一ヶ谷歳時記(いちがやさいじき)(2) 【大晦日 朝五ツ刻】(AM9:00頃) 「今年こそは除夜の鐘を突きに行く」 葛木家の女衆のみならず、下男下女など全員が新年の準備にバタバタと忙しい中のその囲炉裏端、当主の一人娘である菊が得意気に胸を張る。 明日に控えた元旦の準備で屋敷中――いや、里中が慌ただしい中、そのせわしさに浮かされたように菊の頬は上気している。 「突きに行って、あったかい甘酒をもらって、あそこの寺は茶店の揚げ菓子が美味しいからそれを食べて、飴を買って、そのまま朝までずっと起きてて、そして父上と一緒にご来光詣でに行く。大晦日は大人はみんな起きてて、店もあちこち開いてるんだろう? どんな風なのかを色々見るんだ」 何とも得意気なその宣誓に、同じく囲炉裏端で熱い蕎麦茶などをもらっていた秋津が大きく笑って頬を緩めた。 「そりゃあ結構な事で」 「約束しただろ! 起きていられたら連れてってくれるって言ったのは、秋津だぞ」 各地に散った大勢の一ヶ谷衆も、正月は新年の言祝(ことほぎ)の為に里に戻ってくる。元旦には大勢の人間が新年の挨拶で葛木家を訪ねてくる。 先代頭目の側役であり、今は他所へ居を構えている秋津も、正月に合わせて一ヶ谷の里へ戻って来ていた。その秋津の大きな膝に元気にまとわりつきながら、菊は更に言い募る。 「もう子供じゃないんだから、私は夜更かしだって平気なんだ」 「それはそれは」 「本当だぞ!」 「いやはや、いつの間にか菊様も大きくなられましたなあ」 呵呵(かか)と笑って湯呑の茶を一気に飲み干し、秋津は菊の顔を覗き込んだ。秋津のその眼差しは、歴戦の戦忍(いくさしのび)とは思えない、慈愛に満ちた優しげなものだ。 「では、菊様がちゃーんと起きていられるようなら、この秋津めが煩悩払いの鐘突きにお連れ致そう。でも、空がこのまま吹雪はじめるようだったら諦めて下されよ? 元旦から風邪っぴいたら、晴れ着もご馳走も全部無しになりますぞ」 「心得た! では雪が止むように祈っておこう」 小さな頭を黒髪ごとわしわしと、秋津の大きな手で撫でられながら、目を輝かせて菊が応える。 「あっ小太郎! 小太郎もいっしょに連れてくぞ、いいだろう?」 「あのチビ坊主ですな、それは勿論」 小太郎にも話してくると嬉しそうに言い置いて、早速駆け出して行った菊の背中を眺め、秋津も囲炉裏端から立ち上がった。 大晦日だと言うのに、文机の上に積み上がった書類のあの山を思い出すと気が重くなるが、菊の笑顔の期待に応える為にも頑張らねばならない。 「それでは儂も、頑張って仕事納めをしてしまうとするかあ……」 書き物仕事がどうしても終わらないと、大晦日なのに書斎に篭りきりの可哀想な頭目主従の顔を思い浮かべつつ、秋津はぼんやりと呟いた。 「……ああ、早く終わらせて酒が飲みたい……」 その呟きが聞こえたのか、忙しく立ち働いていた周囲の下人たちがどっと笑う。 一ヶ谷の里は相変わらず一面の雪景色で、白黒ばかりで色彩などどこにもない。空はどんよりと鉛色に重く雲が立ち込め、空気はしんしん冷え込んで凍てついている。 だがこの屋敷の中だけは、不思議な活気と暖かさで満ちていた。 「さあて、正月はすぐそこまで来ているぞ、皆もう一息だ」 よく通る秋津の笑み含みの声が、辺りに大きく明るく響く。 |