紫雲、たなびく (3)


 翌朝の一ヶ谷葛木屋敷は大変な騒ぎだった。
 話はあっという間に里中に広まり、広まる間に尾ヒレが付き、付いた尾ヒレは高次の意向と反した方向に大きくなって、結局朝早くから里の人々が祝いの品を持って屋敷に集まるような事態となっていたのだ。

「だから皆勘違いしすぎだと言っているのに……!」
「いいだろう別に。皆お前を祝いに来てくれたんだぞ、皆の好意に対してお前は何故そんな態度を取るんだ。嘆かわしい」
 いけしゃあしゃあと言い放った九郎を高次がするどく睨みつけたが、当の九郎はケロリとした顔でそれを受け流す。
 この事態を楽しんでいる感のある九郎は全く頼りにならない為、高次の気苦労は耐えない。

 葛木屋敷の門を祝いの品を下げた里人がくぐる度、説明に幾度と無く駆り出された高次は朝から機嫌が悪かった。
「ねえ高次、あなた忙しいんでしょ? あとは私がお話しておくから……」
「結構です。母上は奥でゆっくりなさっていて下さい。是非」
 説明を自分以外の余人……シエや菜津、九郎にまかせると却って話がこじれると身を以って知った為である。
 悲しそうと言うよりは至極残念そうににシエが屋敷の奥へ引っ込んでいくが、それには敢えて気づかない振りで高次は客人への応対を続ける。

 だがどれだけ説明した所で里の好奇の眼は相変わらず高次本人に注がれたままであるし、祝言話が勘違いだったと知った里の古老連中がそれならとばかりに見合い話を持って再度しつこく訪ねてきたりするものだから、昼近い現在でも高次の不機嫌度は増していくばかりだ。
 朝から続く高次への来客とそれへの対応、そしてちょうど時間が被った昼餉の準備とで普段は閑静な葛木の屋敷も今日ばかりは賑やかである。しかしその賑やかさすら今の高次には腹立たしい。
「いいじゃないかそれくらい。高次はいつもみんなに怖がられてるのに、いざとなったら皆こうして祝ってくれて、すごくありがたい事だと私は思うぞ」
「……菊様、あなたは本当にお父上そっくりですね」
 父親と似たような反応を示す菊に、渋い顔の高次の溜息は一層深くなる。


 そうしている内に菊付きの下女が昼餉の支度が整ったと菊を呼びに来て、言いたい事だけ言った菊はとっとと去って行った。
 その小さな背中をどこで育て方を間違えたかと痛切に思いながら高次が見送っているとまた来客があったようで、門番の一人が申し訳無さそうに高次を呼びに来た。その知らせに、本日何組目の勘違いかと心中で高次は舌を鳴らす。
 しかしながら皆善意で祝いに来てくれているのだ。さすがの高次と言えども、無下に追い返すことは憚られる。――嫁取りの話は誤解であると丁重に話をし、帰ってもらう。

 そうして一息つくと今度は仕事の関係でお呼びがかかる。
 側役は何かと忙しい。忍軍である一ヶ谷衆の長たる御頭の、内外に渡っての実質的な補佐が側役の勤めだ。側役には権力こそ与えられていないが、その分文字通りの右腕として誰よりも近く頭目に仕え、その公私の総てを知り、一ヶ谷衆に関わる万事に精通している必要がある。
 やらなければいけない事は非常に多い。

 有能ではあるが掴みどころの無い九郎に重用されてあらゆる事に付き合っているうち、日々忙殺されて嫁をもらうどころではなくなってしまったというのが高次の本音だ。
 菊や小太郎を見ていると自分の子供が欲しいと思う時もあるが、こんな稼業だからか里には親を亡くした子供が少なからずいる。懐かれているなどとは思っていないが、高次はそれらの子供を自分の子も同然と思って面倒をみている。

 護るべき主家は在れど、継がなければいけない家は高次には無い。
 実父はとっくの昔に死んでおり、今現在高次が冠している名字は、一応父方の家名ではあるが形式上名乗っているだけに過ぎない。
 ――嫁など居なくても、自分と血の繋がった子供はいなくても、それで何の問題も無いと高次は思っていた。


 仕事を片付けて戻ってくると、屋敷の雑務をこなす下男下女に混じって庭先でまた客人が待っていた。祝いを丁寧に固辞して対応するが、時折からかわれ、変な心配を受け、興味本位の質問を受ける。休まる暇は無い。
 視線を感じて振り返れば、高次が開いている道場に通う里の子供達がこちらを興味津々の態で覗いていた。一喝すると騒ぎながら逃げていったが、遠くからまだ様子を伺っているのが見える。
 周囲では屋敷の者達が今回の高次の一件について遠巻きに噂しているようだ。
 普段強面で冷静沈着な高次に降って湧いた色恋沙汰が皆珍しくて楽しくて仕方ないのだろう。さわさわと聞こえてくる皆の声には時折高次と小春の名前が混ざっている。

 ……高次の精神的疲弊は、臨界点を迎えていた。


「あの、高次さま」
「だから何度言わせる気だ! 私はあの娘を娶る気なぞこれっぽっちも無い!!」
 流石にもう対応しきる余裕はない。背中から呼びかけられた声に高次は強く吐き捨てた。
 ――途端、騒々しかった周囲が恐ろしく静まり返る。

 しまったと高次が気付いた時には、もう遅かった。


「手配していただいた駕籠が来ましたので……ご挨拶に、伺いました……」

 そこには小春が立っていた。


「この度の事は、あの、本当に申し訳ございませんでした。先程こちらのご当主さまともお話して、ご当主さまから直接、里の皆さんに今回の事を、説明していただける事になりましたから」
 視線が合ったのも束の間、迷惑をかけてすまないと小春が大きく頭を下げる。
「わ、私、迷惑をかけたくて来た訳じゃなかったんです。あの時はお礼もきちんと言えなかったから、だから、それだけで、でも、その……本当に、ご迷惑をおかけしてしまって、私」
 頭を下げたままの姿で小春が口早に続ける。
 語尾の震えを悟られまいと、溢れそうな涙に気づかれないようにと、わざと明るく出しているような声音だった。
「……小春殿」
「それじゃ私っ、これで失礼しますから……!」
 最後に再度大きく頭を下げ、そのまま高次の顔を見ようともせずに、駕籠を待たせているのであろう表門の方向へ小春が走り去っていく。

 軽い足音が必死に去っていく音を、高次は不思議と、動けないまま聞いていた。
 



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