紫雲、たなびく (8) 主人である少女の怒りが通じたのか、乗騎のその馬――虎御前が威嚇のように大きく一つ嘶いた。 菊と小太郎がその背からひらりと身軽に飛び降りた後も、良く慣らされた軍馬の如くに幼い主達を庇うよう寄り添って、本間に向かって太い蹄を踏み鳴らす。 夕暮れの山道。 対して広くもないそこで、倒れた小春を抱きしめて離さない本間と怒り心頭の菊は対峙した。 巻き添えにならぬ様に虎御前は道の端にやり、本間を眼光鋭く睨みつけたまま菊は隣に並び立つ小太郎に小さく口を開く。 (――小太郎、お前は隙を見て小春どのを奪ってこい) (分かった。けど、菊は?) (あいつを仕留めないと気が済まん……!) 牙を剥くような気迫で前方の侍を睨みつける菊からは、少女の幼さは感じられない。遠慮も何も必要としない掛け値無しの『敵』を見据えるその眼光は、忍軍を束ねるべく育てられた次代の主のそれである。 自分が一番頼りにする少女の強い声を受け、小太郎は硬く頷く。 手加減など必要ない。 情けをかける必要すらない。 半狂乱に陥った大人――しかも抜き身の刀を持った侍が相手なら、これは先程本間に述べたように獣を仕留める狩りと同義である。小春を奪還し、闇雲に襲い掛かってくるであろうケモノの息の根を止めればそれで終了だ。 猛る戦意とは裏腹に冷えていく脳裏で冷静に相手を眺めながら、菊は担いでいた竹刀を抜いて腰を落として構え持つ。 一歩間違えば死に直結するような状況で刃を交えるのは、菊にとってこれが初めてである。自身が構えた竹製の刀身に刃が無い事が少々悔やまれたが、鍛えても肉が付き難く未だ細い腕で振り回すにはこれくらいが丁度いいだろう。 初陣での得物として派手さは欠けるが、勝つ為になら悪くはない。 すぐ隣には普段の修行通りの型で懐に手を入れて構え立つ小太郎がいる。しかしその顔には眼前の狂人に対する少々の怯えが見える。こんな状態では充分な戦力にはならないだろうが、痩せ我慢してでも隣に居てくれているというただそれだけで心強いと感じ、菊は満ちた気分で薄く笑った。 「小娘ェッ! 何がおかしいッ!」 本間の叫びに無視をして、子供二人が頷きあう。 「――往くぞ!」 「はいっ!」 菊の号令に合わせ、懐から素早く伸びた小太郎の手から苦無が飛んだ。 苦無は元々地面や壁を穿つ為の道具であり、敵を切り裂けるような鋭い刃はついていない。しかしその分多少なりとも重量がある。 子供の力で放ったとは言え重みのお陰で思わぬ速さで眼前に飛来した苦無に驚愕した本間は、それでも思いの外敏捷な動きでそれを叩き落した。 「ぐ……っ!」 子供だからと油断した己に気を引き締め、粛清の一撃を喰らわさんが為に両手で刀を構え直して一歩を駆け出す。 しかし苦無が飛んできた先――そこには既に誰も居ない。 「?! 消え」 飛び道具を叩き落してほんの数瞬の間である。血走った眼を見開き、口を開きかけ、 「――ッ!!」 本間は、右手首が千切れて落ちたかと思う程の衝撃をその身に受けた。 「――まず先制を獲る。狙えるならば一撃で仕留め、無理ならば武器を奪う」 夕日の消えかけた山道に少女の声が響く。 それと同時、筒袴から伸びた細い脚が地に落ちた本間の刀を無感動に崖下の林間に蹴りやった。鈍色の刃は音もなく弧を描いて、手の届かない木々の隙間に吸い込まれていく。 「武器を奪う事は相手の戦意を殺ぐ事と同義。その段階での力差を推し測りつつ、身は風上を取るべし――」 倒れ伏した小春と地に膝を付いてその肩を抱える小太郎とを背後に庇い、菊は緩やかに竹刀を構え直す。 「刃は交えるのではなく受け流すべし。動きは止めず、奔流には逆らわず」 小春を奪われたと認識した本間が菊たちに突っ込んできた。菊の初撃で折れたらしい右手はだらりと下げたまま、まだ生きている左手を突き出して菊の細い首を圧し折ろうと山間を迫りくるが、菊は背に二人を庇ったまま微動だにしない。 狂ったような怒号が山間に鳴り響く中、菊の呟きと動きは静かに流れる。 「――――間隙を衝け」 それは、殺意に満ちた怨嗟が木霊する中には場違いな程の静謐。 少女の突き放った一撃は、鮮やかに狂人の腹を刺した。 「……よし、初陣でコレなら高次も文句あるまい」 苦悶と叫喚と共に胃の中身をぶちまけながら地に失神した本間を眺め、初陣を鮮やかに終えた菊がやや上気した面持ちで呟いた。やや離れた箇所から主の勝利を祝うかのような虎御前の嘶きが聞こえ、その声に菊は竹刀を担いで満面の笑みを向ける。 少女の細い腕で如何に勝つか――それは師である高次が菊にいつも言う事だ。 純然たる『力』で男に劣ってしまう事とそれを認めて克服する事は、菊が女で在る以上避けられない命題である。 受けずに流す事、先手を取る事、過たず狙い定める事、 最小の手数で仕留める事―― 何だかんだでも高次の教えを忠実に守った自分に苦笑しつつ、菊は勝利に充足して息を吐いた。 菊の足元で動かなくなりながら、それでも時折別の生き物のような痙攣を見せる本間に少々おののきつつも、小太郎が菊を呼ぶ。 「き、菊っ! 小春さん起きたー!」 「……ぁ、う……」 ぼんやりと霞む思考を手繰り寄せるように瞬きし、小春が地面に腕をついて身を起こす。それを見やって菊が小走りに駆け寄った。 「小春どの、大丈夫か」 「うわっ足からいっぱい血ィ出てる! 小春さん大丈夫?!」 「……菊……様……、小太郎、ちゃん……? どうし……て……」 声は途切れ途切れだったが意識はしっかり戻ったようだ。安堵し、菊はその場にしゃがみこんで、懐から手拭いと貝殻に入れられた傷薬を取り出した。 そして安心させるかのように小春に向かって軽く笑んでやる。 「流石に本気で駆けてった“アレ”には虎御前ではちょっと追いつかなくって、だったら先回りしようと思って小山を抜けてたら、その途中でうちの屋敷によく来る、村の顔役に会ってな」 一ヶ谷の里の主家である葛木家は、幕府や諸藩からの隠れ蓑として表向きは周囲一帯の地主を兼ねた豪農を装っており、周囲の農村とも深く交流がある。葛木家が忍軍の頭目である事は戦国の世の当時から周囲の暗黙の了解となっており、夜盗や野伏が出た等の火急の際にはその武力を頼って近隣の住民が頭を下げにやってくるのだ。 手際よく布を裂いて薬を塗りこみ、丁寧に小春の足に巻きつけてやる菊のその隣で、手当を手伝いながら小太郎もこくこくと頷く。 「なんか頭おかしい侍が暴れてて大変だから退治してくれって言ってて、これひょっとしたらって急いで走って来たら、小春さんがコイツといたから俺本気で驚いた。……大丈夫?」 心配そうに小春の顔を覗き込み、小太郎が手を伸ばす。そしていつも菊にされているように小春の頭を真摯な顔で撫で始めた。 「でももう怖くないから。菊も俺もいるから、もう平気」 優しく頭を撫でるその仕草は、いつも小太郎が菊から受けているものなのだろう。 手当てと慰撫と、二つの小さな手から優しいぬくもりを受けて、泥と涙とで汚れた小春の顔にかすかながらも笑みが戻った。 「ありがとう……二人とも……」 心の底から安堵し、微笑み、二人の子供に笑顔を向ける。 そして二人の背後にそれを見た。 常人ならぬ奇妙な動きで立ち上がってこちらへ向かい来る、本間の姿を。 「ゴは、ルゥう……ゥッ!!」 初陣の勝利と小春の無事に油断したのか、あの男はもう仕留めたものと思い込んでいた菊の反応は常よりも数拍遅れたものだった。 舌打ちする余裕もなく菊が脇に置いた竹刀に腕を伸ばした時、本間はもうあと一歩で憎い菊と愛しい小春に手が届く所まで肉薄していた。 手負いの筈であるのに恐ろしく俊敏な動き。 執念と妄執の権化が血泡を吹きながら殺意を込めて指を伸ばす。 菊は間に合わない。 小太郎は、ためらわなかった。 「この……っ!」 本間の脚に迷わず飛びつく。 まさか足元から伏兵が来ると思っていなかった本間がもんどりうって転がり、それに巻き込まれる形で小太郎が大きく潰された。 「……っ!」 邪魔者である菊の細首を圧し折ろうと突き伸ばされた腕が大きく空回る。 「小太郎ッ!!」 げくっ、と蛙が潰れた時のような酷く嫌な音がして菊が青ざめ叫んだが、子供を一人巻き込んでおきながらも本間は尚も小春に執念を向けて動いている。 だがその時、潰された小太郎の姿に先程白刃に対峙した際には決して無かった狼狽を表した菊は、瞬間凍って固まるという失態を見せた。 「コばル、コハ…ルゥっ」 その隙に立ち上がった本間が尚も小春に近づこうと足掻いてもがく。しかし、潰されつつもその足元に未だかじりついて離れない小太郎に気が付いて大きく吠えた。 「あああぁァア!!!」 小さな身体を蹴り潰そうと足を振り上げる。 硬直から解けた菊が動くが間に合わない。小太郎の小さな身体に容赦無い一撃が向かい――途端、小春が飛び出した。 「ダメ―――!」 小太郎が投げて本間が打ち落とした苦無を掴んで拾い上げ、何とか動きを封じようと本間の腰に全力で突きたてる。 元々苦無は武器では無い。前述したように穴を開けるための鉄べらの様な道具なのだ。しかし渾身の力を込めて突けば、女の手であっても充分に殺傷能力を持つ。 意表をつかれた激痛で刹那動きの止まった本間の身体を、小春は小太郎から引き離して渾身の力で押しやった。 「逃げて! 早く!」 本間の目にはもう小春の姿すら映らないようだった。己が身に突き立てられた苦無の奇妙な冷たさと成そうとする事総てに邪魔が入るその状況にただひたすら恨みを暴発させ、怨嗟を重ねて吠え猛る。 「放セ、はナぜえぇッ!」 「菊様っ、早く逃げて! 早く……っ、お願い……!」 その細い身体のどこにそんな余力があったのか、子供二人を逃がそうと小春が叫ぶ。 暴れる本間とその腰に必死にしがみついた小春の身体はもつれ合い、日の暮れかけた山道で怒号と悲鳴が絡み合う。 忘我のままに動いた本間の腕が、小春に向かって伸ばされた。 |