石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
     (8) 大和(南部)の石塔巡拝 
                  
                
 香芝市~上牧町~広陵町~田原本町~
桜井市~宇陀市より南を大和(南部)と
した。当サイト便宜上の区画である。

 記銘石塔の本邦最古は、奈良明日香の
龍福寺層塔で、天平勝宝三年 (751) と
いう圧倒的な古さである。さすがは大和
明日香というところだろうか。

 石造文化においても、明日香には古代
からの遺構が数多く保存されており、古
墳や石舞台は良く知られている。
 石塔は平安末期以降が大半だが、石造
美術の伝統は綿々とこの地方に受け継が
れていたように見える。

 石の文化は決して西洋だけのものでは
なく、古代より日本人は石に永遠性や神
秘性を感じ、厚い信仰心を背景として石
仏や石塔を彫ってきたのである。
 大和の石造美術行脚では、そうした歴
史的な奥深さが特に感じられる。


           理源大師聖宝廟所宝塔
           (南北朝中期の造立)
                鳳閣寺裏山
             (奈良県黒滝村)
    
これほど美しい石塔は滅多にないだろう。
 
                      

   
   
     当麻北墓五輪塔 (奈良県葛城市当麻)
     
     
   当麻寺の北側斜面に古い共同墓地があり、その
  登り口付近に中世の十三重石塔などと共に、この
  いかにも古そうな五輪塔が一段高い墓所の中に建
  っているのが見えた。
   最初の印象は、五輪塔というよりも宝塔ではな
  いかと思ったのだが、それは通常は球形に近いは
  ずの水輪が、ここではやや細長い壺型をしていた
  からだろう。
   しかし、五輪塔の四方門を表す梵字種子が刻ま
  れているので、すぐに第一印象が間違いであった
  事を知った。

   写真は東側の発心門を表す「キャ・(カ)・(ラ)
  ・バ・ア」なのだが、風輪と水輪の梵字は摩滅し
  て見えない。梵字は誠に雄渾な筆致であり、古色
  を示す深い薬研彫りの手法で刻まれている。
   笠の屋根の傾斜は緩やかであり、軒反りは堂々
  として厚く、地輪は低くどっしりとした感じを抱
  かせてくれた。
   まことに古色蒼然とした名品であり、その大ら
  かな荘重さは鎌倉時代を越え、平安末期をも想定
  させてくれる。
   この石塔が国の重要文化財に指定されている、
  と聞いて驚いた。卓越した見識を持つお役人も居
  たのだ、と認識を改めたのである。   
        

     
       
     当麻けはや塚五輪塔 (奈良県葛城市当麻
      
     
   当麻の蹴速(けはや)と出雲の野見宿禰(の
  みのすくね)が力比べをしたという伝説から、
  当地が相撲発祥の地とされている。
   この塚は、当麻寺の参道脇に在り、敗者とな
  った蹴速を追善して建てられたという五輪塔な
  のだそうだ。

   空・風輪は一石で、堂々とした宝珠が見事で
  ある。全体は花崗岩製だが、色がやや違うのが
  気になった。
   火輪(笠)は厚めの軒が両端で反るという、
  典型的な鎌倉後期の様式であり、なかなかの逸
  品といえる。だが、水輪(塔身)の球体の大き
  さと比べてみると、明らかに笠が小さ過ぎるこ
  とは歴然としている。
   五輪塔四門の梵字や、銘文など一切見当たら
  ないので何とも致し方が無いのだが、水輪と地
  輪は均整が取れていることから、笠(火輪)か
  ら上が別物の寄せ集め石塔、と考えざるをえな
  いだろう。

   夢に満ちた伝説を秘めたこの五輪塔は、寄せ
  集めとすれば石造美術的には価値は半減するだ
  ろうが、人々の信仰や思い入れを集めてきたと
  いう歴史的な重みは無視できないに違いない。
                  

   
   
     天満神社多宝塔 (大和高田市根成柿)
   
      
   石造美術史において、石造多宝塔の作例は極めて
  珍しい。信州や上州など他に数例あるものの、鑑賞
  しうる作品は前述した三基に代表されるだろう。
   ここに掲載した事例は、かなり崩落し改修された
  ものなのだが、様式的にとても古いものであり、写
  真の右側に写っている層塔残欠と共に、おそらくは
  平安後期ごろの作ではないかと思い掲載した。
   そうだとすれば、日本最古の石造多宝塔の作例と
  して、まことに貴重な存在となる。

   二段の基礎、堂々たる軸部はいかにも古そうであ
  り、饅頭型は下層屋根と一体で彫られている。
   厚い軒の屋根に勾配はほとんど無く、微妙な反り
  しか見られないことからも、鎌倉以前の古式を示し
  ているとは思うが、全くの崩壊寸前といった状態で
  は推定の域を出ないことではある。
   首部は別石のようであり、屋根の上に載っている
  のは露盤だろうか。
   年代の設定は面白いのだが、それよりもこの瀕死
  の石塔が示すフォルムの重厚さに惹かれる。古いも
  のが示す独特の魅力は、滅び行くモノの美学とも言
  えるだろう。感傷的な解釈の許される、素人だけの
  領域での楽しみではある。

   奥の三重層塔は、従来はもっと多層であったと思
  われるが、ほぼ同じ平安期の遺構のようだ。
           

        
       
     久米寺層塔 (橿原市久米町)
     
     
     橿原神宮の境内とは、近鉄の線路を隔てた南
  側に位置している。
   久米仙人の伝説や、空海による真言宗発祥の
  地として知られる、7世紀に起源を持つ名刹で
  ある。

   本堂手前の植栽の中に、写真の七重塔が隠れ
  るようにして建っていた。
   基礎は埋め込まれていて見えないが、塔身に
  はなんとも大らかな筆致の梵字が彫り込まれて
  いた。彫りが浅く、字幅が比較的広いのは、明
  らかに平安から鎌倉初期にかけての古い様式の
  塔に見られるので期待が膨らんだ。
   写真の梵字は、金剛界四仏のウーン(阿閦)
  である。

   各層の屋根を見ると、最上部の屋根は明らか
  に後補だが、他は比較的厚い軒、緩やかな曲線
  と両端の微妙な反りなどが古式を示している。
   下四層の屋根幅の逓減率がこの段階ではまだ
  出ておらず、かなり上方を目指した逓減とすれ
  ば、原初は十三重塔だったのではないか、とい
  う大胆な発想を抱いていた。奇想天外な久米仙
  人の話を聞いた直後だったからだろうか。
   
   かなり荒廃した石塔だが、随所に古式の風格
  と大らかな美しさが感じられる点からも、平安
  後期から鎌倉初期にかけた遺構なのであろう。
                         

        
       
     薬師堂十三重塔 (橿原市光陽町)
     
     
     橿原神宮の西、大和高田市根成柿に接する
  地区である。近年広がった新しい住宅地の家
  並の中に、薬師堂という小さなお堂を祀った
  古い一画がある。
   お堂の前面、境内の東南隅に金網で囲まれ
  た中に、写真の石造十三重塔が、二基の五輪
  塔残欠と一緒に保存されていた。

   高さが
3m 以上はありそうな剛毅な塔だ
    が、相輪の上半分や各層の屋根がかなり破損
  してしまっており、十三層がちゃんと建って
  いるのが不思議な程だった。
   しかし、つぶさに観察すると、屋根幅の逓
  減度合いは魅力的であり、軒の厚さ、反り具
  合など、何とも古式な落ち着きが感じられる
  のである。
   最下層の屋根と最上部の屋根の両端を結ん
  だ線が逓減を示すが、これだけ捉えれば針の
  観音寺や郡山の実相寺に匹敵しそうである。
   軒裏に垂木型が彫られていることにも注目
  したいと思う。

   塔身には、金剛界四仏の種子が、月輪内に
  薬研彫りされている。
   基礎は薄く銘文など一切無いのだが、折角
  なので制作年代を“鎌倉後期は下らない”と
  しておくことにした。  
                         

       
       
     浄国寺層塔 (橿原市一町)
     
     
     前述の光陽町の南に、一町(かずちょう)と
  いう珍しい地名の地区がある。
   町北側の丘陵の山裾に或る古刹で、国の重要
  美術品に指定された四角型石燈篭が在ることで
  その道では知られている。
   実は小生、石造美術愛好とは言うが、石燈篭
  だけは趣味ではないのだが、折角なので正和五
  年鎌倉後期の石灯籠を拝ませていただいた。

   目的の層塔は本堂前の境内の南側崖地に建っ
  ており、写真を撮るのも難儀な場所であった。
   現在の屋根の姿は九重であり、破損はかなり
  深刻な状態にある。しかし、軒の厚い荘重な姿
  は品格に満ちており、反り具合も緩やかで泰然
  とした落ち着きのある古式を感じさせる。
   おそらくは、元来十三重塔だったものと思わ
  れる。
   塔身には月輪は無く、誠に大らかな筆致の梵
  字が薬研彫りされている。彫りがやや浅いのは
  相当の古式である。写真左側の梵字種子はウー
  ン(阿閦)右側はアク(不空成就)で、金剛界
  四仏が彫られているのである。

   梵字の書体と塔身や屋根の様式を総合的に判
  断すると、平安末期から鎌倉初期にかけての制
  作、という結論が必然的に出てくるのである。
  素人は危険、という声が聞こえてきそうだが。
                         

       
       
     光岩院五輪塔 (橿原市曽我町)
     
     
     橿原市の曽我町は橿原神宮の西北に当り、曽
  我川の直ぐ東側に当る集落の中に建っている。
  お堂は新しく建てられたようだが、裏手の墓地
  には古い墓碑が見られる。

   写真の石造五輪塔は、本堂の正面右手に建っ
  ており、高さが
3m 弱の大型石塔である。
   古塔特有のオーラが放たれているようで、周
  囲に建つ新しい墓碑群を圧倒するような風格が
  感じられた。中世以来の墓地で、惣墓のような
  存在だったのかもしれない。

   空輪から地輪まで、五輪全てが完存した堂々
  たる五輪塔である。四方の門を象徴する梵字真
  言(キャ・カ・ラ・バ・ア)は彫られていない
  が、全体のシルエットはとても美しい。
   やや扁平な宝珠(空輪)、形の良い請花(風
  輪)、両端が極端に反り上がった笠(火輪)、
  やや下細りの花瓶型球形塔身(水輪)、少し背
  の高い方形基礎(地輪)など、躍動感に満ちた
  鎌倉後期の典型的な様式を見事に表現している
  と思う。
   鎌倉初期が示す逞しい創造性や優雅さと、南
  北朝期の持つ爛熟或いは衰退との間で、やや様
  式化しつつも示された鎌倉後期の力強さがはっ
  きりと見て取れる。
                         

      
       
     蓮台寺五輪塔 (奈良県桜井市吉備)
      
     
   桜井市の南部、市街地の中の寺院である。
   天平年間(8世紀)行基の開基とされ、吉
  備真備ゆかりの地とのことである。

   本堂の左手が墓地になっており、五輪塔は
  その入口付近に大きな案内板を設けて据えら
  れている。
   高さが
2m以上もある重厚な塔であり、五
  輪全てが完備した素晴らしい遺構である。
   空輪は横膨れしたような肩張り形で、お椀
  のような風輪との釣り合いが取れている。
   火輪(笠)は、中庸な傾斜の屋根で先端が
  少し反り、やや厚い軒口はほぼ水平だが両端
  で反り上がっている。
   水輪は、上部が細まった下膨れの球形で、
  イメージは先述の教弘寺のものに似ている。
   全体的にも、細部の特徴からも、鎌倉後期
  の造立が想定されるところだ。

   地輪の正面にその証明がある筈なのだが、
  大きな看板が無粋な場所に建てられたために
  確認することが出来ない。仕方なく看板を見
  ると、そこには詳細な解説が成されており、
  一切衆生の為に造立した旨の銘文と、徳治二
  年 (1307) という鎌倉後期の年号が彫られ
  ているとのことであった。
                  

      
       
     浅古宝塔・五輪塔 (奈良県桜井市浅古)
      
     
   桜井の町から多武峰の談山神社へと通じる
  道の左側(東側)にある古い集落で、旧大日
  寺の跡が現在浅古の会所となっている。
   重要な二基の石塔が、会所前の広場の隅に
  保存されていた。

   写真の左手が宝塔で、南北朝初期の暦応四
  年 (1341) の銘を持つ重要美術品である。
   くり型の台座の上に、側面を三区に分割し
  た基礎を二段に積んである。
   塔身には桟唐戸が刻まれ、勾欄を示す首部
  が形良く表現されている。
   最も特徴的なのが笠である。屋根四方の降
  棟の先端に鬼板が見られる。軒口は二重に見
  えるが、上層は珍しい檜皮葺型であり、軒裏
  には垂木型も意匠されている。
   いかにも南北朝らしい、精巧な装飾技法を
  駆使した名品のひとつだろう。

   右手の五輪塔は、無銘ながら鎌倉末期から
  南北朝にかけての造立と考えられる。
   各輪の梵字は無いが、基礎の正面に蓮華座
  に坐す阿弥陀如来像が、二重円光を彫りこん
  だ中に浮彫されている。その左右、蓮華座上
  の月輪内にサ(観音)サク(勢至)の種子梵
  字が配されている。
   五輪塔としては、余り事例を見ない。
            

     
       
     十二柱神社五輪塔 (奈良県桜井市出雲)
      
     
   桜井の市街から初瀬(長谷寺)へと向かう国
  道沿いに、出雲という字名の地域がある。
   神社は国道から北側に少し奥まった場所に在
  り、参道が本殿まで続いている。
   五輪塔は参道の右手上の段上に在り、
先ずは
   3m
弱という大きさに圧倒されてしまう。

   地輪が幾分台形になっているので、どっしり
  とした安定感を生んでいる。
   水輪は大らかな球形で重量感に満ちており、
  火輪(笠)は厚い軒と両端の力強い反りに時代
  の特徴が表れている。
   空・風輪は全体から見るとかなり大きめで、
  塔が示す重厚なイメージを生んでいる。
   鎌倉後期という年代が想起される。

   この五輪塔の最大の特徴は、各輪の四方に配
  された梵字であろう。通常は五輪塔の四門が刻
  まれているのだが、ここでは諸尊を表わす様々
  な種子が配されているのである。
   地輪に四天王、火輪に金剛界四仏、などなど
  全部で二十の種子が彫られ、さながら梵字種子
  の見本市の様である。写真で見るように摩滅し
  て判読不能の梵字もあるが、ヂリ(持国天)・
  ビー(広目天)・ビ(増長天)・ユ(弥勒)・
  ボロン(一字金輪)など、余り石塔には彫られ
  ない梵字がとても珍しかった。
                  

      
       
     粟殿墓地五輪塔 (奈良県桜井市粟殿)
      
     
   桜井市の粟殿(おうどの)地区は市役所も在
  る、町のほぼ中央に位置する。大和川の西岸に
  当たる地域で、浄土宗の寺院である極楽寺に隣
  接した大きな墓地である。
   墓地のほぼ中央にブロックに囲まれた一画が
  在り、そこにこの花崗岩製の五輪塔が何基もの
  小さな五輪塔と共に祀られている。

   先ず目を見張らされるのが、五輪塔を支えて
  いる台座の造作である。側面四方を三区に分け
  て格狭間を彫り、その上に大和式の複弁反花座
  を設けてある。同じ大和式でも、こちらは手が
  込んでいる。
   地輪には、この地の豪族良円坊父子が楠木正
  行に従って四条畷で討ち死にした後、未亡人の
  良妙が百か日の追善供養と、自身の逆修を目的
  として建立した旨が記されている。銘文には正
  平三年 (1348) という南北朝前期の年号が彫ら
  れている。
   水輪の球形曲線からは鎌倉期の重量感は消え
  つつあり、繊細な軽さが感じられる膨らみを見
  せて来ている。
   火輪にもそうした時代様式の変遷が感じられ
  るが、軒口の反りが両端部分で反り上がってい
  るのが最大の特徴だろう。
   軒口の厚さや宝珠などには鎌倉末期の面影を
  残しつつ、台座などに南北朝の壮麗な装飾を施
  した傑作、といえるだろう。   
                  

     
       
     粟原寺跡十三重塔 (奈良県桜井市粟原)
      
     
   桜井から国道を行くと、粟原(おうはら)は
  石位寺の在る忍阪の隣の集落である。
   国の史跡に指定された粟原寺跡は、集落背後
  の高台の森の中に礎石などを残すのみである。

   明治期に半坂峠から移築されたというこの石
  塔の建つ場所は、旧粟原寺の金堂が建っていた
  場所ではないかと言われている。
   高さは
345cmの塔で、上下の屋根の幅の逓減
  具合が割りと大きく、鎌倉期の特徴を備えた美
  しい層塔、というのが第一印象だった。
   相輪は喪失しており、間に合わせが載せられ
  ている。
   各層の屋根は、若干の破損はあるものの、概
  ね当初のものが揃っているように見える。軒口
  が両端で微かに反っているのも、鎌倉後期とい
  う時代を良く表わしている。
   塔身には豪快な筆致の梵字が、胎蔵界四仏の
  種子を象徴して薬研彫りされている。写真は右
  がア(宝幢)で左はアー(開敷華王)であり、
  ちなみに残りはアン(無量寿)とアク(天鼓雷
  音)の各如来である。

   花崗岩製の塔は背後の森の中に在って、「鶴
  の子塔」という俗称が相応しいと思えるほどに
  白く浮き上がって見えていた。
                  

     
       
     法起院十三重塔 (奈良県桜井市初瀬)
      
     
   西国三十三観音霊場の第八番札所である長
  谷寺の塔頭で、観音霊場の創始者とも言われ
  る徳道上人が晩年に隠棲した場所として、西
  国番外の札所になっている寺院である。
   寺は初瀬から続く門前町の中に在り、石塔
  は徳道上人の御廟とされる一画に上人の供養
  塔として建てられている。

   相輪は喪失しているが、立派な基壇の上に
  扁平な基礎を置き、その上に迫力十分の塔身
  と重層が載っている。
   塔身には、胎蔵界四仏の種子が、月輪内に
  薬研彫りされている。写真に写っている梵字
  は、左がア(宝幢如来)右がアク(天鼓雷音
  如来)である。
   各層の屋根は、一部に水平で反りの無い層
  があるものの、概ね両端が微かに反り上がっ
  た古式の造りとなっている。部分的な補修が
  あったのかも知れない。
   最下層の屋根の幅と最上層とを比較してみ
  ると、その逓減率は割りと大きく、この塔の
  堂々とした印象はここに由来しているように
  感じられた。
   年号の記銘が無いので、素人の推測の出番
  であるが、鎌倉後期は下らないといったとこ
  ろだろうか。
                  

    
      
     談山神社摩尼輪塔 (奈良県桜井市多武峰)
      
      
   日本に残る唯一の木造十三重塔を観
  に、私達はこの美しい朱塗りで総桧皮
  葺の神社を訪ねた。紅葉で有名な多武
  峰(とうのみね)だが、この時は新緑
  の鮮やかな季節だった。
   俗界から仏界までの五十二位を一町
  毎に示した丁石の終点に、この妙な形
  の石塔が建っていた。
   柱身が八角の笠塔婆であり、摩尼輪
  塔と呼ばれている。乾元二年(1303)の
  刻銘があり、確かに笠の反りなどに鎌
  倉中~後期の特徴が見て取れる。
   月輪内の梵字は胎蔵界大日如来を表
  す種子「アク」であり、塔身の八面は
  胎蔵界中台八葉院という曼荼羅を示し
  ている。梵字は薬研彫りの雄渾な筆致
  であり、とても美しい。
   類例のない石塔としても貴重な存在
  で、周辺の景色をも緊張させる存在感
  がある。
          

      
       
     談山神社十三重塔 (奈良県桜井市多武峰)
      
     
   先述の摩尼輪塔の所から参道を進むと、本殿
  の見えるあたりの左手奥の高台にこの石塔が建
  っている。
   談山神社を創建した藤原不比等の墓と伝えら
  れるが、時代の全く合わない伝承に過ぎないだ
  ろうと思う。
   石塔は鎌倉期のものであり、明治の廃仏毀釈
  までは神社と共存していた多武峰妙楽寺の遺構
  と考えられる。

   相輪は失われ、各層もかなり破損している。
  しかし、基礎に永仁六年 (1298) という鎌倉後
  期初めの年号と共に、伊派の石工伊行元の名が
  記された貴重な遺構なのである。
   また、阿弥陀信仰の結衆による勧進を示す銘
  文も見られ、民間信仰の歴史的な資料としても
  重要な存在である。

   塔身には、金剛界四仏の種子が、雄渾な書体
  で薬研彫りされている。鎌倉期に相応しい力強
  さが感じられる。写真の梵字はタラーク(宝生
  如来)で、右斜めはウーン(阿しゅく如来)で
  ある。
   各層の屋根の幅の逓減率は、時代的には以外
  と低いのだが、厚い軒口と両端で反り上がった
  様式は、十分に鎌倉後期の特徴を発揮している
  ように思える。
                  

      
   
     於美阿志神社旧十三重塔 (奈良県明日香村檜前)
      
       
   明日香の檜前(ひのくま)の里にあるこの神社は、
  奈良時代には檜隈寺が建っていた場所だった。
   層塔は社殿横の広々とした草地にポツンと建っ
  ており、やや意外な感じがするが、鉄柵で囲って
  しっかりと保存されていた。

   初見の印象は、屋根の厚みが堂々としているこ
  と、軒の反りがとてもおおらかであること、そし
  て、下から上への屋根の巾の逓減の度合いが何と
  も優雅であることだった。
   これらの特徴だけでも、鎌倉期の技巧的な意匠
  とは違った朴訥とした伸びやかさが感じられて、
  おそらくはそれ以前の平安期のものであることが
  小生にも想像出来た。
   数えてみると層は十一しかなく、逓減の具合か
  ら上部二層と相輪は喪失したらしい。

   軸部の四方に、底面の平らな浅彫りで梵字種子
  が彫られている。顕教四仏のバク(釈迦)、キリー
  ク(阿弥陀)、ユ(弥勒)で、もう一つは薬師を表す
  バイが本来なのだが、ここではウーン(阿しゅく)
  が彫られていた。顕教四仏に金剛界四仏のウーン
  を取り入れた事例は珍しいが、密教思想に基づく
  ものであるらしい。  
     

     
       
     岡寺宝篋印塔 (奈良県明日香村岡)
      
     
   別名龍蓋寺とも呼ばれるこの寺は、明日香
  村の東、山腹に伽藍を配した西国三十三観音
  霊場の第七番札所として知られる。
   珍しい塑像の本尊如意輪観音坐像に詣でて
  から、本堂前の丘の上に建つこの宝篋印塔を
  訪ねた。

   寺の開基である義淵僧正の廟塔と伝えられ
  ており、柵に囲まれた一画に据えられた立派
  な基壇の上に載っている。
   更に二重の切石による台座を重ね、その上
  に宝篋印塔を載せている。
   写真は背後からのものだが、正面台座の穴
  に如法経が安置されていたそうである。

   基礎には輪郭が巻いてあり、三面に格狭間
  が意匠され、もう一面に如法経奉納を記す銘
  文と、延文五年 (1360) 南北朝中期の年号が
  彫られている。
   基礎上二段に塔身が載り、四面に月輪内の
  金剛界四仏種子が刻まれている。時代を物語
  るように、彫りは浅く梵字の筆致は弱々しい
  ものとなっている。繊細な表現、という見方
  もあることは承知している。
   笠は上六段下二段で、二弧輪郭巻きの隅飾
  はやや外側に反っている。
   相輪も完璧な彫りで、鎌倉期の力強さには
  程遠いが、円熟した優美な時代を反映してい
  る、と感じられた。
                  

      
       
     奥山久米寺十三重塔 (奈良県明日香村奥山)
      
     
   明日香村東北の桜井市との境界に近い田園
  の中に奥山という集落があり、そこに7世紀
  前半の寺院跡が発見された。現存最古の鬼瓦
  などが出土したそうで、往時は四天王寺式伽
  藍配置の大寺院であったという。
   現在は久米寺という江戸期の浄土宗寺院が
  建つが、境内に奥山久米寺の遺構である礎石
  が多数残されている。
   十三重塔は塔跡と思われる土壇に残る礎石
  の上に建てられている。

   一枚の切石を土台として、高さ4
m花崗岩
  製の塔が載っている。
   相輪は失われ、五輪塔の笠が載っている。
  全く意味の無い補修といえる。
   屋根の各層は、軒口が全体に緩やかな反り
  を見せ、両端でちょっと反り上がっている。
   各屋根裏に、薄い垂木型が意匠されている
  のが、この塔の一味違う部分だろう。
   屋根の幅の逓減率はやや小さ目というとこ
  ろだろうか。
   下から二番目の屋根が明らかに不揃いで、
  これは後世の補修だろう。
   塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りさ
  れているが、大きな梵字がやや摩滅気味なの
  が残念である。
   鎌倉末期に近い後期の作、と思われる。
                  

      
       
     龍福寺層塔 (奈良県明日香村稲淵)
      
     
   稲淵は飛鳥川の上流に位置する万葉の里で、
  棚田の広がる牧歌的な集落である。寺は集落の
  中の小高い場所にひっそりと建っている。

   写真は“竹野王の石塔”と呼ばれる層塔で、
  境内の一画の柵に囲まれた覆屋の中に保存され
  ている。
   何と、天平勝宝三年 (751) 奈良後期という
  桁違いの古さを示す年号が刻まれているのであ
  る。在銘の石塔としては最古の塔であろう。
   近江石塔寺の三重塔、大和塔の森の十三重塔、
  太子町鹿谷寺跡十三重塔、などと共に奈良時代
  を代表する貴重な遺構なのである。

   柵が近く、屋根が低く暗いので、写真では良
  く判らないが、屋根石は三重になっている。
   ただ、三層目の屋根の上にも軸部が残ってい
  るので、当初は五重の石塔であったと考えられ
  る。屋根と軸部は別石で、古い様式を示す。
   磨耗が激しくほとんど判読出来ないが、初層
  軸部(塔身)に「昔阿育□王八万四千塔遍…」
  から始まる刻銘があり、年号の後に「従二位竹
  野王」と記されているという。アショカ王の言
  い伝えに倣って竹野王が建てた、とのメッセー
  ジであろう。
   竹野王が何者かは余り明確には判らないが、
  少なくとも竹野王は塔の建立者であって、墓塔
  であるとは考えにくい。
                  

      
   
     観音院跡宝篋印塔 (奈良県高取町上子島)
      
      
   明日香の南、高取町には、西国札所として著名
  な壺阪寺がある。その入口である近鉄壺阪山駅の
  ところから、高取城址へ向かって登って行く道が
  ある。
   車で行けるのは宗泉寺までだが、そこから高取
  城址方面へは向かわずに、宗泉寺の横から山道を
  抜けて裏山の横へと出たあたりに、現在は廃寺と
  なってしまった観音院の跡がある。

   荒れ果てた境内の一画に、掃き溜めの鶴とでも
  言えそうなほど秀麗な宝篋印塔が建っていた。
   相輪が半分に折れているが、塔全体は当初から
  の完存塔で、古い様式を伝える貴重なものである。

   笠の上部は六段で、その上に露盤があり、各面
  に二区の格狭間が彫られた繊細な造りである。
   四隅の隅飾は二弧で、格別の彫刻は無い。真っ
  直ぐに立った様は古式で、輿山往生院や為因寺の
  事例にとても似ている。
   塔身の四方に半肉彫りの四方仏像が彫られてい
  るが、最大の特徴は笠の下部と基礎の上、つまり
  塔身の上下が蓮弁で飾られていることだろう。上
  部は単弁、下部は複弁反花座がとても美しい。
   基礎に銘が彫られており、弘長三年 (1263) と
  いう魅力的な年号が確認できる。大和では輿山往
  生院と額安寺に次ぐ、鎌倉中期の作なのである。
     

  
    
     壺阪寺宝篋印塔 (奈良県高取町壺坂)
    
    
   西国第六番の札所であり、境内には木造三重
  塔などの伽藍が建ち並ぶ壮麗な寺院である。
   以前、札所巡礼で訪ねたことがあり、今回は
  二度目の訪問だった。前回の時には、この宝篋
  印塔の存在は知らなかった。
   三重塔の南庭の片隅に、他の数基の石塔と並
  んで、写真の宝篋印塔が建っていた。

   最初の印象は京都清涼寺のものに似ているな
  と感じたのだが、川勝先生のお説はこちらの方
  が古い鎌倉中期のものであるらしい。
   だが私の直感も捨てたものではなく、笠の下
  が大変珍しい三段であること、隅飾りが三弧で
  中に梵字「ア」が刻まれていることなど、清涼
  寺のものとは共通点が多い、とのことであった。

   全体のプロポーションが余りにも似ているの
  で、同じ作者によるのではないか、と私は思っ
  ているほどである。

   搭身四方に梵字種子による金剛界四仏が彫ら
  れ、その下に反花座が有るが、基礎に格狭間な
  どの装飾は無い。
   相輪が見事であり、上から宝珠・竜車・水烟
  ・九輪・請花・伏鉢と並んだ完璧な作例である。
          

      
      
     勝福寺墓地笠塔婆 (御所市西寺田)
     
     
     葛城山系の東側にある市で、御所(ごせ)と
  読む。飛鳥以前からの古い歴史を有する地で、
  天皇陵や古墳が数多く点在している。

   市の中心から国道24号線を南へ暫く行った
  あたりに西寺田の信号がある。お寺は国道から
  少し西側へ登って行くことになる。
   寺域の前は畑地になっており、その向こうに
  寺僧墓地の一画が設けられている。
   手前の道からも確認出来るが、近付くには畑
  の脇の細い畦道を行かねばならない。

   墓地の中央に建っているのが、写真の笠塔婆
  である。細く背の高い塔身のシルエットは、遠
  見からも尋常ではない美しさが感じられた。
   宝珠はやや扁平だが、笠の屋根の傾斜がたお
  やかであり、軒の反りが優雅な緩やかさが素晴
  らしい。この笠石を見ただけでも、鎌倉中期頃
  の制作だろうと推察出来る。
   事実、現在は摩滅が激しく判読不能だが、塔
  身に文永七年(1270)という鎌倉中期の年号が刻
  まれているのだそうだ。
   塔身の上部に顕教四仏の坐像が、舟形光背の
  中に彫り込まれている。写真(西向き)は阿弥
  陀如来である。
   帰り際に振り返って眺めた笠塔婆の姿は、ま
  るで立ち上がる幻の塔のように見えた。
                         

       
       
     法華経塚五輪塔 (御所市櫛羅)
     
     
     葛城山へ登るロープウェイの乗り場が在る地区
  で、櫛羅は“くじら”と読むそうだ。
   御所の町の中心から真東に向かうと葛城山登山
  口に至るのだが、途中に櫛羅交差点があり、通り
  過ぎて直ぐ左手のやや下がった所に“ほけきょう
  塚”と呼ばれる一画が在る。

   一番小高い場所に写真の五輪塔が建っているの
  が見える。高さは
150cm ほどである。
   空輪(宝珠)がかなり扁平で、風輪と共に全体
  に不調和感がある。おそらくは後世の追補だろう
  と思われる。
   空風輪には無いが、五輪塔四門の梵字(キャ)・
    (カ)・ラ・バ・ア等が、火水地輪それぞれの四方
  に刻まれている。
   地輪(基礎)に銘文が刻まれており、梵字アの
  面に元応元年(1319)という鎌倉後期の年号が確認
  出来る。
   笠(火輪)の形が時代に応じた美しさを示して
  いる。厚い軒の微妙な反りと両端の反り上がった
  姿は、典型的な鎌倉後期の様式を見せている。
   やや押しつぶしたような扁平な球形の水輪も、
  全体のシルエットとしては悪くない。

   地輪の別の面(アーの面)に、寛延元年(1748)
  という江戸中期の年号と“妙法蓮華経”という追
  刻が見られる。「ほけきょう塚」という地名の由
  来となった信仰の名残だろう。
                         

       
       
     天満宮五輪塔 (御所市富田)
     
     
     御所市東側の富田地区は、日本武尊の白鳥
  陵が在ることで知られている。伊勢に崩じた
  日本武尊が白鳥と化して、この地にも留まっ
  たという伝説が残されている。

   天満宮は白鳥陵に近い富田交差点を、南へ
  折れて直ぐの小高い丘の上に建っている。
   写真の五輪塔は、天満宮の鳥居前の空地に
  建っており、かなりの大型の塔であることに
  驚かされる。

   地輪(基礎)の面に「大念仏衆奉造立之、
  正和四年(1315)」という銘文が刻まれている
  ことが資料に書かれているが、実際には拓本
  を採らないと判読出来ぬほどであった。

   ふっくらとした形の良い空輪(宝珠)と風
  輪、軒の厚みが豪快で、両端が小気味よく反
  り返った火輪(屋根)、微かに扁平な膨らみ
  の水輪など、鎌倉後期といっても中期に近い
  正和という魅力的な年号に相応しい秀麗で剛
  毅な五輪塔であろう。

   御所市の風の森という所に観音寺が在り、
  そこに正和三年の五輪塔が残っているとのこ
  とだったが、今回は訪問出来なかった。
                         

    
    
     栄山寺七重塔 (奈良県五条市小鳴)
     
   
   五条市の宇智川に残る、奈良時代の磨崖碑を見
  た。宝亀七年 (776) という貴重な史跡だが、か
  なり摩滅が進行している。

   栄山寺はそこから歩いてすぐの場所に在る。法
  隆寺の夢殿にも匹敵する、天平の遺構である国宝
  の八角円堂に詣でてから、私達は境内に建つこの
  七重石塔を見た。

   かなり苔むしており、いかにも古塔らしい佇ま
  いが気に入った。時として、苔にだまされてしま
  う事もあるが、ここでは、屋根の反りは緩やかだ
  が厚く豪壮であり、間違い無く鎌倉初期の特徴を
  示している。

   上部の相輪には、下から露盤、伏鉢、請花、七
  重相輪、水煙、龍車、宝珠と完璧に揃っている。
   基礎の上の塔身には、薬研彫りで梵字が彫られ
  ている。写真は北面の「アク」で、時計回りに東
  面が「ウン」、南面に「タラーク」、西面に「キ
  リーク」が見られ、これらは不空成就如来、阿シ
  ュク如来、宝生如来、阿弥陀如来の金剛界四方仏
  であろう。
   ずっしりと構えており、まことに重量感に満ち
  た堂々たる秀塔だった。
            

  
       
     鳳閣寺宝塔 (奈良県黒滝村鳥住)
     
     
     長い間多くの古石塔を眺めて来たが、かくも完
  璧な造形美を示す遺構を見た事が無い。ついこの
  間完成したのではないか、と思えるほどの瑞々し
  い完成度。
   しかし、この宝塔へたどり着くまでには、相当
  の覚悟と労力が必要となる。鳳閣寺は吉野山系の
  百貝岳中腹に建っており、西行庵からは尾根伝い
  のハイキング・コースが在る。私たちは下市から
  車で山道を行ける所まで行き、急坂を歩いてよう
  やく寺に到達する。しかし、宝塔は寺から更に、
  杉林の急斜面を数十分登らねばならなかったのだ
  が、“熊出没注意”の看板は恐怖に近かった。

   覆屋に守られた宝塔(重文)は、正平二十四年
  (1369)南北朝中期の作で、大峰修験道の祖理源大
  師聖宝の廟と伝わる。
   一番下の基壇には側面三区に複弁反花、その上
  の基礎には側面二区格狭間、そして請花座の上に
  塔身が載る、という何とも壮麗な造形が成されて
  いる。写真は背部だが、基礎正面には亀の頭と肢
  が彫られている。
   塔身軸部には精密な桟唐戸、首部には勾欄、笠
  裏には垂木や隅木、屋根には降棟や露盤など、実
  際の木造建築的手法を模した造形的技法には舌を
  巻かざるを得ない。
   石塔巡拝至福の時間であったが、帰路の“熊出
  没”をすっかり忘れていたのである。
                         

     
       
     村上義光宝篋印塔 (奈良県吉野町吉野山)
      
     
   吉野神宮から蔵王堂へと続く自動車登山道
  の脇の小高い場所に、村上義光(よしてる)
  の墓と伝えられる宝篋印塔が祀られている。
   義光は信濃の武将で、護良(もりなが)親
  王の身代わりとして、蔵王堂の前で壮絶な自
  刃を遂げた南朝の忠臣である。

   相輪は上部が破損しているが、残された請
  花や伏鉢から想像して、堂々とした相輪であ
  ったと思われる。
   笠は上六段下二段、隅飾りは二弧輪郭付き
  で、微かに外側へ反っている。
   塔身の四方には輪郭が巻いてあり、その中
  の月輪内に胎蔵界四仏の種子が薬研彫りされ
  ている。写真は西側正面の梵字で、無量寿如
  来を象徴する「アン」である。
   ちなみに、他三方の種子はアク(天鼓雷音
  如来)ア(宝幢如来)アー(開敷華王如来)
  である。
   基礎は上に二段を設け、側面は無地だが、
  複弁反花座に載っている。
   銘文が一切無いので様式からの推論でしか
  ないが、相輪や隅飾からは鎌倉末期、梵字の
  柔和さからは南北朝が想定され、総合的には
  鎌倉末期に近い南北朝初期あたりではないか
  と思われる。
   「太平記」に記された義光の逸話は元弘三
  年とされるので、時代的にはちょうど適合し
  てはいるようだ。
                  

     
       
     菅生寺五輪塔 (奈良県吉野町平尾)
      
     
   平尾は吉野山の東にあるダム湖津風呂湖
  の北、龍門岳山麓の谷あいに位置する鄙び
  た集落である。
   菅生(すぎょう)寺は集落の西に在り、
  現在は衰微したとはいえ、かつて栄えた龍
  門寺の別院として、8世紀に岡寺の義淵に
  より開基された古刹である。

   本堂背後に墓地が在り、そこに写真の五
  輪塔が建っている。
   台座の上に複弁反花座を設け、その上に
  五輪塔が載っている。
   膨らみに張りの在る宝珠(空輪)、軒口
  の両端のみが反り上がった笠(火輪)、や
  や歪な球形の水輪などからは、南北朝に限
  りなく近い鎌倉末期の造立が推定される。
   全体的に整った五輪塔だが、火輪の屋根
  の傾斜線と、水輪の曲線に居心地の悪さが
  感じられるのは何故だろう。
   銘文の無いことから、義淵僧正の墓碑説
  は否定されるべきと考える。

   五輪塔の前に、もうひとつの重要な石塔
  が建っている。建武三年 (1336) 南北朝初
  頭の銘がある笠塔婆である。月輪内に「ア」
  の種子を薬研彫りし、下に没後百十三年目
  の慶円上人御廟と記した供養塔である。
                  

      
       
     龍門寺跡笠塔婆 (奈良県吉野町山口)
      
     
   前述の平尾と隣接する山口の集落には山口神
  社が鎮座しており、そこから北へ龍門岳へと向
  かっていく道がある。
   杉林に入り、谷あいの山道を登って行くと、
  右手の崖の斜面に、鉄柵がめぐらされた中に建
  つ形の良い笠塔婆が目に入る。
   現在は廃寺となってしまった、龍門寺の入口
  に建っていた下乗石である。

   高さ
2mの花崗岩製で、笠の下には180cm
  どの方形柱状の塔身が建てられている。
   塔身の上部には横一線の区切りが入れられ、
  その中の月輪内に金剛界四仏の種子が薬研彫り
  されている。写真の梵字は、左がキリーク(阿
  弥陀)、右がタラーク(宝生)である。
   キリークの下に下乗、タラークの下に龍門寺
  の銘が確認出来る。
   キリークの面の向こう隣に、元弘三年 (1333)
  という鎌倉末期の年号が刻まれている。
   梵字の書体からは、力強い筆致から柔和な表
  現へと移行しつつある時代性が感じられる。

   軒下に一重の垂木型を作り出した笠は、ほぼ
  水平ながら微妙な反りが付けられ、両端で少し
  だけ反り上がっている。これもいかにも鎌倉末
  期らしい姿であろう。
   笠の上には露盤が設けられているが、載って
  いるのは別石の宝珠であるという。   
                 

      
       
     薬師寺宝篋印塔 (奈良県吉野町山口)
      
     
   この寺は前述の山口の集落内、人家から少
  し離れた小高い斜面の上に建っている。
   民家のような本堂だけが建つ質素な佇まい
  だが、狭い前庭の一画に、柵に囲まれて国の
  重要文化財に指定されたこの宝篋印塔が密か
  に建っていた。

   一目見るなり、相輪部分は五輪塔の空風輪
  であり、塔身はどう見ても層塔の初層軸部ら
  しいと感じた。
   寄せ集めの石塔が何故国の重文に?と疑問
  を抱いたのだが、基礎から建治四年 (1278)
  という鎌倉中期の年号が発見されたことや、
  笠の様式に顕著な特色が認められたからだと
  判明した。
   笠は、下二段上四段だが、最上段は傾斜を
  付けた台形となっている。
   二弧無地の隅飾はほぼ垂直に立っており、
  いかにも古そうな様式を示している。

   塔身はどう見ても層塔のものだが、宝篋印
  塔全体としては、バランスの取れた美しい姿
  に見える。
   基礎下に設けられた反花座は摩滅して判然
  としないが、これも時代がやや下がった別物
  らしい。
   それにしても、笠と基礎以外は全て別物の
  寄せ集めにもかかわらず、何とも美しく見え
  る不思議な重文の宝篋印塔である。
                  

      
       
     福寿院跡十三重塔 (奈良県東吉野村小栗栖)
      
     
   吉野町の窪垣内から、吉野川の支流高見
  川沿いに東へ進むと、山間の地さながらの
  集落が次々に現われる。東吉野村は、幕末
  の天誅組所縁の地として知られる。
   そんな集落の中で、小栗栖は比較的広い
  平地に家々が建ち並ぶ静かな里であった。

   福寿院跡の所在が判らなかったが、或る
  民家の裏山がそうだと判り、お願いして見
  せていただくことが出来た。
   裏山の斜面の一画に、南北朝の年号を有
  する一基など、数多くの五輪塔が建ち並ん
  だ平地があり、中央に写真の十三重石塔が
  建っていた。どうやらその辺りが、福寿寺
  の在った場所らしい。

   高さは
330cm余りで、相輪はどうやら後
  世のものらしい。台座の上に別の相輪の部
  材が置かれていたが、古そうではあるがオ
  リジナルかどうかは判らない。
   各層の屋根の軒裏には一重の垂木型が意
  匠されており、屋根幅の逓減率の低い優雅
  な姿からも南北朝期の作と想定していた。
   また軒はほぼ水平で、左右両端で反りを
  見せる手法も南北朝期の特徴と言える。
   塔身には、月輪内に胎蔵界四仏の種子が
  薬研彫りされている。時代に合った、穏や
  かな筆致の梵字である。写真の梵字は「ア
  ー」で、開敷華王如来を象徴している。
                  

     
       
     天照寺十三重塔 (奈良県東吉野村小)
      
     
   先述の小栗栖から更に上流へ進むと、小(お
  むら)と読む珍しい名の集落が在る。茅葺の薬
  師堂で知られる天照寺は、集落の小高い場所に
  建っている。
   南朝が奪った三種の神器のひとつの勾玉を、
  朝廷へ返還した小川弘光一族の菩提寺であり、
  墓地は一族の墓所とされている。

   安山岩製のきりっとした十三重塔が二基、石
  垣沿いにすっくと建っている。写真の左が北塔
  で鎌倉末期、右が南塔で南北朝中期と考えられ
  る。とても似ているように見えるが、詳細に眺
  めると随所に時代の違いが見えて興味深い。
   相輪は、どちらも上から、宝珠・龍車・水煙
  ・九輪・請花・伏鉢が完備している。
   最大の相違が屋根で、最下層の屋根幅も上に
  向かう逓減率も、明らかに北塔の方が大きい。
  また、軒口の両端の反り具合は、南塔の方が大
  きく反り上がっている。
   どちらの軒裏にも、一重の垂木型が作り出さ
  れており、丁寧な仕事ぶりを立証している。
   塔身の金剛界四仏を象徴した種子(梵字)は
  同じだが、北塔の切れ味鋭い薬研彫りの筆致に
  比べ、南塔のものにはやや草書的な穏やかさが
  見られて面白い。

   同墓地内には多数の五輪塔が林立しており、
  南北朝期以降のやや迫力に欠けた形式が中心と
  なっている。
                  

      
       
     大蔵寺旧十三重塔 (奈良県宇陀市大宇陀栗野)
    
    
   大宇陀の集落から少し離れた小高い山の上に
  建つ寺で、車は途中までしか入れず後はかなり
  歩かねばならない。大師堂など貴重な建築も多
  いが、寺内はかなり荒廃している。
   この石塔は現在十重だが、本来は十三重であ
  ったことは間違いない。何度も倒壊したために
  破損が激しいが、スックと建つ細身の優雅さが
  只者ではない美しさを感じさせてくれた。その
  点からは、鎌倉末期以降が予見される。
   塔身には金剛界四仏種子の薬研彫りが、鎌倉
  中期らしい鋭さを見せているので戸惑う。

   後で見た資料で意外だったのは、基礎部分か
  ら伊行末という名前と延応二年 (1240) という
  年号が発見されていた、ということだった。
   既述の奈良般若寺の十三重石塔と同じ作者と
  いうことになるのだが、石塔そのもののフォル
  ムがかなり違うように思えたからだった。
   屋根の巾の逓減率が大きい般若寺の塔と比べ
  ると、ここの逓減率の低さは鎌倉末期以降を示
  している、とも思えたのだった。

   いずれにしても、山道を歩いてようやくたど
  り着いた荒れ寺の奥で、かくも美しい石塔と出
  会えた感動は格別の歓びであった。 
             

      
       
     光明寺十三重塔 (奈良県宇陀市大宇陀西山)
      
     
   現在の宇陀市は、かつての宇陀郡大宇陀、
  菟田野、榛原、室生の四町が合併して出来た
  新しい市である。
   光明寺は大宇陀の中心街の北に在る立派な
  寺で、参道の奥に桧皮葺の鐘楼門が私達を出
  迎えてくれる。

   十三重石塔は門を入って直ぐ、本堂の前に
  静かに建っていた。
   高さが4
mはある優雅な塔で、花崗岩で出
  来ている。
   相輪は水煙から上が破損しているようにも
  見える。
   各層屋根の軒口の厚さを眺めた時、下から
  五層目までと六層目から九層目まで、そして
  その上の四層とがそれぞれ別物ではないか、
  と感じられた。しかし、どこにもそうしたコ
  メントは見られず、単なる小生の考え過ぎだ
  ったかもしれない。写真からも、そう感じら
  れなくもないのだが。
   屋根の下層部は軒口厚く鎌倉風だが、全体
  的には屋根幅の逓減率が少ないすんなり型で
  あり、両端が反り上がった様式は南北朝的で
  ある。
   塔身には豪快な筆致の梵字が薬研彫りされ
  て、金剛界四仏を表わしている。彫りは至極
  鎌倉的である。
   刻銘が無く、年号が不明であるので困惑す
  るが、年代推定を楽しむのであれば、南北朝
  初期としたいのだが。  
                  

      
       
     覚恩寺十三重塔 (奈良県宇陀市大宇陀牧)
      
      
   大蔵寺からさらに南下すると、吉野町との
  境界間際に牧の集落がある。
   寺は質素な本堂がポツンと建つのみだが、
  南朝の忠臣牧一族の菩提寺であり、重文の薬
  師如来像(拝観不可)を安置する。
   十三重塔は、境内の少し離れた場所に、基
  壇を設けて建てられている。
 
   相輪は、先端の宝珠部分が補修されている
  以外は、当初のものと思われる。
   各層の屋根は、軒裏に一重の垂木型が作り
  出されており、軒口の厚さも幅の逓減率も適
  度で、見た目も割合すっきりと建っている。
   軒口がほぼ水平で、両端が反り上がった様
  式は、鎌倉末期から南北朝にかけての特徴な
  のだが、ここでは鎌倉的な色彩が濃く残って
  いるような印象を受けた。
   何とも残念なのが、塔身(初重軸部)にも
  基礎部分にも一切の彫刻が施されておらず、
  全くの無地であることだった。当初からの意
  匠なのか、意図あってのことなのだろうか。
   この石塔が、長慶天皇の墓という言い伝え
  があるそうだが、何らかの関係があるのだろ
  うか。
   重要文化財の指定を受けて手厚く保護され
  ることに異存は無いが、どのような基準で選
  考されるのかは甚だ疑問である。この塔が鑑
  賞に値する素晴らしいものであることは確か
  だが、もっと古くて在銘の傑作は他にいくら
  でも在るからである。   
                  

     
       
     仏隆寺十三重塔 (奈良県宇陀市榛原赤埴)
      
      
   旧榛原町の赤埴(あかばね)という山間
  の地に在る真言宗の寺院で、空海の弟子堅
  恵が9世紀半ばに創建した名刹であった。
   その後衰退、中興を繰り返し、明治の廃
  仏で現在のような山寺となった。
   古墳のような構造の石室(重文)が保存
  されていることで知られる。

   十三重塔は本堂の裏に、写真のような姿
  で建っている。
   相輪は崩落し、上部の屋根の積み重なり
  は、どう見ても捩れている。
   各層の屋根はかなり損傷が激しいが、軒
  下に一重の垂木型を作り出しており、軒口
  が緩やかに反り、両端が少し反り上がった
  様式は、鎌倉後期の特徴を十分に物語って
  いる。屋根幅の逓減率が低く、上下の幅が
  余り変わらないのは、南北朝的ではある。

   写真では判然としないが、基礎に刻銘が
  あり、元徳二年 (1330) という鎌倉末期の
  年号が刻まれている。鎌倉から南北朝へと
  様式が変遷する時代の産物なのだろう。
   塔身の四面には、金剛界四仏の種子が月
  輪の中に薬研彫りされている。梵字の筆致
  は大らかで、鎌倉期の剛毅な名残を伝えて
  くれている。   
                  

      
       
     室生寺五輪塔 (奈良市宇陀市室生)
      
     
   本堂の西側、五重塔の石段を降りたあたりに
  数基の石塔が並んでいる。国宝クラスの建築や
  仏像に囲まれた荘厳な寺域にあって、石塔に目
  を向ける人などまことに稀有ではあるが、写真
  の五輪塔は、重要文化財に指定された正に名石
  塔のひとつ、と言えるだろう。

   火輪(笠)は、ややきつい屋根の傾斜、厚い
  軒口の両端での急な反り、などに鎌倉後期の特
  徴を示している。
   水輪の球形は、上部が膨らんだ肩張り型で、
  これも鎌倉後期に多く見られる様式である。
   五輪塔の四門を象徴する梵字は彫られておら
  ず、また銘文なども一切記されてはいない。
   塔は、大きな基壇に切り石を置き、更に複弁
  反花座を設けて五輪塔を載せている。
   従来より北畠親房の墓とされていた事から、
  大正期に調査が行われたのだが、水輪部分の孔
  から木造小五輪塔が、さらにその下部から水晶
  製の六角小五輪塔が発見されたという。土中か
  らは骨壷が出たそうだが、親房の墓を立証する
  には至らなかったらしい。

   室生寺は石造美術の宝庫でもあり、五輪塔の
  隣には南北朝の宝篋印塔が建つ。奥の院大師堂
  の高みには、平安期とも言われる七重石塔が建
  つ。重文の納経石塔は、禁足の如意山頂に在っ
  て近づけない。
                  

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