板碑紀行 
  西日本の板碑 
 
 
 
  本篠板碑 大分県杵築市山香
    
建武元年(1334)
   国東半島には古式の板碑が多い
    
 
 板碑といえば一般的には武蔵の青石塔婆が先ず
挙げられるが、同じ青石の阿波板碑や他の石を用
いた魅力的な板碑が全国に点在している。
 東北、阿武隈、阿波、国東や薩摩などの板碑を
探訪する旅に皆様もどうぞお出かけ下さい。
         
 
 
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 慈尊寺板碑 
   
         (三重県伊賀市白樫) 
    
   
 
 名阪国道を白樫インターで下り、西北に進む
と白樫の集落がある。
 慈尊寺はその奥のほうの高台に建っており、
苔むした石垣や石段が風格のある寺院としての
風格を伺わせた。

 板碑は屋根のついた囲いの中に、光背のある
地蔵石仏と並んで立っていた。
 石質が安山岩であり、月輪や蓮座が線彫りな
のでやや荒削りな印象を受ける。
 しかし、梵字種子のキリーク(阿弥陀)は流
麗な筆致であり、その彫りは薬研彫りの美しい
ものである。

 この板碑の特徴は、元亨元年 (1321) という
鎌倉後期の年号と共に、碑面下部に五行でびっ
しりと彫り込まれた願文にあるだろう。
 在俗出家した尼とその一族が、いかに信仰篤
く帰依したかが彫られ、極楽浄土への強い欣求
が込められている。

 板碑とはいったい何を目的として建立された
のだろうか、という疑問に明確な答えとなるで
あろう貴重なテキストの一つである。
。 
 
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  廃補陀落寺町石 
   
        三重県伊賀市西村 
    
   
 
   種子:アン(胎蔵界五仏の釈迦) 
    
建長五年 (1253) 鎌倉中期
     
町石自然石塔婆(四丁石) 
 
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  賢明寺板碑 
   
        三重県津市元町 
    
   
 
  種子:五輪塔四方(写真は発心門)
     
キャ(空輪)カ(風輪)ラ(火輪)
      
バ(水輪)ア(地輪)
   弘安八年(1285)鎌倉中期
   かつては四面に四方が彫られていた?
 
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 日神墓地板碑 
   
        (三重県津市美杉町 
    
  
 
  種子:カーンマーン(不動明王)
     年号不詳 鎌倉後期
     
本来の梵字を図像化してある
    
 日神(ひかわ)と読む 
 
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 不動院板碑 
   
        (三重県津市美杉町 
    
  
 
  日神(ひかわ)墓地の隣に建つ
  種子:バン(金剛界大日)

    
年号不詳 鎌倉後期
     
三茎蓮中央に月輪 
 
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 日吉神社板碑 
   
        滋賀県高島市新旭町針江 
    
  
 
 針江の里は、「生水(しょうず)の郷」と呼
ばれるほど水の流れの清い集落である。
 日吉神社は隣接する石津寺の鎮守社として1
3世紀末に創建され、“水の女神”として玉依
姫命を祭神としている。

 現在は衰退した石津寺のお堂の脇に、写真の
ような珍しい板碑が建っていた。
 石質は明らかに花崗岩で、背中合わせに建つ
もう一基とは縦に繋げる構造になっているよう
だ。両方併せれば3mにはなる壮大なもので、
他に類例を知らない。

 大きな三角山形と豪快な二条線、幅の小さい
額などが印象的である。
 中央に梵字が縦に二つ彫られているが、上は
「バン」で金剛界大日如来を、下は「ア」で胎
蔵界大日如来をそれぞれ表わす種子である。両
界の中央に座す大日如来を象徴していることか
ら、「大日板碑」とも呼ばれている。

 延慶二年 (1309) という鎌倉後期の年号が彫
られているそうだが、小生には確認出来なかっ
た。
 極めて珍しい形態の板碑であり、また金胎両
大日を種子とする稀有壮大な宇宙観を示す板碑
として、心に残った板碑のひとつである。

 板碑のすぐ右側に、徳治二年 (1307) 鎌倉後
期の年号を記した宝塔が建っている。
 石造美術の宝庫としての、近江ならではの魅
力的な石と水の里である。
 
 
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  西向寺板碑 
   
       京都市北区紫野蓮台野 
    
   
 
 京都洛北紫野、今宮神社の西側に在る浄土宗
の寺院で、創建は江戸寛永年間である。明治の
廃仏毀釈で廃寺となった西念寺から、二体の阿
弥陀如来像と写真の板碑が移されたという。
 板碑は地蔵堂東に造られた覆屋の中に祀られ
ており、浅い陰線刻の地蔵菩薩が描かれた図像
板碑であることから、「爪彫地蔵」と呼ばれて
いる。
 明徳二年 (1391) という南北朝末期の年号と
一緒に、三十五人の結衆が逆修善根を祈念し供
養塔を建造した旨の銘文が刻まれている。

 長方形の輪郭を刻みその中に円光を背にし、
右手に錫杖を持ち左手掌に宝珠を載せた地蔵菩
薩立像が、繊細な線で彫られている。光線の加
減や向きもあって、写真が上手く撮れないのが
残念である。
 地蔵の頭上は火焔付き宝珠の天蓋で、胸元は
荘厳な瓔珞で飾られている。
 蓮座に載る像の下部左右には、蓮華の宝花が
挿された一対の花瓶が彫られており、詳細に眺
めると誠に繊細かつ壮麗な荘厳が成された図像
板碑であることに気付く。

 阿波産の青石と考えられ、後述の了蓮寺、正
法寺と共に“京都三板碑”のひとつと言われて
いる。
 
 
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  了蓮寺板碑 
   
        京都市左京区今出川東大路 
    
  
 
 了蓮寺は百万遍として名高い知恩寺の塔頭の
一つであり、境内の東側に位置している静かな
寺である。
 一般的な拝観は難しいが、事前にお願いして
あったので、書院へと通していただき拝見する
ことが出来た。
 石の材質が京都には無い結晶片岩であること
から、阿波の板碑が連想されたが、どういう経
緯の石なのかは確証が無い。
 高さ2mの大型板碑で、中央に阿弥陀如来の
図像が陰刻で彫られている。光明を四方へ放つ
来迎相の阿弥陀立像であるが、写真でも判る通
りかなり摩滅しているのがとても残念である。
 下部の蓮座は深く彫られているので良く見え
るが、その両側に宝瓶の無い供花のみが描かれ
ているのは余りはっきりとはしない。
 いずれにせよ、京都では類例の無い阿弥陀図
像板碑であり、神々しいまでに荘厳な雰囲気を
示していることに感動した。
 京都では、西向寺の地蔵図像板碑、東山正法
寺の阿弥陀三尊種子板碑と併せて、三板碑と呼
ばているそうである。
 
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  正法寺板碑 
   
        京都市東山区霊山 
    
   
 
 京都東山山麓、霊山護国神社へ至る参道の一
筋南側の急峻な坂を登り、長い石段を上り詰め
た所が正法寺である。
 平安時代に最澄によって創建された霊山寺が
南北朝後期の永徳年間に国阿上人によって、時
宗霊山派本山として再興され正法寺と改められ
たという。
 現在は本堂・庫裏・茶室などのみが残る質素
な寺に変貌してはいるが、境内からの眺望は飛
び切りの一流である。

 本堂裏の覆屋に納められた板碑は国阿上人の
石塔と呼ばれ、入滅した応永十二年 (1405) 室
町初期の年号が彫られている。
 しかし碑面に彫られた阿弥陀三尊の種子(キ
リーク・サ・サク)の薬研彫りは、いかにも関
東風の雄渾で美しい筆致であり、緑泥片岩を用
いた形式は武蔵板碑そのものと言える。
 梵字などが貧弱化していく室町期の板碑とは
思えず、鎌倉後期から南北朝期にかけて関東で
彫られたものと考えたいところである。とすれ
ば、年号は後刻ということだが、ただ、梵字に
はかなり定型化された傾向も伺えるので、もし
年号通りとすれば、過去の作品に見る目を持っ
たかなり腕利きの石工が彫ったもの、という可
能性は捨てきれない。
「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」
という、関東板碑では事例の多い観無量寿経の
偈文が彫られている。
 
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  安阿弥寺板碑 
   
       京都市下京区 
    
   
 
  種子キリーク(弥陀)
    
年号不詳 南北朝?

    市内の貴重な板碑 
 
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  高台寺板碑 
   
        京都市東山区 
    
   
 
  種子カー(地蔵)
    
康応元年 (1389) 南北朝末期
     
珍しい場所で発見
  
 
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  天王極楽寺板碑 
   
        京都府京田辺市天王 
    
   
 
 関西にも板碑は分布しているが、武蔵や阿波
のような青石板碑は少ない。京都では、西向寺
の地蔵板碑、了蓮寺の弥陀板碑、正法寺の青石
板碑を併せて、京都の三板碑と称しているが、
元来板碑の文化はさほど定着しなかったようで
ある。

 写真の板碑は、府下田辺市天王の極楽寺に在
る、正中二年(1325)という鎌倉時代の銘の入っ
た貴重品である。同市高船の同じ極楽寺という
名前の寺にも、やや細長い鎌倉期の板碑が在る
が、梵字の美しさで天王の碑に魅力を感じる。
 元来は天王集落の共同墓地に立っていたそう
で、保護のために極楽寺境内へ移築したとのこ
とであった。

 花崗岩製で高さは107cm、ややぼてっとし
た厚みがある。青石の薄さが身上の武蔵型板碑
を見慣れた目には、やや違和感が拭えないが、
しばらく眺めている内に次第に愛着を感じてく
る。素材としての石が示す多様な表情が、とて
も温かいのである。
 梵字の種子は御馴染み阿弥陀三尊で、「キリ
ーク・サ・サク」がそれぞれ阿弥陀・観音・勢
至を表している。薬研彫りではないが、細く深
く刻まれた種子には、それなりに優雅な美しさ
が感じられた。
 
 
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  高船極楽寺板碑 
   
        京都府京田辺市高船 
    
   
 
 前述の天王極楽寺からさらに南へ1キロほど
行った奈良県境に近い高船の里にも、同じ極楽
寺という名前の寺がある。

 この細身の板碑は高さが177
cmという大
型で、花崗岩で出来た何とも姿の美しい板碑で
ある。
 頭部山形の形状が特徴的である。内側への反
りが大きいので、先端が鋭く尖って見える。
 彫りの浅い二条線や小さな額は天王極楽寺の
正中板碑にとても類似しているのだが、こちら
には銘が彫られていないのでどちらが影響した
のかは判らない。

 梵字種子はキリーク(阿弥陀)一尊で、月輪
は薄い浮彫のようにも見えるが蓮座は無い。
 これだけ完成度の高いフォルムを造り出して
おきながら、種子の下部の細長いスペースに何
も彫られていないのが不思議であり、もしかす
ると未完成の板碑なのかも知れない。

 いずれにせよ、国東財前家墓地の板碑にも似
た美しい形状で、おそらくは鎌倉末期を下るこ
とはないだろうと思う。
 
 
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  大念寺板碑 
   
        奈良県天理市布留 
    
   
 
 種子:キリーク(弥陀)
   
文永五年 (1268) 鎌倉中期
    
月輪 蓮華座
 
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  大念寺板碑 
   
        奈良県天理市苣原 
    
  
 
 十三仏図像板碑
   
天文二十四年 (1555) 室町後期
  
大和屈指の名作 天蓋の下は虚空蔵菩薩
 
 
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  長弓寺板碑 
   
       奈良県生駒市上町 
    
   
 
 図像板碑(宝塔)
   
永禄元年 (1558) 室町末期
 
 
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  天満宮板碑 
   
        大阪府池田市畑 
    
   
 
 種子:キリーク(弥陀)
   
弘安八年 (1285) 鎌倉中期
    
二条線 山形 額 銘文部 
 
 
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  十輪院板碑 
   
        大阪府堺市九間町 
    
   
 
 南海電車の神明町駅の東、大小の寺院が建ち
並ぶ寺町に在る真言宗の小さな寺院である。
 門を入った直ぐ左手の石段脇に、写真のよう
な花崗岩製の背の高い板碑が立っている。高さ
は約2m弱で、細長い舟形の頭部、一条の切り
込みと額部という上先端部の意匠が珍しい。

 中央の図像は、舟型に彫りくぼめた中に、錫
杖と宝珠を手にして蓮座に載る地蔵菩薩立像が
半肉彫りされたものである。
 その下には、阿弥陀の種子「キリーク」が彫
られている。余り上等の梵字とは言い難いが、
地蔵による地獄からの救済と、浄土欣求を示す
弥陀の極楽からの来迎、という二股の祈念を示
した、庶民の切なる信仰を表わした板碑、とい
うことが出来る。
 銘文には、為阿弥陀仏といった文字と、左側
に明徳二年 (1391) という南北朝末期の年号を
読むことが出来るが、まだ埋まっている部分に
も文字がありそうなので、本来はもう少し背が
高かったものと思われる。

 武蔵や阿波の青石で作られた板碑のような研
ぎ澄まされた美しさには欠けるが、庶民の浄土
信仰が生んだ素朴な造形という意味で、切ない
ほどの信仰心が感じられる貴重な遺構である。
 
 
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  熊野速玉大社板碑 
   
        和歌山県新宮市 
    
  
 
 熊野三山の新宮であるこの社に、鎌倉期と思
われる板碑が在ることは知っていた。しかし社
務所の若い宮司に尋ねてみても、その所在は不
明だった。
 境内を隅々まで探し、参道から外れた殿舎の
脇に祀られたこの二基の板碑をようやく発見し
た。
 右は高さ60cm強という小柄な板碑だが、何
とも魅力的だ。低い山形と額部分の意匠が簡潔
であり、梵字や蓮座のバランスがとても美しい
からである。
 種子は「キリーク」で、阿弥陀如来を表現し
ている。神社にキリークは不似合いだが、ここ
は熊野、神仏混
淆の名残なのだろう。
 種子は薬研彫りで端正な書体であり、それを
囲む月輪や蓮の台座は半肉彫りで少し浮き出て
おり、地味だが洒落たデザインとなっている。
 石の材質は石英を含んだ火山岩らしく、青石
とは全く異質の素朴な美しさである。
 左の小さい方の板碑は、やや時代が下がるか
もしれない。梵字は「ア」で通常は胎蔵界大日
如来を表すが、いかにも彫りが弱々しく、南北
朝から室町初期のものかもしれない。
 
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  八王子神社板碑 
   
        兵庫県宝塚市 
    
   
 
 種子:ア(胎蔵界大日) 
   正応三年 (1290) 鎌倉後期 
 
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  波豆八幡宮板碑 
   
        兵庫県宝塚市 
    
   
 
 三尊種子板碑
   
上から:バン(金剛界大日)
      アーンク(胎蔵界大日)

        
キリーク(弥陀)荘厳体
     
嘉暦三年 (1328) 鎌倉後期  
 
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  来迎院板碑 
   
        兵庫県小野市粟生 
    
   
 
 (粟嶋神社境内隣接墓地)   
  図像(五輪卒塔婆)板碑 

    
年号不詳  鎌倉後期? 石棺底石 
     
五輪に西方菩提門種子
     
上からケン・カン・ラン・バン・アン
 
 
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  薬師堂板碑 
   
        兵庫県小野市復井 
    
   
 
  阿弥陀三尊
    
種子:キリーク(弥陀)
      サ(勢至)サク(観音)

    
建長八年 (1256) 鎌倉中期 石棺底板
    県下最古の在銘塔
    
 
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  清慶寺板碑 
   
        兵庫県加西市中野 
    
   
 
  阿弥陀三尊種子 石棺板碑
    
キリーク(弥陀)サ(勢至)サク(観音)
     
正和三年 (1314) 鎌倉後期
        
キリークの宝珠(イの三点)
  
 
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  神積寺板碑 
   
        兵庫県福崎町東田原 
    
   
 
    種子:キリーク(弥陀)
    
弘安九年 (1286) 鎌倉中期
     
上部側面二段
 
 
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  還国寺板碑 
   
        徳島市寺町 
    
   
 
 吉野川上流に産する緑泥片岩(結晶片岩)の
存在が荒川の緑泥片岩を用いた武蔵の板碑の隆
盛に似て、阿波に中世の板碑文化をもたらした
と言えるだろう。

 ここは還国(げんこく)という寺で、徳島の
シンボルである眉山を臨む市内の寺町に在る。
この寺の墓地に、緑泥片岩の特性を生かした、
その薄さが何とも言えない美しさを見せる板碑
が残されている。

 山形の頭部に二段の切り込みと二条線は定番
だが、塔身に輪郭を巻き、中央上方の蓮座に坐
す十一面観音像が二重円光の中に薄浮彫されて
いる。図像は、輪郭以外はほとんど線彫りに近
い。岩盤の上に蓮座が載るという、珍しい意匠
である。

 像下方に銘文が刻まれており、「南無十一面
観世音菩薩、右為七年忌之逆修也」と貞治六年
(1367)という年号がある。南北朝中期に建てら
れた逆修(生前供養)のための板碑であること
が判る。

 未見だが、聖観音像を刻んだ全く同様の意匠
の板碑が隣接する浄智寺に在り、従来は一対を
成していたものだそうだ。藍住町から移築され
たのだという。
 
 
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  威徳院板碑 
   
        徳島市国府町芝原 
    
   
 
 国府町は文字通り、かつて阿波の国府が置か
れた地であり、八十八箇所巡礼や枯山水の名庭
として知られる阿波国分寺が近い。
 この板碑は特異な構成で知られる遺構で、拓
本で見ると一層興味が深まる珍しい意匠なので
ある。
 お寺のやや小高い築山の植栽の中に建ってい
るので、下部の詳細が見えず写真撮影は難しか
った。
   
 主尊の種子「キリーク」は阿弥陀如来を象徴
する梵字だが、その上に彫られた三つの巻貝の
ような宝珠は、三弁宝珠と呼ばれる格別な表現
である。舟形光背の周囲に燃え上がる火焔や、
花弁が下に反り返った蓮座など、一般的な表現
とは別次元の意匠を凝らしている。
 蓮座の下に二つの円輪が在り、中に梵字が彫
られている。通常は右に観音、左に勢至が配さ
れるのだが、ここでは左が「サ」で観音、右は
「サク」で勢至の両脇侍とされている。変則的
な表現なのか、単なる間違いなのか判らない。
右の「サク」は、どう見ても小生には「キリー
ク」に見えてしまうのだが如何だろうか。
 もう一つの大きな特徴は、脇侍種子の間に垂
直に立つ独鈷杵が彫られ、下に横たわる五鈷杵
が組み合わされていることである。密教の三摩
(昧)耶形と呼ばれる意匠なのだそうだ。
 貞和三年 (1347) 南北朝中期の銘が在る。実
はこの寺にはもう一基、同様の意匠の板碑が在
り、それには永和四年 (1378) という南北朝後
期の年号を見ることが出来る。
 
 
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  石川神社板碑群 
   
        徳島県石井町市楽 
    
 
 
 石井町は吉野川流域に開けた町であり、国府
町(徳島市)と接している。
 その国府町を中心として、約2千基弱の板碑
が現存すると言われている。
 覆屋に保存された当社の板碑群は、隣接して
いた長楽寺整地の際に発掘されたものである。
 16基(写真には右2基が写っていない)の
青石板碑の並ぶ様は壮観だった。
 刻まれた主尊の内訳は、阿弥陀三尊種子(キ
リーク・サ・サク)3基、弥陀(キリーク)一
尊が4基、六字名号(南無阿弥陀仏)が4基、
五輪塔種子(キャ・カ・ラ・バ・ア)が3基、
不明2基である。
 国東様式の額を持つ塔(手前から六番目)、
双式名号碑(左から六番目)も在る。最古の板
碑は手前から七番目で、弘安八年 (1285) 鎌倉
中期の年号を持つ五輪塔種子の板碑である。
 
 
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  内谷板碑 
   
        徳島県石井町内谷 
    
   
 
 石井町には次掲の下浦地区に青石の石切場が
在り、そこからは下浦石と呼ばれる上質の緑泥
片岩が産出するそうである。至近に素材が揃っ
ていたことが、この地区で数多くの青石塔婆が
制作された理由のひとつと考えられる。

 先述の芝原威徳院に、一風変わった意匠の板
碑が二基在ると記載した。貞和と永和の両碑で
あるが、実はかなり似通った意匠の板碑がもう
一基在ると聞いた。そこは何と、同じ石井町の
内谷という集落の路傍で、写真の板碑だけがポ
ツンと立っていたのには驚いた。

 碑面がかなり摩滅しているのではっきりとは
しないが、二重光背の火焔、三弁宝珠による荘
厳、主尊阿弥陀の種子、下向きに反った蓮弁、
独鈷と五鈷の二本の杵を組み合わせた三摩耶形
のデザインなど、全く同じと言ってもよいほど
の意匠である。
 主尊の左右に銘文が彫られており、嘉暦四年
(1329) という鎌倉末期の年号が読み取れる。
 五鈷の上、独鈷の両側には円輪に脇侍の種子
が彫られており、ここでは右が観音(サ)左が
勢至(サク)となっている。
 この意匠の事例は石井町の三基に限られてお
り、時代も嘉暦から永和に至る半世紀に集中し
ている。何らかの密教的な理念が介在したのだ
ろうが、複雑な構図ゆえに大きな流布には繋が
らなかったようだ。
 
 
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  下浦板碑 
   
        徳島県石井町下浦 
    
   
 
 武蔵の青石(緑泥片岩)に匹敵する結晶片岩
の産地であった阿波の吉野川流域には、庭園文
化が開けた事のほかに、高度な造形美を持った
板碑の分布が見られる。四国八十八ケ所巡拝の
折に、阿波の板碑の代表作を十数基見たが、こ
の優雅な板碑が最も印象に残った。
 素材は結晶片岩(緑泥片岩)で白く苔むして
おり、摩耗も進んで梵字などの切り口も損傷し
ていた。それでも気に入ったのは、この板碑独
特の大らかな優しさから、関東武士の逆修とは
異質の温厚な信仰が想像されたからだった。
 種子は最も事例の多い阿弥陀三尊で、前述の
板碑と共通の梵字「キリーク・サ・サク」が、
月輪に囲まれて大きな連座に乗っている。
 彫りは薬研彫りだが線が柔らかいので温和で
あり、まことに風格と品位に満ちた美しい板碑
である。
 背面に年号が刻まれており、文永七年(1270)
と読める。後日資料で調べてみると、阿波最古
の在銘遺品とのことで、改めて感慨を覚えた記
憶がある。
 基盤をコンクリートで固めてあったが、板碑
や石造品の保存方法は難しい問題である。在る
がままで自然消滅も止む無しとするか、本物は
博物館に入れて完璧なレプリカを据えるかのど
ちらかだろう。野暮な囲いや柵は論外である。
 
 
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  熊谷寺板碑 
   
        徳島県阿波市西原 
   
  
 
 弘法大師が弘仁年間(平安初期)に創建した
と伝えられる古刹で、四国霊場第八番札所であ
る。立派な二層の山門を入り本堂への参道を進
むと、写真のような風変わりな細長い板碑が建
っていることに気が付く。幅20
cm、高さは
約190
cmである。

 頭部の三角山形と二条線と呼ばれる二段の切
り込みには、美意識という点に於いては迫力が
感じられない。
 上部には阿弥陀三尊の種子、主尊阿弥陀(キ
リーク)と、その下に右観音(サ)左勢至(サ
ク)が、蓮座に載った形で彫られている。鎌倉
期の力強い筆致ではなく、柔和で流麗な彫りと
言えるだろう。

 中央に銘文が刻まれており、大きな字なので
判読は割りと楽である。「右志者為慈父母、成
等正覚乃至法界、平等利益逆修」と記されてお
り、父母の極楽往生を願った生前供養の為の板
碑と考えられる。

  銘文の下には大きな書体で暦応二年 (1339)
という南北朝初期の年号が彫られている。
 この時代にあって、かくも斬新な形状の青石
を用いて逆修板碑とするなどという、格別の美
的感覚を持った人が存在したことは特筆に価す
るだろう。
 
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  権現谷曼荼羅板碑 
   
        福岡県飯塚市庄内町 
    
   
 
 九州の庭園、特に英彦山の遺構群を見るため
に北九州を訪ねた。その機会に、かねてより切
望していた石造美術も併せて見る事が出来た。
 数ある中で最も印象に残った二つの作品を、
紹介させていただきたい。 
 その一つが、庄内町筒野という山の中に在る
この板碑である。曼荼羅板碑という特異性もさ
る事ながら、刻まれた梵字の美しさに圧倒され
てしまった。
 胎蔵界の大日如来を表す種子アークを中心と
した、曼荼羅の中心部である中台八葉院が梵字
で描かれ、上部に五智如来像、下部に英彦山三
所権現の神像三体が描かれている。英彦山への
裏街道に位置しているのだという。
 養和二年(1182)の造立銘があり、資料とし
ても貴重な存在である。厚手の自然石が使われ
ており、デザインとしても見事な板碑だろう。
 関東の武蔵型板碑と比較するとかなり古いに
もかかわらず、薬研彫りされた梵字は素朴なが
らキリリとした彫りで、上下の像と見事に調和
しているのである。まことに重厚で、美術的に
も迫力に満ちた傑作であると言える。
 
 
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  鎮国寺板碑 
   
        福岡県宗像市玄海 
    
   
 
 同じく北九州で見た美しい石塔婆であり、我
が国最古の板碑であるとも言えるのである。
 鎮国寺本堂の東北に小さな丘が在り、その雑
木林の中にポツンとこの阿弥陀如来石塔婆が立
っていた。
 この板碑の所在場所を尋ねた寺の若い僧は、
その存在すら知らなかった。年輩の僧が教えて
くれたのだが、礼を言って失礼する私達の背後
で、若い僧を叱責する先輩僧の声が聞こえた。

 板碑に描かれた線彫の阿弥陀如来像は、素朴
ながら温かさの感じられる美しい図像だった。
 苔むし変色してはいるものの、二重円の光背
を持つ穏やかな表情の阿弥陀像には感動した。
線彫りは決して安易な表現方法ではなく、むし
ろ信仰心を込めねば決して彫れない至難の技な
のだという。
 像の下に願文と共に年号が彫られており、元
永二年(1119)という文字を鮮明に見る事が出
来る。板碑としては最古の年号なのである。
 様式化された武蔵の青石塔婆の美しさは周知
だが、自然石に近いこの板碑の持つピュアな雰
囲気がとても新鮮に感じられてならなかった。
純粋な信仰が描く図像が持つ、技術以前の精神
が示す説得力なのだろう。
 
 
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  熊野神社板碑 
   
        福岡県古賀市筵内 
    
   
 
  図像(阿弥陀如来立像)板碑 
    
建長七年 (1255) 鎌倉中期 
    
線彫り  玄武岩自然石
 
 
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  赤御堂板碑 
   
        福岡県福津市本木 
    
  
 
 阿弥陀三尊
   
種子:キリーク(弥陀)
      サ(勢至)サク(観音)

    
永徳三年 (1383) 南北朝末期

      自然石板碑 
 
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  宝林寺跡板碑 
   
        福岡県福津市本木 
    
   
 
 文字板碑 
   
天治二 (1125) 平安後期(南北朝?)
   
中央が大日、右に釈迦、左に阿弥陀
   
三基で三尊を象徴する
 
 
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  K氏邸板碑 
   
        福岡県福津市本木 
    
  
 
 阿弥陀三尊
  
種子:キリーク(弥陀)
     サ(勢至)サク(観音)

    
年号不詳  月輪内種子
 
 
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  佐田神社板碑群 
   
      大分県宇佐市安心院町佐田 
    
   
 
 旧安心院(あじむ)町の佐田という集落に在
る神社で、林の中の霊気に満ちた場所に苔むし
た数基の板碑が立っていた。
 注目すべきは最も背の高い方錐形の塔婆で、
厳密には「板」碑ではなく、角塔婆または柱状
碑とでも言うべきかもしれない。
 しかし、上部の山形や二段の切り込み、突き
出した額などは板碑の形式と全く同じである。
 珍しいのは、それが方形の四面に共通するこ
とであり、各面に梵字種子が彫られていること
であろう。
 写真は西向きの面で、上から「キリーク・サ
・サク」の阿弥陀三尊を表している。その下に
元弘三年(1333)の紀年銘が彫られている。
 方形の北面には、釈迦の脇侍である普賢菩薩
と文殊菩薩を表す「アン・マン」が、背面つま
り東面には不動明王の「カーンマーン」が彫ら
れていた。南面は「バイ」の変化した梵字で、
何と読むのか判らなかったが、いずれにせよ四
方仏を彫ったものらしい。
 左から二番目の板碑は「キリーク」で、阿弥
陀一尊を表しており、正慶元年(1332)の銘があ
る。     
 
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  大年神社板碑 
   
        大分県宇佐市安心院町山蔵 
    
   
 
 旧山香町から旧安心院町へと通じる地方道の
途中に、山蔵という集落がある。ここに地元の
氏神として祭られた神社があり、小さな社殿へ
と登る石段の両側に苔むした板碑が数基立って
いた。
 主要な板碑は二基で、在銘中最も古い板碑を
代表として記載した。
 形状は国東の板碑に共通した様式で、やはり
堂々としていて見応えがある。
 主尊梵字種子はバン(金剛界大日)で、薬研
彫りの溝は深く雄渾である。
 中心に建武元年(1334)の年号をはっきりと見
ることが出来る。南北朝の始まりの年であり、
鎌倉後期の風貌を残していることが年号からも
納得出来た。
 額の張り出し方や面取りの優雅さが、レヴェ
ルの高い石工の仕事であったことを証明してい
る。この時代以降、様式はどんどん固定化して
しまい、力のこもった作品は滅多に見られなく
なっていくのである。
 もう一基は、胎蔵界大日(ア)を主尊とした
暦応四年(1341)の板碑で、額部の出方が大きい
という特徴のあるものであった。
 
 
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  其ノ田板碑 
   
        大分県豊後高田市蕗 
    
   
 
 国東半島の名刹富貴寺前の田んぼの真中に、
この二基の板碑が人知れず立っている。寺への
観光バスは数多いが、畦道を歩いてこの板碑を
訪れる人は全くいない。
 安山岩で青石の味わいは無いが、逆に朴訥と
した安らぎが感じられる好みの板碑である。
 右の板碑の梵字は主尊が「キリーク」、下の
段の種子は右が「サ」左が「サク」で、それぞ
れが阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀
三尊を表現しているのである。
 左の板碑は、二尊の種子を重ねた珍しいもの
で、上の梵字が「アン」下が「マン」で、普賢
菩薩・文殊菩薩を表している。いずれも、釈迦
如来の脇侍菩薩である。
 どちらの板碑も建武元年(1334)の銘が在り、
南北朝の最初の年号である。武蔵型と比較する
と、碑の整形や梵字の彫り方などは全く異なる
が、塔としての表現には共通したものが有る。

 こんな素晴らしい環境の中に、670年も前
の石造品がひっそりと野晒しで立っている事だ
けで感動してしまうではないか。
 
 
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  塔の御堂板碑 
   
      大分県豊後高田市小田原 
    
   
 
 国東半島の板碑は青石ではないが、堂々とし
た見事な作品が半島全域に分布している。
 写真の板碑は、安山岩製の力強い傑作で、梵
字は額に月輪を付したバン(金剛界大日)、主
尊はキリーク(阿弥陀)、脇侍は右がサ(観音)
左がサク(勢至)の阿弥陀三尊である。
 関東の板碑などに見られる薬研彫りのイメー
ジに近いが、彫りは浅く完全なV字ではない。
 梵字の雄渾な筆致から鎌倉時代を想定できる
が、下部に請花・反り花式の蓮座が彫られてお
り、大変珍しい様式で鎌倉末期ということにな
りそうである。
 型にはまらぬ大らかさが命で繊細さには欠け
るが、鎌倉時代の不器用だが剛直な美しさを見
事に保っている。

 山の中の荒れ果てた小堂の横にこの板碑はひ
っそりと立っているのだが、すぐ脇に見事な国
東塔も並んで立っている。
 この地はまことに仏教の聖地であり、特に磨
崖仏や石塔・板碑など、石造美術文化の密集地
である。
 こうした知られざる石塔や板碑を想うと、す
ぐにでも国東半島へ飛んで行きたくなってしま
う。    
 
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  梅遊寺板碑 
   
      大分県豊後高田市一畑 
    
   
 
 この寺は両子寺や財前家墓地からは至近で、
豊後高田市と国東市の境界に近い走水峠山麓の
一畑というところにある。
 山内の一画に、石造美術の愛好家ならば胸を
躍らせるような石塔がゾロっと並んでいる。
 何と言っても有名なのが十三仏板碑だろう。
 資料としての価値は無類なのだが、室町初期
の応永二十一年(1414)という制作年代がやや不
満だった。この時代の特徴だが、梵字がチマチ
マしていて、小生の好みから言えば余り好きな
板碑ではない。

 その点、この建武三年(1336)の胎蔵界大日種
子(アン)板碑は、鎌倉期の豪放なイメージと
南北朝の完成された優雅さとを併せ持つ、とい
った風情を感じさせてくれる逸品だった。
 植栽繁茂のために下部が隠れてしまっている
が、高さが160
cmという見た目よりは大き
い板碑だ。
 “小生好み”という言い方を無理にすれば、
板碑に関しては梵字が好きなので、その書体が
美しく彫りが堂々としていることが第一の条件
である。かつては、武蔵型の青石に彫られた端
正な梵字に魅了されていたが、近年はこうした
地方の荒削りだが野性味の感じられる梵字にも
魅力を感じるようになって来ている。
 国東や山形の板碑を探訪する内に、“小生好
み”の巾がやや広がってきているようだ。単な
る年の功かもしれない。
 
 
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  財前家墓地板碑群 
   
      大分県杵築市大田小野 
    
   
 
 財前家墓地は墓地全体が一括して史跡に指定
されるという、中世の墓地の雰囲気を現在にま
でそのまま伝えている素晴らしい場所である。
 おまけに、国の重要文化財に指定された国東
型宝塔を筆頭に、無数の宝塔や五輪塔が累々と
連なっている石造美術の宝庫でもある。

 板碑は種子の明確なものだけで十基在り、さ
ながら板碑のコレクションのようである。
 写真の板碑は、上部に額が張り出した国東特
有の形で、少し内側に曲がった姿は丸でお辞儀
をしているように見える。高さは163
cm
安山岩の板碑としてはかなり細身の方だろう。
 種子は釈迦三尊で上部に釈迦如来を表す「バ
ク」、下部は右が普賢菩薩の「アン」、左が文
殊菩薩の「マン」である。もろい材質の割には
きりっと彫り込まれた好みの梵字である。
 塔身下部には墨書で銘文が書かれていたよう
だが、現在は消滅して判読は不可能である。
 南北朝初期ごろの作だろうか。
 注目すべきもう一基は、バン=大日・カーン
=不動・バイ=毘沙門、という特殊な三尊種子
を彫ったものである。
 
 
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  諸田越板碑 
   
      大分県杵築市大田小野 
    
  
 
 国東半島の中心に位置する両子山の南側はか
つての西国東郡大田村で、現在は杵築市と合併
して杵築市大田地区となっている。
 旧大田村の沓掛から前述の財前家墓地へと通
じる道と、隣接する旧安岐町の諸田への峠道に
通じる道との分岐点にこの板碑が建っている。

 高さは150
cm、幅が50cmの安山岩製で
ある。やや小高い岩盤の上に建っていので目に
入り易い。
 微妙に湾曲した国東式の額の上に、写真には
写っていないが小さな山形が載っている。
 塔身上部に梵字が彫られており、上部にはバ
ク(釈迦如来)、下部右はアン(普賢菩薩)左
はマン(文殊菩薩)の釈迦三尊の種子である。
 梵字は鎌倉期の剛毅な筆致には程遠く、薬研
彫りの魅力にも欠ける。だがさりげなく書かれ
た梵字の素朴さには、何故か心惹かれるものが
ある。
 前述の財前家墓地の板碑にも釈迦三尊の種子
を彫ってあったが、全国的には少ないこの種子
が国東には割りと多く見られる。
 この板碑には貞治五年 (1366) という南北朝
中期の年号が彫られており貴重である。
 
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  岩屋堂板碑 
   
      大分県国東市安岐町掛樋 
    
  
 
 大分空港に近い旧安岐町の塩屋から、旧大田
村へと通じる県道豊後高田安岐線を行くと、程
なく掛樋の里へ通じる旧道との分岐へ出る。
 旧道へ入り、渓谷沿いに進むと樋掛の集落手
前にトンネルがある。その真上に岩屋堂が在る
のだが、堂まではトンネル手前の急坂をよじ登
り、細い山道を少し歩かねばならない。

 質素なお堂の前に写真の板碑が建っている。
先端の山形部分が少し欠けており、塔身中央は
完全に割れた部分をセメントで補修してある。
とは言え、辺鄙な山中に建つ板碑の魅力そのも
のは失われてはいなかった。
 上部の種子は阿弥陀如来を象徴する梵字「キ
リーク」である。筆致がやや繊細なのは、その
下に彫られた延文五年 (1360) という年号が示
す、南北朝中期という時代性の表れだろう。
 質実剛健な武家社会を象徴するような鎌倉期
の雄渾な書体と比べ、南北朝期の梵字は柔和に
して繊細、驚くほど貴族的とも言えそうな筆致
へと変化していくのである。
 国東の鎌倉期板碑は、後述の護聖寺、岩尾、
長木家墓地(鳴)のものなど、感動的とも言え
るほど魅力的だが、時代と共に変化していく過
程を様式的に眺めるのも、板碑行脚の楽しみの
一部であろう。
 岩屋堂からの下りの帰路は、登りとは反対側
の掛樋の里へと通じる道を選んだ。   
 
 
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  護聖寺板碑 
   
      大分県国東市安岐町久末 
    
  
 
 安岐町には国東塔や板碑など、数多くの石造
美術が残されていて、旅する私達を魅了する。
 中でも、久末という集落の外れに在るこの護
聖寺には、まことに剛毅な板碑が二基、地に根
を生やしたようにどっしりと立っていた。
 竹やぶを背景にした板碑の姿そのものに感動
したが、さらに右側の板碑には、現在は判読不
明だが、正応四年(1291)という豊後板碑最古の
紀年銘が入っているというので驚いた。しばら
くじっと眺めてみたが、全く判らなかった。
 いずれも阿弥陀三尊を表す「キリーク・サ・
サク」の種子で、右は彫りがやや浅く流麗であ
り、左は彫りの深い豪快な梵字表現である。
 右が180
cm、左は168cmという堂々た
る、安山岩製の大型板碑である。
 但し後で知ったことだが、右の板碑の、前へ
飛び出した額より上の頭部は、別の石がはめ込
まれているとのことである。ほんの少しだけが
っかりしたが、実物の前で受けた感銘は深く、
今でもその時の強い印象を覚えている。頭はカ
ツラでも人格は変わらない、と言いたいが、あ
まり上手い洒落ではなさそうだ。
 
 
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  岩尾板碑 
   
      大分県国東市安岐町弁分 
    
 
 旧安岐町の弁分という里は石造美術の宝庫で
あり、釜ケ迫の国東塔の他にも塔ノ尾、八坂神
社、そしてここ岩尾に板碑がある。
 岩尾の板碑は、最も堂々とした美しさを誇っ
ており、周辺の環境の良さもあることからここ
に取り上げてみた。

 石質は安山岩で、高さは168
cmだが底辺
の巾が82
cmなので、将棋の駒のような形状
に見える。
 梵字種子はキリーク(阿弥陀)・サ(観音)・サ
ク(勢至)の阿弥陀三尊で、
亨四年(1324)とい
う鎌倉後期の年号が彫られている。
 中央のキリークを初め、その筆致は当代の豪
胆さを発揮しており、薬研彫りも深く磊落なイ
メージになっている。額の両端は角を削ったよ
うにして面取りがされており、弧状に張り出す
様式ではない。
 
 
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  八坂神社板碑 
   
      大分県国東市安岐町弁分 
    
   
 
 弁分の里の東にあるこの神社は、両子寺へ通
じる道沿いに建っている。
 境内の杉木立の中に建っており、安山岩製で
高さは74
cmである。周辺は暗く、碑面に当
たる木漏れ日が強かったので、撮影はとても難
しかった。
 可愛い山形と二条線、そして額部の構成は変
わらないが、前述の岩尾板碑と同様に、額部の
両端が面取りされている。
 碑面上部には、梵字の「アン」が彫られてい
る。「アン」は胎蔵界大日如来を象徴するのだ
ろうと思われるが、普賢菩薩を象徴する種子で
もある。また、層塔や宝篋印塔の塔身に見られ
る、胎蔵界四方仏の内の無量寿如来(西方)の
種子としても知られるところである。
 一尊であれば、胎蔵界大日如来とするのが適
当だろうと思われる。しかし国東にはアン(普
賢)マン(文殊)を種子とする事例も多くみら
れるので、普賢菩薩の種子の可能性は捨てきれ
ない。
 種子の下に元弘五年 (1333) という鎌倉最末
期の年号が彫られているが、筆致はかなり弱々
しい。碑面の下部にも額のような造り出しがあ
るのが珍しいのだが、財前墓地や塔の御堂など
この地方には類例は多い。   
 
 
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 鳴板碑
   
      大分県国東市国東町東堅来 
    
   
 
 鳴板碑と呼ばれているが、所在する場所は国
東型宝塔でも取り上げた長木家の墓地の中に建
っている。
 この墓地は財前家の墓地と共に、石造美術の
展示場といった趣で、重要文化財の宝塔の他に
も南北朝以前の板碑が三基も建っている。

 鳴板碑が最も古く、県の重要文化財に指定さ
れている。長木家の当代当主が書いた下部の長
い願文の最後に、元亨二年 (1322) という年号
を見ることが出来る。

 高さは3m以上もある国東屈指の板碑で、種
子は「マン」で文殊菩薩を表すものである。
 豪快な筆致と彫りが見事だが、何より印象的
なのは先述の少林寺板碑のバンの上部の「ン」
を表す空点(横線と点)である。ここでは梵字
「マ」の上に書かれたその表現が、あたかも連
続した草書体のような大らかな表現になってい
て大変珍しい。
 碑面が上下方向にも左右方向にも微妙に湾曲
しているのが最大の特徴で、それが板碑全体に
柔軟なイメージを持たせているようだ。
 額の部分や頭部にも、面取りの技法や曲線が
用いられている。  
 
 
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  板碑 
   
      大分県国東市国東町見地 
    
   
 
 見地は国東町の中心から文殊仙寺へと向かう
県道から、少し北へ入った辺りにある静かな里
である。

 この板碑は高さが284
cmあり、前掲の長
木墓地鳴板碑に次ぐ豪壮な板碑である。
 上部額部は湾曲して丸味を帯びており、両端
は面取りが施されている。
 主尊の種子は「キリーク」で、阿弥陀如来を
象徴している。達筆とは言い難いが、地方色の
溢れた素朴さが伺える薬研彫りである。
 半分から下は銘文で、かなり細かい文字が刻
まれている。実際に詳細を判読することは出来
なかったが、資料によれば、「右志者亡父迎十
三年之遠忌」とあり、十三回忌の亡父を供養し
て造立された板碑であることが想定出来る。
 左端に年号が刻まれており建武元年 (1334)
という南北朝の最初の年に建てられたことが判
る。
 これも長木墓地板碑に共通するのだが、碑面
が額と同じように前面に微妙な膨らみを帯びて
いる。

 見地の堀部氏邸に保存された板碑を拝見させ
ていただいた。正中二年(1325)という年号が刻
まれた文殊種子(マン)の板碑だった。
 
 
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  野長谷板碑 
   
      大分県国東市国東町深江 
    
   
 
 深江は堅来の北に在る集落で、木立に囲まれ
た草むらの中の大きな岩の上に、この程よい大
きさの野長谷板碑が保存されていた。

 かなり白い材質の石材かと思ったが、やはり
国東の安山岩製であろうと思われる。
 上部の山形はなだらかな曲線の裾が特徴で、
単なる三角形とは趣を異にしている。
 額部は弧を描くように前面にかなり湾曲して
いる。
 中央主尊の種子は「キリーク」で、阿弥陀如
来を象徴しており、その下に偈文と共に嘉暦二
年 (1327) という鎌倉末期の年号が見られる。

 全文の判読は無理だったが、前掲と同様に資
料によれば「一念弥陀仏、即滅無量罪、現受無
比楽、後生清浄土」とあり、経典から意味の判
り易いかなり都合の良い部分を抜き出した格好
になっている。当時の人々の素朴な祈りが伝わ
って来るようで、むしろ微笑ましく感じられた
のだった。
 
 
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  左荘両面板碑 
   
      大分県国東市国東町赤松 
    
   
 
 国東町から両子寺へと向かって車を走らせて
いた時、赤松という集落への分岐点に「左荘板
碑」と記された石碑が建っているのに気が付い
た。何の躊躇も無く、車を赤松へと続く細い道
へと乗り入れていた。
 この板碑は赤松の集落の外れ、宇土と呼ばれ
る場所にあり、椎茸栽培の農園の手前左側の草
地の中に立っていた。
 静かな里で村の人とは誰とも会わなかった。
そのためなぜ「左荘」と言うのかは、最後まで
判らなかった。
 板碑の種子はバン(金剛界大日)で、そのす
ぐ下に正仲三年と記されており、これは正中三
年(1326)と同じことだ。
 高さは130
cmほどの小振りだが、梵字種
子の彫りは深く豪放で素晴らしい。
 最大の特色は、背面にも梵字が彫られた両面
板碑であることだ。裏には地蔵を現す「カ」と
いう種子が彫られている。

 2008年に近くを通ったので懐かしく、ち
ょっと寄って見て驚いた。周辺は荒れ果て、額
を含んだ割れ目から上部がそっくり喪失してい
たのである。何処へ行ってしまったのだろう。
 この写真は1994年に撮影したものだ。
 
 
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  少林寺板碑 
   
        大分市木の上 
    
   
 
 大分市の西、旧豊後街道を行くと、大分川の
支流七瀬川を渡る胡麻鶴橋の手前の山裾に、広
大な寺域を持つこの寺がある。
 本堂の真裏に人がようやく入れるほどの大き
さの石窟があり、その内部左右両側の壁に立て
かける様な格好で板碑が五基立てられている。
 写真は左側の三基であり、右側にもう二基が
立っているのである。
 左の一番大きな阿弥陀種子(キリーク)板碑
が162
cmで、貞和六年(1350)という南北朝
中期の年号が入っている。
 年号は他の四基も同じで、其々に「逆修」や
「追善」という文字が刻まれている。
 生前に自身の死後菩提を供養した者が極楽往
生出来る、という「逆修」の文字が実際に願文
として刻まれているのが貴重である。
 また、中央の大日種子(バン)板碑には、地
蔵菩薩本願経に書かれた「七分全得」という言
葉が彫られているそうで、とても珍しいものだ
と言われている。
 右は文殊種子(マン)板碑で、いずれも額部
の高さの巾が大きく造られている。
 他の二基は、阿弥陀種子(キリーク)と地蔵
種子(カ)板碑である。
 時代は鎌倉からやや下った頃のものだが、篤
い信仰が背後に見え、五基揃った姿がとても美
しく感じられた。
 
 
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  寺小路三連板碑 
   
      大分県臼杵市野津町寺小路 
    
   
 
 旧野津町寺小路の城ノ平公園という所に、何
とも珍しい三連板碑があると聞いた。公園なら
直ぐに分かるだろう、と行ってみたのだが見つ
からない。人に聞いてみても、誰も知らないの
だ。役場で尋ねてようやく分かった。公民館の
すぐ裏の山がそれで、登るのにやや危険がある
ため現在は立ち入り禁止となっているという話
だった。
 私達は役場の特別許可を戴いて、その元公園
へと登った。鉄柵と屋根で覆われて、この三連
板碑が立っているのが見えた時には、憧れの恋
人にやっと会えたかのような感動を覚えたもの
だった。

 板碑の高さは小生の上背と全く同じなので、
約170
cmである。写真から抱くイメージよ
りは、かなり大きいだろう。
 一石に三連の板碑を彫り込んだもので、中央
に元弘三年(1333)という鎌倉最末期の年号が見
える。
 梵字は左からバク(釈迦)、そしてバン (胎蔵
界大日)、キリーク(阿弥陀) という大層欲張っ
た種子であり、願文は無いが多くの仏にすがろ
うとする供養者の切なる願いが伝わってくるよ

うな気がした。
 梵字は小振りながら、鎌倉期の期待を裏切ら
ない大らかな筆致であることが嬉しかった。
 
 
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  彦山寺跡板碑 
   
      宮崎県えびの市加久藤 
    
   
 
 熊本の人吉から宮崎の飫肥(日南)まで通じ
る飫肥街道(国道221号線)は、人吉からは
ループ式のトンネルを抜けてえびの市へ入る。
加久藤展望台からはえびの市が一望出来るが、
その直ぐ下の山裾へと細い道を下った所の民家
の裏山に旧彦山寺の跡地が在り、二基の板碑な
どの石塔が多数残されている。

 写真は中央に建つ217
cmの大型板碑で、
額の部分に二つの梵字が刻まれているのが珍し
い。左は胎蔵界大日如来の種子「アーンク」、
右は金剛界大日如来の種子「バン」である。
 碑面上部には、大きく豪快な薬研彫りの梵字
が彫られている。胎蔵界大日如来を象徴する種
子「ア」と考えられるのだが、額に両界の大日
種子が彫られているので、全ての仏の象徴が可
能とされる別格の種子としての「ア」が彫られ
ている、とも考えられる。
 種子の下に、長文の格調高い偈文が彫られて
いる。判読は困難だが資料によれば、密教の僧
宝光律師が恩師覚然の三十三回忌供養のために
建てたものなのだそうである。
 偈文の下に小さい文字で年号が彫られており
正中二年 (1325) という鎌倉末期の作と判る。
 左側にもう一基の板碑が建っている。127
cmとやや小振りだが、額や種子の意匠と年号
は同一である。
 
 
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  稲葉崎墓地板碑群 
   
       鹿児島県湧水町粟野 
    
   
 
 旧粟野町の粟野橋から国道を西北に4キロ程
行くと、右側に小高い丘が在る。石段を登って
行くとそこは森閑とした壮大な墓地で、南北朝
期の相良家塔婆など、夥しい数の五輪塔や板碑
が林立していて仰天する。
   
 中でも墓地の中央に建つ写真の板碑二基は、
黄金塔とも呼ばれる3m余の大塔で、見る者を
圧倒する。
 両塔共に南北朝初期の暦応二年 (1339) とい
う年号が彫られた、道性、妙性という夫妻が生
前逆修のために建てた一対の供養塔である。
 種子は右の道性塔が上部バン(金剛界大日)
下部はウーン(阿しゅく)で、左の妙性塔は上
部ア(胎蔵界大日)下部はバイ(薬師如来)で
ある。いずれも伸び伸びとした筆致の梵字で、
この時代の薩摩にかくなる豊かな文化と信仰が
存在した事実を思い知らされる。
 写真ではちょっと見えにくいのだが、種子の
周囲は連続する円形をモチーフとした連珠紋帯
で囲まれている。この地の豪族夫婦らしい、優
美な意匠である。
 下段には法華経の偈と願文が彫られており、
夫妻の篤い信仰心が伝わってくるようだ。

 墓地内は正に石造美術の博物館さながらで、
特に自然石板碑や二連板碑や角塔婆に彫られた
草書体風の薬研彫りされた梵字の美しさには舌
を巻いてしまう。不動明王の種子を彫った“流
れカーンマーン”や、三弁宝珠で飾られたキリ
ークの荘厳体など、滅多に拝せない梵字を見る
ことが出来て時間を忘れた。
 
 
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  田尾原供養塔(板碑)群 
   
      鹿児島県湧水町粟野 
    
  
 
 前述の稲葉崎から数キロ下った所に、田尾原
の集落がある。この供養塔群は、集落外れの何
とも判り難い場所に在る。公民館裏手の丘の上
の竹薮の中なのだが、水害の為か道の崩壊した
斜面をよじ登らねばならなかった。

 五輪塔など多くの石塔が並んでいるが、眼目
は後方横一列に並べられた六基の板碑と角塔婆
である。中世の石塔が並ぶ様は荘厳で、昼なお
暗い中に浮き上がって見えたように思えた。
 特に注目したのが背の高い中央の四基で、左
側二基の板碑と右側二基の角塔婆は、それぞれ
が夫婦によって建てられた二組の対の逆修供養
塔なのであった。

 板碑の二基にはいずれも胎蔵界大日の種子で
ある梵字「アン」と、正平十四年 (1359) とい
う南北朝中期の北朝年号が記されている。

 角塔婆の四方にはそれぞれ違った種子が彫ら
れているが、右の夫の塔には正面のア(胎蔵界
大日)のほかに時計回りでキリーク(弥陀)カ
ーン(不動)バイ(薬師)、また、左の妻の塔
の正面にはバン(金剛界大日)とタラーク(宝
生)アク(不空成就)バイ(薬師)が彫られて
いる。諸仏を夫妻で巧みに振り分けたのだろう
が、どちらにも薬師が入っているところが、何
時の世でも病気平癒を願う心に変わりは無かっ
たことを物語っているようだ。   
 
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  澤家墓地板碑群 
   
      鹿児島県霧島市隼人町神宮 
    
 
 鹿児島神宮近くに保存されている中世の墓所
で、神宮社家のひとつ澤家の墓地である。
 盛土の丘の中央に建つ三重石塔や五輪塔を四
十基もの板碑が囲っており、鎌倉期の絵草紙に
描かれた墓地の形式そのものである。
 板碑に彫られた様々な種子がどのような意味
を表わすのかは明確ではない。
 墓地の正面に三基の自然石板碑が並んでいる
が、真ん中の板碑に嘉禎三年 (1237) 鎌倉中期
の年号が刻まれている。
 種子は左塔が「キリーク」右塔が「サン(と
読める)」であるが、中央塔は「バン」と「サ
ク」を組み合わせたような不可解なもので、社
家の謎めいた梵字として興味深い。
 
 
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  波之上神社板碑 
   
      鹿児島県鹿屋市高須町 
    
  
 
 鹿屋市の西南、高須川の河口近く、錦江湾に
突き出た権現山の中腹に、この神社が建ってい
る。石段を登ると社殿で、本殿の左奥の小高い
場所に数基の板碑が保存されていた。

 写真の板碑が最も保存が良く、材質は黄色凝
灰岩である。凝灰岩の中では、比較的硬質であ
るらしい。
 三角の山形、二条線と額など、洗練された技
法で刻まれており、国東の板碑に比しても遜色
は無い。
   
 中央の種子は「ア」で胎蔵界大日如来を象徴
している。大らかな筆致の薬研彫りである。
 中央に銘文が彫られており嘉暦三年 (1328)
という鎌倉末期の年号が読み取れる。
 銘文には「右志者為僧心勝聖霊□□菩提乃至
法界也」と記され、心勝という僧侶が追善の為
に建立した供養塔であることが判る。

 他にも、元弘二年 (1332) という北朝の年号
と、正慶元年 (1332) という南朝の年号を併記
した板碑も見られ、鎌倉末期から南北朝初期に
かけての複雑な政情と時代背景が浮び上がって
くる。この地の高須城では、北朝方と南朝方が
争った合戦があったそうだ。
 
 
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  宇都板碑 
   
      鹿児島県南大隅町川南 
    
  
 
 大隅半島の南端に近い町で、平安後期の藤原
氏や鎌倉期の禰寝(ねじめ)氏などが統治した
経緯があり、意外と申しては失礼だが、中世以
来の古い歴史を有する場所なのであった。
 かつての根占町と佐多町が合併し、大隅半島
の先端部分は南大隅町となっている。
 山川港からのフェリーが着く旧根占町の中心
は、麓川によって南北に分かれている。
 橋を渡った川南地区には、二基の鳥居が並立
することで知られる諏訪神社が鎮座する。
 その裏山に旧岩林寺の跡地があり、三基の板
碑が残されていた。

 坂を登った小高い場所に、写真の板碑が建っ
ている。高さは150
cmもないほどだが、堂
々とした風格の感じられる板碑である。
 主尊の種子は「キリーク」で、阿弥陀如来を
象徴する梵字である。大らかで力強い筆致の薬
研彫りが魅力的だ。その下に刻まれた年号は、
正応六年 (1293) という鎌倉後期最初の年であ
り、鹿児島県最古の板碑とされている。九州全
体でも、かなり古い部類に入る貴重な板碑であ
ろう。
 禰寝氏歴代の供養塔として建てられたものと
推定される、と現地の案内板に記されていた。
 川北に在るとされるもう一基の板碑を探した
が、町の役場でも判らなかった。   
 
 
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