周り巡る連月(つらなづき) (3) 今晩の心配をした方がいい―― あの時の恩人はそう呟いて去って行った。 だが、菜津はその日を皮切りとした連日連夜の伽すら覚悟していたというのに、酷い執着を見せたあの夜以降、勝島は姿を見せていない。 職務で登城している時以外は邸内に居るようなのだが、その姿は妙に慌しく落ち着きを失っており、かと思えば不機嫌であり、夜の御召しも無ければ菜津の部屋へやって来る事もない。 御食い初めの宴席に来ていた加後院の大殿と勝島家当主の間に、只ならぬ何事かがあったのではないか――それが屋敷の者の専らの噂だ。どうやらここの所、この屋敷には加後院からの使者が連日詰めているらしい。両家がいくら姻戚同士であるとは言え、それは今までには無かった事である。 しかし屋敷内でひっそりと孤立している菜津には、事実を知る術が無い。それでも菜津にとっては平穏静かに数日が過ぎていく。 そうしたある日。 勝島が留守にしている中の昼、珍しくも奥方から菜津に対して御召しがかかった。 「奥方様が私にご用……?」 驚きよりも不安の方が大きい。何しろ自身の侍女だった菜津を謀って夫の手に引渡したのは、事実上奥方なのだ。 「……あの、それは一体どうして……」 「わたくしはただ貴女様をお呼びするよう奥様より仰せつかったのみ。――どうぞ、お早く」 菜津の警戒を他所に、使者として部屋を訪れた老女の口調は素っ気無い。奥方が加後院家から勝島の元へ嫁いでくる以前から付き従っていただけあり、その老女は主人に良く似た空気を持っている。丁寧な冷淡さで、ろくな説明も無いまま早く来いと急きたてる。 ひょっとして子供に会えるのかと生んだ母親としての少々の期待を持って菜津は尋ねてみたものの、それに対する返答はここでは言えぬの一点張り。早く来いと再々告げる声音は老女特有の高さで部屋にゆったりと響くだけだ。 「……きっと、貴女にも、奥方様にも、たいへんに良き事ですから」 そして、皺の目立つ唇で細く笑んで呟かれた言葉もごくごく小さく。 訝しがりながらも断れずに歩き出した菜津の背中には、それは到底届かない。 奥方の居室は、正妻の部屋として勝島邸の奥向き最深部にある。侍女であった頃は菜津もここと同じ棟にある侍女部屋に詰めていたのだが、妾扱いされる様に――勝島の寝所に夜毎召される様になってからは、勝島本人の声掛かりで、通いやすく呼びやすい様に主殿近くの別棟に移されていた。 その異動以来久々に訪れた奥向きの部屋で、菜津は畳に指を付いて面を伏せる。 「母が居らずとも、若君は乳母とつつがなくお過ごしです。勝島の跡継ぎに相応しいようこちらで充分育てますゆえ、そなたはくれぐれも要らぬ気遣いなどせぬように」 四十の不惑に近づいてやや陰りは見せるものの、それでも衰えない美貌と共に上質な絹の衣擦れをそよがせながら現れた奥方は、菜津を見るや開口一番そう言った。 「……承知致しております」 そんな牽制をされずとも、次期当主の生母として権勢を振るおうという気など菜津には最初から無い。生んだ子の顔を見たいと思うのはそんなに悪い事なのかと内心で呟き、菜津は唇を噛む。 そんな菜津の内心を知ってか知らずか、奥方は優雅な所作で着物の裾を払い、上座の薄縁(うすべり)に静かに座した。そうしておもむろに言葉を紡ぐ。 「産後の肥立ちが良くないそうですね。……殿の御召しももうずっと断り続けているとか」 「……はい」 まさか正妻の前で閨(ねや)の事情を説明する訳にも行かない。宴の夜の事には触れず、菜津は指を付いて畳を見つめたまま、言葉少なに応えを返す。 「そうですか。……そう」 同様に奥方の言葉も素っ気無い。自分の身を頭から爪先まで眺め透かすような視線を感じながら、奥方の次の言葉を菜津は待つ。 「……ほほ、ならば丁度良い」 一拍置いて漏れ出でた、隠し切れない愉悦を含んだ珍しい声音に、菜津は思わず顔を上げた。 ふと向き合った視線同士をしっかり合わせ、奥方は高らかに宣言する。 「そなたは充分に役目を果たしました。療養も兼ねて暇を取らせます」 普段笑わない奥方が朱唇を艶やかに吊り上げて言ったそれは、言わば離縁通牒だ。咄嗟には理解できず、菜津は目を瞬いた。 「子が増え過ぎては……禍根の元となりかねません。そなたも武家の娘ならば、家督争いの醜さは判るであろ?」 どこか含みのある、しかし傲然とした声が部屋に響く。 「暇、を……」 この屋敷にいつまでも居たい訳では決して無い。 ……だが、自分にはもう帰る家などどこにも無かった。伯父の所へ戻る気は無かったし、勝島邸から暇を出されるのであれば尚更、伯父の家に居場所は無いだろう。 奥方の言葉に是と答えて今すぐにでも駆けて出て行きたい気持ちと、戦乱をようやく終えても充分な落ち着きはまだ無いこの世の中に、独りで行く宛ての無い不安さが一気に胸中に渦巻いて、菜津の声は思わず震えた。 その微かな震えを妾身分への執心と捉らえたのか、奥方はわずかに柳眉を顰める。 「……わたくしの実家の縁でそなたの再嫁先を用意致しましたゆえ、行く先は案じなくても結構です。無論、持参金などもわたくしが充分用意します。そなたは身一つで先方へ嫁げばそれで宜しい」 そう言い置いて、掌を一つ二つと打ち鳴らす。 「あの者をここへ」 涼しく命じる声と共に、背後に控えていた先程の老女がそっと動いて廊下へと出て行く。そうして程なく一人の男と共に戻ってきた。 「菜津」 名を呼びかけてくる奥方の声はいつになく愉しげだ。 「――この男が、今日からそなたの夫になる者です」 訳が分からない、というのが菜津の正直な気持ちだった。 この時代、女は家と男の手駒である。命令一言で嫁がされては、離縁と再嫁を繰り返させられるのも珍しい事ではないと分かってはいたが、それでもあまりの理不尽に菜津の顔は憤る。 部屋に入ってきた人影は目に入っていた。 行き先の無い自分に不安もあった。 しかし、今まで抑えていたものをどうしても堪えきれず、気持ちはとうとう堰を切る。 「再嫁先など結構です。――私は、一人でも生きていきます」 菜津の声音は強い。 だが、強く言い述べたその言葉を、奥方の声が甲高く遮った。 「そなたのような若い女子がどうやって生計(たつき)を立ててゆくと言うのです。世の中を知らぬにも程がある」 「ご心配なさらずともこの屋敷からは出て行きます」 決別の意を込め、奥方の目を見据えて菜津が強く言い放つ。 たかが妾と侮っていた娘から降って来た確固たるその言葉に、奥方の眉が見る間に逆立った。 「殿の御召しを断るような妾ならば、殿とて不要と仰るでしょう、それは当然です」 「出て、一人で生きていくと申し上げているのです。嫁ぎ先などご用意頂くまでもございません。どうぞもう、何事もお構い無きよう」 その言葉尻は今までの憤りを含んで厳しい。 菜津の言葉と視線はどこまでも強く真っ直ぐだ。 「何を生意気に……!」 勝島家は代々この藩領内の役方筆頭を勤める重臣の家であり、その歴史も長い。そのような家からの離縁申し付け――つまりは追い出しに、若い妾は不服を言うやもしれぬと奥方は予測して再嫁先を手配したのだが、まさかこんな風に言い返されるなどとは夢にも思っていなかったのだろう。 「――……良いですか」 震える唇と内心の揺れを、この家に嫁いでから身につけたであろう鉄面皮で見事に隠し、奥方は続ける。 「一時でも勝島の家に深く関係した者を、我らの目の届かない場所に放す訳には行きません。今後一切接する事が無くとも、そなたは継嗣を生んだ者。……身を売るような恥ずかしい真似でもされては、御家の一大事となりかねぬ」 御家の跡継ぎを生んだ女がまかり間違って女郎にでも身をやつすような事でもなれば、それは家名に泥を塗る行為に他ならない。その為にも、不要の妾とは言え下手に家から出す訳には行かないのだ。 ――その言葉に菜津は絶句した。 「身を売る……?」 思わず唇が釣りあがる。 身売りさせられているのは紛れも無く『今』だ。身売りならば今現在、既にさせられている。伯父によって地位と引き換えに無理矢理に売られ、そして勝島に買われたのだから。それ故に菜津は今、こんなにも苦しんでいるのだから。 「……貴方がそれを言うのですか。私に!」 精神的にも肉体的にも度重なる苦行を強いられ続け、重ねて与えられるこれ以上の侮蔑は、いくら主からと言えども耐えられなかった。 菜津は柳眉を逆立て、それらに気圧されかけた奥方を睨む程に強く見据え、感情のまま立ち上がりそうな勢いで口を開き―― 「控えよ! 妾風情が思い上がるにも程がある!」 その時、今まで黙っていた老女が鋭く一喝した。 粛々とした先程までの振舞いからは想像だにしなかった老女の声に、場に飛んだ厳しい――しかし秩序として至極当然の戒めに、妾と正妻の二人は息を呑んで沈黙する。 「勝島の御家に並々ならぬ温情を受けながらそのような口の利き方をするなど、何と厚かましい! 恥を知りなさい」 ……そもそも菜津にとっては最初から、主に対しての口答えなど許されていなかったのだ。 己の存在など、屋敷という狭い世界の中ではその程度の軽さでしかない。 「身をわきまえよ」 場に高らかに響いた老女の声に、菜津の頭がすうっと冷える。 武家社会の絶対の不文律に、自身の置かれた立場の弱さに、儚さに――不本意のまま、それでも悔しさをぐっと堪えて畳に指を付き、菜津は頭を深く下げた。 「大変な……失礼を……」 噛みしめた唇から、かすかに血が滲む。 「わ、分かればよいのです」 その強制された低姿勢を眺め、自身の優位を再確認して、奥方は内心の動揺を気取られぬようにゆっくりと口を開いた。そして目線だけでついと部屋の隅を指しやる。 「よいですか。この者はわたくしの実家で重用している家の者です」 先程老女に伴われて誰かが入って来ていたのは感じていたが、今までそれどころではなかったのだ。主人に楯突く所も、言い負かされて頭を下げた所も、全て見られていたのかと今更ながらに菜津は気づく。 「勝島家でのそなたの働きの事も、良く教えてあります。……殿に負けず劣らず、可愛がってくれる事でしょう」 この屋敷で菜津が侍女として働いたのはほんの一ヶ月程度の事でしかない。それ以外の月日は妾として、辛酸を舐めるような奉公を強いられてきた。 奥方が相手側に説明したというのは、大方妾奉公を指してだろう。要はこの家の主人のお手つき女を下げ渡されるのだと、相手が知っている事になる。 不要となった侍女上がりの妾を押し付けられて喜ぶ事などごく稀だ。どこかの身分ある姫君などをならばともかく、余所から奉公に来た侍女上がりでは主筋との確固たる繋がりや下賜の誉れには成り得ない。下げ渡された方にとって得になる事など何も無いだろう。 ……強いて得を言うなら、自由になる女が嫁ぐその家とその男に増える、という事くらいだろうか。 新たな居場所でも同じ様な責め苦を味わえと言うのか―― 絶望を最早通り越した、諦観とでも呼んだ方が相応しい心境で内心呟き、菜津は暗澹としてそちらに顔を向けた。 「――菜津様には久方振りに御目通り仕る」 奥方と菜津、二人の視線に促されて口を開いた男の声に、抑揚は無い。 冷たい声音と言う訳では無い。しかしただ淡々と、たった今下げ渡されたばかりの妻に向かって言葉を告げる。 「改めて名を。……葛木九郎景勝と申す」 宴の日、あの時に聞いた静かな声が、真っ直ぐな響きで名乗りを上げた。 |