日本の石仏
九州・近江・東日本の石仏
| 別サイトに京・大和の石仏をまとめ たのだが、それ以外の地方、特に九州 の豊後や近畿の近江などにも、木彫の 仏像に匹敵するほどの造形力を示した 傑作が広範囲に分布している。 特に臼杵に代表される豊後地方のよ うな、山岳の岩場を背景とした磨崖仏 の迫力は、見る者に深い感動を与えて くれる。 また、狛坂寺の磨崖仏に代表される 近江の石仏には、京大和とは一味違っ た“歴史の残照”のような魅力が感じ られる。 東日本も含め、その他の地方の平安 ・鎌倉期の古仏を中心にして、全国を 旅してみたいと思う。心に沁みる旅が 約束されるだろう。 |
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金剛界大日如来像頭部 臼杵石仏群/古園磨崖仏 大分県臼杵市 修復前の映像(1972/5/22撮影) 新婚旅行で訪ねた臼杵石仏群が、以後の石仏行脚の原点となった。 |
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| 臼杵石仏群/ホキ磨崖仏 (大分県臼杵市) |
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日本の石仏を語る上で、臼杵の石仏群を欠かすわ けにはいかない。私は1972年に新婚旅行で訪ねた程 の思い入れだったが、その後直ぐに一度行っただけ で、今回は35年振りの訪問だった。 修復と同時に観光化してしまい、遊園地でもある まいに、入場料を払って見るのがいやでそれ以後は 足が向かないままでいたのだった。 そうは言っても、断然たる価値と美しさは少しも 揺るがないだろう。この壮大な磨崖仏群は、ホキ・ 堂ケ迫・山王山・古園の四地区から成る。 ホキ磨崖仏は二つの石龕から成っており、第一龕 では九品弥陀像九体を中心とした鎌倉初期の像を見 ることが出来るが、かなり損傷している。。 写真はホキ第二龕に彫られた阿弥陀如来坐像で、 三尊として脇侍の観音・勢至両菩薩像に挟まれてい る。 堅い凝灰岩ゆえに繊細な彫りが可能だったのか、 石造とは思えぬ程木彫に近い表現が成されている。 背後の岩盤とはほとんど接する程度に彫り出され ているのである。 端正で重厚な彫りから感じられる品格は臼杵石仏 全体でも群を抜いているだろう。初見以来、一貫し て臼杵で私が最も好きな石仏である。 平安中期の造立といわれている。 |
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| 臼杵石仏群/堂ヶ迫磨崖仏 (大分県臼杵市) |
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ホキの崖にそのまま続いているのが、 この堂ヶ迫磨崖仏である。四つの石龕 に分かれており、ホキから続けて、三、 四、五、六龕と呼ばれている。 写真は第五龕のもので、中尊は阿弥 陀、右が薬師で左が釈迦、の三如来磨 崖仏である。 三尊ともに木彫のような彫りの見事 な磨崖仏で、洗練された藤原仏のよう な完成度を示している。 特に阿弥陀如来の荘厳端正な面相は、 ホキの阿弥陀像に通じるものが感じら れる。案の定、同一作者という説もあ るらしく、四窟もある堂ヶ迫の中では 格別の光彩を放っている。 三龕には地蔵十王像、四龕には大日 如来を中心として阿弥陀、釈迦などの 五尊像、そして六龕には釈迦を中心と した阿弥陀、薬師などの五尊像が彫ら れている。 |
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| 臼杵石仏群/山王山磨崖仏 (大分県臼杵市) |
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ホキ、堂ヶ迫の崖とは谷間を挟んで相対している。 途中に日吉社へ登って行く小道があり、一石五輪塔 のある中尾へはここから行くことが出来る。 かつてこの辺りは竹薮であったそうで、土地の人 はここを「かくれ地蔵」と称していたそうだ。 今は遊歩道が整備され、覆い屋も完備したので保 存や見学に支障は無いが、野仏のような風情に情緒 を求めるのは贅沢というものなのだろう。 この石窟には、釈迦を中心にした三如来像が彫ら れている。右が阿弥陀、左が薬師とされているが、 像容が中尊の釈迦像を小さくしたような同じ坐像な ので、実ははっきりとは判らない。 写真は中尊の阿弥陀如来坐像で、下半身がかなり 欠落してしまっている。左手は施無畏、右手は与願 の如来印相で、堂々とした体躯はこれもホキ第二龕 の阿弥陀如来像に似ている。 ただ、こちらの面相が何とも純真無垢の童顔であ ることから、とても親しみ易い石仏であると言える だろう。 制作年代は平安末期と考えられる。 |
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| 臼杵石仏群/古園磨崖仏 (大分県臼杵市) |
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ここは古園の「十三仏」と呼ばれており、臼杵石 仏を代表する大日如来のお顔部分の面相で知られて いる。(本ページの表紙写真参照) 写真は修復後の大日如来像で、お顔が首の上に載 せられて坐像全体が復活した。 立派になったのだが、頭部だけが台の上に置かれ ていたかつての状況が、無性に懐かしく感じられる。 崩落し朽ち果てていくのも石仏の定め、と感じさせ る情緒があったからなのだろう。 しかし、昭和初期頃の古園磨崖仏の崩壊状態は惨 憺たる状況で、亀裂や浸水や崩落は甚だしかったら しい。現在見る修復復元状況は奇跡的とも言え、そ れは情緒などを遥かに超越した素晴らしい仕事だっ たのである。 大日を中心に右には、無量寿・不空成就・普賢・ 観音・降三世・多聞天の六体が並び、左には、阿し ゅく・宝生・文殊・勢至・不動・増長天の六体、合 計十三体が彫られている。 山のような岩壁の大石龕に、横一列に十三体の磨 崖仏の並ぶ姿は壮観で、身が引き締まるような迫力 が感じられる。 中でも、写真の智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像 は、その大陸的な風貌や随所に残る彩色などが、激 しい損傷にも関わらず圧倒的な魅力となって観る者 を惹きつける。 |
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| 熊野磨崖仏 (大分県豊後高田市) |
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豊後高田市とは言ってもかなりの山奥で、平野の近 く田染(たしぶ)の郷の鋸山という岩山の中腹にこの 磨崖仏が彫られている。 ここへ登るには、些かの艱難辛苦が要求される。胎 蔵寺の脇から続く、不規則に積まれた峻険な石段を約 三百米は登らねばならないからである。 見上げるような断崖の下がやや平らに開けた場所に なっており、そこから絶壁の中程に彫られた二体の磨 崖仏を望むことが出来た。 像は巨大で、いずれも高さが8mはあるだろう。左 が不動明王像、右が写真の大日如来像である。 精巧に彫られた螺髪、瞑想するかの如き厳しい風貌 がとても魅力的である。 首から下が崩落したかのように見えるが、韓国慶州 の南山(なむさん)には岩と同化したような頭部だけ の如来像があり、同様の朝鮮系磨崖仏で最初から下半 身は造られなかったのではないかという説もある。 像の上部、円光背の上に梵字による、種子曼荼羅が 彫られている。ちょっと見ただけでは判然としないが、 胎蔵寺でこの曼荼羅の拓本を見て驚いた。左に金剛界、 右に胎蔵界、中央に理趣経という三つの曼荼羅が精密 に彫られているのである。 大日像と共に平安末期の造立とされ、磨崖曼荼羅と いう類例の無い貴重な遺構なのである。 |
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| 元宮磨崖仏 (大分県豊後高田市) |
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街道沿いに八幡神社が鎮座しており、 その社殿北側の岩壁に写真のような一連 の磨崖仏が彫られている。 像は左から地蔵・持国天・セイタカ童 子・不動明王・矜羯羅(コンガラ)童子 ・多聞天の六体とされている。 不動明王の脇侍である二童子、特にセ イタカ童子像は、小さい上に摩滅してい てはっきりしない。 この磨崖仏の主役は国東に多く見られ る不動と毘沙門(多聞天)であるとする 説や、元宮あるいは宇佐八幡社の本地仏 を表現したものとする説もあり興味深い。 制作年代も平安末期説、鎌倉後期説、 南北朝説などあって混乱するが、豊後に 分布する一連の平安石仏の完成度とは一 線を隔しているように見えるので、私は 鎌倉後期説を採りたい。 しかし、いずれにせよ、ずらりと並ん だこの磨崖仏の魅力は格別であり、ここ では先ず百聞よりも一見を選択すべきだ ろう。 |
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| 会会磨崖仏 (大分県竹田市) |
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この石仏は20年前に訪ねたきりで、写真は当然 ながらその時撮影したものである。 場所が竹田駅真裏に位置する、会会(あいあい) という地名の、崖の中腹だっただけに、現在はどん な環境に在るのかが心配ではある。 現代アートを連想させるようなこの石仏は、崖に 彫られた千手観音菩薩像である。 当時は、かなり急な崖を這いつくばって、よじ登 らねばならなかった。それでもこの茫洋とした観音 像を目にすると、何かとても心澄まされる気分にな ったものだった。 千の手を表した羽根のような線や、頭の上に横一 列に並んだ十一面は、まるでフォービズムの絵画を 見るような新鮮さに溢れていた。これほど風変わり で、これほど愛らしく、そしてこれほどアーティス ティックな石仏と未だかつて遭遇したことは無い。 別名で下木石仏とも呼ばれているが、千手観音の 横に宝塔を掲げた多聞天の像が彫られ、さらに石龕 の中に聖徳太子といわれる像がある。組み合わせに 何の意味があるのか、私には一向に判らない。 |
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| 高瀬磨崖仏 (大分県大分市) |
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数回にわたって国東半島を中心に、豊後地方の石 造美術を探訪した事が有る。磨崖仏については、臼 杵、菅生、熊野が白眉中の白眉なのだが、ここ高瀬 の磨崖仏の周辺の景観も含めた静けさがすっかり気 に入ってしまった。 大分の町からは至近な割りに牧歌的な雰囲気に満 ちており、石窟までの道中はちょっとしたハイキン グ気分が味わえる。 この磨崖仏の最大の特徴は、この近くにある曲磨 崖仏などもそうなのだが、小規模ながらインドや中 国に見られる形式と同じ石窟の中に彫られていると いうことだろう。 胎蔵界大日や如意輪観音、大威徳明王などと並ん で深沙大将という珍しい像など、密教系の像容ばか りの貴重な石窟である。 窟内部の明暗が激しく、全体像の良い写真が撮れ なかったのだが、どうしてもこの珍しい深沙大将像 をご紹介したかったので、せめて上半身だけで御容 赦願いたい。 体に巻きついた蛇やドクロの瓔珞(胸飾り)が異 様だが、朱の彩色が残って堂々たる美しさである。 木彫や塑像ではなく、石の磨崖彫刻でかくも情念 的な表現の成された石仏を余り知らない。不動明王 にも通じる憤怒像だが、平安から鎌倉期にかけての 自由な発想が生んだ造形、という気がしている。 |
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| 元町磨崖仏 (大分県大分市) |
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大分の町の南側、上野丘という丘陵の崖地に沿っ て薬師堂という覆屋が建てられており、その中に写 真の磨崖仏が祀られている。 この磨崖仏は薬師如来坐像で、平安後期の作とさ れる傑作である。お顔など損傷が酷いが、かつての 面相などを想像すると、木彫丸彫に近いいかにも端 正な造形が浮かんでくる。臼杵のホキ磨崖仏にも匹 敵する秀逸な石仏、と言われる所以が理解出来るよ うな気がしてくる。 像高は4m弱という巨大な像で、百済の僧日羅の 彫ったものだと伝えられているそうだ。 大らかな頭部の螺髪や肉髻、視線を礼拝者に向け た切れ長の眼、ふっくらとした穏やかな顔など、丸 で木造の仏像を見るような美しい石仏である。 両手の肘から先や、膝下や蓮台などかなり崩壊し てしまっている。 像の向かって右側に毘沙門(多聞)天、左に二童 子を従えた不動明王が彫られているのだが、損傷が 余りに激しく、ほとんど鑑賞に値しない。 |
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| 下市磨崖仏 (大分県宇佐市安心院) |
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九州豊後地方の磨崖仏や石造美術を、じっくり と探訪したことがある。本来なら取り上げるべき 文化財的仏像は数え切れぬ程有ったのだが、この 旅を通じて私の内なる心の琴線を鳴らした仏像の 中で、特にこの素朴で大仰でない薬師如来像が今 でも気に入っている。 乳不動という小さなお堂の横の崖に、阿弥陀如 来や不動明王と並んで彫られている。技巧的には それ程高度なものではないが、平安期の様な穏や かな表情が魅力的である。 案内には室町初期と書かれているが、場所柄ど こかに古仏の面影を留めており、技巧のみに走っ てしまった従来の室町期の作品とは一線を隔する ものと思う。 石の膚も余り美しいとは言えず、彫りも稚拙で あり、ノミの跡が生々しく残っているような仏像 である。同じ豊後でも臼杵や高瀬や菅生などの名 作とは比較にもならないが、それでもなおこの仏 を彫った人の一味違う美意識と共に、石に像を刻 むという行為の向こうに必ずや存在するであろう 仏への信仰の輝きの暖かさが感じられるから好き なのである。 |
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| 菅生磨崖仏 (大分県豊後大野市三重) |
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1972年に初めてこの菅尾磨崖仏を訪れた頃は、 覆屋は修復されてはいたものの、臼杵と熊野以外 の石仏の存在はほとんど一般的には知られていな い時代だった。案内板も無く、たどり着くまでに 何度も道を間違えた記憶がある。 35年振りの訪問は、道の整備や入場有料化な どの変化はあったものの、覆屋のある石窟の雰囲 気は当時のままだった。 石窟内の磨崖仏は、千手観音、薬師、阿弥陀、 十一面観音の四体が主尊で、その右に多聞天が並 んで彫られている。 いずれも磨崖仏ではあるが、丸彫りに近い厚肉 彫りの像で、平安末期の優しい大らかな表情が何 とも言えない魅力を伝えている。 写真は最も印象に残った、左端の千手観音像で ある。瓢箪形の光背が豊後の特徴とされるが、平 安末期などというとてつもなく古い制作年代が信 じられぬほど絵画的な造形美を示す表現は、臼杵 の石仏群にも共通している。 千手観音の石仏は随所に見られるが、木彫的な 表現が見事に成されたこの作品は出色であろう。 ここでも石窟内の上と下の明度に大きな差があ り、余り良い写真が撮れなかった。一度でいいか ら、完全なライティングをして、じっくりと撮影 出来たらいいなあ、という夢をずっと抱いている、 憧れの仏様である。 |
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| 普光寺磨崖仏 (大分県豊後大野市朝地) |
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寺の背後、谷を隔てた向こうに、見上げるほ どの岩壁が聳えている。その壁面に高さ6mも の不動明王が彫られており、脇侍童子を従えた 三尊像である。 何とも気宇壮大にして雄渾であると同時に、 不思議な慈愛をも感じさせる、まことに懐の広 い磨崖仏だ。制作年代は、平安末期から鎌倉初 期にかけてのものだろう。 微笑んでいるかのような不動は、右手に剣を 持ち、左手に索を捧げている。寺の境内から遠 望すると、この彫刻がいかに丸みを帯びた仕上 げになっているかが分かるが、扁平で角の無い 穏やかな不動である。 身に纏った衣紋は、透けて見えるが如く軽や かである。 左の像は脇侍のセイタカ童子で、下半身はか なり崩落している。それでも、あどけない表情 の中に、柔和な優しさが感じられる。 この磨崖に隣接して二つの石窟が在り、鎌倉 期の不動三尊や平安末期の多聞天像などを見る 事が出来る。 |
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| 緒方宮迫磨崖仏 (大分県豊後大野市) |
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旧緒方町を流れる緒方川には、豊後のナイアガラと 呼ばれる原尻の滝がある。滝の上流にかかる橋を渡っ て行くと、そこに宮迫磨崖仏が在り、二百米離れて東 西二つの石窟がある。 写真は西の石窟の釈迦如来像で、急な石段を上った 丘陵の中腹にある。 ここの磨崖仏は三体在って、釈迦如来を中心にし、 向かって右に阿弥陀如来、左に薬師如来という三如来 坐像形式である。 いずれも堂々とした体躯の大らかな如来像であり、 施無畏・与願印を示した格調高い見事な造形である。 磨崖仏なのだがここでも丸彫りに近い厚肉彫りが成 されており、像の倒壊を防ぐ意味もあるがっちりとし た裳懸座など、豊後の磨崖仏に共通した特徴を見るこ とが出来る。 東の石窟には、大日如来を中心として、不動、毘沙 門天、仁王像などの磨崖仏が彫られている。 東西いずれも、平安末期から鎌倉初期にかけての制 作であろう。 |
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| 瑞巌寺磨崖仏 (大分県九重町) |
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別府湯布院から玖珠へ向かう国道に面し た小さな御堂に、五体の磨崖仏が祀られて いる。 寒の地獄や筋湯といった温泉巡りの途中 で立ち寄ったのだが、平安末期という古仏 それも脇侍を伴った不動明王像であったこ とが、とても強い印象を残したのだった。 中央が剣を持ち憤怒の形相をした不動明 王、右は脇侍の矜羯羅(こんがら)童子、 左は制叱迦(せいたか)童子である。 9世紀も前の造立であり、いずれもかな り崩壊しており剥落も激しいが、当時の彩 色が残っていて嬉しい。 不動明王は穏やかな怒りの表情であり、 右の童子の合掌した慈愛の眼差しを表した 造形力と共に、この地に栄えた仏教文化の 歴史的レベルがいかに高かったかを、歴然 と物語っている。 |
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| 鵜殿窟磨崖仏 (佐賀県唐津市相知町) |
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或る年の5月、北九州八幡に住む古い友人と会うた めに福岡へ飛んだ。旧友との再会に感動した翌日、私 達はレンタカーで唐津焼の窯元と名護屋城跡を訪ね、 その晩は呼子の港町に宿泊した。名物のイカを堪能し たのは勿論だが、宿で見た雑誌でこの鵜殿磨崖仏の存 在を知ったのだった。 松浦川と厳木川が合流するあたりの断崖の中腹に、 幾つもの半洞窟が並ぶようにして連なっており、それ ぞれの壁面に多数の磨崖仏が彫られている。 参道を行くと最初に、崖から崩落したと思われる大 岩があり、そこに薄肉彫りされた不動明王と諸仏像を 見ることができた。 さらに石窟が続き、不動三尊や諸仏などを見たが、 最も印象に残ったのが写真の持国天像だった。 彩色が残る躍動的な像だが、洗練された九州の並み 居る磨崖仏の中では、地方色の濃い素朴な味わいを示 す作品の事例に入るかもしれない。 写真右上の暗い部分に十一面観音坐像が彫られてお り、さらにその右には多聞天像が見られ、諸仏が無数 の小龕の中に彫られている。 この旧相知町一帯には、鵜殿を中心として似たよう な石窟磨崖仏が多く分布している。鎌倉末期から南北 朝にかけてのある時期に、何らかの宗教的な背景が存 在したのか、或いは石工の集団が定住していたものと 思われる。 |
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| 山伏峠石棺仏 (兵庫県加西市) |
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古代の古墳に用いられた石棺材を再利用し、彫られ た仏像を石棺仏と呼んでいる。そのほとんどが凝灰岩 で、播磨地方に集中して分布している。 民間に浄土信仰が広まったことと、この地域が古墳 の密集地帯であったので、石造彫刻の材料としての石 棺調達が容易であったこと、などがその要因である。 約60体の石棺仏が現存しているとの事だったが、 私はその内の20体の石仏と5基の板碑を見た。 浄土からの来迎を表す阿弥陀像を描いた図像が多い のは当然として、次に多かったのは地蔵であった。 写真の石棺仏は、五百羅漢石仏で有名な北条の町か ら至近の、山伏峠という小さな峠に祀られている。阿 弥陀像なども一緒に祀られているのだが、なかなか雰 囲気の有る場所だった。 中心の地蔵は坐像であり、そして周囲の六地蔵は立 像であるが、何と穏やかで優しい面容だろうか。たと え地獄の閻魔だろうが、即座に懐柔されてしまいそう な深い慈愛の表情ではないか。 南北朝時代の作とのことだが、古典から脱してやや シュールがかった新たな創造の時期にあったのかもし れない。西欧に例えれば誠にロマネスク的とでも言お うか。 |
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| 豊倉弥陀石棺仏 (兵庫県加西市玉野) |
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上記の山伏峠を東南に下り、玉野という集落へと向 かった。そこには薬師寺という小さなお堂があり、周 辺には多様な様式の板碑や南北朝期の石造五輪塔など を見ることが出来た。 写真の石棺仏は玉野の集落の田中という別の場所に 在ると聞き、地図を探したが判らなかった。地元の方 に伺い、少し南の現在は豊倉と名乗っている集落の場 所が判った。 石棺仏は集落の少し手前の、道の西側の林の中に祀 られていた。 古墳に用いられた石棺の蓋石が利用されており、裏 面のくり抜かれた部分に阿弥陀如来像が薄肉彫りされ ている。鎌倉末期から南北朝にかけての制作だろう。 面相はやや摩滅しているが、堂々とした阿弥陀如来 像であり、美しい蓮弁の蓮華座に座し、上品上生の弥 陀定印を結んでいる。光背は二重の円光で、その背後 に彫られた火焔のような装飾が珍しい。直ぐ近くの上 宮木の石棺仏にも同じ様式が見られたが、どちらかが 真似たものかもしれない。 浄土信仰が背景にあるので当然ではあるのだが、こ の一連の播磨石棺仏には阿弥陀如来や地蔵菩薩の像が 圧倒的に多い。末法思想の中での極楽浄土からの阿弥 陀来迎や、地蔵による地獄からの救済が信仰された証 左なのだろう。 |
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| 旧鹿谷寺石窟磨崖仏 (大阪府太子町) |
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拙サイトにも掲載してある奈良時代の十三重石塔で 知られる、鹿谷(ろくたに)寺跡にある石窟磨崖仏で ある。 十三重塔に隣接して断崖があり、その下面に石窟が 掘られている。鹿谷寺がどのような姿であったかは不 明だそうだが、この石窟が本堂であって、岩盤を同じ くする生えぬき一石の十三重塔と共に伽藍を構成して いる姿は、インドや中国の石窟寺院を連想させて感動 的だった。 石窟内正面の壁に、三体の如来坐像が横一列に線刻 されている。高さはいずれも約1.5mで、蓮華座に 坐している。 三尊の尊名は不明だが、中尊が両手を胸前に上げた 説法印であることから釈迦如来、左の像は両手を膝上 に置く定印であることから阿弥陀如来、ではないかと 想像は出来る。 写真は向かって右側の像で、やや太目の線が最も鮮 明に残っている。右手は胸元に上げる施無畏印で、左 手は膝上に置かれているので、私は薬師如来像だろう と思うのだが、弥勒の如来形という説もあり定説は無 いらしい。 臼杵の磨崖仏などで見られるような、釈迦・阿弥陀 ・薬師の如来三尊とするのが普通なのだが、奈良時代 後期から始まった弥勒出現願望を表した弥勒如来像で ある可能性も強い。 |
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| 旧狛坂寺磨崖仏 (滋賀県栗東市) |
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この石仏に会うためには、金勝寺からの山道を 尾根伝いにかなり歩かねばならない。しかし、こ の荘厳な三尊像には、人が味わった辛さをすっか り忘れさせるという魔力が備わっていたらしい。 汗も疲れも、知らぬ間に吹き飛んでいたのだ。 「狛」という文字が「高麗」を連想させ、朝鮮 との関連を考えてみたくなる。 最初の印象は、主尊が韓国慶州の南山に有る磨 崖仏に、そして脇侍が石窟庵の十一面観音像に、 何も根拠は無いのだが、感覚的に似ていると感じ られたのだった。 角度を変えて眺めると、国東半島などに残され た山岳密教的石仏の雰囲気に通じているようにも 見える気がしてくる。 まあ、所詮素人の詮索など、適当なところで打 ち切ったほうが良いだろう。 主尊の両手の印相は余り類例の無いもので、転 法輪印のようにも見える。諸尊を配した、弥勒の 下生出現の浄土が表現されている、とされる説が 有力であろう。 この石仏と向き合いながら、人が石に仏を刻む 行為とは一体なんなんだろうと考えた。かくも大 らかで荘重で優美な仏像を、それも人跡未踏の山 奥にである。 卓越した美意識と技巧、そして深い信仰と情熱 とが無ければ決して成しえない、これは造形の究 極の姿に他ならない。 |
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| 比叡山香炉岡石仏 (滋賀県大津市) |
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比叡山最古の建築である西塔の釈迦堂真裏に香 炉岡が有り、その静寂に包まれた雑木林の中にこ の弥勒菩薩坐像が祀られている。 顔や手や光背の半分が破損しているのは残念だ が、藤原仏の優美な面影を備えた、木彫の仏像に も比される程完成度の高い鎌倉初期の傑作である。 信長の焼き討ちで破損したとのことだが、本能 寺の変はこの弥勒仏が下した天罰であると私は思 う。かくまでに美しい造形を踏みにじる蛮行、そ れで何処に正義が有るというのだろうか。 そこに在ることそのものが美しいと思わせる石 仏は滅多に無いが、周囲の環境も含めこの像は抜 群の存在感を示している。 光背に梵字の月輪種子を配した像は、京都でも 石像寺の阿弥陀三尊など多くが知られているが、 古仏の持つ大らかな風格と、きりっと張りつめた 力強さを擁した石仏はほとんど見かけることが出 来ない。 この像と対峙するためだけの目的で、比叡山に 登ることも厭わない程私はこの石仏に惹かれてい る。叡山の奥に思い入れの仏様がいらっしゃる、 というのはなんとも心が浮き立つような素敵なこ とではないか。 |
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| 西教寺石仏群 (滋賀県大津市) |
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大津の坂本に里坊庭園を訪ねた折、ここの庭園 にも立ち寄った。実は庭より印象に残ったのが、 明智光秀の墓とこの石仏群であった。 地元坂本では光秀は名君として、手厚く祀られ ていたのが意外であり、またこの石仏群がとても 美しいのに驚いた。 境内の一画に数十体の石仏が並んでおり、それ は阿弥陀如来を中心とした二十五菩薩の来迎像で あった。近江の豪族が息女の死を供養する為に造 立したもので、天正十二年(1584)の刻銘が有る。 本来仏像の分野において、桃山時代の作品には余 り特筆すべきものが無いのだが、この菩薩石仏群 には捨て難い味わいが感じられた。 二十五菩薩の全てがそれぞれの手に楽器を携え、 阿弥陀来迎を荘厳している。琴・笙・笛などいず れも魅力的なのだが、私はこの琵琶を弾いておら れる菩薩がとても気に入った。 時代的にも、構図といい細部の表現といい、か なり通俗的な筈なのに、とても品位に満ちている。 息女への親の慕情が、切に感じられるからだろう か。 |
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| 寂光寺藤尾磨崖仏 (滋賀県大津市) |
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磨崖仏というものは通常、屋外の岩肌に刻まれ ているものと承知していた。しかし、ここでは御 堂の奥正面、御簾の向こうに大きな岩壁が露呈し ており、そこに彫られた十五体の磨崖石仏が祭ら れていたのだった。 大津の三井寺から京都の山科に通じる旧道、小 関越えの途中に有る小さな集落である。 写真は中央の阿弥陀如来像で、光背に延応二年 (1240)という鎌倉中期の銘があるそうだ。確かに それに相応しい上質な品位が感じられる。 光背に梵字が彫られており、比叡山西塔石仏を 連想した。経文かと思われるが、まことに荘厳な 意匠である。 この阿弥陀坐像の右側に、観音・勢至両菩薩立 像が彫られている。両側に脇侍として彫られるの が普通で、この形式は珍しいだろう。 左側に彫られた姿の良い地蔵菩薩像を含めた四 体が、同じ時代の作ではないかと思われた。他の 像は全て、後世の作だろう。 従来撮影禁止だが、先般の訪問の際に偶然の幸 運に恵まれたものである。 |
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| 富川磨崖仏 (滋賀県大津市) |
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瀬田の唐橋から石山寺門前を抜け、瀬田川に沿って 進むと鹿跳橋の分岐へやってくる。信楽方面に進路を 取り、瀬田川の支流信楽川の渓谷沿いを暫く行くと、 行く手に巨大な岩壁が見えてくる。 不動岩と呼ばれる岩山で、そこに壮大な磨崖仏が彫 られているのである。車を止め森を抜けた瞬間に飛び 込んできた磨崖仏は、想像を超えた大きさだった。 広角の写真では表現できないが、案内板には高さが 6.3mあると書かれていた。 観音菩薩・勢至菩薩と共に、阿弥陀三尊が彫られて いる。写真は中尊の阿弥陀如来坐像で、蓮華座の上に 結跏趺座し定印を結んでいる。 頭光の表現が単純だが特異であり、弥陀の面相には 何とも剛毅な写実性が感じられる。 像は周囲を少し彫りくぼめた、板彫りのような浅浮 彫であある。線が薬研彫りのような技法で彫られてい るので、衣文などにも浮き上がるような質感がある。 写真では隠れているが、蓮華座の下に彫られた二区 の格狭間からも、鎌倉中後期に制作されたものだろう と推測出来る。 向かって右の観音菩薩は化仏を表した宝冠を、左の 勢至菩薩は水瓶を表した宝冠を、それぞれ戴いている。 両脇が蓮華を捧持して立つ姿は優美で、阿弥陀信仰に 伴って当時制作された多くの優れた仏画を見るような、 まことに絵画的な三尊磨崖仏である。 |
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| 日石寺磨崖仏 (富山県上市町) |
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立山連峰の山続きであるこの場所は、 里からは完全に隔絶した正に深山幽谷の 真っ只中である。 剣岳の本地仏として刻まれた不動明王 は、古くより大岩不動として深い信仰を 集めて来た。平安末期の造立とされる、 秀逸な磨崖彫刻である。現在は前面がお 堂になっていて、燈明は絶えない。 カッと眼を見開いた憤怒形の主尊不動 明王は、頭上に蓮華を頂き垂髪を下げ、 剣と索を持った迫力ある像だ。 脇侍の矜羯羅童子は右に、制吁迦童子 は左に彫られているのだが、写真には不 動のすぐ右に彫られた阿弥陀如来が写っ ている。これは立山のもう一つの本地仏 として彫られたものと言われる。 古くより山岳や巨石を信仰の対象とし てきた神仏習合の形態を、図像として伝 える貴重な磨崖彫刻である。 |
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| 関山石仏群 (新潟県妙高市) |
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妙高山麓にある関山の里の入口付近に、杉木立に囲 まれた関山神社が建っている。 正面の本殿から境内を少し左手へ行った所に覆屋が 在って、その中に二十数体の石仏がびっちりと並べら れていた。 近隣や境内に散在していたものを、保存を目的とし て集められたのだという。妙高山を背景に静かに路傍 に座すかつての野仏の姿を想像すると、牢屋に押し込 められたかの如き現状は余りにも無粋である。しかし、 摩滅崩壊しつつあるこの石仏のお姿を拝したならば、 文化財保護などと言う前に、せめて雨露による風化か らは逃れさせてあげたい、と感じるのは人情だろう。 写真の石仏が、全体を眺めた中で、最も目鼻立ちが はっきりとした像だった。 頭部に螺髪は表現されていないが、盛り上がった肉 髻が見られるので、如来像であることは間違いない。 ふっくらとした穏やかな面相、崩れているとはいえ 豊満な表現の体躯、などからは平安末期のおおらかな 様式が想定できる。 右手は胸前に上げた施無畏印であり、おそらく右手 は膝上に置く与願印なのだろう。 ほとんどの石仏の腰や膝から下が地面に埋まってし まっており、当初からそういうお姿だったのか、それ とも蓮華座か基礎に載っておられたのかは判らない。 いずれにせよ、野仏の風情を持つ平安という古い時 代の単体石仏は、東日本では珍しく貴重な存在である。 |
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| 箱根山磨崖仏 (神奈川県箱根町) |
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箱根新道ではなく国道1号線を登り、小涌谷から芦 ノ湯の入口を過ぎたあたりに、曽我兄弟の墓と呼ばれ る石造五輪塔群がある。 この二子山麓には、鎌倉期の忍性菩薩を中心とした 地蔵信仰を表した石造品が集中している。 先述の五輪塔の火輪には地蔵菩薩像が彫られており、 その少し先の岩壁周辺にこの磨崖仏群が残っている。 道の左手に「二十五菩薩」と呼ばれる磨崖仏群があ り、写真はその内で一番大きいと思える地蔵菩薩像で ある。像高は1mほどだろう。 舟形に彫りくぼめた中に、かなり厚肉彫りされた像 で、右手に錫杖、左手に宝珠を持って蓮華座の上に立 っている。半眼の鋭い面相が魅力的で、鎌倉期らしい 厳粛な雰囲気である。 この磨崖仏群は阿弥陀如来像一体を除き、他は全て 地蔵菩薩像である。岩の一部に刻銘があり、鎌倉後期 永仁元年(1293)に、先祖供養を目的に造営されたこと が判る。 道の反対側の岩にも地蔵磨崖仏が三体在り、もう少 し下った左側に六道地蔵が在る。正安二年(1300)の銘 がある丸彫りに近い磨崖地蔵菩薩坐像で、この一帯の 地蔵信仰の中心的な存在なのだろう。 近くに、火焚き地蔵と呼ばれる、応長元年(1311)の 小さな磨崖地蔵も在る。 |
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| 泉沢石窟磨崖仏 (福島県南相馬市小高町) |
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小高駅と桃内駅の中間辺りに泉沢の集落があり、か つて大悲山と呼ばれた丘陵地の崖に三つの石窟が残っ ている。 薬師堂、阿弥陀堂、観音堂がそれなのだが、優れた 磨崖仏が残る薬師堂をここではじっくりと見たい。 石窟は覆屋になっており、天井が低く奥行が深いの で、迫力に満ちた空間を演出している。正面の壁一杯 に彫られた七体の巨大な磨崖仏が並ぶ光景は、何とも 荘厳な雰囲気に満ちている。 何とも残念なのは、石窟の材質が砂岩であるために 風化が激しく、悲劇的とも言えそうな惨状を呈してい ることだった。 写真は中央部に座す弥勒如来坐像だが、面相が摩滅 した上に蝙蝠の糞が積もったものか真っ白になってし まっている。衣文の一部と光背以外は、ほとんどの意 匠が消滅してしまったようだ。 他の尊像も全て同じような破損状態なのだが、薬師 ・地蔵・観音・弥勒・釈迦・弥勒・観音と並ぶ様は、 誠に雄大な構想であったことが伺える。 諸尊の間の壁面に薄肉彫りされた飛天像や、線彫り の聖観音像、壁画のように精巧に線彫りされた光背な どが見事な荘厳となって、壮大な仏空間を創出してい たのである。 東北では唯一の厚肉彫り磨崖仏群であり、平安後期 の仏教文化がこの浜通りに繁栄していたことを示すも のなのだろう。 |
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| 達谷窟磨崖仏 (岩手県平泉町) |
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平泉の中尊寺から厳美渓へと抜ける県道沿いに 小さな社殿が建ち、その背後の岩山の中腹にこの 磨崖仏が彫られている。 磨崖仏の分布としては最北端に位置しているそ うで、そう聞くと何やら有難く感じてくる。 説明板が立っているので、その内容を記してお くことにした。 源頼義が蝦夷を討伐した際、最後まで朝命に従 わなかった安倍貞任を滅ぼした。その戦で死んだ 多くの人々を供養するために、永承六年(1051)に 大日如来を弓の両端で刻んだ、という伝説が残っ ている。 白毫以外には、大日はおろか、仏像であること すら明確ではないが、なにやら大らかな尊顔と、 肩の線や髪型の不思議な形などは、稚拙ながらも 当代に仏教が既にこの地まで及んでいたことを示 しているようだ。 平泉にはこのすぐ後の長治二年(1105)に、奥州 仏教文化が最高に花開く中尊寺が藤原氏によって 建立されるのである。 |
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