周り巡る連月(つらなづき) 追章(3)――謡丸



 四季折々を誂えた庭を造り、その中に作った小川に橋を掛け、月と花を愛でながら歌を詠む――

 彼の人生で最も過酷だった、とある戦での陣中。
 この戦から生きて帰れたなら必ずと心に決め、そして見事に実行せしめた風流だ。
 ――だが。
「……謡丸
(ようまる)はどこへ行った」
 戦国の世に智将と謳われたその人――勝島家先代当主、勝島絢孝
(あやたか)の今の目に、それらの風流は入らない。
 往年よりも流石に痩せ衰えはしたが、それでも老いを感じさせない背筋の伸びた身体で優雅に足を運びつつ――然しながら手には愛刀をしっかり携えつつ。一度は息子に譲った筈のその庭を、当主に返り咲いた翁は堂と往く。

「た、ただいま御捜し致しておりますれば!」
「暫く! 今暫く!」
「い―――ちィ、に――――ィ、さ―――――」
「御館さま、謡丸さまは悪気があった訳では決してござりませぬ、きっと深い訳が、きっと」
「そうかそうか、儂の秘蔵の茶碗ことごとくを売り払うのは悪気では無いと申すか。ハイよ―――ん」
「御館様! どうぞ今暫く!!」
「申し訳ありませぬ、此度の事は全てこの婆の責任でございます、どうぞ斬るならば婆をお斬りくださいませ」
 大仰な音で響いた声は、屋敷の家臣一同のものだ。
「いやいや何の、そなたらに罪は無いゆえ安心せよ。悪いのは全て我が孫よ」
 若かりし頃の涼やかさを色濃く残した目元が、皺に半ば埋もれながらも、それらに対して優雅に笑んだ。そして邸内にいるのかすら今となっては疑わしい孫に向かって、絢孝は朗と告げる。
「のう、謡丸よ。そなた、これだけの者に慕われて果報者よな」
 深く笑う。

「――さて、一体どんな弱味を握ったか」

 瞬間、その場に居た家臣ほぼ全員の背筋が大きくビクリと震えたが、それらは一切顧みず、智将は更に言葉を続ける。
「良い機会じゃ、皆に言うておく。あやつを子供と侮るなよ? あれはな、父親には全く似ずに明らかに儂に似よったぞ。祖父の秘蔵品を、小賢しくも儂の名を騙って出入りの商人に売り払うなど、まだ小便くさい童
(わっぱ)の考えとは思いたくないが……まあ儂の血筋と思えば不思議でもない。あやつの事ゆえ得た金を何に使うかは見当もつかんが、あの不敵さは恐れ入る」
 だが言葉の内容とは裏腹に、絢孝の表情はどことなく楽しそうだ。愛刀の鞘で肩を叩きつつ、数寄を凝らした庭を睥睨して大きく笑う。
「謡丸よ、ジジイと孫の化かし合いと洒落込むのも一興よ。儂から見事逃げ切ればそれで良し、そうでなければ――」
 そう呟いた声は、笑ってはいたが酷く低い。
「……その素っ首、吹っ飛ぶと思い知れ……」

「お怒りはごもっともですがどうぞ今暫く!」
「茶碗を!! 誰か御館様の御茶碗を早く買い戻して来い!!」
「誰ぞ! 誰ぞ早く行かんか!!」
「ハッハッハッハッ、今宵はきっと血の雨ぞ」
「暫く! どうぞ今暫く……!!」

 勝島家の典雅な庭に、家臣達の悲痛な叫びが木霊する。



「……放っておいて宜しいのか?」
「何、儂が出て行ったところで火に油よ。こんな所におるなどと誰も気がつきはせんだろうし、じい様の怒りとほとぼりが冷めるまでしばし避難じゃ」

 一向に騒ぎの収まらぬ勝島邸の、屋根の上。
 仕立ての良い衣裳を身にまとった若君――謡丸
(ようまる)と、紺染めの装束に総身を包んだ男が、眼下の騒ぎを眺めながらそこに居た。
「たくさんあるくせに、たかだか五六個売り払ったくらいで年寄りは大袈裟よの」
 子供の声音で大人びた口調を使うその少年は、怒り心頭の祖父を何食わぬ顔で屋根から見下ろしている。……無論、下界からはしっかりと死角の位置で。
「……で、その金は如何なされた」
「くれてやった」
 屋根に腰を下ろし、膝に頬杖をつき、どことなくぼんやりした瞳で眼下を見つめつつも、少年が呟いた。
「そこの四つ先の辻に店を構えておるまっずい菓子屋にな、ひとりほど娘がおるんじゃがな。それが貧乏人のくせに、輪をかけて貧乏人の男のところに嫁に行くとか、嬉しそうに申すから……」
 ぼそぼそと話す声音は、先程までの小憎たらしい様子とは打って変わって年相応に細く幼い。
「その娘を好いておられたのですか?」
「……そうではないが」
 一旦小さく言葉を切ったが、紺染めの男に促されて謡丸は言葉を続ける。
「古参の者どもが噂話で言っておったのだ。……あそこの娘は儂の母御に似ていると」

 謡丸の母親は、建前上は勝島家先代当主の正室となっている。
 だが事実はそうではなく、本当はどこぞの武家の娘なのだと言う。――そして今はこの屋敷に居ない。
 その話は先代の若隠居の理由とも相俟って、勝島家では半ば緘口令が敷かれており、本来ならば決して謡丸の耳に入るものでは無かった。しかし、女の口に戸板は立てられなかったようで、いつの間にか――多少の悪意が混ざりつつも、謡丸本人の知るところとなっていたのだった。
「会った事のない母にそっくりと言われたら、見に行きたくなるのが人情だろう。見に行けば話すだろう。話して……母上に似ているらしい女から優しくされたら、嬉しいだろうが」
 名門勝島家の若君である事は一切伏せて店には通っていた。だから向こうはこちらの素性は一切知らない。その所為か、菓子屋の娘は自身の弟にでも接するように、随分と気安く謡丸に接してくれたのだ。

 ――いい所の坊ちゃんなんでしょ? なんでうちなんかのお菓子が気に入ってんですか?
 菓子屋の娘が涼しげな目元を緩ませて笑うたび、まだ見ぬ母を思って、幼心に温もりが灯った。

 正式な『母』――田舎に引っ込んだ夫に、意外な献身さを発揮してついて行ってしまった為、年に二回ほどでも会えばいい方だ――に間近く傅
(かしず)いていた身分ある侍女達の多くは、謡丸の実母を、主が受けるべき寵愛を掠め取った泥棒猫のような女だと評していた。いつもツンと澄ました気の強い女だったと、相当に悪く言っていた。
 しかし、屋敷の下働きである下男下女たちの口から時折漏れ聞いた、凛としていたらしい母の姿は、謡丸の幼い思慕を充分に煽って余りあったのだ。

 ――また来てくれたんですか? 嬉しいな、お茶でもどうぞ。
 菓子ではなくそなたが目当てだと正直に言うと、娘は尚更に明るく笑った。働き者の優しい手が無遠慮に謡丸の頭を大きく撫でる。……堅苦しい武家屋敷では経験した事の無い、親しみのこもった女手の優しさだった。

 ――坊ちゃん、あたし、今度お嫁に行くんですよ。
 ――ほら、たまに手伝いに来てたの見てないですか? そうそう、菓子職人の。
 ――物入りが重なってるから花嫁衣裳なんか用意できないですけど、好き合った人のところに嫁げるってだけで、あたしは幸せなんですよ――

「優しいだけが取りえの甲斐性なしなんぞに惚れるからいかんのだ。だから儂が一肌脱いでやったのに」
 眼下の喧騒に紛れた声は子供らしくふて腐れた響きで、それが可笑しかったのか、紺染めの男が微かに笑う。
「金は受け取ってもらえましたか?」
「……花嫁衣装分だけな。残りは大丈夫だと返された。――店を開くなら、いくらあっても困らぬだろうに」
 真新しい花嫁衣装に包まれた笑顔に手を振って別れたのは、今朝方の事だ。
 こんな御礼しかできないけどと持たされた両手いっぱいの餅菓子は、甘いはずなのに心なしか塩辛い気がした。
「あーあ……本当の母上はどんな方なんだろうの」
 屋根にごろりと寝転び、天を仰いで一人ごちる。その独り言めいた呟きを受け、男がこくりと頷いた。
「お会いになりたいのならば、我等にはその御用意が」
 しかし紺染めの男が口にしたその一言に、謡丸は間髪入れずにすぐさま返す。
「愚か者め」
 その口調は、年齢に不相応の自嘲を含んで酷く重い。
「そなた、一ヶ谷の中でもそこそこに身分ある者だと思っていたが違うのか? ……何も知らぬようゆえ教えてやるが、儂は母上にとって忌み子じゃぞ」
 唇の片端を上げて笑うその顔に、母似の娘への思慕を語っていた時の幼さは既に無い。
 口さがない者達の、遠慮の無い噂話から何を得たのか何を聞いたのか……。まだ幼い筈の謡丸は、実母が経験した辛苦を――自分が、“どのような経緯で生まれるに至ったのか”を、過不足無く知っていた。

「そんな子がどうして」
 不意に言葉が途切れ、祖父に良く似た切れ長の視線が宙を泳ぎ、刹那の間を彷徨う。
「……会いたいなどと」
 自嘲を孕んだ語尾は小さく掠れて風に消えた。未だ続いている庭での喧騒だけが、どこか遠くの世界の事のように場に響く。


「よいか、そなたの主君に――葛木殿にとく伝えよ。こたびの御心遣い誠に痛み入る、しかしながら謡丸は母上様にこれ以上のご迷惑を掛けられぬ身ゆえ、一ヶ谷への行脚は遠慮申し上げると。……ま、爺様の手前、そうそう遠出も出来ぬしな」
 前を向き、傲然と告げた言葉に湿っぽさは無い。そこにあるのは幾許かの諦めと、年齢に不釣合いな達観だけだ。
「しかし、自分の女房が昔に置いてきた子を気遣うとは、そなたらの主は度量の大きな男じゃな……」
 抜けるように青い空には白い雲が幾つか浮かんでいる。少し寂しげな色合いの眼が、空を見上げてすぐ閉じられた。
「……葛木殿が儂の父なら良かったのに」
「御意。――では、その様に」
 呟きながら屋根の上に寝転んだ謡丸の頭上が陰る。紺染めの男が身軽に立ち上がったのだろう。

 謡丸が忍と言うものに身近に接したのは今回のこれが初めてだったが、紺染めの衣装に身を包んだこの男は、祖父が子飼いとして召し抱えている忍衆よりも幾分か優しげな眼をしているように見える。嫁入りを見送って何となくしょんぼりしていた所に、貴殿が謡丸様かといきなり声を掛けられた時はとにかく驚いたが、しばらく話してみると存外に話しやすい。
 忍などは得体が知れず薄気味悪いと今まで思っていたが、これならば――
 この忍軍の頭目に再嫁したと噂に伝え聞く母も、今はきっと幸せなのだろうと素直に思えて、謡丸はほんの少し微笑んだ。

 ――が、その微笑みは途中で掻き消える。

「……何をする無礼者!!」
 幼い声が鋭く叫ぶ。
 寝転がっていた所を無造作に持ち上げられ、謡丸の身体は男の腕にすっぽりと抱えられていた。

「何をとは? ……騒ぎ立てると皆様に見つかりますぞ」
「葛木殿は儂をさらえと申したのか?! くそ、降ろせ!」
 前言撤回だ。やはり乱破素破の類は得体が知れない。
 怪しげな者に瞬間でも気を許した自分に歯噛みしつつ、謡丸が腕から逃れようともがき立てた時、紺染めの男がゆっくりと口を開いた。
「私が父なら良かったと、先程仰っていたように思いましたが」
 腕の中で暴れる謡丸をものともしないその男のその口調は、媚もへつらいも無くただ淡々としている。
 だが、その黒い眼はどこか悪戯な光を湛えて深く澄んでいた。
「僭越ながら我が息子殿に申し上げる」
 大きな手が、しっかりと抱き上げた謡丸の頭を優しく撫でる。

「うちの女房は、あの娘よりも美人です」



「謡丸ゥゥ……そなたようも抜け抜けと儂の前に顔を出せたなアァ」
「御館さま! お待ちください!!」
「謡丸様、早うお謝りなされ!」
 今までどこに居たのか、謡丸が中庭へ現れた。
 周囲の騒ぎを一向に気にする様子も無く、家臣たちが口々に誡める中を堂々とした足取りで、謡丸は祖父の前へと歩み進む。
「そこへなおれ謡丸! その首叩っ斬って――」
「お爺様、此度の一件、全て謡丸が悪うござりました。お怒りごもっとも。ですがどうぞ平にご容赦を」
 そして、丁寧にぺこりと頭を下げた。
「――…………どうした、お前らしくもない……。やけに殊勝ではないか」
「それは悪かったと思っているからで」
 怪訝そうな祖父の言葉に、伏せていた顔を上げて見せた笑みは、すこぶる明るい。
「こういう時は建前だけでも謝っておけば何とかなると言われたからなどでは、決して」
「この悪ガキが!! ……と」
 怒り心頭の祖父を物ともせず、喜色満面の笑みを浮かべた謡丸が後ろ手に持ったものに気付き、絢孝は眉をひそめた。
「待て謡丸。そなた、何を隠し持っておる」
 若様然とした佇まいで庭に立つ謡丸が持っているのは、どことなく古ぼけた白布だ。またろくでもない事を企んでいるのではと眉を怒らせて牽制した祖父に対し、謡丸は満ちた笑顔でそれを広げて大きく見せた。
「つい先程、貰いました」
「……赤子の産着?」
「はい。手紙の代わりに預かって来たとか」
 使い込まれた感じは一切無いが、その産着は少々古びて見えた。何故そんなものをと鋭利な目線で意味を問うた祖父に、謡丸は重ねて笑う。
「子供は、余計な心配をしなくてよいそうで」
「……よく分からんが」
「はい」
 嬉しそうに笑んでみせる今の謡丸は、普段の小憎たらしさは成りを潜めて年相応に見える。
 普段は滅多に見せない、珍しいその素直さにつられて絢孝も笑い、周囲の家臣も穏やかに笑んだ。

「ところでお爺様」
「何じゃ」
「地獄へ茶碗は持って行かれませんぞ。古茶碗ごとき、さっさと諦めなされ」
「このクソガキがぁあああ!!」



「……元気だったと、伝えて良さそうだな」
 騒ぎを他所に、屋根の上で紺染めの男――九郎が静かに笑んで小さく呟く。
 見下ろした先、風流の粋を凝らした典雅な庭では、祖父と孫との追いかけっこが始まっていた。




追章 謡丸 ―― 終

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