石塔紀行(8) |
層塔・宝塔・ 宝篋印塔・五輪塔 |
大和 (南部) の石塔巡拝 |
理源大師聖宝廟所宝塔 (南北朝中期の造立) 鳳閣寺裏山(奈良県黒滝村) これほど美しい石塔は滅多にないだろう。 |
香芝市~上牧町~広陵町~田原本町~桜井市~ 宇陀市より南を大和(南部)とした。当サイト便 宜上の区画である。 記銘石塔の本邦最古は、奈良明日香の龍福寺層 塔で、天平勝宝三年 (751) という圧倒的な古さ である。さすがは大和明日香というところだろう か。石造文化においても、明日香には古代からの 遺構が数多く保存されており、古墳や石舞台は良 く知られている。 石塔は平安末期以降が大半だが、石造美術の伝 統は綿々とこの地方に受け継がれていたようだ。 石の文化は決して西洋だけのものではなく、古 代より日本人は石に永遠性や神秘性を感じ、厚い 信仰心を背景として石仏や石塔を彫ってきたので ある。 大和の石造美術行脚では、そうした歴史的な奥 深さが特に感じられる。 |
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当麻北墓五輪塔 |
葛城市当麻 |
当麻寺の北側斜面に古い共同墓地があり、その 登り口付近に中世の十三重石塔などと共に、この いかにも古そうな五輪塔が一段高い墓所の中に建 っているのが見えた。 最初の印象は、五輪塔というよりも宝塔ではな いかと思ったのだが、それは通常は球形に近いは ずの水輪が、ここではやや細長い壺型をしていた からだろう。 しかし、五輪塔の四方門を表す梵字種子が刻ま れているので、すぐに第一印象が間違いであった 事を知った。 写真は東側の発心門を表す「キャ・(カ)・(ラ) ・バ・ア」なのだが、風輪と水輪の梵字は摩滅し て見えない。梵字は誠に雄渾な筆致であり、古色 を示す深い薬研彫りの手法で刻まれている。 笠の屋根の傾斜は緩やかであり、軒反りは堂々 として厚く、地輪は低くどっしりとした感じを抱 かせてくれた。 まことに古色蒼然とした名品であり、その大ら かな荘重さは鎌倉時代を越え、平安末期をも想定 させてくれる。 この石塔が国の重要文化財に指定されている、 と聞いて驚いた。卓越した見識を持つお役人も居 たのだ、と認識を改めたのである。 |
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当麻けはや塚五輪塔 |
葛城市当麻 |
当麻の蹴速(けはや)と出雲の野見宿禰(のみ のすくね)が力比べをしたという伝説から、当地 が相撲発祥の地とされている。 この塚は、当麻寺の参道脇に在り、敗者となっ た蹴速を追善して建てられたという五輪塔なのだ そうだ。 空・風輪は一石で、堂々とした宝珠が見事であ る。全体は花崗岩製だが、色がやや違うのが気に なった。 火輪(笠)は厚めの軒が両端で反るという、典 型的な鎌倉後期の様式であり、なかなかの逸品と いえる。だが、水輪(塔身)の球体の大きさと比 べてみると、明らかに笠が小さ過ぎることは歴然 としている。 五輪塔四門の梵字や、銘文など一切見当たらな いので何とも致し方が無いのだが、水輪と地輪は 均整が取れている事から、笠(火輪)から上が別 物の寄せ集め石塔、と考えざるをえないだろう。 夢に満ちた伝説を秘めたこの五輪塔は、寄せ集 めとすれば石造美術的には価値は半減するだろう が、人々の信仰や思い入れを集めてきたという歴 史的な重みは無視できないに違いない。 |
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天満神社多宝塔 |
大和高田市根成柿 |
石造美術史において、石造多宝塔の作例は極め て珍しい。信州や上州・近江など他に数例あるも のの、鑑賞しうる作品はごく限られるだろう。 ここに掲載した事例はかなり崩落し改修された ものなのだが、様式的にとても古いものであり、 写真の右側に写っている層塔残欠と共に、おそら くは平安後期頃の作ではないかと思い掲載した。 そうだとすれば、日本最古の石造多宝塔の作例 として、まことに貴重な存在となる。 二段の基礎、堂々たる軸部はいかにも古そうで あり、饅頭型は下層屋根と一体で彫られている。 厚い軒の屋根に勾配はほとんど無く、微妙な反 りしか見られないことからも、鎌倉以前の古式を 示しているとは思うが、全くの崩壊寸前といった 状態では推定の域を出ないことではある。 首部は別石のようであり、屋根の上に載ってい るのは露盤だろうか。 年代の設定は面白いのだが、それよりもこの瀕 死の石塔が示すフォルムの重厚さに惹かれる。古 いものが示す独特の魅力は、滅び行くモノの美学 とも言えるだろう。感傷的な解釈の許される、素 人だけの領域での楽しみではある。 奥の三重層塔は、従来はもっと多層であったと 思われるが、ほぼ同じ平安期の遺構のようだ。 |
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久米寺層塔 |
橿原市久米町 |
橿原神宮の境内とは、近鉄の線路を隔てた南側 に位置している。 久米仙人の伝説や空海による真言宗発祥の地と して知られる、7世紀に起源を持つ名刹である。 本堂手前の植栽の中に、写真の七重塔が隠れる ようにして建っていた。 基礎は埋め込まれていて見えないが、塔身には 何とも大らかな筆致の梵字が彫り込まれていた。 彫りが浅く、字幅が比較的広いのは、明らかに平 安から鎌倉初期にかけての古い様式の塔に見られ るので期待が膨らんだ。 写真の梵字は、金剛界四仏のウーン(阿閦)で ある。 各層の屋根を見ると、最上部の屋根は明らかに 後補だが、他は比較的厚い軒、緩やかな曲線と両 端の微妙な反りなどが古式を示している。 下四層の屋根幅の逓減率がこの段階ではまだ出 ておらず、かなり上方を目指した逓減とすれば、 原初は十三重塔だったのではないか、という大胆 な発想を抱いていた。奇想天外な久米仙人の話を 聞いた直後だったからだろうか。 かなり荒廃した石塔だが、随所に古式の風格と 大らかな美しさが感じられる点からも、平安後 期から鎌倉初期にかけた遺構なのであろう。 |
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薬師堂十三重塔 |
橿原市光陽町 |
橿原神宮の西、大和高田市根成柿に接する地区 である。近年広がった新しい住宅地の家並の中程 に、薬師堂という小さなお堂を祀った古い一画が ある。 お堂の前面、境内の東南隅に金網で囲まれた中 に、写真の石造十三重塔が、二基の五輪塔残欠と 一緒に保存されていた。 高さが3m以上はありそうな剛毅な塔だが、相 輪の上半分や各層の屋根がかなり破損してしまっ ており、十三層がちゃんと建っているのが不思議 な程だった。 しかし、つぶさに観察すると、屋根幅の逓減度 合いは魅力的であり、軒の厚さ、反り具合など、 何とも古式な落ち着きが感じられるのである。 最下層の屋根と最上部の屋根の両端を結んだ線 が逓減を示すが、これだけ捉えれば針の観音寺や 郡山の実相寺に匹敵しそうである。 軒裏に垂木型が彫られていることにも注目した いと思う。 塔身には、金剛界四仏の種子が、月輪内に薬研 彫りされている。 基礎は薄く銘文など一切無いのだが、折角なの で制作年代を“鎌倉後期は下らない”としておく ことにした。 |
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浄国寺層塔 |
橿原市一町 |
前述の光陽町の南に、一町(かずちょう)とい う珍しい地名の地区がある。 町北側の丘陵の山裾に或る古刹で、国の重要美 術品に指定された四角型石燈篭が在ることで、そ の道では知られている。 実は小生、石造美術愛好とは言うが、石燈篭だ けは趣味ではないのだが、折角なので正和五年鎌 倉後期の石灯籠を拝ませていただいた。 目的の層塔は本堂前の境内の南側崖地に建って おり、写真を撮るのも難儀な場所であった。 現在の屋根の姿は九重であり、破損はかなり深 刻な状態にある。しかし、軒の厚い荘重な姿は品 格に満ちており、反り具合も緩やかで泰然とした 落ち着きのある古式を感じさせる。 元来は十三重塔だったものか、と思われる。 塔身には月輪は無く、誠に大らかな筆致の梵字 が薬研彫りされている。彫りがやや浅いのは相当 の古式である。写真左側の梵字種子はウーン(阿 閦)右側はアク(不空成就)で、金剛界四仏が彫 られているのである。 梵字の書体と塔身や屋根の様式を総合的に判断 すると、平安末期から鎌倉初期にかけての制作、 という結論が必然的に出てくるのである。 素人は危険、という声が聞こえてきそうだが。 |
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光岩院五輪塔 |
橿原市曽我町 |
橿原市の曽我町は橿原神宮の西北に当り、曽我 川の直ぐ東側に当る集落の中に建っている。 お堂は新しく建てられたようだが、裏手の墓地 には古い墓碑が見られる。 写真の石造五輪塔は、本堂の正面右手に建って おり、高さが3m弱の大型石塔である。 古塔特有のオーラが放たれているようで、周囲 に建つ新しい墓碑群を圧倒するような風格が感じ られた。中世以来の墓地で、惣墓のような存在だ ったのかもしれない。 空輪から地輪まで、五輪全てが完存した堂々た る五輪塔である。四方の門を象徴する梵字の真言 (キャ・カ・ラ・バ・ア)は彫られていないが、 全体のシルエットはとても美しい。 やや扁平気味な宝珠(空輪)、形の程良い請花 (風輪)、両端が極端に反り上がった笠(火輪) やや下細りの花瓶型球形塔身(水輪)、少し背の 高い方形基礎(地輪)等、躍動感に満ちた鎌倉後 期の典型的な様式を見事に表現していると思う。 鎌倉初期が示す逞しい創造性や優雅さと、南北 朝期の持つ爛熟或いは衰退との間で、やや様式化 しつつも示された鎌倉後期の力強さがはっきりと 見て取れる。 |
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蓮台寺五輪塔 |
桜井市吉備 |
桜井市の南部、市街地の中の寺院である。 天平年間(8世紀)行基の開基とされ、吉備真 備ゆかりの地とのことである。 本堂の左手が墓地になっており、五輪塔はその 入口付近に大きな案内板を設け据えられてある。 高さが2m以上もある重厚な塔であり、五輪全 てが完備した素晴らしい遺構である。 空輪は横膨れしたような肩張り形で、お椀のよ うな風輪との釣り合いが取れている。 火輪(笠)は、中庸な傾斜の屋根で先端が少し 反り、やや厚い軒口はほぼ水平だが両端で反り 上がっている。 水輪は、上部が細まった下膨れの球形で、イメ ージは先述の教弘寺のものに似ている。 全体的にも、細部の特徴からも、鎌倉後期の造 立が想定されるところだ。 地輪の正面にその証明がある筈なのだが、大き な看板が無粋な場所に建てられたために確認する ことが出来ない。仕方なく看板を見ると、そこに は詳細な解説が成されており、一切衆生の為に造 立した旨の銘文と、徳治二年 (1307) という鎌倉 後期の年号が彫られているとのことであった。 |
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浅古宝塔・五輪塔 |
桜井市浅古 |
桜井の町から多武峰の談山神社へと通じる道の 左側(東側)にある古い集落で、旧大日寺の跡が 現在浅古の会所となっている。 重要な二基の石塔が、会所前の広場の隅に保存 されていた。 写真の左手が宝塔で、南北朝初期に当たる暦応 四年 (1341) の銘を持つ重要美術品である。 くり型の台座の上に、側面を三区に分割した基 礎を二段に積んである。 塔身には桟唐戸が刻まれ、勾欄を示す首部が形 良く表現されている。 最も特徴的なのが笠である。屋根四方の降棟の 先端に鬼板が見られる。軒口は二重に見えるが、 上層は珍しい檜皮葺型であり、軒裏には垂木型も 意匠されている。 いかにも南北朝らしい、精巧な装飾技法を駆使 した名品のひとつだろう。 右手の五輪塔は、無銘ながら鎌倉末期から南北 朝にかけての造立と考えられる。 各輪の梵字は無いが、基礎の正面に蓮華座に坐 す阿弥陀如来像が、二重円光を彫りこんだ中に浮 彫されている。その左右、蓮華座上の月輪内にサ (観音)サク(勢至)の種子が配され、弥陀三尊 を象徴している。 五輪塔としては、余り事例を見ない。 |
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十二柱神社五輪塔 |
桜井市出雲 |
桜井の市街から初瀬(長谷寺)へと向かう国道 沿いに、出雲という字名の地域がある。 神社境内は国道から北側に少し奥まった場所に 在り、参道が本殿まで続いている。 五輪塔は参道の右手上の段上に在り、先ずは3 m弱という大きさに圧倒されてしまう。 地輪が幾分台形になっているので、どっしりと した安定感を生んでいる。 水輪は大らかな球形で重量感に満ちており、火 輪(笠)は厚い軒と両端の力強い反りに時代の特 徴が表れている。 空・風輪は全体から見るとかなり大きめで、塔 が示す重厚なイメージを生んでいる。 鎌倉後期という年代が想起される。 この五輪塔の最大の特徴は、各輪の四方に配さ れた梵字であろう。通常は五輪塔の四門が刻まれ ているのだが、ここでは諸尊を表わす様々な種子 が配されているのである。 地輪に四天王、火輪に金剛界四仏、などなど全 部で二十の種子が彫られ、さながら梵字種子の見 本市の様である。写真で見るように摩滅して判読 不能の梵字もあるが、ヂリ(持国天)・ビー(広 目天)・ビ(増長天)・ユ(弥勒)・ボロン(一 字金輪)など、余り石塔には彫られない梵字がと ても珍しかった。 |
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粟殿墓地五輪塔 |
桜井市粟殿 |
桜井市の粟殿(おうどの)地区は市役所の所在 地でもあり、町のほぼ中央に位置している。大和 川の西岸に当たる地域で、浄土宗の寺院である極 楽寺に隣接して大きな墓地が在る。 墓地のほぼ中央にブロックに囲まれた一画が在 り、そこにこの花崗岩製の五輪塔が何基もの小さ な五輪塔と共に祀られている。 先ず目を見張らされるのが、五輪塔を支えてい る台座の造作である。側面四方を三区に分けて格 狭間を彫り、その上に大和式の複弁反花座を設け てある。同じ大和式でも、こちらは手が込んで豪 華である。 地輪には、この地の豪族良円坊父子が楠木正行 に従って四条畷で討ち死にした後、未亡人の良妙 が百か日の追善供養と、自身の逆修を目的として 建立した旨が記されている。正平三年 (1348) と いう南北朝前期の年号が銘文と共に確認出来る。 水輪の球形曲線からは鎌倉期の重量感は消えつ つあり、繊細な軽さが感じられる膨らみを見せて 来ている。 火輪にもそうした時代様式の変遷が感じられる が、軒口の反りが両端部分で反り上がっているの が最大の特徴だろう。 軒口の厚さや宝珠などには鎌倉末期の面影を残 しつつ、台座などに南北朝の壮麗な装飾を施した 傑作、といえるだろう。 |
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粟原寺跡十三重塔 |
桜井市粟原 |
桜井から国道を行くと、粟原(おうはら)は石 位寺の在る忍阪の隣の集落である。 国の史跡に指定された粟原寺跡は、集落背後の 高台の森の中に礎石などを残すのみである。 明治期に半坂峠から移築されたというこの石塔 の建つ場所は、旧粟原寺の金堂が建っていた場所 ではないかと言われている。 高さは3m45の塔で、上下の屋根の幅の逓減 具合が割りと大きく、鎌倉期の特徴を備えた美し い層塔、というのが第一印象だった。 相輪は喪失しており、間に合わせの別物が載せ られている。 各層の屋根は、若干の破損はあるものの、概ね 当初のものが揃っているように見える。軒口が両 端で微かに反っているのも、鎌倉後期という時代 を良く表わしている。 塔身には豪快な筆致の梵字が、胎蔵界四仏の種 子を象徴して薬研彫りされている。写真は右がア (宝幢)で左はアー(開敷華王)であり、ちなみ に残りはアン(無量寿)とアク(天鼓雷音)の各 如来である。 花崗岩製の塔は背後の森の中に在って、「鶴の 子塔」という俗称が相応しいと思えるほどに白く 浮き上がって見えていた。 |
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法起院十三重塔 |
桜井市初瀬 |
西国三十三観音霊場の第八番札所である長谷寺 の塔頭で、観音霊場の創始者とも言われる徳道上 人が晩年に隠棲した場所として、西国番外の札所 になっている寺院である。 寺は初瀬から続く門前町の中に在り、石塔は徳 道上人の御廟とされる一画に上人の供養塔として 建てられている。 相輪は喪失しているが、立派な基壇の上に扁平 な基礎を置き、その上に迫力十分の塔身と重層が 載っている。 塔身には、胎蔵界四仏の種子が、月輪内に薬研 彫りされている。写真に写っている梵字は左がア (宝幢如来)右がアク(天鼓雷音如来)である。 各層の屋根は、一部に水平で反りの無い層があ るものの、概ね両端が微かに反り上がった古式の 造りとなっている。部分的な補修があったのかも 知れない。 最下層の屋根の幅と最上層の幅とを比較してみ ると、その逓減率は割りと大きく、この塔の堂々 とした印象はここに由来していると感じられた。 年号の記銘が無いので素人の推測の出番だが、 鎌倉後期は下らないといったところだろうか。 |
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談山神社摩尼輪塔 |
桜井市多武峰 |
日本に残る唯一の木造十三重塔を観に、私達は この美しい朱塗りで総桧皮葺の神社を訪ねた。紅 葉で有名な多武峰(とうのみね)だが、この時は 新緑の鮮やかな季節だった。 俗界から仏界までの五十二位を一町毎に示した 丁石の終点に、この妙な形の石塔が建っていた。 柱身が八角の笠塔婆であり、摩尼輪塔と呼ばれ ている。乾元二年(1303)の刻銘があり、確かに笠 の反りなどに鎌倉中~後期の特徴が見て取れる。 月輪内の梵字は胎蔵界大日如来を表す種子「ア ク」であり、塔身の八面は胎蔵界中台八葉院とい う曼荼羅を示している。梵字は薬研彫りの雄渾な 筆致であり、とても美しい。 類例のない石塔としても貴重な存在で、周辺の 景色をも緊張させる存在感がある。 |
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談山神社十三重塔 |
桜井市多武峰 |
先述の摩尼輪塔の所から参道を進むと、本殿の 見えるあたりの左手奥の高台にこの石塔が建って いる。 談山神社を創建した藤原不比等の墓と伝えられ るが、時代の全く合わない伝承に過ぎないだろう と思う。石塔は鎌倉期のものであり、明治の廃仏 毀釈までは神社と共存していた多武峰妙楽寺の遺 構と考えられる。 相輪は失われ、各層もかなり破損している。 しかし、基礎に永仁六年 (1298) という鎌倉後 期初めの年号と共に、伊派の石工伊行元の名が記 された貴重な遺構なのである。 また、阿弥陀信仰の結衆による勧進を示す銘文 も見られ、民間信仰の歴史的な資料としても重要 な存在である。 塔身には、金剛界四仏の種子が、雄渾な書体で 薬研彫りされている。鎌倉期に相応しい力強さが 感じられる。写真の梵字はタラーク(宝生如来) で、右斜めはウーン(阿しゅく如来)である。 各層の屋根の幅の逓減率は、時代的には意外と 低いのだが、厚い軒口と両端で反り上がった様式 は、十分に鎌倉後期の特徴を発揮してると思う。 |
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於美阿志神社旧十三重塔 |
明日香村檜前 |
明日香檜前(ひのくま)の里にあるこの神社は、 奈良時代には檜隈寺が建っていた場所だった。 層塔は社殿横の広々とした草地にポツンと建っ ており、やや意外な感じがするが、鉄柵で囲って しっかりと保存されていた。 初見の印象は、屋根の厚みが堂々としているこ と、軒の反りがとてもおおらかであること、そし て、下から上への屋根の巾の逓減の度合いが何と も優雅であることだった。 これらの特徴だけでも、鎌倉期の技巧的な意匠 とは違った朴訥とした伸びやかさが感じられて、 おそらくはそれ以前の平安期のものであることが 小生にも想像出来た。 数えてみると層は十一しかなく、逓減の具合か ら上部二層と相輪は喪失したらしい。 軸部の四方に、底面の平らな浅彫りで梵字種子 が彫られている。顕教四仏のバク(釈迦)、キリー ク(阿弥陀)、ユ(弥勒)で、もう一つは薬師を表す バイが本来だが、ここではウーン(阿しゅく)が 彫られていた。顕教四仏に金剛界四仏のウーンを 取り入れた事例は珍しいが、密教思想に基づくも のであるらしい。 |
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岡寺宝篋印塔 |
明日香村岡 |
別名龍蓋寺とも呼ばれるこの寺は、明日香村の 東、山腹に伽藍を配した西国三十三観音霊場の第 七番札所として知られる。 珍しい塑像で造られた本尊如意輪観音坐像のお 姿を拝してから、本堂前の丘の上に建つこの宝篋 印塔を訪ねた。 寺の開基である義淵僧正の廟塔と伝えられてお り、柵に囲まれた一画に据えられた立派な基壇の 上に載っている。 更に二重の切石による台座を重ね、その上に宝 篋印塔を載せている。 写真は背後からのものだが、正面台座の穴に如 法経が安置されていたそうである。 基礎には輪郭が巻いてあり、三面に格狭間が意 匠され、もう一面に如法経奉納を記す銘文と、延 文五年 (1360) 南北朝中期の年号が判別出来る。 基礎上二段に塔身が載り、四面に月輪内の金剛 界四仏種子が刻まれている。時代を物語る様に、 彫りは浅く梵字の筆致は弱々しいものとなってい る。繊細な表現、という見方もあることは承知し ている。 笠は上六段下二段で、二弧輪郭巻きの隅飾はや や外側に反っている。 相輪も完璧な彫りで、鎌倉期の力強さには程遠 いが、円熟した優美な時代を反映している、と感 じられた。 |
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奥山久米寺十三重塔 |
明日香村奥山 |
明日香村東北の桜井市との境界に近い田園の中 に奥山という集落があり、そこに7世紀前半の寺 院跡が発見された。現存最古の鬼瓦などが出土し たそうで、往時は四天王寺式伽藍配置の大寺院で あったという。 現在は久米寺という江戸期の浄土宗寺院が建つ が、境内に奥山久米寺の遺構である礎石が多数残 されている。 十三重塔は塔跡と思われる土壇に残る礎石の上 に建てられている。一枚の切石を土台として、高 さ4m花崗岩製の塔が載っている。 相輪は失われ、五輪塔の笠が載っている。全く 意味の無い補修といえる。 屋根の各層は、軒口が全体に緩やかな反りを見 せ、両端でちょっと反り上がっている。 各屋根裏に薄い垂木型が意匠されているのが、 この塔の一味違う部分だろう。 屋根の幅の逓減率はやや小さ目というところだ ろうか。下から二番目の屋根が明らかに不揃いだ が、これは後世の補修だろう。 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて いるが、大きな梵字がやや摩滅気味なのが残念で ある。鎌倉末期に近い後期の作、と思われる。 |
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龍福寺層塔 |
明日香村稲淵 |
稲淵は飛鳥川の上流に位置する万葉の里で、棚 田の広がる牧歌的な集落である。寺は集落の中の 小高い場所にひっそりと建っている。 写真は“竹野王の石塔”と呼ばれる層塔で、境 内の一画の柵に囲まれた覆屋の中に保存されてい る。だが何と、天平勝宝三年 (751) 奈良後期と いう桁違いの古さを示す年号が刻まれているので ある。在銘の石塔としては最古の塔であろう。 近江石塔寺の三重塔、大和塔の森の十三重塔、 太子町鹿谷寺跡十三重塔、などと共に奈良時代を 代表する貴重な石塔遺構なのである。 柵が近く、屋根が低く暗いので、写真では良く 判らないが、屋根石は三重になっている。 ただ、三層目の屋根の上にも軸部が残っている ので、当初は五重の石塔であったと考えられる。 屋根と軸部は別石で、古い様式を示す。 磨耗が激しくほとんど判読出来ないが、初層軸 部に「昔阿育□王八万四千塔遍…」から始まる刻 銘があり、年号の後に「従二位竹野王」と記され ているという。アショカ王の言い伝えに倣って竹 野王が建てた、とのメッセージであろう。 竹野王が何者かは余り明確には判らないが、少 なくともこの塔の建立者であって、王の墓塔であ るとは考えにくい。 |
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観音院跡宝篋印塔 |
高取町上子島 |
明日香の南、高取町には、西国札所として著名 な壺阪寺がある。その入口である近鉄壺阪山駅の ところから、高取城址へ向かって登って行く道が ある。 車で行けるのは宗泉寺までだが、そこから高取 城址方面へは向かわずに、宗泉寺の横から山道を 抜けて裏山の横へと出たあたりに、現在は廃寺と なってしまった観音院の跡がある。 荒れ果てた境内の一画に、掃き溜めの鶴とでも 言えそうなほど秀麗な宝篋印塔が建っていた。 相輪が半分に折れているが、塔全体は当初から の完存塔で、古い様式を伝える貴重な塔である。 笠の上部は六段で、その上に露盤があり、各面 に二区の格狭間が彫られた繊細な造りである。 四隅の隅飾は二弧で、格別の彫刻は無い。真っ 直ぐに立った様は古式で、輿山往生院や為因寺の 事例にとても似ている。 塔身の四方に半肉彫りの四方仏像が彫られてい るが、最大の特徴は笠の下部と基礎の上、つまり 塔身の上下が蓮弁で飾られていることだろう。上 部は単弁、下部は複弁反花座がとても美しい。 基礎に銘が彫られており、弘長三年 (1263) と いう魅力的な年号が確認できる。大和では輿山往 生院と額安寺に次ぐ、鎌倉中期の作なのである。 |
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壺阪寺宝篋印塔 |
高取町壺坂 |
西国第六番の札所であり、境内には木造三重塔 などの伽藍が建ち並ぶ壮麗な寺院である。 以前、札所巡礼で訪ねたことがあり、今回は二 度目の訪問だった。前回の時には、この宝篋印塔 の存在は知らなかった。 三重塔の南庭の片隅に、他の数基の石塔と並ん で、写真の宝篋印塔が建っていた。 最初の印象は京都清涼寺のものに似ているなと 感じたのだが、川勝先生のお説はこちらの方が古 い鎌倉中期のものであるらしい。 だが私の直感も捨てたものではなく、笠の下が 大変珍しい三段であること、隅飾りが三弧で中に 梵字「ア」が刻まれていることなど、清涼寺のも のとは共通点が多い、とのことであった。 全体のプロポーションが余りにも似ていること から、私は同じ作者によるのではないかとすら思 っているのである。 搭身の四方に梵字種子による金剛界四仏が彫ら れ、その下に反花座が有るが、基礎に格狭間など の装飾は無い。 相輪が見事であり、上から宝珠・竜車・水烟・ 九輪・請花・伏鉢と並んだ完璧な作例である。 |
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勝福寺墓地笠塔婆 |
御所市西寺田 |
葛城山系の東側にある市で、御所(ごせ)と読 む。飛鳥以前からの古い歴史を有する地で、天皇 陵や古墳が数多く点在している。 市の中心から国道24号線を南へ暫く行ったあ たりに西寺田の信号がある。お寺は国道から少し 西側へ登って行くことになる。 寺域の前は畑地になっており、その向こうに寺 僧墓地の一画が設けられている。 手前の道からも確認出来るが、近付くには畑の 脇の細い畦道を行かねばならない。 墓地の中央に建っているのが、写真の笠塔婆で ある。細く背の高い塔身のシルエットは、遠見か らも尋常ではない美しさが感じられた。 宝珠はやや扁平だが、笠の屋根の傾斜がたおや かであり、軒の反りが優雅な緩やかさが素晴らし い。この笠石を見ただけでも、鎌倉中期頃の制作 だろうと推察出来る。 事実、現在は摩滅が激しく判読不能だが、塔身 に文永七年(1270)という鎌倉中期の年号が刻まれ ているのだそうだ。 塔身の上部に顕教四仏の坐像が、舟形光背の中 に彫り込まれている。写真(西向き)は阿弥陀如 来である。 帰り際に振り返って眺めた笠塔婆の姿は、まる で立ち上がる幻の塔のように見えた。 |
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法華経塚五輪塔 |
御所市櫛羅 |
葛城山へ登るロープウェイの乗り場が在る地区 で、櫛羅は“くじら”と読むそうだ。 御所の町の中心から真東に向かうと葛城山登山 口に至るのだが、途中に櫛羅交差点があり、通り 過ぎて直ぐ左手のやや下がった所に“ほけきょう 塚”と呼ばれる一画が在る。 一番小高い場所に写真の五輪塔が建っているの が見える。高さは1m50ほどである。 空輪(宝珠)がかなり扁平で、風輪と共に全体 に不調和感がある。おそらくは後世の追補だろう と思われる。 空風輪には無いが、五輪塔四門の梵字(キャ) ・(カ)・ラ・バ・ア等が、火水地輪それぞれの 四方に刻まれている。 地輪(基礎)に銘文が刻まれており、梵字アの 面に元応元年(1319)という鎌倉後期の年号が確認 出来る。 笠(火輪)の形が時代に応じた美しさを示して いる。厚い軒の微妙な反りと両端の反り上がった 姿は、典型的な鎌倉後期の様式を見せている。 やや押しつぶしたような扁平な球形の水輪も、 全体のシルエットとしては悪くない。 地輪の別の面(アーの面)に、寛延元年(1748) という江戸中期の年号と“妙法蓮華経”という追 刻が見られる。「ほけきょう塚」という地名の由 来となった信仰の名残だろう。 |
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天満宮五輪塔 |
御所市富田 |
御所市東側の富田地区は、日本武尊の白鳥陵が 在ることで知られている。伊勢に崩じた日本武尊 が白鳥と化して、この地にも留まったという伝説 が残されている。 天満宮は白鳥陵に近い富田交差点を、南へ折れ て直ぐの小高い丘の上に建っている。 写真の五輪塔は天満宮の鳥居前の空地に建って おり、かなりの大型の塔であることに驚いた。 地輪(基礎)の面に「大念仏衆奉造立之、正和 四年(1315)」という銘文が刻まれていることが資 料に書かれているが、実際には拓本を採らないと 判読出来ぬほどであった。 ふっくらとした形の良い空輪(宝珠)と風輪、 軒の厚みが豪快で、両端が小気味よく反り返った 火輪(屋根)、微かに扁平な膨らみの水輪など、 鎌倉後期といっても中期に近い正和という魅力的 な年号に相応しい秀麗で剛毅な五輪塔であろう。 御所市の風の森という所に観音寺が在り、そこ に正和三年の五輪塔が残っているとのことだった が、今回は訪問出来なかった。 |
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栄山寺七重塔 |
五条市小鳴 |
五条市の宇智川に残る、奈良時代の磨崖碑を見 た。宝亀七年 (776) という貴重な史跡だが、か なり摩滅が進行している。 栄山寺はそこから歩いてすぐの場所に在る。法 隆寺の夢殿にも匹敵する、天平の遺構である国宝 の八角円堂に詣でてから、私達は境内に建つこの 七重石塔を見た。 かなり苔むしており、いかにも古塔らしい佇ま いが気に入った。時として、苔にだまされてしま う事もあるが、ここでは、屋根の反りは緩やかだ が厚く豪壮であり、間違い無く鎌倉初期の特徴を 示している。 上部の相輪には、下から露盤、伏鉢、請花、七 重相輪、水煙、龍車、宝珠と完璧に揃っている。 基礎の上の塔身には、薬研彫りで梵字が彫られ ている。写真は北面の「アク」で、時計回りに東 面が「ウン」、南面に「タラーク」、西面に「キ リーク」が見られ、これらは不空成就如来、阿シ ュク如来、宝生如来、阿弥陀如来の金剛界四方仏 であろう。 ずっしりと構えており、まことに重量感に満ち た堂々たる秀塔だった。 |
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鳳閣寺宝塔 |
黒滝村鳥住 |
長い間多くの古石塔を眺めて来たが、かくも完 璧な造形美を示す遺構を見た事が無い。ついこの 間完成したのではないか、と思えるほどの瑞々し い完成度。 しかし、この宝塔へたどり着くまでには、相当 の覚悟と労力が必要となる。鳳閣寺は吉野山系の 百貝岳中腹に建っており、西行庵からは尾根伝い のハイキング・コースが在る。私たちは下市から 車で山道を行ける所まで行き、急坂を歩いてよう やく寺に到達した。しかし、宝塔は寺から更に、 杉林の急斜面を数十分登らねばならなかったのだ が、“熊出没注意”の看板は恐怖に近かった。 覆屋に守られた宝塔(重文)は、正平二十四年 (1369)南北朝中期の作で、大峰修験道の祖理源大 師聖宝の廟と伝わる。 一番下の基壇には側面三区に複弁反花、その上 の基礎には側面二区格狭間、そして請花座の上に 塔身が載る、という何とも壮麗な造形が成されて いる。写真は背部だが、基礎正面には亀の頭と肢 が彫られている。 塔身軸部には精密な桟唐戸、首部には勾欄、笠 裏には垂木や隅木、屋根には降棟や露盤など、実 際の木造建築的手法を模した造形的技法には舌を 巻かざるを得ない。 石塔巡拝至福の時間であったが、帰路の“熊出 没”をすっかり忘れていたのである。 |
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村上義光宝篋印塔 |
吉野町吉野山 |
吉野神宮から蔵王堂へと続く自動車登山道の脇 の小高い場所に、村上義光(よしてる)の墓と伝 えられる宝篋印塔が祀られている。 義光は信濃の武将で、護良(もりなが)親王の 身代わりとして、蔵王堂の前で壮絶な自刃を遂げ た南朝の忠臣である。 相輪は上部が破損しているが、残された請花や 伏鉢から想像して、堂々とした相輪であったと思 われる。 笠は上六段下二段、隅飾りは二弧輪郭付きで、 微かに外側へ反っている。 塔身の四方には輪郭が巻いてあり、その中の月 輪内に胎蔵界四仏の種子が薬研彫りされている。 写真は西側正面の梵字で、無量寿如来を象徴する 「アン」である。ちなみに、他の三方の種子はア ク(天鼓雷音如来)ア(宝幢如来)アー(開敷華 王如来)である。 基礎は上に二段を設け、側面は無地だが、複弁 反花座に載っている。 銘文が一切無いので様式からの推論でしかない が、相輪や隅飾からは鎌倉末期、梵字の柔和さか らは南北朝が想定され、総合的には鎌倉末期に近 い南北朝初期あたりではないかと思われる。 「太平記」に記された義光の逸話は元弘三年と されるので、時代的にはちょうど適合してはいる ようだ。 |
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菅生寺五輪塔 |
吉野町平尾 |
平尾は吉野山の東にあるダム湖津風呂湖の北、 龍門岳山麓の谷間に位置する鄙びた集落である。 菅生(すぎょう)寺は集落の西に在り、現在は 衰微したとはいえ、かつて栄えた龍門寺の別院と して、8世紀に岡寺の義淵により開基された古刹 である。 本堂背後に墓地が在り、そこに写真の五輪塔が 建っている。 台座の上に複弁反花座を設け、その上に五輪塔 が載っている。 膨らみに張りの在る宝珠(空輪)、軒口の両端 のみが反り上がった笠(火輪)、やや歪な球形の 水輪などからは、南北朝に限りなく近い鎌倉末期 の造立が推定される。 全体的に整った五輪塔だが、火輪の屋根の傾斜 線と、水輪の曲線に居心地の悪さが感じられるの は何故だろう。 銘文の無いことから、義淵僧正の墓碑説は否定 されるべきと考える。 五輪塔の前に、もうひとつの重要な石塔が建っ ている。建武三年 (1336) 南北朝初頭の銘がある 笠塔婆である。月輪内に「ア」の種子を薬研彫り し、下に没後百十三年目の慶円上人御廟と記した 供養塔である。 |
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龍門寺跡笠塔婆 |
吉野町山口 |
前述の平尾と隣接する山口の集落には山口神社 が鎮座しており、そこから北へ龍門岳へと向かっ ていく道がある。 杉林に入り、谷あいの山道を登って行くと、右 手の崖の斜面に、鉄柵がめぐらされた中に建つ形 の良い笠塔婆が目に入る。 現在は廃寺となってしまった、龍門寺の入口に 建っていた下乗石である。 高さ2mの花崗岩製で、笠の下には1m80ほ どの方形柱状の塔身が建てられている。 塔身の上部には横一線の区切りが入れられ、そ の中の月輪内に金剛界四仏の種子が薬研彫りされ ている。写真の梵字は、左がキリーク(阿弥陀) 右がタラーク(宝生)である。 キリークの下に下乗、タラークの下に龍門寺の 銘が確認出来る。 キリークの面の向こう隣に、元弘三年 (1333) という鎌倉末期の年号が刻まれている。 梵字の書体からは、力強い筆致から柔和な表現 へと移行しつつある時代性が感じられる。 軒下に一重の垂木型を作り出した笠は、ほぼ水 平ながら微妙な反りが付けられ、両端で少しだけ 反り上がっている。これもいかにも鎌倉末期らし い姿であろう。 笠の上には露盤が設けられているが、載ってい るのは別石の宝珠であるという。 |
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薬師寺宝篋印塔 |
吉野町山口 |
この寺は前述の山口の集落内、人家から少し離 れた小高い斜面の上に建っている。 民家の様な本堂だけが建つ質素な佇まいだが、 狭い前庭の一画に、柵に囲まれて国の重要文化財 に指定されたこの宝篋印塔が密かに建っていた。 一目見るなり、相輪部分は五輪塔の空風輪であ り、塔身はどう見ても層塔の初層軸部らしいと感 じた。 寄せ集めの石塔が何故国の重文に?と疑問を抱 いたのだが、基礎から建治四年 (1278) という鎌 倉中期の年号が発見されたことや、笠の様式に顕 著な特色が認められたからだと判明した。 笠は、下二段上四段だが、最上段は傾斜を付け た台形となっている。 二弧無地の隅飾はほぼ垂直に立っており、いか にも古そうな様式を示している。 塔身はどう見ても層塔のものだが、宝篋印塔全 体としてはバランスの取れた美しい姿に見える。 基礎下に設けられた反花座は摩滅して判然とし ないが、これも時代がやや下がった別物らしい。 それにしても、笠と基礎以外は全て別物の寄せ 集めにもかかわらず、何とも美しく見える不思議 な重文の宝篋印塔である。 |
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福寿院跡十三重塔 |
東吉野村小栗栖 |
吉野町の窪垣内から、吉野川の支流高見川沿い に東へ進むと、山間の地さながらの集落が次々に 現われる。東吉野村は、幕末の天誅組所縁の地と して知られる。 そんな集落の中で、小栗栖は比較的広い平地に 家々が建ち並ぶ静かな里であった。 福寿院跡の所在が判らなかったが、或る民家の 裏山がそうだと判り、お願いして見せていただく ことが出来た。 裏山の斜面の一画に、南北朝の年号を有する一 基など、数多くの五輪塔が建ち並んだ平地があっ て、中央に写真の十三重石塔が建っていた。どう やらその辺りが、福寿寺の在った場所らしい。 高さ3m30余りで、相輪はどうやら後世のも のらしい。台座の上に別の相輪の部材が置かれ ていたが、古そうではあるがオリジナルかどうか は判らない。 各層の屋根の軒裏には一重の垂木型が意匠され ており、屋根幅の逓減率の低い優雅な姿からも南 北朝期の作と想定していた。 また軒はほぼ水平で、左右両端で反りを見せる 手法も南北朝期の特徴と言える。 塔身には、月輪内に胎蔵界四仏の種子が薬研彫 りされている。時代に合った、穏やかな筆致の梵 字である。写真の梵字は「アー」で、開敷華王如 来を象徴している。 |
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天照寺十三重塔 |
東吉野村大字小 |
先述の小栗栖から更に上流へ進むと、小(おむ ら)と読む珍しい名の集落が在る。茅葺の薬師堂 で知られる天照寺は、集落の小高い場所に建って いる。 南朝が奪った三種の神器のひとつの勾玉を、朝 廷へ返還した小川弘光一族の菩提寺であり、墓地 は一族の墓所とされている。 安山岩製のきりっとした十三重塔が二基、石垣 沿いにすっくと建っている。写真の左が北塔で鎌 倉末期、右が南塔で南北朝中期と考えられる。と ても似ているように見えるが、詳細に眺めると随 所に時代の違いが見えて興味深い。 相輪は、どちらも上から、宝珠・龍車・水煙・ 九輪・請花・伏鉢が完備している。 最大の相違が屋根で、最下層の屋根幅も上に向 かう逓減率も、明らかに北塔の方が大きい。 また、軒口の両端の反り具合は、南塔の方が大 きく反り上がっている。 どちらの軒裏にも、一重の垂木型が作り出され ており、丁寧な仕事ぶりを立証している。 塔身の金剛界四仏を象徴した種子(梵字)は同 じだが、北塔の切れ味鋭い薬研彫りの筆致に比べ ると、南塔のものにはやや草書的な穏やかさが見 られて面白い。 同墓地内には多数の五輪塔が林立しており、南 北朝期以降のやや迫力に欠けた形式が中心となっ ている。 |
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大蔵寺旧十三重塔 |
宇陀市大宇陀栗野 |
大宇陀の集落から少し離れた小高い山の上に建 つ寺で、車は途中までしか入れず後はかなり歩か ねばならない。大師堂など貴重な建築も多いが、 寺内はかなり荒廃している。 この石塔は現在十重だが、本来は十三重であっ たことは間違いない。何度も倒壊したために破損 が激しいが、スックと建つ細身の優雅さが只者で はない美しさを感じさせてくれた。その点からは 鎌倉末期以降の制作年代が予見される。 塔身には金剛界四仏種子の薬研彫りが、鎌倉中 期らしい鋭さを見せているので戸惑う。 後で見た資料で意外だったのは、基礎部分から 伊行末という名前と延応二年 (1240) という年号 が発見されていた、ということだった。 既述の奈良般若寺の十三重石塔と同じ作者とい うことになるのだが、石塔そのもののフォルムが かなり違うように思えたからだった。 屋根の巾の逓減率が大きい般若寺の塔と比べる と、ここの逓減率の低さは鎌倉末期以降を示して いる、とも思えたのだった。 いずれにしても、山道を歩いてようやくたどり 着いた荒れ寺の奥で、かくも美しい石塔と出会え た感動は格別の歓びであった。 |
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光明寺十三重塔 |
宇陀市大宇陀西山 |
現在の宇陀市は、かつての宇陀郡大宇陀、菟田 野、榛原、室生の四町が合併して出来た新しい市 である。 光明寺は大宇陀の中心街の北に在る立派な寺院 で、参道の奥に桧皮葺の鐘楼門が私達を出迎えて くれる。 十三重石塔は門を入って直ぐ、本堂の前に静か に建っていた。高さが4mはある優雅な塔で、花 崗岩で出来ている。 相輪は水煙から上が破損している様に見える。 各層屋根の軒口の厚さを眺めた時、下から五層 目までと六層目から九層目迄、そしてその上の四 層とがそれぞれ別物ではないか、と感じられた。 しかし、どこにもそうしたコメントは見られず、 単なる小生の考え過ぎだったかもしれない。写真 からも、そう感じられなくもないのだが。 屋根の下層部は軒口厚く鎌倉風だが、全体的に は屋根幅の逓減率が少ないすんなり型であり、両 端が反り上がった様式は南北朝的である。 塔身には豪快な筆致の梵字が薬研彫りされて、 金剛界四仏を表わしている。彫りは至極鎌倉的で ある。刻銘が無く、年号が不明であるので困惑す るが、年代推定を楽しむのであれば、南北朝初期 としたいのだが。 |
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覚恩寺十三重塔 |
宇陀市大宇陀牧 |
大蔵寺からさらに南下すると、吉野町との境界 間際に牧の集落がある。 寺は質素な本堂がポツンと建つのみだが、南朝 の忠臣牧一族の菩提寺であり、重文の薬師如来像 (拝観不可)を安置する。 十三重塔は、境内の少し離れた場所に、基壇を 設けて建てられている。 相輪は、先端の宝珠部分が補修されている以外 は、当初のものと思われる。 各層の屋根は、軒裏に一重の垂木型が作り出さ れており、軒口の厚さも幅の逓減率も適度で、見 た目も割合すっきりと建っている。 軒口がほぼ水平で両端が反り上がった様式は、 鎌倉末期から南北朝にかけての特徴なのだが、こ こでは鎌倉的な色彩が濃く残っているような印象 を受けた。 何とも残念なのが、塔身(初重軸部)にも基礎 部分にも一切の彫刻が施されておらず、全くの無 地であることだった。当初からの意匠なのか、意 図あってのことなのだろうか。 この石塔が、長慶天皇の墓という言い伝えがあ るそうだが、何らかの関係があるのだろうか。 重要文化財の指定を受けて手厚く保護されるこ とに異存は無いが、どのような基準で選考される のかは甚だ疑問である。この塔が鑑賞に値する素 晴らしいものであることは確かだが、もっと古く て在銘の傑作は他にいくらでも在るからである。 |
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仏隆寺十三重塔 |
宇陀市榛原赤埴 |
旧榛原町の赤埴(あかばね)という山間の地に 在る真言宗の寺院で、空海の弟子堅恵が9世紀半 ばに創建した名刹であった。 その後衰退、中興を繰り返し、明治の廃仏で現 在のような山寺となった。 古墳のような構造の石室(重文)が保存されて いることで知られる。 十三重塔は本堂の裏に、写真のような姿で建っ ている。 相輪は崩落し、上部の屋根の積み重なりは、ど う見ても捩れている。 各層の屋根はかなり損傷が激しいが、軒下に一 重の垂木型を作り出しており、軒口が緩やかに反 り、両端が少し反り上がった様式は、鎌倉後期の 特徴を十分に物語っている。屋根幅の逓減率が低 く、上下の幅が余り変わらないのは、南北朝的で はある。 写真では判然としないが、基礎に刻銘があり、 元徳二年 (1330) という鎌倉末期の年号が刻まれ ている。鎌倉から南北朝へと様式が変遷する時代 の産物なのだろう。 塔身の四面には、金剛界四仏の種子が月輪の中 に薬研彫りされている。梵字の筆致は大らかで、 鎌倉期の剛毅な名残を伝えてくれている。 |
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室生寺五輪塔 |
宇陀市室生 |
本堂の西側、五重塔の石段を降りたあたりに数 基の石塔が並んでいる。国宝クラスの建築や仏像 に囲まれた荘厳な寺域にあって、石塔に目を向け る人などまことに稀有ではあるが、写真の五輪塔 は重要文化財に指定された正に名石塔のひとつ、 と言えるだろう。 火輪(笠)は、ややきつい屋根の傾斜、厚い軒 口の両端での急な反り、などに鎌倉後期の特徴を 示している。 水輪の球形は、上部が膨らんだ肩張り型で、こ れも鎌倉後期に多く見られる様式である。 五輪塔の四門を象徴する梵字は一切彫られてお らず、また銘文なども全く記されてはいない。 塔は、大きな基壇に切り石を置き、更に複弁反 花座を設けて五輪塔を載せている。 従来より北畠親房の墓とされていた事から、大 正期に調査が行われたのだが、水輪部分の孔から 木造小五輪塔が、さらにその下部から水晶製の六 角小五輪塔が発見されたという。土中からは骨壷 が出たそうだが、親房の墓を立証するには至らな かったらしい。 室生寺は石造美術の宝庫でもあり、五輪塔の隣 には南北朝の宝篋印塔が建つ。奥の院大師堂の高 みには、平安期とも言われる七重石塔が建つ。重 文の納経石塔へは、禁足の如意山頂に在って近づ けない。 |
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