紫雲、たなびく (10)


 騒動から暫くの後、小春は足の怪我が落ち着くのを待って故郷へと帰って行った。
 本間の一件に関しては、藩の重鎮である実父が息子の醜聞を厭い――……一ヶ谷衆が隠蔽工作を施すまでも無く、勘当先での病死扱いとして早々と片を付けたらしい。
 本間の実家の方でも息子の行いには辟易していたという事だろう。どうみても他殺である実子の死すら己が身に降りかかった醜聞であると斬り捨てた、体裁ばかり取り繕いたがる侍の体質――それが変な所で幸いしたなと、九郎が片頬を上げて呟いた事が菊には印象的だった。

 幸い小太郎の怪我も、あれだけ派手に潰された割には打撲擦り傷と脱臼のみと大した事は無く、一ヶ谷葛木家には普段通りの平穏が戻っていた。


「静かだな……」
 小春の生家である松上屋は呉服問屋であったらしい。
 娘の命の礼として、事件後に松上屋から山と贈られてきた着物の中の色鮮やかな小振袖を身に付け、葛木屋敷の奥座敷で花を生けながら菊は呟く。
「こないだまでの騒ぎが……嘘みたいだ……」
 庭に面した日当たりの良い座敷で静かに楚々と座って花を手繰るその姿は、どこぞの大身武家の姫君めいた典雅な風情だ。
 元々菊の容姿は母親譲りに冴えている。いつもの少年の様な勇ましい格好ではなく少女相応の身なりの時は、普段顔を見慣れている小太郎ですら一瞬見惚れる事があるくらいに愛らしい。

「あーもーつまらんなあ。小春どのはあっけなく帰ってしまったし、これで高次に嫁が来るアテはもう無いな」
 だが口を開くと途端に父親似だ。
 女らしい事が嫌いと言う訳では無い。だが、母親から課せられた宿題である生け花には早々と飽きたらしく、花器はほったらかしにして縁側ににじり寄り、女中頭から命じられて庭で草むしり中だった小太郎に声をかける。
「あれ小太郎、お前もお礼にってたくさん着物もらってただろ。何で着てないんだ?」
 縁側から響いた菊の声に小太郎が振り向く。
「俺なんかがあんないいやつ着てたら、あっという間に汚しちゃうだろ。だからお方さまに正月まできれいにしまっててくださいって、お願いしといた」
 切り傷とたんこぶを作った額に大きな膏薬を貼りつけた小太郎が、草むしりの手を休めてにこやかに笑う。その笑顔につられて菊も微笑んだ。
「そうか、汚しちゃうか」
「うん。破った時はいっつも菊が直してくれるけど、変な汚し方したら頑張って洗濯しても取れないだろ?」
 泥のついた手でのへーっと笑いかけてくるその顔には、先日本間へ喰らいついていった時の気迫などカケラも無い。
 夜に添い寝をせがんでくる事も人前で甘えてじゃれてくる事もめっきり減ったが、やっぱりこいつには私がついていなければダメだと、緊張感の無い笑顔を前に菊は決意を新たにする。

(でも……その為には、今よりもっと……)


 あの土壇場、菊は動けなかった。
 動けなかった原因は己の油断から生まれたものだ。あの時に自分が油断さえせずにいたなら事態はもっとすんなりと終着し、小太郎にも小春にも無駄な怪我をさせずに済んでいただろう。
 この初陣は完全に負け戦だった。捨て身の小太郎や、土壇場で間に合った高次が介入しなければ今頃どうなっていたか分からない。……悔しいが、それは覆しようもない事実だ。
 失態を生んだ自身の慢心を菊は強く恥じ、その晩は口惜しさからとうとう一睡も出来なかった。
 似た過ちは二度と繰り返したくない。
 ならば、どうすればいいのか。

 ――己を磨くしかない。
 何物にも負けず、屈せず、技だけでなく心から強く在るように。
 小さな手でも守りたいもの総てを包んで、唯の一つも零さぬように。

「……菊、何? どうかしたか?」
「いや、何でもない。……うん、ごめんな」
 寄ってきて首を傾げる小太郎の頭を緩く撫でてやり、菊は一人頷いた。



「て言うか小太郎、高次は小春どのに関して何か言ってなかったか?」
「なんかって?」
「だってお前、素直にって言うから何が起こるか期待してたのに小春どのはものすっごいあっさり帰ってったし、御礼の品物が贈られて来た時も父上宛と私と小太郎宛しか手紙はついてきてなかったし、高次は何にも言わないし、これはフラれたという事だよな」
 縁側で腕組みをし、折角の小振袖に全く似合わない素振りで菊は顔をしかめる。
「そうは言っても、師匠がそんな話を俺にするわけないだろ?」
 色恋沙汰に全くもって興味の無い小太郎は、小春の安否は気にするもののそれ以外のやり取りには興味を示さない。まだそんな事が気になるのかと言外の表情で問われ、菊は唸る。
「……それはそうだな。みんなもあれ以来何も言わないし……
 ため息が漏れた。
「いっそダメ元で本人に聞」
「何をです」

 声が聞こえたと同時、菊の頭に和綴じの教本がどさりと乗せられた。
「二人共やるべき事があるのでは? 無駄話をしている場合では無いと思いますが」
 いつもの堅苦しい声が日当たりの良い座敷に朗と響く。
「……噂をすれば何とやらだな」
「お黙りなさい」
 ――高次だ。

「小太郎、そこの草むしりが終わったら道場の裏へ回れ」
「う、うわ。……あんな広い所もむしるとか?」
「無論。――菊様は花の扱いが終わったらこちらを読み始めるように。全部を明日の昼までにです」
 高次の声はいつも通りに重く低い。
「……高次、私は朝から一回も家の外に出てないんだぞ。勘弁してくれ」
「たまには良いでしょう。いつまでも子供ではないのですから、外で遊びまわるのもそろそろ控えたら如何ですか」
 そうやって菊たちを見やる表情もいつもと寸分変わりなく冷静で、そこに可愛気というものは全く無い。
「……何が『素直に話が出来る』だか……」
「だからさっきから何をブツブツ仰っているのか」
 菊の呟きに訳の分からない高次が眉根を寄せる。


 本間の所為で怪我をした小春は、あの後一旦一ヶ谷に戻って手当てを受け、そしてほんの少しだけ療養をして帰って行った。
 決して長い滞在ではなかったが、その間に高次と何らかの話をしたのは確かなのだ。
 しかし葛木の当主である九郎直々に小春の件に関しての詮索は一切不要との言が出されている為、屋敷の者達はそれを厳命と受け止めて皆この事に関して何も言わない。本人達への詮索はもちろん、辻での噂話や茶飲み話にすら出ないのは、一ヶ谷衆に於ける主の采配下知への徹底的な追従が窺えた。
 そんな空気の中でも菊は義祖母や母親にそれとなく聞いてみたのだが、噂好きの女性陣すら九郎の命には忠実で、子供がそんな事を聞いてどうするのと笑ってはぐらかされるばかりだ。
 ――高次と小春との話は終わったのか否か。
 菊は、それが気になって仕方ないというのに。

「――よし高次、交換条件だ」
 菊の言葉に無言のまま高次の眉が上がる。
「本の四冊や五冊くらいしっかりきっちり読んでやるから、お前は私に情報を提供しろ。何なら小太郎にも同じくらい読ませるから」
「ギャー菊が俺を売った――!」
 好戦的な眼で高次を見上げる菊の宣言は高らかである。
 さらりと告げられた内容に、座学がとことん苦手な小太郎はかなりの衝撃を受けていたがそんなのはどうでもいいようだ。
「それは宜しいですな、文句を言わず静かに勉学に励んでいただけるのなら悪くない条件だ。そのやる気に免じて各自追加で、あと二冊程お付けしましょう。……で、お聞きになりたい事とは何ですか?」
「さり気なく増えた――!」
 小太郎の泣き言など誰も聞いていない。
 高次の淡々とした促しに、菊の顔が不意に真剣になる。
「分かってるくせに。小春どのについてだ」
 意図していた内容だったのか、今度は高次の眉根に変化は無い。何も言わずただ静かに、黙って菊の顔を見下ろしている。
「当主たる父上が詮索無用と言ったなら、私もそれに従うほか無いだろう。でもこれだけは教えて欲しい」
 真摯な眼差しで菊は続ける。
「……高次、お前本当に小春どのが迷惑だったのか?」

 その問いに関する答えは簡潔だった。
「迷惑でした」
 一言そう告げる。
 ――しかし、少なからず予測していた答えを受けて苦々しげな菊の表情を見、高次はゆっくりと再度口を開いた。

「松上屋からは報酬として充分な金子を既に受けています。それ以上の礼など不要。……なのに外部の者が急に訪れた事で、仕える主の領内で要らぬ騒ぎが巻き起きた。その騒ぎが菊様達に実戦を与える事になったのは思わぬ収穫でしたが、それ以外は迷惑と呼ばずして何と呼びますか?」
 言い延べつつ座敷内に歩を進め、畳に置かれた文机に教本をドサリと乗せる。
 ひとつ小さく息を吐いた。
「最寄の村までは供を連れて来ていたそうですが、大勢で押し掛ける事の失礼を気遣ったからとは言え、終始随伴させないのでは供連れの意味が無い。若い娘が男の元を訪ねたら妙な噂が立つのも至極道理。そういう事に気づかない、その辺りの認識不足も不快です。……そもそも年頃の娘が家から遠く離れて出歩く事自体、私は感心しませんな」
 高次の言葉は容赦が無い。

 だが。

「……ですから、今度は来る前にきちんと連絡を寄越しなさいと言ってあります」

「は?」
 付け加えのように述べられた一言に、苦々しげだった菊の目が一転して瞬いた。
「え、何?」
 黙ってやりとりを聞いていた小太郎も同様だったようで、菊と高次の顔をきょとんとしながら見比べている。


「急に来られては皆困るでしょう」
 では、と一言言い置いて、高次は部屋から出て行った。
「……っと!」
 一瞬思考に間が空いたが、我に返って菊は急いでその背中を追いかける。小太郎も菊を追って庭から廊下に駆け上がり、子供二人は去って行く高次の背中を追う。

「なあ! それは小春どのがまた来る予定があるって事だな?!」
「決まった訳ではありません」
「だって連絡しろって言ったって事は、また来てもいいって言ったと同じだろう?!」
 バタバタと追いかけて菊が問う。
 格好だけ姫君然としていても騒々しいのは変わらないと、高次は溜息をついた。
 そして続ける。
「――その気があるなら、雪が降る頃にもう一度来なさいと言っただけです」

 何事でもないように告げる高次の表情の、いつもの冷静さに変わりは無い。
 しかしその視線がどこか柔らかく見えるのは、背後から見上げる菊の見間違いでは無いだろう。

「そうか」
 菊の顔に笑みが満ちる。
「楽しみだな……!」
 そして弾むように呟いて、高次の大きな背に飛びついた。
「……菊様、悪ふざけも大概になさい。お幾つになられましたか」
「たまにはいいだろう」
 やれやれと息を吐く高次だが、声音から嫌がっている様子は感じられない。呆れ顔の高次の背にしがみついてよじ登り、肩と首にぶら下がりながら満面の笑みで菊は笑う。

 高次と小春の間にどんなやりとりがあったのか、菊たちには分からない。
 だが、近い内にあの優しい笑顔にもう一度会えそうな予感がして、菊の頬は自然とほころぶ。
「ねえ何? えっ、結局どういうこと?」
「だから子供は分かんなくていいんだ」
 笑いながら高次の背にしがみつく菊に小太郎が追いすがる。
 子供が子供に何を言っているのかと高次が呟くが、背にくっついた菊を追い払うわけでもなく、むしろ落とさぬようにゆっくりとその歩みは進んでいく。

「なあ高次、小春どのの白無垢姿はきっと可愛らしいだろうな」
「気が早い。そういう意味合いでまた来いと言った訳ではありません」
 これ以上言って高次の機嫌を損ねても良くない。
 ハイハイと生返事を返しておいて、菊は高次の大きな背中に抱きついたまま顔を埋めた。
 追いついた小太郎も、訳が分からないなりにどことなく嬉しそうな顔で高次の袖口を掴む。
 そんな二人を背と脇に見やり、高次は小さく笑う。


 一ヶ谷に雪が降る頃、高次はどんな顔で小春を迎えるのだろう。
 小春は、どんな笑顔で会いに来るのだろう。


 屋敷の外では晴れた空に紫がかった雲が緩くたなびいている。
 今年の冬の到来は、きっと今までで一番待ち遠しいものになるはずだ。



―― 終



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