周り巡る連月
(つらなづき) (5)



 あの時に借りたまま返しそびれていた上着は、上質ではあったが、宴に招かれた客人の物にしては飾りなどの無い質素な造りだった。
 しかし質素である割には衣装への細工は多く、袷
(あわせ)内側の隠しに入れられた大針や小さな火薬筒の類、胸元にさり気なく仕込まれた薄い鉄板を菜津は心底不思議に思っていたが、今ならばそれらも充分納得できる。

 ――何しろ九郎は、忍の里の頭目だったのだから。


「驚いたでしょう? 忍衆総領家の妻などになるなど、思ってもみなくて」
 日向の座敷で山盛りの洗濯物を畳みながら、私も最初は戸惑ったのよと小さく笑うのは、九郎の義母であり菜津にとっては姑となるシエだ。
 葛木家は、諸藩や幕府などへの隠れ蓑として、表向きは周囲一帯の地主も兼ねた豪農を装っている。だがその実態は一ヶ谷衆という忍軍の住まう里であり、巷の侍とは一線を画すとは言え、葛木家はれっきとした武門の家である。――元々は奥州の方から流れてきた武家の一門が興したのがこの一ヶ谷衆であるというのが、嫁して来た菜津が高次から一番に受けた説明だった。
「でももう幾分か慣れました。私の生家同様、武家である事に変わりは無いですし」
 そう淀みなく答える菜津も、手際よく自分達の洗濯物を畳みつつの返答だ。
 武門に携わる家を武家と呼ぶなら、忍軍を統べるものとしてこの地に立つ葛木家は正に武家だろう。だが発した言葉とは裏腹に、下級とは言え純粋な士分の家で育った菜津にとって、この屋敷は不思議な事でいっぱいだった。
 洗濯物を丁寧に畳みながら、菜津はちらりと部屋の外に目をやる。

 例えば部屋。菜津達が今いる奥向き一帯の部屋には、大抵は畳がきっちりと入れてある。それは通常の屋敷と何ら変わりない。
 だが奥向きを一歩離れると、室内であるにも拘らず床から畳の類は一切が消え、長い年月がじっくりと染み込んだ色をした板張りの部屋ばかりになる。そして皆、身分の上下を問わずそこにはいつも土足で上がるのだ。
 この時代、畳は高級な品物である。屋敷の主人達が寝起きする奥向き以外の部屋総てが板間であっても別段おかしくもないが、室内に土足で上がる事は普通ではない。戦国乱世、侍大将が出陣の際に皆を集める大広間ならばさもありなんだが、ここは侍の屋敷ではない。下働きの者が草鞋履きのまま堂々とあちこちの部屋に上がるのを見、菜津の目が点になったのは嫁いできてすぐの事だった。
 また、部屋の外には世間一般の屋敷と同様に縁側廊下があり、中庭がある。だがその縁側や廊下のあちらこちらには、何故ここにと思うような不自然な場所に不自然な庭石が配置してあった。その石に苔でもつけてあるならば、変わった風流だと納得もできる。だがそれは風流には程遠い荒削りのものばかりで、苔をつけるどころか屋敷の下働きが時折ほうきで払いをかけて砂ほこりや汚れを落とす代物だ。
 嫁いで来て以降、それらを見かける度に不思議に思っていた菜津だったが、その疑問はある日氷解した。

 忍仕事絡みで火急の報が入ったらしいある日、庭を抜けて小走りに駆けて来た隣家の下人――ちなみに隣家の主は、兄よりも早々に所帯を持っていた九郎の実弟である――が、菜津の見ている前で、縁側に配置されていたそれらの庭石をとんと踏み、屋根に見事に駆け上がったのだ。

 確かに、急ぐ時は遠回りなどしないで最短距離――つまりは屋根の上を往くのが最も効率良いだろうし、有事の際、寸暇を惜しむ時にいちいち下足を着脱などしていられないだろう。
 忍の屋敷とは合理と利便を第一に徹底的に考え尽くしてある造りなのだと、身軽に駆け去って行った背中を見上げながら、その時の菜津は感心して息を吐いたのだった。


 当主である九郎の正妻や義母である二人が立ち働かなければいけない謂われは勿論無い。葛木家はこの一ヶ谷衆を取り纏める宗家であり、周囲の家々と比べても大きく豊かな家だ。座して万事を指図するのみが、奥向きの女達の正しい有り方だろう。
 しかし日々戦乱の耐えなかった初代頭目時分からの倣いであるらしく、この家では立場に関係なく誰もが良く働いていた。現当主の義母であるシエであっても例外ではなく、それは九郎とは血が繋がっていない、今は亡き先代頭目の後添いという複雑な立場も大きく関係していたようだが、それでも針仕事から奥向きの雑事までを良くこなしていたのだ。
 侍とは言え決して豊かでは無かった家で育った菜津にとって、その質素堅実とも言える家風は身によく馴染んで好ましい。

「……それに」
 だが、その事とは別として、こうして働いていた方が菜津にとっては気が楽だった。
「――妻になった気などしませんし」

 若き頭目が美しい妻を娶るという、里を上げての祝宴から月は幾度か巡った。余所者である菜津を、この一ヶ谷の忍里が受け入れて数ヶ月でもある。
 忍はどんな働きをしたとしても士分からは軽く見られることが非常に多い。最初は、侍身分の家から嫁いで来た菜津を遠巻きに眺める風もあったが、涼しげに整った顔立ちと伏せがちな所為で若干冷たくも見える眼差しの割に、身分やらには頓着する様子が全く無い菜津を、屋敷の者や里人は意外性を感じた事も含めて何かと慕った。
 これまでは複雑な立場の妾――正妻公認の愛人として、周囲からは難しい腫れ物に触るが如く扱われてきた菜津である。好奇心を剥き出しにした子供達が、庭先から土産の虫や野花などを握ってこっそりと顔を出してくる事は勝島邸では無かった事で楽しかったし、そんな子供達に案内されて屋敷の外に出れば、野良仕事に精を出す里人達が時期の挨拶を投げかけてくれる事が嬉しかったのだ。

 戦の狼煙が消えてまだ日も浅い。
 この国のあちこちで未だ火種が密やかに燻っている状態であるとはいえ、人々はようやく訪れかけている平和を享受し始めている。
 忍などの隠れ里とはもっと沈鬱として暗く血生臭いものと菜津は恐る恐る考えていたのだが、平穏に温みかけた空気の中では忍の里と言えども普通の農村と何ら変わりなかった。
 だから菜津自身、自分でも存外と思う程に早くこの忍里に馴染む事は出来たのだ。
 ――だが。

「お菜津さま、それはどういう……?」
「いいえ、何でも」
 菜津の物言いに心配気に首を傾げた姑を前に、菜津は緩い笑顔で首を振る。

 里の暮らしには十分慣れた。
 しかしそれでも九郎の妻になったという実感はほとんど無い。
 それもその筈で――九郎は、菜津の身には一切触れていなかったのだ。

(別に女房扱いされたいだなんて思わないけど)
 少々乱暴な手付きになりつつも洗濯物を片付けていく。ざかざかと速やかに、しかしそこは性格なのかキチリと角は整えられた布たちが、あっという間に積みあがっていった。
(……こんな扱いをするつもりだったなら、妻だなんて言わなければ良いのに……!)
 現状、妻というより家の仕事をするために来た侍女のようなものである。働く事が嫌という訳では決して無いが、胸の中ではどうしても独りごちてしまう。

 ――菜津の全てを知った上でなお妻と呼び、そしてこれから先を永く共にと言ってくれたその言葉が沁みるほど嬉しかったからこそ、菜津は差し出された掌に己が手を重ねたのに。


 祝言の日の晩――つまりは初夜。
 諦めと幾分かの緊張と、今までの辛い出来事に起因する言い様の無い恐怖感を持って、それでも花嫁の義務として寝所に連れられて行った菜津を待っていたのは、真新しい夜着に身を包み、敷かれた布団の上に胡坐をかいた夫君だった。
 しかし新妻の作法に則って畳に三つ指をついて深く頭を下げた菜津に返ってきた言葉は、

「すこぶる酔ったから俺はもう寝る」

 などという薄情な言葉だったのだ。
 しかも全く酔った様子が伺えない、普段通りの顔つき顔色と、しっかりした呂律で。

 そしてそのままただ単に枕を並べて寝入ったその晩以降、寝所を共にした事は一度も無い。
 ……一度だけ、夜中の悪夢にうなされた菜津を揺り起こしに九郎が菜津の寝床に顔を出した事があったが、その際にとりたてて何かがあったという訳でもなく、それどころか一ヶ谷衆頭目としての役目とやらで九郎はほとんど屋敷に居なかった。
 祝言を挙げて以降のこの数ヶ月、一つ屋根の下に互いがいた晩は数えるほどしかない。

 顔を見かければ挨拶するし話もする。だがそれは誰とでも行う事だ。
 この状況で自分たちを夫婦と呼ぶのは、何か違っていると菜津は思っていた。


 畳んで積み上げた洗濯物を下女に任せ、シエは針仕事があるからと自室へ下がっていった。
 シエを見送った菜津は、呼ばれてやってきた下女に対し運ぶのを手伝うと申し出たが、流石にそこまでは奥方様にさせられませんよと丁寧に固辞されて、日差しの差し込む暖かな部屋にそのまま一人取り残されている。
「……それでも」
 誰も居なくなった部屋で日向を見やり、独り言が口をついて漏れ出でた。
「この里にいれば、嫌な事は全部忘れられそう……」

 男の影に怯えながら眠らなくてもいいこの里での夜は、安眠を誘って心地が良い。あの晩を思い出させるが故におぞましく疎ましく感じていた月の光すら、この里の地で一人眺める時は美しくも清くも感じる。
 日中であっても何時どこで御召しがかかるやも知れないという不安も霧消した。くだらない戯れを強制される事も無く、無理矢理に酒を飲まされて酔わされる様な事も無く、夜毎身体を押し開かれて蹂躙される苦痛と屈辱からも解放された。
 一度だけ、どうやって手配したものか勝島から未練がましい書状が菜津に届けられた事があり、流石にその晩は今までを思い出して眠れなかったが、それ以外は平和と言う以外何物でも無い。

 今までの辛い日々とここでの暮らしは比ぶべくも無いのだ。
 そんな穏やかな暮らしを与えられた事に深く感謝こそすれ、これ以上を――九郎から名実共に妻として扱われる事を望むのは、度を越えて分不相応というものだろう。
 何より自分にそんな資格はない。

 いつか九郎が他の女を真の妻にと望んだ時は、菜津の方から離縁なり何なりを申し出てこの家から出るつもりだった。それならば、九郎にも誰にも迷惑はかからない。
 何事にも頓着しなさそうな九郎の事だ、頼めば住む場所くらいはどこかへ融通してくれる筈である。

 今与えられている夫婦というかたちは、勝島の蛮行を目の当たりにした九郎が、行く当ての無い自分に用意してくれた逃げ場ではないだろうかと菜津は思う。
 ならばありがたく甘受し、傷ついて膿んだ身と心とをこの場で癒し、そうして然るべき時が来たら羽ばたけばいい。
 ――然るべき時が来たら。

 だが、それらを頭で理解していても、どこか寂しく感じてしまうのは何故なのだろう。

「あーもうダメっ!」
 考え込み始めた自分の頬を両手の平で軽く叩き、菜津は強く首を振った。それ以上余計な事を考えないよう素早く立ち上がり、部屋から一歩を踏み出す。
「シエ様の、何かお手伝いを」
 やはり身体を動かしていないとダメだ。
 何かしていないと、過去や現在の気鬱で心が絡められて動けなくなってしまう。
(結局は一人で生きていく事になるんだから……そんなのは分かってる事なんだから……!)
 廊下に人影は無い。
 ただでさえ音の鳴る鴬張りの廊下を殊更に音高く歩き、シエが行ったであろう方向へ向かって曲がり角を勢いよく進もうとし――

「――ぶつかります、お止まり下さい」
 ぬっと突き出された大きな手と堅苦しい声とに遮られ、菜津の歩みは止められた。



「当主の妻
(さい)ともあろう方が、あのように作法を欠く様では困ります」
「……ごめんなさい」
「私如きに謝らずとも結構ですが、屋敷の者たち皆の手本となって頂かなければならぬ身である事は充分にご承知置き下さい」
「……返す言葉もありません……」
「良いですか。そもそもこの葛木家は――」

 昔まだ両親が健在だった頃、隣家に住んでいた偏屈爺にそっくりだと頭の中では思いつつ、菜津は殊勝に頭を下げる。
 廊下でぶつかりかけた高次により元の部屋へと連行され、頭目の妻としての作法礼儀心得講義がにわかに始まってしまった所である。

 九郎や自分とさほど年は違わない筈なのに、妙に老成した厳しい顔付きでくどくどと言葉を並べるこの高次と、いつも柔和な笑顔を絶やさないあのシエが実の親子であるなど、当人同士から言われていても信じがたい。更に言えば九郎と高次の、一見気の合わぬようなこの二人が阿吽の呼吸で通じ合っている事も不思議である。
 ……自分には九郎が考えている事など分からないが、側役として常に間近く仕える高次ならば主の全てを理解しているのだろうか。
 説教を聞き流しつつ、そんな事を菜津はふと思った。

「――以上です。何かご質問は」
「いつ帰って来られたのですか? 気づきませんでした」
「つい先程です。……もっとマシな質問はございませんか」
「えっと……ありません」
 そんな具合に溜息と共に講義が終わり、無言で互いに深く頭を下げる。
 それではと立ち上がりかけた高次に対し、菜津は一瞬だけ逡巡したが、それでも敢えて口を開いた。
「……あの、高次様」
「皆に示しがつきません、お呼び捨て下さって結構」
 固い男である。
「殿方を呼び捨てになど出来ません。……では、高次どの」
「何でしょうか」
 呼ばれて再度腰を落とした高次が、生真面目に座り直す。
「……九郎様の……事、ですが」
 だが、言い出しにくげに切り出した菜津の言葉を聞き、高次のその生真面目な顔が酷く歪んだ。 いつも沈着な高次の、菜津が初めて見る表情。

「――……もう何かやらかしましたか」
「え?」

 それは、血を吐くような呟きだった。
「妻を娶った男に側から口出しするのもおかしい事と思い、私事への申し入れは一切合切やめたのです。一ヶ谷衆頭目を先代から継いだ時よりも落ち着いて貫禄が出たと皆も言うので、女房殿の効果は抜群だったと安心していたのですが……そうか、私の与り知らぬ所でやらかしていましたか……」
 いつもの厳しい表情が口惜しそうに歪み、高次は自分の膝頭を強く握り締めた。
「……何をやらかしたかは敢えて聞きませんが、どうか、平にご容赦を」
「え、いや、あの」
「何事であっても、悪気があってした事では無いと思います。申し訳ありません。悪気は無いのです。……自覚もされておられないのですが」
 畳に指を手を揃えて付き、謝辞と共に菜津に深々と頭を下げた高次だったが、それが勢い良くがばりと起き上がった。
「いい機会です。お話をさせていただきましょう」
 そして真剣な顔で座して続ける。

「あの方は……九郎様は一見すると寡黙で思慮深く、常に冷静に見えますがそれは違います。面倒だから喋らないだけで、何も考えずに突っ込む事がほとんどです。思うがままに頭から突っ込んで、勘と力技で捻じ伏せて、後の片付けや面倒迷惑の類は全て私に丸投げする……」
 語り始めた高次の視線はもはや菜津を見ていない。その下に仇でもいるかのような勢いで畳を見つめ、歯を食いしばっている。
「……いや、一応考えてはおられますな。うむ。断じて思慮が無い訳ではございません。……ですがそのお考えは我ら凡俗には理解し難い深さであり、少々測りかねる程の大局観である訳で、側役とは言え私如きが御せる様なものではなく……」
 そこまで言ってようやく高次は菜津を見た。
「――故に菜津様、どうか」
 その眼はある種の悲壮感を強く漂わせており、これはいつも冷静なこの男が吐露する心からの訴えであると無言の内に叫んでいた。

「奥方として九郎様を尻に敷き、くれぐれも! 手綱を放さないで頂きたい……!」


(……どうしよう……)
 側近中の側近である高次の苦悶に、菜津は何も言えない。


 一通り喋って懸念事を懇願し、気も済んだのだろう。高次は一つ大きな溜息をつくと、
「……奥方様にご無礼を申し上げました」
 と、やはり固い言葉と共に立ち上がった。
 今まで気づかなかったがよくよく見れば高次は未だ旅装を解いていなかった。本当に帰りたての身だったのだと思う反面、一ヶ谷衆としての御役目で高次と連れ立っている筈の九郎を菜津は思い出す。
「あの、九郎様は……どちらに?」
 常日頃から側に侍り間近く仕える高次が屋敷内にいるのなら、主たる九郎もまた同じところに居る筈だ。
 普通ならば当主の帰還は、形ばかりであるとは言え正妻の自分に真っ先に知らせが来るものだが、何しろ自分たち夫婦は普通では無い。いつ帰って来ていたのだろうと、何故知らせが無かったのだろうと、ほんの少し疼いた胸を押さえて菜津は問う。
 何気ないその問いに、高次の片眉がピクリと動いた。
「……九郎様とは、一ヶ谷への帰途半ばで数日前に別れました」
 言ってよいものか少し量りかねている様だったが、黙っている方が却って不自然だと踏んだのだろう。すぐに表情を平生に戻し、九郎様への一切の口出しをやめた故にですが、と前置いて高次は続ける。

「どこぞへ寄られてから戻るおつもりのようです。……それ以上は存じません」




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