紫雲、たなびく (2) 結局そうこうしている内に日はすっかり暮れてしまって、高次以外の皆の思惑通りに小春は一ヶ谷の里に泊まって行く事になった。 顔を合わせる事すら頑なに拒否する高次とは未だに話すら出来ていないようだったが、旅の疲れもあったのか勧められるままに大人しく、床に就いて休んでいるようだ。 ――遠路を遙々来たはいいが、相手にされず。 声を掛けられる事も、傍に寄る事さえも無く。 就寝前、押しかけて来た無礼の侘びと一宿の礼を述べに、菜津に連れられて九郎の書斎にやって来た小春は、顔は少女らしく明るく笑んではいたものの、その目にはやはりどこか憂いがあった。 そうして三十路の男二人は今、夜更けの庭を肴に一杯やりながら、何を言うでもなく並んで座っている。 「やれやれ……」 側役様に火急の用と出先に駆けつけた急使に、何事かと急ぎ帰って見ればこの有様だ。挙句に老母の懇願を長々と聴かされ、家中の者からはことごとく好奇の目で見られて、高次の口からは溜息が尽きない。 そんな高次の隣、障子を開けた縁側から入ってくる夜風を受け、口元に酒杯を遣りながら九郎が口を開いた。 「もう菜津も義母上も自室へ下がった。……高次よ、そろそろ本当の話を聞かせてもらおうか」 「――本当の話とは?」 酒を舐めつつ、表情は一切変えずに高次が返す。 「あの場には菜津たちがいたが今は俺しか居らん。正直に話せ」 「お言葉ですが、あの時申し上げた事が全てです」 お互いに前方の庭を見据えたまま、特に顔を合わせるでもなく淡々と会話は成されていく。 夜更けの庭は人通りも無く、軒先に焚かれた篝火が時折火花を散らす音のみが夜風を時に彩るのみだ。 「全てか」 「御意」 九郎が呟く。 「……そうか高次、お前は俺に嘘を言うようになったのか」 その言葉に、杯を傾けていた高次の手が止まった。 「――御頭?」 「お前は俺には偽らないと信じていたんだが、どうも俺の思い違いだったようだ」 何気ない事のように言い置いた九朗の声は、静かに落ち着いている。 「……」 「…………」 場に、沈黙が満ちた。 「――お言葉ですが御頭」 「言ってみろ」 「子供時分に母に連れられて一ヶ谷に来てよりこの高次、九郎様を謀った事は一度もございません」 「ああそうだな、俺もそう思っていた」 ただし今の今までだが、と感情の読めない涼しい顔で九郎が付け足す。 「……ですから、昼間のあれは」 「高次よ」 不意に九郎の声音が変わった。 高次を見やるその視線は、先程までは無かった厳しさを孕んでいる。 「言い訳ならば口を噤め」 小細工や偽る事を嫌う九郎は、それが己の側役であるからこそ尚更に嘘を許さない。 これ以上偽りを聞いた所で意味は無い。静かな声でそう告げられて、顔を伏せた高次は唇を噛む。 そして、九郎が再度杯をあおり徳利を傾け、ああもう無くなったと興味無さそうにボソリと呟いたのを機に、顔を伏せたままの高次の口から今までで一番大きな溜息が吐き出された。 「――……ああでも言わねば母上は納得しないでしょう!」 そして腹を括ったかの様な勢いで、手にした杯を一気に飲み干す。 「そうか」 そんな高次をどこか嬉しそうに横目で眺め、九郎が笑った。 「では話を聞かせてもらおうか。……お前の、本当の話をな」 焚き火に照らされた夜更けの庭に低く響きながら、高次の話が始まった。 「あの娘……小春殿は、富裕の家の娘にありがちな高慢さも無く、家の仕事を助けてよく働いて、掛け値無く良い娘だと思います」 少々向こう見ずのようですが、と付け加え、高次はまた溜息をついた。 「菊様が一ヶ谷の跡継ぎなどとは関係なく、どこぞの町娘のように育っていたらこんな感じかと……どちらかと言うと娘に接するような気持ちで私はおりました。もしくは妹か。……いや妹と言うより娘で……」 困ったような横顔は、この男にしては随分と珍しい。普段はそんなに好まない酒の力を借りながら、高次の話は途切れがちに続いていく。 「……上申した報告はご覧頂けましたか」 「軽く。……相手の侍が相当しつこかったらしいな」 九郎の応えに高次が頷く。 「ぬるく育った侍程どうしようもない子供は居りません。店先で見初めたあの娘を、毎日朝夕飽きもせず付け回していたそうです」 天下を二分した戦乱も終わり、徳川が世を掌握して既に久しい。 血肉を削り、互いを喰い散らかしながら争う戦の業火から遠くなったのは侍も忍も同じだが、牙が抜け落ちるのは侍の方が幾分かだけ早かったようだ。 「身分と家柄で飾り立てても、中身が腑抜けではどうしようもありません。それが何を勘違いしたか、身の飾りのみをひけらかして世の中を押し切ろうとするから質が悪い。……それでも何とか穏便に済ませたいと、松上屋――あの娘の生家ですが――は再三の無理矢理な求婚を、何とかなだめすかしながら断っていたそうですよ。……最初は」 その流れがある日変わる。 再三の断りに焦れた相手がとうとう力に訴えた。 ――白昼堂々、往来で小春を襲ったのだ。 「阿呆だな」 九郎が呟く。 「ド阿呆です」 高次も同様に頷いた。その口調は厳しい。 「神社に詣でていた所を強引に、力ずくで我が物にしようと……自分の屋敷まで攫っていこうとしたそうです。その時は幸いにも同行していた乳母の尽力で人が集まって来たので何とか事無きを得たそうですが……しかし親としてはたまったものではないでしょう」 侍屋敷の中に連れ込まれてしまえば、如何に被害者であろうとも町人は口出しも手出しも出来ない。それが己の娘であろうと妻であろうと、身分の壁の内側に引き込まれた者を連れ戻す事など出来ないのだ。 「しかも藩主に縁続きの大身が相手では、町の番所でも何の役にも立たない。……そこで松上屋の主人は商売で得た伝手を頼って我ら一ヶ谷衆に娘の用心棒を頼んだと――しかし、今度は何故か私が見初められた……のか? 何が起きているのかよく分からないのが本音……ですが」 言い淀む。 「ですが、本当に皆が思っているような事は何も無く……。妙に懐かれたようだとは思っていましたが、まさか押しかけてくるとは……」 高次の語尾はほとんど溜息と同化している。 そんな、乙女心を理解できずに低く唸る自分の側役の顔を覗き込み、九郎が呟いた。 「――……なんだ、お前本当に何もしとらんのか」 「……」 「………」 「………」 「……ん? どうした?」 沈黙が場を支配する。 「…………そういう嘘を、疑ってたんですか?」 「つまらんな、火遊びが火事になったお前を助けてやりたいと思ったのに。……ホントにつまらんな、小娘に手を出した堅物に恩を売っておく好機が来たと思ったのに」 「つまらん?! 何ですか火遊びとは!! 恩?!」 「で、話の続きだが」 「人の話聞いてますか?! 私を何だと思って……!」 主人に対するいつもの丁重さをかなぐり捨て、素に戻って怒る高次だが九郎は一切気にしない。 平然とした顔で高次の盃に酒を注いでやり、はいそれで?と真顔で話を促す。 「ではどの辺が嘘だったんだ?」 「………っ」 高次は、言葉も無い。 「お前、そのアホ侍はどうしたんだ。まさか迷惑してます御理解下さいなどと口先で片付けたのではないのだろう」 「……それは、その辺りは書面にて申し上げました通り、問題無く」 更に苦い顔になった高次の口調は渋い。 「問題無く周辺を探って強請りをかけるに足るだけのネタを探り、ドアホ本人ではなくそのバカ親直々を真っ向から脅した訳だな」 九郎が薄く笑う。 「いや、真っ向と言うのはおかしいか。何しろ苦しい筈の藩財政の中からどうやって横領金を捻り出すかの素晴らしい腕前詳細云々を、何も知らない藩主様に懇切丁寧にお伝えするが良いかと夜半に男の枕元で囁いた訳だから」 「誤解を招くような言い回しはお控え下さい。……まあ、そうなんですが」 何の縁も所縁も無い高次が昼間に屋敷を尋ねた所で藩の重鎮に会える訳が無いので、小春を襲った侍の親の寝所に忍びいって脅しと直談判を行なったというのが真実だが、言い回しはともかく間違いでは無いので高次は肯定して沈黙する。 「お前、それをあの娘の護衛をしながらやったんだろう」 「ええ」 「あの娘から見たら、お前は颯爽と現れて言葉少なにあっという間に平和的な解決をして、そして見事自分を救ってくれたように映るだろうな」 「……実際手早く始末できたとは思いますが、別に平和的では」 まともな親なら、自分の子供が士道にあるまじき無様を行なったなら何かしらの制裁を与えるだろう。だがこの侍の親は自分の息子を罰する事も制する事もせず、長く野放し状態にしていたのだ。 無理な横恋慕の挙句に町娘に狼藉を働き、しかし何のお咎めも無しというこの体たらくならば、親も親で叩けば埃の一つや二つ出るだろうと予測をつけていただけの事。影働きとして別段難しい手段を用いて解決した訳では無い。 九郎の言葉の真意が取れずに高次は眉根を寄せるが、そんな高次に唇を吊り上げて九郎は笑んだ。 「高次よ、お前格好いいな」 「は?」 「恐ろしい。素でやったのか?」 「はっ?!」 楽しそうに杯を煽り、高次を見やる九郎の表情は、まるで子供の頃に戻ったかのように悪戯的だ。 「年端も行かぬ小娘を落とすには充分。全く、我が側役殿の手練手管は侮れんな」 |