周り巡る連月
(つらなづき) (10)


 濃紺の袖が視界一杯に広がり、抱き上げられたと感じた次の瞬間、菜津はもう茶室の外にいた。――否、どこをどう駆け上がったのか、茶室の屋根の上にいた。
 その眼下では、道顕の配下と紺染めの集団が未だ闘争を繰り広げている。

「……頃合だ、合図を送れ。一旦退くぞ」
「ハイっ」
「はーい!」
 屋根の上で突如響いた幼い声に菜津が振り返ると同時、中空に鷹の様な猛禽の鋭いさえずりが一閃した。
 少年が巧みに啼かせたその音の出所は笛だ。屋根の上だというのに平地に立つのと何ら変わり無い少年の傍らには、やはり同じように平然と少女が立っている。
「こや! ……彦左まで?!」
「お方さまぁ!」
 九郎に抱かれたまま声を上げた菜津を見やり、こやが身軽に駆け寄った。
「怖い思いさせてごめんなさい。ホントはあの時、こやもついて行きたかったんですけど、無理についてって計画が」
「ああああなた、なんでこんな所に?! じゃあそう言えばさっき庭にいたのも見間違いじゃなくてやっぱり」
「こやですっ」
「危ないじゃないの!!」
 九郎に抱き上げられたまま、何かあったらどうするのと青くなりながら説教し始めた菜津に、笛を懐にしまった彦左が曖昧に笑う。
「あー……コイツはいざとなったらオレよか数倍強いんで」
「ねー」
 こやは得意満面だ。
「つ、強いってそんな、あなた小さいのに何を」
「得物は針ですっ! 目潰しとかとくいですよっ!」

 ――目潰し。
 幼い少女の愛らしい口調で言われたえげつない単語に、菜津は絶句した。


「話は後だ、行くぞ。――菜津、舌を噛まないように気をつけろ」
 言って九郎が菜津を抱えたまま屋根から飛び降り、子供達も急いでそれに倣う。
 そしてそれを追う様に、本堂の方角から何やら奇妙な色合いの煙が上がり始めた。不自然な色の煙はあっという間に緋色のものを孕み始め、時折何かが破裂するような音さえ聞こえている。乱戦陣中の道顕配下から驚愕とも取れる声が上がり始めた。
「焦げ臭い……って、火事?!」
「喋ってると噛むぞ」
 菜津を腕に抱えたまま山寺の境内を駆ける九郎の背後、乱闘から抜け出たのか続々と紺染めの集団が集まって来ている。その数は十名程度だったが、中には菜津が見知った顔が多くあった。今日に限って顔を見なかった、彦左の父親である門番の顔もそこにある。
 ……なるほど、此処に来ていたからこそ今日は門に立っていなかったのかと、菜津は混乱しつつも内心で納得する。
 九郎に付き従って駆けるのは皆、一ヶ谷の里に住まう者達だった。
 乱闘の後である。怪我を負っている者も少なくない。――だが、何故か皆一様に笑顔だ。
「……?」
 衆目の前で子供の様に抱き運ばれて恥ずかしくもあったが、菜津の今の格好を笑っている訳では無さそうだ。そのやけに好意的な笑顔に釈然としないものを感じつつも、菜津はどうしようもなくただ九郎に運ばれるままである。

「――どうした」
 不意に、九郎と間近で目が合った。
「……何でもありません」
 俯き、呟く。
 遠く背後の本堂は今や全てが緋色に染まり、異常な速さで山火事の域へと達している。仕掛けられた火に油か薬かの混ぜ物が仕込まれていたのだろう。
 怒号は背後で以前続いていたが、菜津や九郎達を追いかけて来ている道顕や配下達の姿は無い。恐らくは、凄まじい勢いで周辺を侵蝕し舐め上げていく炎を消す事に専念しているに違いない。
「詳しい説明は後で充分してやる。今は大人しくしていろ」
「はい……」
 向けられた視線の揺らぎを不安と捉えたのか、九郎の言音は優しかった。
 そのまますぐに前を向いてしまったので会話はそこで途絶えたが、無表情で素っ気無い様に見えても、九郎が充分に優しい事を菜津はもう知っている。

(――菜津は俺が貰う!)

 不意に、さっきの一言が脳裏に蘇った。
 先程のあれは一体どこまでが九郎の本音だったのだろう。訊けば教えてもらえるのだろうか。……それが出来ない代わりに、菜津は九郎の胸元に顔を埋める。
 紺の長羽織越しに額を押し当てた暖かな懐からは、微かに火薬の匂いがした。しかし薄く伸ばされた鋼の板が入れられたその胸元は固く、体温は伝わるのに九郎の鼓動は聞こえてこない。
 身体は間近く触れ合っているのに、心の距離が分からない。
「……固いですね」
「ん?」
「色々入ってるんですよね、懐に」
「よく知ってるな」
 菜津を抱えて山道を疾走しつつも九郎の言葉に息切れは無い。感心した様に呟かれたそれに、菜津は少しだけ笑んで返す。
「妻ですから。……今だけでも」

 その言葉に、返事は無かった。


「御頭!」
 濛々たる黒煙を尻目に山道を疾走する一行の背後から、一頭の馬が追い縋って駆け寄った。その馬に乗っているのは道顕と斬り結んでいた筈の高次だ。
「今日こそは仕留めたか?」
「……面目ございません」
「お前のように真面目な奴には、奸智の輩は荷が重かろう。気にするな」
 疾走を止め、意地悪げな笑み混じりの九郎の言葉に、馬上の高次が歯噛みして返す。大怪我と呼べるような傷こそ無いが、それでも悔しげな声音とあちこち切り裂けて血が滲んでいる姿からして、道顕との斬り合いに決着はついていないのだろう。
 口惜しさをひとまず置いて素早く下馬し、高次は立ち止まった九郎に駆け寄った。
「火計の細作、首尾は上々の様です。一ヶ谷衆に逃げ遅れた者は居りません」
「こちらもご覧の通りだ」
 獲物を自慢するかのように九郎が菜津を高々と持ち上げる。
「それは何より」
 頬を染めて九郎の腕から降りようともがく菜津には一切構わず、生真面目にひとつ頷いて高次は続ける。
「道顕は手下をかなりの数引き連れて来ている様です。茅野に潜んでいた残りの者共も此方に向かったとの報せが入っておりますし……時間的にそれらもそろそろ着く頃合かと」
「百舌党か、昨日潰した連中と合わせると結構な数だな。……菜津が屋敷から出て来なかった時は、そのまま一ヶ谷へ攻め入る心算だったんだろう」
 普段笑う事の少ない九郎の唇が、好戦的に吊り上がった。菜津をすとんと山道に下ろし、いつの間に合流していたのか、周囲で膝を付いて居並び控えた一ヶ谷衆へ下知を発する。

「予定通りここに陣を張る」
 一旦退く形で山道を駆け抜けてきた九郎たちは、山寺のちょうど向かい側、緩い起伏の山中に迫り出した崖上に立っている。軽く見下ろした眼下では、緋色の炎を巻き上げて山寺が燃えていた。
「菜津はここにいろ。子供もここで待機だ。どのみち奴等はこんな火など気にもせんだろう、暫しの足止めにしかならん。……日が落ちる前に片をつけるぞ」
 良く通る声が低く響く。

「一ヶ谷の、忍軍たる所以を見せてやれ」


「――二番隊、茅野から来る残党の足止めをしろ」
 その声に十数名ほどが一斉に崖側から駆け降りた。
 父者、と小さく響いた声は彦左のものだ。彦左の父親も二番隊に含まれていたのだろう。九郎の声が響くや否やで駆けて行った者達は誰一人として振り返らなかったが、それらの背中を見送った彦左の瞳は誇らしげな光に充ちている。
「三番隊と四番隊は寺にいる者共の殲滅。手加減するな」
 最初の時と同様、濃紺の装束達が流れる様に崖を下っていく。下りながら抜刀し、または各自の得物を解き放ち、その姿達はあっという間に消えて行った。
「火縄隊は三番四番の援護。樹上から寺を囲め」
 数人が鉄砲を担いで立ち上がる。火縄隊と呼ばれた皆が無言で粛然としている中、それでも余裕の笑みを浮かべて菜津に頭を下げたのは変わった形の頭巾を被った老人――顔面の抉れたあの翁だ。年齢を感じさせず身軽に飛び降りたその翁を筆頭に、全員が崖から飛ぶように駆け降りていく。

 ――崖上に残ったのは九郎と高次、菜津、子供二人、そして後は十にも満たない少数だ。その少数の中には、菜津が屋敷前の道で出会った、秋津と呼ばれていた壮年の男も含まれていた。 秋津は引き攣れた刀創が大きく走る顔を動かすも事無く、ただ泰然と押し黙ったまま立っている。

「彦左、こや、お前らは菜津を守れ。ここから動くな」
 九郎の声に子供二人はこくりと頷き、菜津の側に駆け寄った。それを視線の端だけで見やり、九郎が己の側役へ呟く。
「高次」
「心得ております」
 そして主従二人が振り返る。
 子供があっと叫ぶのと、菜津がそれに気がついたのは、同時だった。

「……一番隊は残してたか、用心深ェな」

 一同の背後、崖に続く道から、墨染めの衣が姿を現した。


「よう葛木、さっきはロクに挨拶も無かったんでな、わざわざ来てやったぜ」
「……不要の気遣い感謝する、とでも言えば満足か?」
 場の空気が瞬時に張り詰める。
 九郎の皮肉を受け流して嗤う道顕が連れた配下は僅かに五名。そのどれもが相当の手練である事は目付きや身のこなしからも明らかだったが、それでも敵陣に乗り込むには少なすぎる。
 しかしそんな事には無頓着な風に、道顕は唇を吊り上げた。
「さっきお前ん所の飼い犬に袖を持って行かれたぞ。この落とし前はどうしてくれんだァ?」
 ひけらかすようにかざした僧衣の左袖、その豊かな袂が大きく切り裂けている。先程の乱戦で高次とやり合った時に斬られたのだろうが、あちこち切り裂けて血を滲ませた高次とは対照的に、破れた袖以外の目立った傷は道顕には見当たらない。黙ってさえいれば学僧で十分通る細面に狡猾な笑みを浮かべ、更に続ける。
「まあ、その女を置いてくってんなら、見逃してやってもいいがな」
「笑止」
 その戯言を九郎の声が一喝した。
「我ら一ヶ谷衆、貴様ら如きに遅れは取らん。――女房も渡さない」
 凛然とした物言いが鼻についたのか、道顕の顔が嫌悪に歪む。
「――侍崩れの乱破風情が粋がりやがって」
「夜盗上がりの似非坊主がよく言うものだ」
 両者は距離を置いて向かい合い、対峙し、そして睨み合う。

 だが、その均衡は道顕が不意に見せた笑みで不自然に途切れた。
「はッ」
 九郎達の背に守られていた菜津を視線で舐め上げて、道顕は微笑む。
「男の上で浅ましく腰を振る女が、頭目様の女房かよ」
 言葉に毒があるならば正にそれがそうだった。その場にいた者全員に聞かせるように、道顕は声を張り上げる。
「一ヶ谷の御頭つっても大概だな。殿様のお古はそんなに具合が良かったか? そりゃそうだろうな、そいつは毎日毎晩抱かれて弄られて啼かされて、しまいにゃ男の指だけでイっちまう位に馴らされた女だしなァ!」
 それだけ敏感ならばさぞ良かろうと高らかに嗤う道顕に合わせ、連れた配下が菜津を見て薄暗い笑みを浮かべる。
 その獣欲混じりの視線と明らかな悪意に、菜津の顔から血の気が引いた。
 やめてと制止する細い声は吐息として喉を通っただけで音にならない。あまりの悪意に膝が震えて吐き気がした。
 ――道顕は更に高らかに言い告げる。

「男を嫌がってたのは最初だけだったぜ。その内に自分から咥えこんで離さないくらいの淫乱に成り果てて、よがって泣いて悦んでたからなァ? 毎晩屋敷中に喘ぎが響いて、聞かされてるこっちとしてはたまったもんじゃ無かったって話よ」
「……て」
「元々素質があったのが、勝島にさんざん嬲られて開花しちまったって所か? あのオヤジ、そういうのは上手いようだからな」
「やめ……っ、やめて!」
 駆け出そうとする菜津を大きな手が引き留めた。もがいて抗うが、両肩を掴んだその手は全く揺るがない。……それは秋津だった。
「離して下さい! ……やめて! 黙りなさい!」
「……」
 強い力で菜津を引き留めるその手は、強くはあったが荒さは無い。秋津はただ黙って菜津を抑えるのみだ。
「お願い……聞かないで……!」

 勝島に毎日のように抱かれていたのは紛れも無い事実である。九郎もその事は知っている。――しかし、念押しのようなそんな事を誰が聞かせたいだろうか。

「流石はお菜津さま、勝島の殿の次は一ヶ谷の若様をご篭絡で。ってェ事は勝島邸での泣きも初心さも、ありゃあひょっとしたら取り入る為の演技ですかね? そういう見事な手練手管でいらっしゃるなら、坊ちゃん育ちのそちらさんを騙すのなんざ、さぞ楽チンだったでしょうな」
 嘲りは尚続く。
「――ちょっと喘いで泣いてみせれば、大喜びで女房呼ばわりだ」

 道顕の愉悦と笑みは深い。
 その愉悦に対し、羞恥と共に怒りが菜津の身の裡にはあった。菜津ではなく九郎を煽る為の嘲りだと分かってはいても、道顕は今、菜津を通して九郎を嘲っている。
 ――妾を下げ渡され、それを諾々と受け入れて女房と呼んでいる九郎を。
 その『女房』を、郎党を引き連れてわざわざ救いに来た男を。
 菜津が秋津の手を渾身の力で振り解く。何が出来る訳でも無いが、せめて一矢なりともと駆け出しかけ――

「……貴様は丸太を抱いて楽しいのか?」

 しかしその足は、心底不思議そうな九郎の声で立ち止まった。

「貴様の話を聞いていると、喘がず乱れずの木仏や石像を抱くのが至上であると聞こえてくるな。俺は、硬い生娘を苦労して解すよりも最初から感度が良い方が有り難い」
 真っ直ぐ道顕を見据える九郎の声は至って真面目だ。高次が小さく溜め息をついていたが、それは全く無視で更に続ける。
「菜津」
 名を呼ぶ。
 九郎の背後で立ち止まった菜津がびくりと肩を震わせたと同時、振り向いてしっかり目を見て呟いた。

「近いうちに俺の上にも乗ってくれ」

 高次の深い嘆息と、秋津の意外な大爆笑が響き、菜津の頬は道顕に対する怒りとは別の感情で真紅に染まり上がる。
「こっ、こど、子供もいるところでな、何をっ」
「それならエセ坊主の戯言が始まった時点で耳を塞がせたから気にするな」
 真っ直ぐな指で示されて震えながら振り返ったそこには、自主的に耳を塞いで立っているこやと彦左の姿があった。話の進行を知ってか知らずか、きょとんとした顔で二人とも菜津を見ている。
「そんな、でも、あの、ええええ?!」
「よし約束だ」
 勝手に話を切り上げて、九郎は道顕に向き直った。


「……死なすぞ葛木」
「貴様が死ね」

 和んだ空気が瞬時にまた張り詰める。
 両者は瞬間だけ睨み合い、すぐさま互いに背を向けた。そして其々の腹心へ命を下す。

「攻撃だ」
「迎え撃て」
 濃紺の忍装束と墨染めの僧衣から響いた声は、重く低い。

「一人も逃すな」
「晒し首すら生ぬるい」
 奇しくも二人、声が揃う。


「――骨も残さず潰して殺せ」


 銃声が、遠くで鳴った。



BACK│ INDEX │NEXT