一ヶ谷歳時記
(いちがやさいじき)(8)



元旦、初日の出・弐 】


 御来光参りも終わり、朝日に照らされながら皆でぞろぞろと雪の山道を下って、それぞれがそれぞれの家へと戻って行く。
 一旦自宅へ戻り、老いも若きもこの日の為に用意したとっておきの晴着やせめてもの一張羅に着替え、新年の挨拶まわりへと繰り出すのだ。
 弥平は結局、あの後も姿を現さなかった。菜津やシエなどの女衆は置き去りを不憫がったが、男連中は鉄馬も含めて皆けろりとしている。
「新年早々こんなんで、弥平さまが捻くれちゃわないといいんですけどねえ……」
 とは、ときの盛大な溜息まじりの言である。


 隣家に住まう小六達と別れ、九郎達一行が屋敷へ戻ると、屋根の上に人影があった。
 皆で大きな門松の脇を抜けて注連縄飾りの門をくぐった途端、その人影から声がかけられる。
「おぉーい」
 よく通るその太い声は秋津のものだ。正門正面の屋根瓦上で煙管片手にどっかと腰を下ろし、高みから九郎達に向けて手など振っている。
「やあやあ皆々様、高い所からご無礼仕る」
 その大きな背中には、もこもこに着膨れた菊と小太郎が張り付いていた。小太郎は未だ眠たそうに秋津の背に額をべったりくっつけていたが、菊は遠目からでも分かる程相当に機嫌が悪い。
「やっと帰ってきた……!」
「あなたが起こしても起きないからよ」
 秋津の背中から恨めしそうな目で睨む菊に、菜津が呆れた息を吐く。
「除夜の鐘も御来光も行きたかったのに! もっと起こしてくれたら絶対起きたのに! こやもだぞ何で起こしてくれなかったんだ!」
「いやいやこやも努力はしましたけどね、お嬢さまがあんまりにも可愛い顔して寝てるから、これは起こしたらダメなやつだなって」
「おっまっえっはいつもいつもそうやってすぐに」
「ちなみにそこのチビは鼻つまんだらすぐ起きましたからぁ」
「もー!」
「いやはや」
 屋根の上で地団太を踏む菊の帯を掴んで抑えながら、秋津が笑う。
「皆が出かけてしばらくしてから飛び起きられましてな、もう暴れるわ怒るわ拗ねるわ暴れるわで」
 山頂へ行くには時が足らず間に合わなかったが、代わりに屋根から空に向かって皆で手を合わせたらしい。まだうとうとしている小太郎とふくれっ面の菊を背中に負ぶって、秋津が屋根から庭先へするりと降りてきた。
「ほら菊様、皆々様へ正月の挨拶をせねば」
「どうせ後でするんだろ」
「この子はまーだ膨れとらっせる」
「秋津うるさい」
 むくれる菊を余所に、九郎と高次はこれから大挙する来客に備えてさっさと家の中へ入って行った。菜津もそれを追いかけつつ、いい加減にするのよと眉根も険しく菊に一言残して去っていく。こやはケラケラ笑いながら菜津について行った。
「菊さま、あとで婆がおぜんざいでも甘酒でも作って差しあげますから。ね、ご機嫌直しましょ」
「私もお餅焼きますよ! きな粉とか、くるみ味噌とか。あっ、うちの実家の方ではあんこのお餅が有名なんですよ、似たようなのを作ってあげましょうか」
 シエと小春がなだめるようにあれこれどうだと提示するが、秋津の腰にくっついて顔を背けたままの菊の機嫌はねじ曲がりっぱなしだ。
「わあ菊いいなー、ぜんざいと餅だって」
「ええそうよ、美味しいわよ。みんなで食べましょ」
「ねー、小太郎ちゃんも好きだもんね」
 ようやくしっかり目が覚めた小太郎は二人の提案に満面の笑みだが、菊は未だむっつり膨れて無言である。
「あらら……」
「まあ、随分と楽しみにしてらしたからねえ……」
「わっはっは、こればっかりはまた年末が来るのを待ってもらわねばなりませんから、どうにも」
「俺も何度も起こしたのに、起きない菊が悪いんだろ」
 小太郎の正論に、菊の頬がさらに膨れる。

 そんな中、葛木家の門扉を小柄な影が一つくぐった。
「ああ菊いた。良かった、まだ着替えてないね」
 短く呟き、菊に向かって小走りに寄ってくる。――九郎の長弟の妻である、香羽
(こう)だ。山中に新年早々置き去りにされた菊の従兄、弥平の母親でもある。
 香羽は元々葛木家と縁続きの家の生まれのため、本家への出入りも自由であるせいか、誰に憚ることなく遠慮なく門をくぐって庭内へとやって来る。
「まあ香羽さま、あけましておめでとうございます」
「香羽様、お久しゅうござる。今年もどうぞよろしくお願い致す」
 年配二人が挨拶し、続いて小春と小太郎がぺこりと頭を下げる。その言葉に、香羽も丁寧に礼を返した。
「お義母さま、秋津さま、それに小春どの。あと菊達。どうぞ今年も万事よろしく」
 整っていない訳では無いが、飾り気のほとんどない顔付きに属する香羽は見た目同様中身も堅い。柔らかさとは無縁そうな視線と物言いで新年の言祝ぎを述べ、きちりきちりと頭を下げる。
 そして菊の方を向き直り、首を傾げた。
「……何、機嫌悪いの」
 叔母上には関係ないと菊が返した低い声は、秋津の分厚い肉に吸われて消えた。未だ自分の腰にくっついて顔を埋めたまま不貞腐れている菊の頭をわしわしと撫で、秋津が笑う。
「これは夜更かしが出来なくて行きたい所に行き損ね、早起きが出来なくて見たいものを見損ねた結果でして」
「自業自得」
「叔母上!」
 遠慮なしにズバリ一刀叩き斬った物言いは、葛木の血の成せる業だ。
 だが、途端に怒り出した菊を物ともせず、香羽は胸元から何かを取り出し、そっと菊の黒髪に挿した。
「これあげるから、機嫌直して」
 菊の柔らかな黒髪を彩ったのは、幾重もの花弁を持つ菊花を模して造られた髪飾りだった。誰かの晴着を作った際の端布を使ったのだろうそれは、朱色の鮮やかな色合いと模様とで菊の黒髪によく映えた。
 花弁にそっと添えられた小さな鈴が、菊が動くたび涼やかに鳴る。
「作ったの」
 息子にしか恵まれなかった香羽は、姪である菊が可愛くて仕方がない。無愛想ともとれる口元に、ふっと優しい笑みが差す。
「今から晴着を着せてもらうんでしょ。それ付けて、後でうちの爺様たちにも見せに来て。あと弥平がなんか半泣きで帰って来たから慰めてやってよ」
 シエと小春が菊の顔と髪飾りとを覗き込み、まあ可愛い、お似合いですと歓声を上げた。途端、菊の顔に明るさが戻る。
「叔母上、ありがとう!」
「義姉
(あね)さま達に、あとの御挨拶には弥三郎さまも一緒に伺えそうですって伝えておいてね」
 手ずからの品を褒められ、可愛い姪を褒められて、香羽が笑む。
 分かったと元気よく答えてから、上機嫌の菊は小太郎の方に向き直った。
「どうだ小太郎、似合うか」
「ええっ俺?!」
 大人達の視線が一斉に小太郎を刺す。
 期待に満ちた菊の笑顔と、何とも楽しげに頬を緩める秋津と、どことなく冷めた風情の香羽と、早く褒めるのよ頑張ってと視線だけで訴える小春とシエとを順々に見やり、まさかこっちに飛び火すると思ってなかった小太郎は、言葉を選ぶようにゆっくりゆっくり口を開いた。
「すごく似合ってる! ……と、思う! ます!」
「うんうんそうだろ」
 完全に機嫌の直った菊が大きく頷く。
 正しい返答を見事成した小太郎に女性陣は安堵の溜息を洩らし、秋津は笑いを堪えきれず勢いよく吹き出した。
「……菊、うちの弥平にしとく気は無い? そりゃあちょっと頼りないけど」
 真顔で香羽が告げた背後、雪の庭に秋津の大笑いが響き渡る。








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