紫雲、たなびく (5) (小春) (ああ小春) (何故俺の気持ちを分かってくれない) 四季折々の花に素朴に彩られたその神社は、建物などは古ぼけているものの小春の幼い頃からお気に入りの場所だ。毎日のように通う、庭のような場所。 あの日も乳母を連れて、習い事の帰りがてら参詣の途中だった。 (小春、小春) (私はお前が好きなんだよ、小春) 通い慣れた神社の境内に入り、きちんと剪定された植木の横を何気なく通り抜けようとした時、突如後ろから着物の襟首を掴まれた。 そのまま叫ぶ暇も無く口を塞がれ、広くもない境内を半ば引きずられるように、抵抗も虚しく使われていない御堂の奥へと連れ込まれる。 「お嬢様に何を……!」 そう必死に追い縋った乳母は大きな足で蹴り倒されて、地面に倒れたまま呻いている。 (好きなんだ好きなんだ好きなんだ) (お前が、お前がお前が、お前がお前がお前が!) (………なのにどうして!) 埃まみれの堂の中、奇妙に上擦った声を上げる男に後ろから抱きすくめられ、大きな手が動いて生温かい息が頬や首元にかかるたび、小春は必死でもがいて抵抗をする。 だが熱く濡れて血走った男の眼が自分をしっかり捉えて放さない恐怖に、手足は凍った。 松上屋の店先で、往来で、気が付けばいつも遠くから自分を見ていたあの侍だと気づいたのもこの時だ。 父母や兄姉から、くれぐれも気をつけるよう言われていた、あの男。 助けて 助けて 嫌 誰か、 誰か―― 叫びきれない喉から血が滲む。 黙れ黙れと口を塞がれて呼吸もままならない中、それでも必死で抗う。いつの間にか泣いていた自分の声と、連れ込まれた堂の外で倒れ付した乳母が助けを乞う途切れ途切れの掠れ声が、人気の無い境内の静けさに重なってゆく。 ――涙とはこんなにも熱いものだったのかと絶望に目の前が暗くなりかけた時、誰何と安否を問う声と複数の足音が大きく響いた。 通りがかりの誰かが助けに来てくれたのだと小春が理解するまでには大分時間がかかったが、声が聞こえた瞬間に男の手は脱兎の如く離れていく。 (小春) (小春) (どうして受け入れようとしてくれない――) 逃げながら尚も名を呼ぶ声が遠くからでも粘つくようにのしかかる。 薄暗い中から響き、求めながら去ってゆく声。 最後までこちらを見据えながら、しかし何を見ているのか定かではない眼。 暗い中に浮かびながら消えていった赤黒い眼。 どろりとした情念が熔けだしたような視線が、いつまでも暗闇から―― ――その日から、小春にとって暗闇は恐怖以外の何物でもなくなった。 大店である生家には、自身の兄弟姉妹や店の使用人も含めて人が多い。 今までは一人でいる事よりも皆と混ざり会話する事が好きだったが、どこからあの男が見ているか分からないという恐怖が今では小春を捕らえて放さない。 これまでも、往来を歩いていてふと振り向いた時、店先に出て家業の手伝いをしていた時、数多の時に人ごみに紛れてあの顔が――あの眼が、こちらを見ていた事があった。 当時は気味が悪い程度にしか思っていなかったが、あの男の真意と本性を知った今、次に出会った時には一体何をされるのか―― それを思うと恐ろしく、小春は自分の部屋からすら出られない。 夜は暗闇の中に一人では到底寝付けず、日の光が照らす昼間ですら落ち着けない。子供の頃から何かと頼みにしていた乳母も、あの時の怪我がもとで寝付いてしまい、実家へと下がってしまった。父母に四六時中ついていてもらう訳にもいかず、相手が侍では店の奉公人に守ってもらう事も難しい。 見慣れた筈の部屋の隅、廊下の角。そんな些細な暗がりにまで小春の心は竦んだ。 暗い影からこちらを舐めるあの視線、身体を抱き込んで掴んで離さなかったあの大きな手。 あの瞬間がいつ如何なる時でも思い出されて、心が休まる時など無くなった。 だが、そんな日々がこれから先ずっと続くのかと恐怖に泣き疲れた頭でぼんやり思っていたあの日。 その人は小春の前に現れたのだ。 「一ヶ谷衆頭目付側役、真島高次と申します」 父親に呼ばれ、母親に付き添われて向かった先の座敷に、抑揚の無い声が響く。 「小春、今日から暫くこの方がお前をお守り下さるのよ。もう怖い事は無いからね」 先の出来事に小春以上に心を痛めた父母が、商人では到底縁の無さそうな細い伝手(つて)を頼ってどうにか手配したというその人は、そこに確かに存在しているのにも関わらず、熱を感じさせない程の静かさで佇んでいる。 小春に向けられた視線は射抜くようにただ厳しい。 ――しかし。 「……怖いものは私が即刻取り除きます故、ご安心なさい」 その鋭い眼に厳しさに覆われながらも浮かんでいたのは、辛い思いをした少女に対する、紛れもない慈しみだった。 「真島――高次さま、は………普段は、どのようなお仕事を……?」 「説明すると長くなります。一言で言えばお守り役ですが」 昼間、高次は顔を見せない。 どこにいるのか何をやっているのか、それを小春が知る術は無いが、しかし夕闇が迫る頃になると高次は松上屋に舞い戻り、その後は小春の部屋の外でずっと詰め番として座っている。 必要な事以外は全く話しかけてこない高次に最初は小春も戸惑ったが、沈黙に耐えかね、意を決してこちらから話しかけてみると存外に返答が返ってくる。 あの一件以来眠りと縁遠く、寝入った所で酷く浅い眠りしか得られない小春が何とか寝付くまでの数刻。不寝の詰め番と眠れない少女の障子越しの会話は、他愛もない内容で毎晩続いた。 「高次さまは、海を見た事はありますか?」 「ええ」 「藩主様のお城の、お庭もお堀も全部入ってしまうほどの大きさだって言うのは、本当の事なんですか?」 「海というものはそれよりももっと大きい。城などではなく、この日の本の国すら容易く包み込むほどの大きさであると、渡来の書物には記してあります。……海の向こうには、我々と同じく人の暮らす国がいくつも浮かんでいるのですよ」 自分の生まれ育った町の事しか知らない小春の子供じみた質問に、当初至極無愛想に見えた高次は意外なほど丁寧な返答をした。毎晩寝入った所ですぐに悪夢にうなされて目覚めてしまう少女に対する、彼なりのせめてもの心遣いだったのかもしれない。 聞き慣れない内は無愛想にしか取れない声音だったが、低く響いて揺るぎの無いその声は聞いていると不思議と安心できて心が落ち着く。 部屋の外、闇の中に座する大きな背中を障子越しに見つめながら、少しでも長くその声を聞いていたいように思えて、小春は毎晩言葉を紡いだ。 「えっと……えっと、あの、高次さまは、イヌと猫ではどちらがお好きですか?」 「――……敢えて言うなら猫、……でしょうか」 他愛ない会話は、毎夜穏やかに続く。 「へえ……一ヶ谷の里は、雪がそんなにも降るんですか」 ある晩、昼間の天気の話から転じ、山深い一ヶ谷の気候の話になった。 「この辺りは平地ですから降った所で積もる程ではないでしょうが、一ヶ谷では一晩で辺りが染まります」 「……染まる?」 「純白に。夜目にすら真白く」 故郷同然の里の風景を脳裏に浮かべたのか、高次の言葉にしばし間が空く。 「初めてあの光景を見た時は……私も驚きました」 普段は硬いばかりの障子越しの声が、この時不意に和らいだ。 小春は、その男が初めて発した優しげな声音に思わず起き上がり、そっと布団から這い出でた。そしてそろりと障子を開け、その障子に背を預ける形で座していた高次の顔を恐る恐る覗き込む。 その行動に特に意味があった訳では無い。 ただ何となく、今この時にどんな顔で高次がこの言葉を紡いでいるのか、小春はそれを知りたいと思ったのだ。 そんな、思いもよらず部屋から顔を出した小春に振り返り目を合わせ、高次は穏やかに微笑んだ。 「……貴女は暗闇が怖いと言いますが」 緩やかに続ける声は、優しい。 「雪が降る頃には何の心配も無く外に出られるようになっていますよ。そうしたら是非、雪の夜に表に出なさい。あの静けさは……いつ見ても良いものだ」 宵闇の中で仰ぎ見た高次のその表情は、昼間の光の中で見るよりも随分と鮮明に浮かび上がって、染み入るように小春の目に映る。 この夜から小春にとって暗闇は、恐怖だけを感じさせるものではなくなった。 高次が松上屋に来てしばらくのちの晩。 これまでならば宵闇の到来と共にいつの間にか障子の外に座していた影が、その日はいつまで経っても現れない。 意を決して障子を開け、先の見えない暗闇に名を呼びかけたが返事は返って来ず、小春は不思議と落ち着かない気持ちで一晩中障子を見つめ続けた。 しかし夜が明ける頃になっても、その白表にいつもの大きな影が映る事は結局無かったのだ。 その明くる朝――と言っても明け方に眠った小春が目覚めたのは昼近くになってからだが――目覚めると、家が何やら神妙に騒がしい。 そろりと部屋から顔を出すと、待ち構えたように母親が飛んでくる。 「小春」 涙すら浮かんだその表情は、久方ぶりに明るい。 「あの侍がね、そりゃあ遠くのお寺に、勘当も同然の永(なが)の御預けになったようなの。もうこの土地には入れないのよ」 「……え?」 その言葉に目を瞬く。 「今朝早くに、こう決まったから安心せよとあの方からお話があって。さっき番頭さんが確認に行ってくれたんだけど、あちらのお屋敷じゃあ寺に向けての出立準備を大慌てで行なっていて、夕刻前には出ていくようだったって。もうお前には近寄れないだろうって」 これで安心だと母親が泣き笑う。 「一ヶ谷の真島さまがご尽力くださったお陰よ。父上もそりゃあ喜んでいらっしゃるわ」 ……ああそうか。だから昨夜、あの人は姿を見せなかったのか。 母親に小さい子供のように抱き寄せられながら、小春は頭の隅で考える。 嬉しい。 あの憂いからこれで解放される。 嬉しい。 これで、何の恐怖も感じる事なく、雪の夜に―― 「……母さん」 ふと浮かんだ疑問が口をつく。 「高次さまは……?」 幼子のような問いかけに母が笑う。 「一ヶ谷の里へお帰りになりましたよ。是非ゆっくりしていって欲しいとお願いしたのだけど、側役としての御役目があるからと仰って、つい先程」 住まう世界が違うのだと、歳も、今までの生き方も、何もかもが離れていると己を納得させようとしたが駄目だった。 あの夜に高次が見せた笑顔を思い浮かべる度、何故朝まで起きていられなかったのかと、起きてさえいたなら高次は去り際にでも声をかけてくれたのではないかと、小春の胸を後悔が苛む。 礼すら満足に言えないまま離れてしまった事が悔しくて寂しくて、小春は塞ぎこむ事が多くなった。表面上は笑顔が戻ったが、一人になると途端に沈み込む。 ――そんなに気になるのなら直接出向いて御礼を申し上げておいでと、言ってくれたのは他でも無い父親だ。 あの方に会って来なさい。そして少しでもお話をさせてもらいなさい。 その後の事は、それから考えればいい―― そう言って鷹揚に笑って見せた父親の笑顔と手助けに後押しされ、小春は遠く離れた一ヶ谷の里にまで来たというのに。 「私、バカみたいね……」 ただ会いたいだけだと、一言お礼をと、そう門番に伝えた筈がどこで話が大きくなってしまったのかは分からない。しかし結局小春の所為で高次に多大なる迷惑をかけてしまった事だけは、掛値無く事実なのだ。 菜津が用意してくれた一ヶ谷近在の旅籠は行きの道中でも使った宿である。その宿の、温厚で気さくな主人と女将は大切な人に会いに行く途中だと告げていた小春の事を覚えていてくれたらしく、行きと違って沈んだ顔で現れた小春に対して大層驚いたようであったが、詮索などはしないで何も言わずに温かく迎えてくれた。 皆の心尽くしの部屋で、家からの迎えを待ちながら小春は一人呟いて自嘲する。 (だから何度言わせる気だ! 私はあの娘を娶る気なぞこれっぽっちも無い!!) 毎晩の対話の中では一度も見せた事の無かった激情。 お役目として松上屋に行っただけなのに勝手に勘違いされて押しかけられた高次の、あれが紛れも無い本心なのだろう。 ……自分の気持ちだけを相手に押し付けるなど、あの侍と寸分も違わないのに。 これではまるで同じ―― そう思い至った小春の頬を涙が伝う。 「ふ」 堪えきれず俯く。 「………っ、う」 一ヶ谷の屋敷にいた時は何とか我慢できた嗚咽も、他に誰も居ない部屋では耐える意味が無い。 声だけは何とか漏れぬように両袖の袂で必死に押さえながら、それでも涙は止まらない。 夕日に照らされた部屋の中。 自分の世界に埋没し、声を殺して少女はただむせび泣いた。 だから、 『それ』がひたすら自分を追っていて、 劣情に悶え、執拗に恋焦がれ、己を失い、 理性を焼く恋慕の情で半狂乱に陥っていて、 泣いている部屋の、扉を隔てたすぐ向こう側に立っていた事には、気づけなかった。 |