紫雲、たなびく (9)


 駆け寄って助け起こした小太郎が、ひどく傷だらけになりつつも半泣きの声で菊の名を呼んだ事に安堵したのも束の間。
 山道に突如響いた狂気の咆哮に驚愕した菊が見たものは、恋い慕った筈の小春の首を締め上げる本間の姿だった。

 嘘のような悪夢のようなコマ送りでそれは菊の目に飛び込んでくる。
 先程菊が折った右手の所為で充分な力は伝わっていないようだが、小春の細い首筋にめり込もうとする本間の指先は殺意に充分な力が満ちている。
 その姿に、制止の叫びを上げる自分の声を聞きながら菊は走る。
 走りながら胸元を探り、棒手裏剣を本間の背へと投げ放つが何かが完全に麻痺した本間にとっては大した抑止に繋がらない。元々こんな戦闘を想定して屋敷から出てきた訳では無いのだ。今ので手元の武器は底が尽いた。
 どうする。どうすればいい。
 己の力量不足など認めたくもない。でもどうしようもない。
「小春どのを放せ!」
 鋭く叫んで肩から特攻するが、菊程度がぶつかった所で本間の手は小春の首から揺るがない。本間の腕に爪を突き立て、噛み付く勢いで何とかして小春を引き離そうと菊はもがくが、呻き散らす本間の声は最早人外じみて人と呼べる範疇を大きく越えている。痛みも、己が何をしているのかすらも、とっくに認識できなくなっているのだろう。

 動けない小太郎が背後から何か叫んでいる。
 小春を何とかして助けなければ。
 菊は必死に足掻く。

 自負も自信もあった。通う道場では常勝ばかりだった。
 しかし同じ年頃の子供相手に得た勝利など、実戦に於いては無意味だったのだ。
「小春……どのっ」
 本間の腕は揺るがない。小春の苦悶の喘ぎはどんどんか細くなっていく。
 菊の背を冷たい汗が伝って落ちた。
「放せ……!」
 今までの努力は何だったのか。守りたい人を守る力を得るための努力だった筈なのに。
 それなのに何故自分の手はこんなにも小さくて力無いのか……!

 身を震わせた本間が大きく覆い被さってきて、焦燥に歪む菊の視界が急に暗くなる。
 そのまま本間の身体が大きくわななく。
 焦りと憤りと悔しさとが、菊の身の内を駆け巡る。


「うわあああ師匠――!!」


 ――小太郎の声がようやく鮮明に聞こえ、その姿に菊が気づいたのは。
 粛清が終わった直後だった。



「間に合った……」
 脱力してぺたりと地面に尻餅をついた菊が聴いたのは、焦りと感情の揺れとを多く含んだ、今まで耳にした事の無いような高次の声だ。
 突きたてていた刃を一度大きくひねって本間の背中から引き抜くと、もはや物言わなくなった狂人の身体を横に投げやって、本間の血に濡れた自分の刀を地面に突き刺しながら、高次本人もがくりと膝を付く。

「間に合わぬかと……思いました……。菊様たちが居て下さって本当に良かった……」

 荒く短い吐息の合間、高次が小さく呟いた。
 虎御前くらいの小柄な馬であれば問題ないが、悪路極まりないこの山道で疾走するには高次の愛馬は大柄すぎたのだ。人の足で走った方が速いと判じ、途中で乗り捨てて自ら駆けてきたのだろう。見渡すと道の向こう、途中で乗り捨てたらしい高次の乗騎が木の根だらけの地面に難儀するように地面に蹄を蹴立てながらやってくるのが見えた。
「高……次……?」
 半ば呆然の態で菊が呟く。
「後手に、回りました……。旅籠の者達の証言が皆バラバラで……」
 突如降って湧いた刃傷沙汰で大混乱に陥っていた旅籠周辺で、随分と足止めを喰らったのだと荒い息で高次が呟く。
 そしてひとつ大きく息を吐き、小春を見た。

「小春殿」
 膝を進め、地面に倒れこんで咳き込む小春の細い肩と背を抱き起こす。
「……今度こそ、もう大丈夫です。賊はこの手で討ちました」
 そしてそのまま腕の中に深く抱き込んで頭を撫でた。
「高、次……さま?」
「はい」
 応えた声は穏やかだ。普段感情を見せないこの男が、今は素直に安堵を見せている。

 殺されかけて、それでも助けられた事実と、地面に伏したまま動かなくなった本間。そして突如現れて抱きしめられた事。
 ――……不意をつく高次の行動の総てに呆然とした頭で、小春は呟く。
「わ、私……、また皆さんに……ご迷惑を」
「そんな事は気にしなくて宜しい。……無事で何より」
「こっ、小太郎ちゃんは?! 小太郎ちゃんが私を庇って……っ」
「俺、はっ、けっこー平気、ですっ」
「小太郎……! お前よく頑張ったな! えらかったぞ!!」
 あからさまに我慢をしている顔ながら一人前に強がってみせる小太郎を、我に返った菊が全力で抱きしめた。
「菊っ、俺っ」
「ああもういいぞ泣け! 許す!」
「うわ――痛かったー!!」

 途端に怖かった死ぬかと思ったと小太郎が鼻水混じりに泣き喚き始め、日の暮れた薄闇の中に先程までとは違った大声が木霊する。
 ほとんど獣と化した狂人相手の立ち回りは相当堪えたのだろう。近頃に無い大仰さでわんわんと響いた泣き声に、今まで争いを避けて道端にいた虎御前が心配そうに鼻面をすり寄せてきて、急いで連れて帰るから二人とも早く乗れと言うかのように菊の袖を銜えて引いた。

 その様子に高次が大きく笑う。
 滅多に聞く事の出来ないその笑い声に驚いて泣き止んだ小太郎と菊とが目を瞬く中、赤面して硬直した小春を両腕に軽々と抱えて高次は立ち上がり、落ち着いた声で高らかに告げた。
「久々に気が抜けました。今なら素直に話が出来ます」
 そして、続ける。

「一ヶ谷へ戻りましょう。――貴方に言わなければならない言葉が、山程ある」


 



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