一ヶ谷歳時記
(いちがやさいじき)(7)



【一月一日 元旦、初日の出・壱】


 元旦の空が夜明けを控えて薄っすらと色づき始める頃、まだ暗いと言うのに、それでも一ヶ谷の里はにわかに騒がしくなる。
 騒がしいと言っても煩いような事は無い。人々の姿が往来に次々と現れ始め、さわさわと密やかに活気づき、皆が一斉に山へと向かう。葛木家の面々も、例外ではない。

「御頭さま、お方さま、あけまして! おめでとうございまーす!」
 喧嘩も終えて、真綿のしっかり入った防寒着に身を包んだ九郎と菜津が玄関へ赴くと、そこには笑顔のこやが立っていた。
 二人の姿を見、元気よく新年の挨拶をし、玄関に置かれた行灯
(あんどん)の傍らで素早く履物を揃えて用意する。
「雪は止んでますが、山の方で道が埋まってるといけませんから、お足元はこれを」
 言って玄関の三和土
(たたき)にこやが並べ置いたのは、足を脛まで覆う形に藁で編まれた深沓(ふかぐつ)だ。水が染みぬようしっかりと目を詰めて編み込まれ、外側の底部分にはなめした革を敷いてある。
「あら、これ新しいじゃない」
「今日絶対に必要になるからと思って、編んでおきました」
 夜明け前の薄暗い中でも、こやの笑顔は輝いて見える。
「もちろん菊さまの分も編んどいたんですけどー……」
「……起きなかったのね」
 力及ばず、と頷いてこやが項垂れる。
「チビ助は起きましたが、菊さまが行けないなら自分も残ると」
「秋津様は?」
「お留守居なさるおつもりだそうです。屋根から見るから大丈夫だって仰ってました」
 言いながら、こやは手早く菜津に深沓を履かせていく。
「本当ならお方さまには御輿
(おこし)をご用意したいんですけど。暗い山道を歩かせるなんて」
「皆も歩くんですもの、私一人そんな訳にはいかないわ」
「でーもー」
 菜津の事を姉のように母のように慕うこやは、菜津に関してはひどく過保護だ。寒くないよう丁寧に身支度を整え沓
(くつ)を履かせ、それが終わってからようやく九郎の足元に跪く。
「今日の外はですね、いつもより歩きやすいと思いますが、お足元はどうされますか? 御頭さまは深沓お嫌いですよね。いつものように雪駄
(せった)をご用意してますけども」
「それで構わん」
 言いながら、九郎が行灯の灯りに足先を向けてこやに見せる。九郎が常日頃着用している足袋は今履いているもの同様に鹿革製だが、菜津が先程用意したものは更に獣毛を内側に仕込んである。それなら雪駄だけでも大丈夫と、こやは一層笑んで見せた。

「――他の皆さま方は、雪払いも兼ねて既に向かわれました」
 葛木の紋が入った提灯に行灯の火を移し、こやは二人を先導すべく立ち上がる。
「それでは一ヶ谷の御来光
(ごらいこう)参り、今年もこやがご案内いたしますね。御頭さま、お方さま」
 向けてくる笑顔は子供の頃と同じく純粋な好意に満ち満ちていたが、年頃を迎えてこやの振る舞いも随分と大人びた。艶やかさすら感じさせた物言いに束の間二人で顔を見合わせて、九郎と菜津はふわりと微笑む。
「じゃあよろしくね」
「では行くか」
 今年初めての朝日を皆で迎える、御来光参りが始まった。


「兄者
(あにじゃ)ァ! それに義姉上!」
 九郎達が門から出るなり、大音声
(だいおんじょう)が辺りに響く。
「あけましておめでとう! 雪止んで良かったな! 今年もよろしくな! あとで酒持ってくっからよォ!」
「お前と言う奴は正月早々声の大きい……いや、あけましておめでとう」
 馬鹿でかい声に眉根を寄せた九郎の側に大股で寄って来たのは、隣家の主であり、九郎の末弟である小六
(ころく)である。その隣では小六の妻のときがふくふくとした愛らしい笑顔を見せながら慎ましく頭を下げており、更にはその傍に着膨れした小さな人影が二つ立っていた。
「伯父上、伯母上、あけましておめでとう!」
「あけましておめでとうござい……あれ、いない?」
 挨拶しつつも二つの人影は辺りをきょろきょろと見渡している。しかし門から出てきたのが九郎と菜津、そしてこやの三人だけである事を確認し、一人は少々苦笑し、一人は吠えながら両腕を天に高々突き上げた。
「菊は今年も起きられなかったか! ざまあみろ!」
「御来光を楽しみにしてるってうちの母上から聞いてたんだけど、今年もだめだったかあ」
 菊の従兄にあたる、鉄馬と弥平だ。従兄弟連中の中で一番年長の弥平はそうでもないが、鉄馬は昔から菊とは何事も反りが合わず喧嘩ばかりで、正に犬猿の仲と言えた。
「お前ら相変わらず仲悪いな」
「今年こそは菊ともうちょっと仲良くしてくれると嬉しいんですけど」
「絶っっっ対にいやだ」
 そう言いつつも、鉄馬は九郎と菜津の間に並んで立つ。風邪を引いて寝込み中の父と、その看病で御来光に行けない母の代わりに来たらしい弥平は、ときの福々しい身体の半歩後ろに所在無さげな風に立った。
 鉄馬は菊とは仲が悪いが、伯父伯母である九郎と菜津の事は気に入っている。そもそもを辿れば菊との仲違いも、菊が生まれる前まで自分が独占していた九郎や菜津の膝上を、二人の実子である菊に腕ずくで獲られた事に起因していた。
 今だけは葛木夫妻を独占で機嫌のいい鉄馬に、皆を先導するこやが意地悪げな笑みを見せる。
「鉄若さまは初日の出に何をお願いするんですかぁ? 打倒菊さまですかぁ? 無理だと思いますけどもー」
「うっせえバカこや、今年はお前にも負けねえからな、覚えとけよ」
「うっふっふ、ぜーんぶ無理ですねっ! 残念」
 こやは小六直轄の二番隊所属であるため、その息子である鉄馬とも距離が近い。
 しかし、新年早々にわかに始まった賑やかなじゃれ合いを余所に、九郎が口を開いた。
「……おい、雪が無いぞ」
 降り続いた大雪は深夜に止んだばかりだ。雪払いも兼ねて先に幾人かが向かっているとはいえ、山に続く里内の道は当然埋まってしまっている。――……はずだったが、そう広くなくとも距離はそれなりにある道の殆どの雪は、全て避けられ皆が歩きやすいようにと脇へ高く積み上げられていた。
 九郎は静かにそれらを見やり、そして小六に視線を向ける。
「お前か」
「俺と高次と、あと二番隊と三番隊の若造どもだな。今年の御来光さんは拝みやすいぜぇ」
 小六の顔は得意気だ。
 山深い場所にあり、谷に囲まれた一ヶ谷の里では、朝日を見ようと思ったら山の上方を目指さねばならない。その為の道筋は、深雪に覆われているのが常だったが――……
「私が去年の朝一番で、雪と氷に足を取られてすっ転んだので」
 それまで皆のやりとりを笑顔ながらも慎ましく見守っていたときが、頬と目元をを幸せそうに赤くしながら口を開いた。
「だもんですから、お父ちゃんてば私のために暗い内から頑張ってくれて」
「うちのカカアのでっかい尻がこれ以上でかくなったら大変だからな!」
 小六が豪快に笑い飛ばす。その隣で小六に寄り添いながら、ときは何とも嬉しげだ。
「ま、相変わらずお熱い」
「これなら里の年寄り連中も歩き易くなって喜ぶだろう。小六よ、新年早々徳を積んだな」
「その辺の爺婆共もそうだけど、義母上も膝が痛くてそろそろ雪道は無理かもって言ってたからよぉ。やっときゃみんな喜ぶって思ってな」
「うちのお父ちゃんは本当に三国一ですから……!」
 兄夫婦から褒められ、女房から熱い視線を向けられて、小六が照れ隠しに再度の大声を上げた。
「それよか早く行こうや。日の出に間に合わなくなっちまうし、何より高次と義母上たちが山のてっぺんで待ちわびてるぜ」
 太い指が示す空は、その端が夜の濃色からほんのり薄々と白みかけてきている。雪に包まれてしんと静かなその暗闇を、九郎達は進み始めた。

 向かう先は、朝日が今年一番に差し込む場所。
 皆が歩む白い雪道を、提灯の暖かな光が優しく照らす。





 目的地である山頂には、既に多くの里人たちが集まっていた。
 山道を登りきった先、東向きに開けたそこはちょっとした広場のようになっており、正月元旦の御来光参りのために、皆で夜明け前の真っ暗なうちから山道を登って来ているのだ。
 怖い顔の組頭に正月早々――と言うよりもまだ大晦日時分の真夜中に叩き起こされ駆り出され、里中から山のてっぺんまでの雪かきをさせられた若者たちが、伸びて倒れていたり疲れ切ってしゃがみ込んだりしている姿がやたら目立ったが、多くの者は老いも若きも皆笑顔である。冷え切って凍えそうな中でいくつかの焚き火を囲み、談笑し、その火に大鍋をかけて振る舞いを作ったり、団子を炙ったものなどを皆で分け合ったりしつつ、初日の出を今か今かと待っている。
 一ヶ谷の里は普段は血生臭い仕事に従事している者が多い土地だが、正月を迎えて浮かれる気持ちはどこの里も皆変わらない。その笑顔は晴れやかで、とても明るい。

「九郎さまたち、遅いわねえ」
 山頂で白い息を吐きながら、九郎達の義母であり高次の実母であるシエがそわそわと背後の暗闇を振り返る。
「大丈夫かしら、何かあったのかも。ねえ高次、迎えに行った方が良いんじゃない?」
「例年通りなら水垢離はもう終わっているはずですが、邪魔をしないよう声をかけずに出てきましたので二度寝をしている可能性はありますね……」
 元旦早朝の水垢離は、九郎が葛木家と一ヶ谷衆頭目を継いでから毎年ずっと、周囲には何も言わず自発的に行っている事である。その気持ちを慮って高次は毎年知らぬふりを通していたが、過去に何度かは二度寝を決め込まれ、御来光参りの場に九郎が姿を現さなかった事があった。
「……しかし、菜津様が今年もお世話をしていらっしゃったので、きっと大丈夫です」
 ある程度の雪かきを終えて、母と小春を迎えに高次が一旦家に戻った際、九郎の為にと甲斐甲斐しく着替えや暖を整える菜津の姿を見かけた。九郎のために考えて用意されたそれらは傍目からでも真心尽くしで、夫に対する細やかな気遣いが感じられた。
 あの様子なら九郎が寝床に再度引っ込もうとしてもちゃんと連れ出してくるだろうし、寝かせた方が良いと判断したなら、それはきっと菜津が正しい。
 こと九郎の世話に関しては、高次は菜津に全幅の信頼を寄せている。仲睦まじい様子を思い浮かべて微笑む母に焚き火を勧めながら、高次はそう言って頷いた。
「――お義母さま、高次さま、あちらの焚き火からおぜんざいを分けていただきました!」
「まあまあ」
 そう言いながら小走りに寄ってきた小春の声に、皺に埋もれたシエの笑みが更に深くなる。
「うちの嫁も、お菜津さまに負けないくらい甲斐甲斐しいこと」
「何のお話ですか?」
「何でもない、転ぶなよ」
 きょとんと首を傾げつつも小春が差し出した木盆には、太竹を椀代わりに節目で切り、そこに熱々のぜんざいを注いで炙った団子を二つ三つ浮かべたものが載っていた。添えられた箸も器と同じく竹をそのまま削っただけの素朴なものだったが、そこから立ち上る真っ白な湯気は、夜明け前の薄闇に映えて暖かい。
「高次さまの分もありますよ」
 熱いですから気を付けて、と竹椀を差し出す小春へ微かに笑んでそれを受け取り、熱いぜんざいを一口すすると、高次の腹の中にじわりと心地良い熱が広がった。
 そして皆できんと冷えた空を仰ぐ。里からは見上げるほどに高い山々が、今は目線の高さに程近い。あと少し経てば、白雪を分厚くまとったそれらの稜線を越えて、今年最初の太陽が顔を見せる。
「……もうすぐ夜明けだな」
「はい!」
 湯気に混じり、薄闇に散る小春の吐息は軽やかだ。
「もうすぐ、ですね」
 自分を見上げてきた小春の笑顔と束の間だけ視線を通わせて、高次も緩く笑う。





 九郎達がようやく山頂へ着いた頃、闇は空からすっかり消えていて、山頂へ集った里人たちの顔がよく見えた。
 皆、朝日が昇るのを今か今かと待っていたが、山頂に駆け込む形で騒々しくやって来た九郎達に、一同がざわめき立つ。
 
「何とか間に合ったな……危なかった……山の途中で朝日を拝む事になる所だった」
「重ってえ……雪かきより疲れた……おいとき、お前また肥えやがったな!」
 荒い息の間から言いながらも男二人が、里人たちの注視の中、肩に荷物か米俵かのように担いでいた自分の女房を地へ下ろす。
「ひどい……私達の足じゃ間に合わないからってこんな、人攫いみたいに……!」
「おとうちゃんってば! それは最近ご飯が美味しいからしょうがないのよ!」
 下ろされた途端に菜津とときからは文句が上がるが、それぞれの女房を担いで上りの山道を疾走してきた九郎達は荒い息を整える事に精一杯でそれどころではない。特に肉付き豊かな女房を抱えて走って来た小六は、流石の体力自慢とはいえ息も絶え絶えの風情だ。
「やっと追い付いた、お二方ともさっすが早かったですねえ!」
 着物の裾を絡げつつ、笑顔のこやも駆け寄って来る。数歩遅れて真っ赤な顔の鉄馬も駆け込んで来たが、こちらは汗びっしょりと言った有様で、それを見た近くの大人が急いで焚き火の近くに連れて行って着物を脱がせ、汗を炙るように火に当たらせた。――弥平の姿はどこにもない。背丈はあるが体力に劣る弥平は、山中の暗闇に提灯を握らされ、後からゆっくり来いとでも言うように置き去りにされたのだろう。

 元々提灯しか持っていなかったが、手持ちの荷物が無くなったせいか山道の全力疾走直後であってもこやの呼吸に乱れはない。羞恥にしゃがみ込んで項垂れる菜津に足取りも軽く近寄って、よしよしと慰めはじめた。
「さあさあお方さま、お二人が走って下さったおかげで御来光に間に合いましたよっ。ね、お参りしましょ」
「前にもこんな事があった気がするの……だけどその時より扱いがずっと酷い……」
「確かに今回はお米さま抱っこでしたけど、今も昔も変わらずお方さまは別嬪さまです! わあ羨ましい!」
 微妙に慰めになっていない言葉で更にうなだれた菜津に、こやが笑顔で指をさす。
「ほら、始まりましたよ」
 こやが示した指の先で、日の光が零れ始めた。


 里人から一斉に歓声が上がり、そして皆が陽光に向かって手を合わせる。
 家族で揃って柏手を打つ者、頭
(こうべ)を垂れるだけの者、数珠を取り出して念仏を唱え出す者――
 山奥の田舎らしく作法は皆バラバラで取り留めもないが、真摯な崇拝は本物だ。思い思いに御来光を拝し、一年の健康や豊作、家族の平穏などを祈り、感謝を奉げる。
 九郎と菜津も稜線をこがねに染めた陽光に暫し目をやった後、周囲同様それに向かって手を合わせた。
「改めて、今年も宜しく」
 菜津の隣に肩を並べて立った九郎が、ようやく整った息と共に菜津の耳元で小さく囁く。
「仕方がないので、今年もよろしくされてあげます」
 つんと顔を背けて返した言葉に、九郎が笑った空気を感じて菜津も小さく微笑んだ。

「――御頭様、お方様」
 口々に新年の挨拶を交わす人々の晴れやかなざわめきの向こうから、礼拝を済ませて近寄ってくる高次達の声が聞こえてくる。
 手を振る小春やシエに同じように応え、九郎も菜津もそちらへ向かって歩き出す。

 一ヶ谷の地に、今年最初の暁光が降り注ぐ。








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