い、今からお屋敷で何かあるの……?」
「うーん、多分ろんこーこーしょーか、それかひょーじょーとかいう奴だと思います。上忍様たちや側役様が帰ってきたって言うし、お屋敷に入ってくの、御役目で今まで『外』に出てたおっちゃんらばっかだし」
 そう言って屈託無く笑う彦左につられるようにして菜津は笑み、そして、ちくりと痛んだ胸を押さえた。

 ――勝島邸に残してきたあの子も、大きくなったらこんな風に笑うのだろうか。

 もう会えないかもしれない。もし会えたとしても、母と名乗れるかどうか分からない。
 だったら最後にひと目、何が何でも会って抱いておくべきだっただろうか……。

 急に黙ってしまった菜津の顔を覗き込み、彦左が首を傾げた。
「お方様……?」
「ああ、ごめんなさいね、何でもないの」
 気鬱を晴らすために散歩に出たが、結局どこにいても何かの拍子に何かを思い出してしまう。屋敷に居れば九郎との事を考え、外で子供の笑顔に接すれば別れた自らの子を思う。
 いつもそうだ。どこにいても、不安の種は付きまとう。

 ……これでは本当に八方塞がりだと菜津が心中で苦笑したと同時、覗き込んだ体勢のままふと菜津の肩越しに視線を流した彦左の背が、真っ直ぐに跳ね上がった。
「うわっ」
 そして機敏な動作ですぐさま地面に膝を付き、何事が起きたかと身を固くした菜津の前で深々と頭を下げる。

「お、おかえりなさいませっ!」
 天真爛漫なこの少年に似合わず、その声はひどく緊張していた。
「ああ」
 そして少年への短い返答は、菜津にとって久方振りに聞く抑揚の無さである。

「今戻った」

 そこには、旅装姿の九郎が立っていた。



 菜津達が居たのは見通しの良い一本道である。それにも関わらず「やっべえ、気がつかなかった……!」と冷汗の彦左が小声で呟いたように、九郎がいつ来たのか、いつからそこに居たのか、菜津には全く分からない。
「久し振りだな。……元気そうで安心した」
 その事に加え、九郎が不意に浮かべた柔らかな笑みが菜津をひどく狼狽させた。

「……本当にお久し振りですね」
 だから菜津自身でも驚くほどに可愛げの無い声が、つい出てしまったのだ。彦左が驚いた顔で菜津を見上げたくらいである。
「何だその言い方は」
「……っ」
 後の祭りだ。浮かんでいた柔らかさは影を潜め、九郎はむっと不機嫌になった。

 別にそんな事が言いたかった訳では無い。
 失言を焦る気持ちと、謝らなければという気持ち。久方振りの帰郷を労いたい気持ち、笑いかけてもらえた事を嬉しく思う気持ち、そして側近と別れてまで今までどこにいたのかの悋気
(りんき)交じりの疑問――それら全部がない交ぜになった菜津の唇は、数度小さく震えた後に何故かまたも痛恨の一言を述べた。

「……何でもいいでしょう」

 言ってしまった後、内心でがっくりとうなだれる。
 思ってもいない事を口走る自分の口をどうにかして彦左あたりが止めてくれないものかと期待したが、にわかに重くなった空気に右往左往している子供にそこまで期待するのは酷だろう。
 もうダメだった。

「そうか」
 九郎が小さく舌打ちした。それでもいつもと同じく物言いは淡々としている。
「土産を持って帰ってきたが気が変わった。可愛気の無い奴にはやらん」
「お土産なんて結構です」
 売り言葉に買い言葉もいい所である。
 誰もいなかったら半泣きくらいにはなっていたと思う程、口から飛び出した自らの言葉を菜津は後悔した。……しかし止まらない。
「そんなの、欲しくありませんから」
 九郎から殊更に視線を外してそう続ける。傍から見れば、ツンとそっぽを向いたように見えただろう。
 ……何故自分は恩人に向かってこんな態度でこんな口を利いているのだろう。言いながら菜津は心から泣きたくなった。そろそろ目に涙が浮かんできそうだ。

「どうだか。そういう事はモノを見てから言え」
「どんな物でも同じです。要りません」

(……いっそ怒鳴ってくれたら黙れるのに……!)
 九郎の声はいつもと同じだ。不快に荒ぐ事も無ければ、怒りで低くなるような事も無い。しかしそれが却って不安を煽ぐ。
 そろそろ睨みつけられているかもしれない――そう思うと怖くて九郎の顔は見られない。九郎と視線を合わせられないまま、人知れずうろたえ、狼狽していた菜津の口は失言を繰り返した。
「そんなに簡単に手に入るような土産ではないぞ。後悔するなよ」
「しませんから」
「可愛くない奴だな」
「可愛くないのは生まれつきです」
「本当に要らんのか」
「結構です」
 応酬が続き、その合間、九郎の溜息がわざとらしく周囲に響いた。
 呆れたような、もう見限られたかのようなそれに、菜津の目尻にはうっすら涙が浮かび始めたが、それでも今更後には引けない。頬に刺さっているはずの九郎の視線がこれ以上ない非難に思えて、菜津の後悔と狼狽と奇妙な意地が最高潮に達したその時、九郎がポツリと呟いた。

「勝島の若君に関する物だと言ったらどうする?」

 咄嗟に要らないと言葉を発しかけ――
 しかし気が付いて、菜津は思わず九郎を見た。

「――どうだ」
 腕を組み胸を張り、菜津の顔を得意げに覗き込む九郎は、明らかにこの口喧嘩を楽しんでいた。
「欲しいか?」
 ようやくこちらを見た菜津に向けたその声は、とても優しい。

「今……、何て」
「気になるだろう」
 そう言って笑んだその顔は、先程見せたのと同じ柔らかさだ。――からかわれていたのだと分かり、菜津の頬が安堵と羞恥で一気に染まり上がる。
「……いじわる……!」
「ああ、ようやく可愛くなった」
 けろりと言い放たれた言葉に絶句し、菜津はかすかに勝ち誇った顔の九郎を思わずにらむ。だがにらまれた当人は別段気にする風も無い。
 九郎はそのままおもむろに菜津の腕を掴み、自分の近くへと引き寄せた。

「何を……って、イヤです! 触らないで! ……彦左、助けて!」
「お前は確か伊ノ介の所の坊主だな。供回りご苦労、後は俺が引き受ける。戻っていいぞ」
「彦左! 帰っちゃダメ!! 行かないで!!」
 両手首をガッチリ掴まれた菜津と、その暴れっぷりにも動じない九郎を不思議そうな顔で交互に見つめ、彦左がボソリとつぶやいた。
「オレ、こういうの知ってる。たしか痴話ゲンカっていう……」
「まあそんな所だ」
 九郎がニヤリと笑ってみせる。
「じゃあオレ帰りまっす!」
「……!」
 子供ながらに気を利かせた、というのもあるが、基本的に里の者にとって御頭命令は至上である。彦左は笑顔で菜津に手を振って、一目散に走り去って行った。


「菜津」
 駆け去っていく彦左の背中を見送りながら九郎が名を呟く。その声の穏やかさと強さに、菜津の抵抗は止まった。
「こういう時は何と言うべきだ?」
 九郎の目がじっとこっちを眺めている。視線は強く、菜津を見つめて揺るがない。

 ――言うなら今しかない。
 今意地を張ったら取り返しは絶対付かないと、菜津は一つ二つ丁寧に深呼吸をしてから口を開いた。
「……………ごめんなさい」
「よし」
 ようやく本心を言えた菜津がほっと息を吐いたのと同時、菜津の手首を掴んでいた九郎の指が解けて下りる。
 あとはおかえりなさいを言うだけだ。
 そう思って九郎を見やると、当の本人は渡す土産を探してか早速懐を探っている所だった。
 
 ――今のは確かに、土産が欲しくて謝ったようにしか聞こえないだろう。

「ああああ違いますから! 私、今のは別にお土産目当てで謝ったんじゃなくて、私はさっきのを、あのっ!」
「別にどっちでも構わん」
「そんな! 待って!」
「どうでもいい」
 慌てふためく菜津を他所に、冷静な声で一言呟いて九郎が懐から何か小さなものを取り出した。
「これが土産だ」
 再度菜津の手を掴み、その手のひらに乗せてやる。


 ――それは、小さな御守り袋だった。
 藍の錦の小袋に細い組紐を通してあり、ひどく軽い。普通ならば中には小さく折り畳まれた護符などが入っているものだが、上から軽く押し触ってみても中に固いものが入っている様子はない。 入っているのは、何か軽くて、柔らかい――
 これと勝島の若君とどう関係があるのかと、狼狽から立ち直った菜津が不思議に思った矢先、九郎がそっと口を開いた。

「中にはな、髪が入れてある」
 呟かれたその声は、今までで一番穏やかだ。

「見てみろ」
 促され、半ば呆然としながらも、菜津はその袋の口を開けた。
 丁寧に組紐を解き、風が中に入り込まないよう気をつけながらそっと内を覗く。
「……髪……」
 紙のこよりで輪型に結い留められた小さなそれは、小指よりももっと細い程度の束でふわりと軽く、柔らかな色味と風合いをしていた。
「――……これって」
 まさか、と思わず漏れ出でた声はきちんと音になったかどうか。

「若君の御髪を頂戴してきた。……それならいつも一緒に居られるだろう?」

 耳にゆっくり響いたその声に、ポツリと錦に水滴が落ちる。
 小さく染みを作ったそれが自分の涙だと気づくまで、菜津には若干時が必要だった。

「どう……やっ、て」
 視界が、滲んだ涙で大きく歪む。
「俺を誰だと思っている。夜中に忍び入るのが御家芸だ」
 あそこの門番はザルだしなと付け加え、九郎は真顔で小さく頷く。そしてその大きな手は静かに泣き出した菜津の頭を緩く撫でた。
「――泣くな」
 だが簡単には涙は止まらない。俯き、御守り袋を額に押し当て、菜津は呟く。
「……この子が……私を守ってくれてたんです」
 声はもう嗚咽混じりだ。
 途切れ途切れの声に、それでも九郎は耳を傾けて続きを待つ。

「あの屋敷では、嫌な事が本当にたくさんありました。毎日が辛くて嫌で仕方がなくて、いっそ死にたかった。……何度も死のうと思って、実際にやって、でも……死ねなくて」
 勝島に手篭めにされてすぐ、菜津は絶望のままに自ら命を絶とうとした。だが幸か不幸か、はたまたそこまで予測していたのか、すぐに屋敷の者に見咎められて、最後までは果たせなかったのだ。
 そうして心身共に傷ついて暫し寝付いたものの、その間に与えられた言葉は何よりも残酷だった。

“――お前は、育ての親である我らの顔に泥を塗るのか? ……そんな事はしないだろう?”
 深く傷付き、帰りたいと泣きすがる菜津に伯父は卑屈な笑みを見せる。
“――そなたに主家に奉仕する名誉を与えます。御家の為、早く子を成す様に”
 あの晩に菜津を見捨てた奥方は、視線も合わさずそう呟いた。

 そうして菜津は、夜毎勝島に身を苛まれる事となったのだ。


 掠れた喉で呟くたびに、涙が菜津の頬を伝う。
 頭を撫でる九郎の手の平の熱を感じながら、菜津は続ける。
「でも、この子がお腹に居るって分かって……、この子を守れるのは私だけだって、思って……。そうしたら……強くなれて……」
 普段なら時に腕ずく力ずくで到底抗えなかった勝島の求めを、子を孕んでいる間は頑として退けられたのは、ひとえに腹の子を守りたいという気持ちがあってこそだった。
 跡継ぎを生ませるという名目でこその妾でもある。身重での伽は子に障るとの必死の訴えには、勝島と言えども大人しく従うほかなかったのだ。

 自分を無理矢理犯した男の子供が自らの胎内に居る。その事実を嫌悪し、憎悪し、慄く事もあった。
 辛く思う事の方が多く、そして苦しみもあった。生まれて来る子を憎まずにいられるか、生まれた後はどうなるのか、不安な時もあった。
 だが、それでも――

「この子は、居るだけで私を守ってくれてたんです。この子がいたから、私……っ」

 屋敷と言う名の檻。他人の保身と野心で堅く囲まれた檻。酷く狭い、しかし出られないその世界の中で、菜津に味方が居るとすれば――それは血を分けた腹の中の子だけだった。
 例え父親が誰であろうとも、その子は紛れも無く、菜津が自身の血肉を分けた子なのだから。

 後はもう声にならない。嗚咽だけがただ漏れて、辺りに消えていく。
 頭を緩く撫でていた九郎の手が髪を滑り、菜津の頬へ触れた。そのまま甲と指先で次々と落ちてゆく涙を拭ってやり、
「――決めた」
 そして囁いた。

「いつか必ず、お前をその子に会わせてやろう。髪だけでなく、身体ごとをお前の腕に抱かせてやろう」
 頭領たるに相応しい威厳をもって力強く述べられたそれに、菜津は思わず九郎を見上げた。
 自然、今までに無い間近さで二人は見つめ合う。

 あと少し動けば互いの肌に容易く触れる、そんな距離だ。現に九郎の指先は先程からずっと菜津の頬と顎先に触れている。
 九郎の瞳に自分が映っているのが菜津にはよく見えた。そこに映っている姿はどうしようもないような泣き顔で、そんな顔を九郎はじっと見つめているのだ。

 その黒い瞳が不意に近づいて、菜津の唇を、無言のまま吐息がかすめ――


「――いやダメだ。いかん、不味い」

 そして独り言と共に、触れる前に離れていった。


「……そろそろ評定が始まる。遅れると爺どもがうるさいからな、すまんが俺は先に行く」
 するりと温もりが離れて行って、菜津はそこでようやく我に返って目を瞬く。
「お前も早く戻れよ」
 遠ざかっていく九郎の声を背中で聞きつつ、残された菜津はただ呆然とするのみだ。
 その唇には、九郎の吐息だけがかすめていった感触がほのかに残っている。



 動悸がする。
 目の前に光が舞って眩暈がしている。
 顔が熱い。
 声も出ない。
 そしてどうしようもなく強く、一つの事を菜津は想う。

 ――あの優しい瞳の一番近くに、できる事ならずっと居たい。


 子の髪を胸に抱きしめ、菜津はその場に立ち尽くす。




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