紫雲、たなびく (7)


 山郷の日暮れは早く、一旦暮れ始めれば後は最早落ちるだけだ。
 辺りは既に薄紫に染まり、日の光と言えば山の稜線を名残惜しげに夕日が赤く染めているのみ。
 街道沿いであるとは言え山間の小さな里村である。夜に出歩けるような場所は無い為、皆一日の仕事を終えた今はとっくに家に入っているのだろう。
 “先程の騒ぎ”が広まっているのなら尚更、今夜は誰も外には出ない筈だ。
 周囲に人影は全くない。

 ――自分達以外に。


「小春、小春……ほら早く」
 腕を強く引かれ、山道を奥へ奥へと分け入っていく。
 木々が生い茂る山の斜面沿いを伸びて荒くうねったその道は、通れるだけの広さは充分あるもののすぐ横は急な崖だ。人が滅多に通らない石だらけ木の根だらけの荒れた道は足場が酷く悪く、走って逃げようにも小春の脚力ではそれは到底成し得ない。

「さあ小春、急いで。でないと父上が私達をまた引き離してしまう」
 男の声は甘く、その響きは優しい。しかし小春の目には、その男の姿は人の皮を被った獣にしか見えない。
 返り血のついた抜き身の刀を手に、薄汚れて着崩れた旅姿でそれでも甘く笑う男――本間勝之進の眼は、あの時と寸分違わずに赤黒かった。

「もういや……お願い、帰して……」
「何故? さっきは何でも言う事を聞くと言ってたじゃないか。もう乱暴はしないから、さあほら早く歩いて。小春は大人しくて素直で優しい、いい娘なのだから」
 腕をまた強く引っ張られる。
 部屋から引きずり出され、草履も下駄も履いてこられなかった足袋一枚だけの足元は、この山道の所為でとっくの昔に無残に破れ果てて血に染まっている。
 必死で抵抗した際に酷く殴られた両頬は熱を帯び、切れた口元からは絶えず鉄の味がしていたが、今の小春を支配しているものは痛みよりも本間に対する恐怖だった。

 つい先程、男が現れた際、小春が上げた悲鳴と必死の抵抗に宿の人間が何事かと駆けつけた。だが止めようと間に割って入ったそれらの人々を、あの男は何の感慨も無さそうな眼で大きく斬り付けたのだ。
 腕や肩口を斬りつけられて転がり喚く宿の人間を足蹴にし、会いたかった、ようやく会えたと緩やかに嗤う本間の姿は悪夢としか言いようが無く――その悪夢に足が萎えて立ち上がる事もできなくなった小春を本間は無理矢理連れ出して、こうして強制的な逃避行を続けている。

「さあ小春、早く二人っきりになろう。二人しかいない場所で、ずっと共に暮らしていこう。小さな屋敷でいいんだ。誰にも邪魔されない所で、私が書を読む隣で、お前は琴を弾いておくれ。……ああ大丈夫、苦手にしているようだが最近は最初の頃よりうんと上手になっているし、私はそんな事は気にしないから」
 獣の様に息を荒げて山道を進みながら、本間の口は滑らかに動き続ける。
「これからはずっと一緒だ。誰が私達を引き裂きに来ても必ず私が守ってあげるから、お前は私の隣で笑っていてくれればいい。夜に昼に睦み合って、お互いだけを見ながら暮らそう」
 山道に足を取られて小春が転びかけるが、本間は気にもしない。小春の腕を掴んで引きずり、やめて離してと涙混じりにか細く上がる声を完全に無視して、妄想を撒き散らしながら本間は笑う。
「父上は私の気持ちを理解ってくれていると思っていたが、とんだ思い違いだった。あんな遠くへ追いやられて……小春に会えなかった日々、私がどんなに辛かったか!」
 急に激昂し、叫ぶ。
 誰もいない空中に父親の面影でも見つけたのか、硬く握り締めていた抜き身を振り回して暴れ狂う。
「――許さない! 私から小春を奪おうなどと企てる者は誰であろうと許さんぞ!! 私たちは互いに求め合っているんだ! 私が国元に入れないのを知ってこんな所で待っていてくれたのは……その証拠だ……!」

 叫びの最後は言葉になどなっていない。夕暮れの陰りの中、男の奇声が木霊する。
 その姿を折れて壊れそうな心で眺めながら、小春は泣いた。

 山の中は暗く、身体中がきしみ、男の喚く声が小春の耳元にキリキリ刺さる。喚かれたその声は木々に木霊し、撒き散らした荒い息と怨嗟とが気味悪い程に大きく響いて辺りに染みる。
 助けて欲しい。
 しかし助けてくれる人は誰も居ない。
 大きな背中のあの人にはさっき拒絶されたばかりだ。この本間と同じように、自分の気持ちだけを押し付けた所為で。
 こんな所でこんな事になって、父も母もいない中、最早誰を頼れと言うのか。
 掴まれた腕と血に染まった足とが痛む度に先程の高次の拒絶の声が蘇り、おぼつかない足取りで山道を進む小春の心を、不安で黒く、絶望で深く塗り潰していく。


 幾度めかの眩暈と吐き気がして、小春は、とうとう意識を手放した。


「小春……?」
 不意にガクリと重みが伝わった腕に、本間が後ろをようやく振り向く。
 倒れ伏した小春の姿に自らもしゃがみこみ、その腕に小春の身体を抱き寄せた。
「ああ……そうか、疲れてしまったのか」
 涙と血と泥とで汚れた小春の頬を、唇を、指の腹で丹念にまさぐりながら本間が笑う。
「……しょうがない娘だ」

 街道を往けば関所に記録が残る。下手をすれば連れ戻される事になるだろう。
 小春に会う為だけに勘当先を飛び出してきた本間にとって、それは全く好ましくない。故に街道から外れた山道を小春も暮らす己の故郷に向かって進んでいたのだったが、その道中、野宿に耐え切れずに使った宿で思いがけずも小春の話を聞けたのは幸いだった。

 士分に相応しくない薄汚れた格好で宿を訪れた本間に、それでも宿の主人は気さくな親切心からかどうかしなさったのかといきさつを聞いた。
 旅籠の宿主風情が馴れ馴れしく接してくるその様子は本間にとって疎ましかったのだが、愛しい人に会いに故郷へ帰る途中なのだと勘当先から逃げてきた事は伏せて端的な事実のみを告げた時、じゃああんた様がひょっとしてと――主人は口を滑らせたのだ。

 大切な人に会いに行く途中なんです――
 その娘もそう言っていたと宿の主人から聞かされ、本間の胸は熱くなった。


 この旅籠がある街道は、山に囲まれたここら一帯の交通の要であり、どこへ行くにも跨がねばならない場所だ。一ヶ谷へ向かう小春と、勘当先から舞い戻った本間が、道の上でたまたま交差したに過ぎない。
 しかし本間にとってこの偶然は天恵だった。
 小春が自ら会いに出て来てくれた――そう思いこんで当然の偶然だったのだ。

 気を失った小春の唇を見つめ、嘗め回したい衝動を抑えながら本間の息が荒くなる。
 腕の中に掻き抱いたぬくもりはかすかで、今にも消えてしまいそうだ。不安に駆られて肌の温度を確かめたくなり、大きく開いてしまった襟元の首筋を本間は手の平と指先で丁寧に撫で上げる。
 その肌の香りと感触に本間の理性は粟立った。
「小春……っ」
 恋焦がれた愛しい人。
 町で見初め、触れたいと渇望し、夜毎狂おしく面影を求めた愛らしい少女。
 もう二度と離さないと、力無くくずおれた小春の身体が折れそうなほど深く抱きしめ――

 しかし気が付いた。


「――さあ手を離せこのクソ侍。狼藉にも程がある」


 いつの間に肉薄していたのか。

「……小春さんっ! 大丈夫?!」
 己の背後から響いた子供の声に、馬上から己を見下ろすその視線に――本間は憎しみを込めて立ち上がった。
「邪魔立てを……しにでも来たか……!」
 足元に満ちた夕暮れの暗色の中、血走った赤黒い眼だけが狂気を孕んで煌々と光る。

「邪魔などする気は毛頭無い」
 現れた少女の可憐な声が、それでも剣呑な響きで山道に通る。


「私は狩りに来ただけだ。……バカでどうしようもない、クソ侍をな」
 




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