一ヶ谷歳時記(いちがやさいじき)(4) 【大晦日 暮六ツ刻】(PM18:00頃) 山里の日暮れはあっという間だ。 皆で何とか大晦日の仕事を終わらせ、今年も一年ありがとう来年もよろしく等と挨拶などをして、慌ただしく夕飯を済ませ、皆で順番に風呂を使って新年への禊(みそぎ)を終えた頃には、すっかり日も落ちてもう空は真っ暗だった。朝から降り続いていた雪はようやく止んだが、空には未だ分厚く雪雲があり、星も見えない。 だが、辺りを一面真っ白に塗り潰す勢いで降り積もった雪のおかげで、冬の一ヶ谷は宵闇であっても薄っすらと仄(ほの)明るい。 「……本当に真っ白」 分厚い雪にすっかり包まれて、夜目にも真白い庭を縁側から眺めながら、小春はそっと一人呟いた。 雪の夜は何とも静かで、不思議に明るい。、まだ乾ききらずにほのかに湿る洗い髪がしんしん冷えて寒くはあったが、通りすがりの雪景色に視線を奪われて、小春はしばし立ち尽くす。 (一ヶ谷では、一晩で辺りが染まります) (……染まる?) (純白に。夜目にすら真白く) まだこの一ヶ谷の里に嫁いで来る前、夜の暗闇の中で言われた言葉を思い出す。 そう、あの頃は夜の闇が怖くて仕方がなかった。あらゆるものに怯えていた時期があった。だが、あの時に一ヶ谷の雪の事を教えてくれた人のおかげで、小春は今、ここにこうして立っている。 小春にとって、一ヶ谷の雪景色には特別な思い入れがある。凍え始めた指先に白い息を大きく吐きかけ、羽織っていた綿入れの前を掻き寄せ、寒さに身を震えさせてそれでも尚、小春はこの美しいものから目が離せない。 「本当にきれい」 笑んだ唇で再度、かじかんだ指に息を吐きかける。 無茶をしたこと、考え無しをしでかしたこと、その他諸々――……あの誘拐事件にまつわる長い長いお説教と、酷い言葉をぶつけてしまった事への真摯な謝罪との果てに、高次は言った。 ――その気があるなら。迷惑でなければ。他に良い人がいないのであれば。 そう長々と言い置いた後で、 「雪が降る頃にもう一度この里へ来なさい。その雪を見て、この土地を知って、それでも良いと思えるのであれば、私は……貴女を迎えたいと思う」 半ば苦笑混じりの、それでも優しく穏やかな声で、あの人は小春にそっとそう告げた。 その言に添い、小春は行儀見習いと言う態で、去年の晩秋に一ヶ谷の里へと再度来たのだ。 小春の来訪を歓迎するかのように、到着の晩、一ヶ谷の里に早い初雪が降った。 その雪は止むことなく降り続け、高次が言っていた通り、一ヶ谷は一晩で純白に染まり上がった。 山道を封じるように降り積もり、人々の往来すら厳しくなるほど降りしきり、総てを重く塗り潰すように降り込む大雪は、確かに暖かな土地に生まれ育った小春にとって初めての辛さではあった。 だが姑となる人は生来穏やかな性格で優しかったし、ようやく来てくれた嫁候補と言う事も手伝ってか再訪した際に嬉し泣きされて拝まれたほど温かく迎えられた。恩人でもある菊と小太郎は小春に一ヶ谷ならではのしきたりなどをあれこれ細かく教え、子供ながらに何くれとなく世話を焼いてくれた。 行儀見習いの名目ではあったが、実質は恋い慕う人の生家での花嫁修業である。戸惑うことも勿論多かったし、更に親元が恋しくならなかったと言えば嘘になるが、それでも雪深い山里での辛さが気にならぬほど、小春は一ヶ谷に居られる事が嬉しかった。 そんなこんなで日々が過ぎ――高次からあの言葉を貰ったのは去年のちょうど大晦日、そして今小春が立っているこの縁側だった。 「――……何をしている」 小春が感慨深く思惟に耽っていると、不意に不機嫌な声がした。 「こんな所で何をしている、風邪をひくぞ」 「えっへっへ、雪見をしてたんです」 「屁理屈を言うんじゃない」 声の主が不機嫌そうな顔のまま大股で歩み寄り、そして自分が着ていた上着をがばりと脱いで着せかけて、小春の頭から身体の半分以上を覆い隠す。途端に香った男の匂いに包まれて、小春はとろりと微笑んだ。 「あったかい」 「こんな所に立っていれば身体が冷えて当然だ」 額に青筋を浮かべて小春を睨み据えるのは、言うまでもなく高次である。 あの頃ならこうやって怒られれば恐縮もしたが、嫁いで一年も経った今ではすっかり慣れてしまった。ごめんなさいと笑顔で形だけ謝って、小春はぴたりと高次へ寄り添った。 「お仕事はもうよろしいんですか? 他の皆さまは?」 「……何とか仕事納めの形にはなったので、後は来年の自分に任せる。……九郎様も同様だ」 見れば、高次の目の下には夜目にもくっきりと疲れのクマが張り付いている。早目の夕餉(ゆうげ)を小春が菜津と運んだ時にはまだまだ終わっていなかったから、あの後相当に頑張ったのであろう。 「お、お疲れ様でした」 「ああ……」 高次は力無く頷いて、随分と深く切ないため息を、肺腑の底から吐き出した。 「……お前は、こんな所で何をしていた?」 不意に、高次の声が和らいだ。 自分へ張り付いてきた小春の身体が、予想以上に冷えていた事に驚いたのだろう。普段ならばそんな事はそうそうしないが、夜も更けて周囲に人目が無い事もあってか、包んだ上着ごと小春の肩を高次が抱き寄せた。二人で肩を並べて雪の庭を眺めながら、より強く高次の体温を感じて小春の笑みは更に深まる。 「本当に雪見をしてたんですよ。……高次さまは覚えてらっしゃいますか? 去年の今頃」 「去年?」 何の話だと言外に問う高次に、小春が告げる。 「雪が解けて春になったら祝言をあげようって、ちょうどこの場所で言って下さいました」 「ああ……、そんな話はもう忘れてしまった」 雪の庭に視線を投げたまま素っ気なく言い放った高次に、小春は頬を膨らませた。 「ひどい」 だが、雪景色に向けられた高次の顔は穏やかだ。被せられた上着の温もり同様に優しい熱を肌で感じながら、小春は寄り添ってそっと目を閉じた。 「小春、今日はよく働いたそうだな。先程母上から聞かされた」 暗い縁側の廊下で、静かな雪の庭を眺めながら高次が言う。 「来客の多い、元旦の明日こそが本番だ。皆を助け、万事つつがなく進めるように。……頼んだぞ」 「はいっ!」 他人にも自分にも厳しい高次に、若干突っ走りやすい所のある小春が褒められたり頼られる事は滅多にない。疲れ果てて心が弱ってるのだろうかと少々心配にならないでもなかったが、ここは素直に喜びを表して、小春は高次の腕に抱きついた。 小柄な小春からして見れば、高次は見上げるほど大きい。本当は首筋に抱きつきたかったが、それをするには身長が足りない。代わりに力強く逞しい腕に自らの身体を押し付け、細い両腕をしっかりと絡めて、その感触と熱とを全身で堪能する。 だが、それまで和やかだった場に突如として沈黙が満ちた。 高次が急に黙り込む。 「……わあ……」 やり過ぎて、はしたないと呆れられたのだろうか。 ゆっくりと身体を放し、いたずらが過ぎた時の子犬と同じ顔付きで、小春はそろりと高次の様子を伺う。高次はただ無言で小春を見つめていた。 「すいませーん……」 「……」 「……」 これは今年最後のお説教が来るぞと、小春は高次から更に一歩離れる。その動きに合わせたかのように、高次がゴホンと一つ咳払いをした。 「小春」 「アッハイすみません、えっと来年こそは」 「――今から、私の部屋に来るか」 返事の代わりに、小春は再度高次へと抱き付いた。 いつの間にか雪雲は流れて、高次の肩越しにいくつか星が瞬いているのが見える。 濃紺の夜空に、二人の吐息が混ざって溶けた。 |