周り巡る連月
(つらなづき) (2)



 跡継ぎの有無は御家の明日に大きく関わる。
 長らく無かった嫡男の誕生をようやく迎え、その屋敷――勝島家は喜びに湧いていた。
 ……だが、その喜びの渦中に母親である筈の菜津の姿はない。


「……いい天気」
 庭を眺め、菜津はポツリと呟く。
 嫡男が生まれてから暫し経つ。子供の健やかな成長と幸せを祈る御食い初めの宴席は、菜津に与えられた居室からは遠く遠く離れ、時折風に乗って賑やかな声が届くのみだ。子供の姿など伺い見える訳も無い。
 最後にあの子に会ったのはいつだったかと指を折ろうとして、菜津は首を振った。
「ダメね、あの子はもう私の子じゃないのにね」
 自嘲し、小さく笑う。

 どんな経緯で生まれようと父親が誰であろうと、自らの胎内で確実に育っていく小さな生命は、菜津にとって辛い日々の中で感じる唯一の救いだった。
 悪阻
(つわり)に苦しむ時にすら身体を求めてくるような勝島に情を感じた事など一度も無いが、己の為に姪を差し出す伯父に裏切られ、家族と呼べる者を全て無くした菜津は、命を孕んで柔らかく膨らんだ自らの腹部に間違いなく愛おしさを感じていたのだ。
 だから、生まれてくる子の事はきっと大事に愛せる筈だと菜津は思っていた。
 ――出産後、奥方に子供を取り上げられるまでは。

 返して欲しいと縋ったが、投げつけられた眼差しはあの夜と寸分違わずに冷たいものだった。
「……子供を生むまでがそなたの務め。今後この子に近づく事はまかりなりませぬ」
 そうきつく呟いて子と乳母と共に去って行ったのは、御家の為とは言え夫に他の女を宛てがわざるを得なかった正妻の、せめてもの矜持だったのだろう。
 奥方は公家の血筋の出だと聞いている。気高く、雅を尊び貞淑を旨とするその美しい顔の下で、子を成せぬ事の苦しみをどれだけ味わってきたのか――
 それを思えば子供を奪われた辛さをただ呪うだけの気持ちにはなれず、……しかしあの月夜の冷たい視線を思い起こせば、易々と同情する気にもなれず。
 菜津は勝島邸の奥まった一室で、何もかもが入り混じって複雑な溜息をついた。

 今は産後の肥立ちが悪いとの理由を付けて勝島からの御召しは全て断っている。取り上げられた子供の事を思うと、易々と抱かれる気にはなれない。……抱かれたくもない。
 一人生ませたからと言って菜津を手放すつもりは勝島には無いようだった。菜津から子供を取り上げた事を気にしている風も無い。むしろ子供が側に居ない事を良い事と捉えているのかも知れなかった。その証拠に、ここ最近は毎夜のように寝所への御召しがかかっている。
 ――体調が優れないと言って伽をかわすのも、そろそろ限度があるだろう。いつぞやの夜のように別事を偽って謀られないとも限らない。この屋敷に、菜津の味方となってくれる者はいないのだから。
 子を身篭り、腹部が丸みを帯びている間、菜津は頑として勝島を受け入れなかった。
 今後受け入れざるを得なくなった際、今まで触れさせなかった反動として勝島はどのように身体を求めてくるだろうか――
 日の暖かいうららかな天気だというのに強い寒気と怖気とを背筋に感じ、菜津は呟く。
「気持ち悪い……」
「それはいかんなあ」

 聞きたくなかった声がした。


「おお菜津よ、久し振りだな。肥立ちが悪いなどと言うておるが、具合はどうだ」
 言いながら足音も大きく部屋へと入り込む。近寄ってくるその身体を避けるべく、菜津は素早く立ち上がった。
「旦那様、どうして……! 今日は、若様のお祝いでは」
「皆は息子にかかりきりだからの、儂など居らぬでも別に構わんのだよ。その間に久々にお前の顔を見に来た訳だ」
 嬉しそうに笑い、勝島が菜津の肩に手を伸ばす。それをさり気なく避け、部屋の出口へと後退りながら菜津は口を開いた。
「ご当主たる旦那様が宴席に居らずしてどうされます。皆心配なさいます、どうかお戻りを」
「お前に会いたかったと言っておるのが分からぬか」
 今度は避けきれない。強く手首をつかまれ引き寄せられて、逃げ損ねた菜津は勝島に横から抱きすくめられた。
「い……っ、お放しを……!」
「うむ、少し痩せたか? 生んだ子に身の余分を取られたか?」
 少々どころでもなく酒が入っているのだろう。菜津の身体をまさぐりながら撒き散らす呼気は酒臭く、制止の言葉は全く聞き入れられない。
「おやめ下さい! 嫌、こんな……、何をお考えになっているのですか!」
 宴席から遠く離れているとは言え今日は来客も多い。何かの際にこちらへ来ないとも限らないのだ。昼日中のそんな場所で戯れようとする勝島を必死に退けようと、菜津は小さく非難の叫びを上げる。
「何をやめよと言うのだ」
 逃げようとする細い腕を掴み上げて拘束し、その首元に唇を寄せながら、勝島がゆったりと笑んだ。片腕で菜津の腰を抱き込み、空いた手で着物の裾を割っていく。
「どれだけそなたが恋しかったか……のう菜津や」
 戯言を、と睨みつけた所で、菜津の憤りが勝島に届く訳も無い。
「嫡男の誕生はめでたいが、そなたに触れられぬのには参ったわ。次からはもう少し考えぬとなぁ」
「やめ、……人が来ます、どうか……!」
 頑なに拒み、青ざめつつ身を捩る菜津の様子に、勝島が嗜虐的な色を見せ始めた。震えながらの虚勢に対し、笑み崩れて尚も囁く。
「久々に聞くが、やはりそなたは良い声で啼く」
 太い指が菜津の肌を嬲るように動く。
 少しでも遠ざけようと、必死で伸ばして拒む腕も意味を成さない。逃げられない。
「折角だ、皆に聞かせてやるのも良いかもしれんな?」
「……っ!」
 もういい加減慣れたと思っていたが、それでも感じる嫌悪感で菜津の瞳に枯れた筈の涙が滲む。

「久々だからの」
 眩暈がした。
 抵抗する気力も萎え、容易く組み敷かれて、冷たい畳の上に押し倒される。
「やめて……下さい……」
「存分に可愛がってやろうぞ」
 指を、舌を、下世話に動かしながら笑う勝島の声は愉悦を湛えて満足気だ。帯が解かれる衣擦れの音が日光の差し込む明るい部屋に残酷に響き、菜津の頬を堪えきれなかった涙が一筋伝った。

 こうなってしまえば後は心を殺して事が済むのを待つしかない。
 このまま気でも失って、そして二度と目覚めなければいいのにと強く念じて瞼を閉じる。

 固い脂で重い身体が菜津の上に圧し掛かり、ぬめる唇が開かれた胸元に押し付けられ、
「……っ」

 そして大きな物音と共に急に引いた。


「った……、おのれ、何……をっ」
 襟首を掴まれて大きく放り投げられ、尻餅をついた部屋の隅の方から、勝島の唸り声が響く。
「――これは失礼を」
 対して、返す声には抑揚が無い。
 いつの間にそこに来ていたのか、のっそりと現れた男が自分に覆い被さっていた勝島の襟首を掴んで放り投げるのを目の当たりにし、菜津は目を瞬いた。
「貴様ァ! 儂がこの家の主と知っての狼藉だろうな!」
 無様に乱れた勝島の姿は、事の最中に踏み込まれた間男の格好そのものだ。酒気で赤かった顔を更に紅に染め、荒く叫ぶ。
 しかし勝島を投げた張本人は一向に動じない。
「声が聞こえましたので、お助け致した次第ですが」
「……この女は儂の妾だ! 余計な事をするで無いわ!」
 勝島の怒鳴り声にも全く動じず、いつの間にか部屋の外に出て廊下に片膝を付き、慇懃無礼な響きすら伴った物言いで声の主は続ける。
「お助けしたのは殿の方をです。――先程から加後院の大殿がお探しでいらっしゃいますので、間もなく此方へも使いの者が探しに参るかと」
「加後院の……? お、奥の実家ではないか……!」
 淡々と述べられた言葉に色を失ったのは勝島だった。
 嫡男の祝いの席と言う事で、奥方の実家からその当主――つまりは舅を招いている。勝島の家は妻の実家である加後院家から資金面や政策面での内々の援助を多く受けているのだ。舅を招いた祝いの宴席を抜け出して妾と戯れていたと知られては、痛恨でしかない。
「渡りから足音が聞こえます。お早く宴へお戻り下さい」
「お、おお。うむ、ならば、そうだな、仕方が無いな」
 何やらブツブツと呟き、手早く勝島が立ち上がる。
「ではな、菜津、また夜にな」
 そうして慌しく立ち去っていく。バタバタとした足音がしばらく廊下の板の間を揺らしていたが、そんなに立ち行かない内にそれは止み、代わりに大仰な話声が聞こえ始めた。
 何事かをごまかすかのような勝島の大声と笑い声とが、菜津たちのいる部屋にも白々しく響いてくる。

「……どうやら瓢箪から駒が出たようだ」
「え?」
「何でもない」
 事も無げにそう言って、菜津にとって救い主となったその男が立ち上がる。
 そしてふと菜津を見下ろし、未だ酷く乱されたままの襟元や着衣にほんの少し眉を顰めて、自分の上着を投げて寄越した。
「……災難だったな」
 一言が小さく響く。
 先程までの抑揚の無さとは違い、今発せられた声には確かな温みがあった。
 その響きに、真に助けられたのはやはり自分の方なのだと思い至って、投げ掛けられた上着の陰で急いで着物の袷
(あわせ)と裾とを直しながら、菜津は急いで言葉を紡ぐ。
「ありがとう……ございます……」
「気にするな。……それよりも今晩の心配をした方がいい」
 響いてくる勝島の声を背景に、男が静かに息を吐いた。菜津もその声に唇を噛む。
 ただでさえ久方振りでタガが外れそうな所にこのお預けだ。今宵は間違いなく御召しが掛かり、且つ断る事は不可能だろう。このまま走って逃げ出したい気持ちを抑え、俯いたまま菜津は小さく呟く。
「……平気です」
 唇を強く噛み締める。
「もう慣れました」
 それが強がりでしかない事は、強張った口調と表情から容易く察せられた。だが、それには何も言わず男は黙って菜津を見やるのみだ。
 廊下で声を上げていた勝島は宴へと戻って行ったらしい。聞こえていた騒がしい声はいつの間にか消えており、沈黙だけがその場に満ちた。
「――そうか」
 男がポツリと呟いた。
 そして何を言うでもなく、黙ってそのまま去って行く。

 遠くの宴席からは相変わらずの喧騒が風に乗って時折届く。
 庭には今が盛りと花々が咲き誇り、日の光と空の青は心地よく澄んで地に行き渡っている。
 ――なのに、どうしようもない怖気と眩暈とを感じ、菜津は己を掻き抱いた。
「――……っ」
 思わず握り締めた上着のみが、去っていった男のほのかな体温を残して暖かい。



 その晩の夜伽は、予測に違わず菜津にとって辛いものとなった。
 夕暮れになり子供のための宴が終わり、客人達が寝所に退いた途端に再度菜津の部屋を訪れた勝島は、昼間の蓄積を晴らすかの様に菜津を組み敷き押し開いて蹂躙する。
 言葉少なに部屋に押し入り、引き千切る勢いで着衣を剥がし、それらの行為に対する抵抗は言葉一つ許さない。

 それらの責苦はいくら久方振りであるとは言え今までに無い執拗さと執着振りで。
 疲弊し嫌悪しつつも、何かおかしいと訝しがり始めた菜津を他所に、その日の伽は夜が更けて日付を跨いでも、尚延々と続けられた。




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