神代植物公園の噴水

学生時代の一時期、確か大学二年生の夏の頃、丸山圭三郎に傾倒していた。主著である『ソシュールの思想』をはじめ、『文化のフェティシズム』『生命と過剰』『文化記号学の可能性』などを立て続けに読んだ。講演会も聴きに行ったことがある。

のめり込んだのは彼の、あるいは彼がソシュールから吸収した、と言うべきか、その言語観に魅せられたから。

言語は記号ではない

この主張は衝撃だった。言語の恣意性をソシュールの講義録を道案内に5段階にわたり展開する論述に強い知的興奮を感じた。

この主張は、「言葉の境は国境線と同じではない」という田中克彦の主張と同じように、私の言葉に対する見方を劇的に変えた。

『生命と過剰』で展開された「人間=本能 + (-α)という人間観も、その後の私の人間観に大きな影響を与えた。

最近、『ソシュールを読む』を図書館で見つけて手に取った。読みはじめてみたものの、内容はなかなか飲み込めなかった。そんなとき、書店で本書を見つけた。

『ソシュールの思想』で詳述されていた言葉の恣意性がとてもわかりやすく書かれていて、驚いた。専門的なことを難しいまま書くことももちろん大変な仕事であるが、それを一般人にもわかるように書けるのは、ほんとうにその主張を我が物にして熟知しているからだろう。文章はです・ます調でとても読みやすい。

本書にはフランス語に加えて、日本語での非常に身近な例えがたくさん盛り込まれている。うっかりすると、その思想の奥深さに気づかぬまま読了してしまいかねない。


解説によれば、丸山はソシュール研究以降、研究より創作に関心を向けていたという。私なりに解釈すると、丸山は、本書でいうところの「第三のコノテーション」、つまり「個の言葉」を最重視していたのではないだろうか。

私も、言葉について考えるとき、一人一人が持っている固有の意味を重視する傾向がある。

寺山修司に次のような短歌がある。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり

海を知っている人と知らない人では、「海」という言葉の意味はまったく違う。ましてや「悲しみ」や「愛」といった抽象的な概念に対する思いは一人一人違っている。

丸山は、次のようにも書いている。

言葉にならない微妙な感情とか、筆舌につくしがたい気持としかいえないもどかしさとか、同じ言語を用いる人びとの間でも本当には通じあえない苛だたしさは、全て言葉の持つ右のような機能性からきていることも忘れてはなりますまい。
(8 言葉の単位、言葉とは何か)

ラングという社会制度に縛られていながらも、個人はそれぞれに色や深みや意味を持った言葉を持っている。それを用いて「葉にならない微妙な感情とか、筆舌につくしがたい気持としかいえないもどかしさ」を自分なりに表現すること、そこに言葉が持つ大きな力と意義を丸山圭三郎は見出していたのではないだろうか。

少なくとも私は、言語学に対する興味よりも、他の人に伝わるものでありながら、同時に私自身だけが理解することができる意味と深さを持っている「私の言葉」を深めていきたい。


さくいん:丸山圭三郎田中克彦