周り巡る連月
(つらなづき) (1)



 ――庵
(いおり)に文箱を置き忘れました。それを取ってくる様に――


 宵の初めの空、軒先にかかる半月の光は闇を透かして薄青い。日は落ちたというのに、重厚に整えられた屋敷の渡り廊下の板目に落ちた自分の影すらよく見えた。
 侍女として勤める屋敷の奥方に命じられ、少女は文箱を取りに月明かりの廊下を進み行く。

 涼しげに整った面立ちのこの少女に、両親は既に居ない。
 物心がついてしばらくした頃に二親を亡くして伯父夫婦に引き取られ、その庇護で十年ほどを過ごしてきたが、先月からはその伯父の勧めでこの屋敷で奉公をしている。
 同じ武家と言えど、血筋だけは良いが禄は五人扶持が精一杯の伯父の家と、広い庭内に連歌会のための庵すら持つこの屋敷の主では、暮らし振りも何もかもが違う。優しかった伯母たちのいる家を出て一人奉公するのはそれなりに寂しかったが、年頃の少女にとって上流の暮らしに触れる事は、未知や憧れを多く含んで日々楽しかった。

 目指す庵は屋敷の庭の外れにある。
 四季折々の花と木々、そして橋を架けた小川までを設えたそこは、この屋敷の先代の主が匠に命じて造らせた物だ。
 智将と謳われ、戦乱の世に戦場に在ってそれでも尚風流を望んだその人は、息子に当主を譲って別所で悠々自適に日々歌作三昧だと聞く。
 奉公し始めの時に一度見かけたその顔は、当代の主とは似ずに細面で理知的な面差しだった。

 今の御当主さまはどなたに似ているんだろう……

 少なくとも父親似で無い事は確かだ。
 庵の外造りを月明かりに眺め、そんな事を考えながら少女は庵の戸に指をかける。命じた奥方からは不思議な事に鍵を預からなかったのだが、元々どうやら鍵はかかっていなかったようだ。すんなりと開いたそれに少女は知らず息を吐く。
 庭の外れに建てられたと言ってもこの庵は下手な民家と同じ程度の充分な大きさがある。内部はいくつかの部屋に区切られており、文箱がどこにあるかまでは奥方から聞かされていないために分からない。
 月明かりがあるので灯りなどは不要と言われていたが、やはり手燭くらいは持って来るべきだったと後悔しながら、少女は暗い部屋の中を何とか手探りで進んで縁側の障子をこじ開けた。

 途端、暗いばかりだったその部屋に、薄青い月明かりが差し込んでいく。
 美しく際立った、蒼い月光だった。
 目的の文箱が、縁側から離れた床の間の隅、襖
(ふすま)の近くに寄せられた書物机にちまりと乗せられているのがその月光に照らされて良く見える。
 暗い場所が怖い訳では無いが、こんな所にいつまでも一人で居たくはない。さっさと持って帰ろうと、少女はそちらへ向かって歩き出す。

 縁側の月明かりから机まで距離がある訳では無い。だが数歩進んだだけで影はずいぶんと色濃くなる。月が出ていても、その光が薄青く辺りを照らしていても、今夜の物陰はどことなく暗い。
 ――こんな夜更けに文箱を取ってきて、奥方様は何をするのだろうか――
 少女の脳裏にふと疑問が浮かんだが、その疑問は次の瞬間に霧散した。

 部屋の陰から、男の腕が伸びてきたのだ。


「や……! 何?!」
 その腕は少女の身体を容易く捕らえ、その身の内に抱き込んだ。
「放しなさい! この狼藉者!」
 身を捩って暴れるが、少女を後ろから抱きすくめて身体を撫で上げる腕はびくともしない。いくら庭の外れと言ってもこの庵は邸内にある。屋敷内部にこんな不法者の侵入を許すとは、今宵の夜警番は一体何をしているのか――
 知らない男に抱きすくめられる恐怖と共に怒りを感じながら、少女は更にもがいてその腕からの脱出を図る。
「放し……っ」

 だが、気が付いた。
 少女が暴れて身を捩る度に男の身から強く漂う香は、夜盗の類にしては上等すぎる。少女の細い身体を抱き込んで放さない不埒な腕や、充分に脂の乗った腹を包んでいる着物も、しっとりと上質で滑らかな絹の手触りだ。決して路傍の賊が身につける物では無い。
 少女の背を、冷たく粘った汗が流れ落ちた。

 抵抗して暴れた拍子、絡み合った身体同士が庵の畳に倒れ込む。乱れた裾など気にしていられない。少しだけ緩んだ束縛に少女は畳に手を付き素早く立ち上がり、開かれたままの障子に向かって一歩を走り出した。
「待て!」
 途端、伏したままの男から足首を掴まれる。太い指が、万力のような強い力が少女の動きを封じて留め、間髪入れずにその身を再度畳の上に引きずり倒した。
 倒された拍子に裾が大きく開き脚が露になり、身はしたたかに畳に打ち付けて、気丈だった少女の声にとうとう震えが混じり始める。
「……誰か……!」
 部屋に差し込んだ月明かりの蒼の下、恐怖に引きつった声が響く。
「助け……」
 嫌な予感がした。
 庵という物はそもそもが簡素な作りで、この屋敷の庵に関して言えば、ただそこに風流を嗜むための空間があるというだけの建物だ。数寄を凝らしてはあるものの金目の物はほとんど無く、賊がそんな所に入り込むとは考えにくい。

 ――だったら、これは一体誰か。

 動く度に強く薫るこの香は、奥方に命じられて今までに幾度か針仕事を行なった主人の着衣から薫った物と似てはいないか。
 露になった脚を撫で擦ろうと動く腕が纏うその上等すぎる絹の手触りは、屋敷の主のみに許された品質ではないのか――

「騒ぐでない。せっかく人払いをしてあると言うに、誰ぞ来たらどうする」
 薄く笑うその声。
「なあ、菜津……?」
 月明かりに男の顔が浮かび上がる。

 それは、間違いなく少女が仕える主の顔だった。


「お許し下さい……! 嫌です、放し……っ!」
「菜津よ、大人しくしておれ。この期に及んで暴れるとは見苦しいぞ」
 太い指が襟元から入り込み、少女の――菜津の胸を深く探る。年頃を迎えてゆったりと膨らんだそれを乱暴に掴み、嫌がる腰を自らの下に組み敷いて、屋敷の主人は笑み崩れた。
「前から目をかけてやっておったのだぞ? ほう、期待していた通りに良い肌を……っと、はは、無駄よ。小娘の力で抗いきれると思うな」
「嫌! やめて! 誰か……!」
「誰にも聞こえんよ。今宵は特にな」
 暴れて抗い、上気し始めた菜津のうなじに舌と指とを這わせながら主人がほくそ笑む。
 男臭い吐息に喉元をくすぐられて菜津の目に涙が滲む。だがそれでも震える声を気丈に張り上げ、菜津は主人を睨みつけた。
「これ以上……! 私に触れるなら、舌を噛みます……!」
 言いながらも拘束から逃げようともがいて惑うが、主人の腕は一向に緩まない。むしろ主人はその必死の態を舌なめずりでもせんばかりに見やって笑う。

「出来るものならな。儂は一向に構わんが、お前の伯父御はさぞがっかりするだろうの。自慢の姪は、務めを果たせなんだと」

 伯父。
 務め。
 大声で泣き出したい気持ちと嫌悪と恐怖とを堪え、菜津は心の中で反芻する。
 ……この男は、何故ここで伯父の名を出した?

「子供でもあるまいに、分からぬ訳でも無いだろう? 聞けばそなたの家は多産安産の血筋だそうではないか。どうか是非に役立てて欲しいと……なあ、そなたの伯父は忠義者よな」
 主人が嗤う。
 一拍置いて、菜津の抵抗が止んだ。
「嘘……です、伯父上が、そんな……」
「菜津よ、そなたの伯父の忠義に応えて儂の子を孕むが良い。あいにく奥は子を成さぬ身体でな、ここ一月お前の様子を見ておったそうだが、お前ならば構わんと言うておる」
 覆い被さってきた男が動きながら何事か囁いているが、菜津の耳には入らない。
 何か熱いものがさっきから止めどもなく頬を流れている。頭の奥で甲高く耳鳴りがする。
 吐き気がする。
 時折頬を擦る畳の冷たい感触だけが、やけに生々しい。

「さて……脚を開け」

 菜津の帯に男の指がかかる。間髪入れずに強く引っ張られて身体が転がり、その衝撃で菜津の視線が庭へ向いた。
 庭には清浄な月の光が満ちている。あと少しそちらへ行けばこの濁った夢から抜け出せるように思えて、菜津は畳に爪を立て、男の下でもがきながらも必死に庭へ手を伸ばした。
 その庭先に、不意に人影がよぎる。
「助け……っ」
 震える指先が救いを求めてその人影に差し出される。痩身が見て取れるその人影は、菜津の声が聞こえたのかその場でぴたりと動きを止めた。
「お願い……!」
 だがその人影は庭の半ば、植木の陰に佇んだままだ。確実にこちらが見えている筈なのに、静かな視線で菜津を眺めてただ立つだけである。
 冴えた月明かりの下、その人影の詳細が照らされる。
 それは菜津に庵に行く様に命じた、その張本人――
「奥方様……っ」

 だが、庭に立つ女は冷めた視線で菜津の懇願を強く遮った。
 無感動に部屋の中の騒がしい絡み事をしばらく見やり、そうしてくるりと踵を返すと何も言わずに立ち去って行く。

「はっ、……観念、したか? 急に大人しく………」


 上気した男の声が遠くで聞こえる。
 月の光はすっかり淀んで、視界の歪んだ菜津の目には、もう入らない。





 あの夜からどれ程が経っただろう。
 庵での一件以来、屋敷の主人は事ある毎に菜津の身体を求めてきた。場所も時間も全くお構い無しにだ。正妻たる奥方の居室の隣で、やめてくれと懇願しているにも拘らずに組み敷かれた事すらあった。
 その時、隣室に奥方がいた事は間違いない。だがその人は何も言わない。
 主人の御手付きとなった菜津は、奥方付きの侍女から一転して主の側女――いわゆる愛妾となったが、その事に関してもあの夜に関しても、その人は一切を問おうとしない。ただ一言、御家の為に早く子を成す様にと、視線を合わさず冷たく呟かれただけだ。

 そうして分かった事がある。
 伯父は、菜津を差し出す代わりに身に余る様な破格の俸禄を約束されたらしい。菜津が子を成せばそれに加えて今より上の役職すら与えられるそうだ。
 ――だから励めと。
 気に入られるよう、長く愛でられるよう、夜毎その身で充分尽くせと。
 帰りたい、帰らせて欲しいと泣きながら苦痛を訴える姪に、例え逃げ出してもお前に帰る場所は無いのだぞと、優しかった筈の伯父は歪んだ笑顔でそう言った。
 これは御家の為なのだと笑みながら苦行を強いる伯父の顔は、今まで菜津が見てきた人間の中で一番と言っていいほど醜かった。

 涙は既に枯れ果てた。
 泣いても喚いても、声は確かに届いている筈なのに、不寝の警備番も顔見知りの侍女たちも、屋敷の人間は誰も助けに来ないのだ。
 泣けば泣いただけ男は悦んだ。苦痛に耐える喘ぎを聞きたがり、羞恥の涙を清らかだと言って笑み崩れる。――泣くだけ無駄だと悟ったのは幾度目の夜伽の際だったか。
 妾奉公の代償として日々過分に与えられる美しい着物も珍しい品々も、決して菜津の心を慰めたりはしない。屋敷に囚われ部屋に囲われ、夜毎に犯され、身体の自由は何も無い。
 唯一手が届く世界は屋敷の庭の中だけだ。だが、雅人が造った庭の美しさも、総てあの夜の出来事に繋がって菜津の心を鬱屈させるのみ。
 清らかな筈の月の光すら、照らされる度にあの夜の事を思い出す。月光は、心に淀む澱を生み出す因子と化した。



 ――そして月は幾度か巡り、菜津は苦悩の内に懐妊し、暫くの後に子を産んだ。
 それは、御家の嫡子たる男子だった。






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