周り巡る連月
(つらなづき)  追章(4)――菊、そして



 母からは常日頃、女らしくしろと言われている。
 やれ髪を伸ばせ、女物を着ろ、顔に傷を作るな、喧嘩を無駄に売るな、売られたからと言って全部買うな、殴るな、蹴るな、家の中を走るな、屋根の上も走るな――……上げていけば枚挙には暇
(いとま)が無い。
 それは物心付いた頃からずっとそうで、今もそうだ。
 ――だが。

「――……でも、母上は私に剣を握るなとは、言わないな」
「なあに、急に」
 一ヶ谷の里、葛木屋敷の奥向きの一室。従兄との喧嘩の怪我に薬を塗ってもらった後、母に髪を梳いてもらいながら、菊はボソリと呟いた。
「だってそうだろう? ……女らしくする事と剣を握って修行する事は、全く真逆なのに」
「そう?」
「私はそう思う」
 いくら普段男勝りでも、優しい手指で世話を焼かれる事は嫌いではない。着ている物はいつも通りの白い道着に短く詰めた筒袴と、相変わらず少年のような出で立ちだったが、鏡を前に大人しくちまりと膝を揃えて座り、菊は母親にされるがままだ。
 鏡越しにそっと覗いた母の顔は、夕暮れの柔らかな光を受けてほんのり赤い。穏やかに笑みながら娘の髪を梳く姿はどことなく楽しそうで、嬉しそうで、滑らかに動くその指はとても優しい。
 菊の見た目はこの母譲りだと皆が言うが、自分もいつか大人になったら、この母のように女らしくなれるのだろうか――髪油のかすかな香りに鼻をくすぐられながら、ぼんやりと菊は思う。
「……無理だな!」
「何が?」
 首を傾げる母に何でもないと微笑み返し、菊は母の膝に頭を乗せて寝転んだ。
「あら珍しい」
「小太郎もいないし、たまには」
 照れ隠しも兼ねて母の膝に顔を埋める。
 小太郎が傍にいる時は何となく気恥ずかしくて母親になど甘えられないが、小太郎は今、屋敷内のどこかで下働きの真っ最中だ。仕事を終えた小太郎が日課の如く顔を見せにやって来るまでは、自分も母親に甘えておこうと、菊は母の膝の上に頭を乗せたまま目を閉じる。

「……ねえ菊、そろそろ髪を伸ばさない?」
 母が、内緒話のように小さく呟いた。
 菊の歳は十を越えたが、未だ髪は肩口辺りの短さだ。この年頃の少女達ならば、皆競うように黒髪を伸ばして髪油をつけて毎日梳かし、朝に夕にと手入れに余念の無いものだが、日々修行に明け暮れる菊にそんな色気は未だ無い。
「長いと修行の邪魔だし面倒くさい」
「もう! またそんな事ばっかり言って!」
 せっかく真っ直ぐで綺麗な黒なのに、と母は続けて大きく溜息を吐いたが、しかしながらその声は愉しげでさえある。
「誰に似たのかしらね」
 答えを分かりきっている優しい指が、菊の短い髪をさらさらと撫でる。


 しばらく無言の穏やかな時間が流れていたが、不意に母親が呟いた。
「……私はね、女でも強く在るべきだって、思うの」
 その声に、膝に頭を乗せたまま顔だけを上向けた菊に対し、母は更に続ける。
「自分の身くらい、自分で守らなきゃ。自分の言いたい事を周囲に聞かせるためには、やっぱり強くなくちゃ。……私はね、強くなかったからちょっと苦労したの。だから私の子供には、何かしら強くなってもらいたかったの。……強いって言うのは、とても凄い事なのよ」
 まさかあなたにこんなにも武芸の才があったとは思わなかったけど、と肩をすくめて付け加えた声に、歯を見せて菊は笑う。娘の屈託無い笑顔につられ、母も笑う。
「大体、護身になる程度で構わないからって言っておいた筈なのに、初めて道場に行かせた次の日にはもう里中からあらゆる武術の先生役が集められてるんですもの。驚いたわよ」
「あ、それよく覚えてるぞ。教えてくれてた高次の目付きが途中からえらく真剣になってって、さすが九郎様のお子だとか葛木の血筋だとか何とかブツブツ言い始めて、そこへたまたま道場に来てた秋津のじい様が鉄は熱いうちに打つのが良いとか言ったもんだから」
「まあねえ、こっちからお願いしたことだし、別に構わないんだけど」
 言葉が区切られ、暖かな手が寝転がったままの菊の頬に添えられる。
「――……菊は、嫌じゃない?」
 滑らかな幼い頬を撫でながらの声音は、娘への気遣いの色を含んでいた。


 娘の身でありながら菊が嫡男と同様の扱いを受ける様になったのは、思えばこの一件がきっかけだった。
 当代頭目夫婦の初子
(ういご)は女であると皆が知った日――菊が生まれた日。
 誰もが、跡継ぎはこの後に生まれてくる男子、もしくは菊の婿になる者だと考えた。皆がそう信じて疑わなかった。女では跡取には成り得ない――両親である九郎や菜津ですら、当初は当然の事としてそう考えていた。
 だが母親である菜津の強い希望で、琴や茶道、お針などの女子向けの手習いと同時に護身の為と剣術や体術を学ばせ始めて以降、思わぬ所で見出された菊の才覚を見た九郎の考えは一変したのだ。
 ――曰く、あれが跡継ぎでも何ら問題は無いだろう、と。

「父上は、今居る若衆の中では私が一番跡継ぎに向いていると言っていた」
 それは忍軍一ヶ谷衆を率いる者としての九郎が下した、至極客観的な菊への評価だ。
「お前が一番、努力する労を惜しまないと」
 小さく呟いた後で、はにかんだように菊は笑う。
「……父上にそう言ってもらえるのは、嬉しい」

 采配を葛木の血族で取り仕切る形で成り立つ一ヶ谷衆だが、そういった評定制を採りつつも、長たる頭目の決定は絶対である。しかしながら、いつもの淡々とした口振りで女子たる菊を自分の後継に定めた九郎に対し、不服と非難は近年まで里の内外から相次いだ。
 忍衆とは、例え頭目と言えどいつ何
時どうなるか分からない、死や危険と隣り合わせの家業である。有事の際に備え、次代を定めておく事は当然であり必然であり、そして重要だ。
 その重要事に納得の行かぬ采配を下した九郎に対し、非難が集中したのは当然とも言えた。

 ――だが、親類縁者から九郎が詰め寄られた際、それらの親戚に口を噤
(つぐ)ませて退かせたのは、菊が見せたひたむきさだった。
 武芸諸事を始めたきっかけは何であれ、父親やごく一部の周囲から向けられた厳かで暖かな期待に応えるべく、菊が行っていた毎日の努力を皆が知ったからだった。
 齢十にも満たない幼い少女が、毎日朝夕小さな手に血豆を作ってまで鍛錬する姿を――自らを高めようと努める真摯な姿を、皆が確かに認めたからだったのだ。

「菊の、好きなようにしなさい」
 若干のため息を含んだような、それでいて嬉しそうな響きをも潜ませたような声で、母が言う。
「あなたなら、皆の期待も自分の望みも全部含めて、きっとやりたいようにやれるでしょうから」
「無論。……私は強くなりたいんだ」
 母の言葉を受け、菊は返す。
「……心も身体も、負けず、屈せず、そして守りたいもの全てを包んでこぼさないくらい、強く」
 膝に頭を乗せて寝転んだまま、天井に拳を突き出して堂々と宣言された言葉は涼やかだ。父親そっくりの強い光を持った――しかし少女特有のしなやかさをも持ち得た瞳が、思わず覗き込んだ母の顔を見据えて鮮やかに笑んでいる。

「私を選んで正解だったと、皆に腹の底から思わせてやる」


「……あなたは本当に父上似ね」
 その声は明るい。
「顔は母上似のはずだぞ」
「私達の子なんだから、両方に似てて当然といえば当然かしら」
 寝転がっていた菊の頭を軽く持ち上げて起こして座らせ、菊の両頬を手の平でそっと挟みながら母は言う。
「ねえ菊」
 囁いた声とその眼差しは、穏やかな幸せに満ち満ちている。

「……今度生まれてくる子は、一体どっちに似てると思う?」



 部屋の外から、小太郎の声が夕暮れの風に乗ってかすかに届いた。
「行ってらっしゃい、ほら、小太郎が探してるわよ」
 菊の短い髪を、その風が軽く揺らす。母の笑顔と小太郎の声が近づいてくる方向とを慌しく交互に見やってせわしく頷いて、嬉しい知らせを持って菊は部屋を飛び出して行った。
 上気した頬に抑え切れなかった満面の笑みを浮かべ、中庭を裸足で賑やかに駆け去って行く愛娘の細い身体の頭上には、緩やかな光を纏った半月が、夕暮れの空に昇りかけている。
「……きれいね」
 それを見上げて胸元にそっと手をやり、菊の母――菜津は、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。その胸元には古びた錦の御守り袋が入っている。――大切な宝物のかけらが、入っている。


 夫が帰ってくるのはもうしばらく先だ。
 宝物が増える事を告げた時、かの人は一体どんな顔をするだろうか。土産を楽しみにしていろと、いつものように簡潔に言い置いて出かけて行った紺染めの背中を思い浮かべ、そっと微笑む。

 遠くに置いてきてしまった宝物と、身体の奥で形を成し始めたばかりの宝物と、――その宝物を与えてくれた、たいせつな人と。
 菊と小太郎の歓声が騒々しく響く夕空の月を見上げ、菜津は満ち足りた気持ちで囁く。
 ――吐息に乗せて、声を届けるかのように。

「……どうか早く、逢えますように」


 夜空を巡るこの月は、きっと皆の処へも連なっているだろうから。






追章 菊、そして ―― 終





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