ルノワール 異端児から巨匠への道 1870-1892、Paul Hayes Tucker、宮崎克美、深谷克典、福満葉子企画監修、ブリジストン美術館、名古屋美術館編、中日新聞、2001


ルノワールといえば、明るく幸せそうな人物画を通じて19世紀の市民生活の幸福感を亡くなるまで追求した好々爺という固定観念にこれまでとらわれていた。これまで知った伝記的な挿話や、先日読んだ子ども向けの伝記絵本『ルノワールーー永遠の夏を生きた画家』も、そうした画家像を踏襲している。固定観念どころか、ルノワールのイメージは、ほとんど真実であるかのように強固。

この展覧会はルノワールが印象派の運動から少しずつ逸脱し、実験的な創作を重ねながら独自のスタイルに到達し、作品が国家買い上げとなり名実ともに巨匠となるまでの約20年間の作品を集めている。

ポール.ヘイズ・タッカー「1870年代と80年代のルノワール:近代性、伝統、個性」は、ルノワールが矛盾や偏見に満ちた人間であったこと、画風や題材についても、一括りには説明できない多様性があることを明らかにしたうえで、ルノワールは自然の不規則性を具現化した画家と結論づける。

例えば、ロンドン・ナショナル・ギャラリーにある「雨傘」。この作品では、左側と右側で技法も人物の服装もまったく異なる。『永遠の夏を生きた画家』は、愛らしい子どもを描くときには思わず印象派時代の画風になったと説明していた。タッカーによれば、まず右側から描きはじめ、数年をおいて左側を完成させた。その際、画風だけでなく右側には一八八一年に流行した服装が描かれ、左側にはそれ以降に登場した服装を描き、不均衡を意図的に助長させているという。

作品を鑑賞することは、ほんとうに難しい。素直に見るといっても、知らない間に植えつけられた固定観念をなぞるだけになることもある。そうかといって、知識を増やせば、同じように知識につくられた図式にはめこんでしまう。

それでも、鑑賞にもっとも大切なものは、最初にみたときの感動ではないか。その原初的な感動は先入観に覆われているかもしれない、無知のままでいるかもしれない。しかし最初に感動がなければ、その感動について考えようとも作品や作家について調べようとも思わない。思索や知識から感動は生まれない。感動が生まれるその源を見たい。あらゆる創造の原点はここにある。

言葉をかえれば、鑑賞は単なる法則の発見には終わらないように、創造、すなわち作品を創ることは、感動を規則的に再配置することではない。文章が論理的であることは悪いことではないにしても、論理的に書けば作品としての完成度が高いわけではない。論理も一つの意匠にすぎない。

ルノワールの不規則性も、自然のなかにある美に対する探究心という意味では一貫性をもっていた。不規則性とか一貫性とかという言葉の対比は、ほんとうの鑑賞と創造の前ではまったく意味をもたない。