石塔紀行(1) |
層塔・宝塔・ 宝篋印塔・五輪塔 |
東日本 (関東以北) の石塔巡拝 |
杉本寺(鎌倉市)の五輪塔群 |
石塔には多重層塔、宝塔、多宝塔、五輪塔、宝篋 印塔、笠塔婆など、多くの形式がある。 鎌倉期を中心とした中世の作品には独特の美しさ を秘めた遺品が多く、石塔の探訪を目的とした旅が ライフワークになりつつある。 全国を旅して訪ねた石塔の中から、特に印象に残 った名品を、地方ごとに御案内したいと思う。 どうしても関西が中心となってしまうので、変則 的な区分けを御了承頂きたい。 東日本は都からは僻遠の地だが、平泉や鎌倉を中 心に独特の文化が栄えた証しを石造美術にも見るこ とが出来る。 |
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中尊寺願成就院宝塔 |
岩手県平泉町 |
中尊寺の金色堂へ至る参道は、両側に幾多の寺院 や御堂が並ぶ杉木立の聖域である。 願成就院はその内の一つで紅葉の名所であり、多 くの写真家が競って鮮やかな綾錦を記録していたの だが、同じ境内に在るこの石造宝塔に眼を向ける人 は、私たち以外にはほとんどいなかった。 釈尊院の五輪塔と共に、中尊寺に在る石造美術の 傑作として重要文化財に指定された、これも平安期 屈指の名品なのだが、一般的には紅葉のほうが有難 いのだろう。 釈尊院五輪塔の塔身に、宝塔ならではの首部が加 わったようにも見え、共に古式豊かな美しさを今日 まで充分保っている。 笠の姿や塔身の肩の張り具合などは、瓜二つと言 える程似ている。これを有頸五輪塔という分類で、 五輪塔の仲間に入れる学者もいるらしいのだが、塔 身の梵字が水輪の「バ」ではなく、金剛四仏を表す 梵字のように見えたので、やはり宝塔とするほうが 無難かもしれない。 どちらにせよ、均整のとれた美しさは別格で、い い石塔だなあ、というのが実感だった。 |
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中尊寺釈尊院跡五輪塔 |
岩手県平泉町 |
写真の五輪塔は、有名な中尊寺金色堂の裏山の、 全く観光ルートから外れた場所にひっそりと立って いる。一般は立ち入り禁止区域なので私達は寺務所 にお願いをし、特別に見学を許可していただいた。 熊の出没を注意されたので、ちょっと怖かった。 鬱蒼として昼なお暗い雑木林の小高い所が墓地の ようになっており、かつて釈尊院という寺院が在っ た場所らしい。石塔や板碑が並んでいて、石造美術 ファンにはたまらない環境である。 とりわけこの五輪塔は、日本最古のものとして国 の重要文化財に指定された貴重な遺品である。 五輪を象徴するキャ・(カ)・ラ・バ・アの梵字と 共に、仁安4年(1169)という飛び切り古い紀年銘が 彫られている。 風輪は喪失したらしいが、火輪の笠の反りが少な いことや厚さが無いこと、水輪が円形ではなくずっ しりと角張っていること、などがいかにも平安期と いう飛び切り古い時代を物語っている。 鎌倉期より古い石造物には滅多にお目にかかれな いが、これは正に優美な稀代の傑作である。 |
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風立寺宝篋印塔 |
山形市下東山 |
「ふうりゅうじ」と読む寺で、山形から山寺へと 向かうJR仙山線の高瀬駅から、少し山間に入った 場所にある。 ここに東北では貴重な、鎌倉期と思われる宝篋印 塔の遺構が保存されている。 宝篋印塔は阿弥陀堂の右手奥、少し小高くなった 斜面に、写真のように少し傾いて建っていた。 基礎の側面は無地だが、上部に厚みの無い三段が 設けられ、その上に塔身が乗っている。 塔身の正面だけだが、蓮華座に乗る月輪の中に、 梵字「アーク」が彫られている。これは胎蔵界大日 如来を象徴しており、他の面は無地のままである。 笠は上部五段に二区の露盤、下部は薄い三段とい う変則的な造りである。 最大の特徴は隅飾で、二弧輪郭付きの幅広な形は 余り類例の無い珍しいものと思われる。 軒の両端が斜めにカットされているので、隅飾も その傾斜に合わせてやや外側に反っている。 相輪は失われ、全体的に荒れ果てた印象は拭えな いが、見るからに凛とした古色の風貌と、歴史が醸 し出す立ち上がって来るような香りとが、この旅で 捨て難い感動を与えてくれたのだった。 |
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祥光寺宝塔 |
茨城県桜川市大和 |
古いネガを整理していたら、何と1997年の春 に、土浦に居た友人と筑波界隈の歴史散歩をした際 に撮影した、この宝塔の貴重な映像が見つかった。 そんな若い頃からこういう石造美術に興味を抱い ており、旅へ出れば、酒場と墓場ばかり歩いていた のだから、やはりかなりの変人の部類に入ることだ けは確かなようだ。 ここは坂東札所である雨引観音に近い、まこと 鄙びた静かな寺だった。 本堂の前庭の端に建っていたこの美しい石塔の姿 は、建仁二年(1202)と彫られた大きな刻銘と共に、 とても印象的だった事を覚えている。 実は、在銘の宝塔としては、最古の貴重な逸品だ ったのである。 余り膨らみの無い円筒形の塔身や、厚みがそれ程 無く微妙に反った軒、軒裏に垂木型を持つ笠など、 鎌倉初期に相応しい優美で古風な美しさをたっぷり と示している。 基礎は大半が埋まってしまっているのだろうと思 うが、相輪は根本を残し大半が喪失しているのが残 念である。 |
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東根宝塔 |
栃木県下野市上坪山 |
小山市の東北に位置し、東北本線小金井駅の東、 旧南河内町の二宮へ通じる県道の旧道に入った所に 建つ蔵王堂の脇に在る。 以前は草むらだったが、現在は柵の付いた屋根の ある小堂に保存されている。 相輪のほとんどが失われているが、笠は緩い傾斜 の古式な風貌であり、軒の反りは両端に少しだけ見 られるが、全体的には落ち着いた風雅な姿をしてい る。 塔身の軸部分は、前掲の祥光寺宝塔に似て長い円 筒形であり、膨らみの無い素朴な造形である。柵 に隠れて見えないが、笠下の首部も背が高く、これ は相当古い宝塔であることが想像された。 塔身に彫られた梵字は金剛界四仏の種子で、大き な月輪の中に薬研彫りされている。写真の梵字はタ ラークで、四仏の一つ宝生如来を表わしている。四 仏は、時計回りで、キリーク(弥陀)、アク(不空 成就)、ウーン(阿しゅく)と続いて塔身を囲んで いる。方位は手前が南に該当している。かなり剥落 が激しいが、おおらかな筆致の書体が好ましい。 現在刻字は判読不可だが、拓本によれば父母の成 仏を祈願して造立されたもので、元久元年 (1204) という鎌倉初期の年号が確認出来る。 やはり格別古いものであった。 |
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宗本寺宝篋印塔 |
群馬県中之条町下沢渡 |
中之条から四万温泉へ向かう国道の右手の山の中、 杉木立に囲まれた静かな佇まいの寺院である。 宝篋印塔二基は、本堂の左奥の小堂の中に保存され ている。 撮影は囲いの柵の間からしか出来ないので、不自然 なアングルとなってしまっている事を御了承いただき たい。 写真でもお解りの通り、通常の宝篋印塔とは違い、 笠と塔身が二重になっている。これは、群馬や埼玉な どの関東地方に多く見られる珍しい形式なのである。 関西には三重の事例も多い。 下から、二区格狭間の基礎、一層目の塔身、方形の 勾欄と階段の付いた笠(屋根)、二層目の塔身、隅飾 の付いた二層目の笠、相輪、という造りになっている のである。 写真奥の塔は相輪まで完備した見事な作で、特に一 層目の笠部分の造形が面白く、四方に設けられた階段 が最も楽しい。二層目の塔身に彫られた四仏種子(梵 字)は、どういった四仏を表現しているのかは小生に は判らない。 笠は隅飾、三段の屋根と露盤、堂々たる相輪など、 端正な造りで見飽きない。 造立年号は康永三年 (1344) で、南北朝の前期にあ たる。 手前のもう一基もほぼ同様の仕様だが、やや小さく 相輪は後補で、康永四年の作である。 |
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長福寺五輪塔 |
群馬県東吾妻町岩井 |
中之条から町の南を流れる吾妻川を渡れば、そこ が東吾妻町である。 旧吾妻町と旧東村が合併して出来た平成の町なの だが、従来からの牧歌的な雰囲気は失われていない のが嬉しい。 川を隔てて中之条駅と向かい合う位置の、やや小 高い雑木林に囲まれた山間の古寺である。現在は無 住の荒れ寺となってしまっているが、五輪塔はひっ そりと保存されていた。 本堂の右側に、写真の三基の石造五輪塔が並んで いる。 中央の塔に銘が彫られており、貞和五年 (1349) という年号や造立趣旨を確認出来る。南北朝前期で 地元の豪族の墓碑であったらしい。 塔の特徴は笠(火輪)で屋根の勾配が急であり、 薄い軒と両端の反り具合に顕著である。 豪快な鎌倉期の造形から、端正な風貌の南北朝へ と移行しつつある時代性が感じられる石塔である。 |
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金蔵寺宝篋印塔 |
群馬県渋川市金井 |
渋川の町の北側、市街地を抜けたあたりに金井の 集落がある。寺は集落の外れに在って、広大な墓地 を隣接している。 岸氏の墓域に建つ写真の宝篋印塔は、前掲の宗本 寺の事例と同じ二重宝篋印塔であった。 下から順番に構造各部を眺めてみよう。 基礎は二区の格狭間、その上に三段の段型、背の 低い一層目の塔身と続き、一層目の笠を意匠してい る。やや苔むして判然としないが、勾欄に隅飾と中 央階段があったことが判る。笠下にも三段の段型が 設けられている。 二層目の塔身(軸部)は輪郭を巻いた立派なもの で、胎蔵界四仏種子(梵字)の薬研彫りが端正な美 しさを示している。写真は「アン」で無量寿を象徴 している。他の三仏は時計回りで天鼓雷音(アク) ・宝幢(ア)・開敷華王(アー)と続いている。 塔身上の笠下は二段、笠は三段の上に露盤という 意匠で、大小二個の円形を浮彫した隅飾(耳)が残 っている。 相輪の上部が欠落しているのは残念だが、全体的 に堂々とした容姿がいかにも無骨な関東風であると ころに心惹かれるものがある。 康永二年 (1343) という南北朝前期の銘がある。 |
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町田氏邸笠塔婆 |
群馬県渋川市石原 |
渋川市外の西側、榛名山の山裾の傾斜が広がる農 村地帯の旧家である。 見学をお願いし、撮影の許可を頂いた。 入口を入った左手の前庭の一角に建っている笠塔 婆で、国の重要文化財に指定された知られざる逸品 である。 高さは約2m20で、幅約30センチの方柱形の 塔身が基礎の上に建っている。 塔身の四方には梵字が彫られているが、良く見る とそれは五輪塔の四門を象徴する「キャ・カ・ラ・ バ・ア」と、方位によって変化する定型であった。 梵字の筆致は洗練されたもので、優美な薬研彫りが 美しい。 その下四方には「南無阿弥陀仏」や「即身成仏」 「過去幽霊」等といった刻字と共に、南北朝前期の 延文元年 (1356) という年号を読むことが出来た。 塔身上部に笠が載るが、突起の凹凸で嵌め込まれ ているという。 笠は緩やかな傾斜の屋根で、然程厚くない軒下の 反りはほとんど無く、屋根側に少し反りが入れられ ている。 笠の上の請花、宝珠は、五輪塔の空輪、風輪のよ うに造られている。 時代的な弱さは感じられるが、優美な石造美術の 完成品として鑑賞できる傑作のひとつである。 |
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上大島笠塔婆 |
群馬県高崎市榛名町 |
高崎市から榛名山麓、更に吾妻方面へと通じる国 道を、西北に約8キロほど行ったあたりにある集落 である。 集落の中心に建つ公民館の前の道に面した一画の 囲いの中に、数基の石仏と一緒に祀られている。 平板な基礎の上に建つ方柱型の塔身で、上に前部 の欠けた六角形の笠が載っている。 写真で見る通り、塔身正面の光背を舟形に彫り込 んだ中に、阿弥陀如来立像が厚肉彫りされている。 円形頭光を背に蓮華の上に立ち来迎印を示す阿弥 陀像だが、残念なことに顔の部分が破損している。 しかし、石仏として見ても味のある作であり、石造 笠塔婆としては完成度の高いものと思える。 さらに、左側面に毘沙門天立像、右側面に不動明 王立像を、それぞれ線刻している。 塔身正面の阿弥陀像の下に、文永元年 (1264) 鎌 倉中期の銘が彫られている。 造立期の笠は当然方形であったのだが、現在の六 角形の笠は近年他から流用されたものと思う。 |
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玄頂寺五輪塔 |
群馬県高崎市阿久津町 |
高崎市の倉賀野から、町の南を流れる烏川を渡っ た所が阿久津である。鏑川が合流する三角州のよう な一帯である。 鎌倉中期の阿弥陀図像板碑として知られる山の上 碑のある山名町に隣接している。 この寺は質素な山門が我々を迎える曹洞宗の禅寺 で、17世紀初頭の開基とのことである。 境内の外れの木陰に、この愛らしい石造五輪塔が 建っていた。 全体像は誠に洗練された瀟洒な姿で、均整のとれ た美しい塔である。 空輪と風輪はやや小さい感じがするが、基礎に刻 まれた康永二年 (1343) という南北朝前期の年号か らも、鎌倉期の豪放さは失われ、優雅な秀麗さを備 えた時代へと移っていた事が判る。 火輪(笠)の軒が薄く、屋根の傾斜が緩やかであ り、両端が微かに反っているのは古式を模したもの と考えられる。 水輪四方に梵字が彫られているが、従来の五輪塔 四方門の水輪(バ・バー・バン・バク)のみが彫ら れているのが珍しい。水輪のみ別石の可能性も捨て きれない。 基礎に「逆修」の文字があり、生前供養のための 逆修塔であったことが判る。 |
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山上三重塔 |
群馬県桐生市山上 |
山上は旧勢多郡新里村に属していたが、平成の市 町村合併で桐生市に併合されている。 しかし、桑畑の広がるこのあたりの景観は、一昔 前と余り変わっていない様にも見える。 下から三重目の軸部に銘文が刻まれており、造塔 の趣旨と共に延暦二十年 (801) という桁違いに古 い年号(平安前期)が確認出来るそうだ。関西には 奈良期の遺構があるが、関東では最古の平安期層塔 である。 塔は一石から彫られたもので、方形三層の三重塔 である。各層ともに屋根の軒の出方は小さく、ずん ぐりとした印象は地方色に満ちた素朴な古様を示し ている。 最上部の屋根と相輪は別石で、後の時代に補修さ れたものと考えられる。 石塔を納めた堂宇は周囲に低い柵が設けられては いるが、見学には全く支障は無い。しかし、残念な ことに四方が全てガラス張りになっているので、撮 影にはやや不向きな設備ではある。 ちなみに、日本の在銘のある古塔としては、奈良 明日香の龍福寺層塔(天平勝宝三年)に次ぐものと して貴重な存在である。 |
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天増寺宝塔 |
群馬県伊勢崎市下植木 |
伊勢崎市の中心部から程近い下植木町に在る曹洞 宗の禅寺で、壮麗に彩色された山門が美しい。 破風の付いた二層の門で、伊勢崎藩主の菩提寺に 相応しい堂々とした風格を示している。 写真の宝塔は、境内の一画に建つ小堂の中に保存 されている。堂の構造は四隅の柱だけで、低い柵が 四方に張り巡らされているが、石塔鑑賞には何の支 障も無いのが嬉しい。 塔の高さは2m24とのことで、どっしりと落ち 着いた佇まいである。 高さ60センチの基礎には安定感があり、三方に 二区の輪郭が巻かれている。 塔身はやや瓜型ではあるが、ほぼ球形に近い安定 した形をしている。首部がはっきりしないので五輪 塔のようであるが、相輪の存在が明らかに宝塔であ ることを示している。宝珠の下に大きな水烟が付け られており、九輪・請花・伏鉢という完全な様式で ある。 笠はややふっくらとした印象で、屋根の反りは比 較的緩やかである。軒はやや厚めで、反りは両端に 少しだけ見られる。 貞和二年 (1346) という南北朝前期の造立だが、 市内では最古の在銘であるという。 |
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赤城神社宝塔 |
群馬県伊勢崎市下植木 |
天増寺からは至近の神社で、二基の石塔が境内の 左奥に建てられた小堂の中に保存されている。 写真手前が石造宝塔で、観応二年 (1351) という 南北朝前期の銘を持っている。 相輪は後補で、見劣りがする。 笠の屋根は傾斜のきつい背の高い造りで、軒の反 りが薄く、両端(軒口)を斜めに切っているので、 やや重厚感には乏しい気がする。 首部の付いた塔身はすっきりとした壺形で、平板 な中に均衡の取れた清楚な美しさを主張しているよ うに見える。 基礎部分に銘文が刻まれているが、「多宝涌現」 とか「釈迦出世顕」などと言う文字が見えることか ら、霊鷲山の宝塔出現と法華経の価値を賞賛してい るものと思える。写真の看板にもあるが、共行人数 として十人の僧侶などの名が刻まれており、檀家や 施主の名と共に逆修(生前供養)のために建立され たものである。 観応二年 (1351) 南北朝前期の銘がある。 奥に建つもう一基の石塔は二重の宝塔と考えられ るが、同様の趣旨の刻銘が見られる。 二重に見えるのは、首部と勾欄が強調されている 珍しい形式だからである。 貞治五年 (1366) 南北朝中期の銘がある。 |
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長楽寺宝塔 |
群馬県太田市世良田 |
徳川氏発祥の地として知られる世良田は、旧尾島 町にある古い集落で、現在は太田市に合併されてい る。 新田氏の祖でもある徳川(得川)義季が承久年間 (鎌倉初期)に創建した東日本最初の臨済宗の禅寺 だったが、現在は家康に再興されて天台宗となって いる。 境内から右手に少し離れた木立の中の文殊山に、 歴代を祀る墓地が在り、多くの石塔が建ち並んでい る。 写真が国の重要文化財に指定された宝塔で、並み 居る石塔群の中に在って、その堂々とした風貌は正 に異彩を放っていると言える。 相輪は無いが、軒厚く緩やかな傾斜の屋根を持つ 笠は、両端の反りに品格に満ちた反りが見られ、剛 健な鎌倉期の石塔とは一味違った古典的な美しさを 見せている。 首部が長く、背の高い円筒形の塔身は、祥光寺や 東根の系統に続く素朴な姿である。 建治二年 (1276) 鎌倉中期、という銘が発見され たそうだが、いかにもという感がする。 この墓域は丸で石造美術の展覧会のように、中世 の宝塔や宝篋印塔、板碑などが林立しており、見る べきものも多い。 |
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普済寺六面石幢 |
東京都立川市柴崎町 |
JR立川駅の南西1キロ強の高台に、臨済宗建長 寺派のこの寺院が建っている。広い境内を有する名 刹で、武蔵七党の豪族立川氏の館が在った場所だそ うだ。 本堂の脇に保存された数十基の板碑は壮観で、正 中三年碑など貴重な板碑が含まれる。 ここでの目的は、何と言っても国宝に指定された 石造の六角石幢である。 板碑形式で彫られた六枚の緑泥片岩の板石を、正 六角形に組み合わせたものである。 六角の笠や請花、宝珠なども完存する。 六面それぞれに、四天王(持国天・増長天・広目 天・多聞天)と仁王像(阿像・吽像)が、板彫りの ような手法で陽刻されている。 いずれの像も火焔光を光背にし、躍動的な忿怒像 として表現されている。 上部の空間には、三弁宝珠や天華などが散りばめ てある。 写真は仁王像の部分で、右が阿像、左が吽像であ る。広目天像の右側に延文六年 (1361) 南北朝前期 の年号を確認出来る。時代に相応しい精緻で優雅な 彫刻である。 |
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東漸寺五輪塔 |
神奈川県横浜市磯子区 |
横浜磯子区南部の杉田にある禅寺で、鎌倉後期の 創建になる臨済宗の名刹である。改修はされたが、 仏殿(釈迦堂)は禅宗様の名建築として知られる。 仏殿の左手前に建つ覆屋の中に、三基の石造五輪 塔が保存されている。 右奥の塔は、空風輪を失っているが、火輪の屋根 の緩やかな勾配や軒の反り具合から、三基の中では 一番古そうである。 中央の塔は、五輪全てが完備しており、五輪塔四 門を象徴する梵字(種子)が見事な薬研彫りで刻ま れている。火輪の屋根の勾配がやや急であり、軒に は鎌倉後期と思われる両端の反りが見られる。 左手前の塔は、中央塔よりやや背が低いが、各部 材の均整感は中央塔に近く、やはり鎌倉後期の造立 と考えられる。 いずれも材質は凝灰岩であり、表面が剥離したり 一部が崩壊してしまっているが、古塔が示す独特の 存在感を失っていない事に感動する。 写真の中央塔の梵字は、修行門(南)の「キャー ・カー・ラー・(バー・アー)」で、発心門(東) には「キャ・カ・ラ・バ・ア」が刻まれている。他 の二塔にも同様の梵字が彫られている。 |
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称名寺五輪塔 |
神奈川県横浜市金沢区 |
北條実時が蒐集した金沢文庫で知られる称名寺に は、金沢氏歴代の五輪塔が伝えられている。実時の 子が二代顕時であり、三代から金沢氏を名乗って金 沢貞顕と称した。 実時が大和西大寺の叡尊に深く帰依したことが、 鎌倉文化の資質に大きく影響したことは間違いない だろう。 文庫へ通じる道の右上小高い場所に、二基の五輪 塔が祭られている。写真は向かって右の塔で、従来 は三代貞顕のものとされてきた。しかし、修復の際 に左右が逆で、こちらが二代顕時のものであること が判明したという。 火輪の反りはやや弱弱しいが、厚みは当代を十分 物語っている。関東式の基礎には格狭間が彫られる が、ここでは基礎が見られず、直接反花座の上に五 輪塔が載っている。基礎が埋まっているのかどうか 判らないが、大和様式の影響は出ているものと思わ れる。 従来顕時塔と言われていた左側の貞顕塔は、反花 座に関東風の子持複弁が用いられており、また顕時 塔に比して全体的に華奢な感じがするので、ほとん ど鎌倉末期の作だろうと思われる。 現在でも、逆のままの表示が刻まれた石碑が建っ ている。 |
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浄妙寺宝篋印塔 |
神奈川県鎌倉市二階堂 |
金沢文庫から朝比奈峠を越えて鎌倉に入ると、最 初に御目にかかる名刹である。 階段を上り山門をくぐると、そこはもう仙境とい った風情の寺である。 本堂裏手の高台が墓地になっており、この宝篋印 塔はすぐ手前のテラスのような開けた場所に建って いた。 この搭は石造美術の本で取り上げられることは比 較的少ないかもしれない。紀銘年が室町最初期の明 徳三年(1392)だからであろうか。 私は年号に関係なく、名品として印象に残ったの で取り上げてみた。 時代を良く表しているのが隅飾りの傾斜で、時代 が下るほど、傾斜が外に向かって開いてくるのが面 白い。ここでは、やや傾斜し始めている程度で、南 北朝から室町にかけてという時代が設定できるので ある。 搭身の座仏浮彫が印象的で、反花座で仕切られた 二段の基礎も鎌倉らしい様式である。上段は二区に 仕切られ、下段は二区格狭間が彫られている。 相輪は新しいような気がするが、様式は整ってお り、関東様式の宝篋印塔として見応えのある作品で ある。 |
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安養院宝篋印塔 |
神奈川県鎌倉市大町 |
安養院は坂東巡礼の第三番札所となっており、第 二番札所のある逗子から通じる街道沿いに在る。 現在の寺域はさして広くはなく、山門を入ると直 ぐ正面が本堂である。 重文に指定されたこの宝篋印塔は、本堂の真裏に 建っている。 基礎の反花座は見事な彫りであり、基礎、搭身、 笠の上の露盤などに至るまでが輪郭線で彫り込んで あるところが関東形式の特徴であるが、当搭はその 特徴が最も美しく表現された最高傑作のひとつだと 言えるだろう。 高さが3m35という大型の石塔ながら、各部分 に繊細な表現が成されていて大味な印象は微塵も感 じさせない。 搭身には梵字で金剛界四仏が彫られており、蓮座 と共に洗練された筆致で彫られている。時代が後期 なので、初期の板碑などに見られる雄渾な梵字でな いのは致し方の無いところだろう。左が阿弥陀如来 (キリーク)、右は宝生如来 (タラーク) である。 相輪はどうやら後補のようである。 基礎の一部に、徳治三年(1308)の紀年銘があり、 鎌倉の宝篋印塔としては御坊谷に在る搭の窪やぐら 内のものに次いで古いものである。 それにしても、余りの秀麗さに息を呑むようで、 しばらくは立ち去りがたい思いに駆られていた。 |
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別願寺宝塔 |
神奈川県鎌倉市大町 |
この寺院は坂東札所で宝篋印塔の傑作の在る安養 院に隣接しており、かつては時宗の名刹だったが、 現在は狭い境内と墓地を残すのみとなっている。 この宝塔は門を入ったところにある墓地の中、参 道の左手にすっきりとした姿で建っていた。 鎌倉時代後期の作品として、国宝館に所蔵されて いる旧木沢邸の宝塔と共に、まことに貴重な存在で ある。 最下段は側面二区に格狭間、その上が子持ち式の 蓮弁による反花座、さらに二区の基礎などが重なっ たところが、典型的な関東式の特徴である。 関西式とは違った、武家的な風格が感じられる。 塔身軸部には扉形が彫られたものがあるが、ここ では鳥居のようなものが浮彫されている。 屋根の反りは初期のものに比べるとかなり大きい ので、制作年代は鎌倉末期頃ではないかと思う。 高さが3m以上ある堂々たる宝塔で、やや赤黒く 変色しているが安山岩で造られているようだ。 相輪はやや貧弱に見えるが、どうやら後世に補修 されたものらしい。 |
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上杉憲方七重塔 |
神奈川県鎌倉市極楽寺 |
この石塔は極楽寺の近くの小高い所に建っている のだが、現在は住宅の真後ろになってしまって道路 からは全く見えない。 「道合塔」と呼ぶ人もあるのだが、それは上杉憲 方の法名である。鎌倉管領の要職にあった人で、応 永元年に没したという。伝承通り彼の墓だとすれば 室町最初期の作ということになるのだが、確かに全 体のプロポーションは弱弱しいものになっている。 屋根の反りも迫力に乏しく、基礎の格狭間や初重 軸部の四方仏像にも余り魅力は感じられないが、全 て輪郭線で囲まれているところは関東式の手法であ る。 相輪は宝珠、請花が失われ、水烟が先端に来てい る。露盤にも輪郭が施されており、繊細な面を見せ ている。 当代の石造美術は、鎌倉時代の質実剛毅な造形と 比較してしまうと、見劣りは歴然としている。 しかし、この塔は、力強さを失いつつ退廃してい く過程での妖しい美しさを見せており、全体的にな んとも捨て難い魅力を秘めている。 実は小生、結構好みの塔なのである。 |
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東昌寺五輪塔 |
神奈川県逗子市池子 |
ついこの間まで、浪子不動と呼ばれた高養寺とい う寺院に在った石塔で、現在は同じ池子のこの寺の 境内に移されている。 全体のバランスを見たとき、地輪がやや高く造ら れていることに気付く。偈文を刻むスペースが必要 だったからかもしれない。 そこにはこの石塔が行心という人の墓碑であり、 乾元二年(1303)の帰寂であったと記されているので ある。 この年代は鎌倉後期の中でも、石造美術が最も充 実した時代であり、箱根の五輪塔に次ぐ傑作として この塔は重要文化財に指定されている。 高さが1m40とやや小振りながら、空輪・風輪 の均整がとれ、火輪の軒は厚く豪壮で豪快に両端が 反っている。 水輪の正面にのみ、梵字の種子「バン」が刻まれ ている。金剛界大日如来を象徴するのか、五輪の菩 提門水輪を表すのかは判らない。 地輪より下の基壇部分は後補なので、判らないこ とが多いが、均整の取れた全体のシルエットは、造 形的に最も充実した時代の美意識を自然に示してい るように見えた。 |
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円光寺宝篋印塔 |
神奈川県厚木市愛甲 |
小田急愛甲石田駅の東北直ぐの場所に、臨済宗建 長寺派のこの寺院が建っている。 源頼朝の御家人で、弓の名人として知られた愛甲 三郎季隆所縁の寺としても著名である。 堂宇や境内はかなり近代的に改修されているが、 三郎の墓と伝わる宝篋印塔は墓地の一画に何とか保 存されていた。 後述の余見宝篋印塔と似た関東様式で、制作年代 はかなり近いのではないかと思われる。 基盤と基礎に二区を設け、間に反花座を意匠し、 塔身を挟んで上下に各三段を設けている。 余見の塔にとてもよく似ている。 全く違うのが塔身部分で、こちらは輪郭を巻いた 中に光背を深く彫りくぼめ、蓮座に載る四方仏坐像 を浮彫しているのである。 笠は上六段で、露盤を設けてある。隅飾は摩耗し てはっきりしないが、輪郭を巻いた三弧のようで、 中は無地で直立する。 相輪部分に他の宝篋印塔の笠が載っており、小生 が最も嫌いな処方である。貴重な遺構であるが故に こそ、論拠の無い無知な間に合わせ、としか思えな いのである。 |
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伝大友皇子陵五重塔 |
神奈川県伊勢原市日向 |
7世紀に天武天皇との後継争いに敗れ亡くなった 筈の大友皇子が、この地へ逃れ余生を送ったという 伝説が残る。 後世の創作だろうが、実際に皇子の陵墓とされる 石造五重塔が残されていた。鉈彫りの仏像を拝みに 日向薬師へ詣でた帰り道、御陵層塔の案内を見つけ て寄り道をした結果である。 基礎は輪郭を巻いた中に格狭間が彫られている。 塔身には、輪郭はあるが中は無地で、梵字などは全 く見られない。 各層の屋根は適度な厚さの軒口を持ち、緩やかな 曲線で両端は軽く反っており、いかにも古式の風情 を見せている。 最上部の屋根は、下層の屋根とは不釣り合いで、 相輪も含め、どうやら五輪塔の空・風・火輪を代用 したのではないか、と思えた。 部材を組み合わせた単なるサイボーグ塔として切 り捨てるには、中間層の屋根が格別美しいので、導 かれて訪ねた折角の御縁でもあり、悲運の皇子に敬 意を払う意味で、掲載をすることにした次第。 |
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余見宝篋印塔 |
神奈川県大井町上大井 |
JR御殿場線の上大井駅から東へ直ぐ、地元の酒 造会社が所有する竹林の中に、源頼朝の墓と伝わる 宝篋印塔が保存されている。 頼朝はともかく、関東形式の凛とした秀麗な塔で あることに驚いた。それもそのはず、基礎部分に嘉 元二年 (1304) 鎌倉後期という、かなり古い年号が 刻まれているのである。 基礎だけではなく、基盤や露盤まで各側面に二区 を設けている。基礎下には見事な反花座が意匠され ており、関東様式最古の箱根山塔を基本として更に 進化した様式が見られる。 塔身は四方に輪郭を巻き、金剛界四仏種子の梵字 が切れ味鋭い薬研彫りで彫られている。 笠は上六段下三段で、塔身下にも三段が設けられ ている。隅飾は二弧で中は無地、ほぼ直立した古塔 形式である。 相輪は九輪部分が欠落しているが、おそらくは別 物だろう。 質実剛健なイメージの、関東形式らしい隙のない 姿かたちの整った美しい宝篋印塔である。 |
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箱根山五輪塔 |
神奈川県箱根町 |
曽我兄弟と虎御前の墓として案内されており、箱 根の旧道を車で走れば芦ノ湯近くで目に付く。私は 箱根へ行くたびに、この三基の五輪塔の前で車を止 めることにしている。 五輪とは、順に空輪・風輪・火輪・水輪・地輪の 五つである。塔の形というのは不思議なもので、宝 珠・請花・笠・塔身・基礎の五つが共通しており、 五輪塔はその究極の姿という気がする。密教におけ る梵字では、キャ・カ・ラ・バ・アで表現される。 二基の塔身部には、水輪を表す梵字「バ」の代わ りに地蔵菩薩立像が彫られており、この地に有った 地蔵信仰の痕跡と考えられる。曽我兄弟の伝承は、 各地の墓伝説の一つだろう。 火輪の笠は時代が下がる程妙に反り返ってくると 同時に、塔身とのバランスが崩れてくる。どの時代 にも、誰もが美しいものを造ろうとしているのに、 ほとんどの場合古いもの程良い。創造当初の美意識 や情熱が失われ、技術や上辺の様式のみが継承され てしまうからである。 その意味で鎌倉後期のこの作品は、五輪全ての均 整がとれた最も石造美術の爛熟した時代に咲いた美 しい花の一つだ。 |
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箱根山宝篋印塔 |
神奈川県箱根町 |
前掲の五輪塔群を通り過ぎて元箱根方面へと向か うと、すぐ右手に精進池が見えてくる。 宝篋印塔はそのすぐ崖下に建っているが、樹木が 繁茂していると見過ごしてしまう。 高さ2m65という、国の重要文化財にも指定さ れた堂々たる宝篋印塔で、多田満仲の塔という伝承 がついているが根拠は無い。 相輪は宝篋印塔のものではなく、おそらく後世の 追補だろう。 笠の上段は六段と露盤、笠下は三段で、隅飾は小 さめな二弧無地となっている。 塔身は周囲に輪郭を巻いた中に、胎蔵界四仏を表 現している。正面には、舟形に彫り込んだ中に蓮華 に坐す釈迦如来(天鼓雷音)像が半肉彫りされてい る。写真に見える梵字は「アン」で弥陀を表わし、 他の二面も梵字で表現されている。左回りに「アー (開散華王)」と「ア(宝幢)」が彫り込まれてい る。強い信念に溢れた書体、と言えるだろう。 基礎の格狭間の中には、永仁四年 (1296) という 鎌倉後期初頭の年号と共に、大和西大寺の忍性の指 導で大和の石工が造立したことが記されている。こ の石工は前掲の鎌倉安養院の宝篋印塔にも関係して いるようで、この塔は後の関東形式宝篋印塔の原点 とも言える存在である。 |
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元箱根賽の河原層塔 |
神奈川県箱根町元箱根 |
芦ノ湖に面した元箱根バスセンターに隣接して、 賽の河原と呼ばれる数多くの石塔や石仏が立ち並ん でいる一画が保存されている。 中央部分に、写真の層塔が建っている。現在は四 重だが、屋根の間隔から察しておそらくは五重か七 重であったものと思う。 軒の厚さや両端の反り具合は、鎌倉後期の特徴を 示している。 完全な形のこの塔が、いかに美しかったかを想像 することは楽しい。 基礎には、二区にして格狭間を入れてある。 初層軸部(塔身)は、四方に輪郭をとり、二字づ つの梵字を刻んである。写真の塔身左側から四仏の 不空成就(アク)と釈迦(バク)、花の飾られた正 面は観音(サ)と四仏の阿弥陀(キリーク)と続い て、さらに左回りで地蔵(カー)と四仏の宝生(タ ラーク)、四仏の阿しゅく(ウーン)薬師(バイ) がセットになって彫られているのである。金剛界四 仏だけでは事足らず、信仰の対象として馴染み深い 釈迦、観音、地蔵、薬師という仏たちまで彫り込ん だ意欲には脱帽であろう。 基礎正面の中央輪郭部に、正和三年 (1314) とい う鎌倉後期の年号が彫られているそうである。残欠 塔とはいえ、関東には鎌倉時代の在銘層塔は数基し かなく、まことに貴重な存在なのである。 |
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城願寺五重塔 |
神奈川県湯河原町 |
湯河原温泉の玄関口JR湯河原駅の裏手は小高い 山になっており、その傾斜地の一画にこの曹洞宗の 寺院が建っている。平安期以来の古刹で、源頼朝の 再興に功績があった土肥実平の菩提寺であった。 石塔は本堂左の墓地を抜けた、最奥の一画に並ん でいる。 写真の左が石造五重塔で、前述の元箱根の層塔と 共に、関東では希少な在銘層塔である。 基礎は二区に分かたれており、格狭間は見られな い。 塔身(初重軸部)は、周辺に関東様式ともいえる 輪郭を巻き、金剛界四仏の梵字を彫り込んでいる。 写真に写っているのは、アク(不空成就)である。 やや力の無い書体である。 各層の屋根は、軒裏に垂木型が刻んであり、荘重 なシルエットを創出している。軒の反りは鎌倉風の 剛健な様式で美しい。 相輪の存在が記された本があったが、現在は失わ れてしまったようだ。 塔身に嘉元二年 (1304) という、貴重な鎌倉後期 の年号が刻まれているのである。 五重塔の右に並ぶ三基の石造五輪塔も、鎌倉後期 のものと思われる姿の良い石塔である。 |
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