一ヶ谷歳時記
(いちがやさいじき)(1)



【大晦日 明六ツ刻】(AM7:00頃)


 忍軍一ヶ谷衆が多く住まう一ヶ谷の里。葛木家はその頭目の屋敷であり、この一ヶ谷で最も大きな屋敷でもある。
 暮れも押し迫った大晦日、葛木家の朝は早い。

「寝ては駄目なんじゃなかったですか?」
「寝ていない。目を閉じているだけだ」
「あなたそう言っていつもそのまま寝て起きないじゃないですか。あ、火鉢に炭入れますよ、灰が散るからちょっと離れて……、それとももう終わったんです?」
「終わってませんよ、断じて終わっていませんよ、菜津様、引っ叩いてでも良いので九郎様を起こして下さい今寝かせたら間違いなく昼まで起きないつもりです許しません早く、菜津様」
「だそうですよ、はい、失礼しますね」
「やめろ……顔を揉むな……、くそ、誰だ大晦日にまで仕事を持ち越した奴は……」
「残念ながら私と貴方の両方です九郎様。さあ四の五の言わずに手を動かす」

 白雪のしんしんと降り積もる早朝。
 夜明け直前の、そろそろ下男下女などの下働き達が起き始めるかという時間帯。
 分厚い綿入れを羽織った姿で、火鉢の炭を補充してやろうと台十能
(だいじゅうのう/炭火を運ぶための道具)に真っ赤に熾(おこ)った炭を入れて九郎の私室を訪れた菜津が見たものは、仕事が終わらず夜通し働きづめた夫と、その腹心の姿と、力尽きて寝たらしい大きな背中だった。

「……秋津さまはお休みですね」
「秋津様は四半時
(しはんとき/現在の30分)だけ寝ると仰られて、つい先程力尽きました。秋津様は良いのです、起きると言われた時は必ず起きますし、何よりも我々の手伝いに巻き込まれただけです。寝かせて差し上げたい。ですが九郎様、貴方は駄目です。貴方が寝てどうする。起きなさい。目を開けたまま寝ない。分からないとでも思っているんですか。起きなさい。九郎様、…………」
 ――いい加減殴るぞ、と低く呟かれた声は、臣下ではなく兄としての高次の本音だろう。本気としか思えないその声音と目付きに、九郎が居住まいを正して座り直した。

 が、またすぐにがっくりと項垂れる。
「菜津よ、今どれほどだ」
「明六ツくらいですよ。朝餉には美味しいものを用意させますから、あと少し頑張って下さいな」
 どんよりと澱んでいた男だらけのむさ苦しい部屋の空気が、菜津が入ってきたせいか煌々と熾る新しい炭火を火箸で掻き混ぜたせいか、はたまた単に雨戸を開けたからか、心なしかすっきりと晴れた気がしてくる。
 ――しかしそれでも九郎の声に精彩は無い。
「夜通し灯明の油を無駄遣いして、大の男が三人も顔を突き合わせて……それでもまだこんなに残っているのか。堪らんな」
「仕方ありません、役方
(やくがた/事務係)だからと弥三郎様に書き物仕事を全部丸投げしていたツケです。……ご本人だって好きで風邪引いて寝込んでいるのではありません。我々が、頑張らねば」
 集中の切れたらしい九郎に比べ、高次の筆を動かす手は止まらない。ただ寄る年波のせいか、時々目を細めて紙面を目から離したり目頭を揉んだりなどしているのはご愛嬌だろう。
「今年の仕事納めは、加後院家主催のクソのような連歌会参加だと思っていたんだがな……。あとは家で酒飲んで飯食って新年を待つだけだと思っていたが、帰ってきたらまさか弥三郎が寝込んでいるとは全く以って甘かった」
「そのお話を伺った時に思ったんですけど、九郎さまが御歌なんて本当に詠めるんですか?」 
 夫の愚痴に対し、火鉢に乗せた鉄瓶の湯で熱い茶を淹れながら、菜津が問う。
「加後院
(かごいん)家の当代は連歌通で、上下の身分問わずで歌を集めて品評するのがお好みなんだ。何の因果か、我々のような家業の者にまで雅を要求してくるから質(たち)が悪い」
 ちなみに今年の歌会は、行儀見習いで奉公に来ていた年若い侍女の歌が一番の誉れを賜った。下々の者であっても積極的に才を認める方針は、加後院家の当代は随分と啓
(ひら)けていると言える。
 だが、九郎達にしてみればいい迷惑でしかない。しかも何ともほのぼのしい事に、取引めいた政治色の一切無い純粋な趣味人の集まりでもあるので、仕事での上得意先から呼ばれたら断るに断れない一ヶ谷衆からしてみると場違いも甚だしい。――……もっとも、九郎が加後院当主に昔から気に入られている事が、そもそもの原因である訳だが。
 歌会の花添えにと供された酒肴が、流石の上物だった事だけが救いである。

「九郎様がどんな顔して詠んでいるのか、想像が全くつきません」
「言っておくが俺はやる時はやる男だぞ。よし、今度お前の耳元で囁いてやる」
「……それは楽しみですけど、高次どのにそろそろ怒られますよ」
「おっと」
 茶の入った湯呑を握り潰しそうな顔でこっちを見ている高次の視線を受け、九郎がようやく口を閉じた。
 黙々と書き物仕事を再開する姿を見、菜津もそっと部屋を出る。

 ふと外を見れば、空は雪混じりの薄曇りではあったが白々と明け始め、山の稜線をほんのりと染めており、里の多くの人々が一日を始めるべく働き始めていた。
「さあ、今年も今日で最後ね」
 笑んで囁いた菜津の声に乗せて、軽やかな白い吐息がふっと散る。

 一ヶ谷の里の、大晦日が始まった。







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