紫雲、たなびく (6)


「……高次のせいで殴られた……!」

 鉄拳と晩飯抜きとを父親から喰らって言い渡され、日暮れ時の庭に放り出された菊が一人ブツブツと文句を言っている。
 お前は要らん事を言うなと静かに告げた父親の口調は、普段通りに落ち着いてはいたが強かった。一切の反論は許されず言葉を真っ向から封じられて、義憤に燃える菊の不満は更に募るばかりである。

「もういいじゃんか、ねーもうやめとこ? な?」
 その隣、晩飯抜き制裁受け途中の菊にまたしても律儀に付き合いながら、小太郎が菊の顔を覗き込んで袖を小さく引っ張った。
「って言うかなんで菊はそんなに怒ってんだよー」
「コラ待て小太郎! お前はあんな仕打ちを直に見といて何にも思わないのか?!」
「そりゃそーだけど……」
「そーだけどじゃないだろう! 私はお前をそんな薄情に育てた覚えは無い!」
 当主の一人娘である菊に育てられているとは言え、屋敷の皆の小太郎に対する扱いと認識は下男下女に対するものと変わらない。小太郎はあの時、命じられて庭先で雑務の手伝いをしており、高次が小春に怒鳴ったその現場にちょうど出くわしていたらしい。
 眉を吊り上げて菊が吠える。
「可哀相だろう小春どのが! ひと目会いたいからって来ただけなのに、高次のアホにあんなひどい怒鳴られ方されて追い返されて……挙句に高次はなんにも気にしてないし……!」

 高次の事が好きなのかと直球で訊いた菊に、頬を染めた笑顔で頷いて返した小春。
 人を好きになるという事が何となく分かりかけてきた年頃の菊にとって、その笑顔は大切にしてやりたいと感じさせるものだった。
 それなのにその気持ちを踏みにじった挙句に気にする様子すらなさそうな高次が、菊にとっては腹の底から気に入らない。
「あーもうクソクソ、いつもいつもいつもすました顔しくさってあの石頭。ホントは小春どのを玩んだのに都合が悪くなってきたから追い返したとかそういうオチじゃないだろうな……!」
 鉄面皮な所為で見た目で感情を推測する事の難しい高次の腹の底は、子供である菊にとっては尚更、いつも読めない。無愛想でも優しい所がきちんとある事も分かっているつもりだが、自分を慕っている小春にその優しさを向ける事が何故出来ないのか。
 ――好きな人や大切な人には優しくしてやりたいと思う菊には、それが理解できない。
 しかしそうやって暴言を重ねる菊に、小太郎が不意に口を開いた。
「……でもさ……」
 一言述べ、しばらくは言いにくそうに指先をいじっていたが、それでも一呼吸置いて菊の顔をしっかり見つめ、真面目な顔付きで更に続ける。
「……なあ菊、師匠とか大人には大人の事情があるんだから、俺たちが勝手に想像して口挟んだらダメだろ。師匠だってさ、きっと色々思う事があったんだと思うぞ」

 一人で遠出したあの夏の一件以降、小太郎は随分と大人びた。
 背丈はひと夏で随分伸びて、今では菊とすっかり並んでほとんど遜色無い。
「何だ小太郎、お前急に」
「だって菊、師匠の事悪く言いすぎだろ。俺だってあんな風に里中のみんなからわいわい噂されたらどうしたってイヤになってくるし、腹だって立ってくるよ」
 泣き虫なのは相変わらずである。普段の言動も今までと同様に幼さが残っているが、今こうして菊を見つめて紡ぐ言葉は常にない強さを帯びていて、すぐ間近から見つめてくるその眼に菊は何故か釘付けになる。
「……だから、もうしばらく様子を見よう」
 小太郎の腕がゆっくり伸ばされて、その指先が菊の頬を緩く撫でた。
 くすぐるよう、宥めるように頬をなぞり、小太郎は菊の顔を息がかかるような間近の距離から覗き込む。
「な?」

 だが、小太郎が発した至極まともな発言は菊の逆鱗に触れたらしい。

「……正論だが、お前に言われるとなんかムカつく」
「菊がぶったあああぁぁ」



 そうやって二人が仲良く騒ぎ立てていたその時、庭の向こうで人影が動いた。
「ん?」
 理不尽に殴られて泣き出した小太郎に馬乗りになり、腹いせに隅々までいじり倒しながらも菊はそちらに目を凝らす。
「ふん……ウワサをすれば何とやらか」
 敷地の隅に建てられている馬小屋の方向に高次が駆けていくのが見えた。庭に放り出されている菊たちになど全く気がついていないようだ。
 ――如何なる時も冷静沈着な筈の姿がいつになく慌しい。忍の常として足音を音高く立てるような事は決して無いが、この男にしては珍しく、高次は荒い勢いで走り去っていく。
「……妙に慌ててるな」
「え、あ、ホントだ、師匠だ」
「ふーん……」
 間が空いたのはほんの一瞬だ。
 ずびっと鼻をすすって呟いた小太郎の腕を取って立たせてやり、袖口で涙を拭いてやって、菊はとろける様な優美さで微笑んだ。

「よしじゃあ行こうか」
「へっ?」
「はっはっはっ、なんだなんだ高次め。素直じゃないな全くもう。はっはっはっはっ」
「えっ何、菊、何?」
「いやいや、晩飯抜かれた甲斐があったなこれは」
「菊っ?! なんかよくないこと考えてるだろ今!」

 嬉しそうにニヤリと朱唇を引いて笑んだ菊に引っ張られ、小太郎が慌てふためく。
 菊の眼は心底輝いていた。
「さあ行くぞ小太郎! いーからさっさと準備しろ!」
「何で?! 何で俺たちまで行くの?!」
 楽しそうな菊にズルズルと引きずられつつ小太郎が叫ぶ。
「何でって、だってお前」
 そんな菊の笑みは今までの鬱屈を総て忘れて鮮やかだ。

「見届けなきゃ、私が今晩眠れないだろ?」



 一ヶ谷葛木屋敷の門扉がけたたましく開いて駿馬が一頭飛び出でる。
 道を踏み砕く勢いで疾走するそれを追うように、やや時を置いて小柄な馬がこれまた小柄な影を二つ乗せて走っていく。

 夕暮れの喧騒に紛れたそれらに、家人が気づく事は一切無かった。





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