石塔紀行(4) |
層塔・宝塔・ 宝篋印塔・五輪塔 |
近江 (西部) の石塔巡拝 |
島八幡宮お旅所石造宝塔 竜王町島 |
黄金色に実った田圃の真ん中に、何と国の重要 文化財に指定された石造宝塔が建っていた。 畦道を渡って近づくのは大変だったが、鎌倉期 の素晴らしい宝塔だった。石塔探訪の旅の魅力は こうした出会いの楽しさにあるのだろう。 湖西は高島市より西、湖東南は近江八幡市・竜 王町・湖南市・甲賀市を含む以西南を、近江(西 部)として掲載した。 |
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延光院宝塔 |
近江八幡市奥島町 |
近江八幡の長命寺へ、西国三十三ヶ所巡拝を目 的に参詣した。時間が有ったら寄りたいと思って いたこのお寺は、長命寺からは車で数分の場所だ った。 新築された本堂の前庭に、南北朝かと思われる 石仏と並んでこの壮麗な石造宝塔が建っていた。 先ず気に入ったのが、意外に太い相輪である。 塔全体のバランスからして、やや太過ぎるのでは ないかと感じた。しかし、じっくりと見ている内 に、この力強さこそ、釈迦の目の前で地中から湧 出したと伝えられる宝塔の、天に向かって伸び上 る勢いを良く表現している、と感じていた。 笠の造形には、思わず目を見張ってしまった。 屋根四隅の降棟が、前述の島八幡宮のものと同 じ三本筋になっていたのである。 年号が気になって調べてみると、こちらは何と 徳治二年(1307)とあり、同じ鎌倉後期でも田んぼ の宝塔より古いことが判明したのだった。 笠裏には二重の垂木型を設けており、一重の首 部と太い縁板状とが特徴だろう。 塔身は円筒形で、ほとんど膨らみは無く、四方 に扉形を彫り出してある。 基礎の格狭間には開蓮華が意匠されており、細 身の塔には勿体無い程の堂々たる大きさである。 |
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池福寺宝篋印塔 |
近江八幡市池田本町 |
近江八幡市の西南端に当るJR篠原駅の近くに 池田本町が在り、市街と桐原小学校の間にこの寺 が建っている。 宝篋印塔は本堂の手前、参道の左側に建ってお り、苔むしていかにも古そうな面構えをして数個 の台石に載せられていた。 基礎は、正面にだけ輪郭を巻いた格狭間が彫ら れており、二段の上に塔身が載っている。 塔身には、正面に坐した仏像が彫られ、他の面 には辛うじて梵字らしきものが確認出来る。 アクやタラークが読めるので、正面を阿弥陀如 来座像とすれば金剛界四仏と解釈出来る。 笠は、上六段下二段であり、隅飾も含め一石か ら彫り出されている。隅飾は摩滅していてはっき りしないが、無地かもしれない。垂直に立ってい ることが、鎌倉中期と推定される大きな根拠とな っている。塔身の大きさに比して、笠が堂々とし ていることも古塔を裏付けている。 相輪は、伏鉢と請花が残り、九輪の内の六輪が 残存している。 |
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安養寺跡五重塔 |
近江八幡市安養寺町 |
先述の篠原駅の東南に安養寺町が在り、西横関 に通じる国道477号線の路傍、小さな崖下にこ の写真の石塔が建っている。 かつて安養寺の寺域だった場所だが寺は跡形も 無くなっており、石塔の背後には新幹線の高架ま でが見通せる農地が広がっている。 国の重要文化財に指定されているだけに、均整 の取れた堂々たる石造五重塔である。 基礎部分に植栽が繁って良く見えないが、基礎 には、輪郭の中に三茎蓮華を配した、格調高い格 狭間が彫られている。 塔身(初重軸部)には四方仏が、坐像の形式で 彫られており、五重塔の泰然とした風貌の中心と なっている。 笠の幅の逓減率が割合大きいことと、軸部の背 が幅に比して高いこと、そして軒の反りがたおや かである事などから、鎌倉中期の作品であること が推測出来そうである。 相輪は下部が破損し修復してあるが、上部の宝 珠、請花、九輪の一部などは生きていてかつての 姿をどうにか留めているようだ。 高さは44m余、花崗岩製である。 |
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篠田神社宝篋印塔 |
近江八幡市上田町 |
近江八幡市内に点在する宝篋印塔の内、鎌倉期 の作を三基見た。次述の東川町のもの、先述の池 福寺のもの、そしてここ篠田神社のものである。 池福寺の塔は鎌倉中期と言われているのだが、残 念なことにかなり荒廃してしまっていた。 この塔は神社への参道の西端に祀られていた。 基礎部分に正安三年(1301)の銘があり、鎌倉後 期の作であることが立証されている。時代を物語 るように、周囲の空気を緊張させる程の威厳に満 ちた壮麗な佇まいである。 開き蓮華の彫られた格狭間が優雅な基礎、その 上の複弁反花、金剛界四仏の梵字種子が四方に彫 られた塔身など、完璧とも言えそうなバランス感 覚で造立されている。 塔身の種子が、月輪内で蓮華に乗っているとい うのが珍しいかもしれない。 隅飾が立派で三弧の輪郭内に蓮華に乗る月輪が 浮彫され、その中に梵字「ア」が彫られている。 年代や地域が似ているからなのか、後述の弓削 の阿弥陀寺宝篋印塔にとても類似しているように 感じられた。 失われた相輪の位置に、小さな宝篋印塔の部材 が置かれている。乾徳寺の項でも述べた通り、こ うした風潮は石造美術界の恥であり、管理者の見 識が疑われるものと知るべきだろう。 |
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東川宝篋印塔 |
近江八幡市東川町 |
前述の弓削から日野川を渡った所が、近江八幡 市の東川という集落だった。 宝篋印塔は公民館にあるとのことで、訪ねてみ ると、館前の広場一杯に地蔵盆の準備のため資材 が積まれていた。 宝篋印塔が目的だと東京からの来意を告げると 責任者の方は大層驚かれ、撮影が出来るように道 具などを整理して下さった。 高さが2m65もある大型の塔で、何故このよ うな場所にあるのかは町の人も御存知ではなかっ たが、地元豪族の追善供養塔であったらしい。 塔身に正和四年(1315)の銘が在り、れっきとし た鎌倉末期の宝篋印塔なのである。 相輪と基礎は後世のものだが、基礎上部の厚み のある堂々とした複弁反花に圧倒される。このヴ ォリューム感溢れた事例は、そうは無いだろう。 塔身には金剛界四仏の種子が彫られている。蓮 華に乗る月輪の中に梵字があり、在銘のアク(不 空成就)部分にのみ月輪は無い。写真はタラーク で、宝生如来を象徴している。 隅飾は別石であり、三弧輪郭付きで微かに外側 へ傾斜している。 部分的に欠落はあるものの、当代の雄渾さを良 く表した秀逸な宝篋印塔だろう。 |
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阿弥陀寺宝篋印塔 |
竜王町弓削 |
このお寺は竜王町の弓削(ゆげ)という里にあ り、近江八幡市とは日野川を境界として隣接して いる。 訪ねたのは八月地蔵盆の前で、里中に祭られた 無数の石仏それぞれに、色とりどりの可愛い前垂 れが結んであった。里人の篤い信仰心が感じられ て、無味乾燥な都会暮らしを振り返っていた。 基礎に正安二年(1300)の銘があり、鎌倉後期を 代表する古塔の一つであることが判る。 基礎の格狭間には開いた蓮華文様が浮彫されて いて、関東の質実な宝篋印塔との違いを如実に知 ることが出来る。更に、基礎の上段には、複弁の 反花が彫られている。 塔身の梵字は比較的穏やかで、胎蔵界四仏の種 子を表している。写真は「ア」で宝幢如来を象徴 し、他の三面の梵字は「アー・アン・アク」であ る。胎蔵界四仏は余り知られていないのだが、ち なみに他の三仏は、開敷華王・無量寿・天鼓雷音 とされている。アン(無量寿)を阿弥陀と解釈す る向きもあり、この件は研究不足をお詫びせねば ならぬ。 隅飾は三弧で輪郭の中に月輪・梵字は通例なの だが、梵字が四方で変っているのが特徴である。 写真の左隅飾は「ア」で、他に「アン・アク」が 見られた。ここにも、胎蔵界四仏が彫り込まれて いるようだ。 相輪は伏鉢、請花が完備し、九輪の内の二輪が 残されている。 |
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鏡山旧西光寺跡宝篋印塔 |
竜王町鏡 |
この宝篋印塔の前に立つと、直ぐに気が付くこ とが二つある。 一つは塔身の四隅に立った梟(フクロウ)らし き鳥が彫られていること、もう一つは基礎部分の 格狭間に向き合った二羽の孔雀が彫られているこ とである。 塔身の鳥形は宝篋印塔の原形とされる中国の銭 弘俶(せんこうしゅく)塔に由来するもので、京 都の北村美術館に在る旧妙真寺宝篋印塔と並び称 されるものである。 北村美術館の塔はほとんど見学不能であり、お まけに撮影禁止なので、ここ鏡山の写真は大変貴 重だと言える。 塔身の梵字は、金剛界四方仏を象徴している。 基礎の格狭間は背面を除く三方に彫られ、中に いずれも近江らしい模様である孔雀が意匠されて いる。石塔巡りの中で孔雀の文様を発見すると、 とても嬉しく感じるのは何故だろう。 切石による二段の基壇、基礎上部の複弁反花座 などが、この宝篋印塔の印象を壮麗なものにして いる。 やや反った三弧の隅飾には輪郭・月輪・梵字が 施されており、バン(金剛界大日)とカ(地蔵) が交互に彫られている。 銘は無いが、総体的に鎌倉後期の塔と考えられ る。 |
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島八幡神社宝塔 |
竜王町島 |
島の集落の入口付近に八幡神社が在ったが、中 世の宝塔らしき石造物は見当たらなかった。旧御 旅所にある、と聞き探したが判らない。そうこう する内に、集落を抜けてしまったのだが、何と田 んぼの真ん中に石塔が建っているではないか。 細い畔を綱渡りのようにして進む。バランスを 失えば、田んぼにグチャである。こんな場所に在 る国指定重要文化財なんて、他に有るだろうか。 宝塔の周囲だけは固められていたので、じっく りと眺めることは出来た。 九輪の内、八輪より上を喪失しているが、伏鉢 と請花の造りからも、豪快な相輪が想定出来そう だ。 笠の特徴は先ず第一に、屋根四隅の降棟が三本 筋になっていることだろう。類例は在るが、比較 的珍しい部類ではある。 次の特徴は、軒の形状である。下線は両端が微 かに反っているだけで、ほぼ平らであり、上線は 両端が極端に反っている。前述の西明寺塔に似て いるような気もする。 屋根の裏に、二重の垂木型が設けられている。 塔身の四面には扉形が彫られ、そこに銘がある そうだがはっきりとは見えなかった。資料によれ ば、正和五年(1316)という鎌倉後期の作である。 基礎は稲が繁ってとても見辛かったのだが、ど うやら三茎蓮華と開蓮華を彫った格狭間が意匠さ れていることが判った。 |
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地蔵堂七重塔 |
竜王町駕輿丁 |
前述の島とは県道を挟んだ反対側の集落で、賀 輿丁(かよちょう)という珍しい地名であるが、 その名の由来は不明である。 集落の中央辺りに地蔵堂が建っており、盛んな 信仰を示す赤い旗が立てられていた。 案内板によれば廃福田寺に在ったものと伝わる この七重塔が、本堂の左手に小石仏と一緒に祀ら れている。 花崗岩製で総高は2.6m、正安二年(1300) 鎌倉 後期の銘が確認されている。 相輪は九輪の中間に折れた跡があるものの、完 存しているのが嬉しい。 笠の配列は堂々とした鎌倉風であり、軒の厚さ も反りも剛毅な気風を示している。逓減率も大き く、伝統的な様式を踏襲しているようだ。 軸部初重には四方仏坐像が彫られており、顕教 四仏と思われることから識別を試みたのだが明確 な判定は出来なかった。西を阿弥陀とすれば、時 計回りに弥勒、薬師、釈迦ということになるのだ が。 基礎には、四面とも輪郭が巻かれ、三茎蓮華を 彫った格狭間が意匠されている。残念ながら全体 的にやや磨耗が激しく、美しさは半減してしまっ ている。 |
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西光寺宝塔 |
竜王町山之上 |
山之上は蒲生郡竜王町の最南端の地区で、国道 477号と県道13号が交差している。 西光寺はそんな山之上の集落のほぼ中心に建っ ている浄土宗の寺院である。天平期にあの良弁が 開山したと伝わっている古刹である。 改築された本堂前は広々とした境内で、伽藍や 墓地が贅沢と思える程の広大な敷地の中に設けら れている。 写真は、鐘楼の前の無縁仏墓碑の横に置かれた 宝塔だが、以前は後方の地蔵堂横に後述の五重塔 と並んで置かれていたそうだ。 円筒形の塔身には、四面共に扉型が彫られてお り、正和元年(1312)鎌倉後期の年号が確認されて いるそうだ。 緩やかな反りの笠、四隅の降棟、両端が反り上 がった軒口、笠下の二段など、相輪は欠落して別 物が据えられてはいるものの、鎌倉後期らしい特 徴が随所に伺える。 基礎は、輪郭ではなく壇上積様式で、格狭間の 中に三面に開蓮華が意匠されている。残りの一面 だけが宝瓶三茎蓮という、何とも洒落た演出なん だろうと感心した。 |
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西光寺五重塔 |
竜王町山之上 |
広々とした境内に直接行かず、山門の左手から 墓地の方へ進むと、直ぐ右手の無縁仏墓碑群の横 に、写真の石造五重塔が建っていた。資料には、 文保三年(1319)鎌倉後期の層塔があることになっ ている。 前述の項にも記したが、本堂改築と同時に墓地 も整備され、多くの石塔も整然と並べられたらし い。以前は、宝塔と並んで地蔵堂の脇に建ってい たそうである。 方形の基壇に載る基礎は、四方共に輪郭を巻い た中に格狭間が彫られている。 塔身(初重軸部)には、舟形に彫りくぼめた中 に如来座像が半肉彫されている。図像から判別出 来そうなのは西方の阿弥陀如来くらいであるが、 四仏共図像というのは顕教四仏であるケースが大 半である。金剛界四仏の場合には、一面を梵字に したりすることが多いので、ここでは顕教四仏と 解釈するのが最善だろう。 各層の軒口は全体像からすると厚手で、ほぼ水 平ながら上の線の両端が軽く反っている。 屋根幅が最上部のみ急に短くなっているのが気 になるところで、七重塔だった可能性も見えたよ うな気がした。 鎌倉後期と思われる層塔だが、これが文保塔な のかは確認出来なかった。 |
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千原神社宝塔 |
野洲市井ノ口 |
旧中主町の井ノ口という里にある、愛らしい規 模の神社である。古庭園で知られる兵主大社は、 ここから1キロほどの近さである。 相輪は九輪部分の半分が喪失していて残念なの だが、他の作品を参考に連想すれば、往時の姿を 想像することは出来そうだ。 降棟のある笠の軒は厚く、緩やかに反っている ので、古式の落ち着きが感じられる。 笠裏に二段の垂木型が設けられており、また塔 身の首部には二重の段が付けられている。 写真でも判るが、円筒形の塔身の正面のみに、 扉形の変形とされる鳥居が彫られている。 塔身の扉形は、湧出した宝塔内部に座す多宝仏 の存在を暗示させる扉であり、結界の意が転じて 鳥居という形になったものと思われる。 基礎の格狭間は右側面のみに彫られており、写 真には正面と左側面が写っている。ここには格狭 間は無く、輪郭の中に直接三茎蓮華が彫ってある が、勢いの感じられる見事な蓮華文様だ。 右側面の格狭間の中には開蓮華が置かれ、そし て基礎背面は無地であった。 基礎左側面に文保三年(1319)の銘がある。鎌倉 後期らしい風貌が、それを納得させてくれる。 |
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仏法寺宝篋印塔 |
野洲市井ノ口 |
前述の千原神社に隣接する寺で、兵主大社にも 近く寺院や神社が密集した歴史的にも由緒深い地 域である。 本堂に向かって左側の植栽の中、百日紅の白い 花を天蓋にして、この優雅な宝篋印塔が建ってい た。2m30という背よりも高い大型の塔で、石 材は花崗岩だろう。 相輪は、宝珠から伏鉢までが完存しており、特 に下の請花の連弁が繊細に彫られていて特徴的で ある。 笠は上六段下二段と一般的だが、輪郭付き二弧 の隅飾には月輪が彫られ、中に金剛界大日の種子 バンが刻まれている。 複弁反花座に載る塔身には、各面に全体が印刻 された月輪が彫られ、中に蓮座に載る金剛界四仏 の種子(梵字)が薬研彫りされている。写真の梵 字は右がタラーク(宝生)、左はキリーク(阿弥 陀)である。 月輪は線彫が通常で、全体が印刻された例は珍 しく、丁寧で格調有る仕事が成されている。 基礎は輪郭を巻いた格狭間が作られ、開蓮華模 様が浮彫されている。文保三年(1319)鎌倉後期の 年号が刻まれた秀麗な石塔である。 |
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兵主大社宝塔 |
野洲市五条 |
平安期池泉庭園の面影を残す庭園で知られてお り何度か訪ねたが、今回までこの石造宝塔の存在 には気が付かないでいた。 拝殿へと向かう参道と右手の建物の間の茂みの 中に、写真の優美な宝塔が建っている。 完存する相輪は豪快な造りで、鎌倉期の力強さ が感じられる。 笠上には露盤が設けられ、屋根の四隅には降棟 が、軒下には二段の垂木型が彫り出されており、 優雅な造りとなっている。軒両端の反りがやや大 きいことからは、南北朝初期が想定される。 軸部は総体的に華奢で、特に首部の段形が細身 であり、このあたりには南北朝らしさが出ている ようだ。塔身には扉型が線彫されている。 基礎は四面に輪郭が巻かれ、格狭間の中に開蓮 華が浮彫されている。格狭間にはやや力弱い部分 が見られるので、鎌倉末期から南北朝初期と分析 した。 総合的に、限りなく鎌倉末期に近い南北朝初期 の作、だろうと勝手に決めた。 製作年代の推理は楽しいもので、石塔の多様な 美しさからは、年代や様式を超越したフォルムそ のものの魅力が受け取れるのである。 その意味で本塔は、豪快な中に繊細さが感じら れる好みの傑作に違いない。 |
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安楽寺宝塔 |
野洲市吉川 |
野洲川が琵琶湖へ流れ込む守山市の河口付近に 隣接している野洲市の最北端の地区である。 寺院が密集した集落の南端に、小さな観音堂の ような本堂の安楽寺が建っている。天台真盛宗と 山門脇の石碑に彫られているが、大津坂本の西教 寺が総本山の宗派だそうだ。 写真の宝塔が、山門を入った左手に無数の五輪 塔と一緒に祀られている。 塔身の四方仏坐像以外には、全く装飾が成され ていない簡素な宝塔である。 舟形に彫りくぼめた光背の中に座す如来像なの だろうが、磨滅が激しく印相や蓮座の有無すら判 別出来ない。 塔身上の首部も、また基礎の方形も素地のまま で、一切の装飾が見られない。純粋な造形美を見 せる、という意味で、装飾過剰な塔との対極にあ るように見える。 笠の屋根は緩やかな傾斜で、先端が軽く反って いる。軒口はやや厚く両端は反り上がっている。 相輪は、九輪の途中から上が欠落している。全体 的に古調で、鎌倉中期頃を想定させるが、笠の反 り具合からは後期が考えられる。 総じて、中期から後期へと移行するあたり、と するのが正解だろう。 |
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薬師堂宝篋印塔 |
野洲市比留田 |
兵主大社の在る五条地区と隣接する比留田地区 には、吉川と同様多くの寺院が密集して寺町を形 成している。 薬師堂には茅葺の見事な山門があり、門前に国 宝薬師如来と書かれた石柱が建っている。オヤと 思われたのだが、宝物館の中に旧国宝(現重文) の秘仏薬師如来像が安置されているそうである。 現在は同地区の西得寺の所管になっている。 写真の宝篋印塔は山門を入った最奥右手に、無 数の墓碑石仏と共に祀られていた。 基礎は、背面のみ無地で、他の三方は輪郭を巻 いた中に格狭間が彫られている。 複弁反花に載る塔身は、四方に金剛界四仏の種 子を薬研彫りしている。梵字の筆致に、鎌倉期の 鋭い力強さは見られない。 笠は比較的珍しい上七段、下二段。隅飾は三弧 で輪郭を巻き中は無地、やや外側へ反っている。 相輪は、九輪から上の請花と宝珠が欠如してい るが、雰囲気は十分残っている。伏鉢の背が高い のは、南北朝以降の特徴だろう。 全体的に、鎌倉期の堂々とした体躯を残しつつ も、随所に南北朝の特徴が見られるので、南北朝 初期の制作だろうという推論を立てた。この勝手 な振舞いが、石造美術巡りの楽しみの一つなので ある。 |
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蓮長寺宝篋印塔 |
野洲市比留田 |
前述の薬師堂や西得寺とは同地区に建つ浄土真 宗の寺院で、山門は無いが堂々たる本堂に存在感 がある。本尊は阿弥陀如来で、重文の十一面観音 像は見逃せない。(要予約) 本堂の左手築山の奥に、写真の宝篋印塔が建っ ている。 色々と特徴のある塔で、先ず目に付くのが笠の 上段だろう。通常は六段(たまに七段)だがここ では八段であり、更に段の両端に傾斜が付けられ ているので、段の無い降棟の様に見えてしまう。 もう一つは基礎で、背の低さも感じるが、輪郭 を巻いた中が三区に仕切られていることである。 事例は在るが、近江では珍しいものだ。 塔身には四方仏の種子が、月輪の中に薬研彫り されている。写真はキリーク(阿弥陀)である。 雄渾な筆致ではないが、彫りは決して浅い方では なく、むしろ流麗な書体と言えるかもしれない。 笠の隅飾は、一弧で素面であり、ほぼ垂直に立 っている。相輪は、九輪の上三輪以下が欠落して おり、堂々たる相輪が想像されるだけに残念であ る。全体的には鎌倉末期の制作、と推定される。 |
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江龍寺跡宝篋印塔 |
野洲市比江 |
旧中主町から野洲駅へと通じる県道を南へ進む と、比江という地区に差し掛かる。 江龍寺の位置が地図にもナヴィにも載っていな いので、比江の自治会館で所在を伺ったところ、 この直ぐ裏だとのことだった。 郡西国二十一番十一面観世音菩薩と記した立派 な石碑と素朴な門が見つかったが、中は畑と空地 と小さなお堂しか見当たらなかった。 しかしここが江龍寺の跡地らしく、空地の片隅 に写真の宝篋印塔が廃材と並んで置かれていた。 これが弘安二年(1279)鎌倉中期という、石造美 術好きにとっては垂涎の年号を持つ宝篋印塔だと 知って驚愕した。何たる無知と野放図。近江最古 の年号を有する貴重な古塔であり、保存のための 囲いだけでも施すべきだろう。 やや大きめの基礎の背面に、弘安の年号が確認 されたのだそうだ。 笠は、上七段下二段で、一弧無地の隅飾は軒と 一体に彫られている。相輪の別物は論外。 基礎の大きさがアンバランスであり、おそらく は寄せ集めの可能性が濃いが、他の部石も古調な 彫りであり、いずれにしても鎌倉後期は下らない と思われる至宝である。 文化行政の恥であり、一刻も早い保存のための 最善の施策を切望するものである。 |
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円光寺九重塔 |
野洲市久野部 |
JR野洲駅に程近い久野部の交差点の北側に、 天台宗の歓喜山円光寺と記した石柱と山門が見え る。清楚な門内、美しい本堂手前の左手に、写真 の石造九重塔が堂々と建っていた。 良く見ると、様々な疑問点が浮かび上がってく る。先ず最初に感じるのは、一番上の笠は軒の反 り具合も異質であり、どう見ても宝塔の笠のよう に見える。 また、下三層と中三層、更に上三層の間の笠の 幅の逓減に段差があり過ぎるように見える。従来 は十三重塔だったのでは、という説があるが、小 生もその通りの印象を受けた。 軸部初重には写真のように四方仏と思われる仏 像が浮彫されているが、背面のみに梵字の「タラ ーク(宝生)」が彫られていることから、金剛界 四仏を表わしているものと思われる。仏像はやや 摩滅気味だが、古風な落ち着きが感じられて嬉し くなる。 様々な流転があったのだろうが、一歩下って全 体像を見ると、屋根の軒の厚さ、両端の微かな反 り、各層軸部の幅広さなど、古調を示す要素が多 く、鎌倉期もかなり古い落ち着いた時代、少なく とも中期頃の作のように感じられた。古武士の風 格、とでも言っておこう。 |
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宝樹寺宝篋印塔 |
野洲市小篠原 |
野洲駅の南を国道8号線(旧中山道)が通って おり、街道南側の田中山に向かって少し入った所 に、この浄土宗の寺院が建っている。 山門を入って直ぐ右手の塀際に、石仏と並んで 写真の宝篋印塔が、均整の取れた美しい姿を見せ てくれていた。 力強い容姿の相輪に目が向くが、宝珠から伏鉢 までが豪壮な大きさで完存している。 笠は上六段下二段で、隅飾は二弧、輪郭を巻い た中は素地であり、軒と一体化している。少し外 側に反っているのが確認出来る。 塔身には、金剛界四仏の種子が月輪内に薬研彫 されており、くっきりとした梵字の筆致が好ま しい。写真は左がキリーク(阿弥陀)で、右はタ ラーク(宝生)である。 複弁反花の下の基礎は、輪郭を巻いた中に、大 らかで形の良い格狭間が彫られている。この格狭 間の形だけでも、鎌倉後期は下らないという制作 年代の推定は可能だろう。もちろん、梵字の完成 度や相輪の豪快さなどが、大きな決め手となるこ とは当然である。 |
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報恩寺五重塔 |
野洲市南桜 |
野洲市の東南端、名神高速が野洲川を渡る辺り が南桜地区である。 報恩寺は集落の東に建つ浄土宗の寺院で、白鳳 期の銅造聖観音立像は重要文化財に指定されてい る。 石造五重塔は、本堂背後の墓地に、無銘の板碑 状墓碑や石碑と並んで建っていた。 基礎は、四方に輪郭を巻いた中に格狭間が描か れている。 塔身(初重軸部)には、二重の円光形に彫りく ぼめた中に、四方仏の坐像が半肉彫されている。 磨耗の為、各尊像の識別は不可能だった。 各層の屋根は各軸部と一体で彫られており、屋 根の勾配はほとんど見られない。軒口は厚目で、 緩やかな曲線の反りを見せ、両端は微かに反って いる。次掲の守山最明寺の五重塔に比べると、や や武骨な部分が見られるが、かなり似ているよう にもおもえるので、この五重塔は鎌倉中期にやや 近い後期であろう、と想定した。 相輪部分は完全に喪失しており、明らかな別物 が載せられている。おそらくは一石五輪塔の一部 だろうと思われるが、このナンセンスな感覚だけ は改めて頂きたい。妙な異物を載せるくらいなら ば、何も無い方がこの塔の美しさを守れると思う のだが。 |
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最明寺五重塔 |
守山市勝部 |
JR守山駅の西方、密集した住宅地の中にこの 小さな寺が建っている。山門を入るとすぐ鐘楼が 見えるが、石造五重塔はその脇左側、本堂との間 にさりげなく置かれている。 解説板によれば、建長二年(1250)鎌倉中期に北 条時頼によって建てられたらしい。寺伝では "ら しい”と但し書があることから、確証は無いのだ ろうが、石塔の風格や様式から、ほぼその時代に 近い造立であることは間違い無さそうだ。 最初に目に入るのは初層軸部の四方仏である。 各仏像を特定するのは難しいが、いずれも舟形の 光背を持ち、蓮華座に坐した仏像が彫り込まれて いる。 やや磨耗が激しいが、屋根の軒はたおやかな反 りを示しており、後期の剛毅な反りへと移行する 前手の様式ではないかと思う。大らかでゆるやか な曲線を描いているから、なのである。 相輪は失われているが、全体に古風な美しさを 見せているこの塔は国の重要文化財の指定を受け ている。 守山市は石造美術の密集する近江にあって、特に 優れた作品が格別に集中した地域であり、国の文 化財に指定されたものも数多い。 |
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東門院五重塔 |
守山市勝部 |
前掲の最明寺からは歩いて10分ほどの位置に あり、かつては壮大な寺域と格式を誇っていたと いう。現在は大きなお堂も無く周辺はひっそりと しており、がらんとした境内の隅に鎌倉期の宝篋 印塔や宝塔など、数基の石塔が並んでいる。その 中央に建っているのが、この写真の石造五重塔で ある。 基礎の石が低いこと、初重軸部の奥と手前に二 石を使用していること、屋根の勾配がゆるく直線 的であること、軒の反りが微妙であること、など など鎌倉時代も中期以前、かなり古式の前期まで さかのぼれるかも知れない。 軸部は二石を合わせた格好になっているため、 前に薬師、後方に阿弥陀の各像が彫られ、側面に は何も彫られていない。これは、百済石塔の様式 を示す石塔寺三重塔と似ているらしい。 相輪が失われているのは淋しいが、何にしても 古式の風格の漂う美しい塔であり、近江では石塔 寺に次ぐ古い遺構である。 |
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善立寺懸所宝塔 |
守山市金ケ森 |
守山市の「金ケ森御堂」と呼ばれる善立寺の奥 庭に、この秀麗な宝塔が建っていた。国の重要文 化財で、宝塔を語る時には秀作として必ず引き合 いに出されるほどの名作なのである。 現在建っている場所が狭いので、一方からしか 鑑賞できないのが残念なのだが、それでも近江の 並み居る傑作宝塔の中にあっても、格別秀でた存 在であることが、その均整のとれた立ち姿から即 座に理解できたのだった。 基礎は四石から成り、各二面に格狭間を彫り、 さらにその中に向かい合う孔雀の姿が彫り込まれ ている。 塔身には四方に扉型、二段の首部には勾欄と欄 干、軒裏には三段の木造建築の組み物のような部 分、などなど華麗な装飾が成されている。 笠の軒は厚いほうではないが、決して薄っぺら ではなく、反り具合も鎌倉後期らしくキリっとし ている。 相輪はここだけが白く見えて不自然だったが、 解体修理の際に洗われたのだろう。火焔形の宝珠 や請花などの完備した完璧な様式である。 高さは3m80ほどの大きなもので、全て花崗 岩で出来ている。 |
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福林寺宝塔 |
守山市木ノ浜 |
守山市の琵琶湖寄り、大橋に近い旧道に面して この寺が建っている。境内は狭いが、右手の茂み の中に二基の石造宝塔が建っていた。 様式的に二基はほとんど瓜二つであり、ほぼ同 時期に何らかを目的とした対として造立されたも のだろう。 基礎四方には輪郭・格狭間が彫られ、塔身下部 正面に如来坐像が浮彫されている。像容は不明だ が、釈迦如来という説が有望らしい。 二段の首部と丸味の付いた笠下とが、全体に軽 快で柔軟な印象を与えている。首部がこんなに大 きい作例は、後述の鶴の塔など数例しか見たこと が無い貴重な遺構である。 軒の反りには、いかにも鎌倉中期から後期へか けてのやや様式化していく過程が見られるが、全 体的にはたおやかな造形美が感じられる中期の作 だろうと感じた。 相輪は中間が喪失しており、露盤らしきものも 見られない。 寺は小さいが、仏像にも見るべき傑作が在る美 しい聖域である。 |
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志那神社宝塔 |
草津市志那町 |
草津市の北側、琵琶湖の湖岸に志那という小さ な漁港がある。その一帯が志那中町と志那町であ る。この神社は志那町に属しているが、次に掲載 する志那中町の惣社神社と共に、草津市を代表す る宝塔を保存している。 見るからに整然とした名塔であり、これぞ近江 の宝塔と言っても良い程の完成度を示している。 堂々と完存する相輪、降棟の有る屋根と緩く反 った厚手の軒を持つ笠などは、鎌倉期の重厚な意 匠を感じさせてくれる。 笠裏に三段の垂木型を設け、塔身首部を二段に して縁板状を造り出している。 円筒形の塔身正面には、微かだが鳥居のような 扉形が彫られているのが確認できる。 基礎正面の格狭間に、二本の茎を持つ蓮華のほ かに仏像が一体彫られている。かなり磨耗してい るので、はっきりとはしないのだが、なんとか確 認だけは出来た。ほとんど見かけない意匠で、図 像学的にも貴重な存在であろう。 銘が無いので制作年代は不明だが、鎌倉後期の 豪快さと南北朝の繊細な装飾感覚から、どうやら 鎌倉末期から南北朝初期辺りだろうと推定した。 |
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惣社神社宝塔 |
草津市志那中町 |
前述の志那神社からは約1キロしか離れていな い、志那中町集落の東端に位置する古いお社であ る。かつてここには大般若寺という大きな寺が在 ったそうで、この宝塔もそこに関連していたもの らしい。 相輪は完全に失われているのだが、全体から受 ける印象は、これは相当古そうだというのが第一 感だった。 傾斜が緩やかで降棟の無い偏平な屋根と、両端 だけに微かな反りの見られる軒などから、笠の様 式はかなり古式なのだろうと感じた。 笠下にかなりの厚さで、二段構えの垂木型を造 り出しており、鶴の塔や福林寺の事例に共通した 古式がここでも感じられる。 写真は光線の関係で背後からのものしか無いの だが、実は正面の意匠がとても大事だった。 塔身正面には薄い彫りながら扉形が見え、背の 低い基礎の正面にだけ二区の格狭間が彫られてい たのである。 塔身の形はやや肩の張った瓶形であり、大津長 安寺の牛塔に似ていると感じた。 無銘塔の制作年代推理ゲームが面白いのだが、 あらゆる要素を総合的に考えて、鎌倉中期は下ら ないであろうという結論に達した。 |
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無量寿寺宝篋印塔 |
草津市青地町 |
草津市の東端、栗東市との市境近くの青地町の 志津という歴史在る地域に、この浄土宗の寺院が 建っている。 本堂に向かった左側、墓地の入口近くに、二段 の基壇と半花座、蓮華台座の上に載った写真の宝 篋印塔が建てられていた。台座から下は後世のも のである。 この塔は小ぶりながら、遠くから眺めても均整 のとれた美しいシルエットをしている。 宝珠から伏鉢までが完存する相輪が、堂々とし ていて先ず気に入った。 笠は、上六段下二段で、輪郭の付いた二弧の隅 飾は、微かに外側へ傾斜している。輪郭の中には 何も彫られていないようだ。 塔身には、金剛界四仏を象徴する種子が、やや 浅めの彫りながら月輪内に刻まれている。 キリーク(阿弥陀)の横に正安四年 (1302)と いう鎌倉後期の年号が彫られている。完存する正 安塔として貴重な存在である。 上二段の基礎は、四面共に壇上積の中に格狭間 が意匠されている。格狭間は上端に、鎌倉らしい 剛毅さが見られる。中には蓮華模様などは彫られ ていない。 |
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新善光寺宝篋印塔 |
栗東市林 |
林は旧石部の宿から下って来た旧東海道に面し た集落で、新善光寺の本堂の屋根はかなり遠くか らでも見ることが出来た。名前通り、信濃善光寺 の阿弥陀如来の分身を祀って、鎌倉期に建立され たという。 この宝篋印塔は墓地の片隅に置かれており、残 念なことに基礎と相輪が完全に喪失している。 現在の基礎には、写真で見る通り、何とも無粋 で荒削りな石が使われている。妙な代用よりは、 まだマシと考えるべきだろう。 それに比して、笠と塔身の美しさは無類で、古 式の塔のみが発するオーラの如き別格の輝きが感 じられた。 笠は、六段の上部と隅飾、軒口と下部二段の全 てが一体に造られている。二弧無地の隅飾は、外 側はほぼ垂直で反りが無く、表面が軒口と段差無 く完全に一体化しているのは、大和生駒の輿山往 生院や近江八日市の妙法寺薬師堂など、数例しか 無い古式であろう。 塔身は約40センチ角の立方体で、月輪の内側 に蓮華座を彫り、その上に金剛界四仏種子の梵字 が乗っている。写真は左側がキリーク(阿弥陀) 右がタラーク(宝生)である。彫りはかなり浅く 陰影がはっきりとしない。 しかし何と、この南側のタラーク面に、弘安三 年(1280)という年号が彫られていたのである。 近江野洲には弘安二年銘の宝篋印塔が在るが、 塔の部材に問題があるので、事実上は最古の部類 に入る、とだけ申し上げておく。 |
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安養寺層塔 |
栗東市安養寺 |
本尊の薬師如来像や江戸期の池泉庭園などを見 るために、この寺へは昔訪ねてきたことがあった のだが、十三重石塔に関しては当時は全く認識不 足であった。 石塔は本堂の手前左側に建っていたが、基礎や 塔身が植栽に覆われてやや見辛かった。 本来は十三重であったのだろうが、現在は十重 になっている。下から九層目の屋根(笠)の幅が 急に小さくなっており、明らかに九から十一層ま での三層が欠落しているのである。 しかし、笠の軒の厚みが示す豪快な迫力、両端 の微かな反り具合などからは、鎌倉中期から後期 に至る辺りの豪放な美意識が感じられる。 塔身には四方仏坐像が半肉彫りされているのだ が、植栽に隠れて正面しか見えなかった。 塔身は、基礎上に彫られた複弁反花の上に載っ ている。 基礎の正面は二区それぞれに僧形坐像が彫られ ており、他の面には格狭間が意匠されているらし いのだが、これも詳細は見えなかった。 相輪は、先端の宝珠から龍車・水煙・九輪・請 花・伏鉢・露盤と、石造美術のお手本のように完 全な形で残されている。 東大寺の良弁が開基、空海が中興した真言宗の 名刹である。 |
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徳生寺宝篋印塔 |
栗東市伊勢落 |
栗東市の東端、野洲市の南桜とは野洲川を挟ん で相対している。石部から草津へと向かう旧東海 道筋にあたる宿場跡で、伊勢落という地名は、斎 宮の禊場が在ったことに由来する。 可愛い山門を入ると正面に本堂が在り、その右 手の空地に写真の宝篋印塔が建っていた。 下二段の基壇が立派過ぎて、宝篋印塔が小さく 見えてしまうのだが、基壇は後補らしい。 大和式の複弁反花の上に載る基礎は、輪郭を巻 いた中に格狭間を彫ってある。 二段の上の塔身には、四方仏の種子が彫られて いるのだが、か細い彫りの梵字には魅力が感じら れない。格狭間も含め、彫りのレヴェルは凡庸だ ろう。 笠は、下二段上六段で隅飾は二弧、輪郭を巻い た中は無地、外側へ軽く傾斜している。 この宝篋印塔で最も素晴らしいのが相輪で、形 の良い最上部の宝珠から請花・九輪・請花・伏鉢 と、豪快な形状が完璧である。塔全体の姿を、均 整の取れたものにしている。 梵字や格狭間の弱々しい塔身以下に比して、隅 飾の反りや剛毅な相輪の力強さが相反し、制作年 代の推理を至難にしている。鎌倉後期の面影を残 す、南北朝初期とするのが落しどころだろうか。 |
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少菩提寺跡石造多宝塔 |
湖南市甲西 |
菩提寺という簡素な集落の外れ、竹林に囲まれ た静寂な雰囲気の中に、この優雅な姿をした石塔 は立っていた。 かつては少菩提寺という寺の有った場所だが、 この石塔以外には、三体の地蔵菩薩の石像が見ら れるだけで、全くの廃墟となっている。 信州の常楽寺のところでも記しているが、石造 多宝塔の遺構は極めて貴重であり、ましてや仁治 二年(1241)という刻銘からも分かるが、鎌倉中期 の美意識がいかに卓越していたかを物語る絶品で あると言える事例なのである。 上層の屋根が二重になっており、軒下には持送 り石が入っているなど複雑な構造になっている。 屋根の軒の反り具合で時代はある程度把握できる が、この静かな反りが見事に鎌倉様式を示してい る。 下層軸部の高さがやや大きいことは、石塔寺や 韓国新羅の石塔にも通じる古式の優美さを伝えて いるとも思える。また、両親のための永代供養を 念願した納経塔でもあるというが、迷うことの無 いすっきりとした造形を純真な信仰が生んだ、と も言える。 |
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長寿寺石造多宝塔 |
湖南市石部 |
近年の市町村合併で、石部町と甲西町が合併し て湖南市となったが、御時世ということで致し方 は無いのだろう。 甲西町の善水寺、石部町の常楽寺とこの長寿寺 をいつの頃からか湖南三山と呼ぶようになった。 発信元は、湖東三山を売りつくした観光会社かも しれない。 常楽寺の西寺に対して、ここは東寺と呼ばれて おり、天平時代に良弁僧正が建立した大寺であっ た。鎌倉初期の本堂(国宝)や弁天堂(重文)が 往時の遺構として残されている。 この珍しい石造多宝塔は、本堂へと向かう参道 の右側奥にひっそりと建っている。参拝者は多い が、目を向ける人は少ない。 九輪が失われた相輪部分には、宝珠と伏鉢だけ が笠の上に乗っている。 上層の屋根は二重になっており、軒下に分厚い 持ち送り石が彫られている姿は、同じ甲西町の少 菩提寺跡の石造多宝塔にとてもよく似ている。 屋根の微妙な反り、勾欄の無い饅頭型と呼ばれ る円形部分、そして軸部の縦長な姿などは瓜二つ とも言えるだろう。同じ石工の作、とも考えられ る。 下層の屋根の反りが、こちらの方がやや大きい ことが、時代的に少し下がるかもしれない。しか し鎌倉後期を下ることはない、堂々たる傑作だ。 |
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正福寺永厳寺跡宝塔 |
湖南市正福寺 |
正福寺は湖南市中心の甲西とは野洲川を挟んだ 対岸に当り、字名ともなった古刹が岩根山の山麓 に建っている。 その正福寺の塔頭だった永厳寺は、現在は寺の 東に小堂を残すのみだが、その横に思わず目を見 張らされてしまう程見事な石造宝塔がすっくと建 っていた。 高さが4m近くもある大塔だが、均整の取れた 稀に見る秀麗な宝塔である。 切石の基壇に載る基礎は全くの無地で、何も装 飾は成されていない。 円筒形の塔身軸部には、四方に扉型が彫られて いる。首部には勾欄が意匠され、精巧な彫刻が施 されている。 笠の形が何とも美しい。笠下には三段の斗拱型 段形が彫られ、屋根の四隅には三筋の降棟が表現 されている。軒の厚さが優雅な薄さを示し、両端 の反りは比較的弱々しく古風ですらある。 笠上の露盤には、写真では識別不能だが、輪郭 を巻いた中に格狭間が彫られている。 相輪の、特に伏鉢の高さが異常であることに違 和感を覚えていたが、相輪全体が後補と聞いて納 得だった。 塔身に貞観三年(861)平安前期という銘が刻ま れているが、鎌倉後期~南北朝と考えられる様式 からは、明らかな後刻であると思われる。 |
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川田神社宝塔 |
湖南市正福寺 |
正福寺の前の田圃の中、といった表現が相応し いほど、整然と区画された水田のなかにポツンと 神社の杜が見える。 玉垣に囲まれた本殿に参拝し、左手の森の中を 歩くと、写真の石造宝塔が建っていた。文化財に 指定されている割には、あまりにも唐突に置かれ ていることに驚いた。 基礎は、背面のみが無地で、他の三面は輪郭を 巻いた中に格狭間が彫られている。写真で判る様 に、とても良い形の彫りである。 一段の首部がある塔身軸部には、扉形などの装 飾は一切見当たらない。 笠は、写真では判らないが、笠下に一段の垂木 型が彫り出されている。軒は割と厚く、両端は反 り上がっている。屋根の四隅には、三筋の降棟が 意匠されており、装飾の少ない塔の中にあって、 笠部分だけが精一杯のお洒落をしているように思 えた。 無地の露盤に載る相輪は、九輪の修復部分以外 は完璧な保存状態で、上から宝珠・請花・九輪・ 請花・伏鉢が完存している。 制作年代については、なんとも悩まされる。 湖南市の案内板には南北朝と記されていたが、 鎌倉後期を思わせる格狭間と軒口の反り、古調の 塔身部、後世を思わせる伏鉢の背の高さ、などが 交錯し悩まされるからである。 小生の所感は鎌倉末期である。 |
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常永寺五輪塔 |
湖南市岩根 |
岩根は湖南市の東端に近く、前述の正福寺に隣 接する地域である。 常永寺は岩根集落の西南端部に位置する浄土宗 の寺院で、写真の五輪塔は門を入って直ぐ、参道 右手に建っている。 上から、空輪は宝珠らしいふっくらとした形を しており、蓮のつぼみを連想させる。請花として の風輪はやや扁平に見える。 火輪(笠)は、屋根の傾斜がやや急だが、先端 が緩やかに反っている。軒口は比較的厚く、両端 は強烈ではなく程良く反っている。 水輪(塔身)は、微妙に偏平さが残るが、ほぼ 完全な良い形の球形である。 地輪(基礎)は、やや背の高い方形で、背面に 康永四年(1345)南北朝初期の年号と、一結衆の銘 が彫られているとの事だったが、残念ながら判読 は出来なかった。 各輪の四方に、五輪塔四門を象徴した梵字が彫 られている。写真の正面には、上からキャ・カ・ ラ・バ・アと刻まれているのだが、彫りが浅く書 体も小さいのではっきりとは写っていない。剛毅 な書体が特徴の鎌倉期に比べると、総てが女性的 (弱々しい)となる南北朝期の特徴を良く表して いると思う。 これといった特徴は無いが、近江では珍しい銘 の入った五輪塔として、貴重な存在だと言えるだ ろう。 |
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観音寺跡宝篋印塔 |
湖南市朝国 |
湖南市の最東南端、国道1号線の朝国交差点の 北東にある竹藪の中に、写真の宝篋印塔が建って いる。工場や倉庫が林立する地域だが、北側の山 裾から小川に沿って畦道を歩き、倉庫裏手の竹藪 へと行くことが出来る。 そこは北条時頼創建の伝説が残る観音寺の廃寺 跡で、忘れられたかのように一基の石塔が建って いた。 上六段下二段の笠の隅飾は、三弧で輪郭を巻い てある。中は無地だが彫りが深く、キリリとした 確たる造形意識が感じられる。 基礎には輪郭が巻かれ、美しい形の格狭間が深 い彫りで描かれている。中は素地だが、これも只 ならぬ鮮やかな彫りで、この基礎と笠の美意識 の鋭さから、直ぐに鎌倉後期の円熟した造形が想 定出来た。 案の定、基礎に正和二年(1313)鎌倉後期という 年号が確認されているそうだ。自分の目で確かめ たが、言われてみれば程度の判読しか出来ない。 塔身の正面には「法界」の文字が刻まれている が、石材質も異なっており、明らかに後補であろ うと考える。しかし、全体像として眺めると全く 違和感は無く、無装飾であることが返って笠と基 礎の造形を引き立てている様に思えたのだった。 相輪の別物は論外だろう。 |
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正福寺宝篋印塔 |
甲賀市杉谷 |
旧甲南町杉谷の入口近くに位置するお寺で、第 二名神高速の開通によりアプローチは格段に容易 となった。 聖徳太子開基と伝わる古刹で、現在は臨済宗の 寺院となっている。本尊の十一面観音(重文)は 秘仏で、“世継観音”として知られる。 本堂右手に庭園が在り、宝篋印塔はその一画に 置かれている。 相輪は、先端の宝珠から下部の請花、伏鉢まで が完存しているが、やや華奢に見える。 笠は上六段下二段の定型で、輪郭の付いた二弧 の隅飾はほぼ垂直に立っている。 塔身には、月輪内に薬研彫りされた梵字が四方 に意匠されており、金剛界四仏を象徴している。 写真はタラークで宝生如来を表わす種子(梵字) である。その右側は、ウーンで阿しゅく如来を象 徴している。 基礎は無地だが三段の基壇が豪華で、最上段に は複弁蓮華座が設けられている。蓮華座に石塔の 載る様式は大和で多く見られ、この地が近江と大 和の文化交流点に当る事を物語るように思える。 隅飾の垂直な立ち方や深い薬研彫りからは鎌倉 様式が伺えるが、全体に漂うひ弱さからは南北朝 とするのが正しいようだ。 |
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勢田寺宝篋印塔 |
甲賀市杉谷 |
前掲の正福寺から杉谷を更に深く分け入った里 に、最澄開基と伝わるこの古刹(現在は浄土宗) が在る。「せいでんじ」と読む。 山門を入った本堂手前左手に、二基の力強さに 満ちた宝篋印塔が建っている。 写真は、山門に近い方の塔(南塔)で、正和五 年 (1316) という鎌倉後期の年号が発見されてい る。蓮華座に載っており、ここにも大和様式の影 響を見ることが出来る。 上二段壇上積式の基礎には格狭間が彫られ、中 に開蓮華が浮彫されているのだが、裏面は格狭間 のみのように見え、他の一面は植栽の繁茂によっ て確認が出来なかった。 塔身には、浅彫りに沈めた月輪内に、金剛界四 仏の種子が薬研彫りで描かれている。雄渾な筆致 は、いかにも鎌倉期らしい精神をも象徴している ように見える。 笠は、上六段下二段で、輪郭を巻いた二弧の隅 飾の中は無地、やや外側に反っている。塔身の大 きさに比してかなり大きめな笠であり、同じ鎌倉 でも古式な様式を踏襲しているようだ。 相輪は、九輪の中程から上が喪失しているが、 大柄な伏鉢や奔放な請花からは、何とも豪壮な相 輪が想起されてくる。 もう一基(北塔)も鎌倉後期の塔で、ほぼ同様 の形式だが、相輪が喪失している。 |
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滝樹神社宝篋印塔 |
甲賀市前野 |
旧土山町に在る「たき」と読む神社で、仁和九 年 (893) に鎮座した由緒深い社である。無形文 化財の「ケンケト踊」や、絶滅危惧種として保護 区とされる「ユキワリイチゲ」の花でも知られて いる。 この宝篋印塔は、社殿の左手に広がる深い林の 中に、一基だけでポツンと建っており探すのに少 し苦労した。 1m60の高さの花崗岩製で、相輪は宝珠、請 花、九輪、請花、伏鉢の全てが揃っている。豪快 さと繊細さを兼備した秀逸な相輪で、全体の像容 とも見事に調和している。 笠は上六段下二段の定型で、輪郭を巻いた隅飾 の中は無地の二弧、先端はやや外へ傾いている。 写真は正面で、塔身には仏像が彫られている。 他の三面には梵字が彫られており、ウーン(阿し ゅく)などが見られるので、金剛界四仏だろうと 思うのだが、他の梵字が磨耗してよく判らない。 仏像は智拳印を結んでいるように見える事から、 金剛界大日如来像ではないかと思えた。 基礎は上二段で、輪郭を巻いた中に格狭間が彫 ってあるが曲線はやや弱々しく、背面は全く加工 の無い素面となっている。 均整の取れた細工のしっかりとした玄人好みの 石塔だが、総体的な繊細さが限りなく南北朝に近 い鎌倉末期を示しているように感じられた。 |
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石山寺宝塔 |
大津市石山 |
或る年の初春、石山寺へは盛りの梅と国宝の木 造多宝塔、それに石造三重宝篋印塔をみるために 訪山したのだった。 多宝塔の全容が見える場所に、この石造宝塔が 囲いも案内の説明も無く、放り出されるようにし て建っていた。目的としていた文化財はいずれも 素晴らしかったが、何故か私にはこの宝塔が最も 印象に残った。つむじ曲がりには、ノーマークの 穴馬が相応しい、というところだろうか。 しかし、どっこいこの宝塔は、単なる穴馬では 済まされない。少しぼってりとした塔身に親しみ が持てるし、やや反りは強くなりかかってはいる ものの、古式のみに感じられる品位を失っていな い笠、相輪や基礎も含め、全体の雰囲気がとても 良いからだ。 おそらく、鎌倉期の最後の方かもしれない。 ぎんぎらの指定文化財は大半が傑作と決まって いるが、こうした隠れ名品との偶然の出会いは又 格別である。 梅園の梅が満開で、ここまで芳香が漂って来る ような気がしたものだ。 |
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石山寺宝篋印塔 |
大津市石山 |
石山寺の梅を観に訪れた際、文化財としても著 名な三重宝篋印塔を観た。しかし、その物珍しい だけの姿には少しも美しさは感じられず、正直余 り好きにはなれなかった。 がっかりしながら歩いた境内で、国宝の木造多 宝塔にたどり着き、そこで鎌倉期の石造宝塔と、 亀谷禅尼供養塔と書かれた二基の宝篋印塔を見つ けた。写真はその内の左側のものである。 二基は双式のようで、右塔の塔身には金剛界四 仏種子が彫られ、その下は反花座となっているの に対し、左塔には胎蔵界四仏が彫られ、下は段状 になっている。 両塔共輪郭線の在る三弧の隅飾を持っており、 京都の勝林院塔にかなり似ているようにも見えた が、こちらの基礎には格狭間が彫られている。 制作年代は不明だが、隅飾の反り具合からも、 鎌倉中期から後期にかけたあたりと推定した。 小振りだが大変美しい塔で、宝塔と共にとても 感動した記憶がある。 それにしても宝篋印塔の美の世界というのは、 何と奥の深いことであろうか。 |
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石山寺三重宝篋印塔 |
大津市石山 |
石山寺を再訪した際、前回の訪問でがっかりし た経緯のあるこの三重宝篋印塔を再見した。 相輪の位置に五輪塔の空風輪が載っているのが 厭だったのか、前回には悪趣味な寄せ集めの塔と しか思えなかった。 しかし三層の均衡の面白さを理解してみると、 前回の悪い印象は一体なんだったのだろうかとさ え思えた。大阪都島神社の三重宝篋印塔、という 傑作に巡り会い感動していたからかも知れない。 上二段の基礎は無地だが初重軸部の四方には、 舟型に彫り込んだ中に仏像が半肉彫されている。 像容からどの仏かを特定するのは難しそうだ。 初段と二段目の笠は、上二段下二段でほとんど 垂直に立った小振りな隅飾で、装飾はほとんど無 い。二、三重目の軸部は、高さを低くすることに よって三重塔としてのバランスを良くしている。 最上部の笠は、下二段上三段で、相輪が完存し ていたらさぞ壮観だろうと感じた。 何故宝篋印塔を三重に、という疑問は消せない が、風変わりな発想であったことには違いないだ ろう。高さ2m60の花崗岩製、鎌倉後期の作だ ろう。 |
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長安寺宝塔 |
大津市神出町 |
大津から京都へと向かう時に必ず通った逢坂の 関に、平安時代には関寺という三井寺の別所寺院 が在った。その廃寺跡に現在は長安寺が建ってい る。関の蝉丸神社下社も近い。 境内には謡曲に出て来る関寺小町の墓と伝えら れる五輪塔も建っていた。 写真の大きな宝塔は、関寺の牛塔と呼ばれる平 安時代の石塔である。関寺建立に尽力した霊牛を 供養したとされ、藤原道長の日記「御堂関白記」 や「栄華物語」にも事の顛末が記されている。 高さが3m以上有る大塔だが、決して大味な造 形ではなく、藤原時代の特徴を備えた美しい塔で ある。 塔身はどっしりと落ち着いており、やや膨らん だ胴も気品に満ちている。 笠は六角形で、屋根の流れはほぼストレート、 軒は薄くやや微妙な反りを見せている。 これらの特徴は、中尊寺や鞍馬寺に残る平安期 宝塔にかなり類似している。 笠の上の露盤に乗っている方形の台と宝珠は後 補で、従来は相輪かもっと大きい宝珠が乗ってい たに違いない。 |
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明王院宝塔 |
大津市葛川坊村 |
葛川の里は京都の大原から鯖街道を北上し、途 中峠を越えて近江の国へと入った辺りである。大 津市とは名ばかりの、比良山西側に位置する山深 い里である。 この寺へはかつて雪の中を、不動巡りの札所と して参拝したことがあった。もちろん、深い雪に 埋もれていたので、その時は石塔の所在は不明だ った。 今回訪ねたのは初夏七月で、憧れの宝塔は石段 を登った本堂の右側に、濃い新緑に映えながら優 雅な姿で建っていた。 立派な石積みの基壇に載った宝塔は、均整の取 れた関西屈指の美塔の一つである。 基礎には輪郭、格狭間が刻まれているが、塔身 には仏像も鳥居も無い古式とも思える簡素さであ る。 笠の軒反りはいかにも鎌倉後期らしい美しさで あり、その下に二重の持ち送りと二段の首部が入 っていることによって、立ち上がりに繊細な均整 美を演出している。 基礎背面に嘉暦三年(1328)の銘と共に、不動金 剛とか念仏惣衆などといった文字が見え、この地 の信仰がどんなものだったかが想像出来、この美 塔も深い信仰あればこその所産なのだと知れる。 |
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明王院宝篋印塔 |
大津市葛川坊村 |
行政は大津市だが、ここを訪ねるのは京都の大 原を通り、鯖街道と呼ばれる若狭へと通じる花折 隧道を抜けて行くことになる。 この明王院については前述の宝塔の項にも記し ているのだが、境内一円がまことに重要な石造美 術の宝庫となっている。 この宝篋印塔は石段を登った本堂の手前に建っ ており、基礎側面から正和元年(1312)という鎌倉 後期の銘が出ている。 隅飾は二弧輪郭付きで、上六段下二段という典 型的な当代の様式を示している。 塔身には、蓮華座に乗る月輪の中の金剛界四仏 種子が、格調高い薬研彫りで彫られている。 基礎には格狭間が、そしてその上部には複弁の 反花が見事に表現されている。 笠の段の背がやや低く、笠全体が偏平な印象を 受けるが、様式美を象徴した泰然とした気品と大 らかさが感じられる。 資料に寄れば、年号銘のところに「四村念仏講 衆」という文字が在るそうだが、はっきりと確認 は出来なかった。しかしそこからは、天台念仏信 仰を中心とした葛川四か村の講の人達が、村の安 穏を祈願して建てたこの塔の、生前供養塔のよう な性格を読み取ることが出来る。 |
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地主神社宝塔 |
大津市葛川坊村 |
前掲の明王院に隣接する古社で、美しい春日造 りと蟇股の彫刻で飾られた共に重文の本殿と幣殿 で知られている。 石段を登った参道左手の手水屋の横に、写真の 宝塔がさりげなく建っていた。 基壇に載る基礎部分は、輪郭を巻いた中に格狭 間が刻まれている。鎌倉期のような張りのある曲 線である。裏面のみ無地だった。 塔身には鳥居などの彫刻は無く、円板部と二段 の首部のみという意匠になっている。 康永四年 (1345) という南北朝前期の年号が彫 られているということだったのだが、摩滅と苔の ためにはっきりとは確認出来なかった。 笠下に二段の垂木型が彫りだされている笠の屋 根はやや急傾斜で、四隅には三本の降棟が彫られ ている。 軒口はやや薄く両端が反り上がるような形で、 笠上部の幅が広いので何とも不安定に見えてしま う。露盤が載っていない事にもよるのだろう。 相輪は上から、形の良い宝珠、蓮弁の美しい請 花、九輪と揃っているのだが、その下に来るべき 請花と伏鉢が欠落してしまっている。九輪の最下 部は請花のようにも見えるのだが、九輪の一部で あるようにも見えた。 部分的な欠落はあるものの、鎌倉末期の雰囲気 を残した南北朝在銘塔として貴重なものである。 |
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天皇神社宝塔 |
大津市和邇 |
旧志賀町の和邇(わに)という里の外れに、こ のゆかしい名前の神社がある。小野道風神社など も近い、歴史の里である。 鬱蒼とした木立の参道を行くと、社殿の前方左 側に二基の石造宝塔が祀られているのが見える。 写真は社殿に向かって右側の南塔である。 写真でははっきりとしないが、背が低く妙な違 和感が感じられる相輪は後補かと思われる。 屋根の四隅に三本の降棟が彫られており、両端 が反った厚手の軒を持つ笠は、豪壮な鎌倉期の特 徴を良く表している。笠裏には二段の垂木型が彫 り出されている。 塔身の首部は二段になっており、下段の方には 勾欄をイメージさせるような縦縞の連子窓の彫ら れているのが微かに確認できる。 軸部の正面に、蓮座に載る種子梵字「ア」が、 大きな月輪の中に薬研彫りされている。「ア」は 胎蔵界大日如来の種子であるが、ここでは宝塔の 主である多宝如来を象徴しているのではないかと 思う。 基礎三面に格狭間が彫られ、正面にのみ宝瓶に 飾られた三茎蓮華が確認出来た。残念ながら写真 が暗いので、画面では判らない。 銘は無いので制作年代は不明だが、鎌倉後期の 作と思われる。 もう一基の北塔は簡素な造りで、やや荒廃気味 だが、年代はこちらの方が古式である。 |
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小野神社宝塔 |
大津市小野 |
旧志賀町の小野に在る古社で、広大な林に囲ま れた社域の中に建っている。推古天皇の時代(6 ~7世紀)に小野妹子が創建したと伝えられ、小 野篁神社や小野道風神社が摂社として祭られてい る。おまけに参道左手に置かれた写真の宝塔は、 小野小町の供養塔とされている。いずれも妹子の 系列で在るらしい。 相輪は、九輪の大半と請花だけが露盤に載って おり、伏鉢も喪失したようだ。 笠の屋根の四隅には三本の降棟が彫られ、先端 が反り上がっている。軒口は割りと扁平で、両端 が微かに反っている。軒下には、二段の垂木型が 意匠されている。 二段の首部、円板部の造りは定型だが、塔身軸 部には扉型が彫られている。 基礎は、三面に輪郭を巻き格狭間を意匠し、そ の中、正面には宝瓶三茎蓮、左右の面には開蓮華 が彫られている。何時見ても、この近江文様は魅 力的なデザインだと思う。 背後のみが無地で、右隅に康永二二年と彫られ ており、この塔が南北朝前期の康永四年 (1345) の作であることを示している。 この時代のサンプルとも言えそうな定型だが、 均整のとれた逸品である事に違いは無い。 |
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樹下神社宝篋印塔 |
大津市北小松 |
琵琶湖西岸旧志賀町の北小松という所に、この 珍しい名前の神社があった。樹下(じゅげ)神社 というのだが、前に琵琶湖、後ろに比良連峰を望 む、という絶好の立地である。 本殿へと至る緑濃い参道脇に、この優美な宝篋 印塔が静かに建っていた。 基礎部分の下に、三段の基壇が設けられている のが、先ず目に入る。基壇の最上段には、複弁反 花が彫られており、余程の高貴な人物との関連が 考えらそうである。 基礎の四方に格狭間、その中に盛り上がるばか りに開蓮華が彫り出されている。 基礎上部にも複弁反花が装飾されており、壮麗 かつ気品に満ちた意匠が駆使されているようだ。 塔身には四方仏像が半肉彫され、蓮華の上に座 している。 笠の上部六段、下部二段は型通りで、二弧輪郭 付きの隅飾にも、中に蓮座と月輪らしき図が見え る。隅飾の外側は少し反り気味であり、時代は鎌 倉期ではないことを予感させる。 案の定基礎の柱面に、文和五年(1356)という南 北朝前期の銘が彫られている。 宝篋印塔草創期である鎌倉中期の朴訥な力強さ はすっかり失われてはいるものの、かくも均整の とれた眉目秀麗な宝篋印塔はそう在るものだはな いだろう。これ以後、江戸期を経て現代に至るま で、石造美術は衰退の一途をたどる事となるので ある。 |
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長谷寺宝篋印塔 |
高島市音羽 |
今津町や高島町、朽木村まで含めた六町村が合 併して高島市になった。 この寺は旧高島町のほぼ中心に当たる地域の、 音羽という集落に在る。 薬師如来を本尊とする薬師堂が建っており、宝 篋印塔はお堂の左手に数基の石塔と共に祀られて いる。 均整のとれたまことに美しいプロポーションの 塔で、一目で気に入ってしまった。高さ1m50 少々という小振りな造りが、端正なイメージとな っているのかもしれない。 基礎の格狭間には開蓮華が美しく、その上の複 弁反花座が力強く彫られている。 塔身の梵字は金剛界四方仏かと思われ、写真に は月輪に囲まれたキリーク(阿弥陀)が写ってい る。 二弧の隅飾りや上部六段、下部二段の笠も見事 な造りであり、全体のバランスからは作者の卓越 した美意識を感じることができる。 堂々とした相輪が完備していることが、この塔 の価値をさらに高めているだろう。 正中三年 (1326) という鎌倉後期の銘が入って いるらしいのだが、摩滅しているので確認は出来 なかった。 |
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満願寺跡宝塔 |
高島市安曇川町三尾里 |
旧安曇川町の三尾里寺の前という地名を尋ね、 ようやくたどりついたこの宝塔は、民家の並ぶ路 傍の一画に建っていた。近所の人達が掃除をした り花を飾ったりしており、満願寺が廃寺となって からは、皆で日常的にこの石塔を守ってきた様子 が伺われた。 “鶴の塔”と呼ばれる通り、写真の角度から眺 めると、天に向かって羽ばたこうとする白い鶴の 姿に見えるような気がしてきた。 宝塔の軸部はいかにものびやかな曲線で、大ら かで古風な形である。正面に扉型が彫られている が、かなり磨耗してしまっている。反対側に、京 都などで見る並座する二仏が彫られているが、狭 くて上手く写真に撮れなかった。 首部の横線は二重なのではなく、優美な勾欄が 彫られた別石である。 持ち送り石に支えられた笠は、ゆるやかな軒反 りが優雅であり、鎌倉中期でも前期に近いあたり の様式を示しているかもしれない。 4m以上もある大型の塔だが、少しも粗削りな 部分は無く、繊細だが泰然とした美しさの感じら れる宝塔である。 相輪だけが後世の補修であり、かなり不釣合い に見える。 |
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田中神社宝塔 |
高島市安曇川町田中馬場 |
安曇川駅の西北約2キロに在る神社で、社殿へ 登る石段の右側に大小五基の石塔が並ぶ姿は壮観 だった。 部分的な後補はあるものの、いずれも鎌倉後期 の作と考えられる。 手前の宝塔は、相輪が入れ替わっているが、笠 四隅の降棟、笠裏の二段垂木型、反りの緩やかな 軒口の屋根は重厚である。円板状に載る二段の首 部を持つ軸部には、正面のみに鳥居型が彫られて いる。壇上積式の基礎には、開蓮華や三茎蓮が彫 られている。笠の迫力が際立った宝塔である。 二番目の宝塔の塔身四方には、扉形が彫られて いる。相輪の上下端は喪失し、別の部材が載って いる。 三番目の宝塔の塔身正面には、坐した仏像が彫 られている。 その後に大小二期の宝篋印塔が並んでおり、丸 で石塔の見本市の観を呈している。 |
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玉泉寺五重塔 |
高島市安曇川町田中三田 |
前掲の田中神社からは、西へ500m程歩いた 所にこのお寺が在る。入口に祀られた地蔵石仏な ど、境内には多くの石仏が見受けられ、特に近世 の作ながら顕教五仏とされる大柄な坐像石仏群は 立派だった。 山門を入った右手に、写真の石造五重塔が、南 北朝の宝塔や小さな宝塔、阿弥陀如来の石仏など と共に並べられていた。 相輪は全くの別物だが、塔全体の古色蒼然とし た風貌にすっかり魅了されてしまった。単に苔の 風情に騙されたのかもしれない。 厚みのある屋根の軒口は、緩やかで大らかな反 り具合を見せ、五層共に古式な落ち着きを呈して いる。この事からだけでも、この塔が鎌倉中期は 下らない時期に製作されたであろうことが推定さ れる。 最上層だけが屋根幅の逓減にやや不自然さが見 えるが、苔に覆われて詳細は不明だ。 塔身の背の高さも古式を示しており、四方には 光背を彫り窪めた中に四方仏坐像を半肉彫してあ る。かなり摩滅しているが、泰然とした落ち着い た彫刻だった。 |
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阿弥陀寺五輪塔 |
高島市新旭町旭堀川 |
このお寺は旧新旭町の町のほぼ真ん中に位置し ており、湖西線の新旭駅からはまことに程近い場 所である。 お寺の裏側の一画が小さな墓地になっているの だが、そこはかなり古い石塔が何基も見受けられ る魅力的な場所だった。 墓場に魅力を感じるなどという物好きは、石造 美術愛好家以外には有り得ないだろう。 しかし、ここの墓場は物好きどころではなく、 飛び切り貴重な一級品の石塔が二基建っている重 要な場所であった。 写真はその内の一基で、まことに形の良い石造 五輪塔である。 脇に立つ看板によれば、正安という年代が記さ れていたそうで、とすれば鎌倉後期の作というこ とになる。 空輪の形や軒反りの緩やかなことから、実は私 の第一感は鎌倉中期までもって行けるかだった。 正安は中期に近い後期なので、まあいいかといっ たところである。 時代考証はともかく、全体に均整の取れた美し い五輪塔であることには間違いない。 |
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阿弥陀寺宝塔 |
高島市新旭町旭堀川 |
前掲の阿弥陀寺の墓地に、もう一基重要な石塔 が建っている。写真の宝塔がそれで、前述の五輪 塔とは数基の小五輪塔を間にして並んで建ってい る。 背の低い基礎は、四面共に無地である。 写真で見る通り、塔身には顕教四仏と思われる 四方仏坐像が浮彫されている。宝塔には珍しい意 匠で、先般災害に遭った水口の最勝寺の扉内に刻 んだ事例はあるものの、仏像だけ彫られた事例は とても珍しいだろう。 塔身上部の首部はやや高さのある一段になって おり、その上に笠が載っている。 笠下はこの地方の定型とも言えそうな、二段の 垂木型が彫り出されており、軒口の厚さや反り具 合は何とも古式でおおらかな緩やかさを示してい る。 屋根には降棟などの装飾は無いが、傾斜の緩や かさも時代の古さを伝えている様に感じられる。 おそらくは、前記の五輪塔同様に、鎌倉中期から 後期にかけたあたりの作だろう。 相輪は九輪の中程に接いだ跡が見られ、九輪上 部の太さが変わっている事から、上部は別物が接 合されたものと解釈した。 |
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大善寺宝塔 |
高島市新旭町新庄 |
現在は小さな寺だが、最澄の開基になる天台宗 の古刹である。本尊の大日如来坐像は、平安期の 作で重要文化財に指定されている。 宝塔は、門を入った右手、本堂の前面、田圃を 背景にした墓地の中に建っている。 正和二年 (1313) 鎌倉後期の作である。 笠上の露盤には相輪の下部が載っているが、ど うやら別物らしい。 笠はやや急傾斜な屋根の四隅に降棟が彫られ、 軒口の上辺の両端が反り上がり、下辺は割りと緩 やかな反りとなっている。 軒下には、二段の垂木型が彫られている。 塔身上部には高欄と首部の二段が意匠され、こ こには円板部は見られない。 塔身の正面に、浅く光背を彫った中、一体の仏 像が浮彫されている。定印を結んでいるように見 えるので、おそらくは阿弥陀如来の坐像だろう。 西日の光が横から当って、浮き立つ様に見えた。 基礎は何とも大きなもので、塔身とのバランス が全く違うことから、別物であることは疑い無い だろう。格狭間に三茎蓮を彫った逸品だけに残念 である。 笠と塔身以外は全て別物ということになる。 |
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日吉神社宝塔 |
高島市新旭町針江 |
水清き水郷針江の里に建つ古社で、社殿よりさ らに奥の右手、かつて石津寺という寺院が在った 場所に、この宝塔と板碑が建っている。 基礎は四面共に無地で格狭間など一切の装飾は 無いのだが、唯一正面に徳治二年(1307)鎌倉後期 の銘だけが見られる。 円筒形の塔身も全くの無地で、上部は高欄、首 部の二段という意匠である。手抜きなのか、清楚 なのかの判断は難しい。 笠の軒下には、二段の垂木型が彫り出されてお り、厚めの軒の上辺は両端が極端に反り上がって いる。下辺は緩やかに見える。 屋根の四隅には太目の降棟が彫られているが、 余り優れた意匠とは思えない。しかし、やや遠目 から眺めた全体像は、重厚な笠とすっきりした塔 身のバランスが良く、鎌倉後期らしい秀麗な宝塔 に見えたのだった。 露盤の上には、相輪の替わりに五輪塔の空風輪 が載っている。何の意味も無い。 宝塔の隣に板碑が写っているが、鎌倉後期の作 であり、詳細はぜひ当サイトの板碑のページを御 参照願いたい。 (武蔵以外の板碑) |
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西江寺宝塔 |
高島市今津町藺生<ゆう> |
平安末期藤原頼道の創建と伝えられる古刹で、 現在は臨済宗の禅寺となっている。 今回初めて訪ねたのだが、実はこの石塔の存在 は知らなかった。訪問の目的は、荒廃はしている がしっかり保存されている、江戸末期に作庭され たという池泉庭園にあった。 その庭園の片隅に建つこの宝塔には、正直驚い た。どう見てもかなり古い宝塔に違いなく、また 何処にも資料は無く、全くノーマークだったから である。 見学の感心は、庭園よりもこの石塔に傾いてし まった。 相輪は、宝珠から伏鉢までが完存する良い形だ が、石質が違うようにも見え、後補の可能性はあ りそうである。 笠は、屋根の緩い傾斜、軒口の厚さや微妙な反 り具合から、鎌倉後期は下らないように思えた。 何とも落ち着いた、魅力的な笠である。軒下に二 段の垂木型が彫られている。 首部には微妙な段差が付いており、高欄と首部 を彫り分けていると思われる。円筒形の塔身には 格別の装飾は成されていない。基礎も苔に覆われ ており、かなり摩滅しているので判別は難しいの だが、どうやら無地のようだ。 鎌倉後期と思われる宝塔を発見した、と勝手に 決め込んでいるのだが、果たして識者はどのよう に思われるだろうか。 |
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称念寺薬師堂宝塔 |
高島市マキノ町上開田 |
旧マキノ町でJR湖西線のマキノ駅から、北へ 約3キロ行った仲仙寺山の山麓に建つ寺である。 本堂は集落の中に在って、宝塔の祀られた薬師堂 は少し離れた突き当りの林の中に建っている。 露盤に載る相輪は豪壮な観を呈しているが、残 念ながら九輪より上が欠落している。 笠は、屋根の四隅に降棟を彫り、その軒口はか なり厚めで、両端が力強く反っている。躍動的な 形状の笠である。 軒下には二段の垂木型を彫りだしてあるが、三 段あるように見えるのは、更にもう一段円形の首 部請座が設けられているからだった。 塔身の首部は一段のように見えるが、よく見る と微かな段差で高欄と首部を意匠しているのが判 る。円筒形の塔身には装飾は無く、すっきりと美 しく見える全くの無地である。 基礎は、四面全て壇上積式の中に、格狭間が刻 まれている。蓮華などの近江文様は彫られていな いようだ。 力強い相輪、堂々かつ生き生きとした笠、すっ きりとした塔身などから、製作年代を鎌倉後期あ たりに設定出来そうである。 |
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