ノーベル賞はいらない


人をおもちゃにするのもいいかげんにしないか。日本国民の誰かがノーベル賞をとるたびに大騒ぎになるが、今回はひどすぎる。受賞者が若く、また従来のようにアカデミズムの人でないためにマスコミの報道は遠慮もなにもなくなり、失礼極まりない。見ないようにしていてもすでに結婚写真、小学生のときに描いた絵などを目にしたし、風呂は十分などという記事も目に入ってしまった。ノーベル賞受賞者が何分風呂に入ろうが、本人の勝手以外のなにものでもない。この情報には何の公共性もないし、こんなことを知る権利は誰にもない。

小学生や中学生の頃の逸話が公衆にさらされるなら、私は一切、賞はいらない。世間の光の当たらないところで静かに暮らしているつもりでも、いつ、どんな賞をもらってしまうか、予想もつかない。もらったとたん、すべてはさらけ出されてしまう。賞をもらわないように、まずは科学の研究をするのをやめよう。小説もよくない。人権運動や平和運動もよくないかもしれない。

ある人に対する賞が過度に俗社会の注目を集めると、かえって学問世界に対する誤解を深める結果になると夏目漱石は指摘している(「学者と名誉」(一九一々年)『漱石文明論集』、岩波文庫、一九八六年)。賞が与えられるまで、社会は学問世界全体に対して何も知らず、「公平に無感覚」でいる。ところがある人に賞が与えられ報道によって知ると、まるでその人だけが立派な仕事をしているかのように思い込んでしまう。

彼らが今まで所有していた公平の無感覚は、俄然として不公平な感覚へと変性しなければならない。これまではただ無知で済んでいたのである。それが急に不徳義に転換するのである。問題は単に智愚を界する理性一遍の墻を乗り超えて、道義の圏内に落ち込んで来るのである。

漱石の批判は、受賞を報道する側をつきぬけて賞を与える側へ向かう。ある人にだけ賞金を出して他の者には一銭も出さず、その価値もないように「俗衆」に思わせるのは、その人を賞賛しようとするばかりに、「他の学者に屈辱を与えたと同じ事に帰着する」と結論づけている。

「学者と名誉」は二十世紀初頭に書かれた文章。直接には日本国内の学士院に向けられていた。目を上げて、二十一世紀の日本を見渡す。賞の与え方に対する批判どころか、受賞の報道に対する批判すら聞かれない。おまけに例によって「日本も捨てたものじゃない」式の賞賛ばかり。それほど素晴らしい才能ならば、なぜ外国の機関に指摘されて、はじめて賞賛するのか。心あるナショナリストならば、外国の機関による恣意的な授賞に反対するか、自国に埋もれた才能に気づかなかった無知を恥じるべきだろう。

自然科学の基礎研究は一人では成り立たず、多くの人、機関がかかわってはじめて実施される。企業内の研究や、国立施設での大掛かりな研究を成功させたのは、一人の力だけではない。個人のアイデアは尊重されるべきだが、それを絶対視することは科学全体にとって必ずしもためにはならないと思う。


追記

その後、新聞で過剰な受賞報道を批判する投書が寄せられていたのを読んだ。投書欄全体に感じることだが、「そんな意見も無視していませんよ」という新聞社のあざとさが気に入らない。そんな意見を「尊重」して掲載するくらいなら、掲載せずとも不言実行、自らの報道姿勢をまず変えればいい。


碧岡烏兎