石塔紀行(6) |
層塔・宝塔・ 宝篋印塔・五輪塔 |
京都 (南部) の石塔巡拝 |
石造宝塔(伝那須与一墓) 鎌倉期の巨大な宝塔 泉涌寺即成院(東山区泉涌寺) |
中京区・東山区・下京区・南区・西京区・伏見区 の京都市内と、向日市を含めてそれ以南の市町村部 を京都(南部)とした。 市内は勿論だが、大和と国を接する綴喜・相楽な どの南山城地区には、重要な石造美術が密集してお り、探訪する者の好奇心を刺激してくれる。 |
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行願寺五輪塔 |
京都市中京区寺町 |
行願寺は俗に革堂と呼ばれ、西国札所第十九番 の霊場である。京都御所に近く、寺町通りに面し て建っている比較的こじんまりとした寺である。 私達は今回二度目の西国巡礼のために訪ねたの だが、前回見落としていたこの五輪塔を観る事も 目的の一つだった。 本堂の十一面観世音に詣でてから、境内の北西 隅に建っている写真の五輪塔を観た。高さが3m はありそうで、かなり大きい事に驚いた。 寺は桃山時代に一条からこの地へ移転して来た そうで、五輪塔もそれに伴い移築されたという。 平安時代の開基が加茂明神を勧請して建立された 石塔と伝えられるが、塔の様式は明らかに鎌倉期 のものなので単なる伝承だろう。 火輪(笠)の形が何とも美しい。微妙な反りが この時代の美意識を象徴しており、軒裏にもう一 重の垂木型作り出しが彫られているのが珍しい。 鎌倉後期ではないかと思う。 五輪塔の建立に直接関係は無いが、この塔は京 都に伝わる忌明(いみあけ)塔の一つで、七七忌 の喪明けに詣でるという室町時代以降の習俗があ ったという。 |
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誠心院宝篋印塔 |
京都市中京区中筋町 |
新京極の商店街を六角通りから南へ少し下がっ た東側に、露地のような門を構える誠心(じょう しん)院という寺院が在る。河原町の繁華街に近 いこの一帯は、裏寺町とも言って意外に寺院が多 く連なっている。 平安時代に、藤原道長が和泉式部のために建立 したと伝えられる古刹だが、現在は真言宗の小寺 となっている。 本堂の脇の墓地に、和泉式部の塔と呼ばれる宝 篋印塔が建っている。高さが3m40もある巨大 な石塔だが、正和二年 (1313) 鎌倉後期の年号が 彫られた名塔である。 背の低い基礎の上に扁平な一段を設け、その上 に見事な複弁反花を意匠している。 塔身には、蓮座に載る大小の月輪内に、阿弥陀 三尊の種子が刻まれている。多くは四方仏が通例 であり、大層珍しい事例だろう。写真では梵字の 陰影が判然としないが、筆致の美しい彫りだ。 銘文に記された僧侶多数の名と併せ、本塔は弥 陀信仰を物語る石塔と考えられ、和泉式部とはほ とんど無関係なのではなかろうか。 笠は上六段、下は厚みのある二段で、隅飾は輪 郭の付いた三弧である。微妙に傾斜してはいるが ほぼ直立しているようだ。 |
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知恩院五輪塔 |
京都市東山区林下町 |
知恩院に鎌倉後期の五輪塔が在ると知り、かつ てなかなか見ることの出来なかった庭園も拝観し たかったので、久し振りにこの著名な寺を訪ねて みた。 南北朝の雰囲気を残す庭園は大きな収穫だった が、この五輪塔の所在が判らず境内中を探して歩 いた。 結果的には、御影堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下 の脇に在ったのだが、案内等は一切されていなか った。鎌倉期の石造美術より、甚五郎の忘れ傘な どといった怪しい名物のほうが大切らしい。 高さが2m以上ある大きな五輪塔だが、形の良 い空輪と風輪、力強い軒反りを示す火輪、ぽって りとした水輪など、完璧な保存状態の均整のとれ た美しい塔である。 奇妙な場所に位置しているのは、旧寺時代から 行願寺と同じ忌明塔とされていたため、なかなか 手がつけられなかったのではないかという説があ るらしい。 |
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安養寺弁天堂宝塔 |
京都市東山区円山町 |
円山公園の最奥に左阿弥という料亭が有り、更 に崖地を登ると安養寺というお寺が見えてくる。 境内に安置された石造阿弥陀如来坐像は鎌倉期の 傑作で、これを見てから吉水弁天堂へと詣でた。 国の重要文化財に指定されているこの美しい宝 塔は、お堂の裏の崖との間の狭い場所に、隠れる ようにして立つていた。案内も無く、裏へ回らな いと見えないので、弁天堂へお参りする人は多い が、この石塔を見学する人には一人も会わなかっ た。 こんな狭い場所に隠しておくのは勿体無いほど の傑作で、全体のフォルムが抜群の美しさだ。 壷形の塔身に浮き彫りされた、並座する釈迦・ 多宝二尊像は珍しい。法華経に記された宝塔出現 の場面を彫ったとされるが、事例はそれ程多くは ない。 また、基礎が自然石であるのも妙だが、これは 従前には方形の基礎が有ったものと思う。 微妙な反りを見せる笠(屋根)の風貌に落ち着 きが有り、塔身との間の絶妙なバランスを見る事 が出来る。鎌倉初期に近い中期のものだろう。 慈鎮和尚宝塔と書いた看板が立っている。天台 の高僧慈円のことで、この地に在る巨刹知恩院と は深い関係があったという。 |
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六波羅密寺宝塔 |
京都市東山区轆轤(ろくろ)町 |
空也上人の開基で知られ、西国三十三ヶ所巡礼 の第十七番札所でもあるこの寺の、本堂に向かっ て左側にこの石造宝塔が建っている。 立て札には「阿古屋塚」と書かれいて、平景清 の寵愛を受けた五条坂の遊女阿古屋の墓である、 と伝えられている。 塔身の乗る基礎部分は従来のものではなく、何 処かの古墳の石棺の蓋を再利用したものだろう。 塔身はやや細長い円筒形で、中央部に微妙な膨 らみを表現しており、また首部との太さの差が余 り無いのが古風である。 笠部分の屋根には隅棟の彫りは無いが、傾斜の 緩い古式な風貌をしている。軒の厚みはさほどで はなく、先端がやや反ってはいるが、全体的には 格調高い穏やかな反り加減であろう。 相輪は無く、現在は宝珠かと思われる石が載っ ているが、従来はやはり通常の相輪が乗っていた ものと考えられる。中尊寺の宝塔など、五輪塔の 空風輪に似た宝珠を乗せた事例は在るが、ここで もやはりすっくと延びた相輪が在ったらどんなに 素晴らしいかを想ってしまう。 全体的な像容と雰囲気からも、かなり古式に相 応しい年代が想定される。鎌倉前期から中期にか けてと考えるのは、思い入れからなのだろうか。 |
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今熊野観音寺宝塔 |
京都市東山区泉涌寺山内町 |
東山泉涌寺の山内に建つ真言宗の寺院で、西国 三十三観音霊場の第十五番札所として知られる。 本堂の脇から北側の山裾へ入ると墓地があり、 三基の美しい宝塔が目に入る。 藤原三代の墓と伝わるが、手前から慈円僧正、 藤原忠道、藤原長家の墓だそうだ。写真は向かっ て右側の慈円僧正の墓と伝わる宝塔である。 三基共に似通った意匠の宝塔である。 重厚な宝塔にしては背の低い基礎には、輪郭を 巻いた中に鎌倉期らしい格狭間が描かれている。 塔身軸部には何も彫られてはいない。塔身上部 には縁板状の円盤がが彫られ、首部は二段になっ ている。堂々とした姿の塔身だろう。 笠は重量感に溢れており、自信に満ちた力量の 石工が彫ったものと推量できる。 軒口は厚く、両端が力強く反っている。鎌倉時 代後期が想定出来るだろう。塔全体からも、洗練 された剛毅さが伝わってくるようだ。 屋根には降棟が彫られ、先端には稚児棟が確認 出来る。事例の少ない可愛い意匠である。 笠上には露盤が彫られているが、載せるべき相 輪は失われている。代わりに置いた五輪塔の空風 輪が、余りにも陳腐に見える。一体どのような相 輪が立っていたのだろうか。 |
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東福寺五社明神十三重塔 |
京都市東山区本町 |
東福寺へは何度も訪れていて、本坊や光明院の 庭園を見学するたびに日下門から入り、東司や僧 堂、本堂の建ち並ぶ境内を抜け、三門から出て行 ったものである。 しかし、三門を入って右手奥、石段の上に五社 明神が在り、その境内に重要文化財の石造十三重 塔が建っていることを全く知らないでいた。 今回初めて訪ねたのだが、いかにも優美な佇ま いの美しい塔であったことが私達を喜ばせた。 屋根の軒反りが少ないことや、下層の幅の小さ いことなどから、鎌倉期の剛健な様式から時代の 下がった南北朝から室町期ではないか、と想像し た。基礎に康永二年(1343)とあり、南北朝の前期 であることが確認される。 初重軸部の四方に梵字が見えるが、キリーク・ アク・ウン・タラークで、其々が金剛界四仏を表 している。基礎は格狭間によって装飾されている が、やや様式的になっている。 |
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東福寺愛染堂五輪塔 |
京都市東山区本町 |
秋には華麗な紅葉の渓谷となる洗玉澗に架かる 通天橋を渡り、東福寺の開山堂へと向かう。 枯山水と池泉の対比が美しい普門院の庭園を満 喫した後、橋へは戻らずに西へ歩くと直ぐに朱塗 りの八角小堂が見える。 愛染明王を祀る愛染堂(重文)で、その直ぐ横 に石の柵が設けられ、写真の五輪塔が建てられて いる。 空輪から地輪に至るまで、一切の銘文や梵字な どは彫られていない素地の塔である。 全体のシルエットから受ける印象は、豪快な鎌 倉期からやや繊細で柔和な印象を受ける南北朝へ の移行期あたり、というものだった。 空輪と風輪は形の良い鎌倉風であり、火輪の屋 根の傾斜はやや強く先端で反っていて南北朝風、 軒口はそれ程厚くはなく緩やかに反っており、両 端で反り上がっていて鎌倉後期風、といった素人 流の見立ても楽しいものである。 水輪の風船のように膨らんだ曲線はいかにも鎌 倉式で、火輪や地輪とのバランスも絶妙と言える だろう。 専門家の見立てでは、鎌倉説と南北朝説の両方 があるようだが、小生は鎌倉末期説を採りたい。 写真の背後に写っている土塀の向こうが、後述 の宝篋印塔の在る九条家墓地である。 |
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東福寺九条家墓地 宝篋印塔 |
京都市東山区本町 |
愛染堂五輪塔の項で述べた九条家墓地は、通常 一般の立ち入りは許されていない。仕方なく、隣 接する塔頭大機院にお願いしてその墓地へ入れて 頂き、境目の土塀越しに撮影させていただいたも のである。 後京極摂政良経公之墓という石標共に、東山の 鳥辺山墓地に在ったもので、近年九条家墓地へ移 転したものだそうだ。 相輪と塔身は近年補完されたもののようで、笠 と基礎だけが当初の古い部分である。 写真でははっきりとしないが、基礎正面には向 かい合った二羽の孔雀が彫り出されている。 他の三面の格狭間内の開花蓮華紋様と共に、近 江ではよく見られる意匠だが、京都での事例は無 いと思われる。 塔身の載る基礎上には、鎌倉期らしい見事な複 弁反花座が意匠されている。 塔身は後補ながら、四方仏の坐像が意匠されて おり、格別の違和感は感じられない。 笠の隅飾に特徴があり、一部破損は見られるが 直立して美しい。輪郭付き三弧で、中には蓮座に 載る月輪に梵字が彫られている。胎蔵界四仏の種 子が、各面毎左右に同じ梵字で表現されているの である。 |
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桂地蔵寺宝篋印塔 |
京都市西京区桂春日町 |
桂離宮参観のために阪急桂駅から歩いている途 中で、当初より予定していたこのお寺に立ち寄っ てみた。 境内も本堂も近年整備されたらしく、全てが真 新しく感じられたが、平安時代に小野篁が彫っ た六体の地蔵を、平清盛が都守護のために六街道 の入口に配した六地蔵のひとつとして、古くから 篤く信仰されてきたそうだ。 宝篋印塔は、本堂の左手に他の石仏や石塔と共 に祀られている。 相輪はやや磨耗気味だが、宝珠・請花・九輪・ 請花・伏鉢が完備している。 笠は、上六段下二段の通常形で、隅飾は輪郭を 巻いた二弧、先端が若干外へ反っている。 塔身に梵字が見えるのだが、柵内に立ち入り出 来ず望遠レンズでの撮影だったので、他の面は確 認出来なかった。どうやら正面にのみ、月輪内に キリークが彫られているようだ。阿弥陀如来を表 わす種子である。この石塔は、地蔵信仰とは関係 が無さそうである。 基礎上の背の高い複弁反花座が見事であり、基 礎には輪郭を巻いた中に、鎌倉風の形の良い格狭 間が意匠されている。 観光的に余り取り上げられていない無銘の宝篋 印塔だが、鎌倉後期と思われる秀麗な塔である。 |
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善峰寺宝篋印塔 |
京都市西京区大原野 |
紅葉の名所として知られる西山の名刹で、西国 三十三観音霊場第二十番札所となっている。 長元年間(11世紀前半)創建という、天台宗 派の由緒ある寺院だ。 境内の名物“遊龍の松”の下をくぐり、木造多 宝塔(重文)の脇から背後の経塚へ登る。 宝篋印塔はその石段の途中の高みに祀られてお り、近年は植栽が繁茂して見え難くなってしまっ ている。 背の低い基礎には装飾は無く、上に扁平な一段 を設けて複弁反花座を据えている。 塔身には金剛界四仏の種子が彫られているのだ が、かなり摩滅していてはっきりしない。 正面はキリーク(阿弥陀如来)、右はタラーク (宝生如来)である。 笠は上六段下二段だが、隅飾が別石であり、三 弧であることが最大の特徴だろう。輪郭を巻いた 中は無地で、ほぼ垂直ながら微妙に外側へ傾斜し ている。 隅飾が三弧の事例は多いが、別石のものは先述 の誠心院があり、他には嵯峨清涼寺、大原の勝林 院、大和壺阪寺などで割りと少ない。 相輪は、九輪の上部に補修跡が見られるが、宝 珠から伏鉢まで比較的美しく残されている。 全体に均整のとれた秀逸な宝篋印塔である。 |
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安楽寿院五輪塔 |
京都市伏見区竹田 |
のどかだった竹田の里の安楽寿院周辺は、近年 住宅地として変貌している。境内のお堂の前に在 ったと思っていた五輪塔は、なんと老人ホームの 玄関脇に申し訳無さそうに建っていた。土地が切 り売りされてしまったようだ。 しかし、五輪塔の建つ一画は確保されており、 重要文化財として保護されているのは嬉しい。 高さ3mの大塔で、四方の梵字は無いが、五輪 全てが見事な統一感ある美しい姿をしている。 地輪に銘文が刻まれており、弘安十年 (1287) 鎌倉中期という古い年号が確認されている。 空輪と風輪がどっしりとした大きさであり、塔 全体に落ち着いた安定感を作り出していることに 気がついた。また、火輪の軒の厚さが堂々として おり、両端の反り具合に風格が感じられる。 近世の粗悪な五輪塔は、その辺りの要素が欠け ており、なんとも薄っぺらに見えてしまう。時代 の変遷と共に美意識も変化し、様式は多様に変化 していくのは当然なのだが、表面的な技術ばかり が進歩し、オリジナルの持っていた素朴な美しさ や精神性を凌駕したケースは、どの芸術の分野で もほとんど無いというのは不思議である。 |
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飛鳥田神社御旅所 五輪卒塔婆 |
京都市伏見区横大路中ノ庄 |
桂川下流、羽束師橋のたもとに、横大路中ノ庄 という集落がある。この卒塔婆と五輪塔の所在を 尋ねて御旅所まではたどり着いたのだが、それ からが全く不明だった。困惑する私たちを救って くれたのは、近所に住む歴史愛好家の奥さんだっ た。彼女の案内で、路地の奥、民家の陰の狭い空 き地に、この五輪卒塔婆と五輪塔を発見すること が出来た。 形の良い五輪塔と角柱が一石で彫られ、柱上部 に定印の阿弥陀如来坐像、柱側面に脇侍の観音・ 勢至を梵字で刻んでいる。浄土信仰の現れた三尊 来迎像で、文永11年(1274)という銘が入った秀 麗な供養目的の卒塔婆である。 石表面の茶色の染みには、切られた怪異の血と いう奇談が残っているそうで面白い。 写真の右側には古びた石造五輪塔が一基建って いるのだが、時代はこの卒塔婆とほぼ同じだと考 えられ、五輪四方の梵字がきっちりと彫られた傑 作である。 何故このような辺鄙な場所に、隠れるようにし て建つに至ったのか、という両塔の遍歴の由来に ついては結局判らなかった。 |
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法界寺日野家墓所五輪塔 |
京都市伏見区醍醐町 |
国宝の阿弥陀堂と阿弥陀如来像で知られる日野 の法界寺は、11世紀平安時代に藤原北一族の日 野氏が創建した寺である。 この地は日野家伝領の里であり、日野有範の子 親鸞聖人誕生の地でもある。 阿弥陀堂の建つ境内を離れ、東側の坂を登った 所に数基の石塔が並ぶ一画が在る。 そこが日野家の墓所と言われている。 中央に、いかにも古びた五輪塔が建っており、 古塔ならではの独特の雰囲気を醸し出している。 日野有範の墓、と言われるのがこの五輪塔であ る。残念ながら無銘なのでその真偽は不明だが、 石塔の様式は有範の没した平安末期に符合してい るように見える。 石の材質が、平安期に多く用いられた凝灰岩で あることや、火輪(笠)や水輪・地輪の様式がま ことに古式なのである。 空・風輪は当初のものかどうか、小生には判断 出来ない。 火輪の屋根の傾斜が割りと強く、先端はそれ程 反っていないように見える。風化が激しく判然と しないが、軒の反りも緩やかで優雅である。 水輪のやや縦長状の球形や、背の低い地輪など も、平安末期の特徴を示している。 |
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長法寺三重塔 |
京都府長岡京市長法寺 |
西国三十三観音札所の善峰寺に詣でた帰りに、 直ぐ近くに点在する石造美術を見て歩いた。 京都府西南の西山山麓に広がる長岡京市は、今 や完全にベッドタウン化しているが、長法寺辺り の町外れは閑静な環境を維持している。 さして大きな寺ではないが参道が有り、その右 側に小振りだがいかにも古式な風貌をした三重塔 と宝篋印塔が建っている。 宝篋印塔はやや時代が下がった南北朝と思われ るが、三重塔の方は、笠の反り具合や全体に均整 のとれた美しさから判断して、どうやら鎌倉初期 から中期あたりの制作だろう。前出の来迎院三重 塔に、とてもよく似ている。 笠や各層の軸部がそれぞれ独立して積み重ねら れており、材質は花崗岩と思われる。 初層軸部には四方仏図像が彫られており、やや 摩滅はしているものの、古塔らしい大らかな美し さを演出している。 来迎院のものと共に、京都における鎌倉期の貴 重な石造三重塔の一つである。 |
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宝積寺九重塔 |
京都市大山崎町大山崎 |
秀吉と光秀の戦いで名高い天王山の中腹に建つ 寺院で、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基菩 薩が建立したと伝えられる古刹である。 しかし、現在残る遺構や文化財は、全て中興さ れた鎌倉前期以降のものとされる。 聖武天皇の供養塔とされるこの層塔は、本堂の 左側の石柵の中に祀られている。 塔全体を眺めた印象は、右に傾いて何とも不安 定に見えることだった。 各層の屋根の形状やその幅の逓減が不自然でも あり、当初は五重塔であった可能性が強い。下か ら四層目や最上部の屋根などは、軒の反りなどが 明らかに違っている。 各層の軸部と屋根とが別石である事が特徴で、 これは前述の長法寺三重塔と同じである。 屋根の軒口の反りは緩く、まことに古式で優雅 である。四層目の軸部から仁治二年 (1241) とい う、鎌倉中期の年号が確認されている。 初重軸部(塔身)は背が高く、顕教四仏の坐像 が四面に半肉彫りされている。釈迦・阿弥陀・弥 勒・薬師の如来像で、石仏としても見応えのある 像と言える。大層珍しいのは、それぞれの基礎部 分に、軸部の諸像に対応した脇侍を表わす梵字が 配され、各面が三尊形式となっている事だろう。 |
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石清水八幡宮五輪塔 |
京都府八幡市男山 |
石清水八幡宮の正面一の鳥居の内側、お旅所の 西のほうに広々とした空地が在り、そこにこの見 上げるように膨大な五輪塔が建っている。建つと いうより、座しているというほうが合っているか もしれない。 高さが6mもあるということは、石造五輪塔の 想像域を遥かに超えており、粗悪で悪趣味なもの が連想されるのだが、ただ大きいだけではない明 晰な審美眼が背景に感じられて驚嘆した。 空風輪のバランスの良さ、火輪の軒の厚さと軒 両端の微妙な反り具合、やや偏平な火輪の球体、 堂々たる地輪の重厚感、さらに洗練された蓮弁彫 刻の見られる反花座(最下部)など、全て一級品 の造形美と風格を備えている。 この五輪塔をそのまま縮小していけば、通常の 大きさの見事な五輪塔になるだろう。 伝承によれば、承安年間(平安末期)に建立さ れたことになっているそうだが、それでは臼杵の 中尾古塔と同年代になってしまう。第一、かくも 洗練された五輪塔が、平安期に存在したとは考え られない。 大方が想定している鎌倉中末期説が正しいだろ う、と私も感じた。 |
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石田神社十三重塔 |
京都府八幡市上津屋 |
八幡市の東、有名な木津川に架かる流れ橋(上 津屋橋)に近い場所に建つ、奈良時代に起源を持 つ古社である。不思議なことに、八幡市内には、 三つの石田神社が在るそうだ。 参道入口の鳥居の手前右手に立派な神輿蔵があ り、その脇に写真の石造十三重塔が建っている。 かつてこの地に在った福泉寺の遺構と言われてい る。 背の低い基礎は全くの無地で、その上に塔身で ある初重軸部が載っている。塔身の四方には、舟 形光背を彫りくぼめた中に、蓮華座に載る四方仏 坐像が浮彫されている。繊細な表現の好ましい彫 刻である。 各層の軸部の高さが低いことや、軒口両端の反 り具合、屋根幅の上部への逓減が穏やかであるこ と、などから南北朝期の制作だろうと推察した。 この地区の十三重塔を比較してみると、鎌倉期の 宇治浮島や田辺の法泉寺塔とは違って、東福寺塔 に近いと感じられた。 笠上の相輪は、上部の宝珠・竜車・水煙だけが 残り、九輪・請花・伏鉢は残念なことに失われて いる。 次掲の宇治浮島の塔も同様だが、石塔の相輪は 繊細な存在なので失われやすく、制作当初の相輪 が完存するケースは非常に少ない。 |
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宇治浮島十三重塔 |
京都府宇治市中ノ島公園 |
宇治川に架かる宇治橋の上流、ちょうど平等院 の向かいに当たる川に中洲が在り、下流の橘島、 上流の塔の島を総称して浮島と呼んでいる。 塔の島に建つこの大きな石塔は高さが15mも あり、本邦古石塔の中では最も高い塔である。 全容を撮影するにはかなりの距離を置かねばな らず、残念ながら細部は写っていない。 水害で流出した宇治橋再興に尽力した西大寺の 叡尊思円が発願して建てた石塔で、内部に様々な 舎利塔や五輪塔などが納入され、供養されていた そうだ。 初重軸部には、金剛界四仏の種子が雄渾な筆致 で薬研彫りされている。 各層の屋根の軒は厚めだが、緩い反りを示しな がら両端で反り上がっている。 剛毅と優雅が混ざり合った、鎌倉という時代性 を示しているように感じられる。 また、下から上への屋根幅の逓減率が大きいの で、どっしりとした安定感と剛健さが見事に示さ れている。 基礎部分に、弘安九年 (1286) という鎌倉中期 の魅力的な年号が彫られている。また、叡尊によ る建塔の目的を記した、千字にも及ぶ有名な銘文 が見られる。 明治期の洪水で破損したが再建され、相輪と屋 根の一部が補修されたそうだ。 |
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白山神社九重塔 |
京都府宇治市白川 |
宇治の平等院から、宇治川に沿って南東にさか のぼると、直ぐに白川の里に着く。静かな山里だ が、その集落から少し離れた場所に白山神社が在 り、その参道にこの秀麗な塔が建っている。 集落の中に地蔵院というお寺が在り、元来はこ この寺域であったらしい。確かに、地蔵院九重塔 と明記した専門書を見たことがあるが、実際は現 在の白山神社に在るので、ここでは白山神社九重 塔と記しておく。 やや小高い台地に建っているので、近付くにつ れて少し見上げるようになり、やがて優美なその 姿に接することが出来た。 花崗岩製でやや小振り、基礎には格狭間、初重 の軸部には金剛界四方仏を意味する梵字種子が月 輪の中に彫られているが、かなり摩滅していて写 真でははっきりしない。 相輪は後補なのだろうが、各層の屋根の端がや や反っており、全体の華奢なイメージと併せ、ど うやら鎌倉末期から南北朝初期にかけて制作され たものではないかと感じられた。 |
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大宮神社宝篋印塔 |
京都府宇治田原町荒木 |
京田辺市の中心である田辺から木津川を渡り、 青谷梅林の横を抜けて伊賀の信楽方面を目指す。 十一面観音像や五輪塔で知られる禅定寺へ通じる 分岐点あたりの集落が岩山で、神社はこの旧道か ら少し山際へ入った所にある。 社殿手前の巨杉の下に、堅固な石柵に囲まれて この宝篋印塔が祀られていた。 塔身が細身の端正な面影で、とても優美な姿と いうのが第一印象だった。 相輪が完備しているのが素晴らしく、塔全体の 容姿の秀麗さを際立たせている。 笠の段が七段であることが特徴だが、何よりも 隅飾の細長い形状に目が行ってしまう。直立した 古式で、二弧の中の蓮華座上の月輪内に梵字「ア ク」が刻まれている。 柵が邪魔して全体の写真が撮れなかったが、塔 身四方には月輪内に金剛界四仏を梵字で彫ってあ った。写真に見えるのは、阿しゅく如来を象徴す る梵字種子「ウーン」である。 そして、柵の隙間からちらりと見えるのが基礎 の格狭間で、近江式の三本の茎のある蓮華文様が 四方に彫ってあった。 年号を表す銘は無く、細い塔身や繊細な装飾性 から南北朝制作とする説もあるのだが、私は隅飾 の美意識は鎌倉期のものと考えたい。南北朝へと 至る、鎌倉末期あたりではないだろうか。 |
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禅定寺五輪塔 |
京都府宇治田原町禅定寺 |
近江大津市との県境に近い宇治田原町最北の山 里に在る寺だが、平安後期に藤原氏の帰依を受け 建立されたとされる古寺である。 秀麗な本尊十一面観音立像を拝してから、この 石塔へと至る石段を歩けば、必ずや至福の時間の 流れを体感出来るだろう。 写真は石段の下から撮影したもので、ちょうど 夕日に映えた中で、均整のとれた美しくて優しい 五輪塔だなあと感じた。 台座には大和様式の複弁反花座が意匠されてお り、南山城から奈良一帯に見られる様式がこのあ たりまで及んでいたことが伺える。 地輪の正面に、康永元年 (1342) 南北朝初期の 年号が彫られている。在銘の五輪塔としては南北 朝期のものは甚だ希少であり、時代性を裏付ける 貴重な遺構と考えられる。 やや型の張った空輪(宝珠)と、火輪(笠)の 屋根の傾斜の強さと先端の反り上がりは南北朝風 であり、軒口の厚さと両端の反り具合は鎌倉後期 の特徴を示している。 しかし、溢れるような力強さは見られず、どこ か弱々しい印象を受けるのは年代を知ってしまっ たからなのだろうか。 水輪の球形はどう見ても下膨れで、肩の少し張 る壺型とは逆の形であり、余り類例の無い不自然 さが感じられた。 |
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深広寺宝篋印塔 |
京都府城陽市奈島 |
JR奈良線の山城青谷駅の西、国道24号線東 側の集落にひっそりと建つ浄土宗の小寺である。 山門を入った直ぐ左手の土塀沿いに、金網で囲 まれた一画があり、そこに高さ1m50前後のい かにも古そうな宝篋印塔が五基、横一列にずらり と祀られていた。 写真は左側の二基である。最も特徴的だったの が写真の右側、つまり五基の内の左から二番目の 塔である。 笠上の段が他は通常の六段であるのに対し、こ の塔だけが四段になっている。何とも茫洋とした 大らかさは栂尾高山寺の宝篋印塔にも通じるもの で、様式化する前の鎌倉中期という時代が感じら れる。 さらに特徴的なのが隅飾(耳)である。輪郭の 無い一弧は五基に共通だが、軒との間が浮彫線で 区別されておらず、完全に軒と一体化した“のべ 作り”となっていることである。 これは大和生駒の輿山往生院墓地に在る宝篋印 塔と、全ての点でよく似ている。ここにも鎌倉中 期の大らかさが感じられる。 写真左側の一基は、他の三基と同様に、笠上六 段で一弧の垂直隅飾であり、鎌倉後期の作と思わ れる。鎌倉期の宝篋印塔が五基並ぶ光景は何とも 壮観である。 |
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法泉寺十三重塔 |
京都府京田辺市草内 |
桃山期の庭園遺構が残っているということで、 石塔と共に以前から興味を抱いていた寺だった。 名園で著名な薪の一休寺にも比較的至近の、草内 という集落の中に在る小さな寺である。 庭園はすっかり荒廃しており、かすかに石組は 残っているものの、ほとんど庭の体をなしていな いのが残念だった。 境内入口近くに建つ十三重塔は、古くから知ら れた名品で重要文化財に指定されている。 笠と軸部を一石で彫り、十三層に重ねるという 古い様式らしいが、多層の石塔には適切な手法だ ろうと思う。 弘安元年(1278)の作で、鎌倉中期らしい豪放さ と華麗さを共有した見事な塔だと言える。 相輪は後補だが、しみじみ見ていても飽きない し、笠の重なりに不自然さが微塵も感じられない のは、笠の反りや厚さなど落ち着いて均整の取れ た姿をしているからだろう。 塔の左側は学校の校舎に隣接しており、背景に 障害物無しに写真を撮るためのアングルはこれし か無かった。 |
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観音寺三重塔 |
京都府京田辺市普賢寺 |
大御堂とも呼ばれる古刹で、天平期の十一面観 音像(国宝)を本尊としている。いつ拝んでも、 ひたすら感動を受ける”絶品”である。 本堂の前に置かれた写真の石造三重塔は、小生 が仏像巡りをしていた頃(昭和50年代)に見た 記憶では、石塔の体を成さない残欠であったと思 う。現在の三重塔は、その後川勝政太郎博士によ って復元されたもの、だそうだ。 どこまでが古い部材なのかは明確ではないのだ が、平安期の塔の再現という意味からは、全体的 に感じられる穏やかさが、良く時代の雰囲気を表 しているように思われた。 基礎と相輪はひと目で後補と判るが、各層の屋 根と軸部は古いもののように見える。 屋根の軒口は緩やかな曲線を描いており、両端 の反りは穏やかである。屋根には降棟や隅木が彫 られる程丁寧な表現が施されている。 詳細に眺めると、最上部の屋根にも、軒の反り 具合などやや違和感があり、これも別物かと思い 出してしまうが、たとえ一部にせよ、優雅な平安 期の層塔の復活を愛でたいものと感じている。 |
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金胎寺宝篋印塔 |
京都府和束町原山 |
和束町と宇治田原町との境界には、鷲峰山とい う標高700m近い山並が続いている。金胎寺本 堂はその山頂近くに建っているのだが、幸いにも 林道が有り石段下までは車で登ることが出来た。 この宝篋印塔は寺からさらに登って行き、眺望 がパッと開ける山頂に建っていた。 切り石の基礎壇上に建ち、塔身・笠・隅飾・相 輪まで全てが完存する見事な佇まいだ。 塔身の梵字はア・アク・アン・アーで、月輪内 に胎蔵界四仏種子として彫ってある。薬研彫りの 豪快な梵字だ。 隅飾は輪郭を彫った二弧であり、やや反ってい るので鎌倉後期かと思った。しかし銘には正安二 年(1300)とあり、もっと古い中期であった。 相輪下部の伏鉢に反花が彫られており、なんと も荘厳で品位を感じさせる装飾である。 汗を流して登って来る価値の充分ある、惚れ惚 れするような美しい石塔だった。 |
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湯船宝篋印塔 |
京都府和束町湯船 |
和束町にはもう一基、決して見逃してはならな い宝篋印塔が存在することを知っていた。しかし この町には文化財を誇る精神は無いようで、いく ら探しても案内一つ無かった。 私の資料で五ノ瀬という場所に在ると判ってい たが、そこでさらに地元の方に案内して頂いて、 ようやく“不動堂”に在ると判明した。 巨杉が林立する荒れ果てた境内に、写真の如く 傾いた格好で無造作に置かれている。いくら文化 財に指定されていないとはいえ、鎌倉中期の弘安 十年(1287)という刻銘もあるれっきとした貴重な 遺構であり、町のこの扱いは、文化行政のレヴェ ルの低さを示しているとしか思えない。 塔身の梵字は金剛界四仏の種子で、上品な薬研 彫りである。隅飾は金胎寺と同じ、二弧輪郭付き の控えめな姿である。 相輪は後補らしいが、全体的には均整の取れた 至極品位のある美しい塔である。年代も金胎寺よ り古く、為因寺や高山寺に匹敵するものだけに、 相応の管理を切に望むものである。 |
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新殿神社十三重塔 |
京都府精華町山田 |
京奈和自動車道の山田川インターを下りると直 ぐに山田の里で、この神社の鎮座する木立のある 丘が見える。 重要文化財に指定された石塔が在ると聞き、京 都から奈良へ向かう途中で寄り道をしたくなった のだった。 本殿へと続く参道の林の中に、この4m近い石 塔がすっくと建っていた。 制作年号が彫られており、それは何と延徳三年 (1491) という室町中期のものだった。鎌倉期か らせいぜい南北朝の傑作を中心に観てきた者にと っては、最初から知っていたらわざわざ訪ねはし なかっただろう。 しかし、じっと見ていると、やはり傑作だけが 示すある種の説得力に惹きつけられた。 定型化した四方仏坐像や、装飾も無く無意味に 大きい基礎、失われた相輪など、欠点を挙げれば きりは無い。 だが、この塔の存在感を確かなものにしている のは、基礎に彫られた「百万遍念仏」の文字や多 くの法名にあるのかもしれない。 塔の建立の背景に真摯な信仰の裏付けが存在し ていたことを、この塔は暗黙の内に示しているか らなのである。 |
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常念寺九重塔 |
京都府精華町祝園 |
精華町在住のT氏の案内で、町の南東に位置す る当寺を訪ねた。彼は御住職とは昵懇であり、薬 師堂に安置された平安期の木造菩薩形立像(重要 文化財)を拝観させて頂くことが出来た。 祝園(ほうその)神社の神宮寺からの客仏との ことだが、見事な造形に感動した。 薬師堂の前に、写真の九重石塔が建っている。 相輪や屋根の一部が崩壊しているが、見るからに “古式の層塔”というのが第一印象であった。 相輪には、下から伏鉢と請花、そして九輪の一 部が残っている。 各層の屋根は大層緩やかな曲線の反りを見せ、 両端で微妙に反り上がっている。鎌倉中期を思わ せる落ち着いた様式であるが、下から六層と上三 層の屋根の幅が不自然に見える。屋根各層の間隔 からも、当初はおそらく十三重石塔であったと考 えられる。 最下層の屋根の幅と最上層の幅を比較し、逓減 の仮想線を想定してみると、中間に四層加わるこ とになり、逓減率の高い荘重な十三重石塔が出現 する。奈良般若寺や前述の田辺の法泉寺、次掲の 山城天神社に匹敵する名塔であっただろう。 塔身には、金剛界四仏が梵字で薬研彫りされて いる。大袈裟でない彫りに感心したが、月輪や蓮 華座などの装飾は見られない。 写真の梵字は、左がタラーク(宝生)、右がウ ーン(阿しゅく)である。 基礎は背が低く、側面は無地のようだ。 この石塔も、祝園神社神宮寺と関係がありそう である。 |
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蟹満寺七重塔 |
木津川市山城町綺田浜 |
精華町の東を流れる木津川を渡ると旧山城町へと入る が、その北端に位置する集落が綺田(かばた)である。 古仏像愛好家には著名な蟹満寺は、国宝の白鳳仏であ る銅造釈迦如来坐像と、寺名の基となった蟹の恩返しの 伝説で知られている。 御本尊を拝した或る日の午後、境内の一画に写真の石 塔が隠れるようにして建っていることに気が付いた。何 度か訪ねてはいたが、古い石塔の存在を知ったのは今回 が初めてであった。 どうやら相輪は後から載せられたものらしいのだが、 各層屋根の軒の厚さや両端の反り具合からは、いかにも 鎌倉期の層塔を思わせる風格が感じられたのだった。 植栽が繁茂していて石塔に近づけないため、塔身の彫 刻や銘文などが全く確認出来なかったが、どうやら年号 は刻まれていないようだ。 植栽の隙間からちらっと“キリーク”らしい梵字が見 えたので、塔身には金剛界四仏の種子が彫られていると 思われた。 屋根の軒口が厚く、至極緩やかな反りを示し、両端で のみ反り上がっている形式は、鎌倉後期の典型的な様式 であり、本塔が鎌倉期の遺構であることは間違いは無さ そうである。 全国的にも七重塔の事例は希少であり、特に京都では 白沙村荘の平安期のものしか思いつかないので、偶然発 見した悦びは大きかった。 |
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十輪寺十三重塔 |
京都府木津川市山城町平尾 |
JR棚倉駅の北側を流れる不動川の上流に平尾 という集落が在り、磨崖仏で知られる谷山不動へ と通じる沿道にこの真言宗の寺院が建っている。 多くの石造美術の存在が知られており、特に文 永十一年 (1274) 鎌倉中期銘のある笠塔婆が注目 される。半肉彫り阿弥陀像と弥陀種子キリークが 彫ってあるのだが、全く摩滅していてほとんど判 読出来なかった。写真も撮影したが、全く絵にな らないので、ここでは同境内に建っていた十三重 石塔を掲載した。 各層の屋根は重厚で、軒の両端での反り具合か らも鎌倉後期が想定出来る。上部四層の屋根の軒 が急に薄くなっているのがやや不自然に感じられ るが、屋根幅の適度な逓減率からは、南北朝目前 の鎌倉末期近い様式が考えられる。 初重軸部の諸像は顕教四仏なのだが、釈迦の部 分に地蔵が彫られており、地蔵信仰が盛んであっ たことを物語っているのだろう。後述の同じ山城 町の天神社石塔にも、似たような入れ替えが見ら れる。天神社では、弥勒に地蔵が代わっている。 塔身下の基礎上部が二段になっており、明らか に宝篋印塔の基礎かと思われる。 |
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神童寺十三重塔 |
木津川市山城町神童子 |
仏像愛好家には、特異な像容の仏像として知ら れる「波切白不動明王」や「天弓愛染明王」等、 重要文化財六体を含む十体の平安仏を所蔵する古 刹である。 6世紀に聖徳太子が創建したとされ、本尊の蔵 王権現は役行者の作と伝えられる。 美しい寄棟造りの本堂(重文)の左後方に、写 真の秀麗な十三重石塔が建っている。 各層の屋根は見事な統一感を示しており、軒の 緩やかな曲線と両端の反り具合が何とも優雅に感 じられる。 屋根幅の逓減率はそれほど大きくはなく、鎌倉 期の剛健さよりも南北朝の気品のようなものが感 じられた。南北朝期の作品の“良さ”を示す素晴 らしい事例で、これを“軟弱な退化”と評するこ とにはやや抵抗がある。 塔が一段高い基壇に建っており、周囲は植栽に 覆われているので、塔身の詳細を見ることが出来 なかった。正面のみがどうにか見えたのだが、二 重にくり抜かれた円光の中に座す仏像が確認出来 た。定印を結ぶ阿弥陀如来像の様に見えるので、 おそらくは顕教四仏像が彫られているものと推察 した。 相輪は完備しており、塔全体のシルエットを引 き締めている。 |
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天神社十三重塔 |
木津川市山城町神童子 |
JR棚倉駅の東南に当たる山中に、古美術愛好 家なら周知の山岳密教の寺神童寺が在る。 その鎮守社として創建された天神社は、神童寺 からちょっと奥へ入ったところに在り、鬱蒼とし た樹木に囲まれる神域となっている。 写真の石塔は、社殿の奥の小高い場所に、玉垣 に囲まれて祀られている。 基礎に建治三年 (1277) と彫られた鎌倉中期の 遺作であり、弘安元年の法泉寺塔の一年前という ことなので、京都最古の十三重塔だろう。 全体のシルエットは法泉寺塔にとても良く似て 美しく、ずっと見ていても見飽きることがない。 屋根の軒反り具合は緩やかだが、巾の逓減率は 大きく、理想的な美しさを演出している。 それにしても、屋根ひとつとっても、時代によ って変化する美意識の流れに従った様式というも のが、自ずと形成されていくのが不思議でならな い。 初重軸部に彫られた浮彫像は、弥陀・釈迦・薬 師があることから顕教四仏と思えたのだが、残る 一つが弥勒に代わって、錫杖を持つ地蔵となって いた。何時来るか判らない弥勒より、頼りになっ たのだろうか。 相輪は立派なもので、上から宝珠・龍車・水烟 ・九輪・請花・伏鉢が完存している。 |
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泉橋寺五輪塔 |
木津川市山城町上狛 |
木津川の泉大橋北側に在り、橋寺として8世紀 に行基が創建したとされる古刹である。 寺の入口に在る石造の地蔵菩薩坐像(鎌倉期) は、日本一の石地蔵として知られる。 写真の五輪塔は境内奥の一画に祀られており、 平重衡が東大寺などの南都焼き討ちを行った際に 犠牲となった人達を祀った供養塔として、国の重 要文化財に指定されている。 二区の格狭間で飾られた荘厳な壇上基壇の上、 大和様式と言われる複弁反花座の付いた台座に五 輪塔は載っている。 ふっくらとした形の良い空輪(宝珠)と、椀形 の風輪は一石で出来ている。 火輪(笠)は屋根の傾斜がやや急で古式の風情 には欠けるが、軒口の厚さや両端の反り具合から は、鎌倉後期らしい力強さは感じられる。 しかし、柔軟な造形性というよりも、固定化し た時代的な様式が目立つ、と言ったほうが正しい かもしれない。 水輪の球形はやや扁平だが、ふっくらとした曲 線は美しい。地輪(基礎)はやや背が高く、これ は南北朝的と言えそうである。 一切の銘文や梵字などは彫られていないが、南 北朝に近い鎌倉末期、というのが小生の印象であ る。やや固さが目立つが、時代性を良く表わした 傑作だろう。 |
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安福寺十三重塔 |
京都府木津川市木津町木津 |
木津河原で処刑された平重衡を村人が哀れみ、 哀(あわん)堂と呼んで建てられた寺院と伝えら れている。この地には、重衡ゆかりの首洗池や、 不成柿(ならずのかき)の伝説が残る。 境内に建つ十三重石塔は、ここでも平重衡の供 養塔とされている。現に、回忌供養のための木製 塔婆が、塔身に立てかけられていた。 石塔は、上部が若干ねじれているようにも見え るが、全体的には美しく保存されている。 最上部の相輪は明らかに後世の補修品であり、 また最上層の屋根も、軒口の厚さや傾斜が不自然 なので、これも後補と考えられる。 他の層の屋根は、程よい厚さと反りを見せ、両 端の反り上がり方も適度である。また、屋根幅の 逓減率も理想的であり、屋根裏に薄い一重の垂木 型が意匠されていることなど、鎌倉中~後期の要 素を含んでいるように感じられた。 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて いる。写真の梵字は「タラーク」で、宝生如来を 象徴している。塔婆の立てかけてある面には「ウ ーン(阿しゅく如来)」が彫られていた。 基礎には銘文など一切彫られてはいないが、そ れはいかにも、敗軍の武将を密かに供養した石塔 らしいと言えるのかもしれない。 |
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木津惣墓五輪塔 |
京都府木津川市木津町社町 |
惣墓というイメージから、町外れの墓地を連想 していた。いくら探しても見つからないので、町 役場の観光課で尋ねてようやくたどり着けた。 判らぬ筈で、現在惣墓は喪失し、周辺はすっか り宅地化され、なんと目指す五輪塔は幼稚園の敷 地内に建っていたのである。 高さが4m近くある大型の五輪塔で、地輪に造 立銘が刻まれている。これによると、旧惣墓の総 供養塔として建立されたようで、正応五年(1292) という年号が見える。 梵字は水輪の正面のみに刻まれ、従来の水輪を 表す「バ」ではなく、阿弥陀の種子「キリーク」 が見える。これも総供養塔の性格を物語っている ようだ。 全体にどっしりとした重量感が感じられるのだ が、写真でも判るように、空輪と風輪がやや小振 りで浮いているように見えた。案の定、これは近 世の追補によるものらしい。 このような鎌倉後期の石造美術品が、例え町中 とはいえ、囲いも無く野晒しで残されているのは 感動ものである。出来れば周囲の環境が、野辺の 路傍であってくれればというのは、今やとても叶 わぬ贅沢というものだろう。 |
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宝珠寺五輪塔 |
京都府木津川市加茂町辻 |
JR大和路線の加茂駅から南へ、当尾(とうの お)の岩船寺を目指す。 当尾小学校の在る辺りが辻の里で、この小さな 禅寺はその集落の中で、県道に面している割りに は静かな佇まいでひっそりと建っている。 質素な境内の端に、やや小振りながら秀麗な五 輪塔が建っていた。 古式のようにふっくらとした曲線の空輪、形の 良いお椀型の風輪が、両端がやや強く反り上がっ た火輪(笠)の上に載っている。 火輪の屋根の傾斜がやや急で、先端が反り上が っている。また軒口は、さして厚くない上品さを 示しており、軽い曲線を描きながら両端で強く反 り上がっている。鎌倉期とそれ以降の要素が入り 乱れていて、素人が年代を鑑定するには少し難し 過ぎるかもしれない。 水輪は、やや扁平な球形で、上部が膨らんだ肩 張り壺型をしている。 地輪には銘文など全く彫られてはおらず、やや 背の高いことが特徴だろう。これは後述のものも 含めた、木津川の五輪塔に共通する様式と言えそ うである。 台座には、大和様式と呼ばれる複弁反花座が設 けられており、隣接する大和の影響をここでも実 感出来た。 鎌倉後期の比較的前半、と勝手に決めた。 |
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辻墓地十三重塔 |
京都府木津川市加茂町辻 |
宝珠寺の在る辻の集落から、県道を離れて細い 山道を西南へ歩くと、千日墓地と呼ばれる惣墓に 出る。辻・尻枝・高去など四地区の共同墓地であ る。墓地入口に建つ石の鳥居が珍しく、また古い 墓地らしく室町期の石仏や板碑などが密集してい る。 基礎に銘文が彫られており、鎌倉後期を示す永 仁六年 (1298) という年号が確認出来るとのこと だが、小生には判読不明であった。 塔身には、舟形に刳り貫いた中に、蓮座に載る 顕教四仏坐像が半肉彫されている。写真は南面の 弥勒菩薩坐像である。石仏の里「当尾」らしい、 落ち着いた彫刻である。 各層の屋根は、上へ行くほど厚さも幅も逓減し ていくのだが、全体像からは鎌倉期らしい豪放さ が感じられる。次掲の岩船寺十三重塔と比較すれ ば、各層の軒の厚さの違いは歴然としている。後 期と言っても、永仁はその前半であり、鎌倉様式 が最も力強かった時代の名残の遺構とも言えそう である。 各層の屋根裏には、一重の垂木型が作り出され ており、精度の高い石塔であることを物語ってい る。 相輪は、先端の宝珠だけが後補で、それに続く 龍車・水煙・九輪・請花・伏鉢が揃っている。 |
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岩船寺十三重塔 |
京都府木津川市加茂町岩船 |
山深く緑濃い岩船寺境内で、朱塗りの木造三重 塔と共に、ひときわその存在感を示しているのが この石造十三重塔である。 屋根の反りは微妙であり、その巾の逓減率が少 ないことが鎌倉末期あたりを示唆しているのでは ないかと思う。時代が下るほど、上層と下層の巾 の差が少なくなってくるのである。 初重軸部には月輪の中に梵字で金剛界四方仏種 子が刻まれており、5m強の高さながら秀麗な姿 となっている。 相輪には宝珠、竜車、水烟、九輪、請花、伏鉢 が全て完備しており、やや華奢ながら見事な造形 である。 訪ねたのは春四月で、境内には種々の花々が咲 き乱れる石造巡礼には格好の季節であった。 この寺は石造美術の宝庫で、この他にも鎌倉時 代後期の五輪塔や、不動明王の浅浮彫を祀った石 仏龕などを観ることが出来る。 浄瑠璃寺へと続く道に残る当尾石仏群も、この 地を訪ねる楽しみの一つとなっている。 |
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西小惣墓五輪塔 |
京都府木津川市加茂町西小 |
小生が学生時代に仏像巡りをしていた頃には、 浄瑠璃寺へ行く路線バスは無かった。加茂から奈 良行きに乗り、「九体寺口」から2キロ半ほど歩 くしか手段が無かったのである。 今にして思えば、途中で休憩して汗を拭いたの がこの西小(にしお)の墓の前だったのである。 ちなみに西小は、かつて“西小田原”と呼ばれ た地名が簡略化したものだそうだ。 この共同墓地の入口に、門柱の如く二基の五輪 塔が建っている。 写真は、手前が南塔、奥が北塔である。どちら も形の良い塔で、国の重要文化財に指定された只 者ではない石塔なのである。 特に南塔は、なだらかにふっくりとした空輪宝 珠が美しく、火輪笠の厚い軒が両端で力強く反っ ている。また、水輪は微かに扁平ながら、見事な 球形を示している。 特徴的なのが地輪基礎下の台座で、複弁反花座 の下側面には三区に仕切ってそれぞれに格狭間が 意匠されている。まことに壮麗極まりない台座で あり、余程高貴な人の供養塔だったのではないか などという想像が膨らんできていた。 北塔は、扁平な空輪、壺型の水輪など、南塔と 比べるとやや見劣りがするが、この様な路傍の墓 地に重文の石塔が露座に建っているとは、さすが に石造美術の宝庫当尾ならではの事だろう。 |
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東小惣墓五輪塔 |
京都府木津川市加茂町東小 |
浄瑠璃寺から岩船寺へと向かい、藪の中地蔵の ところから左手の細道へと曲がると直ぐに会所が 在り、そこには鎌倉中期の阿弥陀坐像石仏が祀ら れている。 見事な石仏を拝しながら奥へ進むと、石段を登 った小高い場所に旧東小田原の共同墓地が静かな 佇まいを見せている。 この五輪塔は、石段を登った墓地入口直ぐの左 手に建っている。 雰囲気的には、前述の西小惣墓北塔に似ている ような気がする。 大和様式の複弁反花座を彫った台座は、この地 域にあっては見慣れてしまって当たり前に見えて しまうが、全国的に見れば何とも豪華壮麗な意匠 だと言わざるを得ないだろう。 台座に載る地輪は無地で、年号等も一切刻まれ ていない。特定の人の為としてではなく、惣墓全 体の中心的な供養塔という性格が強かったのだろ うか。 水輪は、微かに肩の張った壺形で、いくらか扁 平に見える。 火輪(笠)は、軒に両端が反り上がった力強さ が見られ、鎌倉後期らしい風貌をしている。 一石から成る空風輪だが、肩の張った扁平な宝 珠には南北朝以降の雰囲気が感じられるのだが、 全体的には鎌倉後期と言えそうである。 |
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海住山寺五輪塔 |
京都府木津川市加茂町例幣 |
朱塗りの国宝五重塔で知られる名刹だが、仏像 巡りの同好の間では当山の本尊十一面観音像と檀 像十一面観音両像は、未公開の秘仏として学生時 代以来長い間幻の存在だった。 数年前の特別拝観でようやく念願が果たせたの だが、その際に当山の石造美術も拝見することが 出来たのだった。 周辺の山々を借景に取り込んだ本坊庭園の端の ほうに、この五輪塔が置かれている。 堂々とした鎌倉風の五輪塔の思いがけない出現 にびっくりしたのだが、詳細を眺めている内に風 は消え、はっきりと鎌倉期を確認するに至ったの だった。 空輪と風輪はとても良い形をしている。空輪の 宝珠形は、時代が下がるほど肩の張ったリンゴ形 になってしまう。ふっくらとしたなだらかな肩の 線が鎌倉を象徴するとも言えるのだが、専門家は 蓮の蕾に似て、と表現する。この空輪はやや近い かもしれない。 火輪の笠は厚い軒を持ち、両端で強く反り上が っている。これは正に、鎌倉後期らしい力強さで ある。 やや下部が細った壺形の水輪も、ふっくらとし た球形の張りが感じられ、生き生きとした造形が 成されている。 地輪が載る台座に、ここでも複弁反花座が設け られており、この地が大和文化様式圏内であるこ とを物語っている。 |
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笠置寺五輪塔 |
京都府笠置町笠置山 |
笠置山は京都府下の南山城に属し、奇岩怪石の 霊場として知られている。山腹に建つ笠置寺は、 天武天皇を開基とする奈良朝に所縁の古い寺で、 境内の大きな岩に彫られた磨崖虚空蔵石仏や弥勒 石を訪ねた方は多いかもしれない。 寺の本堂へ向かう途中から右手の山道に入り、 谷を隔てた小道をかなり歩いた所に古い墓地があ る。そこにこの見事な五輪塔が八角形の基壇の中 央に建っており、笠置寺中興の祖である解脱上人 貞慶の廟塔とされている。 上人は平安末期以来の末法思想からの人々の救 済のために、笠置寺を道場として弥勒仏の信仰を 広げた高僧であった。 空輪と風輪は、平安末期から鎌倉初期にかけて のゆったりとした雰囲気を持っている。火輪の笠 は屋根の勾配が緩やかで、軒両端の反りはいかに も鎌倉初期らしい形だろう。 水輪の少しだけ押しつぶされたような球体は、 全体を少し遠目から眺めた時、石塔のプロポーシ ョンとしてとても均整のとれた絶妙の大きさであ ることに気が付く。 薬研彫りで見事に彫られた梵字は、四方ともに 五輪塔種子である「キャ・カ・ラ・バ・ア」であ る。大胆に彫られた梵字はまことに雄渾な筆致で あり、大好きな五輪塔の一つとしてどうしても取 り上げたいと念じていた次第だ。 |
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笠置寺十三重塔 |
京都府笠置町笠置山 |
巨岩に線彫された虚空蔵磨崖像は著名だが、弥 勒石・文殊石など多くの磨崖仏が残されている。 楠木正成等の南軍と足利氏などの幕府軍が戦った 笠置山の戦(元弘の乱)の際に破壊された弥勒石 は、現在舟形光背しか残っていない。 弥勒石の反対側の高みに、写真の十三重塔が建 っている。 初重軸部の四方には二重円光背が彫られ、その 中に顕教四仏(釈迦・弥陀・弥勒・薬師)の坐像 が半肉彫されている。写真は、左が薬師、右が弥 勒と思われる。 各層の笠は軒が厚く、両端が緩く反っている。 屋根の幅は、下から上へと逓減する割合は然程大 きくはない。鎌倉末期から南北朝に至る時期が示 す、均整のとれた優美な逓減率だろうと思う。 上へ行くほど幅の狭まる美しい屋根の連なりの 中で、上から二層目の屋根だけが飛び出している ので、いつの日かに入れ替わったのではないだろ うか。 相輪は、先端の宝珠と龍車は失われているが、 水煙から下は揃っている。 振り返って見ると、全体的には誠に秀麗な層塔 で、重なり合うような巨石群を背景にして、景観 の中心的存在となっている。 |
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