石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
     (7) 大和(北部)の石塔巡拝 
                  
                
 古代から中世に至る仏教美術の中心と
して、大和は建築・仏像などの分野にお
いて先導的な位置を占めていた。
 石造美術においても、大和には古いだ
けではなく、美術的にも優れ洗練された
意匠の遺構が多い。

 平安、鎌倉、南北朝という中世に制作
された石造美術を中心に、大和路をのん
びりと歩いてみたい。

 ここでは、奈良市以南、王寺町~河合
町~三宅町~天理市以北を、塔サイトの
便宜上大和(北部)とした。



            伝鑑真和上宝篋印塔
         (時代は鎌倉後期の造立)
             唐招提寺開山廟所
             (奈良市西の京)
 
                      

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     東大寺法華堂十三重塔 (奈良市雑司町)
                    
                    
   東大寺大仏殿の東側に、不空羂索観音像や
  日光・月光像で知られる法華堂(三月堂)が
  建っている。
   法華堂の南側、手向山八幡宮の手前に、正
  倉院と同じ校倉造りの経蔵が建っている。
   目的の十三重塔は経蔵の南側に隣接し、石
  造の囲いの中の切石を積んだ基壇の上に堂々
  と建っていた。
   「御髪塔」と記した石標が建っており、大
  仏殿再建に用いられた黒髪の綱を埋めたとい
  う伝説が残っているらしい。

   現在は十二重だが、明らかに従来は十三重
  塔であったと考えられる。
   基礎は埋まっているのだろうか、とても背
  が低い。
   塔身(初重軸部)は四面共無地である。
   各層は、上方へと向かう屋根幅の低減が少
  なく、軒口はとても厚く、両端の反りは微妙
  である。
   どっしりとした重量感に満ちており、華奢
  な南北朝期へ移る前の鎌倉後期の作だろうと
  思う。
   相輪は、九輪の半分から上が喪失している
  のが惜しまれる。
   奈良では意外に知られていない古塔のひと
  つだろう。  
                                                  

      
       
     東大寺真言院五輪塔 (奈良市雑司町)
      
     
   東大寺の南大門を入り中門へと至る参道の左
  側(西側)に建つ土塀に囲まれたこの寺院は、
  弘仁十三年 (821) に空海が開設した道場を起
  源とする東大寺の塔頭である。

   山門を入った右手の土塀沿いに、数多くの石
  造物が並べられている。
   ひときわ異彩を放っているこの五輪塔は高さ
  が
158cmあり、堂々とした風貌から一目で鎌倉
  期の石塔であることが想像出来る。
   形の良い空・風輪が古調を示しているが、や
  や屋根の傾斜が強い火輪と、軒の両端がきつく
  反り返っている部分は、鎌倉末期から南北朝の
  特徴を示しているようにも見える。
   火輪と地輪の一部に破損した箇所が見られる
  が、全体のシルエットを大きく損ねるというも
  のではない。
   五輪塔の四方門を表わす梵字は彫られておら
  ず、地輪の正面に延慶二年 (1309) 鎌倉後期の
  年号と、東大寺戒壇院の僧の供養塔である旨を
  記した刻銘が見られる。
   最大の特徴は、五輪塔の載る基礎で、高さが
  
20cmある反花座が設けられていることだろう。

   この写真には写っていないが、地蔵石仏と並
  んだもう一基の美しい五輪塔が在ったが、これ
  は永禄七年 (1564) 室町末期のもので、鎌倉期
  の古典を模した作かと思われた。
                  

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     奈良国立博物館宝篋印塔 (奈良市登大路町)
                    
                    
   奈良公園の西に国立博物館が建っている。博
  物館本館と新館(仏像館)の間に小さな池があ
  り、中島に写真の宝篋印塔が建っている。
   橋が無いために遠望するしかないが、どうや
  ら古式の立派な宝篋印塔であるらしい。
   市内の個人蔵になるものだが、博物館に寄託
  展示されているそうだ。

   基礎は無地だが、上に二段を設け上段に複弁
  反花座を彫っている。
   塔身四方には、金剛界四仏の種子(梵字)を
  薬研彫りしてある。何とも豪放で雄渾な筆致で
  あり、鎌倉中期から後期へかけた頃の制作だろ
  うと推察した。
   写真は、右が北面アク(不空成就)、左が東
  面ウーン(阿しゅく)で、時計回りに南面タラ
  ーク(宝生)、西面キリーク(弥陀)と続く。
   笠は上六段下二段で、隅飾は無地三弧でほぼ
  直立している。写真右隅(西北角)の隅飾が欠
  落している。上六段と隅飾が一石で彫られてい
  るのが特徴だろう。堂々たる笠で、いかにも古
  式の風格を備えている。
   相輪は、下部の伏鉢と上部の宝珠・竜車が欠
  落しており、水煙・九輪・請花が残存する。全
  体にやや異質な感があり、別物の可能性は捨て
  きれないが、いずれにせよ魅力的な宝篋印塔で
  ある。
                                       

        
                                         
     伴墓三角五輪塔 (奈良市川上町)
      
      
   三笠山山麓にはかつて東大寺の末寺が在ったが、
  現在は三笠霊園となっており、その一画が東大寺
  墓所となって伴(とも)墓と呼ばれている。
   急な斜面を登った場所で、般若寺方面に眺望が
  開けている。

   片隅にひっそりと建つこの五輪塔は、よく見る
  と通常のものとは違う事が判る。それは火輪(笠)
  が通常の四角錐ではなく三角錐であること、また
  笠の下端に軒の厚さが無いことである。
   しかし、変則的な形式にもかかわらず、全体の
  フォルムがまことに美しい。
   空輪が扁平であり、笠の屋根の線が外へ膨らん
  でおり、水輪がやや下膨れであることなどが、大
  層古い形式で、鎌倉初期まで想定出来そうである。

   この五輪塔は、元は東大寺の境内に建っていた
  のだが、江戸時代にここへ移されたらしい。俊乗
  房重源との関係が考えられるが、現在五輪塔の横
  に「俊乗房重源之墓」と記した石碑の信憑性は不
  明である。
   この三角五輪塔を真似た後世の五輪塔が、同じ
  墓所内に数基建っていた。
         

    
   
     般若寺十三重塔 (奈良市般若寺町)
     
     
   東大寺大仏殿の望める奈良坂にある奈良期の
  古刹だが、境内は荒廃し往時の姿は失われてい
  る。西大寺叡尊による再興時の楼門や文殊菩薩
  像が残るのみであり、また同時代の石造の本塔
  と笠塔婆二基が境内に建っている。

   屋根の軒反りが堂々として力強く、逓減率が
  大きいので、最下層から上部へと向かって立ち
  上って行くような勢いが感じられる。

   近年の解体修理の際に、建長三年 (1253) 造
  立を示す墨書が発見されたそうだ。当代の大工
  伊行末の作品であることも判明したという。
   初重軸部には、美しい四方仏が線彫で表され
  ている。
   下から二重目の笠が厚めで、不自然だなあと
  思ったら、やはりこれだけが後年の補修である
  そうだ。
   相輪は明らかにレプリカであり、本物は基壇
  脇に保管されている。

   この石塔の前に立てば、一級品のみが放つ独
  特のオーラを感じる。正に石造巡礼の至福の時
  であろう。
   散り終わりかけた桜の花と、それに換わる満
  開の山吹が境内を鮮やかに飾っていた。
               

    
   
     般若寺笠塔婆 (奈良市般若寺町)
    
   
   この笠の付いた石塔婆は、かつては般若野と呼ば
  れた埋葬所に立っていたが、明治時代に般若寺境内
  に整備されたという。

   この塔婆が並立している姿は境内に異彩を放ち、
  何とも美しいのだが、それはきっと、鎌倉期らしい
  笠の軒反りや宝珠の形などと共に、塔身に彫られた
  梵字の見事さに起因しているらしい。
   石工の始祖伊行末の子伊行吉が、両親の菩提の為
  に建立したとされる高さ5mの見事な塔婆である。

   右の塔上部の梵字は釈迦三尊と胎蔵界五仏を、そ
  して左は阿弥陀三尊と金剛界五仏をそれぞれ種子で
  象徴しているのである。大日・阿しゅく・宝生・阿
  弥陀・不空成就の金剛界五仏はなんとかなるが、胎
  蔵界については、大日以外何かの本を見ないと思い
  付かない。
   知らないことを書いても仕方ないから書かない事
  にするが、「アーク・ア・アー・アン・アク」と読
  むことは出来そうだ。
   “何かの本”によれば、アーク(大日)、ア(宝
  幢)、アー(開敷華王)、アン(無量寿)、そして
  アク(天鼓雷音)と各如来を象徴しているそうだ。

   いずれにせよ、刷毛書の梵字の美しさには、見惚
  れてしまう程の魅力が感じられる。
           

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     称名寺五輪塔 (奈良市菖蒲池町)
                    
                    
   近鉄奈良駅のすぐ北側、住宅地の中に建つ西
  山浄土宗のお寺である。
   茶道に禅の精神を取り入れたとされる、侘茶
  の始祖村田珠光が住持した寺として知られる。
   茶道を少々学んだ経験があり、敬意を表する
  意味でお参りをさせていただいた。

   目的の五輪塔は境内奥の墓地の中程に建って
  いた。どうやら古い墓地の供養塔、惣墓であっ
  たようだ。
   姿の美しい五輪塔で、花崗岩製、高さが2m
  弱と言う大型の塔である。
   基盤の上に反花座を設けた典型的大和様式で
  ある。
   基礎(地輪)は全くの無地で、梵字はおろか
  銘文すら刻まれていない。
   塔身(水輪)はやや扁平だが、均整の取れた
  美しい球形をしている。
   笠(火輪)は、やや急な屋根の勾配、軒口の
  緩い曲線と両端の強い反り上がり、などが特徴
  だろう。
   請花(風輪)と宝珠(空輪)は理想的な形で
  あり、全体的に均衡の取れた落ち着きのある風
  情が感じられる秀麗な五輪塔である。
   鎌倉後期の作、だろうと思う。
   境内には多くの石仏が見られ、室町期かと思
  われる傑作も少なくない。  
                                                  

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     不退寺角塔婆 (奈良市法蓮町)
                    
                    
   在原業平の開基になるという真言律宗の古
  刹で、佐保路の中程、JR関西本線の踏切間
  際に参道が有り、少し歩くと突き当りに山門
  が見えてくる。

   写真は石造美術愛好家にはよく知られた角
  塔婆で、元は参道の路傍に建っていた。現在
  は、境内の一画に移されている。

   頭部が丸味の強い方錘形という珍しい塔婆
  で、各四面に写真の様な梵字が洗練された薬
  研彫りで刻まれている。
   各面梵字の上部五文字は五輪塔四門の梵字
  で、東は発心門、南は修行門、西は菩提門、
  北に涅槃門の梵字が配置されている。
   六文字目は、金剛界四仏の種子で、阿しゅ
  く(東)、宝生(南)、阿弥陀(西)、不空
  成就(北)が組み合わされている。
   写真は南面で、修行門の梵字キャー・カー
  ・ラー・バー・アーと、その下に宝生(南)
  の種子タラークが確認出来る。
   更に下の小さい梵字は光明真言であり、他
  面には別の真言や十三仏の梵字などが彫られ
  ている。
   梵字の筆致には鎌倉期の豪放さは無く、美
  しいが小綺麗なまとまり方の梵字で、南北朝
  から室町あたりの作と考えられる。
                                                  

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     不退寺五輪塔 (奈良市法蓮町)
                    
                    
   境内から出て線路沿いに北へ歩くと、不退
  寺の背後に出るが、そこに古い墓地がある。
  法蓮・佐保田地区の共同墓地だそうだ。

   墓地の北側に、不退寺を開基した在原業平
  の墓、と伝わる五輪塔が建っている。

   花崗岩製で、背が2m強はある大型の塔で
  ある。全体的に整然とまとまった秀塔だが、
  ここでも梵字や銘文の一切見られない無地の
  塔である。

   ふっくらとした空輪、形の良い風輪、厚く
  両端の反り上がった火輪、微妙に肩が張った
  ほぼ扁平な球形の水輪、そして程良い方形の
  地輪など、全体のきりっとした立ち姿はとて
  も美しい。

   五輪塔全体は、切石を組んだ基盤の上に彫
  られた大和式複弁の反花座に載っている。
   五輪それぞれの特徴を勘案し、特に大らか
  な火輪の軒口の両端が急に反り上がっている
  点などからも、鎌倉後期の制作と想定するの
  が自然だろうと思う。

   大和には、鎌倉から南北朝にかけて制作さ
  れた数多くの五輪塔が存在するが、大和様式
  という装飾もあって、いずれも優雅な特色を
  持った傑作揃いである。 
                                                  

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     十念寺五輪塔 (奈良市南風呂町)
                    
                    
   「なら町」界隈の一画に寺町があり、そのひ
  とつが小規模な寺院ながら立派な山門を持つこ
  の十念寺である。
   花園天皇勅願所と記した石碑が建っており、
  西大寺の叡尊の弟子忍性が創建したと伝わる浄
  土宗の寺院である。
   顔を白く塗って彩色した「おしろい地蔵」で
  も知られたお寺である。

   境内右奥の墓地に、写真の大きな五輪塔が建
  っている。花崗岩製で、高さは2m弱というと
  ころだろう。
   各輪に若干の損傷が見られるものの、制作当
  初からのものが揃っていると思われる。

   大和式の複弁式反花座を設け、その上に五輪
  塔が載っている。
   地輪(基礎)はやや背が高く、大き目の方形
  である。四方とも無地なのだが、写真の正面の
  みに「忍性」の文字が刻まれている。この塔と
  忍性の関係は不明で、後刻の可能性は捨てきれ
  ないだろう。
   水輪はやや下ぶくれだが、どっしりと力強い
  感じがする。
   火輪(笠)は軒口厚く、両端が反り上がって
  おり、鎌倉後期の特徴を発揮している。
   風輪・空輪も良く残った、大和らしい五輪塔
  だと言えるだろう。
                                                  

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     小塔院跡宝篋印塔 (奈良市西新屋町)
                    
                    
   世界遺産の元興寺極楽坊の南、「なら町」の
  一画にかつては元興寺の伽藍の一部であった小
  塔院の跡地が残されている。国宝の五重小塔は
  従来はここに在ったそうで、寺名の由来ともな
  っている。
   虚空蔵堂という小堂のみが建つ境内は荒れ果
  てており、多くの石仏や石塔、板碑などが散在
  している。
   そんな中、境内の一番奥に、目が覚める程に
  秀麗な宝篋印塔が隠れるように建っていた。

   花崗岩製で高さは2m弱。相輪上部が欠落し
  ているのが惜しまれる。
   笠は上六段下二段で、隅飾は輪郭を巻いた二
  弧で内部は無地、先端が微妙に外傾しているが
  ほぼ垂直と言っても良いだろう。
   塔身には輪郭の中に月輪を彫り、その中に金
  剛界四仏の梵字が彫られている。その雄渾な深
  い彫りは魅力的で、鎌倉期の卓越した美意識が
  反映されていると思われた。写真は南面のタラ
  ークで、宝生如来を象徴している。
   基礎の上部には二段が意匠されており、基壇
  は大和式の複弁反花座がもうけられている。

   全体から受ける印象は、力強さと端正な繊細
  さであり、制作年代は鎌倉後期に絞られてきそ
  うである。
                                                  

   
   
     西大寺奥の院五輪塔 (奈良市西大寺町)
    
      
   現在の西大寺の寺域からは西北に約1Km離れ
  た場所に、石塔院または奥の院と呼ばれる一画
  が在る。そこが西大寺中興の祖である興正菩薩
  叡尊の霊廟であり、写真の壮麗な五輪塔が祭ら
  れていた。

   高さ3m以上の雄大な塔で、切石を組んだ二
  段の基壇を築き、さらに繰形座を設けてその上
  に五輪塔が据えられている。威風堂々たる格式
  と、雄渾な造形性に圧倒され、思わずは目を見
  張らされてしまった。
   やや裾広がりな台形状の地輪の上に、どっし
  りと扁平な球体の水輪が載っており、質実な安
  定感を感じさせる。
   火輪の軒は厚く、その両端が微塵の躊躇も無
  く強く反っている。
   鎌倉時代後期の最も完成された様式の典型、
  とも言えるような見事な五輪塔だ。余りに隙が
  無さ過ぎて、やや愛嬌に欠けるとすら思えてし
  まうほどの絶品だと思う。

   旅の途上で、こうした歴史的名作に出会える
  ことは無類の楽しみであり、更なる未知の美し
  い作品に対する好奇心を一層刺激されてしまう
  ことになるのである。
  
             

     
       
     西方院五輪塔 (奈良市五条町)
      
     
   西ノ京、唐招提寺と近鉄の線路を挟んだ西
  側にある寺院で、唐招提寺の塔頭であり「奥
  の院」と呼ばれている。
   鎌倉寛元年間に創建された律宗の寺で、快
  慶の阿弥陀如来立像で知られている。

   この五輪塔には銘が無く、従来から唐招提
  寺中興の祖であった覚盛の墓塔とされてきた
  のだったが、近年の解体の際に舎利筒が発見
  され、銘文から中興二世証玄の墓塔であるこ
  とが判明したのだそうだ。
   証玄和尚は正応五年 (1292) 鎌倉後期に入
  滅しているので、五輪塔の造立はその直後と
  考えるのが自然だろう。

   正応期は鎌倉後期の最初の年号であり、形
  の良い空・風輪や、火輪の屋根の緩やかな傾
  斜、軒の上品な反り具合などからも、限りな
  く中期に近い様式を見ることが出来る。
   五輪塔の載る反花座は複弁式だが、蓮弁の
  奥に小さな弁を持つ“子持ち複弁”であるこ
  とが特色だろう。

   見事に均整の取れた大和様式の傑作、と言
  えるだろう。
                  

     
       
     正暦寺宝篋印塔 (奈良市菩提山)
     
     
   奈良市内とは思えぬほど奥まっており、渓流
  沿いの参道には苔むした石垣がかつて隆盛した
  寺坊を偲ばせている。
   境内はさながら石造美術の展覧会場のようで、
  南大門から本堂へ至るそこここに、石仏・板碑
  ・層塔・笠塔婆・五輪塔などが見られた。年代
  も鎌倉から江戸までと豊富である。

   中で最も注目したのが、写真に在る三基の宝
  篋印塔だった。一基は向こう側に隠れている。
   笠の段に比して隅飾が小さいのが特徴で、さ
  らに、二重輪郭線に月輪内の金剛界四仏種子の
  塔身、二区画の格狭間、複弁の反花座などが目
  に付く。

   中央の大きな塔は相輪を欠くが、全体に荘厳
  のための美しい装飾が成されており、装飾過剰
  な後世の塔に比べるとまことに優雅な雰囲気を
  醸し出している。洗練された意匠からは、鎌倉
  後期を予測させられたが、清水俊明先生の著書
  には鎌倉中期と記されている。後述の輿山往生
  院の作例がちらついて、どうしても同時代の作
  品とは思えないのは、所詮素人の浅知恵という
  ことだろう。
   手前の塔には、笠下と基礎上に連弁が彫られ
  ている。これは類例があるが、基礎下にも彫ら
  れているのは珍しい。
          

        
       
     正暦寺十三重塔 (奈良市菩提山)
     
     
     前述の宝篋印塔が立つ小高い場所の崖面に
  は、夥しい数の石仏や石塔が集められていて
  壮観である。
   その最下段の両端に、写真のように二基の
  石造十三重塔が建っている。

   いずれも3メートル前後の壮麗な塔だが、
  残念ながら相輪部分が失われている。
   基礎は薄いが下部に連弁座を設けてある。
   笠の幅がやや異なるものの、逓減率からみ
  ても鎌倉後期が想定されるのだが、奥の塔の
  ほうがやや古そうに見える。

   奥の塔(東塔)の塔身には、二重円光背が
  彫り込まれ、その中に蓮華に座す顕教四仏と
  思われる薬師・釈迦・阿弥陀・弥勒の各像が
  半肉彫されている。
   手前の塔(西塔)の塔身には、金剛界四仏
  の阿閦・宝生・阿弥陀・不空成就を象徴する
  梵字が月輪の中に薬研彫りされている。

   いずれの塔にも銘文は見られず、制作年代
  は推定の域を出ない。しかし、石塔好きを魅
  了する古塔のみが示すオーラが十分に感じら
  れて嬉しかった。
   本堂での秘仏白鳳仏御開帳という幸運にも
  恵まれ、正暦寺参拝は最良の日となった。
                         

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     大慈山五輪塔 (奈良市大慈仙町)
                    
                    
   奈良から月ヶ瀬街道を柳生方面へ向かうと、
  次掲の忍辱山円成寺の手前に大慈仙という集落
  が在る。
   集落の南端、町外れの山裾に、真如霊苑とい
  う仰々しい名の地元の共同墓地が設けられてい
  る。その規模の余りの壮大さに驚かされるが、
  似た名前の新興宗教とは無関係である。

   入口には無数の地蔵像が並び、内部には想像
  を絶する程の数の石仏・石塔が林立している。

   墓地から少し離れた高台の林の中に、写真の
  五輪塔が一基、ポツンと祀られている。おそら
  くは当墓地の惣墓だったのだろう。

   空輪と風輪は形良く、ほぼ理想的とも言えそ
  うである。
   火輪(笠)の屋根の傾斜がやや急で、軒口は
  厚めで反りは薄くほぼ直線的、両端が極端に反
  り上がっている。
   水輪の球形は裾が少し細まった壺形で、重心
  が高めなので些か落ち着かない。
   地輪は無地で、均整の取れた大きさになって
  いる。大和様式の複弁反花座に載った景色も美
  しい。

   大和一連の鎌倉後期作品のひとつだろう。
                                                  

   
   
     忍辱山墓地五輪塔 (奈良市忍辱山町)
    
     
   忍辱山円成寺に詣で運慶の傑作を拝した後、私
  たちは山門を出てから、反対側の山へ続く細い道
  を登って行った。この地区の老人達が楽しむゲー
  トボール用のグランドの脇を抜けると、そこが昔
  からの共同墓地になっている。一人の老婆が、五
  輪塔の所在と行き方を教えてくれた。
   この墓地は大層古いようで、中世の石仏や石塔
  が至る所に散在しており、まるで石造博物館を逍
  遥する気分である。

   五輪塔は松林に囲まれた一番高い位置に建って
  おり、墓地全体を供養するための塔としての役割
  があったものと思われる。
   火輪の軒の厚さや反り具合は典型的な鎌倉後期
  の様式を示しているのだが、水輪の球形にやや不
  安定な感じがするのは、下へ向かってややすぼん
  でいるからだろうか。
   地輪の部分に元亨元年(1321)とあり、鎌倉末期
  を証明している。
   基礎に複弁反花座が設けられているのは、いか
  にも大和様式を象徴しているように感じられる。

   麓へ戻る私と家人に、ゲートボールに興じてい
  た老人達が手を振っていた。
   
         

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     南明寺十三重塔 (奈良市阪原町)
                    
                    
   藤原時代の仏像、絶品の三如来像(薬師・阿
  弥陀・釈迦)を拝しに訪ねた際に発見した、全
  くノーマークの石塔であった。近くに建ってい
  る宝篋印塔も鎌倉期らしい遺構だった。仏像愛
  好家には良く知られたお寺である。

   仏像を安置した本堂の前に建っている写真の
  十三重塔は花崗岩製で、高さは3m半といった
  ところだろう。

   基礎は無地で、塔身(初重軸部)の四面には
  金剛界四仏の種子(梵字)が月輪の中に薬研彫
  りされている。写真には東面のウーン(阿しゅ
  く)が写っている。
   他の面には、南面タラーク(宝生)、西面キ
  リーク(弥陀)、北面アク(不空成就)を見る
  ことが出来る。梵字の筆致はやや弱々しく、鎌
  倉期の雄渾さは見られない。

   各層の屋根幅の低減率はそれ程大きくはない
  が、上へ向かうほどに心地良い低減の仕方をし
  ているように感じられた。
   各層の軒口は厚く、ほぼ水平で大きな反りは
  見られない。両端に若干の反り上がりが見られ
  るだけである。
   相輪は九輪の中程から上が欠落している。
   制作年代は諸説ありだが、梵字の筆致や屋根
  の力無さから南北朝あたりと考える。      
                                                  

       
       
     神宮寺宝篋印塔 (奈良市須川町上須川)
     
     
     奈良市内から柳生の里へと向かう途中にあ
  る山里である。集落の南側、やや小高い場所
  に建っている寺院である。周辺は何とも牧歌
  的な風景に囲まれた別天地だった。

   瀟洒な山門を入ると、本堂の前に写真の宝
  篋印塔がどっしりと建っている。
   切り石を組んだ堅固な台座の上に置かれて
  いることに、先ずは驚かされる。

   直ぐに気が付くが、最大の特徴は笠の上部
  が宝形造りの傾斜屋根型になっていることだ
  ろう。類例は後述の薬師寺(吉野)などに見
  られるが、とても珍しい意匠には違いない。
   相倫はその大半を失っており、笠は上三段
  下二段、隅飾は側面無地で二弧で直立してい
  る。傾斜屋根は余り好きではないが、笠全体
  が醸し出す古風な荘厳さには脱帽である。
   
   塔身には輪郭が巻かれており、その中に金
  剛界四仏の種子(梵字)が薬研彫りされてい
  る。写真は、右がアク(不空成就)、左がウ
  ン(阿閦)で、向こう側には時計回りでタラ
  ーク(宝生)、キリーク(阿弥陀)が彫られ
  ている。書体は雄渾であり、推定される制作
  年代(鎌倉中期)に相応しいものだろう。
                         

       
       
     塔の森層塔 (奈良市長谷町)
     
     
     奈良市内とはとても思えない山間部で、前述
  の正暦寺とは山を隔てた反対側になるのだが直
  接山を越える道は無く、市の中心へ戻って名張
  街道を行くことにした。
   長谷の集落から林道に入り、車の走行可能な
  限りもうこれ以上は無理という所まで行き、駐
  車をして歩き始める。途中に日吉神社があった
  が、ここまでは車で入れたかも知れない。
   約1キロの急坂を歩き、最後の見上げるよう
  な石段を登ると、写真の古色蒼然とした石塔が
  目の前に出現した。

   桁違いに古そうであること、六角の六重塔で
  あること、塔の脇に笠や基礎の残欠が置かれて
  いることなどが先ず目に入った。
   屋根の残決などから、元は六角十三重塔であ
  ったことが推定される。
   詳細に眺めてみると、屋根には降棟を彫り出
  し、軒裏や隅木も作ってある。緩やかな反りな
  どからも、たおやかな美意識が伝わってくるよ
  うな気がした。
   なんとも優雅な造形であり、奈良時代後期か
  ら平安期にかけての遺構とされている。

   六角の十三重塔が現在の倍近い高さで建つと
  いう姿を想像して、思わず背筋に電流が流れる
  ような衝動を感じていたのだった。   
                         

       
       
     安穏寺五輪塔 (奈良市上荻町)
     
     
     旧山辺郡都祁(つげ)村は現在奈良市に編
  入されているが、重要な石造美術が密集分布
  する重要な一帯である。
   旧都祁村上荻に在る安穏寺は、現在は荒れ
  果てたようになっているが、裏の斜面に設け
  られた墓地の一画に写真の五輪塔二基が建っ
  ていた。

   奥の小五輪塔は、宝珠から基礎まで完存し
  ているが、さしたる特徴の無い平凡な五輪塔
  としか言い様がない。銘も梵字も無く、扁平
  な宝珠と笠両端の反りが、南北朝末期か室町
  初期を示しているように感じられた。

   手前の五輪塔は、奥の五輪塔を大きくした
  ようなイメージだが、詳細に眺めると若干の
  違いが見えてくる。
   ややふっくらとした宝珠、分厚い笠の軒と
  両端の反り具合、扁平気味ながらふっくらと
  した塔身、そして基礎下の大和式反花座など
  から、鎌倉末期から南北朝といった推定が最
  初に思い浮かんだ。小生の思い入れが強いの
  で、時代はもう少し下がるかもしれない。
   
   全く平凡な田んぼを前景にした山裾の墓地
  に、さり気無く中世の石塔が誰にも注目され
  ずに建っている光景は、さすがに大和、贅沢
  な風景ではないか。
                         

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     寺垣内五輪塔 (奈良市中荻町)
                    
                    
   前述の旧都祁村上荻に隣接する地区で、谷あ
  いに美しい水田が広がる牧歌的な景観の美しい
  地区である。
   中荻の外れに高台があり、そこにこの地区の
  共同墓地が設けられている。
   写真の五輪塔は墓地の上方に建っており、こ
  の墓地の惣墓供養塔的な存在だったのだろう。
    
   形の良い宝珠はふっくらとした丸味が魅力的
  である。風輪とのバランスは悪くない。
   笠はやや立った感じで、屋根の線が直線的な
  部分が多く、裾だけが反り返っている。
   軒口は程良い厚さで、緩い曲線の両端が急に
  反り上がっている。このあたりは鎌倉末期拙の
  論拠になりそうである。
   水輪の球形はやや尻つぼみの壺形で、上荻安
  穏寺の塔ほど偏平ではないだろう。
   ここでも地輪は無地で、五輪全体に五輪塔四
  門の梵字を彫った塔の事例は、五輪塔の多い大
  和北部とはいえ、とても少ないようだ。生駒の
  長楽寺くらいしか思い当たらない。
   基盤には蓮弁反花座は見当たらない。未完成
  だったのか、そのスペースは準備されているよ
  うに見える。
   宝珠の形の良さと塔身のスマートさが鎌倉後
  期を、屋根の形の取り乱し方が南北朝を示して
  いるようで、鎌倉末期という結論を出したいと
  思う。   
                                                  

        
       
     観音寺五輪塔 (奈良市小倉)
     
     
     旧都祁村は宇陀市と天理市の間に在り、小
  倉の里はかなり奈良市に近い場所に位置した、
  農業中心ののどかな里だった。

   この里を訪ねたのは、桜花爛漫の春四月中
  旬のことだった。
   観音寺は山門から境内までが桜の花に覆わ
  れており、目指す五輪塔も写真の通り満開の
  花に囲まれて建っていた。

   四方に梵字も銘も無く、制作年代は不明だ
  が、前掲上荻安穏寺の五輪塔に似ており、こ
  こも鎌倉末期から南北朝というのが第一感だ
  った。
   切り石の土台に載る大和式の反花座が設け
  られた台座に厚みがあって素晴らしい。
   地輪はやや幅広の台形、扁平気味ながらふ
  っくらとした水輪、やや急な斜面の屋根と厚
  みのある軒、そして両端がやや急に反った水
  輪、つぶれたような格好の空風輪など、やは
  り南北朝初期を中心にした前後という時代設
  定が良さそうである。

   高さが
150cm ほどあるやや大きな五輪塔
  で、全体に苔むした風情が何とも言えず気に
  入ってしまった。我ながら、叙情派も悪くな
  い、と悦に入った次第。
                         

       
       
     小倉墓地五輪塔 (奈良市小倉)
     
     
     小倉の集落から西の山裾へと歩くと、六地蔵
  磨崖仏の彫られた崖地から細い山道が奥の墓地
  まで通じている。
   古い墓地らしく、この墓地の至る所に、板碑
  や石仏・石塔が立ち並んでいて壮観である。

   広大な墓地の高みに、取り残されたかのよう
  にして、写真の五輪塔と宝塔が建っていた。
   宝塔はどうやら室町以降のもののようだ。

   ここの五輪塔も都祁に共通した様式で、宝珠
  から基礎まで四方に梵字も銘文も彫られていな
  いが、完全な姿で残されている。
   大和式の反花座は見られないが、清楚で優美
  な姿には好感が持てる。

   特に宝珠(空輪)のおおらかな姿が美しく、
  また屋根(火輪)の両端の軒反りが急なのが目
  立っている。
   全体の印象は、都祁で見た安穏寺と観音寺の
  五輪塔に、とても良く似ているということであ
  る。おそらく制作年代はほぼ似ており、鎌倉末
  期から南北朝、といったところだろう。

   京都などで見られる共同埋葬墓地の惣墓のよ
  うな意味を持った五輪塔だった、のではないか
  と考えられる。
                         

      
       
     来迎寺宝塔 (奈良市来迎寺町)
      
     
   かつての都祁村は現在奈良市に併合されたが、
  まことに石造美術に溢れており、我々愛好家が旅
  する場所としては天国のような地域なのである。
   その中でも来迎寺は、本堂は荒廃しているもの
  の、その裏側一帯に、観応二年(1351)などと刻銘
  されたものを筆頭にして、約百基もの五輪塔が建
  ち並び壮観である。
   写真の宝塔はそのすぐ近くに建っており、基礎
  の正面に延慶三年(1310)の年号が刻まれている。
   塔身の軸部四方には、扉型が彫られている。柱
  や桟、唐戸などが彫られて、内部の多宝・釈迦如
  来の存在を暗示している。
   笠の軒反りは力強く、降棟(くだりむね)と呼
  ばれる屋根の流れ部分の輪郭線が四隅に刻まれて
  いる。相輪も造立当初のもので、完璧な保存状態
  であろう。大和地方では石造宝塔は希少価値であ
  り、特にこの時代の名品と言えるものは他に無い
  かもしれない。
   私達はこの後、都祁水分神社の本殿建築を観て
  からさらに、観音寺に石造十三重塔を訪ねた。南
  北朝期の傑作である。
   この地方は一部に茅葺も残る素晴らしい環境で、
  現在の状況以上の乱開発の魔手からは何としても
  守らねばならない。   
          

     
       
     観音寺十三重塔 (奈良市針)
      
     
   旧都祁村の針は天理市との境界に最も近い地
  区で、観音寺は名阪国道の針インターからは至
  近である。
   創建は8世紀と伝えられる古寺だが、現在は
  旧道に面した山門を入ると江戸期の小さな本堂
  とその左側に墓地が設けられた静かな寺となっ
  ている。

   写真の十三重塔はその墓地を背にして建って
  おり、全体のシルエットはたおやかで何とも壮
  麗である。
   しかし詳細に眺めると、六層目と七層目を境
  に屋根の幅の逓減が少なく、また軒には両端に
  微かな反りが見られるだけである。この段差は
  謎である。
   確かに、基礎に刻まれた正平七年 (1352) と
  いう年号は南北朝の中期に近い前期であり、屋
  根の逓減率が大きく、軒の反りが豪快な美しさ
  を呈した鎌倉期の躍動的な美意識は最早感じら
  れなくなってしまっている。
   だが、この南北朝の穏やかで整った塔には、
  洗練された当代の上質の美意識が感じられる。

   最下軸部には、顕教四仏(薬師・釈迦・阿弥
  陀・弥勒)の坐像が半肉彫りされている。
   相輪は、水煙の付いた見事なものである。
   基礎下に高さの有る複弁の反花座が設けられ
  ているのは、大和様式と言えるだろう。
                  

      
       
     青龍寺宝篋印塔 (奈良市藺生)
      
     
   前述の来迎寺からは南へ数キロの集落で、藺
  生(ゆう)という珍しい名の鄙びた農村地帯で
  ある。桜井市とは藺生峠で接している。

   真言宗の寺院で、屋根が茅葺で風情の有る本
  堂に向かった左手に、写真の宝篋印塔が堂々た
  る基壇の上に建っている。
   基礎から相輪までが完存する見事な宝篋印塔
  なのだが、残念なことに銘が無く制作年代は不
  明である。

   基礎は無地で上二段、塔身には輪郭を付け、
  月輪内に金剛界四仏を表わす梵字が薬研彫りさ
  れている。写真は右がキリーク(阿弥陀)、左
  がアク(不空成就)である。
   笠は下二段、上六段で、隅飾は先端がやや外
  へ反った二弧輪郭付きである。
   笠上に、側面二区に格狭間を配した露盤を置
  き、その上に見事な相輪を載せている。
   まことに均整の取れた傑作、と言えるだろう
  と思う。

   制作年代を勝手に推測すると、全体の印象は
  鎌倉後期、相輪と塔身の梵字も鎌倉後期、隅飾
  の反り具合は南北朝といったところで、総合し
  て南北朝に最も近い鎌倉末期とするのが適当な
  のではなかろうか。
                  

   
   
     不動院五輪塔 (奈良県山添村春日)
     
     
   奈良の都からは約20Kmと近いのだが、大和
  高原の東山中と呼ばれるこの辺りはいきなり山
  里へ飛び込んだような風情が感じられる場所で
  ある。
   この寺は春日という集落の奥まった所にひっ
  そりと建っており、境内はのどかな山寺の雰囲
  気であった。
   小さな山門を入ると、すぐにこの五輪塔が目
  に入る。

   写真には写っていないのだが、基壇の側面は
  二区に仕切られ各区に格狭間が刻まれている。
   その上に複弁反花座が設けられ、さらにその
  上に五輪塔が載るという、大和に多い様式であ
  るとはいえ、山里の小寺とは思えぬ誠に立派な
  構成になっていた。
   基壇も入れて1.8mの高さなので、格別大
  きくはないのだが、きりっとした立ち姿が上へ
  と伸びて行くような鋭さを感じさせた。
   火輪の軒は分厚く、両端が豪放な反りを見せ
  ており、やや扁平な水輪など鎌倉後期の優等生
  といった愛すべき作品である。
   地輪には法華経の中の偈が彫られ、正和二年
  (1313) 鎌倉後期という年号が記されている。
   ここにはもう一基、文保元年 (1317) の銘が
  ある美しい宝篋印塔を見逃してはならない。
           

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     浄明寺五輪塔 (奈良県山添村片平)
                    
                    
   前掲の不動院を訪ねた後、名張へと向かう道
  中で、このお寺と五輪塔の案内を見て立ち寄っ
  てみた。村の文化財に指定されているらしい。

   やや扁平だがふっくらとして形の良い空輪と
  風輪が、五輪塔の全体像を引き締めているよう
  に感じられた。
   緩やかな傾斜の屋根、軒口は中央部がほぼ水
  平で両端が急に反り上がっている。南北朝期の
  特徴なのだが、看板には何と正中二年 (1325)
  鎌倉後期の年号が確認されている、とのことだ
  った。
   水輪は、上から少し押しつぶされた様な球体
  で、不動院よりはやや後の制作だは、とても似
  ている。
   地輪は全体的にはやや背が高い作りになって
  いる。大和様式の複弁蓮座が美しい。

   後日、山添村の公式ページで、村の中に正中
  二年の五輪塔が八基在る、と記されているのに
  は驚いた。浄明寺のほかに、極楽寺(大西)、
  増福寺(上津)、善成寺(下津)、西迎寺(広
  瀬)、共同墓地(中峰山)、西庵(菅生)、丘
  の上(中之庄)に在るという。
   「郷塔」と呼ばれる逆修供養塔で、結衆念仏
  信仰上の記念すべき出来事がこの年にあったも
  のと思われる。
   次回には、山添村の正中二年塔を全部巡って
  みたいと念じている。  
                                                  

       
       
     八幡寺跡五輪塔 (天理市福住町)
     
     
     名阪国道の福住インターを出てから北へ向
  かうと、直ぐに右手の小川のほとりに下入田
  の阿弥陀石仏が見える。
   集落の中ほどには下入田の公民館があり、
  その前庭に双仏石などの小石仏と並んで、写
  真の端正な五輪塔が建っている。かつて八幡
  寺という寺院が在った場所とされる。

   全体的な印象としては、前出の安穏寺の五
  輪塔などと似たイメージを感じていた。
   かなり扁平な宝珠(空輪)、水平なまま両
  端で急に反りあがっている笠(火輪)の軒、
  微かに下部が細まっている塔身(水輪)、高
  さのある基礎(地輪)などで、同じように鎌
  倉末期から南北朝初期ごろの制作だろうと推
  定したのである。
   また、基礎下の複弁反花座は背も高く、見
  事に五輪塔を荘厳している。
   後日、先人の資料から、地輪面に貞和五年
  (1349) 南北朝初期の刻銘があったことを知
  ったのだが、確かに鎌倉期の豪壮さは消え、
  均整は取れているもののかなり華奢な姿であ
  ったことが決め手だったのか、を再認識させ
  られたのである。
   制作された年代推定は素人の特権だが、そ
  れ以上に、卓越した芸術には鎌倉も南北朝も
  ないはずだろう。美しいものを美しいと感じ
  られる感性こそを信じたい、と改めて感じた
  のだった。
                    

       
       
     念仏寺墓地五輪塔 (天理市中山)
       
           
     天理市街の南、国道169号線を桜井方面へ向
  かい、中山町へ入ってから東へ入ると念仏寺が
  見えてくる。
   山の辺の道に面しており、中山の路傍に並ぶ
  小石仏群の写真に魅せられた方は多いと思う。
  残念ながら、現在はコンクリートで固められ、
  かつての風情は完全に喪失してしまった。
   寺域に接して、広大な墓地が続いているが、
  墓地への登り口の辺りに覆屋があって、中に地
  蔵石仏が安置されている。
   覆屋の後ろ側に、無数の石仏や板碑が並べら
  れており、その上部に写真の五輪塔が慄然と建
  っている。

   余り知られていない五輪塔だが、全体の整っ
  た姿に暫く見入ってしまった。
   ややつぶれたような宝珠は余り美しくはない
  が、おっとりとした風輪、軒が厚く両端がゆっ
  たりと反った笠(火輪)、扁平ながらふっくら
  とした水輪、そして高さのある地輪のバランス
  は整然としている。
   銘文も梵字も彫られておらず、反花座などの
  装飾は一切見られないことから、古い墓地であ
  ることからも、鎌倉末期から南北朝にかけて制
  作された惣墓のような五輪塔ではないか、と推
  定した。
                         

        
       
     実相寺十三重塔 (大和郡山市矢田町通)
     
     
     郡山市街中心部の家並に隠れるようにして
  建つ清楚な寺院だが、境内は思ったより広々
  としていた。
   覆屋の中に安置された阿弥陀三尊石仏は南
  北朝のもので、ついでに観るには勿体ないよ
  うな傑作だろう。

   境内の中央部分に、写真の十三重塔がどっ
  しりと建っていた。
   相輪の上部は失われているが、各層の屋根
  の微妙な曲線と両端の反り具合に安定感があ
  るところに感動した。
   また、屋根の幅が上部へいくほど逓減して
  おり、般若寺の塔とまではいかないにせよ、
  鎌倉中期から末期へかけての造立ではないか
  と感じられた。屋根の裏側に垂木型が彫られ
  ているのも、重厚な仕事の成果だろう。
   塔身部分には光背が彫り込まれており、四
  方仏が彫像で半肉浮彫されている。阿弥陀や
  薬師が確認出来るので、顕教四仏(他に弥勒
  ・釈迦)が彫られているようだ。典雅な彫り
  は、石仏としても見応えがある。

   この日は快晴で、夕日がまともに塔に当っ
  ており、建物の屋根による強烈な陰影がいつ
  までも消えず、写真が上手く撮れなかった。
  苦肉の作がまともに逆光で撮る、ということ
  だった。
                         

       
       
     東明寺七重塔 (大和郡山市矢田町)
     
     
     大和郡山市の西に広がる矢田丘陵の山裾に在
  る鄙びた寺で、古刹矢田寺へは山道伝いに歩い
  て行くコースが完備されている。

   石段を登ってたどり着いた本堂の左奥に、写
  真の七重塔が建っていた。
   水烟を含め相輪が完存しているのが嬉しい。
   各層の屋根の勾配が穏やかであり、両端の軒
  反りも緩やかである。軒の厚さはやや薄いが、
  屋根幅の逓減率は理想的な美しさである。
   従来より七重塔だったというのが定説だが、
  最上部の笠が急に小さく薄くなっているのが気
  になって仕方がない。逓減の度合いからも、九
  重塔または十三重塔だったのでは、というのが
  小生の実感であり持論である。

   塔身の四方には、月輪内に豪快な筆致の梵字
  で、金剛会四仏の種子が薬研彫りされている。
   写真の梵字は、右がウーン(阿閦)、左はタ
  ラーク(宝生)である。向こう側は時計回りで
  キリーク(阿弥陀)、アク(不空成就)となっ
  ている。
   銘文が無いので制作年代は推定になってしま
  うが、鎌倉中期から後期に至る辺りではないか
  と感じた。大方の資料には“鎌倉後期”と書か
  れているようだ。
   年代はどうあれ、石塔の美しさを如実に示す
  好例であり、正に“好みの塔”の一つである。   
                         

      
       
     松尾寺十三重塔 (大和郡山市山田町)
     
     
     大和郡山市の西南端、斑鳩町との境界に松尾
   山があり、その山腹に重文の本堂を中心にして
  三重塔や諸堂が建っている。養老年間に創建さ
  れたと伝わる古刹である。

   本堂右の石段を登った所に木造三重塔が建っ
  ており、更に右手奥にこの石造十三重塔が樹々
  に隠れるようにして建っていた。
   相輪は水烟上の宝珠だけが欠落しているが、
  全体的には保存状態は良好であろう。
   各層の屋根の軒幅は割と薄く、全体の曲線は
  やや緩め、両端で少し反り上がっている。
   問題は屋根幅の逓減率だが、前出の実相寺や
  正暦寺の事例と比べるとやや逓減の度合いが小
  さい。観音寺のように逓減率だけでは、必ずし
  も判断出来ないこともあるので難しいが、一部
  の専門書に記されている鎌倉中期説は少々怪し
  いかもしれない。鎌倉末期前後というところだ
  ろうか。
   鎌倉期特有の剛毅な雰囲気は無いが、端正な
  造形という表現がぴったりなほど壮麗であり、
  周辺の景観に見事に収まっている。
   塔身各面には月輪が彫られ、その中に鎌倉期
  に相応しい雄渾な梵字が刻まれている。金剛界
  四仏を象徴する種子である。
   基礎の側面は無地だったので、銘文の類は見
  られず、年代推定の真偽は不明のままである。 
                         

  
   
     額安寺五輪塔 (大和郡山市額田部)
     
    
   鎌倉時代の窯跡で知られる額田部という集落に
  この寺が在り、集落北側の鎌倉坂を登ったところ
  に寺の古い墓地がある。
   ここに八基の五輪塔が一列でカギ形に並んでお
  り、その全てが鎌倉時代後期のものである。
   しかも一括して重要文化財に指定されている、
  というのは大変珍しい。

   写真はその内の一基で、一番南側に建つ最大の
  五輪塔である。高さは2.8m弱という大きな石
  塔で、ここから西大寺忍性の墓誌を刻んだ蔵骨瓶
  が発見されていることから、忍性の分骨をした塔
  であろうと思われる。
   各輪の均整が取れた見事な造形であり、特に笠
  火輪の軒両端の反りが鎌倉らしく剛毅である。
   空・風輪の姿も堂々としており、水輪のバラン
  スも申し分ない。
   他の七基にも質の高い造形が成されており、そ
  の内の二基には、永仁五年 (1297) の年号が刻ま
  れている。

   なお、額安寺には、門前の池の中島に建つ美し
  い宝篋印塔が在るのだが、雑草や植栽が繁茂して
  いてほとんど見えなかった。
          

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     法楽寺十三重塔 (生駒市高山)
                    
                    
   高山は生駒市の最北端、茶道を志す人ならだ
  れでも知っている高山茶筅の里である。
   聖武天皇が東大寺守護のため、行基に創建さ
  せた古刹である。

   本堂の北、庫裏前庭の植栽に囲まれて、写真
  の十三重石塔が優雅に建っていた。

   基礎の四方は全くの無地だが、塔身(初重軸
  部)の四方には仏像が彫られている。
   舟形に光背を彫りくぼめた中に、蓮華座に載
  る顕教四仏(薬師・釈迦・弥陀・弥勒)の坐像
  が半肉彫りされている。
   写真は西面で、阿弥陀如来が彫られている。
  像の横から康永四年 (1345) 南北朝初期の年号
  が確認されたそうだが、磨滅して小生には判読
  不可能だった。

   各層の屋根(笠)は軒口がやや厚く、中央部
  分が水平で両端が反り上がっている。南北朝期
  の特徴の一つである。
   屋根幅の低減率は、むしろ鎌倉後期に近いか
  もしれない。
   最上部の笠と、上から二層目の屋根が破損し
  ているのが惜しい。
   相輪は下部の伏鉢と、上部の宝珠・請花が欠
  落しているが、珍しい水煙と九輪が残されてい
  る。
                                                  

       
       
     長福寺七重塔 (生駒市俵口)
     
     
     近鉄生駒駅の北、生駒山麓の北端に建つ寺院
  である。聖徳太子の開創と伝わる滅法古いお寺
  だが、現在は本堂がポツンと建っているのみで
  ある。

   本堂の東側に広がる庭園の中に、写真の七重
  石塔が建っている。
   石造層塔が示す美しさの全てが詰まっている
  ような、端麗で優美な品格を備えた名塔だろう
  と感じた。

   相輪は、上から宝珠・請花・九輪・請花・伏
  鉢が揃っている。針金で補修されているが、余
  り気にならない。
   各層屋根の軒は、ほぼ直線のような緩やかな
  曲線を描いており、両端の反り具合も微妙な落
  ち着きを見せている。矢田の東明寺七重塔に似
  ていると感じたが、逓減率においてこちらには
  不自然さは無い。鎌倉後期以前の上品な大らか
  さが感じられて嬉しかった。
   塔身には、月輪の中に力感に満ちた筆致の梵
  字で、金剛界四仏の種子が薬研彫りで表されて
  いる。余り上手な字体ではないが、自由さの感
  じられる生き生きとした書体である。
   背の低い基礎には銘文等は一切なく、鎌倉中
  期から後期へかけての制作だろう、と勝手に決
  めていた。
                         

    
    
     円福寺宝篋印塔 (生駒市有里)
    
    
   石造美術に興味の無い方には見慣れぬ塔な
  のだが、五輪塔などと共に古くから伝わる塔
  の様式である。良く見ると、宝珠・(相輪)
  ・請花・笠・塔身・基礎と塔の役者が揃って
  いる。大きな特徴は、笠の四隅に付けられた
  耳のような隅飾の存在である。

   ここ円福寺には、南北二基の塔が有る。写
  真手前の北塔は、塔身を梵字の種子で四方仏
  を表現しており、永仁元年 (1293) の銘が有
  る。南塔の方は梵字ではなく、仏像そのもの
  が彫られており、銘は無いが、北塔とほぼ同
  じ鎌倉中期の作だ。
   隅飾が垂直に立っているもの程古いが、こ
  の塔は微妙に反り始めているので鎌倉中後期
  あたりだという目安になる。
   川越辺りで江戸時代に作られた宝篋印塔を
  見ると、隅飾が異常に反り返っており、どう
  見ても落ち着きの無い塔としか見えないが、
  前例とは少し違ったものを創作しようという
  意識の累積が、時代の経過と共にここまで変
  化してしまうのか、と驚いた経験が有る。
   二基共技巧的な装飾は無いが、全体のバラ
  ンスがすこぶる美しく、清楚で古風ではある
  が洗練の兆しを見せる秀塔である。
          

     
         
 
     輿山往生院宝篋印塔 (生駒市有里)
   
   
   生駒から平群一帯の里はまことに石造美術の
  宝庫であり、私達は何回かここを歩いている。
   大阪と奈良の中間であり、近鉄沿線の開発は
  著しいが、生駒山麓のこの地区には古い文化の
  名残がまだ脈々と生きていた。

   本堂の北側にこの塔は堂々と建っており、い
  かにも雄渾であると同時に、古式の見事な美し
  さを示している。

   最大の特徴は笠(屋根)の隅飾で、一弧の直立
  形であり、軒と一体になっていることだろう。
   相輪は後補かもしれない。
   塔身には正元元年 (1259) とあり、大和では
  最古で、鎌倉中期の充実した造形美をたっぷり
  と見せつけている。

   梵字は金剛界四方仏で、その脇に「釈迦入滅
  一千八百六十七年、弥勒仏」とあり、未来仏弥
  勒の一日も早い現出を願った信仰が生んだ石塔
  なのだろう。

   宝篋印塔の美しさは何と言っても笠の造形そ
  のものと、塔身の姿とのバランスにある。その
  最も優れた見本の一つがここに在る。いつまで
  見ていても飽きない、小生好みの石塔の一つで
  ある。
           

     
     
     興融寺五輪塔 (生駒市有里)
     
     
   円福寺で宝篋印塔の傑作を見た後、同じ生駒
  有里の二つの寺、竹林寺とここ興融寺を訪ねた。
  境内に残る石造五輪塔を見るため、である。
   鎌倉後期の端正な竹林寺五輪塔と比べると、
  この塔はいかにも荒削りであり、はじめの内は
  素朴さと言うよりも稚拙さの方が強く感じられ
  たのだった。
   だが、表面的に感じていた印象とは別に、写
  真を撮るためにファインダーを覗いていると、
  フォルム全体に漂う落ち着いた貫禄と、プリミ
  ティブな美しさを備えていることに気が付いた。

   てっぺんのずっしりとした空輪、厚めの火輪、
  少し肩の張った水輪など、古武士の様な風貌で
  ある。
   水輪の四方に梵字が彫られている。摩滅して
  判然としないが、どうやら金剛界四仏ではない
  だろうかと思う。
   基礎の地輪部分に年号らしき文字が彫られて
  いるが、拓本にでも採らねば判らないだろう。
  鎌倉中期は下らないはずである。
   帰る頃には、立ち去りがたいほどの愛着を感
  じるまでになってしまった、不思議な五輪塔と
  の出会いであった。
         

       
       
     観泉寺十三重塔 (生駒市小瀬)
     
     
     近鉄生駒線の南生駒駅から東側が小瀬地区と
  なっている。家並が密集した狭い集落を抜けた
  あたりに、ゆったりとした静かな寺域が開けて
  いる。

   立派な基壇の上に高さのある反花座を設け、
  その上に十三重塔が建っていた。
   基礎は平板だが、一面に康永四年 (1345) と
  いう南北朝初期の年号が刻まれている。
   塔身四面には月輪を刻み、中に金剛界四仏の
  種子が薬研彫りされている。達筆ではないが、
  端からはみ出てしまいそうな勢いのある闊達な
  筆致からは、むしろ鎌倉期のような造形意欲が
  感じられた。写真は北側で、梵字はアク(不空
  成就如来)である。

   各層の屋根は緩やかな微曲線で左右に伸びて
  おり、両端で小さく反りかえっている。
   南北朝という時代を反映するかの如く、屋根
  幅の逓減率は低い。軒の厚さはやや薄目である
  という点も、南北朝期の特徴と言えるだろう。
   鎌倉の名残を少しだけ留めた、南北朝初期の
  様式の典型と言えるかもしれない。
   最上部の相輪は、近年補充した全くの別物で
  ある。
                         

        
       
     無量寺五輪塔 (生駒市壱分町)
     
     
     何とも妙な形の五輪塔が在ったものだ。ここ
  は近鉄生駒線にも同名の駅(一分)のある壱分
  という地区に在る古いお寺である。

   本堂の右手前の植栽の中に、写真のような風
  変わりな五輪塔が建っていた。
   最も変わっているのは空・風輪の代わりに置
  かれた丸石である。これはどうやら別の五輪塔
  の水輪(球形部)らしいが、全くナンセンスと
  しか言い様は無いだろう。
   笠(火輪)は落ち着いた緩やかな反りを見せ
  ており、古典的な雰囲気を漂わせているように
  感じられた。軒の厚みが余り無いところが、気
  品と格調を感じさせるのである。
   水輪は、笠(火輪)と基礎(地輪)とのバラ
  ンスを考えると、誰が見ても極端に大き過ぎる
  ようだ。どうやら、これも別物ということにな
  るのだろうか。

   かくも怪しい組み合わせのこの五輪塔が、石
  造美術史的にその名を連ねているのは、基礎部
  分(地輪)に刻まれた銘文にある。
   色々調べてみたのだが、嘉元二年 (1304) と
  いう鎌倉後期の年号と、伊派の石工「井行氏」
  の名と共に、長文の銘が四面に彫られているの
  である。為二親、預行基之益、願主慈勝などと
  いう言葉が見られ、資料としてとても貴重な存
  在だったのだ。そう聞くと、別物の水輪など、
  何やら愛嬌が感じられて不思議だった。
                         

      
       
     教弘寺十三重塔 生駒市小倉寺町
      
     
   百済からの献上馬が放牧された故事から名
  付けられたという生駒山は、役行者や空海が
  修行をした場所と伝えられる。
   暗峠を越えて河内へと通じる奈良街道から
  北へと山裾へ入ったあたりに、その役行者が
  開いたと伝えられる古刹教弘寺が在る。
   かつては六坊もの塔頭を備えて隆盛を極め
  たそうだが、現在は本堂とわずかの建物を残
  すのみとなっている。

   石段を登ると正面が本堂で、左手の奥に木
  立を背にして写真の石造十三重塔が建ってい
  た。高さが
4 mの花崗岩製で、立派な基壇の
  上に建つ姿はまことに洗練されており、とて
  も優美な印象を受けた。
   基礎の側面は全て素地であり、年号等を記
  す銘文は一切無い。
   初層軸部四面には月輪を刻み、その中に金
  剛界四仏の種子を薬研彫りしてある。写真の
  梵字は右がアク(不空成就)で、左がウーン
  (阿しゅく)である。大胆な筆致と大らかな
  彫りは、鎌倉後期の面影を伝えている。
   問題は屋根であり、先ずその幅の低減率が
  低いことである。つまり全体的にほっそりと
  したイメージで、鎌倉期の力強さとは違った
  柔和で典雅な印象が強いのである。これは、
  南北朝の様式と言えそうである。
   軒の反り具合は、中央はほぼ水平で、両端
  が反り上がっている。これも、南北朝に近い
  様式だろう。
   龍車や水煙の整った相輪だが、これは後補
  かもしれない。
   南北朝初期は下らない、優雅な石塔と言え
  るだろう。
              

      
       
     教弘寺五輪塔 生駒市小倉寺町
      
     
   前述の教弘寺本堂右手に、写真の五輪塔が
  整った美しい姿を見せてくれている。
   二段の切石を積んだ基壇に載り、地輪(基
  礎)の下には、大和様式とも言える複弁式の
  反花座が設けられている。大和らしい荘厳な
  装飾だろう。

   地輪の正面には、願主の名などを刻んだ銘
  文があり、正慶二年 (1333) という年号を認
  めることが出来る。この年号は、建武中興直
  前の鎌倉末期最後の年号であり、鎌倉と南北
  朝の境目に造立された様式変遷期の石塔と言
  えるかもしれない。
   水輪(塔身)は完全な球体ではなく、重心
  が下がった下膨れ気味の球形である。類例の
  多い、南北朝的な特徴だろう。
   火輪(笠)は、屋根の傾斜がやや強く、先
  端で反り上がっている。また、軒も緩やかな
  反りながら、これも両端で反っている。
   風輪の一部が崩壊しているが、一石から彫
  られた空・風輪はとても形が綺麗である。

   五輪塔の奥に石龕が設けられており、その
  中に役行者の石像が祀られている。天正年間
  (桃山期)の作で、前鬼・後鬼を従えた傑作
  とされている。生駒に相応しい像だろう。
                        

      
       
     千光寺宝塔 奈良県平群町鳴川
      
     
   千光寺までは車道が通じているのだが、道
  が狭く急峻であるため、集落の手前に駐車し
  徒歩で登った。途中で清滝の地蔵磨崖仏や、
  辻堂に祀られたゆるぎ地蔵や五輪塔を見なが
  ら行くので苦にならなかった。

   本堂の裏手の小高い場所に、鎌倉後期と思
  しき十三重石塔が建っており、その直ぐ脇に
  写真の宝塔が建っている。
   一見すると五輪塔のように見えるが、笠下
  の塔身に
3cm弱の低い首部が造られているの
  で、宝塔とするのが正しいだろう。

   基礎は
20cm弱という背の低いもので、五
  輪塔の地輪とはやはり違うようだ。
   塔身は球形ではなく、上下が細まった円筒
  状の壺形である。残念ながら首部を撮影する
  ことが出来なかった。
   笠の勾配がやや急であるが、軒はかなり薄
  く造られており、反り具合はまことにゆった
  りとした古式の反りを示していて美しい。
   笠の上に薄い露盤が設けられている。繊細
  な造形感覚と言えるだろう。
   通常の相輪に替わって、筒状の伏鉢と形の
  良い宝珠が載っている。

   無銘では在るが、様式からも明らかに古式
  の香りが感じられ、鎌倉中期は下らないだろ
  うという印象を受けた。
                  

       
       
     杵築神社十三重塔 (奈良県三宅町但馬)
     
     
     三宅町は川西町と田原本町に接する田園地帯
  の町で、大和盆地の中央に当る。
   近鉄田原本線但馬駅から真南へ
200m行った
  辺りに建つ鄙びた神社である。

   鳥居をくぐった境内奥に、写真の十三重塔が
  建っていた。三宅町の直ぐ東に当る天理市庵治
  の旧常福寺に建っていた塔であるという。
   明治初めの廃仏毀釈で廃寺となった折に、こ
  の神社へ移されたそうだが、なかなかに美しい
  名品である。

   相輪は喪失しているが、各層の屋根は完存し
  ており、軒の厚さ、両端の反り具合、軒下の一
  重垂木型、上部へ向かっての屋根幅の逓減率な
  ど、全ての点で申し分のない造形である。
   塔身月輪内に金剛界四仏の種子(梵字)が薬
  研彫りされている。写真は、右(北面)のアク
  (不空成就)左(東)のウーン(阿閦)で、背
  後には南のタラーク(宝生)西のキリーク(阿
  弥陀)が彫られている。

   基礎の側面は三面が無地で、東面に銘文が彫
  られている。元応元年(1319)という鎌倉末期の
  年号、奉進常福寺、為二親、といった文字が確
  認出来る。当時の信仰の形態を示す貴重な遺構
  であり、石造美術の美しい作品である。   
                         

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