石塔紀行(5) |
層塔・宝塔・ 宝篋印塔・五輪塔 |
京都 (北部) の石塔巡拝 |
来迎院石造五輪塔(鎌倉期) 左京区大原 |
京都の石造美術は質において誠に優れており、ま た量的にも他を圧倒するほどなので、ページの便宜 上北部と南部に分けて掲載をした。 上京区・山科区・右京区・左京区・北区の市内の ほか、亀岡市を含む県北部を京都(北部)とした 掲載の都合であって、他に意図は全く無い点を御 了承いただきたい。 特に、大原や嵯峨野、亀岡市、丹後半島は秀逸な 石造美術の密集地であり、石塔や石仏だけを目的に した旅をする価値は十分にあるものと思う。 |
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勝林院宝篋印塔 |
京都市左京区大原 |
大原の石造美術を訪ねた或る日、来迎院で三重石 塔の傑作に接した後、三千院の喧騒を避ける様にし てこの大原問答で知られる勝林院の境内に入った。 三千院の阿弥陀三尊来迎像に未練が有ったが、杉 木立の中に佇むこの石塔を拝した途端に、そんなこ とはすっかり忘れてしまっていた。 石塔は建っている事それだけで美しいのだが、こ こでは更に建っている環境が抜群であることに感動 した。 すっきりと延びた相輪が見事で、輪郭線の入った 三弧の隅飾が存在感を示している。生き生きとした 生命感に満ちていて、様式美に陥る直前の輝きとも 写る。 また、正和五年(1316)という年号からは、鎌倉末 期の最も充実しきった美意識が見ても取れる。 笠や相輪に対する、塔身の程好い大きさがこたえ られない。素晴らしいバランス感覚だと思う。 写真の梵字種子は「アン」で他に「アク」「ア」 「アー」が見られ、胎蔵界四方仏を象徴している。 |
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大原北墓地宝篋印塔 |
京都市左京区大原 |
前回大原を訪ねた時には勝林院の宝篋印塔に感動 し、そのまま帰ってしまった。しかし、大原にはも う一基の見るべき重要な宝篋印塔が存在していたこ とを、後になって知ったのだった。 一年後に再訪した私達は、勝林院の境内を抜け、 裏山に通じる道を登って行き、大原北の共同墓地を 訪れることが出来た。 墓地の入口付近に、古い石仏や無縁墓の石塔など を集めた一画が在り、そこに写真の宝篋印塔が堂々 と建っていた。 基礎には格狭間、塔身には胎蔵界四仏を象徴する 梵字の種子が刻まれている。隅飾は二弧で輪郭が付 いており、相輪も堂々としている。 やや摩滅しているのが残念だが、全体に均整の取 れた秀麗な塔だと感じた。 正和二年(1313)の建立で勝林院より3年古く、洗 練されてはいないものの、腰の据わった野太い美し さを感じさせる好みの塔であった。 基礎に「念仏諸衆為往生極楽」と刻まれており、 この石塔にはひたすら念仏を唱えるしか方法の無か った庶民の切ない願望が集約されているのである。 |
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来迎院三重塔 |
京都市左京区大原 |
観光客でにぎわう大原三千院には入らず、手前を 山手に向かって折れ、しばらく谷川沿いに登れば来 迎院の山門が見えてくる。三千院の喧騒が嘘のよう に思える程の静寂に包まれている。 本堂の美しい仏像に詣でてから、私達は右手奥に 有るこの石塔を目指した。 鎌倉中期とされるが、軸部の高さが古塔の風格を 示しており、反りの美しい屋根との均整の取れた形 には感動した。 相輪部分も当初のものと思われ、余計な装飾の一 切無い、「かたち」そのものの美しさをここでも感 じることが出来た。 難を言えば、塔周囲に設置されている石柵が、写 真を撮りにくくさせていたことだった。 三重石塔はその作例が稀少なので、その意味から もこの塔に会えたのは大きな喜びであり、またその 質の高いことが無性に嬉しかった。 私達は三千院の前を素通りし、大原問答の勝林院 で鎌倉後期の宝篋印塔を見てから大原を後にした。 |
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大原五輪塔 |
京都市左京区大原 |
三千院へと登って行く通りに面して建つ念仏寺の 先、駐車場脇の一画に線彫りの石仏と並んで一基の 五輪塔が建っている。 アジサイを背景にこの写真を撮影したのはかなり 前だったが、現在は脇の駐車場が整備され風情は無 くなってしまった。 各輪の正面のみに五輪塔菩提門の梵字(ケン・カ ン・ラン・バン・アン)が彫られているのだが、火 輪の「ラン」と水輪の「バン」、そして地輪の「ア ン」しかはっきりとは読めない。 空風輪の梵字は無いに等しいので、しっくりと収 まってはいるが別物の後補と思われる。 火輪の屋根の傾斜は大らかで、降棟があるように も見え、軒口は厚く両端の反りは何とも緩やかで優 雅な曲線を示している。これはかなりの古塔である ことを示している。 水輪はほぼ球形で、膨らんだ風船玉のような弾力 が感じられる傑作だろう。 地輪は全体のフォルムからすればやや背が低く感 じられるが、地中に埋められた部分があるのかもし れない。 基礎の裏側に弘安九年 (1286) 鎌倉中期という魅 力的な年号が銘文と共に刻まれているそうなので、 第一感の“古塔”という印象は正しかったことにな る。まだ捨てたもんじゃあないか。 |
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大長瀬宝篋印塔 |
京都市左京区大原 |
大長瀬町の三千院参道から東へちょっと入った左 手に小さなお堂が在り、その前左側に写真の宝篋印 塔二基が建っている。 右側の宝篋印塔が重要で、基礎部分の格狭間の脇 に元亨元年 (1321) 鎌倉後期の年号が読み取れる。 基礎に輪郭は無い。銘文に「一結衆等敬白」とあっ て、塔身正面に彫られた梵字キリークが示す弥陀の 種子からも、阿弥陀を信仰した村人達によって建立 されたことが想像出来る。 塔身の種子は正面だけに彫られておりで、他の三 面は無地である。阿弥陀種子は蓮座の上の月輪内に 彫られているが、この一尊のみというのは珍しい。 笠は、上六段下二段で、隅飾は輪郭を巻いた二弧 で、ほぼ垂直に立っているように見える。隅飾の中 に梵字が彫られているらしいのだが、ほとんど確認 することは出来なかった。 相輪は九輪の一部が欠損しているが、どうやら全 体が別物のようだ。 左の宝篋印塔は、基礎の輪郭の無い格狭間が三方 に彫って在るのは右塔と同じだが、塔身の四方には 胎蔵界四方仏と思われるアン・アクという梵字が彫 られている。基礎上には、複弁の蓮座が意匠されて いる。隅飾などは似ているが、鎌倉末期から南北朝 にかけての作だろうと思う。 |
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惟喬親王墓五輪塔 |
京都市左京区大原 |
実は惟喬(これたか)親王というお方がどういう 人物なのか、この御陵へ伺うまで恥ずかしながら全 く知らなかった。 大原三千院への道の手前に大原上野町という一帯 が在り、右手の山側へと登る分岐がある。その小道 を登り詰めた辺りに、惟喬親王の墓と伝わる五輪塔 を祀った一画が在った。 惟喬親王は平安時代前期9世紀、文徳天皇の第一 皇子で、古今和歌集などで知られているらしい。悲 運の皇子、木地師の祖などといった伝説多き人物だ が、真偽の程は定かではないとのことである。しか し、宮内庁が管理する御陵なので、由緒は確かなの だろう。 ところがこの五輪塔は、空輪の形、火輪の笠の緩 やかな傾斜や、薄い軒口の反り、やや細長い水輪な どからは、どうみても惟喬親王の時代よりはかなり 後の制作、鎌倉中期(13世紀末頃)ということに なりそうである。 おそらくは、親王所縁の地の住民達によって建て られた供養塔ではないだろうか。 古式の格調が感じられる、鎌倉中期の秀麗な五輪 塔、と位置付けられるだろう。 |
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白沙村荘十一重塔 |
京都市左京区浄土寺 |
銀閣寺前の白沙村荘は故橋本閑雪画伯の旧邸で、 現在は記念館として建築や庭園が公開されている。 石造美術の蒐集でも知られ、各地の名品が庭内に置 かれている。 写真の石造十一重塔は、かつて讃岐善通寺の持宝 院常福寺に在った石塔であるという。 手前の看板に平安後期の作と記してあるので信じ るしかないが、確かにそれらしい古調に満ちた特徴 を認めることが出来る。 初重軸部の背が異常なほど高く、四方仏を表わす 梵字はやや彫りが浅い。裏側の梵字がバンになって いるのが珍しいし、書体も鎌倉期の薬研彫りではな く優雅だ。 各層の屋根は、軒口がやや厚く、両端は微かな反 りを見せている。何とも優雅ではないか。 屋根幅の逓減率はかなり大きく、下部がどっしり と落ち着いている。六層目と七層目の間に段差が見 られるので、十三重塔であった可能性は捨てきれな いだろう。 古式な格調を感じさせる、秀麗な塔である。 |
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上品蓮臺寺真言院五輪塔 |
京都市上京区紫野 |
上品蓮臺寺は十二の子院が在ったことから、十二 坊と呼ばれるほどの京都有数の古刹であった。現在 は四院を残すのみだが、それでも千本通りに面して 長い築地塀が続き、かつての威容を留めている。 本寺の北に隣接する四院の一つが真言院で、その 本堂裏の墓地の中央に写真の五輪塔が建っている。 余り有名なものではないが、鎌倉期の特徴を備え た美しい塔である。 ふっくらとした空輪、力強さを備えた笠の軒反り 具合、球形のわりと高い水輪などが、鎌倉も比較的 後期ではないかと思わせる。 後述の知恩院のものにとても似ているような気が した。 五輪塔に興味の無い人の目には、どれもこれも同 じ単なる墓石としか写らないらしい。しかし、部品 は同じでも微妙な形の差や配列の違いによって、千 差万別となる人の顔に似て、たった五つの要素から 成るこの塔も、まことに様々な表情を見せてくれる ところが面白い。 源頼光が大蜘蛛を退治した、という伝説を物語る 頼光塚が墓地の隅に在った。 |
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妙覚寺笠塔婆 |
京都市上京区下清蔵口町 |
堀川紫明から少し入った所に、日蓮宗由緒寺院の 一つである妙覚寺が在る。 永和4年(1378)の創建で、かつては塔頭百余と言 われるほどの栄華を誇った。豊臣秀吉の時代に現在 地に移転したという。 本寺境内から少し北西に離れた場所に、妙覚寺墓 地が在る。狩野元信・永徳など、狩野一族の墓が在 ることで知られている。 その墓地の一画に、写真の三基の笠塔婆が並んで 建っている。手前から日像・日蓮・日朗の報恩供養 塔で、三菩薩題目笠塔婆と称している。 応永7年(1400)の銘が刻まれており、移転前の草 創期以来の石碑であることが判る。建立は室町初期 であり、石造美術的にはやや衰退期となるのだが、 写真で御覧の通り大変優雅で品格の備わった笠塔婆 として貴重である。 宝珠がやや扁平であることや、笠の縁取り装飾な ど、南北朝から室町にかけての特色が見える。 南無妙法蓮華経の題目は見事な筆で、台座の反花 装飾とともに風格を示している。 |
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東向観音寺五輪塔 |
京都市上京区馬喰町 |
北野天満宮の境内、参道の西側に建つ真言宗寺院 で、十一面観音を本尊とする。 本堂の左奥に建つ高さ4m余の巨大な石造五輪塔 で、菅原道真の母伴氏を祀る御廟とされる。 蓮座の付いた珍鳥居の一つが建つ伴氏社が、同じ 参道の先に在るが、この五輪塔はそこに在ったもの で、明治の廃仏毀釈の際に移されたものだという。 植栽に隠れて見えないが、どうやら基礎地輪は背 が低そうだ。 水輪は古式の風格を見せるやや細長い卵型で、大 きさに比して典雅な佇まいを見せている。 火輪は、屋根の傾斜が緩やかであり、軒口は厚め で両端が微妙に反っている。水輪とのバランスが絶 妙である。鎌倉中期は下らないだろう。 空風輪はやや大きめながら、特に空輪は形の良い ふっくらとした宝珠形を示している。 知恩院、革堂と共に、四十九日の忌明けに参拝す る忌明塔の一つとして知られる。 天満宮の参詣は盛んだが、当寺へ参拝する人はほ とんど無い。歴史的にも意味の深いご本尊と、当五 輪塔の参拝を切に願うものである。 |
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引接寺層塔 |
京都市上京区千本寺の内上る |
「いんじょうじ」と読む、小野篁を開基とする真 言宗寺院で、千本ゑんま堂として知られる。閻魔法 王を本尊とし、大念仏狂言が行われることでも有名 である。 境内に堂々と建つこの高さ6mの層塔は、紫式部 の供養塔とも称され国の重要文化財に指定されてい る。 大きな特徴は最下層の屋根で、多宝塔や奈良薬師 寺東塔にも見られる裳階(もこし)という庇(ひさ し)屋根である。更に四隅に面取りしてあるのが珍 しい。裳階を入れず、九重塔と見るべきだろう。 基礎は円形で、周囲に十四体の地蔵像が、舟型の 中に彫り込められている。 塔身(初重軸部)は方形で、四方に顕教四仏像が 蓮座に載った姿で半肉彫されている。薬師や阿弥陀 が確認出来るので、顕教四仏た判断できる。 裳階の上に二層目の軸部があるが、四隅に面取を した柱が立つ珍しい様式だ。軸部には鳥居形が彫ら れ、中に胎蔵界四仏を表わす梵字が刻まれている。 塔身に至徳三年 (1386) という年号が彫られてい るので、南北朝の最後の方ということになる。 しかし、屋根の落ち着いた形状や軒口の幅の逓減 率の大きさからは、かなり古式の格調が感じられて 仕方がない。素人にとっては、謎を含んだ層塔とし か言えないのだが。 |
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清涼寺宝篋印塔 |
京都市右京区嵯峨 |
京都や近江は石造美術の宝庫で、宝篋印塔の主要 な作品を見て歩くだけでも数週間が必要だろう。 秘仏釈迦如来像公開で訪れた嵯峨釈迦堂清涼寺の 境内で、私が眼を釘付けにさせられてしまった宝篋 印塔である。 限られた巡歴の中でも、栂尾高山寺・為因寺・鎌 倉覚園寺等と共に深く印象に残っている。 やや頭でっかちに見えるが、じっくりと見ている 内にそれがかえって絶妙の均整と優美さを生んでい ることに気が付く。 塔身の梵字が摩滅しているのが残念だが、反花座 と笠は見事な細工である。最大の特徴は、笠下が三 段になっている(通常二段)事と、隅飾が三弧で、 その中に梵字「ア」が彫られている事だろう。 写真でははっきりしないが、蓮座の上に有る月輪 の中に「ア」が彫られ、誠に洒落た意匠が感じられ る。 源融公の塔との伝承が有るらしいが、それにふさ わしい落ち着いた優雅な美しさである。 私は、石塔の中では国東半島の宝塔と鎌倉時代の 宝篋印塔が好きだが、嵯峨野にひっそりと立ってい るこの塔は、その中でも格別の好みの一つである。 |
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清涼寺層塔 |
京都市右京区嵯峨 |
嵯峨清涼寺の境内には、前述の宝篋印塔以外にも 数多くの貴重な石造美術品が保存されている。境内 の少し離れた場所に在る多宝塔仏(両面石仏)や、 宝篋印塔に隣接する一画に祀られたもう一基の宝篋 印塔とこの層塔などである。 一見しただけでこの石塔には統一感が無いことが 感じられ、おそらくは色々な部材が組み合わされて いるだろうことは容易に想像出来る。 各層の屋根を考察すると、一・ニ層目は破損はあ るものの同様式と思われ、それより上は寄せ集めと 思われる。一・二層目の屋根は、非常に穏やかな傾 斜と軒口の薄さ、両端の反りの優雅さなどから、平 安末期の古式が偲ばれる。 初重軸部の背の高さも古式で、四方には梵字が彫 られている。かなり摩滅してしまっているので、書 体筆致までは判断出来ない。梵字はバイ(薬師)や ユ(弥勒)が確認出来るので、顕教四仏と考えられ る。写真は、左側がキリーク(弥陀)なので、正面 はバク(釈迦)であるはずなのだが、ほとんど読め ない状態である。 二層の屋根と塔身のみが本来の塔だと思えるのだ が、単なる寄せ集めとは一味違った存在感が感じら れて好きである。平安末期の優雅な三重塔(又は五 重塔)の姿を想像するための、余白がいっぱいある ということなのだろう。 |
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覚勝院墓地宝篋印塔 |
京都市右京区嵯峨 |
小生の好きな宝篋印塔が在る嵯峨清涼寺の北側に 隣接して、大覚寺子院である覚勝院墓地が有る。 その中央に、この優美な石塔が象徴的なたたずま いで堂々と建っていた。キリっとした清雅な環境の 墓地で、美しいものというのは周囲の空気を引き締 めるものだと知った。 写真を撮っている小生に、墓石を修理していた石 工さんが話し掛け、東京から来たことを盛んに感心 していた。仲間の間でも、嵯峨では自慢の石塔なん だと言う。 相輪は後補だが、笠の隅飾は二弧で月輪をあしら い、塔身にはくり抜いた円弧の中の蓮華に座した四 方仏が彫られ、基礎は複弁の反花と格狭間によって 飾られ、更に二区の格狭間が彫られた基壇に載ると いう、大変珍しい装飾が完璧に成された傑作だった のである。 全体に鎌倉期の武骨さは残されてはいるが、繊細 な美意識が典雅な装飾を生み、豪快さが失われつつ あることから、鎌倉後期の作だろうと勝手に想像し た。 |
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宝篋院五輪塔 |
京都市右京区嵯峨 |
嵯峨野は何度も歩いていたのに、釈迦堂清涼寺の 近くに在るこのお寺には一度も入ったことが無かっ た。その名のとおり宝篋印塔が在るものと信じきっ ていたのだが、今回初めて訪ねて驚いた。 ここでの「宝篋院」は室町幕府の二代将軍足利義 詮の法名であり、境内に建っていた石塔は左に三重 石塔、右に五輪塔の二基だったのである。 三重石塔は義詮の墓であり、五輪塔は楠木正行の 首塚であるらしい。南朝方の敵ながらその人柄を慕 った義詮が望んで、その傍らに葬ったとされている のである。 三重塔は古式であり、おそらく鎌倉初期、五輪塔 も笠の一部が欠けているものの、上から「キャ・カ ・ラ・バ・ア」の梵字も揃っており、笠の反りから も鎌倉末期は下らないだろうと思われる。 とすれば、初期とはいえ南北朝時代の正行と義詮 では、どうしても若干のズレが出てきてしまう。 言い伝えの真偽はともかく、嵯峨野の一画に古い 五輪塔が在ることは事実である。それも、風格と品 位のある、まことに優雅な石塔なのである。 考古学者ではない私達は、伝説を信じても何の損 にもならないのだから、信じてみるのもまた楽しい ものではある。 |
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大河内山荘宝塔 |
京都市右京区嵯峨 |
嵯峨野の野々宮神社から竹薮を抜けて行くと、保 津川を望むことの出来る高台に、俳優だった故大河 内伝次郎氏の広大な山荘が保存されている。 有名スターとはいえ、映画俳優がこれ程までに規 模の大きな庭園を維持出来たことに驚くと同時に、 庭園内に配された茶室や石造美術の洗練された趣味 の良さには舌を巻かざるを得なかった。 その驚愕の一つが、写真の石造宝塔である。 二区格狭間の露盤に乗る相輪は、完全な形で残っ ている。 笠の屋根の勾配はゆるく上品で、軒の反りは両端 がやや強く反っている。軒下に三段の垂木型を彫り 出してあるが、これは懸所宝塔などの事例はあるも のの、かなり出所の正しい宝塔であることを示して いるのだろう。 夏の夕暮れとはいえ暗く、また植栽が繁っていた ために、満足な写真が撮れなかった。 塔身の正面には、扉を開いた形で中に阿弥陀如来 坐像が半肉彫りされている。 基礎の正面に三本の一茎蓮華が彫られ、その間間 に二体の仏像が座している。これは余り見かけない 意匠だ。 基礎の他の面に三茎蓮が見られるので、従来は近 江で制作され移された宝塔かと思われる。 総高2m50の、鎌倉中後期の逸品だと言える。 |
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祇王寺五輪塔 |
京都市右京区嵯峨 |
嵯峨野の奥、平家物語で知られる白拍子祇王ゆか りの尼寺だが、寺とは名ばかりで、楓の繁る苔庭の 中に小さな庵が残されているのみである。 庵の脇の高みに、二基の石塔が建っている。 左が三層の石塔で、写真の石造五輪塔が右側に祀 られている。 寺の案内によれば、層塔が祇王、その妹の祇女、 母刃自の三人の墓であり、五輪塔は平清盛の供養塔 であるという。 言い伝えはそれとして、写真の五輪塔は間違いな く鎌倉期の、それも完存する形で残されている。 空輪の張り、火輪の軒反りの力強さ、やや偏平な 水輪など、鎌倉中後期の特徴を良く表した見応えの ある五輪塔であると言える。 珍しいのは水輪に彫られた梵字で、正面にタラー ク、左にキリークが読める。柵が設けられているの で、背後の確認は出来なかったが、おそらく金剛界 四方仏の種子が彫られているようだ。 タラーク(宝生)キリーク(弥陀)アク(不空成 就)ウーン(阿しゅく)がそれである。 墓の伝承のある層塔は、三つの屋根が不揃いであ り、鎌倉期を感じさせるがおそらくは寄せ集めの石 塔ではないだろうか。 |
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二尊院宝篋印塔 |
京都市右京区嵯峨 |
嵯峨天皇の勅願により9世紀に建立された天台宗 の名刹で、寺名は釈迦・阿弥陀の二尊を祀ることに 由来する。 嵯峨野らしい静寂な空間が保たれた、魅力的な寺 域である。 境内右手奥の山裾に、古びた三基の石塔が並んで いる。左から、この宝篋印塔、次掲の五重塔、そし て層塔(現在九重)である。 洗練された完成度を示すこの宝篋印塔には、圧倒 的な名品のオーラが感じられた。鎌倉後期に制作さ れた、と推定される。 残念なことに相輪は落ちて左脇に置かれている。 水烟のある立派なものだったようだ。 笠は、上六段下二段で、輪郭を巻いた三弧の隅飾 の中には、蓮座に載るげ月輪内に梵字「ア」が彫ら れている。別石で、やや外へ傾斜している。 塔身には、金剛界四仏の種子が彫られていた。 写真正面は「ウーン」で阿閦如来を表わし、右は 「アク」で不空成就如来を象徴する梵字である。 基礎は壇上積式で上二段は別石、中の格狭間は鎌 倉らしい大らかにふくらんだ意匠である。 高さ2m60の、豪快で端麗な宝篋印塔である。 |
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二尊院五重塔 |
京都市右京区嵯峨 |
二尊院三石塔の真ん中に建つ五重塔で、古来より 土御門天皇の墓と称されてきたが何の根拠も無いら しい。 相輪は失われているが、笠の形には鎌倉期を想定 出来そうな軒の厚みと両端の反りが見られる。全体 にやや損傷が見られるが、軒下の垂木型などとても 清々しい姿をしている。 塔身はやや細長い古式で、四方には舟形に刳り込 んだ中に蓮華に座す四方仏が半肉彫りされている。 ほとんど同じ像容なので、像の特定は難しそうであ る。 基礎には輪郭が巻かれており、中に格狭間が意匠 されている。上部の弧線に張りがあり、鎌倉期を示 しているように見える。安養寺跡など近江には多少 の事例があるが、全国的には層塔の基礎に格狭間の 作例は少ないだろう。 鎌倉後期の作、と考えられる。 右隣に現在十重の層塔が建っているが、これも形 の良い鎌倉後期の塔である。塔身に彫られた顕教四 仏像も彫りが良く、基礎は五重塔と同じ格狭間が意 匠されている。 |
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高山寺宝篋印塔 |
京都市右京区梅ケ畑 |
鳥獣戯画で名高い栂尾高山寺の石水院を訪ねたな らば、そこから少し登った所にある開山廟まで足を 延ばしたい。 何故なら、その境内に後述の為因寺のものにとて もよく似た宝篋印塔が保存されているからである。 鬱蒼とした杉木立の中で、苔むしたこの古塔は静 謐なたたずまいを見せてくれた。石塔の置かれる環 境として、これ以上は無いだろうと思える程の仙境 であった。 為因寺の塔と並んで古式の代表とされるだけに、 とてもよく似ているのだが、こちらの方がやや線が 細いように見えてならない。 先ず四隅に立つ隅飾りの印象が違う。堂々と直立 しストレートな円弧の為因寺塔に比べ、こちらは微 妙に波形の付いた二弧式である。 相対的に洗練されており、時代はやや下がるので はないかと思うのだが、まあ素人の出まかせと聞き 流していただきたい。 いずれにせよ、どちらも古式宝篋印塔を代表する 名品であり、二塔の巡覧をお奨めする。 なお、写真に写っている右側の石塔は、如法経塔 というこれも鎌倉期の傑作である。 |
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高山寺笠塔婆 |
京都市右京区梅ケ畑 |
高山寺石水院の入口に、さりげなく建っている笠 塔婆である。この塔婆に目を向ける人はほとんどい ない、だろう。 しかし、この他愛の無い石塔が、実はかつて明恵 上人の住んだ山中に建っていたもの、と聞かされて 驚いた。 東大寺の華厳と高雄神護寺の真言密教から会得し た独自の境地で、この高山寺を開基した明恵の供養 塔であったらしい。 笠塔婆は全体が一石から彫られており、宝珠・笠 ・塔身・基礎から出来ている。形の良い宝珠の載る 笠は、塔身の割りには幅が狭く感じられ、正直優れ た意匠とは思えない。 正面に彫られた「石水院」の文字以外は、実は余 り判然としなかったので、後日調べた資料を参考に して記すことにする。 正面には「建保五年 (1217) 以後数箇季、住此処 後山」と、上人が住んだことが記されている。背面 に「天福季中所造立板率都婆朽損、元亨二年(1322) 以石造替供」とあり、天福期に建てられた木造塔婆 を石造に替え、上人の遺蹟を後世に伝えようとした ものであるという、飛び切り貴重な遺構だったので ある。 |
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神護寺五輪塔 |
京都市右京区梅ケ畑 |
紅葉と密教の仏像で知られる高雄神護寺の金堂へ は、かなり厳しい石段を登らねばたどり着くことが 出来ない。 ところが、写真の石造五輪塔へは、金堂の脇から 続く急坂の山道をさらに30分登る事となる。 一般の観光客が先ずは立ち入らないであろう聖地 なのである。 眺めの良い山上のこの地は、平安末期に当寺を再 興した文覚(もんがく)上人の廟所の在った場所な のであった。 二基の石造五輪塔が建っており、右は性仁法親王 の墓であり、左が写真の文覚上人の墓であるとされ ている。 どちらの五輪塔も、空輪、風輪の形の良さや、火 輪(笠)の軒反りの緩やかさがまことに古風である ことから、鎌倉期のかなり早い時代に造られたであ ろうことが想像できる。 軒の薄いことが繊細な美意識を感じさせ、貴族的 な品位をも想起させるのだろうか。 この廟所は五輪塔を覆った宝形造の木造建築だっ たようで、屋根の上に載せた石造の露盤が基壇の脇 に置かれていた。石造は珍しいもので、宝珠も一体 で彫られている。 |
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為因寺宝篋印塔 |
京都市右京区梅ケ畑 |
高雄へと通じる周山街道には梅ケ畑地区が有り、 そこの奥殿という静かな部落にこの寺は在る。京都 市内とは思えぬ、情緒に満ちた集落である。 宝篋印塔は山門の脇に、隠れるようにしてひっそ りと立っていた。 風貌はまことに古式で、栂尾高山寺の開山廟に有 る宝篋印塔にとてもよく似ている。 隅飾の内側は一弧で、装飾は一切無くしかも直立 しており、なんとも堂々たる美しさである。 文永二年(1265)の文字が塔身背後に、そして前面 には阿難塔と刻まれているらしいのだが、明確には 判読出来なかった。 いずれにせよ、鎌倉中期の簡潔かつ重厚な傑作で ある事に変わりは無い。 ここや高山寺のような古石塔を見てしまうと、以 後の時代の作品はことごとく貧弱で陳腐なものに見 えてしまうから恐ろしい。 宝篋印塔そのものは、中国の宝篋印心呪経を篭め た銅塔がその起源だと言われており、実物が京都博 物館に保管されていると聞いていた。先般、特別公 開で拝見したが、夢のような工芸品であった。 |
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金輪寺五重塔 |
京都府亀岡市宮前町 |
木造の塔では三重塔と五重塔が圧倒的に多いの だが、石造ではその事例は案外と少ない。今まで に見た石造五重塔の中ではベストとも言える、何 とも秀麗な石塔に巡り会った。 亀岡市の西北端、宮川という集落の外れの山奥 にこの寺は在る。鬱蒼とした参道が、石塔の建つ 素晴らしい環境を予感させた。 見るからに均整の取れた美しい塔で、各層別石 ながら相輪から基礎までが完備している。 延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事だ が、総体的に古調を示していて格調高い。特に反 りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメージに も似て素晴らしい。 初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石に は梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはアやア ンが見られることから胎蔵界四仏だろう。 古ければ何でも良い、というわけではないのだ が、良いものは古いというのは事実である。 境内にはこの塔と並んで、鎌倉後期初めの石造 九重塔が在るので、次で御紹介する。 |
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金輪寺九重塔 |
京都府亀岡市宮前町 |
金輪寺は奈良時代に創建されたという古刹で、 鎌倉時代に高山寺の明恵上人によって再興された 寺院であった。現在の宗派は、本山修験宗とのこ とである。 本堂の前、五重塔とは参道を挟んだ反対側にこ の九重塔が建っている。 正応五年 (1292) という年号が記されており、 明らかに鎌倉後期の初めの年号である。五重塔か らは半世紀も経っているわけで、平安期の典雅な イメージを残す鎌倉前中期から、剛毅な鎌倉武家 文化の全盛期へと移行する頃の遺構だろうと考え られる。 塔身には顕教四仏像が、舟形光背の中に半肉彫 りされている。塔身いっぱいに彫られた大らかさ は、いかにも鎌倉風と言えるだろう。 各層の屋根の傾斜は緩やかであり、軒口は両端 で反り上がりを見せている。やや鎌倉後期前半と は違ったイメージだが、全体的に鎌倉らしい力強 さと解釈するべきなのだろう。軒下には薄い垂木 型が刻まれている。 相輪が完備しているのだが、請花の細工がかな り装飾的であり、鎌倉期の豪胆さとは異質と見る べきで、残念ながら後補だろう。 二基の時代の異なった秀塔の存在は、様式や美 意識の変化を知る最良のテキストである。 |
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宝林寺九重塔 |
京都府亀岡市神前町 |
先述の金輪寺の在る本梅から千代川へと向かう 県道に面して、近年門前から境内まで綺麗に整備 された本寺が建っている。 庭園のような環境に中に収蔵庫が設けられ、旧 宝釈寺の遺物であった平安期の薬師・釈迦・阿弥 陀という三体の仏像と共に、写真の石造九重塔も 移築されたものである。いずれも重要文化財に指 定されているが、藤原彫刻の荘厳さを伝える三尊 仏には心打たれた。 収蔵庫横の枯山水庭園の中に建つ九重塔は、細 見でやや小型の秀麗な層塔であった。 相輪は上部が欠落しているが、堂々とした創建 時の姿を十分に想起させてくれる。 ほっそりとしてはいるが、屋根の幅の逓減率は かなり大きいので、次掲延福寺の南北朝塔とは全 く違った力強さを示している。軒口は厚く両端が 微妙に反り上がっているのは古式の名残であり、 鎌倉中期から後期への移行期に製作されたことを 表わしているようだ。 塔身(軸部初重)には、顕教四仏と思われる仏 座像が、舟形に彫りくぼめた光背の中に半肉彫り されている。 基礎に、正応五年 (1292) という、鎌倉後期の 初め頃の年号が在るそうだ。高さ4mの秀麗な古 塔である。 |
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延福寺十三重塔 |
京都府亀岡市本梅町 |
亀岡市に優れた石造美術品が、かくも数多く保 存されているとは知らなかった。この寺も江戸期 の庭園が在ることでマークはしていたものの、石 塔を見てその美しさに圧倒され、庭の印象はどこ かへ飛んで行ってしまった。 湯の花温泉の奥、本梅という集落の外れに在る 静かな寺で、長い石段を息を切らせて登った所に この優雅な石塔が建っていた。 石塔、ましてや十三重というイメージから受け る重量感や威圧感は全く感じられず、あたかもガ ラス細工ではないかと思える程の洗練された華奢 な美しさが示されていることに驚いた。 層塔に対して、このような印象を持ったのは初 めてだった。 高さが3mとむしろ小柄であること、笠の大き さが上部に向かって余り逓減されていないこと、 笠の反り具合が優しいこと、などがそう感じさせ る要因らしい。 延文3年(1358)の作で、鎌倉期の豪放な造形と は異質の、南北朝ならではのまことに温雅なたた ずまいであった。 |
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蔵宝寺宝塔 |
京都府亀岡市千歳町 |
亀岡市の東部、広大な水田地帯の山際に千歳と いう集落が有り、やや小高い場所にこの小さな寺 は在る。 境内の石垣に沿って、無数の石塔や石仏が置か れており、その中に目的の宝塔がひそやかに建っ ていた。高さ約1mの可愛い宝塔で、苔むした風 情が何とも魅力的だった。 塔身いっぱいに二仏並座像が彫られており、即 座に安養寺の宝塔を思い出した。梵字で多宝・釈 迦の二仏を表した宝塔も有ると聞くが、ここのよ うな事例はやはり貴重だろう。 上部は相輪ではなく、五輪塔のような宝珠・請 花で、笠は反りの無いおっとりとした古式、小さ いながら塔身には首部も付いており、全体に格調 の高さが漂う趣の有る宝塔である。 亀岡は石造美術の宝庫であり、私達はこの後宝 林寺に残る石造九重塔と宝篋印塔を訪ね、ちょう ど運良く御開帳だった木造の薬師・釈迦・阿弥陀 の重要文化財三体を拝見できた。これもひとえに 石造美術巡礼の功徳のお陰と考えられるだろう。 |
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船井神社腕塚宝篋印塔 |
京都府南丹市八木町 |
2010年の夏に京都に滞在していた時、思い 立って丹波の石造美術を再度探訪した。未見だっ た亀岡北之庄の磨崖仏や八木大日寺の五輪塔、そ してこの宝篋印塔などが主な目的であった。 八木町の船枝という集落の中心に船井神社があ り、その正面鳥居の左側に腕(かいな)塚という 小さな社が祀られている。 安倍貞任の腕を埋めた塚に建てられた石塔、と いう言い伝えが残っているという。 社の背後に建つ宝篋印塔が余りにも接近してお り、竹で組んだ柵が厳重なために、思ったような アングルの写真が撮れなかった。 相輪は完備しており、笠上段は六段である。特 徴は、三弧の大きな隅飾が、外側にやや反り気味 であることだろう。これは、素人でも見当が付く 宝篋印塔の見分け方であり、概ね反りが大きいほ ど時代は下がっていくのである。 基礎には格狭間が彫られ、その上部に複弁の反 花をやや大袈裟に彫り出している。 塔身の四方には、月輪内に金剛界四仏を梵字で 薬研彫りしてある。鎌倉期のものと比べると、彫 りはやや華奢かもしれない。 2m66もある大型の宝篋印塔で、かなりの存 在感を示している。 銘は無く、南北朝初期の作とされている。 |
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阿弥陀寺宝篋印塔 |
京都府南丹市八木町 |
八木町の桂川(大堰川)流域に在る寺院。16 世紀に創建された臨済宗の禅刹である。 山門を入ると左手に本堂が建ち、その前庭は枯 山水風の庭園になっている。低い土塀が周辺の山 や林を取り込んだのどかな景観となっており、そ の中に写真の南北朝期の宝篋印塔が建っていた。 相輪は、上から宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢 が完存しており、それぞれが確かな美意識の中で 製作されたことが伝わってくる。 笠は、上六段下二段で重厚な雰囲気を見せてお り、輪郭付二弧の隅飾の中には月輪が意匠されて いる。ここでは、月輪内に梵字は無い。隅飾はや や外側へ傾斜しているようだ。 塔身には、蓮華座に載る月輪内に金剛界四仏の 種子が彫られており、いかにも南北朝らしい繊細 な筆致を見ることが出来る。 写真の塔身は東面のウーン(阿閦)で、北面は アク(不空成就)である。ちなみに西面はキリー ク(弥陀)、南面はタラーク(宝生)となる。 上部に複弁反花を頂いた基礎は、輪郭を巻いた 中に格狭間が彫られている。上部の波型がちまち ましているところなど、南北朝の特徴を良く表わ している。 迫力には欠けるが、洗練された美しさを見せる 傑作だろう。 |
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大日寺五輪塔 |
京都府南丹市八木町 |
ここは八木町西田という地区で、JR八木の駅 前から大堰川に架かる大堰橋を渡って直ぐ右手に 入った辺りである。 貞和期とのことで、南北朝の初め頃に創建され た臨済宗の寺院である。 この五輪塔は、空風輪を欠損しているにも関わ らず、この地方では秀麗な古塔として物の本など に取り上げられている。遅蒔きながら小生も、そ の姿を是非拝ませて頂きたいと念じていた。 墓地入口の石段下に祀られたこの五輪塔の存在 感は強烈で、大袈裟だが周囲に一流のみが放つ格 別のオーラが感じられた。小生の思い込みのせい かも知れないのだが、滅多に無いことでもある。 笠の傾斜はかなり強く、先端が大きく反り返っ ている。厚い軒口は、両端で力強く反り上がって おり、鎌倉後期の最大の特徴を魅力的な形で表現 している。 水輪(塔身)は下すぼみの微かな壺型で、ずっ しりと腰を据えたような風格が感じられる。 地輪は安定感のある大きさなのだが、年号など が刻まれた痕跡は見当たらなかった。 正面だけに、五輪塔菩提門の梵字(ケン)・(カ ン)・ラン・バン・アンが確認出来る。やや摩滅 しているが、力強さの残る筆致である。 石塔全体が醸し出す悠然とした落ち着きから、 鎌倉後期という時代が想定される。 五輪塔の手前に、形の整った南北朝期の宝篋印 塔が在り、見逃してはならない。 |
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普済寺宝篋印塔 |
京都府南丹市園部町 |
京都から篠山へと通じる篠山街道から程近い若 森という地区で、寺の前面には農地と森が広がっ ているのどかな場所である。 楼門へと続く参道脇両側に、一基づつの形の良 い宝篋印塔が建っていた。実はこれは今回はノ- マークだったので、写真だけ丁寧に写してから奥 の本命へと向かった。 夢窓疎石の開山とも伝わる名刹だが、境内は静 寂に包まれた別天地であった。 目的の宝篋印塔は本堂に向かって左手、立派な 石積みの基盤に載っている。 基礎の上には複弁反花が彫られ、輪郭を巻いた 中に良い形の格狭間が意匠されている。上部の波 型に張りがあるので、かなり鎌倉に近いかなとい うのが第一印象だった。 塔身には金剛界四仏の梵字が、蓮華座に載った 月輪内に彫られている。筆致に鎌倉期の面影は見 当たらない。 下二段、上六段の笠の隅飾は輪郭を巻いた二弧 で、中に月輪のみをあしらっている。 相輪は完存しており、周囲の環境と併せ、八木 地区屈指の宝篋印塔と言えるだろう。 少し離れた場所に建つ観音堂(重文)は、禅宗 様式を伝える貴重な遺構である。 |
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普門院五輪塔 |
京都府南丹市日吉町 |
かなり山奥の中世木という集落外れで、日吉ダ ムから中世木川に沿って登った所に在る真言宗の 荒れ寺である。北条時頼の経塚が在り、鎌倉時代 に創建されたらしい。 裏山に残る五輪塔四基も時頼が建てた、とされ ている。写真は三基だが、左にもう一基並んで建 っている。光線の関係で、背後から撮影したもの である。 中央の大きな五輪塔は鎌倉期を想わせ、全体の 風貌が古式を感じさせる。 空風輪は摩滅した別物のようだが、火輪の笠の 落ち着き、軒口の厚さ、両端の力強い反り、そし て水輪のふっくらとした量感、などからは鎌倉時 代の制作が想定出来そうだ。 五輪塔四門の梵字が四方に彫られている。 写真の右隣は南北朝、左の小振りな二基は室町 以降かと考えられる。 本堂の前庭には、室町期と思われる宝篋印塔が 建っている。 |
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智恩寺宝篋印塔 |
京都府宮津市文殊 |
天橋立へと通じる瀬戸である切戸に、奈良桜井 の安倍の文殊、山形亀岡の文殊と共に、三大文殊 の一つとされる“切戸の文殊”智恩寺がある。 知恵の神様とあれば、詣でない訳にはいかない だろう。そして寺域からはやや離れた所にある三 角五輪塔と、この宝篋印塔とが次の目的だった。 山門を入ると、正面に本堂文殊堂、左手に室町 期の貴重な木造建築である多宝塔が見える。 「和泉式部の歌塚」と書かれた看板が立ってい るこの石塔は、右手の木立の中に建っていた。 全体に大らかな佇まいで、どっしりと構えた風 貌は間違いなく鎌倉期の石塔だろうと直感した。 相輪は九輪の上部が欠落しており、六輪の上に 宝珠が載せられている。 笠の上部は六段で、輪郭だけが彫られた三弧の 隅飾はやや外側に傾斜している。下部は型通り二 段だが、通常よりはやや高さがあるようだ。 笠の大きさに比して塔身の巾が大きめで、全体 的にはややずんぐり型と言えるだろう。 四方に彫られた梵字は金剛界四仏を象徴した種 子で、線は細いが月輪で囲われている。梵字は堂 々とした薬研彫りで、正面はキリーク(阿弥陀如 来)、右はタラーク(宝生如来)である。 基礎は、背面を除く三面に、格狭間が彫られて いる。 写真の右奥に、知恵の輪灯篭が切戸に面して建 っていた。 |
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智恩寺三角五輪塔 |
京都府宮津市文殊 |
切戸の文殊で知られる天橋立の智恩寺に詣でた 後、JR天橋立駅から少し北へと歩いていった。 踏み切りの反対側の路傍に、柵に囲まれてはいる ものの、訪れる人も無く荒れ果てた風情で珍しい この古塔が建っていた。 何故珍しいかというと、通常は四角錐であるは ずの笠(火輪)の部分が、ここでは三角錐になっ ていることなのである。 火輪は三角とするという密教教義に即して、立 面だけでなく平面まで三角にした造形とも考えら れ、銅製の三角五輪塔を製作した東大寺俊乗坊重 源の影響があったものとも思われる。 類例は希少で、当サイトでも取り上げた奈良東 大寺の伴墓五輪塔のほかに、高野山の奥の院で見 た伝親鸞上人五輪塔くらいしか見た記憶が無い。 塔全体の高さが巾に比して大きく、ひょろりと した印象を受ける。背丈は250cmはある。 堂々とした空風輪、屋根の傾斜が強く軒の厚さ が少ない火輪、そして下部がやや細長くなってい る球形の水輪、など何とも華奢な印象で、制作年 代の推定を断念した。古塔の要素を持ちながら、 鎌倉期特有の重厚な風格には乏しく、南北朝や室 町の繊細さも持っているという、美しくも不可解 な五輪塔ではある。 ちなみに、市の教育委員会設置の案内板によれ ば、鎌倉時代後期の作と記されていた。 |
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縁城寺宝篋印塔 |
京都府京丹後市峰山 |
旧峰山町は周辺の町村と合併し、現在京丹後市 と名乗っている。住民が賛成したのであれば、旅 行者があれこれ言うことは無いだろうが、些かの 違和感は禁じえない。 久美浜温泉に数日滞在し、丹後半島を巡った際 に、かつて二十五坊を誇ったとされるこの名刹を 訪ねた。静まり返った境内の清浄な雰囲気はさす がだが、秘仏千手観音像の安置された本堂は、朽 ち果てて今にも倒壊しそうな状況だった。 境内の左手に建つこの荘重な宝篋印塔だけが、 重厚な寺の歴史を語っているように思えた。 裏面を除く三面に、飾り付きの格狭間が基礎に 意匠されており、その下の基壇には複弁の反花座 と細長い三区の格狭間が意匠されている。これだ けでも、滅多に見られない壮麗な装飾が成された 豪華な宝篋印塔である、と言える。 塔身には、月輪内に金剛界四仏の梵字が彫られ ている。写真の梵字はアク(不空成就如来)と、 その右側のキリーク(阿弥陀如来)である。 笠上部は六段であり、隅飾がやや外側へ反って いる。 南北朝の作として重要文化財に指定されている そうだが、塔全体から受ける印象は鎌倉期の剛健 さだろう。彫られた「正平六年」と読めそうな文 字からの推量と、装飾性豊かな意匠からの推定に よるものと思われる。 近年の貧弱で劣悪な教育文化行政を嘆いておら れた御住職夫人の姿が印象的だった。 |
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