石仏・磨崖仏紀行 |
九州・近江・ 東日本の石仏 |
金剛界大日如来像頭部 臼杵石仏群/古園磨崖仏 大分県臼杵市 復修復前の写真(1972/5/22撮影) 新婚旅行で訪ねた臼杵石仏群が、以後の石仏 行脚の原点となった。 |
別サイトに京・大和の石仏をまとめたのだが、 それ以外の地方、特に九州の豊後や近畿の近江な どにも、木彫の仏像に匹敵するほどの造形力を示 した傑作が広範囲に分布している。 特に臼杵に代表される豊後地方のような、山岳 の岩場を利用した磨崖仏の迫力は、見る者に深い 感動を与えてくれる。 また、狛坂寺の磨崖仏に代表される近江の石仏 には、京大和とは一味違った“歴史の残照”のよ うな魅力が感じられる。 東日本も含め、その他の地方の平安・鎌倉期の 古仏を中心にして、全国を旅してみたいと思う。 心に沁みる旅が約束されるだろう。 |
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隼人塚四天王像 |
鹿児島県霧島市 |
霧島市の旧隼人町、JR日豊本線隼人駅の南西の 線路際に、三基の石造五重塔を守護するようにし て、四隅に四天王石像が置かれている。 写真は右手前に立つ持国天像で、四体の内最も 保存が良いとされている。近年の修復以前には、 五重塔は大半が崩落し、四天王像は悲惨なまでに 散乱していたそうである。今日見られる整然とし た姿は、奇跡的な復活とも言えるだろう。 持国天以外の三体は、詳細に眺めるとかなり修 復の痕跡が残ってはいるが、平安期の塚の構成が 見事に復元されており感動的である。 四天王像四体は、いずれも一石から彫られた丸 彫りの像で、可愛い天邪鬼の彫られた方形台座と も一体になっている。 写真の持国天像は平安時代後期の様式を示す、 大らかで優雅な彫りである。像はほぼ直立してい るが、少しだけ腰を左に捻っているところに優し さが見られる。 獅子面の施された兜を被り、鎧を身にまとい、 左手に剣を斜めに持ち、右手は振り上げられてい る。 隼人塚の起源については多々語られているが、 平安期の仏教寺院に由来するというのが現在では 有力となっているらしい。 五重塔も復元されているが、このシルエットか らは半島の影響が色濃く見て取れる。 |
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赤水岩堂磨崖仏 |
鹿児島県霧島市 |
鹿児島空港北近くの幽邃な山中に、この石龕磨 崖仏がひっそりと座している。 ほぼ丸彫りに近い三尊石仏で、中尊が結ぶ上品 上生の弥陀定印からも、阿弥陀如来坐像を中心と した阿弥陀三尊像であることは容易に判別が出来 る。本尊の右に蓮華を捧げる観音菩薩、左に合掌 する勢至菩薩が立っている。 仏像の面容は決して美しいとは言えず、異形と しか思えないが、日向の日羅系磨崖仏に通じるら しい。いつか日向も訪ねてみたいと思っている。 石龕の下壁、各像の下に蓮華請花が線彫りされ ている。大らかな古仏を連想させるが、建武二年 という南北朝初めの年号が彫られているとのこと であった。 |
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円台寺磨崖仏 |
熊本県熊本市 |
笠塔婆を見るために訪れた円台寺へ向かうすぐ 手前の崖地に、数体の磨崖仏群が在った。存在感 のある如来像など、中世の古仏の雰囲気に満ちて いた。 中でも、写真の三尊立像が際立って、格別の光 明を放っていた。 彫り込んだ舟形は一光三尊の光背を表し、中尊 は高い二重蓮華台に乗る。両脇侍は掌を重ねる梵 篋印を結んでおり、典型的な善光寺式弥陀三尊像 なのであった。 きりりとした各尊の風貌や彫りからは、近世の 野仏とは一線を画する格調が感じられた。鎌倉ま では遡れそうである。 隣接する石に浮彫りされた三重塔も、見応えの ある彫刻だった。 |
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臼杵石仏群/ホキ磨崖仏 |
大分県臼杵市 |
日本の石仏を語る上で、臼杵の石仏群を欠かす わけにはいかない。私は1972年に新婚旅行で 訪ねた程の思い入れだったが、その後直ぐに一度 行っただけで、今回は35年振りの訪問だった。 修復と同時に観光化してしまい、遊園地でもあ るまいに、入場料を払って見るのがいやでそれ以 後は足が向かないままでいたのだった。 そうは言っても、断然たる価値と美しさは少し も揺るがないだろう。この壮大な磨崖仏群は、ホ キ・堂ケ迫・山王山・古園の四地区から成る。 ホキ磨崖仏は二つの石龕から成っており、第一 龕では九品弥陀像九体を中心とした鎌倉初期の像 を見ることが出来るが、かなり損傷している。 写真は、ホキ第二龕に彫られた阿弥陀如来坐像 で、三尊として脇侍の観音・勢至両菩薩像に挟ま れている。 堅い凝灰岩ゆえに繊細な彫りが可能だったもの か、石造とは思えぬ程木彫に近い表現が成されて いる。 背後の岩盤とはほとんど接する程度に彫り出さ れているのである。 端正で重厚な彫りから感じられる品格は臼杵石 仏全体でも群を抜いているだろう。初見以来、一 貫して臼杵で私が最も好きな石仏である。 平安中期の造立といわれている。 |
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臼杵石仏群/堂ヶ迫磨崖仏 |
大分県臼杵市 |
ホキの崖にそのまま続いているのが、この堂ヶ 迫磨崖仏である。四つの石龕に分かれており、ホ キから続けて、三、四、五、六龕と呼ばれる。 写真は第五龕のもので、中尊は阿弥陀、右が薬 師で左が釈迦、の三如来磨崖仏である。 三尊ともに木彫の様な彫りの見事な磨崖仏で、 洗練された藤原仏のような完成度を示している。 特に阿弥陀如来の荘厳端正な面相は、ホキの阿 弥陀像に通じるものが感じられる。案の定、同一 作者という説もあるらしく、四窟もある堂ヶ迫の 中では格別の光彩を放っている。 三龕には地蔵十王像、四龕には大日如来を中心 として阿弥陀、釈迦などの五尊像、そして六龕に は釈迦を中心とした阿弥陀、薬師などの五尊像が 彫られている。 |
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臼杵石仏群/山王山磨崖仏 |
大分県臼杵市 |
ホキ、堂ヶ迫の崖とは谷間を挟んで相対してい る。途中に日吉社へ登って行く小道があり、一石 五輪塔のある中尾へはここから行く事が出来る。 かつてこの辺りは竹薮であったそうで、土地の 人はここを「かくれ地蔵」と称していたそうだ。 今は遊歩道が整備され、覆い屋も完備したので 保存や見学に支障は無いが、野仏のような風情に 情緒を求めるのは贅沢というものなのだろう。 この石窟には、釈迦を中心にした三如来像が彫 られている。右が阿弥陀、左が薬師とされている が、像容が中尊の釈迦像を小さくしたような同じ 坐像なので、実ははっきりとは判らない。 写真は中尊の阿弥陀如来坐像で、下半身がかな り欠落してしまっている。左手は施無畏、右手は 与願の如来印相で、堂々とした体躯はこれもホキ 第二龕の阿弥陀如来像に似ている。 ただ、こちらの面相が何とも純真無垢の童顔で あることから、とても親しみ易い石仏であると言 えるだろう。 制作年代は平安末期と考えられる。 |
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臼杵石仏群/古園磨崖仏 |
大分県臼杵市 |
ここは古園の「十三仏」と呼ばれており、臼杵 石仏を代表する大日如来のお顔部分の面相で知ら れている。(本ページの表紙写真参照) 写真は修復後の大日如来像で、お顔が首の上に 載せられて坐像全体が復活した。 立派になったのだが、頭部だけが台の上に置か れていたかつての状況が、無性に懐かしく感じら れる。崩落し朽ち果てていくのも石仏の定め、と 感じさせる情緒があったからなのだろう。 しかし、昭和初期頃の古園磨崖仏の崩壊状態は 惨憺たる状況で、亀裂や浸水や崩落は甚だしかっ たらしい。現在見る修復復元状況は奇跡的とも言 え、それは情緒などを遥かに超越した素晴らしい 仕事だったのである。 大日を中心に右には、無量寿・不空成就・普賢 ・観音・降三世・多聞天の六体が並び、左には、 阿しゅく・宝生・文殊・勢至・不動・増長天の六 体、合計十三体が彫られている。 山のような岩壁の大石龕に、横一列に十三体の 磨崖仏の並ぶ姿は壮観で、身が引き締まるような 迫力が感じられる。 中でも、写真の智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐 像は、その大陸的な風貌や随所に残る彩色等が、 激しい損傷にも関わらず圧倒的な魅力となって観 る者を惹きつける。 |
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熊野磨崖仏 |
大分県豊後高田市 |
豊後高田市とは言ってもかなりの山奥で、平野 の近く田染(たしぶ)の郷の鋸山という岩山の中 腹にこの磨崖仏が彫られている。 ここへ登るには、些かの艱難辛苦が要求される ことになる。胎蔵寺の脇から続く、不規則に積ま れた峻険な石段を約三百米は登らねばならないか らである。 見上げるような断崖の下がやや平らに開けた場 所になっており、そこから絶壁の中程に彫られた 二体の磨崖仏を望むことが出来た。 磨崖仏像は巨大で、いずれも高さが8mはある だろう。左が不動明王像、右が写真の大日如来像 である。 精巧に彫られた螺髪、瞑想するかの如き厳しい 風貌がとても魅力的である。 首から下が崩落したかのように見えるが、韓国 慶州の南山(なむさん)には岩と同化したような 頭部だけの如来像があり、同様の朝鮮系磨崖仏で 最初から下半身は造られなかったのではないか という説もある。 像の上部、円光背の上に梵字による、種子曼荼 羅が彫られている。ちょっと見ただけでは判然と しないが、胎蔵寺でこの曼荼羅の拓本を見て驚い た。左に金剛界、右に胎蔵界、中央に理趣経とい う三つの曼荼羅が精密に彫られているのである。 大日像と共に平安末期の造立とされ、磨崖曼荼 羅という類例の無い貴重な遺構なのである。 |
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元宮磨崖仏 |
大分県豊後高田市 |
街道沿いに八幡神社が鎮座しており、その社殿 北側の岩壁に写真のような一連の磨崖仏が彫られ ている。 像は左から地蔵・持国天・セイタカ童子・不動 明王・矜羯羅(コンガラ)童子・多聞天の六体と されている。 不動明王の脇侍である二童子、特にセイタカ童 子像は小さい上に摩滅していてはっきりしない。 この磨崖仏の主役は国東に多く見られる不動と 毘沙門(多聞天)であるとする説や、元宮あるい は宇佐八幡社の本地仏を表現したものとする説も あり興味深い。 制作年代も平安末期説、鎌倉後期説、南北朝説 などあって混乱するが、豊後に分布する一連の平 安石仏の完成度とは一線を隔しているように見え るので、私は鎌倉後期説を採りたい。 しかし、いずれにせよ、ずらりと並んだこの磨 崖仏の魅力は格別であり、ここでは先ず百聞より も一見を選択すべきだろう。 |
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会会磨崖仏 |
大分県竹田市 |
この石仏は20年前に訪ねたきりで、写真は当 然ながらその時撮影したものである。 場所が竹田駅真裏に位置する会会(あいあい) という地名の、崖の中腹だっただけに、現在はど んな環境に在るのかが心配ではある。 現代アートを連想させるようなこの石仏は、崖 に彫られた千手観音菩薩像である。 当時は、かなり急な崖を這いつくばって、よじ 登らねばならなかった。それでもこの茫洋とした 観音像を目にすると、何かとても心澄まされる気 分になったものだった。 千の手を表した羽根のような線や、頭の上に横 一列に並んだ十一面は、まるでフォービズムの絵 画を見るような新鮮さに溢れていた。これほど風 変わりで、これほど愛らしく、そしてこれほどア ーティスティックな石仏と未だかつて遭遇したこ とは無い。 別名で下木石仏とも呼ばれているが、千手観音 の横に宝塔を掲げた多聞天の像が彫られ、さらに 石龕の中に聖徳太子といわれる像がある。組み合 わせに何の意味があるのか、私には全く想像もつ かない。 |
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高瀬磨崖仏 |
大分県大分市 |
数回にわたって国東半島を中心に、豊後地方の 石造美術を探訪した事が有る。磨崖仏では、臼杵 ・菅生・熊野が白眉中の白眉なのだが、ここ高瀬 の磨崖仏の周辺の景観も含めた静けさがすっかり 気に入ってしまった。 大分の町からは至近な割りに牧歌的な雰囲気に 満ちており、石窟までの道中はちょっとしたハイ キング気分が味わえる。 この磨崖仏の最大の特徴は、この近くにある曲 磨崖仏などもそうなのだが、小規模ながらインド や中国に見られる形式と同じ石窟の中に彫られて いるということだろう。 胎蔵界大日や如意輪観音、大威徳明王などと並 んで深沙大将という珍しい像など、密教系の像容 ばかりの貴重な石窟である。 窟内部の明暗が激しく、全体像の良い写真が撮 れなかったのだが、どうしてもこの珍しい深沙大 将像をご紹介したかったので、せめて上半身だけ で御容赦願いたい。 体に巻きついた蛇やドクロの瓔珞(胸飾り)が 異様だが、朱の彩色が残って堂々たる美しさであ る。 木彫や塑像ではなく、石の磨崖彫刻でかくも情 念的な表現の成された石仏を余り知らない。不動 明王にも通じる憤怒像だが、平安から鎌倉期にか けての自由な発想が生んだ造形、という気がして いる。 |
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元町磨崖仏 |
大分県大分市 |
大分の町の南側、上野丘という丘陵の崖地に沿 って薬師堂という覆屋が建てられており、その中 に写真の磨崖仏が祀られている。 この磨崖仏は薬師如来坐像で、平安後期の作と される傑作である。お顔など損傷が酷いが、かつ ての面相などを想像すると、木彫丸彫に近いいか にも端正な造形が浮かんでくる。臼杵のホキ磨崖 仏にも匹敵する秀逸な石仏、と言われる所以が理 解出来るような気がしてくる。 像高は4m弱という巨大な像で、百済の僧日羅 の彫ったものだと伝えられているそうだ。 大らかな頭部の螺髪や肉髻、視線を礼拝者に向 けた切れ長の眼、ふっくらとした穏やかな顔等、 丸で木造の仏像を見るような美しい石仏である。 両手の肘から先や、膝下や蓮台などかなり崩壊 してしまっている。 像の向かって右側に毘沙門(多聞)天、左に二 童子を従えた不動明王が彫られているのだが、損 傷が余りに激しく、ほとんど鑑賞に値しない。 |
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下市磨崖仏 |
大分県宇佐市安心院 |
九州豊後地方の磨崖仏や石造美術を、じっくり と探訪したことがある。本来なら取り上げるべき 文化財的仏像は数え切れぬ程有ったのだが、この 旅を通じて私の内なる心の琴線を鳴らした仏像の 中で、特にこの素朴で大仰でない薬師如来像が今 でも気に入っている。 乳不動という小さなお堂の横の崖に、阿弥陀如 来や不動明王と並んで彫られている。技巧的には それ程高度なものではないが、平安期の様な穏や かな表情が魅力的である。 案内には室町初期と書かれているが、場所柄ど こかに古仏の面影を留めており、技巧のみに走っ てしまった従来の室町期の作品とは一線を隔する ものと思う。 石の膚も余り美しいとは言えず、彫りも稚拙で あり、ノミの跡が生々しく残っているような仏像 である。同じ豊後でも臼杵や高瀬や菅生などの名 作とは比較にもならないが、それでもなおこの仏 を彫った人の一味違う美意識と共に、石に像を刻 むという行為の向こうに必ずや存在するであろう 仏への信仰の輝きの暖かさが感じられるから好き なのである。 |
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菅生磨崖仏 |
大分県豊後大野市三重 |
1972年に初めてこの菅尾磨崖仏を訪れた頃 は、覆屋は修復されてはいたものの、臼杵と熊野 以外の石仏の存在はほとんど一般的には知られて いない時代だった。案内板も無く、たどり着くま でに何度も道を間違えた記憶がある。 35年振りの訪問は、道の整備や入場有料化な どの変化はあったものの、覆屋のある石窟の雰囲 気は当時のままで安堵した。 石窟内の磨崖仏は、千手観音、薬師、阿弥陀、 十一面観音の四体が主尊で、その右に多聞天が並 んで彫られている。 いずれも磨崖仏ではあるが、丸彫りに近い厚肉 彫りの像で、平安末期の優しい大らかな表情が何 とも言えない魅力を伝えている。 写真は最も印象に残った、左端の千手観音像で ある。瓢箪形の光背が豊後の特徴とされるが、平 安末期などというとてつもなく古い制作年代が信 じられぬほど絵画的な造形美を示す表現は、臼杵 の石仏群にも共通している。 千手観音の石仏は随所に見られるが、木彫的な 表現が見事に成されたこの作品は出色であろう。 ここでも石窟内の上と下の明度に大きな差があ り、余り良い写真が撮れなかった。一度でいいか ら、完全なライティングをして、じっくりと撮影 出来たらいいなあ、という夢をずっと抱いている 憧れの仏様である。 |
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普光寺磨崖仏 |
大分県豊後大野市朝地 |
寺の背後、谷を隔てた向こうに、見上げるほど の岩壁が聳えている。その壁面に高さ6mもの不 動明王が彫られており、脇侍童子を従えた三尊像 である。 何とも気宇壮大にして雄渾であると同時に、不 思議な慈愛をも感じさせる、まことに懐の広い磨 崖仏だ。制作年代は、平安末期から鎌倉初期にか けてのものだろう。 微笑んでいるかのような不動は、右手に剣を持 ち、左手に索を捧げている。寺の境内から遠望す ると、この彫刻がいかに丸みを帯びた仕上げにな っているかが分かるが、扁平で角の無い穏やかな 不動である。 身に纏った衣紋は、透けて見えるが如く軽やか である。 左の像は脇侍のセイタカ童子で、下半身はかな り崩落している。それでも、あどけない表情の中 に、柔和な優しさが感じられる。 この磨崖に隣接して二つの石窟が在り、鎌倉期 の不動三尊や平安末期の多聞天像などを見る事が 出来る。 |
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緒方宮迫東磨崖仏 |
大分県豊後大野市 |
旧緒方町を流れる緒方川には、豊後のナイアガ ラと呼ばれる原尻の滝がある。滝の上流にかかる 橋を渡って行くと、そこに宮迫磨崖仏が在り、二 百米離れて東西二つの石窟がある。 東の石窟には、大日如来を中心として、不動、 毘沙門天、仁王像などの磨崖仏が彫られている。 東西いずれも、平安末期から鎌倉初期にかけて の制作であろう。 写真は中心に座す大日如来坐像である。台座に 懸かる裳に結跏趺坐した姿は堂々としており、豊 後磨崖仏に共通する丸彫りに近い表現に改めて感 動する。 彩色の補修のためか、光背や着衣の色にやや不 自然さを感じてしまうが、彩色そのものは臼杵や 菅尾、高瀬などにも見られており、全域にわたっ て施されていたと見るべきなのだろう。 末法思想、弥勒信仰(山岳修験)、阿弥陀信仰 (極楽往生)といった思想から、造塔造像の功徳 が求められたことで、各地に磨崖仏が彫られた、 といった漠然とした歴史的なイメージは抱いてい たのだが、こうして豊後のきらめくような仏像群 に接してみると、そこには誠に驚くべき壮大なエ ネルギーを感じてしまうのである。何故豊後の密 度が際だって濃いのかについては、まだ答えが見 つかっていない。 |
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緒方宮迫西磨崖仏 |
大分県豊後大野市 |
写真は西の磨崖仏で、急な石段を上った丘陵の 中腹にある。 ここの磨崖仏は三体在って、釈迦如来を中心に し、向かって右に阿弥陀如来、左に薬師如来とい う三如来坐像形式である。 いずれも堂々とした体躯の大らかな如来像であ り、施無畏・与願印を示した格調高い見事な造形 である。 磨崖仏なのだがここでも丸彫りに近い厚肉彫り が成されており、像の倒壊を防ぐ意味もあるがっ ちりとした裳懸座など、豊後の磨崖仏に共通した 特徴を見ることが出来る。 |
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瑞巌寺磨崖仏 |
大分県九重町 |
別府湯布院から玖珠へ向かう国道に面した小さ な御堂に、五体の磨崖仏が祀られている。 寒の地獄や筋湯といった温泉巡りの途中で立ち 寄ったのだが、平安末期という古仏、それも脇侍 を伴った不動明王像であったことが、とても強い 印象を残したのだった。 中央が、剣を持ち憤怒の形相をした不動明王、 右は脇侍の矜羯羅(こんがら)童子、左は制吒迦 (せいたか)童子である。 9世紀も前の造立であり、いずれもかなり崩壊 しており剥落も激しいが、当時の彩色が残ってい て嬉しい。 不動明王は怒りの中に穏やかな表情も秘めてお り、右の童子の合掌した慈愛の眼差しを表した造 形力と共に、この地に栄えた仏教文化の歴史的レ ベルがいかに高かったかが歴然と示されている。 |
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鵜殿窟磨崖仏 |
佐賀県唐津市相知町 |
或る年の5月、北九州八幡に住む古い友人と会 うために福岡へ飛んだ。旧友との再会に感動した 翌日、私達はレンタカーで唐津焼の窯元と名護屋 城跡を訪ね、その晩は呼子の港町に宿泊した。名 物のイカを堪能したのは勿論だが、宿で見た雑誌 でこの鵜殿磨崖仏の存在を知ったのだった。 松浦川と厳木川が合流するあたりの断崖の中腹 に、幾つもの半洞窟が並ぶ様にして連なり、それ ぞれの壁面に多数の磨崖仏が彫られている。 参道を行くと最初に、崖から崩落したと思われ る大岩があり、そこに薄肉彫りされた不動明王と 諸仏像を見ることができた。 更に石窟が続き、不動三尊や諸仏などが見られ たが、最も印象に残ったのが写真の持国天立像だ った。 彩色が残る躍動的な像だが、洗練された九州の 並み居る磨崖仏の中では、地方色の濃い素朴な味 わいを示す作品の事例に入るかもしれない。 写真右上の暗い部分に十一面観音坐像が彫られ ており、さらにその右には多聞天像が見られ、諸 仏が無数の小龕の中に彫られている。 この旧相知町一帯には、鵜殿を中心として似た ような石窟磨崖仏が多く分布している。鎌倉末期 から南北朝にかけてのある時期に、何らかの宗教 的な背景が存在したのか、或いは石工の集団が定 住していたものと思われる。 |
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安国寺石仏 |
広島県福山市 |
安国寺は名勝鞆の浦の家並の中に在り、足利尊 氏や安国寺恵瓊が再興を重ねた禅寺である。 私たちの目的は、近年重森三玲が復元した室町 期の滝石組が素晴らしい枯山水庭園にあった。 お寺の前はちょっとした広場になっており、そ の一画に地蔵堂が建てられている。 お堂の中央には、写真の地蔵菩薩が立派な八角 の蓮華座に座っておられる。舟形の光背とは背中 で一体になっており、あたかも磨崖仏のような造 りである。 左手には宝珠を載せ、右手は親指と人差し指で 輪を作る大和矢田寺型の印を結んでいる。 確認はしなかったのだが、光背の背面に偈文や 銘が彫り込まれているという。それによれば、像 が造立されたのは鎌倉末期の元徳二年 (1330) の ことであり、存命の両親のための逆修供養であっ たそうだ。 光線の具合もあるのだろうが、瞑想するが如く 遠くを見つめているかのような、優美で秀麗な風 貌に見入ってしまった。 地獄に落ちた亡者を救済をしてくれるという地 蔵菩薩への信仰は、近世には路傍の野仏は全てお 地蔵様と呼ばれる程に庶民的となった。しかし、 この安国寺の地蔵菩薩は、定型化した近世の彫刻 とは次元の違う美しさを示している。 |
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山伏峠石棺仏 |
兵庫県加西市 |
古代の古墳に用いられた石棺材を再利用し、彫 られた仏像を石棺仏と呼んでいる。そのほとんど が凝灰岩で、播磨地方に集中して分布している。 民間に浄土信仰が広まったことと、この地域が 古墳の密集地帯であったので、石造彫刻の材料と しての石棺調達が容易であったこと、などがその 要因である。 約60体の石棺仏が現存しているとの事だった が、私はその内の20体の石仏と5基の板碑を見 た。浄土からの来迎を表す阿弥陀像を描いた図像 が多いのは当然として、次に多かったのは地蔵で あった。 写真の石棺仏は、五百羅漢石仏で有名な北条の 町から至近の、山伏峠という小さな峠に祀られて いる。阿弥陀像等も一緒に祀られているのだが、 なかなか雰囲気の有る場所だった。 中心の地蔵は坐像であり、そして周囲の六地蔵 は立像であるが、何と穏やかで優しい面容だろう か。たとえ地獄の閻魔だろうが、即座に懐柔され てしまいそうな深い慈愛の表情ではないか。 南北朝時代の作とのことだが、古典から脱して ややシュールがかった新たな創造の時期にあった のかもしれない。西欧に例えれば誠にロマネスク 的とでも言おうか。 |
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豊倉弥陀石棺仏 |
兵庫県加西市玉野 |
上記の山伏峠を東南に下り、玉野という集落へ と向かった。そこには薬師寺という小さなお堂が あり、周辺には多様な様式の板碑や南北朝期の石 造五輪塔などを見ることが出来た。 写真の石棺仏は玉野の集落の田中という別の場 所に在ると聞き、地図を探したが判らなかった。 地元の方に伺い、少し南の現在は豊倉と名乗って いる集落の場所が判った。 石棺仏は集落の少し手前の、道の西側の林の中 に祀られていた。 古墳に用いられた石棺の蓋石が再利用されてお り、裏面のくり抜かれた部分に阿弥陀如来像が薄 肉彫りされている。鎌倉末期から南北朝にかけて の制作だろう。 面相はやや摩滅しているが、堂々とした阿弥陀 如来像であり、美しい蓮弁の蓮華座に座し、上品 上生の弥陀定印を結んでいる。光背は二重の円光 で、その背後に彫られた火焔のような装飾が珍し い。直ぐ近くの上宮木の石棺仏にも同じ様式が見 られたが、どちらかが真似たものかもしれない。 浄土信仰が背景にあるので当然とはいえ、この 一連の播磨石棺仏には阿弥陀如来や地蔵菩薩の像 が圧倒的に多い。末法思想の中での極楽浄土から の阿弥陀来迎や、地蔵による地獄からの救済が信 仰された証左なのだろう。 |
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旧鹿谷寺石窟磨崖仏 |
大阪府太子町 |
拙サイトの石塔ページにも掲載してある、奈良 時代の十三重石塔で知られる、鹿谷(ろくたに) 寺跡にある石窟磨崖仏である。 十三重塔に隣接して断崖があり、その下面に石 窟が掘られている。鹿谷寺がどのような姿であっ たかは不明だそうだが、この石窟が本堂であり、 岩盤を同じくする生えぬき一石の十三重塔と共に 伽藍を構成している姿は、インドや中国の石窟寺 院を連想させて感動的だった。 石窟内正面の壁に、三体の如来坐像が横一列に 線刻されている。高さはいずれも約1.5mで、 蓮華座に坐している。 三尊の尊名は不明だが、中尊が両手を胸前に上 げた説法印であることから釈迦如来、左の像は両 手を膝上に置く定印であることから阿弥陀如来、 ではないかと想像は出来る。 写真は向かって右側の像で、やや太目の線が最 も鮮明に残っている。右手は胸元に上げる施無畏 印で、左手は膝上に置かれているので、私は薬師 如来像だろうと思うのだが、弥勒の如来形という 説もあり定説は無いらしい。 臼杵の磨崖仏などで見られるような、釈迦・阿 弥陀・薬師の如来三尊とするのが普通なのだが、 奈良時代後期から始まった弥勒出現願望を表した 弥勒如来像である可能性も強い。 |
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狛坂(旧狛坂寺)磨崖仏 |
滋賀県栗東市 |
この石仏に会うためには、金勝寺からの山道を 尾根伝いにかなり歩かねばならない。しかし、こ の荘厳な三尊像には、人が味わった辛さをすっか り忘れさせるという魔力が備わっていたらしい。 汗も疲れも、知らぬ間に吹き飛んでいたのだ。 「狛」という文字が「高麗」を連想させ、朝鮮 との関連を考えてみたくなる。 最初の印象は、主尊が韓国慶州の南山に有る磨 崖仏に、そして脇侍が石窟庵の十一面観音像に、 何も根拠は無いのだが、感覚的に似ていると感じ られたのだった。 角度を変えて眺めると、国東半島などに残され た山岳密教的石仏の雰囲気に通じているようにも 見える気がしてくる。 まあ、所詮素人の詮索など、適当なところで打 ち切ったほうが良いだろう。 主尊の両手の印相は余り類例の無いもので、転 法輪印のようにも見える。諸尊を配した、弥勒の 下生出現の浄土が表現されている、とされる説が 有力であろう。 この石仏と向き合いながら、人が石に仏を刻む 行為とは一体なんなんだろうと考えた。かくも大 らかで荘重で優美な仏像を、それも人跡未踏の山 奥にである。 卓越した美意識と技巧、そして深い信仰と情熱 とが無ければ決して成しえない、これは造形の究 極の姿に他ならない。 |
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比叡山香炉岡石仏 |
滋賀県大津市 |
比叡山最古の建築である西塔の釈迦堂真裏に香 炉岡が有り、その静寂に包まれた雑木林の中にこ の弥勒菩薩坐像が祀られている。 顔や手や光背の半分が破損しているのは残念だ が、藤原仏の優美な面影を備えた、木彫の仏像に も比される程完成度の高い、鎌倉初期の傑作であ る。 信長の焼き討ちで破損したとのことだが、本能 寺の変はこの弥勒仏が下した天罰であると私は思 う。かくまでに美しい造形を踏みにじる蛮行、そ れで何処に正義が有るというのだろうか。 そこに在ることそのものが美しいと思わせる石 仏は滅多に無いが、周囲の環境も含めこの像は抜 群の存在感を示している。 光背に梵字の月輪種子を配した像は、京都でも 石像寺の阿弥陀三尊など多くが知られているが、 古仏の持つ大らかな風格と、きりっと張りつめた 力強さを擁した石仏はほとんど見かけることが出 来ない。 この像と対峙するためだけの目的で、比叡山に 登ることも厭わない程私はこの石仏に惹かれてい る。叡山の奥に思い入れの仏様がいらっしゃる、 というのはなんとも心が浮き立つような素敵なこ とではないか。 |
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西教寺石仏群 |
滋賀県大津市 |
大津の坂本に里坊庭園を訪ねた折、ここの庭園 にも立ち寄った。実は庭より印象に残ったのが、 明智光秀の墓とこの石仏群であった。 地元坂本では光秀は名君として、手厚く祀られ ていたのが意外であり、またこの石仏群がとても 美しいのに驚いた。 境内の一画に数十体の石仏が並んでおり、それ は阿弥陀如来を中心とした二十五菩薩の来迎像で あった。近江の豪族が息女の死を供養する為に造 立したもので、天正十二年(1584)の刻銘が有る。 本来仏像の分野において、桃山時代の作品には余 り特筆すべきものが無いのだが、この菩薩石仏群 には捨て難い味わいが感じられた。 二十五菩薩の全てがそれぞれの手に楽器を携え、 阿弥陀来迎を荘厳している。琴・笙・笛などいず れも魅力的なのだが、私はこの琵琶を弾いておら れる菩薩がとても気に入った。 時代的にも、構図といい細部の表現といい、か なり通俗的な筈なのに、とても品位に満ちている。 息女への親の慕情が、切に感じられるからだろう か。 |
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寂光寺藤尾磨崖仏 |
滋賀県大津市 |
磨崖仏というものは通常、屋外の岩肌に刻まれ ているものと承知していた。しかし、ここでは御 堂の奥正面、御簾の向こうに大きな岩壁が露呈し ており、そこに彫られた十五体の磨崖石仏が祭ら れていたのだった。 大津の三井寺から京都の山科に通じる旧道、小 関越えの途中に有る小さな集落である。 写真は中央の阿弥陀如来像で、光背に延応二年 (1240)という鎌倉中期の銘があるそうだ。確かに それに相応しい上質な品位が感じられる。 光背に梵字が彫られており、比叡山西塔石仏を 連想した。経文かと思われるが、まことに荘厳な 意匠である。 この阿弥陀坐像の右側に、観音・勢至両菩薩立 像が彫られている。両側に脇侍として彫られるの が普通で、この形式は珍しいだろう。 左側に彫られた姿の良い地蔵菩薩像を含めた四 体が、同じ時代の作ではないかと思われた。他の 像は全て、後世の作だろう。 従来撮影禁止だが、先般の訪問の際に偶然の幸 運に恵まれたものである。 |
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富川磨崖仏 |
滋賀県大津市 |
瀬田の唐橋から石山寺門前を抜け、瀬田川に沿 って進むと鹿跳橋の分岐へやってくる。信楽方面 に進路を取り、瀬田川の支流信楽川の渓谷沿いを 暫く行くと、行く手に巨大な岩壁が見えてくる。 不動岩と呼ばれる岩山で、そこに壮大な磨崖仏 が彫られているのである。車を止め森を抜けた瞬 間に飛び込んできた磨崖仏は、想像を超えた大き さだった。 広角の写真では表現できないが、案内板には高 さが6.3mあると書かれていた。 観音菩薩・勢至菩薩と共に、阿弥陀三尊が彫ら れている。写真は中尊の阿弥陀如来坐像で、蓮華 座の上に結跏趺座し定印を結んでいる。 頭光の表現が単純だが特異であり、弥陀の面相 には何とも剛毅な写実性が感じられる。 像は周囲を少し彫りくぼめた、板彫りのような 浅浮彫であある。線が薬研彫りのような技法で彫 られているので、衣文などにも浮き上がるような 質感がある。 写真では隠れているが、蓮華座の下に彫られた 二区の格狭間からも、鎌倉中後期に制作されたも のだろうと推測出来る。 向かって右の観音菩薩は化仏を表した宝冠を、 左の勢至菩薩は水瓶を表した宝冠を、それぞれ戴 いている。両脇侍が蓮華を捧持して立つ姿は優美 で、阿弥陀信仰に伴って当時制作された多くの優 れた仏画を見るような、まことに絵画的な三尊磨 崖仏である。 |
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日石寺磨崖仏 |
富山県上市町 |
立山連峰の山続きであるこの場所は、里からは 完全に隔絶した正に深山幽谷の真っ只中である。 剣岳の本地仏として刻まれた不動明王は、古く より大岩不動として深い信仰を集めて来た。平安 末期の造立とされる、秀逸な磨崖彫刻である。現 在は前面がお堂になっていて、燈明は絶えない。 カッと眼を見開いた憤怒形の主尊不動明王は、 頭上に蓮華を頂き垂髪を下げ、剣と索を持った迫 力ある像だ。 脇侍の矜羯羅童子は右に、制吒迦童子は左に彫 られているのだが、写真には不動のすぐ右に彫ら れた阿弥陀如来が写っている。これは立山のもう 一つの本地仏として彫られたものと言われる。 古くより山岳や巨石を信仰の対象としてきた神 仏習合の形態を、図像として伝える貴重な磨崖彫 刻である。 |
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関山石仏群 |
新潟県妙高市 |
妙高山麓にある関山の里の入口付近に、杉木立 に囲まれた関山神社が建っている。 正面の本殿から境内を少し左手へ行った所に覆 屋が在って、その中に二十数体の石仏がびっちり と並べられていた。 近隣や境内に散在していたものを、保存を目的 として集められたのだという。妙高山を背景に静 かに路傍に座すかつての野仏の姿を想像すると、 牢屋に押し込められたかの如き現状は余りにも無 粋である。しかし、摩滅崩壊しつつあるこの石仏 のお姿を拝したならば、文化財保護などと言う前 に、せめて雨露による風化からは逃れさせてあげ たい、と感じるのは人情だろう。 写真の石仏が、全体を眺めた中で、最も目鼻立 ちがはっきりとした像だった。 頭部に螺髪は表現されていないが、盛り上がっ た肉髻が見られるので、如来像であることは間違 いない。 ふっくらとした穏やかな面相、崩れているとは いえ豊満な表現の体躯、などからは平安末期のお おらかな様式が想定できる。 右手は胸前に上げた施無畏印であり、おそらく 右手は膝上に置く与願印なのだろう。 ほとんどの石仏の腰や膝から下が地面に埋まっ てしまっており、当初からそういうお姿だったの か、それとも蓮華座か基礎に載っておられたのか は判らない。 いずれにせよ、野仏の風情を持つ平安という古 い時代の単体石仏は、東日本では珍しく貴重な存 在である。 |
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箱根山磨崖仏 |
神奈川県箱根町 |
箱根新道ではなく国道1号線を登り、小涌谷か ら芦ノ湯の入口を過ぎたあたりに、曽我兄弟の墓 と呼ばれる石造五輪塔群がある。 この二子山麓には、鎌倉期の忍性菩薩を中心と した地蔵信仰を表した石造品が集中している。 先述の五輪塔の火輪には地蔵菩薩像が彫られて おり、その少し先の岩壁周辺にこの磨崖仏群が残 っている。 道の左手に「二十五菩薩」と呼ばれる磨崖仏群 があり、写真はその内で一番大きいと思える地蔵 菩薩像である。像高は1mほどだろう。 舟形に彫りくぼめた中に、かなり厚肉彫りされ た像で、右手に錫杖、左手に宝珠を持って蓮華座 の上に立っている。半眼の鋭い面相が魅力的で、 鎌倉期らしい厳粛な雰囲気である。 この磨崖仏群は阿弥陀如来像一体を除き、他は 全て地蔵菩薩像である。岩の一部に刻銘があり、 鎌倉後期永仁元年(1293)に、先祖供養を目的に造 営されたことが判る。 道の反対側の岩にも地蔵磨崖仏が三体在り、も う少し下った左側に六道地蔵が在る。 正安二年(1300)の銘がある丸彫りに近い磨崖地 蔵菩薩坐像で、この一帯の地蔵信仰の中心的な存 在なのだろう。 火焚き地蔵と呼ばれる、応長元年(1311)の小さ な磨崖地蔵も、すぐ近くに在る。 |
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大谷寺磨崖仏 |
栃木県宇都宮市 |
岩盤をくり抜いた石窟寺院で、弘法大師が開い たとされ、観音霊場坂東十九番の札所にもなって いる。 建築素材として知られる大谷石の岩盤を利用し た彫刻で、平安中期~後期に造立された東日本屈 指の古石仏の一つ、と言えるだろう。 高さが3mほどあり、堂に入った途端にその迫 力と存在感に圧倒されてしまった。この千手観音 像が大谷寺の本尊となっており、更に続く石窟壁 面には、釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像 と、いずれも平安期の様式を示す諸仏が並んでい る。関東では類例を見ない規模の石窟彫刻だ。 この千手観音像の最大の特徴は、磨崖石仏なの に繊細な表現が施されていることで、実は細部は 粘土(塑土)を塗って仕上げてあるのだった。大 谷石のような柔らかい石に、木彫のような表現を 可能にした秘密はここにあったらしい。本尊とし て堂内に祀られてきたことで、かくも秀麗な千手 観音像が今日まで守られてきたことは素晴らしい ことであろう。 臼杵の磨崖仏群の規模には到底及ばないが、内 容の優れた磨崖仏群は他に類例を見ない。 何故か近年、写真撮影が禁じられたらしい。 |
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佐貫磨崖仏 |
栃木県塩谷町 |
日光市の下今市から県道62号線を東北へ進む と、12キロほどで鬼怒川を渡る観音橋に出る。 川の対岸はそそり立つ岩壁で、その見上げるよう な壁面に写真の線彫大日如来坐像磨崖仏が保存さ れている。 一度気が付けば易しいのだが、初めは岩壁の何 処に石仏が彫られているのか、を判別するのはと ても難しい。 やや浮き彫りとなっている鼻とその下の口が解 り易い。更に、顔の輪郭、眉と目、首の皺、耳な ども見えてくるのが不思議だった。 岩壁が大地に接するあたりに、蓮弁が線刻され ているとのことだったが、崩壊した岩肌や苔に覆 われているために明確に確認は出来なかった。さ らに、顔面までの身体部は、完全に風化してしま って全く見えなかった。 顔だけが残った磨崖仏という意味では、後述の 平泉達谷窟や豊後熊野の大日如来磨崖仏が思い浮 かんだのだが、大岩壁が宿した神秘的な霊性と、 諸仏世界の中心に坐す大日如来とが結び付いた結 果の表現なのだろうか、という印象を受けた。 |
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泉沢石窟磨崖仏 |
福島県南相馬市小高町 |
小高駅と桃内駅の中間辺りに泉沢の集落があっ て、裏山のかつて大悲山と呼ばれた丘陵地の崖に 三つの石窟が残っている。 薬師堂、阿弥陀堂、観音堂がそれなのだが、優 れた磨崖仏が残る薬師堂をここではじっくりと見 たい。 石窟は覆屋になっており、天井が低く奥行が深 いので、迫力に満ちた空間を演出している。正面 の壁一杯に彫られた七体の巨大な磨崖仏が並ぶ光 景は、何とも荘厳な雰囲気に満ちている。 だが残念なのは、石窟の材質が砂岩であるため に風化が激しく、悲劇的とも言えそうな惨状を呈 していることだった。 写真は中央部に座す弥勒如来坐像だが、面相が 摩滅した上に蝙蝠の糞が積もったものか真っ白に なってしまっている。衣文の一部と光背以外は、 ほとんどの意匠が消滅してしまったようだ。 他の尊像も全て同じような破損状態なのだが、 薬師・地蔵・観音・弥勒・釈迦・弥勒・観音と並 ぶ様は、誠に雄大な構想であったことが伺える。 諸尊の間の壁面に薄肉彫りされた飛天像や、線 彫りの聖観音像、壁画のように精巧に線彫りされ た光背などが見事な荘厳となって、壮大な仏空間 を創出していたのである。 東北では唯一の厚肉彫り磨崖仏群であり、平安 後期の仏教文化がこの浜通りにも繁栄していたこ とを示すものとして貴重である。 |
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富沢磨崖仏 |
宮城県柴田町 |
JR東北本線槻木(つきのき)駅から、地方道 を真北へ4キロ程行くと富沢の集落に着く。 丘陵状の岩壁を彫りくぼめて磨崖仏としたもの なのだが、周囲をお堂で囲い扉に施錠してあった ので、見学は半ば諦めかかっていた。格子の隙間 から阿弥陀様の尊顔がちらりと見えたので、暗い 中で格子の外から小型カメラで撮影した写真がこ れである。 大らかで地方色の濃い定印の阿弥陀如来坐像で あり、通称「富沢大仏」と呼ばれているようだ。 角ばったあごの像容、頭部螺髪の不細工なほど の粒の大きさ、鼻や唇の土俗的表現など、凡そ洗 練された西日本の仏像とは比較にならないほど素 朴な石仏、と言えそうである。しかし、飛鳥大仏 と呼ばれる大和安居院の釈迦如来像に通じるもの が感じられる、という説にはうなずけるような気 もする。古式の微笑からも、飛鳥から百済にまで 通じる当時最高の美の系譜の下流の終着点を、こ の東北に見つけたり、と言ってみたい気分にさせ られていた。 像の右壁面に「嘉元四年 (1306)」鎌倉後期の 年号と共に、「為父」という造立の趣旨が彫られ ている。東北唯一の在銘磨崖仏である。 |
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達谷窟磨崖仏 |
岩手県平泉町 |
平泉の中尊寺から厳美渓へと抜ける県道沿いに 小さな社殿が建ち、その背後の岩山の中腹にこの 大日如来磨崖仏が彫られている。 磨崖仏の分布としては最北端に位置しているそ うで、そう聞くと何やら有難く感じてくる。 説明板が立っているので、その内容を記してお くことにした。 源頼義が蝦夷を討伐した際、最後まで朝命に従 わなかった安倍貞任を滅ぼした。その戦で死んだ 多くの人々を供養するために、永承六年(1051)に 大日如来を弓の両端で刻んだ、という伝説が残っ ている。 白毫以外には、大日はおろか、仏像であること すら明確ではないが、なにやら大らかな尊顔と、 肩の線や髪型の不思議な形などは、稚拙ながらも 当代に仏教が既にこの地まで及んでいたことを示 しているようだ。 平泉にはこのすぐ後の長治二年(1105)に、奥州 仏教文化が最高に花開く中尊寺が藤原氏によって 建立されるのである。 |
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