周り巡る連月
(つらなづき) 追章(1)――こや



 逃げ出したい。
 怖い。
 誰か助けて。

 良しと言うまで出てきてはだめだと小さく叫んだ父と母に、こやが狭苦しい押入れに詰め込まれたのは一体いつだったろうか。
 もうずいぶん前の事の様にも、つい先程だったようにも思える。長いような短いような重苦しい時間の中、声を出さないように両の手の平で自らの口を必死に押さえつけながら、こやは押入れの中でただ一人、ともすれば荒くなりそうな息を殺している。

 誰か、お父ちゃんとお母ちゃんを助けてあげて。
 誰か。
 誰か誰か誰か!

 胸の裡
(うち)で呪文のように繰り返す言葉は声にはならない。涙は涸れる事無く溢れ続け、噛み締めた唇からは細い風のような不規則な吐息が時折掠れながら漏れ出でる。
 熱い涙が目からこぼれて流れていく度、何か大事なものも水分と一緒にどろりと減っていくようで、不安と焦燥がこやの胸の裡を厚く濃く塗り潰していく。

「許してやってくれ……」
 前歯を無残に殴り折られ、鼻を蹴り潰され、それでも懇願をやめない父親の声は、制止を叫び続けた喉の所為か、腫れ上がった容貌の所為か、酷く掠れてくぐもっていた。
 広くも無い家の、一間しかない部屋の片隅。押し入って来た男たちで奇妙な人だかりが出来ているそこへ腕を指を伸ばしながら血交じりの唾を時折飛ばし、それでも父親は必死に懇願を続けている。その懇願は、深夜に見知らぬ男達が押し入ってきてからずっと続いている。
 父親が腕を差し伸ばす先、その人山の元には、確か母親が居たはずだ。蟻が菓子に群がる様に、鳥が撒き餌にたかる様に、急襲してきた男達はあっという間に母親の姿を覆い尽くしてしまった。
 最初は耳を塞いでも聞こえてきていた母親の制止と拒絶の叫びは、いつしか力無い啜り泣きに変わり、今やその人だかりから聞こえてくるのは、男達が時折漏らす獣のような愉悦の呻きと、下卑た響きの笑い声のみだ。時折人だかりの隙間から白い腿や脚の指先が見え隠れする以外、母親の姿は見えてこない。

 男達の会話の内容はこやには分からない。何が起こっているのかも分からない。
 母を呼びながら駆け出して傍へと行きたかったが、罵声を上げながら母親を荒々しく蹂躙している男達の中に割って入る勇気は、幼いこやには到底無い。声が漏れてしまわないように、嗚咽が零れてしまわない様に、小さな手で口をしっかり押さえながら、こやは狭い押入れの中で息を詰めて身を潜める。
 板戸の隙間から漏れ見える光景から目を離せないまま、こやは、密やかな場所でうずくまる。

「……やめてやってくれ……頼むよ、もう、やめてくれ……!」
 見た事の無い男達に土間で踏まれ、蹴られ、子供が蛙をいたぶる時の様な容赦無い暴行を受けながら、それでも父親は家族を守るために必死でもがき、抗っていた。一家の柱である父親の声に、こんなにも涙が混じるのを聞くのは、幼いこやにとって初めての衝撃だった。
「死んじまうよ、それ以上は死んじまう……! 離してやってくれよ……後生だから……!」
 語尾はもう嗚咽が混じって聞き取れない。そんな必死の姿を見下ろしながら、人山から離れた土間に立つ数人の男達は愉悦に満ちた笑みを浮かべている。
「やめてくれだとさ。どうしますかね、頭領」
 抗い、這いずってでも人山に近づこうとしていた父親の腹を大きく蹴り上げ、滲み出た呻き声に被せるようにして、男の一人が嘲笑う。その声に更なる嘲りで返したのは、一人の若い男だった。
「……だったら全部話せってんだよ」
 押入れの中のこやからはその男の顔は見えない。声や細身のその背中から見るにまだ随分と年若いのだろうが、震えた幼い頭ではそこまで考えられない。不思議とよく通る声が、奇妙なざわめきの中でもこやの耳に真っ直ぐ入り込む。
「なあ!」
 その若者が倒れ伏した父親の顔を勢いよく土間へ踏みつけた。鈍い嫌な音がして、こやの父親は一呼吸置いたのちに力無く咳き込んでかすかな呻きを上げる。
「忠義忠節義理立て! そんなのが下っ端にまで行き渡ってるたぁ、一ヶ谷衆ってのは噂通りにご立派だ! だがなァ、そんなクソみたいにつまんねえ義理のお陰で、アンタの女房は大変な目に遭ってんだぜ?」
 そう嘲り、顎で人だかりを示してみせる。
 男達の笑い声と順番を争う喧騒が、一段と声高くなった。
「さっきまでは元気良かったが、見てみろよ。良すぎてもう声も出ないらしい」


 こやたちが住むこの家は、一ヶ谷の里からは外れた場所の竹林に在る。
 こやの友達の多くは一ヶ谷衆と呼ばれる忍軍に属する者達の子供だったが、こやの両親は忍衆ではない。腕の良い竹細工師の父と、こやを身篭るまで里で一番大きなお屋敷で働いていた母と自分との、家族三人の慎ましい暮らしだ。
 ――ざわざわと風に揺れる竹林の葉擦れを聞きながら母の手を握り、家族三人川の字で寝ていた、いつも通りの夜だったのに。
「おれ達は忍衆じゃない……知ってることは全部話したよ、だから頼む、女房を離してやってくれ……!」
「忍衆じゃなくても葛木家に出入りしてたんだろ? だったらもっと話せることがある筈だ。そうだなァ、ほら、当代頭目の――……」

 葛木家。
 ふと耳に飛び込んできた単語に、涙に濡れたこやの目が見開かれた。
 そう、母親がいつも言っていた。葛木のお屋敷の一番上の若様は、とても強くて優しいのだと。こやが生まれる前、道端で急に産気づいて往生していた自分を助けて産婆の元まで運んでくれたのがその若様なのだと、母親は事あるごとに言っていた。お屋敷には他にも強い人たちがたくさんいるのだと、母親は確かに言っていた。
 ――抜け出して、葛木の家に助けを頼もう。きっとその若様なら、お父ちゃんとお母ちゃんを助けてくれる――
 目の前に突如現れたような光明と希望に、こやの喉が小さく鳴る。

 母親には未だ男達が群がっている。
 父親は腫れ上がらせた顔を必死で上向け、さっきの若者と何事か話している。
 男達の誰も、押入れの中に幼い少女がいるなどと気が付いていない。
 今ならば誰にも見咎められない。
 父母を助ける為には自分が頑張らねばいけない。そうだ、早くしないと――

「よし、そんだけ聞けりゃもう十分だ」
 パァンと大きく一つ、手の平を打ち鳴らす音が響いた。途端、こやの母親に群がっていた男達がその獣じみた動きをぴたりと止める。
 人山に加わっていた一人がするりと輪を抜けて若者に近寄り、声を掛けた。
「やあ頭領、どうでしたかね」
「里外れに住んでる奴が知ってる情報なんざこんなもんだろうよ。端っから期待しちゃいねえ」
 父親の頭もとにしゃがみこんでいた若者が立ち上がる。
「さァて、それじゃあそろそろお暇すっかよ」
 部下らしき男に声を掛けられて若者がくるりと振り返ったその時、押入れで息を潜めるこやの眼に、その細面の顔が見えた。

 夜の部屋内の薄暗がりの所為で今まで気が付いていなかったが、若者は僧形だった。
 少年と青年のちょうど狭間に位置するような細身に墨染めの衣を纏い、袈裟を掛け、頭髪を綺麗に剃り落し、薄く沈香すら漂わせながらその者は立っている。
 だが俗世とは無縁である筈の僧姿でありながら、その双眸は邪気に――殺気に満ちていた。
 薄暗がりの中でも炯々とした光を持つ、非道の両眼。
 流れたその視線が、刹那の際
(きわ)に一箇所を射る。
「……っ」
 視線に射竦められ、こやの息が詰まる。
 押入れの木戸の隙間、光が漏れ入るほんの少しの隙間。そんな隙間からでは外からこやの姿は見えない筈なのに、何かを見つけたように若者の両目が音もなく細められた。
「なァんか……小便くせえなあ?」
 僧衣の足が大きく一歩、こやに向かって進み来る。
「ひッ」
 今度は声が漏れ、身体が大きく揺れた。
 慌てて口を押さえたがもう遅い。狭い隙間からでも、その声を耳聡く聞きつけて愉悦に歪んだその若者の顔がよく見えた。
「やめてくれ! もう用は済んだんだろう?! 頼む、もう帰ってくれ!」
 幼い娘を隠した場所へ確実に歩みを進めた若者を見、こやの父親がその僧衣の足に縋り付く。そんな必死の抵抗を煩わしげに蹴り飛ばし、若者は父親の顔に唾を吐いた。
「勝手に動くんじゃねえよ」
 そしてそのまま、こやが隠れていた押入れの戸を勢いよく足で開ける。

「よう嬢ちゃん、こりゃァ夜分遅くに失礼。寝てたかな?」
 声音こそ優しかったが、若者の目元と口元は嗜虐的な笑みに彩られたままだ。ガタガタと震え上がって声すら出ないこやの襟首を乱暴に掴み上げ、部屋の真ん中へと手荷物を放り投げる様に引きずり出す。
「やめ……っ、む、すめに……て、手は……ッ」
「いくらうちの悪食共でも、こんなガキには興味無えだろうから安心しな」
 殴られ蹴られて土間に力無く倒れ伏し、普段の人相とは最早全く違ってしまっている父親の姿がよく見えた。血だらけだった。自分に注がれる多くの視線に蒼白な顔で震えながら更に首を巡らせると、引きずり出されたこやに気付いた母親が、着衣を引き剥がされ凄惨に傷ついた姿ながらも、男達を掻き分けて必死にこちらへ近づこうとしているのが目に入った。
「おかあちゃんっ」
 母の姿を見、堪えていた嗚咽が堰を切り、枯れる事を忘れた涙が更に溢れる。
 母親を求めて幼い手を必死に伸ばす。母も、子に対して必死で指を伸ばす。

 暖かな手の平が恋しかった。数刻前まですぐ傍にあった温もりが恋しくて仕方がなかった。
 抱きつきすがり付いて、その腕の中に包まれたかった。胸に顔を埋め、大声を上げて泣きじゃくりたかった。
 そうすればこの怖い夢から眼が覚めるのだと、こやは信じていた。
「おかあちゃぁ……」
 ――しかし、それが叶う事は無かった。

 まずこやが感じたものは、これから起こる惨状に対する父親の絶叫と制止。
 次に、絶叫の一瞬後に激しく飛んで、こやの顔を大きく濡らした熱い液体の臭い。
「あ……」
 そして最後に幼い瞳が捉えたのは、母の裸の胸から突如生え伸びた、朱にまみれた銀の切っ先。

 母の唇が、娘の名を刻む。
 音は無い。ただその動きだけが、愛しい娘の名前を告げる。
 声の代わりに赤いものだけを口からごぽりと垂れ流し、こやの目前で母親はどうと崩れて倒れ果てた。
「う、わあ……うあ、ああああああああッ!」
 父親が激昂した。
 叫び、結い崩れた髪を振り乱し、凶刃に貫かれた妻の下へと這う様に駆け寄って、狂人の態で泣き喚く。
「あんたたち何なんだよ! 何しやがるんだよ……っ! こんな……こんな……っ」
 血走った眼で周囲を睨む。だが、楽しそうな嘲笑いを頬に貼り付けたまま周囲を取り囲む男達は、そんな威嚇にもお構い無しだ。
 嘲笑の中で父親は狂ったように妻の名を呼び、膝を付き、二度三度と血と汚濁にまみれた身体を揺さぶるが、倒れた妻の目にはもう何も映りそうも無かった。助からない事は、明白だった。
 力無く妻の身体を取り落とし、父親がその場にゆらりと立ち上がった。そのまま手近に立っていた男の一人に叫びながら突進し、その男が携えていた刀を形振り構わずもぎ取って振り回し、そして血泡を吹きながら絶叫した。
「殺してやる!! お前ら、お前ら、みんな俺が殺してゃ……っ」
 しかし言葉尻は途中で無様にかき消えた。
 言葉を告げるべき口が、頭が――否、首の丸ごとが胴から離れ、板間の床の上をてんと転がったからだ。

「……簡単に殺してんじゃねえぞ」
 嗤いながら血振りをして刀を鞘に納めた一人に対し、強い口調で若者が呟く。
「嬲りきって放せ、と言っただろうが。これは一ヶ谷への見せしめだって何回言やァ分かんだよ」
 沸き起こった男達の笑い声に被せるように、僧形の若者が忌々しげに吐き捨てる。
 荒くれ共の集団を完全に御するには、この若者はまだ至っていないらしい。だが、集団の半分程は年若い頭領への侮りを顔に貼り付けたまま互いに顔を見合わせ、軽く肩をすくめただけだったが、それでも幾人かの男達は若者の強い視線から逃げるように目を逸らし、完全に押し黙った。

「――……まあ良い、まだコマはある」
 その若者がこやを見る。
 こやの目前で倒れ伏し、大きな血溜まりを作りながら時折力の無い痙攣を見せる母親と、身体を残して部屋の隅へころころと転がっていった、父親の顔に良く似たモノに呆然としつつ――こやの幼い思考では、何が起きたのか咄嗟に理解が出来なかった――両親の血で全身濡れたこやは、僧形の若者にゆっくり視線を向ける。光を失い始めた少女の瞳と視線を合わせ、若者は嗤った。
「これは一ヶ谷の奴らに、俺らの事を知らせる狼煙だ」
 少女の前に片膝を付き、目を覗き込み、更に続ける。

「泣き喚いて百舌の来襲を声高に叫べ。――葛木の奴らに、道顕が来たと伝えてこい!」



 それからの事は、こやの記憶からすっかり抜け落ちている。
「こんな山奥まで来たのか」
「頭目は内紛で殺されたと聞いたぞ」
「だが遺体の背に……百舌党と読める刀傷が」
「あの子供も、そう言って」
 ふと気付いた時には夜は明けていて、いつの間にか家のあったはずの所は真っ黒に焦げていて、柱の残骸が数本ある以外は殆ど何も残っていなくて、周囲には険しい顔をした大人達がたくさんいて酷く騒がしく、煙と異臭が立ち込め、そしてこやは、こやもよく知っている顔の女――異変を聞いて駆けつけてきた彦左の母親にしっかりと抱きしめられていた。
「あんただけでも助かって良かった……さあ、おばちゃんのお家においで」
 そう早口で呟く声は震えており、子供の目から見ても顔色は蒼白だった。

 どうしておばちゃんは泣いてるの? ――小さな口で疑問を呟く。
 何事かを検分する、険しい顔をした大人達の視線の幾つかがこやを向く。彼らのその足元には、異変と騒ぎとに気付いた里の皆が来るまで、家の庭に竹槍で串刺されて放置されていた両親の死体が、二人分としては酷く不自然な形と数とで、筵
(むしろ)に覆われながらもそっと置かれていた。
 ああ、そうか。――幼い声で自答する。
「おかあちゃんたち、ころされちゃったんだもんねえ?」
 彦左の母親はそれには答えず、抱いた腕に力を込めて足早に走り出した。



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