多様化と細分化について


いま、世の中は多様化し、細分化している。そう言われて頭ごなしに否定する人はいないだろう。ほとんど誰もがそう感じている。私もそう感じている。だから自分の文章「バカと普通について」でもそう書いた。しかし、ほんとうにそうだろうか。

疑問は、現代世界が多様化していない、細分化していないということではない。今はそうなっているとしても、では、これまではどうだったか。かつて、多様でなく、細分化されていない時代や世界はあったのだろうか。

人の世はいつも多様で、細分化されていたのではないだろうか。言葉や文化は現代になって多様化したのではない。昔から違う言葉を話す人、違う習慣を持つ人はいた。むしろ昔は辞書もなく、まったく意味の分からない言葉を話す人がたくさんいたのだから、今よりもずっと恐ろしく感じられた違いない。

だから人々もつねに、それを納得するかどうかはともかく、世界を多様で細分化されたものと受け止めていたのではないだろうか。いつの世にもある旺盛な知識欲や、さまざまな統一的な世界観は、多様な世界に対する反射的な反応ではないだろうか。

例えば、ルネッサンスの普遍人。科学も文学も神学も備えた彼らは、それでは世界を知り尽くしたと思っていただろうか。知れば知るほど、世界には未知の部分があることを思い知らされたのではないか。だからこそ、もっと知ろうと実験や思索を続けたのではないだろうか。

例えば、デカルト。物理学、論理学、数学、神学に通じたこの普遍人は、結局、どんなに知ろうとしても、人は自分を知る以上のことはできないと悟ったのではなかったか。私自身はまだデカルトを読んではいない。デカルトをよく知る森有正に教えられることから考えると、そのように感じる。

かつてどの時代でも、世界は多様で細分化されていた。ただし過去には、広い世界の片隅で多様でなく、細分化されていない自分の世界に安住できた時代もあったかもしれない。その点が現代と大きく違う。わけのわからない言葉を話す人がいることは知っていても、実際に会うこともなければ、まして隣りに住んだり、仕事をともにすることもなかった。

こうして考えると、多様性と細分化にはどの時代でもそうであったという普遍性と、今日だけにあてはまる特異性の両方がある。特異性に眼を向けて、考え直すと、今日の多様性と細分化には二つの特徴がある。

一つは、自分には関係のない世界がたくさんあることが日々知らされ、自分とは無関係であるにもかかわらず、それらの一端が見えてしまうこと。自分の世界だけで生きていれば、悩みはないとはいわないが、格段に少ない。一国のなかで生きていければ、一つの会社で一生終われば、同じ言葉を話す人とだけつきあえば、自分が作った野菜ばかり食べていられたら。それはもうかなわない。

それどころか、ヒトゲノムやら、アフガニスタンの新しい大統領やら、ニューヨークの新しい名所やら、いつかどこかで自分に関わりがあるかもしれないが、とりあえず今知ったところでどうにもならない知識が、日々、津波のように襲ってくる。

もう一つは、自分に関係のある世界が、自分ではどうすることもできないほど、はてしなく深く感じられること。どこで捕れたのかわからない魚を食べ、もしかしたら手抜き工事が行われたかもしれない住宅に住む。自分がしている仕事が社会の役に立っているのか、害になっているのか、よくわからない。年金もどうなるかわからない。何かを趣味ではじめようとしても、書店には、入門書だけでも山のようにあり、かえってはじめることが億劫になるくらい。

こうして二重の意味で、現代人は無知であることにさいなまされている。こうした状況に対する条件反射が、いわゆるオタク化と動物化ではないだろうか。自分に関係があると思い込んだ世界にひたすら沈潜するか、関係がありそうに思われる世界を場当たり的につまみ食いするか。

いずれも救済どころか、かえって苦しみを増すことは、すぐわかる。独立した一つの世界などない。どこへ潜っていこうと、いや、潜れば潜るほど、他の世界と関わることは避けられない。しかも突然関わり合う世界は、思いもかけないほど遠い世界だったりもする。

例えば、バッハの音楽を好きになって、次にどこへ興味が向くかは、自分でも予測できない。バッハの曲のさまざまな演奏、同時代のほかの音楽や影響を与えた後世の音楽、コンサートや自分で演奏すること、バッハが住んでいた町や時代、音楽を再生するオーディオ機器、あるいはバッハが関わった宗教。

一つの関心事から、次の一歩には、無数の派生する世界がある。そして、それら数え切れない枝葉は、ここでも情報の津波となって押し寄せてくる。

その一方で、思いつくままに世界を渡り歩くことは、楽しそうに見えるけれど、楽しく続けるためには絶対に気づいてはいけない、飛び回っているのは、自分の意志などではなく、誰かのつくった企画書どおりであることを。多くの世界を体験したあとで、そのすべてが予定されたものであったことを知るのは、恐ろしい徒労感と嫌悪感を生むに違いない。

オタク化と動物化を避けて、生き残るためには、まず現在置かれた状況を徹底的に絶望的な気持ちで把握することではないだろうか。そのうえで希望を込めて転覆する。自分に関係がないものと触れ合う、知り合う機会が無限にあること、関わりがあると思われることについて、どこまでも知識、体験、交流を深めることができること。インターネットが普及した現代世界を、あえて楽観的にとらえれば、このようになるだろうか。もちろん、言うは易し、行うは難し。

生焼けのホットケーキはうまくひっくり返せない。弱火でじっくり、表面にぷつぷつと穴があくようになるまで待つ。そうなったとき、ひるまず一気に返す。その一瞬の見極めはどうすればできるのだろうか。上手な人に教わるか、練習を重ねるか。詰まるところは「出会い」と「経験」ということになる。


碧岡烏兎