紫雲、たなびく (1) 高次に嫁が来た。 「……菊、あそこの座敷に座ってる人が師匠のヨメさまになる人?」 子供が二人、庭先の木陰から邸内を窺っている。 声量を落とし身を隠し、しかし好奇心だけは旺盛に剥き出しで、その二人は肩を並べている。 菊と小太郎だ。 「ああそうだ、さっき母上とお祖母さまが心底楽しそうに立ち話してるのを聞いたから間違いない。さっそく父上に早馬を出したそうだぞ? 嫁さまが来たのに当の高次がいないんじゃ話にならないから早く帰してくれって。ま、出先はすぐそこだし、御頭と側役の二人が行ってるて言っても今回のは大した用事じゃないみたいだし、すぐ帰って来られるだろ」 興味津々と顔中に書いてあるような表情で早口に説明しつつも、菊の視線は『高次の嫁』らしき人物に固定されたままだ。 「うーん……師匠のヨメさまかー……」 「……なんだ小太郎、変な顔して。あの石頭の高次の祝言なんてきっと絶対おもしろい――いや、めでたいじゃないか。嫁入りの日は大振舞いでごちそうが出るぞ、楽しみだろう?」 「う――ん……」 いつもの小太郎ならここで大喜びする所であるが、今日の反応はイマイチだった。 珍しいなと菊が思うと同時、小太郎が呟く。 「……でもなんかさ、俺思うんだけどさ」 「何なんだお前、さっきからハッキリしないな」 「うん」 首をひねりつつ、小太郎は続ける。 「……あの人、師匠のヨメにしてはなんだかすっごく若くない?」 一ヶ谷は大騒動である。 「まさかねえ、この目が黒い内にあの子が妻を迎える事になろうとはねえ」 一ヶ谷衆先代頭目の妾であり後妻であるシエ――高次の実母でもある――は、目に大粒の涙を浮かべ、袂で目頭を押さえ押さえしつつ喜んでいる。 「良かったですねお義母様! 高次どのの事は皆で気を揉んでいましたもの。今までどんな良縁にも見向きしなかった方ですけど、そろそろ御心を決めなさったのですね」 一ヶ谷衆現頭目の妻である菜津――こちらは菊の母である――も、一緒に手を握り合って大喜びだ。 「ああホント、嬉しいねえ……。九郎さまもご立派に成人なさったし、あとは菊さまの花嫁姿を見れたなら、私はもう何も思い残す事は無いですよ……」 そう言って言葉を詰まらせるシエの涙は、心からの本物である。 「あらやだお義母様、何を仰るんですか。お義母様にはまだまだ長生きしていただいて、菊の孫まで見ていただかなくっちゃ」 「あらあら……ふふふ」 「ふふふ」 「ふ、」 「う」 しかし、何とも微妙な間が一瞬空いた。 「……でもね、あの、お菜津さま。私、ちょっと思ったんですけどねえ……」 「……はい、えっと、何でしょうお義母様」 嬉しそうではあるものの視線は逸らし気味の菜津に対し、シエは言いにくそうに、しかし思いきったような顔つきで口を開いた。 「――……あの娘さん、うちの高次の嫁にしては、ちょっと若すぎる気がするの……」 で、当の本人は寝耳に水だったようだ。 「ですから! 私に嫁取りをする気は無いと何度言えば!」 「いいから聞け高次。お前いくつになった? いつまで独り身でいるつもりなんだ? 嫁の一人や二人さっさと迎えて、義母上を安心させてやれと俺は言ってるんだ」 「そうですよ高次どの、とてもいいお話のようなのにそんな頭ごなしに否定しなくても。――所であなた、嫁は一人で充分ですから」 「ん?」 「ねえ、お二人の言う通りよ高次、そろそろ私を安心させて頂戴な。……あのお嬢さんはお前を慕ってわざわざこの一ヶ谷の山里まで来て下さったって言うじゃないの。もうすぐ日も落ちるし、今から追い返すなんて事、しないわよねえ……?」 すがる様な声音の老母に対し、高次は素っ気無い。 「いいえ丁重にお帰り願います。駕籠と旅籠の手配はもう済んでおりますので、誰か信頼できる者を付き添えて明日にでも国許に送り返す手筈です」 そうキッパリと言い置いて厳しい表情のまま腕を組む。 しかし。 「残念だったな高次、それならさっき俺が全て断った」 その素っ気無さは主である九郎の一言で瓦解した。 「なっ?!」 「あなた! 流石!」 「ああ九郎さま……! ありがとうございます……!」 女性陣の絶賛に軽く手を挙げて応え、普段はあまり表情の動かない九郎が珍しく微笑む。――意地の悪い笑みで。 「さあ高次、俺に感謝しろ」 「……アンタと言う人は……ッ!!」 一ヶ谷先代頭目の嫡男と、その先代の妾の連れ子。そういった立場の違いこそあるが、少年時代から兄弟同様に共に在る手前、主従の垣根を取っ払った素に戻れば九郎と高次の間に遠慮は無い。 九郎が眉をひそめて呟く。 「悲しいぞ高次、側役の行く末を心配する主人の心がお前は何故分からんのだ。妻がいて子がいると言うのは良いものだぞ? 時々肝が冷えて肩身が狭いが、概ね楽しい。お前もそろそろ身を固めて落ち着いてみろ」 「アンタがそんなだから私はいつまでも落ち着かないんですよ! 心配してる? 私にはこの状況を楽しんでいるようにしか見えませんがね!」 「それは心外だな」 「嘘ですね」 ハラハラと見守るしかないシエと、夫の言葉にほんの少し片眉を動かした菜津を他所に、主従二人は睨み合う。 「――とにかく、私は女房を娶る気は一切ありません。あの娘の若気の至りに付き合うヒマもございません」 一つ大きくため息を吐いた高次が更に切り出した。 「いいですか。私とあの娘とはほとんど親子ほど年が違う。挙句に向こうは大店の娘、こちらは忍。いくらなんでも住まう世界が違います。……そもそもあちらの親御がこんな縁談を許す筈がないでしょう」 「……ねえ高次、あのお嬢さんはお幾つなの? どこで知り合ったの? 知らない仲じゃないんでしょう? ねえ……」 シエがすがる。 「今年で十六と聞いております。私の娘だと言っても通りますよ」 でもそれくらいの差だったらなんとか、と身を乗り出した老母を置いて、高次は尚も続ける。 「……三月程前、普段でしたら請けない内容の仕事が入り、他に適当な者が居りませんでしたので私がそれに出向きました。あの娘とはそこで会っています」 「では面識はある訳だな?」 「無論あります。ですが所詮は仕事で会ったというだけの事、皆が期待するような深い会話を交わした記憶はございません。そんな必要もありませんでしたので」 その程度、ただ知人であるだけの仲だと皆の顔を眺め、先程の言い争いとは打って変わってすっかり冷えた物腰で、高次は重ねて言い述べる。 「……嫁だの何だの、どこから出た話か全く判りませんが」 そして続ける。 「私は、何故皆がこんなにも現実味の無い話に入れ込むのか、それが本当に不思議でなりません」 一方こちらでは奇妙な交流が始まっていた。 「ほう……それで小春どのはここ数ヶ月、ずっと高次に会いたいと思っていたと」 「ハイ。でも、いつまでも悩む位ならいっそ、もう一度実際にお会いしてしまった方が……気持ちに区切りもつくのではと考えて……、あの、それで」 「高次に会いに来たと」 「ハイっ! そ、そうなんです菊様!」 「菊ー、俺話がぜんぜん分かんない」 「子供は分かんなくていいんだ。小太郎はあっちに行ってろってば」 「……菊だって子供だろ」 いつの間にか座敷に上がりこんだ菊と小太郎、そして小春――渦中の娘の名前である――が、場持たせにと客用に出された菓子をつまみつつ、話し込んでいる。 「バカ侍に岡惚れされて困ってるからと請われて、しばらく陰守(かげもり)に高次が行ってたのは知ってたが、それがこんな大店のお嬢さんだったとは知らなかったな」 「大店っていうか、昔っから商売やってるってだけですよ」 大人びた口を利く菊に、すっかり打ち解けた小春が笑う。 ざわざわと妙に騒がしい屋敷内に落ち着かなく居た所に菊たちを見かけたため、話し相手が出来て安心した様だ。……まさか、屋敷当主の一人娘が覗き見まがいをしていたとは思っていなかっただろうが。 話題に出た内容に当時の事を思い出したのか、笑顔だった小春の視線が畳に向いた。 そのままぽつりと口を開く。 「相手がお侍で、しかも藩主様にも縁続きのお偉い様で……そんな方相手じゃあ困った事があっても私たち町人が何か言える訳無いじゃないですか……。だから、その時も」 不意に翳った眼で何か言いかけ――しかし菊のような子供の前で話す事ではないと気がついたのか、小春はあいまいに緩く笑って語尾を濁す。 「――とにかく、このままじゃいけないって、私の父がツテを頼って苦肉の策で呼んでくれたのが、こちらの……一ヶ谷の、あの……っ」 「高次だったと」 「あああそうなんです―――!!」 小春の頬が一気に染まり上がった。 「えっと……それで、カゲモリって言うんですか? 詳しくは分かりませんが、その、高次さまが私を守って下さるって事になって」 小太郎はさっぱり分からない話にもうすっかり飽きていて、外に遊びに行きたそうにそわそわしている。だが菊は普段あれだけ男勝りなくせにどうも小春の恋話に興味があるらしい。すっかり話に聞き入っていて、小太郎の事など眼中に無い様子だ。 ……半分くらいは『あの』高次にどうして恋するに至ったかを知りたい、単なる好奇心の表れだろうが。 「小春どの、それでそれで?」 「ハイ! そりゃあ初めてお会いした時は何だか凄く怖い方のように思えたんですけど、それはただ普段お静かなだけって途中から分かってっ。毎日付かず離れずで付いてて下さってたんですけど、そういうのや……他にも色々あったりして、……それで、なんだか、こう……」 小春が顔を赤くして俯いていくのと同時、語尾は小さくなっていく。 だが、とろける様に笑んで頬を染めるその姿は、子供の菊から見ても非常に微笑ましい。 「高次さまって、本当はすごくかわいい方なんだなあって……」 ただしその呟きは、子供二人の驚愕の声によって台無しにされたが。 |