石塔 (層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)

     (6) 京都(南部)の石塔巡拝 
                  
    





 中京区・東山区・下京区・南区・西
京区・伏見区の京都市内と、向日市を
含めてそれ以南の市町村部を京都(南
部)とした。

 市内は勿論だが、大和と国を接する
綴喜・相楽などの南山城地区には、重
要な石造美術が密集しており、探訪す
る者の好奇心を刺激してくれる。








        石造宝塔(伝那須与一墓)
          鎌倉期の巨大な宝塔

      泉涌寺即成院(東山区泉涌寺)
 
                    

       
       
     行願寺五輪塔 (京都市中京区寺町)
     
    
   行願寺は俗に革堂と呼ばれ、西国札所第十九番
  の霊場である。京都御所に近く、寺町通りに面し
  て建っている比較的こじんまりとした寺である。
   私達は今回二度目の西国巡礼のために訪ねたの
  だが、前回見落としていたこの五輪塔を観る事も
  目的の一つだった。

   本堂の十一面観世音に詣でてから、境内の北西
  隅に建っている写真の五輪塔を観た。高さが3m
  はありそうで、かなり大きい事に驚いた。
   寺は桃山時代に一条からこの地へ移転して来た
  そうで、五輪塔もそれに伴い移築されたという。
  平安時代の開基が加茂明神を勧請して建立された
  石塔と伝えられるが、塔の様式は明らかに鎌倉期
  のものなので単なる伝承だろう。
   火輪(笠)の形がなんとも美しい。微妙な反り
  がこの時代の美意識を象徴しており、軒裏にもう
  一重の垂木型作り出しが彫られているのが珍しい。
  鎌倉後期ではないかと思う。

   五輪塔の建立に直接関係は無いが、この塔は京
  都に伝わる忌明(いみあけ)塔の一つで、七七忌
  の喪明けに詣でるという室町時代以降の習俗があ
  ったという。
        

      
       
     誠心院宝篋印塔 (京都市中京区新京極)
     
    
   新京極の商店街を六角通りから南へ少し下が
  った東側に、露地のような門を構える誠心(じ
  ょうしん)院という寺院が在る。河原町の繁華
  街に近いこの一帯は、裏寺町とも言って意外に
  寺院が多く連なっている。
   平安時代に、藤原道長が和泉式部のために建
  立したと伝えられる古刹だが、現在は真言宗の
  小寺となっている。

   本堂の脇の墓地に、和泉式部の塔と呼ばれる
  宝篋印塔が建っている。高さが
340cmもある巨
  大な石塔だが、正和二年 (1313) 鎌倉後期の年
  号が彫られた名塔である。
   背の低い基礎の上に扁平な一段を設け、その
  上に見事な複弁反花を意匠している。
   塔身には、蓮座に載る大小の月輪内に、阿弥
  陀三尊の種子が刻まれている。四方仏が通例で
  あり、大層珍しい事例だろう。写真では梵字の
  陰影が判然としないが、筆致の美しい彫りだ。

   銘文に記された僧侶多数の名と併せ、本塔は
  弥陀信仰を物語る石塔と考えられ、和泉式部と
  はほとんど無関係なのではなかろうか。
   笠は上六段、下は厚みのある二段で、隅飾は
  輪郭の付いた三弧である。微妙に傾斜してはい
  るがほぼ直立しているようだ。
                         

    
        
     知恩院五輪塔 (京都市東山区)
     
      
   知恩院に鎌倉後期の五輪塔が在ると知り、
  かつてなかなか見ることの出来なかった庭園
  も拝観したかったので、久し振りにこの著名
  な寺を訪ねてみた。
   南北朝の雰囲気を残す庭園は大きな収穫だ
  ったが、この五輪塔の所在が判らず境内中を
  探して歩いた。
   結果的には、御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り
  廊下の脇に在ったのだが、案内等は一切され
  ていない。鎌倉期の石造美術より、甚五郎の
  忘れ傘などといった怪しい名物のほうが大切
  らしい。

   高さが2m以上ある大きな五輪塔だが、形
  の良い空輪と風輪、力強い軒反りを示す火輪、
  ぽってりとした水輪など、完璧な保存状態の
  均整のとれた美しい塔である。
   奇妙な場所に位置しているのは、旧寺時代
  から行願寺と同じ忌明塔とされていたため、
  なかなか手がつけられなかったのではないか
  という説があるらしい。
          

    
    
     安養寺弁天堂宝塔 (京都市東山区)
     
    
   円山公園の最奥に左阿弥という料亭が有り、さら
  に崖地を登ると安養寺というお寺が見えてくる。境
  内に安置された石造阿弥陀如来坐像は鎌倉期の傑作
  で、これを見てから吉水弁天堂へと詣でた。
   重要文化財に指定されているこの美しい宝塔は、
  お堂の裏の崖との間の狭い場所に、隠れるようにし
  て立つていた。案内も無く、裏へ回らないと見えな
  いので、弁天堂へお参りする人は多いが、この石塔
  を見学する人には一人も会わなかった。
   こんな狭い場所に隠しておくのは勿体無いほどの
  傑作で、全体のフォルムが抜群の美しさだ。
   壷形の塔身に浮き彫りされた、並座する釈迦・多
  宝二尊像は珍しい。法華経に記された宝塔出現の場
  面を彫ったとされるが、事例はそれ程多くない。
   また、基礎が自然石であるのも妙だが、これは従
  前には方形の基礎が有ったものと思う。
   微妙な反りを見せる笠(屋根)の風貌に落ち着き
  が有り、塔身との間の絶妙なバランスを見る事が出
  来る。鎌倉初期に近い中期のものだろう。
   慈鎮和尚宝塔と書いた看板が立っている。天台の
  高僧慈円のことで、この地に在る巨刹知恩院とは深
  い関係があったという。
          

        
       
     六波羅密寺宝塔 (京都市東山区)
      
      
   空也上人の開基で知られ、西国三十三ヶ所巡礼の
  第十七番札所でもあるこの寺の、本堂に向かって左
  側にこの石造宝塔が建っている。
   立て札には「阿古屋塚」と書かれており、平景清
  の寵愛を受けた五条坂の遊女阿古屋の墓である、と
  伝えられている。

   塔身の乗る基礎部分は従来のものではなく、何処
  かの古墳の石棺の蓋を再利用したものだろう。
   塔身はやや細長い円筒形で、中央部に微妙な膨ら
  みを表現しており、また首部との太さの差が余り無
  いのが古風である。
   笠部分の屋根には隅棟の彫りは無いが、傾斜の緩
  い古式な風貌をしている。軒の厚みはさほどではな
  く、先端がやや反ってはいるが、全体的には格調高
  い穏やかな反り加減であろう。

   相輪は無く、現在は宝珠かと思われる石が載って
  いるが、従来はやはり通常の相輪が乗っていたもの
  と考えられる。中尊寺の宝塔など、五輪塔の空風輪
  に似た宝珠を乗せた事例は在るが、ここでもやはり
  すっくと延びた相輪が在ったらどんなに素晴らしい
  かを想ってしまう。
   全体的な像容と雰囲気からも、かなり古式に相応
  しい年代が想定される。鎌倉前期から中期にかけて、
  と考えるのは、思い入れからなのだろうか。
  

  New      
       
     今熊野観音寺宝塔 (京都市東山区)
      
      
   東山泉涌寺の山内に建つ真言宗の寺院で、西国
  三十三観音霊場の第十五番札所として知られる。

   本堂の脇から北側の山裾へ入ると墓地があり、
  三基の美しい宝塔が目に入る。
   藤原三代の墓と伝わるが、手前から慈円僧正、
  藤原忠道、藤原長家の墓だそうだ。写真は向かっ
  て右側の慈円僧正の墓と伝わる宝塔である。
   三基共に似通った意匠の宝塔である。

   重厚な宝塔にしては背の低い基礎には、輪郭を
  巻いた中に鎌倉期らしい格狭間が描かれている。
   塔身軸部には何も彫られてはいない。塔身上部
  には縁板状の円盤がが彫られ、首部は二段になっ
  ている。堂々とした姿の塔身だろう。

   笠は重量感に溢れており、自信に満ちた力量の
  石工が彫ったものと推量できる。
   軒口は厚く、両端が力強く反っている。鎌倉時
  代後期が想定出来るだろう。塔全体からも、洗練
  された剛毅さが伝わってくるようだ。
   屋根には降棟が彫られ、先端には稚児棟が確認
  出来る。事例の少ない可愛い意匠である。

   笠上には露盤が彫られているが、載せるべき相
  輪は失われている。代わりに置いた五輪塔の空風
  輪が、余りにも陳腐に見える。一体どのような相
  輪が立っていたのだろうか。
                                                 

    
    
     東福寺五社明神十三重塔 (京都市東山区本町)
   
    
   東福寺へは何度も訪れていて、本坊や光明院の
  庭園を見学するたびに日下門から入り、東司や僧
  堂、本堂の建ち並ぶ境内を抜け、三門から出て行
  ったものである。
   しかし、三門を入って右手奥、石段の上に五社
  明神が在り、その境内に重要文化財の石造十三重
  塔が建っていることを全く知らないでいた。

   今回初めて訪ねたのだが、いかにも優美な佇ま
  いの美しい塔であったことが私達を喜ばせた。
   屋根の軒反りが少ないことや、下層の幅の小さ
  いことなどから、鎌倉期の剛健な様式から時代の
  下がった南北朝から室町期ではないか、と想像し
  た。基礎に康永二年(1343)とあり、南北朝の前期
  であることが確認される。

   初重軸部の四方に梵字が見えるが、キリーク・
  アク・ウン・タラークで、其々が金剛界四仏を表
  している。基礎は格狭間によって装飾されている
  が、やや様式的になっている。
       

    
    
     東福寺愛染堂五輪塔 (京都市東山区本町)
   
    
   秋には華麗な紅葉の渓谷となる洗玉澗に架か
  る通天橋を渡り、東福寺の開山堂へと向かう。
   枯山水と池泉の対比が美しい普門院の庭園を
  満喫した後、橋へは戻らずに西へ歩くと直ぐに
  朱塗りの八角小堂が見える。
   愛染明王を祀る愛染堂(重文)で、その直ぐ
  横に石の柵が設けられ、写真の五輪塔が建てら
  れている。

   空輪から地輪に至るまで、一切の銘文や梵字
  などは彫られていない素地の塔である。
   全体のシルエットから受ける印象は、豪快な
  鎌倉期からやや繊細で柔和な印象を受ける南北
  朝への移行期あたり、というものだった。
   空輪と風輪は形の良い鎌倉風であり、火輪の
  屋根の傾斜はやや強く先端で反っていて南北朝
  風、軒口はそれ程厚くはなく緩やかに反ってお
  り、両端で反り上がっていて鎌倉後期風、とい
  った素人流の見立ても楽しいものである。
   水輪の風船のように膨らんだ曲線はいかにも
  鎌倉式で、火輪や地輪とのバランスも絶妙と言
  えるだろう。
   専門家の見立てでは、鎌倉説と南北朝説の両
  方があるようだが、小生は鎌倉末期説を採りた
  い。

   写真の背後に写っている土塀の向こうが、後
  述の宝篋印塔の在る九条家墓地である。
                         

     
    
     東福寺九条家墓地宝篋印塔 (京都市東山区本町)
   
    
   愛染堂五輪塔の項で述べた九条家墓地は、通
  常一般の立ち入りは許されていない。仕方なく、
  隣接する塔頭大機院にお願いしてその墓地へ入
  れて頂き、境目の土塀越しに撮影させていただ
  いたものである。
   後京極摂政良経公之墓という石標共に、東山
  の鳥辺山墓地に在ったもので、近年九条家墓地
  へ移転したものだそうだ。
   相輪と塔身は近年補完されたもののようで、
  笠と基礎だけが当初の古い部分である。
   
   写真でははっきりとしないが、基礎正面には
  向かい合った二羽の孔雀が彫り出されている。
  他の三面の格狭間内の開花蓮華紋様と共に、近
  江ではよく見られる意匠だが、京都での事例は
  無いと思われる。
   塔身の載る基礎上には、鎌倉期らしい見事な
  複弁反花座が意匠されている。
   塔身は後補ながら、四方仏の坐像が意匠され
  ており、格別の違和感は感じられない。
   笠の隅飾に特徴があり、一部破損は見られる
  が、直立して美しい。輪郭付き三弧で、中には
  蓮座に載る月輪に梵字が彫られている。胎蔵界
  四仏の種子が、各面毎左右に同じ梵字で表現さ
  れているのである。
                         

     
   
     桂地蔵寺宝篋印塔 (京都市西京区桂春日町)
      
      
   桂離宮参観のために阪急桂駅から歩いている
  途中で、当初より予定していたこのお寺に立ち
  寄ってみた。
   境内も本堂も近年整備されたらしく、全てが
  真新しく感じられたが、平安時代に小野篁が彫
  った六体の地蔵を、平清盛が都守護のために六
  街道の入口に配した六地蔵のひとつとして、古
  くから篤く信仰されてきたそうだ。

   宝篋印塔は、本堂の左手に他の石仏や石塔と
  共に祀られている。
   相輪はやや磨耗気味だが、宝珠・請花・九輪
  ・請花・伏鉢が完備している。
   笠は、上六段下二段の通常形で、隅飾は輪郭
  を巻いた二弧、先端が若干外へ反っている。
   塔身に梵字が見えるのだが、柵内に立ち入り
  出来ず望遠レンズでの撮影だったので、他の面
  は確認出来なかった。どうやら正面にのみ、月
  輪内にキリークが彫られているようだ。阿弥陀
  如来を表わす種子である。この石塔は、地蔵信
  仰とは関係が無さそうである。
   基礎上の背の高い複弁反花座が見事であり、
  基礎には輪郭を巻いた中に、鎌倉風の形の良い
  格狭間が意匠されている。
   余り取り上げられていない無銘の宝篋印塔だ
  が、鎌倉後期と思われる秀麗な塔である。
                         

      
   
     善峰寺宝篋印塔 (京都市西京区大原野)
      
      
   紅葉の名所として知られる西山の名刹で、西
  国三十三観音霊場第二十番札所となっている。
   長元年間(11世紀前半)創建という、天台
  宗派の由緒ある寺院だ。
   境内の名物“遊龍の松”の下をくぐり、木造
  多宝塔(重文)の脇から背後の経塚へ登る。
   宝篋印塔はその石段の途中の高みに祀られて
  おり、近年は植栽が繁茂して見え難くなってし
  まっている。

   背の低い基礎には装飾は無く、上に扁平な一
  段を設けて複弁反花座を据えている。
   塔身には金剛界四仏の種子が彫られているの
  だが、かなり摩滅していてはっきりしない。
   正面はキリーク(阿弥陀如来)、右はタラー
  ク(宝生如来)である。

   笠は上六段下二段だが、隅飾が別石であり、
  三弧であることが最大の特徴だろう。輪郭を巻
  いた中は無地で、ほぼ垂直ながら微妙に外側へ
  傾斜している。
   隅飾が三弧の事例は多いが、別石のものは先
  述の誠心院があり、他には嵯峨清涼寺、大原勝
  林院、大和壺阪寺など割りと少ない。
   相輪は、九輪の上部に補修跡が見られるが、
  宝珠から伏鉢まで比較的美しく残されている。
   全体に均整のとれた秀逸な宝篋印塔である。
                         

      
        
     安楽寿院五輪塔 (京都市伏見区)
      
     
   のどかだった竹田の里の安楽寿院周辺は、近年
  住宅地として変貌している。境内のお堂の前に在
  ったと思っていた五輪塔は、なんと老人ホームの
  玄関脇に申し訳無さそうに建っていた。土地が切
  り売りされてしまったようだ。
   しかし、五輪塔の建つ一画は確保されており、
  重要文化財として保護されているのは嬉しい。

   高さ3mの大塔で、四方の梵字は無いが、五輪
  全てが見事な統一感ある美しい姿をしている。
   地輪に銘文が刻まれており、弘安十年 (1287)
  鎌倉中期という古い年号が確認されている。
   空輪と風輪がどっしりとした大きさであり、塔
  全体に落ち着いた安定感を作り出していることに
  気がついた。また、火輪の軒の厚さが堂々として
  おり、両端の反り具合に風格が感じられる。

   近世の粗悪な五輪塔は、その辺りの要素が欠け
  ており、なんとも薄っぺらに見えてしまう。時代
  の変遷と共に美意識も変化し、様式は多様に変化
  していくのは当然なのだが、表面的な技術ばかり
  が進歩し、オリジナルの持っていた素朴な美しさ
  や精神性を凌駕したケースは、どの芸術の分野で
  もほとんど無いというのは不思議である。   
          

      
             
     飛鳥田神社御旅所五輪卒塔婆 (京都市伏見区)
    
     
   桂川下流、羽束師橋のたもとに、横大路中ノ
  庄という集落がある。この卒塔婆と五輪塔の所
  在を尋ねて御旅所まではたどり着いたのだが、
  それからが全く不明だった。困惑する私たちを
  救ってくれたのは、近所に住む歴史愛好の奥さ
  んだった。
   彼女の案内で、路地の奥、民家の陰の狭い空
  き地に、この五輪卒塔婆と五輪塔を発見するこ
  とが出来た。

   形の良い五輪塔と角柱が一石で彫られ、柱上
  部に定印の阿弥陀如来坐像、柱側面に脇侍の観
  音・勢至を梵字で刻んでいる。浄土信仰の現れ
  た三尊来迎像で、文永11年(1274)という銘が
  入った秀麗な供養目的の卒塔婆である。
   石表面の茶色の染みには、切られた怪異の血
  という奇談が残っているそうで面白い。

   写真の右側には古びた石造五輪塔が一基建っ
  ているのだが、時代はこの卒塔婆とほぼ同じだ
  と考えられ、五輪四方の梵字がきっちりと彫ら
  れた傑作である。

   何故このような辺鄙な場所に、隠れるように
  して建つに至ったのか、という両塔の遍歴の由
  来については結局判らなかった。
         

      
   
     法界寺日野家墓所五輪塔 (京都市伏見区醍醐町)
      
      
   国宝の阿弥陀堂と阿弥陀如来像で知られる
  日野の法界寺は、11世紀平安時代に藤原北
  一族の日野氏が創建した寺である。
   この地は日野家伝領の里であり、日野有範
  の子親鸞聖人誕生の地でもある。

   阿弥陀堂の建つ境内を離れ、東側の坂を登
  った所に数基の石塔が並ぶ一画が在る。
   そこが日野家の墓所と言われている。
   中央に、いかにも古びた五輪塔が建ってお
  り、古塔ならではの独特の雰囲気を醸し出し
  ている。
   日野有範の墓、と言われるのがこの五輪塔
  である。残念ながら無銘なので、その真偽は
  不明だが、石塔の様式は有範の没した平安末
  期に符合しているように見える。
   石の材質が、平安期に多く用いられた凝灰
  岩であることや、火輪(笠)や水輪・地輪の
  様式がまことに古式なのである。
   空・風輪は当初のものかどうか、小生には
  判断出来ない。
   火輪の屋根の傾斜が割りと強く、先端はそ
  れ程反っていないように見える。風化が激し
  く判然としないが、軒の反りも緩やかで優雅
  である。
   水輪のやや縦長状の球形や、背の低い地輪
  なども、平安末期の特徴を示している。
                         

    
    
     長法寺三重塔 (京都府長岡京市長法寺)
    
   
   西国三十三観音札所の善峰寺に詣でた帰りに、
  直ぐ近くに点在する石造美術を見て歩いた。

   京都府西南の西山山麓に広がる長岡京市は、今
  や完全にベッドタウン化しているが、長法寺辺り
  の町外れは閑静な環境を維持している。

   さして大きな寺ではないが参道が有り、その右
  側に小振りだがいかにも古式な風貌をした三重塔
  と宝篋印塔が建っている。
   宝篋印塔はやや時代が下がった南北朝と思われ
  るが、三重塔の方は、笠の反り具合や全体に均整
  のとれた美しさから判断して、どうやら鎌倉初期
  から中期あたりの制作だろう。前出の来迎院三重
  塔に、とてもよく似ている。

   笠や各層の軸部がそれぞれ独立して積み重ねら
  れており、材質は花崗岩と思われる。
   初層軸部には四方仏図像が彫られており、やや
  摩滅はしているものの、古塔らしい大らかな美し
  さを演出している。

   来迎院のものと共に、京都における鎌倉期の貴
  重な石造三重塔の一つである。
     

     
   
     宝積寺九重塔 (京都市大山崎町大山崎)
      
      
   秀吉と光秀の戦いで名高い天王山の中腹に建
  つ寺院で、奈良時代に聖武天皇の勅願により行
  基菩薩が建立したと伝えられる古刹である。
   しかし、現在残る遺構や文化財は、全て中興
  された鎌倉前期以降のものとされる。

   聖武天皇の供養塔とされるこの層塔は、本堂
  の左側の石柵の中に祀られている。
   塔全体を眺めた印象は、右に傾いて何とも不
  安定に見えることだった。
   各層の屋根の形状や幅の逓減が不自然でもあ
  り、当初は五重塔であった可能性が強い。下か
  ら四層目や最上部の屋根などは、軒の反りなど
  が明らかに違っている。
   各層の軸部と屋根とが別石であることが特徴
  で、これは前述の長法寺三重塔と同じである。
   屋根の軒口の反りは緩く、まことに古式で優
  雅である。四層目の軸部から仁治二年 (1241)
  という、鎌倉中期の年号が確認されている。

   初重軸部(塔身)は背が高く、顕教四仏の坐
  像が四面に半肉彫りされている。釈迦・阿弥陀
  ・弥勒・薬師の如来像で、石仏としても見応え
  のある像と言える。大層珍しいのは、それぞれ
  の基礎部分に、軸部の諸像に対応した脇侍を表
  わす梵字が配され、各面が三尊形式となってい
  ることだろう。
                         

    
     
     石清水八幡宮五輪塔 (京都府八幡市男山)
           
           
   石清水八幡宮の正面一の鳥居の内側、お旅所の
  西のほうに広々とした空地が在り、そこにこの見
  上げるように膨大な五輪塔が建っている。建つと
  いうより、座しているというほうが合っているか
  もしれない。

   高さが6mもあるということは、石造五輪塔の
  想像域を遥かに超えており、粗悪で悪趣味なもの
  が連想されるのだが、ただ大きいだけではない明
  晰な審美眼が背景に感じられて驚嘆した。

   空風輪のバランスの良さ、火輪の軒の厚さと軒
  両端の微妙な反り具合、やや偏平な火輪の球体、
  堂々たる地輪の重厚感、さらに洗練された蓮弁彫
  刻の見られる反花座(最下部)など、全て一級品
  の造形美と風格を備えている。
   この五輪塔をそのまま縮小していけば、通常の
  大きさの見事な五輪塔になるだろう。

   伝承によれば、承安年間(平安末期)に建立さ
  れたことになっているそうだが、それでは臼杵の
  中尾古塔と同年代になってしまう。第一、かくも
  洗練された五輪塔が、平安期に存在したとは考え
  られない。
   大方が想定している鎌倉中末期説が正しいだろ
  う、と私も感じた。
            

  New      
       
     石田神社十三重塔 (京都府八幡市上津屋)
      
      
   八幡市の東、有名な木津川に架かる流れ橋
  (上津屋橋)に近い場所に建つ、奈良時代に
  起源を持つ古社である。不思議なことに、八
  幡市内には、三つの石田神社が在るそうだ。
   参道入口の鳥居の手前右手に立派な神輿蔵
  があり、その脇に写真の石造十三重塔が建っ
  ている。かつてこの地に在った福泉寺の遺構
  と言われている。
  
   背の低い基礎は全くの無地で、その上に塔
  身(初重軸部)が載っている。塔身の四方に
  は、舟形光背を彫りくぼめた中に、蓮華座に
  載る四方仏坐像が浮彫されている。繊細な表
  現の好ましい彫刻である。
   
   各層の軸部の高さが低いことや、軒口両端
  の反り具合、屋根幅の上部への逓減が穏やか
  であること、などから南北朝期の制作だろう
  と推察した。この地区の十三重塔を比較して
  みると、鎌倉期の宇治浮島や田辺の法泉寺塔
  とは違って、東福寺塔に近いと感じられた。

   笠上の相輪は、上部の宝珠・竜車・水煙だ
  けが残り、九輪・請花・伏鉢は残念なことに
  失われている。
   次掲の宇治浮島の塔も同様だが、石塔の相
  輪は繊細な存在なので失われやすく、制作当
  初の相輪が完存するケースは非常に少ない。
                                         

    
    
     宇治浮島十三重塔 (京都府宇治市中ノ島公園)
    
   
   宇治川に架かる宇治橋の上流、ちょうど平
  等院の向かいに当たる川に中洲が在り、下流
  の橘島、上流の塔の島を総称して浮島と呼ん
  でいる。
   塔の島に建つこの大石塔は高さが
15mもあ
  り、本邦古石塔の中では最も高い塔である。
   全容を撮影するにはかなりの距離を置かね
  ばならず、残念ながら細部は写っていない。

   水害で流出した宇治橋再興に尽力した西大
  寺の叡尊思円が発願して建てた石塔で、内部
  に様々な舎利塔や五輪塔などが納入され、供
  養されていたそうだ。
   初重軸部には、金剛界四仏の種子が雄渾な
  筆致で薬研彫りされている。
   各層の屋根の軒は厚めだが、緩い反りを示
  しながら両端で反り上がっている。
   剛毅と優雅が混ざり合った、鎌倉という時
  代性を示しているように感じられる。
   また、下から上への屋根幅の逓減率が大き
  いので、どっしりとした安定感と剛健さが見
  事に示されている。
   基礎部分に、弘安九年 (1286) という鎌倉
  中期の魅力的な年号が彫られている。また、
  叡尊による建塔の目的を記した、千字にも及
  ぶ有名な銘文が見られる。
   明治期の洪水で破損したが再建され、相輪
  と屋根の一部が補修されたそうだ。
                         

    
    
     白山神社九重塔 (京都府宇治市白川)
    
   
   宇治の平等院から、宇治川に沿って南東にさか
  のぼると、直ぐに白川の里に着く。静かな山里だ
  が、その集落から少し離れた場所に白山神社が在
  り、その参道にこの秀麗な塔が建っている。
   集落の中に地蔵院というお寺が在り、元来はこ
  この寺域であったらしい。確かに、地蔵院九重塔
  と明記した専門書を見たことがあるが、実際は現
  在の白山神社に在るので、ここでは白山神社九重
  塔と記しておく。
   やや小高い台地に建っているので、近付くにつ
  れて少し見上げるようになり、やがて優美なその
  姿に接することが出来た。

   花崗岩製でやや小振り、基礎には格狭間、初重
  の軸部には金剛界四方仏を意味する梵字種子が月
  輪の中に彫られているが、かなり摩滅していて写
  真でははっきりしない。
   相輪は後補なのだろうが、各層の屋根の端がや
  や反っており、全体の華奢なイメージと併せ、ど
  うやら鎌倉末期から南北朝初期にかけて制作され
  たものではないかと感じられた。
        

     
   
     大宮神社宝篋印塔 (京都府宇治田原町荒木)
      
      
   京田辺市の中心である田辺から木津川を渡り、
  青谷梅林の横を抜けて伊賀の信楽方面を目指す。
  十一面観音像や五輪塔で知られる禅定寺へ通じる
  分岐点あたりの集落が岩山で、神社はこの旧道か
  ら少し山際へ入った所にある。

   社殿手前の巨杉の下に、堅固な石柵に囲まれて
  この宝篋印塔が祀られていた。
   塔身が細身の端正な面影で、とても優美な姿と
  いうのが第一印象だった。

   相輪が完備しているのが素晴らしく、塔全体の
  容姿の秀麗さを際立たせている。
   笠の段が七段であることが特徴だが、何よりも
  隅飾の細長い形状に目が行ってしまう。直立した
  古式で、二弧の中の蓮華座上の月輪内に梵字「ア
  ク」が刻まれている。
   柵が邪魔して全体の写真が撮れなかったのだが、
  塔身四方には月輪内に金剛界四仏を梵字で彫って
  あった。写真に見えるのは、阿しゅく如来を象徴
  する梵字種子「ウーン」である。
   そして、柵の隙間からちらりと見えるのが基礎
  の格狭間で、近江式の三本の茎のある蓮華文様が
  四方に彫ってあった。

   年号を表す銘は無く、細い塔身や繊細な装飾性
  から南北朝制作とする説もあるのだが、私は隅飾
  の美意識は鎌倉期のものと考えたい。南北朝へと
  至る、鎌倉末期あたりではないだろうか。
     

    
    
     禅定寺五輪塔 (京都府宇治田原町禅定寺)
    
   
   近江大津市との県境に近い宇治田原町最北
  の山里に在る寺だが、平安後期に藤原氏の帰
  依を受け建立されたとされる古寺である。
   秀麗な本尊十一面観音立像を拝してから、
  この石塔へと至る石段を歩けば、必ずや至福
  の時間の流れを体感出来るだろう。

   写真は石段の下から撮影したもので、ちょ
  うど夕日に映えた中で、均整のとれた美しく
  て優しい五輪塔だなあと感じた。

   台座に大和様式の複弁反花座が意匠されて
  おり、南山城から奈良一帯に見られる様式が
  このあたりまで及んでいたことが伺える。
   地輪の正面に、康永元年 (1342) 南北朝初
  期の年号が彫られている。在銘の五輪塔とし
  ては南北朝期のものは甚だ希少であり、時代
  性を裏付ける貴重な遺構と考えられる。
   やや型の張った空輪(宝珠)と、火輪(笠)
  の屋根の傾斜の強さと先端の反り上がりは南
  北朝風であり、軒口の厚さと両端の反り具合
  は鎌倉後期の特徴を示している。
   しかし、溢れるような力強さは見られず、
  どこか弱々しい印象を受けるのは年代を知っ
  てしまったからなのだろうか。

   水輪の球形はどう見ても下膨れで、肩の少
  し張る壺型とは逆の形であり、余り類例の無
  い不自然さが感じられた。
                         

      
   
     深広寺宝篋印塔 (京都府城陽市奈島)
      
      
   JR奈良線の山城青谷駅の西、国道24号線
  の東側の集落にひっそりと建つ浄土宗の小寺で
  ある。
   山門を入った直ぐ左手の土塀沿いに、金網で
  囲まれた一画があり、そこに高さ
150cm前後の
  いかにも古そうな宝篋印塔が五基、横一列にず
  らりと祀られていた。

   写真は左側の二基である。最も特徴的だった
  のが写真の右側、つまり五基の内の左から二番
  目の塔である。
   笠上の段が他は通常の六段であるのに対し、
  この塔だけが四段になっている。何とも茫洋と
  した大らかさは栂尾高山寺の宝篋印塔にも通じ
  るもので、様式化する前の鎌倉中期という時代
  が感じられる。
   さらに特徴的なのが隅飾(耳)である。輪郭
  の無い一弧は五基に共通だが、軒との間が浮彫
  線で区別されておらず、完全に軒と一体化した
  “のべ作り”となっていることである。
   これは大和生駒の輿山往生院墓地の宝篋印塔
  と、全ての点でよく似ている。ここにも鎌倉中
  期の大らかさが感じられる。
   写真左側の一基は、他の三基と同様に、笠上
  六段で一弧の垂直隅飾であり、鎌倉後期の作と
  思われる。鎌倉期の宝篋印塔が五基並ぶ光景は
  何とも壮観である。
                         

  
   
     法泉寺十三重塔 (京都府京田辺市草内)
     
     
   桃山期の庭園遺構が残っているということで、
  石塔と共に以前から興味を抱いていた寺だった。
  名園で著名な薪の一休寺にも比較的至近の、草
  内という集落の中に在る小さな寺である。

   庭園はすっかり荒廃しており、かすかに石組
  は残っているものの、ほとんど庭の体をなして
  いないのが残念だった。

   境内入口近くに建つ十三重塔は、古くから知
  られた名品で重要文化財に指定されている。
   笠と軸部を一石で彫り、十三層に重ねるとい
  う古い様式らしいが、多層の石塔には適切な手
  法だろうと思う。
   弘安元年(1278)の作で、鎌倉中期らしい豪放
  さと華麗さを共有した見事な塔だと言える。
   相輪は後補だが、しみじみ見ていても飽きな
  いし、笠の重なりに不自然さが微塵も感じられ
  ないのは、笠の反りや厚さなど落ち着いて均整
  の取れた姿をしているからだろう。

   塔の左側は学校の校舎に隣接しており、背景
  に障害物無しに写真を撮るためのアングルはこ
  れしか無かった。
         

  New      
       
     観音寺三重塔 (京都府京田辺市普賢寺)
      
      
   大御堂とも呼ばれる古刹で、天平期の十一面
  観音像(国宝)を本尊としている。いつ拝んで
  も、ひたすら感動を受ける”絶品”である。

   本堂の前に置かれた写真の石造三重塔は、小
  生が仏像巡りをしていた頃(昭和50年代)に
  見た記憶では、石塔の体を成さない残欠であっ
  たと思う。現在の三重塔は、その後川勝政太郎
  博士によって復元されたもの、だそうだ。

   どこまでが古い部材なのかは明確ではないの
  だが、平安期の塔の再現という意味からは、全
  体的に感じられる穏やかさが良く時代の雰囲気
  を表しているように思われた。
   基礎と相輪はひと目で後補と判るが、各層の
  屋根と軸部は古いもののように見える。

   屋根の軒口は緩やかな曲線を描いており、両
  端の反りは穏やかである。屋根には降棟や隅木
  が彫られる程丁寧な表現が施されている。
   詳細に眺めると、最上部の屋根にも、軒の反
  り具合などやや違和感があり、これも別物かと
  思い出してしまうが、たとえ一部にせよ、優雅
  な平安期の層塔の復活を愛でたいものと感じて
  いる。
                                  

     
        
     金胎寺篋印塔 (京都府和束町)
      
      
   和束町と宇治田原町との境界には、鷲峰山と
  いう標高700m近い山並が続いている。金胎
  寺本堂はその山頂近くに建っているのだが、幸
  いにも林道が有って石段下までは車で登ること
  が出来た。
   この宝篋印塔は寺からさらに登って行き、眺
  望がパッと開ける山頂に建っていた。

   切り石の基礎壇上に建ち、塔身・笠・隅飾・
  相輪まで全てが完存する見事な佇まいだ。
   塔身の梵字はア・アク・アン・アーで、月輪
  内に胎蔵界四仏種子として彫ってある。薬研彫
  りの豪快な梵字だ。
   隅飾は輪郭を彫った二弧であり、やや反って
  いるので鎌倉後期かと思った。しかし、銘には
  正安二年(1300)とあるので、もっと古い中期で
  あった。
   相輪下部の伏鉢に反花が彫られており、なん
  とも荘厳で品位を感じさせる装飾である。
   汗を流して登って来る価値の充分ある、惚れ
  惚れするような美しい石塔だった。
         

      
        
     湯船篋印塔 (京都府和束町)
     
     
   和束町にはもう一基、決して見逃してはなら
  ない宝篋印塔が存在することを知っていた。し
  かし、この町には文化財を誇る精神は無いよう
  で、いくら探しても案内一つ無かった。
   私の資料で五ノ瀬という場所に在ると判って
  いたが、そこでさらに地元の方に案内して頂い
  て、ようやく“不動堂”に在ると判明した。

   巨杉が林立する荒れ果てた境内に、写真の如
  く傾いた格好で無造作に置かれている。いくら
  文化財に指定されていないとはいえ、弘安十年
  (1287)という刻銘もあるれっきとした鎌倉中期
  の石塔である。町のこの扱いは、文化行政のレ
  ヴェルの低さを示しているとしか思えない。

   塔身の梵字は金剛界四仏の種子で、上品な薬
  研彫りである。隅飾は金胎寺と同じ、二弧輪郭
  付きの控えめな姿である。
   相輪は後補らしいが、全体的には均整の取れ
  た、至極品位のある美しい塔である。年代も金
  胎寺より古く、為因寺や高山寺に匹敵するもの
  だけに、相応の管理を切に望むものである。
          

    
   
     新殿神社十三重塔 (京都府精華町山田)
   
   
     京奈和自動車道の山田川インターを下りると直
  ぐに山田の里で、この神社の鎮座する木立のある
  丘が見える。
   重要文化財に指定された石塔が在ると聞き、京
  都から奈良へ向かう途中で寄り道をしたくなった
  のだった。

   本殿へと続く参道の林の中に、この4m近い石
  塔がすっくと建っていた。
   制作年号が彫られており、それは何と延徳三年
  (1491) という室町中期のものだった。鎌倉期か
  らせいぜい南北朝の傑作を中心に観てきた者にと
  っては、最初から知っていたらわざわざ訪ねはし
  なかっただろう。
   しかし、じっと見ていると、やはり傑作だけが
  示すある種の説得力に惹きつけられた。

   定型化した四方仏坐像や、装飾も無く無意味に
  大きい基礎、失われた相輪など、欠点を挙げれば
  きりは無い。
   だが、この塔の存在感を確かなものにしている
  のは、基礎に彫られた「百万遍念仏」の文字や多
  くの法名にあるのかもしれない。
   塔の建立の背景に真摯な信仰の裏付けが存在し
  ていたことを、この塔は暗黙の内に示しているか
  らなのである。    
             

    
   
     常念寺九重塔 (京都府精華町祝園)
   
   
   精華町在住のT氏の案内で、町の南東に位
  置する当寺を訪ねた。彼は御住職とは昵懇で
  あり、薬師堂に安置された平安期の木造菩薩
  形立像(重文)を拝観させて頂くことが出来
  た。祝園(ほうその)神社の神宮寺からの客
  仏とのことだが、見事な造形に感動した。

   薬師堂の前に、写真の九重石塔が建ってい
  る。相輪や屋根の一部が崩壊してしまってい
  るが、いかにも“古式の層塔”というのが第
  一印象であった。
   相輪には、下から伏鉢と請花、そして九輪
  の一部が残っている。
   各層の屋根は、大層緩やかな曲線の反りを
  見せ、両端で微妙に反り上がっている。鎌倉
  中期を思わせる落ち着いた様式であるが、下
  から六層と上三層の屋根の幅が不自然に見え
  る。屋根各層の間隔からも、当初はおそらく
  十三重石塔であったと考えられる。
   最下層の屋根の幅と最上層の幅を比較し、
  逓減の仮想線を想定してみると、中間に四層
  加わることになり、逓減率の高い荘重な十三
  重石塔が出現する。奈良般若寺や前述の田辺
  の法泉寺、次掲の山城天神社に匹敵する名塔
  であっただろう。
   塔身には、金剛界四仏が梵字で薬研彫りさ
  れている。大袈裟でない彫りに感心したが、
  月輪や蓮華座などの装飾は見られない。
   写真の梵字は、左がタラーク(宝生)、右
  がウーン(阿しゅく)である。
   基礎は背が低く、側面は無地のようだ。
   この石塔も、祝園神社神宮寺と関係があり
  そうである。  
                         

     
   
     蟹満寺七重塔 (京都府木津川市山城町綺田)
   
     
   精華町の東を流れる木津川を渡ると旧山城町
  で、その北端に位置する集落が綺田(かばた)
  である。
   古仏像愛好家には著名な蟹満寺は、国宝の白
  鳳仏である銅造釈迦如来坐像と、寺名の基とな
  った蟹の恩返しの伝説で知られている。

   御本尊を拝した或る日の午後、境内の一画に
  写真の石塔が隠れるようにして建っていること
  に気が付いた。何度か訪ねてはいたが、古い石
  塔の存在を知ったのは今回が初めてであった。

   どうやら相輪は後から載せられたものらしい
  のだが、各層屋根の軒の厚さや両端の反り具合
  からは、いかにも鎌倉期の層塔を思わせる風格
  が感じられたのだった。
   植栽が繁茂していて石塔に近づけないため、
  塔身の彫刻や銘文などが全く確認出来なかった
  が、どうやら年号は刻まれていないようだ。
   植栽の隙間からちらっと“キリーク”らしい
  梵字が見えたので、塔身には金剛界四仏の種子
  が彫られていると思われた。
   屋根の軒口が厚く、至極緩やかな反りを示し、
  両端でのみ反り上がっている形式は、鎌倉後期
  の典型的な様式であり、本塔が鎌倉期の遺構で
  あることは間違いは無さそうである。
   全国的にも七重塔の事例は希少であり、特に
  京都では白沙村荘の平安期のものしか思いつか
  ないので、偶然発見した悦びは大きかった。 
                         

      
   
     十輪寺十三重塔 (京都府木津川市山城町平尾)
   
     
   JR棚倉駅の北側を流れる不動川の上流に平
  尾という集落が在り、磨崖仏で知られる谷山不
  動へと通じる道沿いにこの真言宗の寺院が建っ
  ている。
   多くの石造美術の存在が知られており、特に
  文永十一年 (1274) 鎌倉中期銘のある笠塔婆が
  注目される。半肉彫り阿弥陀像と弥陀種子キリ
  ークが彫ってあるのだが、全く摩滅していてほ
  とんど判読出来なかった。写真も撮影したが、
  全く絵にならないので、ここでは同境内に建っ
  ていた十三重石塔を掲載した。

   各層の屋根は重厚で、軒の両端での反り具合
  からも鎌倉後期が想定出来る。上部四層の屋根
  の軒が急に薄くなっているのがやや不自然に感
  じられるが、屋根幅の適度な逓減率からは、南
  北朝目前の鎌倉末期近い様式が考えられる。
   初重軸部の諸像は顕教四仏なのだが、釈迦の
  部分に地蔵が彫られており、地蔵信仰が盛んで
  あったことを物語っているのだろう。後述の同
  じ山城町の天神社石塔にも、似たような入れ替
  えが見られる。天神社では、弥勒に地蔵が代わ
  っている。
   塔身下の基礎上部が二段になっており、明ら
  かに宝篋印塔の基礎かと思われる。
                         

     
   
     神童寺十三重塔 (京都府木津川市山城町神童子)
   
     
   仏像愛好家には、特異な像容の仏像として知
  られる「波切白不動明王」や「天弓愛染明王」
  など、重要文化財六体を含む十体の平安仏を所
  蔵する古刹である。
   6世紀に聖徳太子が創建したとされ、本尊の
  蔵王権現は役行者の作と伝えられる。

   美しい寄棟造りの本堂(重文)の左後方に、
  写真の秀麗な十三重石塔が建っている。
   各層の屋根は見事な統一感を示しており、軒
  の緩やかな曲線と両端の反り具合が何とも優雅
  に感じられる。
   屋根幅の逓減率はそれほど大きくはなく、鎌
  倉期の剛健さよりも南北朝の気品のようなもの
  が感じられた。南北朝期の作品の“良さ”を示
  す素晴らしい事例で、これを“軟弱な退化”と
  評することにはやや抵抗がある。  
  
   塔が一段高い基壇に建っており、周囲は植栽
  に覆われているので、塔身の詳細を見ることが
  出来なかった。正面のみがどうにか見えたのだ
  が、二重にくり抜かれた円光の中に座す仏像が
  確認出来た。定印を結ぶ阿弥陀如来像のように
  見えるので、おそらくは顕教四仏像が彫られて
  いるものと推察した。
   相輪は完備しており、塔全体のシルエットを
  引き締めている。   
                         

     
   
     天神社十三重塔 (京都府木津川市山城町神童子)
   
     
     JR棚倉駅の東南に当たる山中に、古美術愛
  好家なら周知の山岳密教の寺神童寺が在る。
   その鎮守社として創建された天神社は、神童
  寺からちょっと奥へ入ったところに在り、鬱蒼
  とした樹木に囲まれる神域となっている。

   写真の石塔は、社殿の奥の小高い場所に、玉
  垣に囲まれて祀られている。
   基礎に建治三年 (1277) と彫られた鎌倉中期
  の遺作であり、弘安元年の法泉寺塔の一年前と
  いうことなので、京都最古の十三重塔だろう。
   全体のシルエットは、法泉寺塔にとても良く
  似て美しく、ずっと見ていても見飽きることが
  ない。

   屋根の軒反り具合は緩やかだが、巾の逓減率
  は大きく、理想的な美しさを演出している。
   それにしても、屋根ひとつとっても、時代に
  よって変化する美意識の流れに従った様式とい
  うものが、自ずと形成されていくのが不思議で
  ならない。
   初重軸部に彫られた浮彫像は、弥陀・釈迦・
  薬師があることから顕教四仏と思えたのだが、
  残る一つが弥勒に代わって、錫杖を持つ地蔵と
  なっていた。何時来るか判らない弥勒より、頼
  りになったのだろうか。
   相輪は立派なもので、上から宝珠・龍車・水
  烟・九輪・請花・伏鉢が完存している。   
             

     
   
     泉橋寺五輪塔 (京都府木津川市山城町上狛)
   
     
   木津川の泉大橋北側に在り、橋寺として8世
  紀に行基が創建したとされる古刹である。
   寺の入口に在る石造の地蔵菩薩坐像(鎌倉期)
  は、日本一の石地蔵として知られる。

   写真の五輪塔は、境内奥の一画に祀られてお
  り、平重衡が東大寺などの南都焼き討ちを行っ
  た際に犠牲となった人達を祀った供養塔として、
  国の重要文化財に指定されている。

   二区の格狭間で飾られた荘厳な壇上基壇の上、
  大和様式と言われる複弁反花座の付いた台座に
  五輪塔は載っている。
   ふっくらとした形の良い空輪(宝珠)と、椀
  形の風輪は一石で出来ている。
   火輪(笠)は屋根の傾斜がやや急で古式の風
  情には欠けるが、軒口の厚さや両端の反り具合
  からは、鎌倉後期らしい力強さは感じられる。
  しかし、柔軟な造形性というよりも、固定化し
  た時代的な様式が目立つ、と言ったほうが正し
  いかもしれない。
   水輪の球形はやや扁平だが、ふっくらとした
  曲線は美しい。地輪(基礎)はやや背が高く、
  これは南北朝的と言えそうである。
   一切の銘文や梵字などは彫られていないが、
  南北朝に近い鎌倉末期、というのが小生の印象
  である。やや固さが目立つが、時代性を良く表
  わした傑作だろう。
                         

      
   
     安福寺十三重塔 (京都府木津川市木津町木津)
   
     
   木津河原で処刑された平重衡を村人が哀れみ、
  哀(あわん)堂と呼んで建てられた寺院と伝えら
  れている。この地には、重衡ゆかりの首洗池や、
  不成柿(ならずのかき)の伝説が残る。

   境内に建つ十三重石塔は、ここでも平重衡の供
  養塔とされている。現に、回忌供養のための木製
  塔婆が、塔身に立てかけられていた。

   石塔は、上部が若干ねじれているようにも見え
  るが、全体的には美しく保存されている。
   最上部の相輪は明らかに後世の補修品であり、
  また最上層の屋根も、軒口の厚さや傾斜が不自然
  なので、これも後補と考えられる。
   他の層の屋根は、程よい厚さと反りを見せ、両
  端の反り上がり方も適度である。また、屋根幅の
  逓減率も理想的であり、屋根裏に薄い一重の垂木
  型が意匠されていることなど、鎌倉中〜後期の要
  素を含んでいるように感じられた。
   塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて
  いる。写真の梵字は「タラーク」で、宝生如来を
  象徴している。塔婆の立てかけてある面には「ウ
  ーン(阿しゅく如来)」が彫られていた。
   基礎には銘文など一切彫られてはいないのだが、
  それはいかにも、敗軍の武将を密かに供養した石
  塔らしいと言えるのかもしれない。
                         

     
        
     木津惣墓五輪塔 (京都府木津川市木津町社町)
      
     
   惣墓というイメージから、町外れの墓地を連想
  していた。いくら探しても見つからないので、町
  役場の観光課で尋ねてようやくたどり着けた。
   判らぬ筈で、現在惣墓は喪失し、周辺はすっか
  り宅地化され、なんと目指す五輪塔は幼稚園の敷
  地内に建っていたのである。

   高さが4m近くある大型の五輪塔で、地輪に造
  立銘が刻まれている。これによると、旧惣墓の総
  供養塔として建立されたようで、正応五年(1292)
  という年号が見える。
   梵字は水輪の正面のみに刻まれ、従来の水輪を
  表す「バ」ではなく、阿弥陀の種子「キリーク」
  が見える。これも総供養塔の性格を物語っている
  ようだ。
   全体にどっしりとした重量感が感じられるのだ
  が、写真でも判るように、空輪と風輪がやや小振
  りで浮いているように見えた。案の定、これは近
  世の追補によるものらしい。

   このような鎌倉後期の石造美術品が、例え町中
  とはいえ、囲いも無く野晒しで残されているのは
  感動ものである。出来れば周囲の環境が、野辺の
  路傍であってくれればというのは、今やとても叶
  わぬ贅沢というものだろう。   
         

  
   
     宝珠寺五輪塔 (京都府木津川市加茂町辻)
      
     
   JR大和路線の加茂駅から南へ、当尾(とう
  のお)の岩船寺を目指す。
   当尾小学校の在る辺りが辻の里で、この小さ
  な禅寺はその集落の中で、県道に面している割
  りには静かな佇まいでひっそりと建っている。

   質素な境内の端に、やや小振りながら秀麗な
  五輪塔が建っていた。
   古式のようにふっくらとした曲線の空輪、形
  の良いお椀型の風輪が、両端がやや強く反り上
  がった火輪(笠)の上に載っている。
   火輪の屋根の傾斜がやや急で、先端が反り上
  がっている。また軒口は、さして厚くない上品
  さを示しており、軽い曲線を描きながら両端で
  強く反り上がっている。鎌倉期とそれ以降の要
  素が入り乱れていて、素人が年代を鑑定するに
  は少し難し過ぎるかもしれない。
   水輪は、やや扁平な球形で、上部が膨らんだ
  肩張り壺型をしている。
   地輪には銘文など全く彫られてはおらず、や
  や背の高いことが特徴だろう。これは後述のも
  のも含めた、木津川の五輪塔に共通する様式と
  言えそうである。
   台座には、大和様式と呼ばれる複弁反花座が
  設けられており、隣接する大和の影響をここで
  も実感出来た。
   鎌倉後期の比較的前半、と勝手に決めた。
                         

     
   
     辻墓地十三重塔 (京都府木津川市加茂町辻)
      
     
   宝珠寺の在る辻の集落から、県道を離れて
  細い山道を西南へ歩くと、千日墓地と呼ばれ
  る惣墓に出る。辻・尻枝・高去など四地区の
  共同墓地である。
   墓地入口に建つ石の鳥居が珍しく、また古
  い墓地らしく室町期の石仏や板碑などが密集
  している。

   基礎に銘文が彫られており、鎌倉後期を示
  す永仁六年 (1298) という年号が確認出来る
  そうだが、小生には判読不明であった。
   塔身には、舟形に刳り貫いた中に、蓮座に
  載る顕教四仏坐像が半肉彫されている。写真
  は南面の弥勒菩薩坐像である。石仏の里「当
  尾」らしい、落ち着いた彫刻である。

   各層の屋根は、上へ行くほど厚さも幅も逓
  減していくのだが、全体像からは鎌倉期らし
  い豪放さが感じられる。次掲の岩船寺十三重
  塔と比較すれば、各層の軒の厚さの違いは歴
  然としている。後期と言っても、永仁はその
  前半であり、鎌倉様式が最も力強かった時代
  の名残の遺構とも言えそうである。
   各層の屋根裏には、一重の垂木型が作り出
  されており、精度の高い石塔であることを物
  語っている。
   相輪は、先端の宝珠だけが後補で、それに
  続く龍車・水煙・九輪・請花・伏鉢が揃って
  いる。
                         

  
   
     岩船寺十三重塔 (京都府木津川市加茂町岩船)
      
     
   山深く緑濃い岩船寺境内で、朱塗りの木造三
  重塔と共に、ひときわその存在感を示している
  のがこの石造十三重塔である。

   屋根の反りは微妙であり、その巾の逓減率が
  少ないことが鎌倉末期あたりを示唆しているの
  ではないかと思う。時代が下るほど、上層と下
  層の巾の差が少なくなってくるのである。

   初重軸部には月輪の中に梵字で金剛界四方仏
  種子が刻まれており、5m強の高さながら秀麗
  な姿となっている。
   相輪には宝珠、竜車、水烟、九輪、請花、伏
  鉢が全て完備しており、やや華奢ながら見事な
  造形である。

   訪ねたのは春四月で、境内には種々の花々が
  咲き乱れる石造巡礼には格好の季節であった。

   この寺は石造美術の宝庫で、この他にも鎌倉
  時代後期の五輪塔や、不動明王の浅浮彫を祀っ
  た石仏龕などを観ることが出来る。
   浄瑠璃寺へと続く道に残る当尾石仏群も、こ
  の地を訪ねる楽しみの一つとなっている。   
           

   
   
     西小惣墓五輪塔 (京都府木津川市加茂町西小)
      
     
   小生が学生時代に仏像巡りをしていた頃には、
  浄瑠璃寺へ行く路線バスは無かった。加茂から奈
  良行きに乗り、「九体寺口」から
2.5Kmほど歩く
  しか手段が無かったのである。
   今にして思えば、途中で休憩して汗を拭いたの
  がこの西小(にしお)の墓の前だったのである。
   ちなみに西小は、かつて“西小田原”と呼ばれ
  た地名が簡略化したものだそうだ。

   この共同墓地の入口に、門柱の如く二基の五輪
  塔が建っている。
   写真は、手前が南塔、奥が北塔である。どちら
  も形の良い塔で、国の重要文化財に指定された只
  者ではない石塔なのである。
   特に南塔は、なだらかにふっくりとした空輪宝
  珠が美しく、火輪笠の厚い軒が両端で力強く反っ
  ている。また、水輪は微かに扁平ながら、見事な
  球形を示している。
   特徴的なのが地輪基礎下の台座で、複弁反花座
  の下側面には三区に仕切ってそれぞれに格狭間が
  意匠されている。まことに壮麗極まりない台座で
  あり、余程高貴な人の供養塔だったのではないか
  などという想像が膨らんできていた。
   北塔は、扁平な空輪、壺型の水輪など、南塔と
  比べるとやや見劣りがするが、この様な路傍の墓
  地に重文の石塔が露座に建っているとは、さすが
  に石造美術の宝庫当尾ならではの事だろう。
                         

   
   
     東小惣墓五輪塔 (京都府木津川市加茂町東小)
      
     
   浄瑠璃寺から岩船寺へと向かい、藪の中地蔵
  のところから左手の細道へと曲がると直ぐに会
  所が在り、そこには鎌倉中期の阿弥陀坐像石仏
  が祀られている。
   見事な石仏を拝しながら奥へ進むと、石段を
  登った小高い場所に旧東小田原の共同墓地が静
  かな佇まいを見せている。

   この五輪塔は、石段を登った墓地入口直ぐの
  左手に建っている。
   雰囲気的には、前述の西小惣墓北塔に似てい
  るような気がする。
   大和様式の複弁反花座を彫った台座は、この
  地域にあっては見慣れてしまって当たり前に見
  えてしまうが、全国的に見れば何とも豪華壮麗
  な意匠だと言わざるを得ないだろう。
   台座に載る地輪は無地で、年号等も一切刻ま
  れていない。特定の人の為としてではなく、惣
  墓全体の中心的な供養塔という性格が強かった
  のだろうか。
   水輪は、微かに肩の張った壺形で、いくらか
  扁平に見える。
   火輪(笠)は、軒に両端が反り上がった力強
  さが見られ、鎌倉後期らしい風貌をしている。
   一石から成る空風輪だが、肩の張った扁平な
  宝珠には、南北朝以降の雰囲気が感じられるの
  だが、全体的には鎌倉後期と言えそうである。   
                         

   
   
     海住山寺五輪塔 (京都府木津川市加茂町例幣)
      
     
   朱塗りの国宝五重塔で知られる名刹だが、仏
  像巡りの同好の間では当山の本尊十一面観音像
  と檀像十一面観音両像は、未公開の秘仏として
  学生時代以来長い間幻の存在だった。
   数年前の特別拝観でようやく念願が果たせた
  のだが、その際に当山の石造美術も拝見するこ
  とが出来たのだった。

   周辺の山々を借景に取り込んだ本坊庭園の端
  のほうに、この五輪塔が置かれている。
   堂々とした鎌倉風の五輪塔の思いがけない出
  現にびっくりしたのだが、詳細を眺めている内
  に“風”は消え、はっきりと鎌倉期を確認する
  に至ったのだった。
   空輪と風輪はとても良い形をしている。空輪
  の宝珠形は、時代が下がるほど肩の張ったリン
  ゴ形になってしまう。ふっくらとしたなだらか
  な肩の線が鎌倉を象徴するとも言えるのだが、
  専門家は蓮の蕾に似て、と表現する。この空輪
  はやや近いかもしれない。
   火輪の笠は厚い軒を持ち、両端で強く反り上
  がっている。これは正に、鎌倉後期らしい力強
  さである。
   やや下部が細った壺形の水輪も、ふっくらと
  した球形の張りが感じられ、生き生きとした造
  形が成されている。
   地輪が載る台座に、ここでも複弁反花座が設
  けられており、この地が大和文化様式圏内であ
  ることを物語っている。 
                         

    
     
     笠置寺五輪塔 (京都府笠置町笠置山)
           
           
   笠置山は京都府下の南山城に属し、奇岩怪石
  の霊場として知られている。山腹に建つ笠置寺
  は、天武天皇を開基とする奈良朝に所縁の古い
  寺で、境内の大きな岩に彫られた磨崖虚空蔵石
  仏や弥勒石を訪ねた方は多いかもしれない。

   寺の本堂へ向かう途中から右手の山道に入り、
  谷を隔てた小道をかなり歩いた所に古い墓地が
  ある。そこにこの見事な五輪塔が八角形の基壇
  の中央に建っており、笠置寺中興の祖である解
  脱上人貞慶の廟塔とされている。
   上人は平安末期以来の末法思想からの人々の
  救済のために、笠置寺を道場として弥勒仏の信
  仰を広げた高僧であった。

   空輪と風輪は、平安末期から鎌倉初期にかけ
  てのゆったりとした雰囲気を持っている。火輪
  の笠は屋根の勾配が緩やかで、軒両端の反りは
  いかにも鎌倉初期らしい形だろう。
   水輪の少しだけ押しつぶされたような球体は、
  全体を少し遠目から眺めた時、石塔のプロポー
  ションとしてとても均整のとれた絶妙の大きさ
  であることに気が付く。

   薬研彫りで見事に彫られた梵字は、四方とも
  に五輪塔種子である「キャ・カ・ラ・バ・ア」
  である。大胆に彫られた梵字はまことに雄渾な
  筆致であり、大好きな五輪塔の一つとしてどう
  しても取り上げたいと念じていた次第だ。
            

    
     
     笠置寺十三重塔 (京都府笠置町笠置山)
           
           
   巨岩に線彫された虚空蔵磨崖像は著名だが、
  弥勒石・文殊石など多くの磨崖仏が残されてい
  る。楠木正成等の南軍と足利氏などの幕府軍が
  戦った笠置山の戦(元弘の乱)の際に破壊され
  た弥勒石は、現在舟形光背しか残っていない。

   弥勒石の反対側の高みに、写真の十三重塔が
  建っている。
   初重軸部の四方には二重円光背が彫られ、そ
  の中に顕教四仏(釈迦・弥陀・弥勒・薬師)の
  坐像が半肉彫されている。写真は、左が薬師、
  右が弥勒と思われる。

   各層の笠は、軒が厚く、両端が緩く反ってい
  る。屋根の幅は、下から上へと逓減する割合は
  然程大きくはない。鎌倉末期から南北朝に至る
  時期が示す、均整のとれた優美な逓減率だろう
  と思う。
   上へ行くほど幅の狭まる美しい屋根の連なり
  の中で、上から二層目の屋根だけが飛び出して
  いるので、いつの日かに入れ替わったのではな
  いだろうか。

   相輪は、先端の宝珠と龍車は失われているが、
  水煙から下は揃っている。
   振り返って見ると、全体的には誠に秀麗な層
  塔で、重なり合うような巨石群を背景にして、
  景観の中心的存在となっている。   
                         

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