紫雲、たなびく (4) 「高次のバカ! 何考えてんだ!」 「あっあっ菊っ、師匠に聞こえるっ! しーっ!」 「聞こえるように言ってるんだ!! このクソ人でなし! 能面男! バーカバーカ!!」 太陽が傾きかけた縁側の外からは菊の罵倒が聞こえてくるが、それには無視を決め込んで高次は紙面に筆を走らせている。 その平静ぶった素振りが更に菊の逆鱗に触るのだが、当の高次は清々したような顔付きで仕事に精を出し、昨日今日の騒ぎなど何事も無かったかのようだ。 高次は小春に対して酷い物言いをして泣かした挙句に追い返したと、一部始終を見ていた者から菊は聞いた。 菊の脳裏に昨晩の小春の姿が思い浮かぶ。 無愛想で寡黙すぎるような高次だが、陰守として気遣ってくれるその所作と、ごく稀に見せた笑みは充分に優しかったと言って頬を染めた、その笑顔。 小春は別に押しかけ女房にやって来た訳では無いのに。 ――高次にもう一度、ただ会いたかっただけだと言うのに。 小春の郷里までは距離がある。きっとまだ一ヶ谷近隣の街道沿いだろう。 未だ駕籠の中だろうか。それとも駕籠に揺られる元気も無く、どこかでひっそり泣いているのではないだろうか。 高次とろくに話もできないまま帰途につく小春の為、せめてと菜津が手配した駕籠はかなり上等なものだったそうだが、そんなものは何の慰めにもなっていないだろう。 我が事のように口惜しく、菊は怒りを込めて再度口を開いた 「……高次の! 腐れ外ど」 「やかましい」 ゴツッと非常に重い音が響き、菊の罵倒が急に止む。 代わりに小太郎が泣き出す声がして、一体何事かと高次が庭を見遣った時、縁側からのっそりと上がりこんで来る九郎の姿と、棒立ちで泣いている小太郎、そして頭を押さえながら庭にうずくまる菊が見えた。 ……どうやら九郎が鉄拳制裁で菊を黙らせたらしい。小太郎は別に殴られていないのだが、菊が思いっきりゲンコツを喰らったのを見て驚いて泣き出したようだった。 「屋敷の皆には此度の事を過不足無く説明しておいた。人の口端に上る事もあるだろうが、噂などすぐに消える。しばらく待てば良かろうよ」 「……お手数をありがとうございました」 部屋に上がり込みはしたが腕組みをして立ったままの九郎の言葉に、畳に両手を付いて顔を伏せて、高次が応える。 「あの娘、お前に申し訳ない事をしてしまったと悔やんでいたぞ。騒がせて本当に済まなかったと」 「そうですか」 簡潔に過ぎるその言葉に九郎が軽く息を吐く。 「それだけか?」 「他に何か要りますか?」 応えは短く素っ気ない。 平生と変わらぬ物言いの高次に九郎は再度口を開きかけたが、すぐに思い止まったのか一つ首を振ってそれきり黙ってしまった。 奇妙に沈黙した場に、庭で小太郎がわんわん泣く声だけがかすかに木霊する。 高次が静かに口を開いた。 「此度の事で里の皆には要らぬ気遣いをさせてしまいました。些少ですが私から皆に詫びの品を用意致します故、どうぞご容赦を」 そして丁寧に頭を下げる。 「……好きなようにするといい」 「は」 そうして九郎は去りかけて――ふと立ち止まり、呟いた。 「お前は、昔から俺や皆に気を遣い過ぎる」 障子に手をかけたまま、続ける。 「その忠義を有難くは思っているが……お前は、もっと自分の幸せを考えてもいい」 何を言い出したのかと高次が注視する中、見返してくる九郎の目はいつになく真剣だ。 その真剣さを真っ直ぐに受け、高次は再度頭を深く下げる。 「一ヶ谷衆の安泰と里の平穏が私の幸せですから、……今のままで何も、問題は」 「そうか」 ならばもう何も言うまいと九郎は再度歩を進める。 静かに去っていくその気配が遠くなり、そうしてようやく高次は顔を上げた。 いつの間にか庭から小太郎の泣き声が聞こえなくなっている所を見ると、殴られて悶絶している菊と共に九郎が連れて行ったようだ。 「自分の幸せ……か」 まだ少年であった幼い頃、高次の生家は浪人だった父親が遺した借金で、士分であるとは言え並ならぬ窮乏に喘いでいた。 育ち盛りで気性の真っ直ぐな少年だった高次に父親が遺したものは、幸せな思い出でも先祖伝来の業物でも無く、酒代で膨れ上がった借金のみだったのだ。 近所の子供達が何の心配も無く無邪気に笑って遊ぶ中、高次は母親を助けて大人に混じり、侍の子としての矜持も誇りもかなぐり捨てて日々必死に働いた。……その時に舐めさせられた数々の辛酸は、生涯決して忘れえぬだろう。 そんな窮乏生活が続いた数年後、ふとしたきっかけで先代頭目に見初められた母と共に連れて来られた一ヶ谷が忍里であると知った時は驚いたが、それでも毎日の食事に苦労する事は無くなり、貧しい中では到底手が届かなかったもの――密かに憧れていた学問にさえ、充分に触れられる機会を与えられたのだ。 それは本当に僥倖以外の何物でもなかったと、高次は心から思う。 妾やその連れ子に対して周囲が最初から好意的な訳でもなかったが、偏見や溝を無理矢理に取っ払って高次をこの忍里に馴染ませてくれたのは幼い頃の九郎だ。 子供じみた悪戯やとんでもない悪巧みに否応無く巻き込まれ、時には二人で本気以上の喧嘩をし、苦労と迷惑と気苦労とをかけられ後始末をこれでもかと丸投げされ、成人してからは数多の死線と修羅場を共に潜っていく内――気が付けばこんな歳になっていた。 葛木の人々と、一ヶ谷の里。 高次にとってそれらが一番大切である事は紛れも無く真実だ。九郎に告げた言葉に嘘偽りは毛頭無い。 溜息と共に高次が見上げた空は、夕日の橙が青の端から静かに滲み始めていた。 しかしその静けさを破るような気配が高次のいる部屋へと届く。 外部からの火急の伝令時特有のその気配に、物思いに沈んでいた高次の意識が現実へと引き戻った。 庭の物陰にするりと人影が入り込んだのを視界の端で確認し、縁側に出た高次は口を開く。 「――告げよ」 「申し上げます」 物陰に潜んだままの伝令の顔は見えない。しかし側役である自分の子飼いの下忍である事を察知し、高次は心中でかすかに片眉を上げた。 今現在一ヶ谷外部に放している高次直下の下忍は、松上屋の小春の一件に関するものだけだ。この件はもう大丈夫だろうとの見切りがついた故に高次本人は一ヶ谷へ戻ってきたのだが、用心の為にと下忍を一人、伝令用として松上屋に預けておいたのだ。どうやらそれが戻ってきたらしい。 ……小春が家を飛び出してきたのを入れ違いに今頃伝えに来たのかと高次が苦々しく思うと同時。 だがその伝令は、高次が思わなかった事を口にした。 「松上屋の娘に執心していた本間勝之進ですが、先日より所在不明となっている模様」 それは小春に固執していた侍の名だ。 思ってもみなかった名に高次の唇が自然と動く。 「……詳細を」 「その件に関して、松上屋の主人より託(ことづけ)が」 その言葉と共に庭先の物陰から音も無く現れた手から、小さくまとめられた書状が差し出される。 それを受け取って手早く開き、高次は、今度こそ表情を変えた。 松上屋の主曰く。 実父によって所縁の寺に預けられていた件の侍――本間勝之進が脱走を謀り、現在行方不明であるとの報が松上屋に入った。 幸いにも小春は一ヶ谷の里に行っているから、今すぐ身に危険が及ぶ心配は無い。 申し訳ないが、勝之進の所在が確認されるまでそちらで小春を預かってもらえないか―― 「……あの侍が行方をくらましたのか」 「そのようです。途中の関所で確認したのですが、どうも街道から外れて進んでいるのか奴を見たという者も居らず、未だ発見は成っておりません。……申し訳無く……」 力量不足を恥じ、下忍が深く頭を垂れる気配がした。だがすぐに言葉が続く。 「ですので小春様には今しばらく此処にご逗留いただいて、その間に奴を必ずや――」 「遅い」 簡潔なその叱責に下忍が顔を上げる。 ――だが、先程まで主がいたはずのそこには誰も居らず。 墨跡の乾ききらない書きかけの紙束のみが、文机から落ちて静かに散っていた。 |