一ヶ谷歳時記
(いちがやさいじき)(6)



【一月一日 元旦、払暁前】


 夜明けにはまだ遠い時間帯。
 山々に囲まれた空は濃紺に強く塗り潰されたままで、未だ払暁の気配は感じられない。
 雪は止んで雲は晴れたが、部屋の中であっても身を切るような寒さだけは変わりない。そんな冷えて澄んだ空気の中で、葛木九郎は独り静かに目を覚ました。

 しんと静まり返った自室をそっと抜け出し、未だ真っ暗な庭へと向かう。
 下帯に寝間着一枚の薄着姿で、真新しげな麻の単衣
(ひとえ)だけを持ち、暗闇を雪を踏みながら歩き、真っ白な息を吐きながら九郎は井戸端へとたどり着いた。
 厳寒の大雪でも井戸が埋まらぬよう、凍り付かぬよう、一ヶ谷では井戸周りを囲うような形で小屋を建てる事が多い。里内に点在する通常の井戸は、柱と雪除けに広めにとった屋根だけの簡易なものが多かったが、葛木家が使っている中で一番大きな井戸はその四方を土壁で囲み、出入口を母屋と繋げ、さながら水仕事専用離れのようになっている。
 だが、九郎が向かった先はその大きな井戸ではなく、庭の外れに位置するひどく小さな井戸だった。壁など無く、雨雪除けの小さな屋根が申し訳程度に付いたささやかなものだ。
 ――ここが一番、人目に付かない。
「……普段なら死んでもやらんがな」
 誰に言うでもなくぼそりと呟く。そして、そのまま着ていた物を脱ぎ捨てた。厳寒に下帯一枚の裸身を晒し、途端に身を襲う寒さを耐えながら井戸に汲み桶を投げ込んで――
 そして、凍った水面に桶が当たる物悲しい音を聞き、大きな大きな舌打ちをした。
「………」
 無言のまま、真っ暗闇の中、九郎は下帯一枚の尻を出した姿で、井戸に分厚く張った氷を割ろうと奮闘し始める。屋敷の皆を起こさぬよう庭の外れを選んだのが功を成し、誰にも見られていない事だけが幸いだったが、正月早々九郎の心は折れかけていた。
「……もうこのまま部屋に戻るか……」
 常に無く情けない呟きが、白い息と共に暗闇にぼんやり溶ける。


 苦労して何とか氷を砕き水を汲み、まずは口に含んですぐに吐き出す。この時点で既に九郎の顔に生気は無い。
 次いで両掌を濯
(すす)いで清め、多少なりとも慣らすように足先に水をかけ、腕にかけ、予めその場に用意しておいた幾つかの桶にも水を汲みあげて、足元にずらりと並べ置く。
 そして、九郎はため息に等しい大きな呼吸を一つ漏らした。
「こういう甲斐性は高次の領分だろうに」
 ぼそりと呟いて柏手
(かしわで)を二回打ち、そして遂に冷水を頭から勢いよく浴びせ始めた。
 目を閉じて歯を食いしばり、間を置かず三度四度と繰り返すと、九郎の細身の身体から真っ白な湯気が濛々
(もうもう)と立ち上がる。
 ――心身を清める水垢離
(みずごり)だ。

 払暁前の暗闇の中で、黒と白が混じり合う。
 場に立ち込めた水蒸気と共に、周囲に激しい水音が響き渡る。

 無言のまま更に水を被り続け、最後に再度柏手を打って、九郎は深く息を吐いた。
「――……」
 日の出にはまだ遠く、空は夜の色に塗り潰されていて暗い。だが後もう少し経てば、今年最初の朝日が昇ってくる。

 しんと穏やかな静謐の中、九郎の正月は始まった。





 用意しておいた麻の単衣を濡れた素肌に手早く纏い、雪の高く積もった庭を半ば駆けるような早足と大股でざくざく進んで、九郎は私室前の縁側へと戻り来る。
 濡れ髪が途端に凍りつくような厳寒の中でふと九郎が目をやると、開けっ放しにしてきていた雨戸の近くに人がいた。その人影は九郎が来やるのを目敏く見つけると、すぐさま傍へと駆け寄って来る。
「お疲れ様でした」
 その人物は笑みながらも心配そうな声音で九郎に駆けより、冷え切った九郎のその身体に綿入れを着せ付けて、更には自分が羽織っていた上着をかけて襟巻も巻きつけた。そして凍えた九郎の手を自らの両手で包んで息をかける。
「……早いな菜津、起きていたのか」
「はい、今年も水垢離をされてるんだろうと思って。……おはようございます」
 九郎の戻りを庭先で待っていたのだろう菜津の手は決して温かくは無かったが、凍えた身には何とも優しい熱さだった。さあさあ早くと促されてそのまま部屋に入ると、大きな火鉢には煌々と熾火が燃えていて、その上にかけられた大きな鉄瓶からはしっかりと湯気が立っていた。
「お白湯です、温まりますよ」
 子供に握らせるように渡された湯呑みの温もりが手の平から全身に染み渡り、九郎の口からは先程とは違う種類の大きなため息が思わず漏れる。
「お前はいい女だな」
「あら。新年早速のお褒めのお言葉、ありがとうございます」
 部屋を見渡すと、水垢離をしに部屋を出た時には無かったものがいくつか増えている。
 炭を贅沢に沢山入れて暖かく整えられた火鉢と、熱い湯の入った鉄瓶もそれの一部だが、昨晩の内にしっかりとのしをかけて皺を伸ばしたらしき礼装の素襖
(すおう)が上から下まで一揃い、室内の衣桁(いこう/衝立形の着物掛け)にいつの間にか用意されているのを見、九郎の唇が笑みに彩られる。
 冷え切った身体の夫を温めようと甲斐甲斐しく動く妻に対し、頭を下げた。
「明けて早々世話をすまんな。今年も一つよろしく頼む」
「はい、こちらこそ」
 言って菜津は居住まいを正し、床の上に三ツ指をついた。
「九郎様に於かれましては、日々ご健勝の事まことに喜ばしく」
 深く頭を下げると同時、艶やかな黒髪がさらりと揺れる。
「謹みまして新年新春の御言祝
(おんことほぎ)を申し上げます。今年もどうぞ」
 そこで菜津の言葉が止まる。
 どうぞ? と首を傾げた九郎が先を促すと、優しく笑んだ菜津が面
(おもて)を上げた。
「今年もどうぞ、可愛がって下さいね」

 小春どのの真似をしてみましたと、両袖で口元を隠して愛らしく笑う菜津に九郎がぼそりと口を開く。
「……お前は本当にいい女だな……」
「ふふふ」
「新年明けて早々、閨
(ねや)に誘って来たかうちの女房は」
「えっ、いや、それは違」
 九郎の言葉に菜津の顔色がさっと変わる。
「確かに俺はまだ寒い。白湯も良いが人肌が恋しい。……お前は本当によく気が利くな」
「違いますよやめて下さいちょっとしたお茶目じゃないですか」
 よっこらしょと追い被さろうとしてくる九郎を菜津は真っ赤な顔で押し留めるが、力で九郎に適う訳も無い。あっという間に押し倒されて、懐に手を突っ込まれてしまう。
「いやああああああ冷たッ! 冷たい!」
「俺はぬくい」
「わた、私そんなつもりじゃ、小春どのがいつも可愛い事言ってるから、私もちょっとした冗談で、あっ」
「元旦にする事ではないが、女房殿から誘われてしまっては仕方がないな」
 据え膳喰わぬは何とやらと呟いた九郎の声に、菜津が一気に青ざめる。赤くなったり青くなったり、正月から忙しい。

「――なんてな」

 が、観念して目を固く閉じた菜津を見やって、するりと九郎が離れていった。
「流石にな……今からだと夜明けに間に合わん。山も上らねばならんし、雪道だし」
 どっこいしょと立ち上がった九郎が、これみよがしにため息をつく。
「菜津よ、誘うなら誘うで少々なりとも空気を読め。今は時と場合と余裕が足りん」
「なっ」
 菜津の顔が再度赤くなる。――無論、照れではなく。
「そもそもそんなつもりで言ったんじゃありませんし!」
「うちの嫁はなあ、よく気が利くがこういう所が情緒が無いと言うか何と言うか」
「待ってください! 九郎様が言っていい台詞じゃないですよそれ!」
 ニヤニヤしながら紡がれる言葉に、菜津は眉を吊り上げる。

「あー寒い寒い、おい足袋はどこだ」
「もう知りません! 一人で着替えてください私絶対手伝いませんから!」
「正月早々に初喧嘩だな」
「……誰のせいだと思ってるんですか……!」

 夜明け前の痴話喧嘩はなお続く。








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