石塔紀行(2) 
  層塔・宝塔・
  宝篋印塔・五輪塔を巡る
  
中部・東海・伊勢
   地方の石塔巡拝
 
 
 
 
 白山神社石造五重塔(能登輪島)
   
鎌倉時代
 2007年の能登地震で上部二層が崩落し
た時の写真。
 現在は修復されているのだろうか。
 
 
 人間と石との関わりは旧石器時代から始まっ
ていたのであり、日本の石造美術はそうした歴
史の延長線上にあるものと理解している。
 石造美術と称される遺品は、古代の石棺や埋
葬品などを別にすれば、仏教伝来以降に見られ
る石仏や石塔が最初だろう。
 現存する最古の石造美術は、奈良時代前期と
される石塔寺三重塔(近江)、龍福寺層塔(大
和)、旧滝寺磨崖仏(大和)、飯降磨崖仏(大
和)などであろうか。

 そうした石造美術の遺品を探訪する旅の楽し
さはまた格別である。
 このページでは、近畿と関東に挟まれた中部
甲信越、北陸、東海地方をひとまとめにした。
掲載の便宜上、三重県(伊勢・伊賀)をこの東
海エリアに入れて掲載した。
 
 
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願成寺五輪塔
    
    山梨県韮崎市神山
      
 
 
 以前は墓域の片隅に雑然と置かれていたと思
ったが、墓地の修理の御蔭と言うべきか、三基
の五輪塔は立派な囲いの中の基壇上に祀られて
いた。
 石材質が安山岩であり、相当に苔むした観が
強いことからかなり古そうである。おまけにこ
の塔が文治二年(1186)に没した武田信義の墓で
ある、という伝承があるため、更に判定の支障
となってしまうのだという。

 空輪・風輪は塔全体の形からすると、古式な
がらやや小振りすぎるだろう。
 火輪は屋根の傾斜がやや強く、軒の厚みはそ
れ程大きくはなく、両端の反り具合も微妙だ。
全体に落ち着いた荘重な火輪である。
 水輪はやや高さのあるもので、太鼓や臼のイ
メージに近い。研ぎ澄まされたような感覚を持
つ勝尾寺の五輪塔などとは対極に位置する、野
放図で大らかな造形感覚も存在するのか、と感
じさせられるような、また別次元の伸びやかな
魅力を示している。
 水輪の梵字は、何と後述の雲光寺五輪塔と同
様に、五輪塔四方門種子の水輪四方を表す「バ
・バー・バン・バク」が月輪の中に刻まれてい
る。

 総合的には、武田信義の没年とは全く無関係
であり、おそらくは鎌倉時代末期に近い年代に
制作されたものであろうと思う。捨て難い魅力
を持った石塔であることに変わりは無い。
 
 
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雲光寺五輪塔
    
   山梨県山梨市下井尻
      
 
 
 知られざる五輪塔を御紹介しよう。
 ここは甲州の中央、塩山に近い下井尻という
里で、私達が訪れたのは春四月、桃の花の咲き
乱れる美しい季節だった。

 雲光寺の寺域から少し離れた草地の中に、大
きな三基を中心として、六基の見事な五輪塔が
祭られていた。
 市教育委員会によれば、この五輪塔群は甲斐
源氏の将であった安田氏一族の墓標だそうだ。
 写真の塔は、右が安田義定のものであり、左
がその子義資のものだという。
 一族は平家討伐に功績を残し一帯を所領とし
たが、謀反の嫌疑から建久五年(1194)に滅亡し
たのだそうだ。
   
 空輪の宝珠形は平安調、風輪は右が枡形で左
は椀形、水輪の笠は屋根の傾斜がやや強く、軒
の反りは緩やかである。
 ただ水輪の大きさに比して、笠が大き過ぎる
様に思える。この点は、畿内の洗練された古塔
に比べると、やや田舎くさい観を呈している。
 水輪の球体は偏平で、古式な伝統の面影を示
しているが、やはり笠の大きさから不安定な印
象を受けてしまう。
 梵字は水輪の四方にのみ彫られている。バン
やバクがあり、どうやら水輪「バ」の四転「バ
・バー・バン・バク」が彫られているようだ。
 
 
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円照寺五輪塔
    
   山梨県山梨市牧丘町室伏
      
 
 
 国道140号を山梨市から雁坂道を笛吹川に
沿って秩父方面へ北上すると、牧丘と室伏とい
う二つのトンネルを通過する。
 室伏トンネルを抜けた直後の左手背後の小高
い場所に、真言宗智山派のこの寺院が見える。

 目的の五輪塔は、境内に隣接する元来はこの
地区の総墓であった墓地の中腹に保存してあっ
た。塔は昔からここに在った訳ではなく、以前
は同地区の地蔵院というお寺に在ったという。

 写真の様に大小の五輪塔が建っており、いず
れも中世の石造品ならではのオーラを放ってい
る。
 大塔は安山岩製で、火輪(笠)の屋根の急な
傾斜と、軒の薄さが特徴。地輪(基礎)の崩壊
が無残である。部分的には判読できるが、四方
に五輪塔四門の梵字(キャ・カ・ラ・バ・ア)
が薬研彫りで彫られている。
 小塔は凝灰岩製で、やや軒も厚くずんぐりと
しており、洗練されていない素朴な感はある。
地輪に銘が刻まれており、暦応三年 (1340) 南
北朝初期の年号が確認されたそうだ。
 いずれも、鎌倉期の石造美術が示していた力
強さや剛毅さを失って、華奢で弱弱しい表現へ
と移行していく時代を物語っているようだ。
 
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栖雲寺宝篋印塔
    
    山梨県甲州市大和町
      
 
 
 甲府へ向かう旧甲州街道(国道20号)の笹
子トンネルを抜けて直ぐの分岐から、日川の渓
谷に沿って北へ登る。
 寺はこの嵯峨塩鉱泉や大菩薩峠へと通じる林
道の途中の木賊に在る。
 元の天目山で印可を授かった業海和尚が南北
朝の貞和期に開山し、天目山栖雲寺と命名した
臨済宗の禅寺である。

 天然の岩場なのか、人口の石組なのかが問題
の石庭を見学し、本尊釈迦如来座像や地蔵・文
殊の磨崖仏を拝してから、本堂横に祭られた二
基の宝篋印塔を見学した。

 写真は正面向かって右側の塔で、塔身に文和
二年(1353) 南北朝前期の銘が刻まれている。
 相輪(宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢)から
基礎までが完備した美しい塔で、関東様式のエ
リアでは珍しい関西様式の宝篋印塔である。
 笠は上六段下二段で、隅飾はほぼ垂直の二弧
である。古式に従った端正な風貌をしている。
 塔身に四仏の表現が無いのが淋しいが、均整
の取れた大きさとなっている。
 塔身下に豪快な蓮弁を置き、基礎には輪郭を
巻き、格狭間を彫り込んである。

 もう一基は相輪を失っているが、開山業海禅
師の塔として知られる観応三年 (1352) のもの
である。    
 
 
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大福寺層塔
    
    山梨県中央市大鳥居
      
   
 
 大福寺は現在は聖観音(秘仏)を本尊とする
真言宗智山派の寺院で、中央市の豊富地区の南
端の山裾に建っている。
 8世紀天平期に創建された古刹で、この地の
豪族浅利与一が鎌倉期に所領を寄進し再建した
という。那須与一と共に、源平合戦で活躍した
弓矢の名手であったという。

 写真の層塔は、寺とはシルク公園を挟んだ反
対側の一画に残されている浅利与一の墓所とし
て、五輪塔数基と共に建っている。
 基盤は四枚の石が田の字形に組まれており、
その上に方形の基礎が載っている。
 四角い龕の掘られた初軸部(塔身)は、宝塔
のように上部に縁が見られる梵鐘形で、他の軸
部も全て円形になっている。龕の四隅に穴が開
いており、扉が付けられていたようだ。
 各層の屋根の勾配は比較的緩やかで、両端が
少し反り上がっている。鎌倉中~後期に建立さ
れたものと推察出来る。現在は四重だが、屋根
幅の低減から、最上部の下にもう一層あって従
来は五重だったものと考えられる。七重説もあ
るらしい。
 相輪の代わりに載せた五輪塔の空・風輪は、
この塔の質を下げこそすれ、何の意味も成して
いないことを知るべきだろう。
 左右に並ぶ五輪塔群は一族の墓碑と伝えられ
るが、時代は下がるのではないかと思われる。
 
 
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伝伊東祐親墓所五輪塔
    
     静岡県伊東市大原
      
   
 
 伊東市の南、伊豆高原へ通じる国道から少し
西へ入ったあたりに、鎌倉期の武将伊東祐親の
墓碑と伝わる五輪塔が残されている。
 写真の通り、とても均整の取れた秀麗な五輪
塔である。ただ、火輪(笠)と水輪(塔身)に
は、四方各面に五輪塔四門の梵字が彫られてい
るのだが、上部の空輪・風輪には何も彫られて
おらず、地輪には四門ではなく梵字アが大きな
書体で四方に彫られている。どうやら、火・水
輪以外は、全くの別物が組み合わされた、と考
えたほうが良さそうである。
 火輪は、軒口の厚さや反り具合が鎌倉後期を
象徴するような見事な作で、この塔の風格を決
定付けている。水輪の上部に納骨孔が確認され
たそうで大層珍しいのだが、この期に実際墓碑
として建立された貴重な遺構と言えるだろう。

 石造美術の難しさのひとつが、この別物によ
る部材の補填の問題だろう。ここでは、かなり
無難な部材が用いられているために、見た目に
大きな破綻が生じてはいない。しかし、詳細に
眺めると時代も様式も違う、アンバランスな組
み合わせであることに気が付く。かと言って、
火輪と水輪の素晴らしさだけを眺めるのも、こ
れまた不自然だろう。仮に、火輪と水輪だけが
置かれていても、余り美しいとは思えないはず
である。全体像あってこそ、建っているからこ
その石塔と言えるからである。   
 
 
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真珠院五輪塔
    
    静岡県伊豆の国市中條
      
   
 
 伊豆長岡温泉の北、狩野川の東側に在る、現
在は曹洞宗の寺院である。前述の伊東祐親の娘
八重姫の悲劇が伝わる事で知られている。

 目的の五輪塔は墓地上部の、屋根と柱に囲ま
れた開放的な覆屋の中に保存されている。
 地輪(基礎)に定仙和尚顕彰の銘文と、正安
四年 (1302) 鎌倉後期という年号が刻まれてい
る。石造品としては、県内最古の年号である。

 水輪(塔身)が特に美しく、四方に半肉彫り
の仏像が彫られている。月輪の中に舟形が彫ら
れ、その中に蓮座に載る金剛界四仏坐像が浮き
上がっている。各像の特徴ははっきりとしない
が、西側を弥陀定印の阿弥陀とすれば、時計回
りに不空成就、阿閦、宝生ということになる。
 火輪(屋根)は、反りの全く見られない直線
的な形状で、五輪塔の原点を見るようだが、余
り美しいとは思えなかった。
 前述の五輪塔同様、全く異なった部材がここ
では空風輪部分に用いられているのである。宝
篋印塔の笠と相輪部分で、なかなか見事な宝篋
印塔のものと思われるのだが、全くのナンセン
スでしかないだろう。別物の部材を入れ替えた
前掲例とは、明らかに意味が違う。
 
 
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霊山寺塔身輪式宝篋印塔
    
   静岡県沼津市上香貫
      
   
 
 沼津市の東南には、標高183mの香貫山が
あり、その山裾のしっとりとした雰囲気の中に
この寺院が建っている。創建時は真言宗だった
が、室町末期弘治年間の中興の際に曹洞宗に改
められた。
 背後に広がる墓地に、様々な興味深い古石塔
類が点在しているが、写真はその中でも特に注
目される宝篋印塔である。

 通常は方形であるはずの塔身部分が、ここで
は五輪塔の水輪のような球形をしている。
 時として崩落した部材を組み合わせた混合塔
を見かけるが、宝篋印塔ならではの四方仏を彫
刻した本塔の球状の塔身は、当初より意図され
た造形であると確信する。
 複弁の反花座の上に二区の輪郭を巻いた基礎
で、二段の上に球形の塔身が見事に収まってい
る。四方仏はいずれも座像で、深く彫り込まれ
た秀逸な作品だろう。
 笠下に段は無く、上五段に露盤が設けられ、
五輪塔の空輪と風輪が相輪に替わって載せられ
ている。この組み合わせにも違和感は無い。
 反花座側面に銘文があり、正和三年 (1314)
鎌倉後期の年号と、為逆修という文字を読むこ
とが出来るので、生前供養を目的に建てられた
ものと推察出来る。

 この宝篋印塔の形式は、混合式・変形・輪篋
折衷式など、様々な表現がされているのだが、
小生はネットの友人と検討した結果「塔身輪式
宝篋印塔」と呼ぶことにしている。
 
 
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霊山寺五輪塔
    
    静岡県沼津市上香貫
      
   
 
 前述の霊山寺墓地の中には、四基の塔身輪式
宝篋印塔と三基の石造五輪塔が点在している。
そのいずれもが長い歴史の風雪に耐えて来た、
といった風情を感じさせる素晴らしい石塔群で
ある。

 墓地のほぼ真ん中あたりに、崩れかかったよ
うな五輪塔が三基、横一列に並んでいた。
 写真は、その内の中央に建つ五輪塔で、一番
背の高い剛健な塔である。
 凝灰岩製で崩落が激しいが、火輪などの黒い
縞状の部分はどうやら、剥落防止のための薬剤
が塗布された跡らしい。

 全体に比して空輪と風輪がやや小さめに感じ
られるが、この二つは一石から彫られている。
余り優れた像容とは思えない。
 笠は屋根の急な勾配、軒の剛健な厚さ、両端
の反り等が、明らかに鎌倉後期の特徴を示して
いる。
 塔身(水輪)の、やや扁平な張りのある球形
は、鎌倉期の勢いを感じさせる。宝塔のような
首部があるようにも見える。

 近年の調査で、元亨三年 (1323) 銘の青銅製
蔵骨器が発見されたのだそうだ。その骨の主で
ある僧侶の墓であると考えられ、五輪塔の造立
時期もそれに準ずる鎌倉後期と考えられそうで
ある。
 
 
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慶寿寺塔身輪式宝篋印塔
    
   静岡県島田市大草
      
   
 
 前述の霊山寺で見た「塔身輪式」宝篋印塔と
同じ様式の塔が、鎌倉後期以来静岡の駿河・遠
江地方に伝播していったと考えられる。その証
例が島田市に在ると聞き、早速訪ねた。
 
 今川氏ゆかりの真言宗古刹で、天然記念物の
枝垂れ桜で広く知られている。
 墓地には、今川範氏一族の墓として、十六基
の石塔が並ぶ様は壮観である。

 写真は、その内の一基で、塔身輪式宝篋印塔
の貴重な事例である。
 銘文が発見されており、貞治四年 (1365) と
いう南北朝中期の年号が確認出来たそうだ。
 相輪は別物だが、笠の部分は荘重な宝篋印塔
の形式である。隅飾は小さく、やや外に反って
いるのは南北朝という時代を反映している。下
二段は通常だが、上がどう見ても四段で二区の
露盤が設けられている。
 塔身が五輪塔の水輪と同じ球形であり、霊山
寺のような宝篋印塔ならではの四方仏も無いこ
とから、こうした様式だけが伝播してきたもの
と考えるのが自然だろう。
 基礎は関東式の二区の輪郭で、霊山寺同様に
反花座の上に据えられている。   
 
 
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清浄寺塔身輪式宝篋印塔
    
    静岡県牧の原市馬場
      
   
 
 郷土の豪族で南朝方に組し、応仁の乱で今川
氏に敗れた勝間田一族の墓所のある寺院だ。
 寺は弘安期(鎌倉中期)の創建という。
 勝間田一族の墓所とされる覆屋には、応仁の
乱(室町中期)で敗れ葬られた墓碑十五基が並
んでいるが、墓碑だとすれば、中央二基の塔身
輪式宝篋印塔の記銘年号の観応二年 (1351) と
文和三年 (1354) とが矛盾してしまう。
 これはどうやら、山内に分散していた墓碑や
石塔が後世に一箇所に集められたもので、建武
三年以降に一族の霊を弔うための供養塔が建て
られたという記録もあることから、写真の二基
は他の石塔とはかなりの時代の差があるものと
思われる。

 両塔とも一連の塔身輪式宝篋印塔の形式を踏
襲しているように見える。年代としては、霊山
寺と慶寿寺の間に位置しているようだ。
 やや大き目の一石空風輪、露盤と上四段下二
段の笠、小さめの隅飾、扁平な球形塔身、上二
段二区輪郭の基礎、複弁の反花座など、絵に描
いたように様式化している。完全に地方色化し
ていたと見ても良いだろう。
 ここでも塔身に四方仏は見られないので、や
はり形式のみが伝わったのだろうか。
 反花座の側面に、基礎と同じ二区の輪郭が巻
かれているのが、滅亡前の格式の高さを象徴し
ているのかもしれない。  
 
 
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海善寺多宝塔
    
   長野県麻積村
      
   
 
 信州松本の北、明科の町で国道19号線から
分かれ、更埴市の屋代まで続く善光寺西街道が
通じている。この東筑摩郡麻績(おみ)村は、
その街道の中頃に在り、近年市町村合併が横行
する中で合併協議から離脱し、村としての自立
を表明した近代稀なる骨太の村、と言える。
 最寄の駅はJR篠ノ井線の聖高原駅で、その
周辺が村の中心になっている。

 海善寺は村の中心からやや外れた東側に在っ
て、かつては更に東に鎮座する麻績神明宮の神
宮寺であったという。
 寺域に接した畑の中に覆屋が設けられ、その
中に写真の石造多宝塔と石造五輪塔が並べられ
ていた。
 全国的にも石造多宝塔の事例は希少だが、後
掲の常楽寺の影響が強かったものか、信州には
鎌倉期に建立された多宝塔がここと上田の国分
寺に残されている。
 基礎に載る大きな方形の塔身、その上に庇屋
根が設けられているので、二層に見えるのが多
宝塔の特徴である。庇屋根の上に饅頭形を設け
円形の上層、そして笠、相輪という構造になっ
ている。
 相輪は五輪塔の空風輪が代用されており、上
層と笠はやや小さめなので、これも別物の可能
性はあるが、下層と庇屋根の堂々たる存在感は
鎌倉期の剛健な様式を十分伝えているだろう。
 
 
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津金寺宝塔群
    
   長野県立科町山部
      
 
 蓼科の裾野一帯であるこの地の滋野一族は奈
良時代からの名門で、古来より朝廷直轄の牧場
(望月牧場)の経営に携わる豪族だった。
 寺の背後の山中に建つ三基の石造宝塔は、こ
の滋野氏が建立した供養塔である。
 手前からの二基は、滋野氏夫妻が生前に建て
た逆修を目的とした塔で、承久二年(1220)とい
う鎌倉初期の銘がある。
 いずれにも梵字の種子が彫られており、多宝
/アと釈迦/バクを表している。
 一番奥の塔は嘉禄三年(1227)とこれも屈指の
古さである。
 手前二基の塔身は上下に二石が重ねられてお
り、ほぼ円筒形で首部の無いのが特徴である。
 地方に残る素朴な逸品だと言える。
 
 
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常楽寺多宝塔
    
    長野県上田市別所
      
   
 
 信州の鎌倉と言われる塩田平を訪ねたら、必
ずこの石塔と安楽寺三重塔を見なければならな
い。のんびりと別所温泉に泊まっているだけで
は、大きなお世話かも知れぬが勿体無いではな
いか。石造美術に興味の無い方には、なんだこ
りゃあと思われるかも知れぬが、とても貴重な
名品なのである。
 近江石山寺や紀州根来寺など、木造の多宝塔
はあちこちで見ることが出来るが、石造の多宝
塔はまことに珍しい。中世以前の石造多宝塔で
私の限られた経験の中で知っているのは、近江
の菩提寺と伊賀上野の仏土寺、それにここ常楽
寺など信州の数基だけである。後述する大和高
田のものはかなり古いのだが、やや崩壊が激し
く、石造多宝塔とはそれほど貴重な存在なので
ある。

 希少価値もさることながら、質素だが泰然と
した塔全体のフォルムが美しい事に感銘した。
塔は立っている場所の環境によって、その価値
がかなり左右されてしまうという、叙情派の旅
人としての物差しをすぐ出したくなってしまう
が、その意味では、森と苔の緑に染まってしま
いそうに見えるこの石塔は、優美極まりない傑
作であった。 
 
 
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中禅寺五輪塔
    
    長野県上田市前山
      
   
 
 上田市の南に広がる“信州の奈良”とも言わ
れる塩田平に建つ名刹のひとつである。
 真言宗智山派の寺院で、平安末期から鎌倉初
期にかけて創建されたと伝わっている。境内に
建つ薬師堂は創建当初の建築で、信州最古の建
築として国の重要文化財に指定されている。

 目的の五輪塔はその薬師堂の左手奥、やや小
高くなった墓地手前の一画に保存されている。
 やや苔むして荒れ果てた風情ながら、全体的
には均整の取れた姿をしている、と思われる。
 空輪(宝珠)と風輪(請花)は一石から彫ら
れており、特に空輪はふっくらとした古風な姿
をしている。
 火輪(笠)は、やや急な傾斜の屋根、厚めの
軒口と両端の反りは、いかにも鎌倉後期の様式
を示している様に思えた。残念ながら銘文など
は一切無いようで、素人判断の出番がやってき
たようである。
 水輪(塔身)は、やや扁平な球形で、全体的
にはやや大き目かもしれない。バランス的には
地輪(基礎)の大きさが、水輪に比べやや小さ
いのだろう。
 水輪の正面に彫られた梵字は“バン”で、金
剛界大日如来を象徴する種子として、月輪の中
に薬研彫りされている。
 地輪の載る基盤は小さすぎて別物だろう。
 
 
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金王五輪塔
    
    長野県上田市舞田
      
   
 
 上田から別所温泉へ向かうコスモス街道の東
側の、山裾がやや小高くなった場所に覆屋が在
り、そこにこの五輪塔が祀られている。
 高さが2m強という堂々とした石塔で、見る
からに歴史を感じさせる古風で重厚なオーラを
放っている。これは“本物”のみが示すもので
あり、滅多に感じることはない。
 平安末期から鎌倉初期にこの地に寺を建立し
たと伝わる地元の豪族渋谷氏の墓とされるが、
銘文などの確証は一切無い。しかしこの塔が示
すフォルムのずっしりとした風格には、鎌倉初
期の作と思わせる様式美が備わっている。

 空・風輪は一石彫りで、大らかに膨らんだ曲
線が美しい。宝珠の先端が尖った形式は鎌倉ら
しさを物語っている。
 火輪の屋根の降棟はふっくらとした膨らみを
感じさせる程たおやかで、薄い軒口と両端の緩
やかな反りは鎌倉初期を表明しているようにす
ら感じられる。
 水輪はやや扁平な球形で、四方に同じ梵字バ
ンが薬研彫りされている。金剛界大日如来を象
徴する種子で、雄渾な書体は鎌倉初期の大らか
な気風を物語っているようだ。
 地輪は均整のとれた大きさで高さも程良く、
文字通り基礎を固めているように見えた。
 
 
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実相院宝篋印塔
    
    長野県上田市真田町傍陽
      
   
 
 上田市の北側、旧真田町の傍陽という地区に
在る天台宗の寺院である。
 奈良時代の神亀年間に創建されたと伝わるほ
どの古刹なのだが、移転再建を繰り返し、現在
地に治まったのは足利時代とされている。

 伽藍の並ぶ境内の中央に、写真の宝篋印塔が
象徴的な佇まいを見せていた。
 石塔の表面には夥しい苔がこびり付いている
ため、崩壊寸前のように見えるが、相輪から基
礎・基盤までが完存しているのである。
 貞治六年 (1367) 南北朝中期の年号が確認さ
れているそうだ。
 相輪は、先端の宝珠から請花、九輪、請花と
揃っており、二区を設けた露盤に載っている。
 笠は、上四段下二段で、輪郭を巻いた二弧の
隅飾はやや外側に反っている。
 塔身には、輪郭を巻いた中に四方仏と思われ
る梵字が彫られているが、彫りが浅すぎて判読
が難しい。キリーク(阿弥陀)やウーン(阿し
ゅく)が確認出来たので金剛界四仏であると思
われる。
 基礎部分は、二区の中に格狭間を飾ってある
が、迫力には欠けるようだ。
 塔全体が基盤上の反花座に載っており、輪郭
の多様と併せ、関東形式の特徴を示している。
 信州の宝篋印塔の地方性を良く表した貴重な
遺構だと思う。
 
 
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中原地蔵堂宝篋印塔
    
    長野県上田市真田町本原
      
   
 
 上田から菅平へ抜ける上州街道の東側に、旧
真田町の本原という地区が在る。
 延命地蔵、身代わり地蔵として地元の信仰を
集める中原地蔵堂という愛らしいお堂が、本原
の中心に近い中原という集落に建っている。
   
 宝篋印塔は地蔵堂の前の一画に、花に囲まれ
て建っていた。全体にやや破損が目立ち、特に
笠の崩落は悲惨なほどだった。
 塔身部分に銘文が刻まれていたそうだが、現
在は銘文はおろか、四方仏を表す梵字すら削ら
れたかの如く判読は困難だった。地誌の資料に
よれば、かつての採拓で貞治五年 (1366) 南北
朝中期という、前述の実相院宝篋印塔に似た年
号が確認されていたそうである。
 相輪は下部請花が欠落、露盤は別物となって
いる。笠は隅飾の大半が崩落という悲惨な状態
になっているが、上四段下二段で、隅飾は輪郭
を巻いた二弧だったことが判別出来た。
 基礎の輪郭を巻いた二区格狭間や基礎下の反
花座等は、実相院と瓜二つの関東形式である。

 上田一帯には似たような宝篋印塔が、洞泉寺
・村松入道塔、などにも在るので、次回には訪
ねてみようと思っている。
 
 
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明泉寺石造五重塔
    
    石川県穴水町明千寺
      
   
 
 木造五重塔を模した美しい石造五重塔が能登
に在る、ということは各種の本で知っていた。
実際に自分の目で見たこの塔の壮麗さを、一体
何に例えれば良いのだろうか。

 初層軸部には木製の扉の付いた板石囲いの部
屋が設けられており、金剛界大日如来坐像が置
かれていた。

 屋根の軒裏には、木造五重塔のような隅木や
垂木などが彫り出されている。何とも精巧な造
りであり、石造層塔としてこれほど精緻で、な
おかつ優れた作品は他に無いだろうと思う。

 倒壊欠落していたものを1970年に修理補修し
たそうなので、部分的には後補の手が入ってい
るのだろう。良く見れば何となく新しいか、と
思わせる部分はある。
 しかし、総体的に見ると、まことに秀麗な五
重塔であり、様式的には鎌倉時代後期の特徴を
よく表している。

 同様式の五重塔が輪島の白山神社にあるが、
先般の能登大地震で崩壊している。一刻も早い
修復を祈念している。
 
 
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八幡神社石造三重塔
    
    石川県珠洲市宝立町
      
   
 
 輪島の白山神社を訪ねたのは2007年の能
登地震直後で、境内の石造五重塔は三層目より
上が崩落してしまっていた。その後訪ねた穴水
の明泉寺と当社の層塔が無事であったことに感
動したものだった。
 珠洲市の南、絵葉書の写真で知られる軍艦島
(見付島)の近くに在る小さな神社である。
 完璧な明泉寺五重塔を観た直後だったので、
不完全な保存が目に付いて仕方がなかった。

 大胆な複弁の反花座の上に初重軸部が載って
いる。前面は開き、板石で囲んだ三方の壁面に
は輪郭と十字の桟が意匠されている。中には阿
弥陀石仏が置かれている。
 初層屋根の反りはかなり堅苦しい感じがする
のだが、軸部に刻まれた銘に永和二年 (1376)
という南北朝後期の年号があり、いかにもと納
得した次第。時代が示す美意識の変遷というの
は、何とも不思議なものである。
 第二重軸部が大き過ぎる、第三重軸部が喪失
している、屋根の幅の逓減率が不揃い、相輪は
別物などの理由から、元来は五重塔だったので
はないかという説が有力である。

 白山神社五重塔・明泉寺五重塔と共に、能登
に残る貴重な層塔の遺構である。
 
 
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宗円寺宝篋印塔
    
    愛知県名古屋市昭和区御器町
      
   
 
 市内の町中に建つ曹洞宗の寺院で、写真の宝
篋印塔は本堂の脇の部屋の中に祀られている。
 突然の訪問だったが、快く見学を許していた
だくことが出来た。
 高さが84センチという小型の塔で、寺の案
内板には、かつて旧広見池畔(現在の桜山中学
校付近)にあった野墓から移築したもので、市
内最古の石塔と記されている。

 基礎の正面に輪郭を巻いた部分があるが、中
には近江模様の蓮華らしき痕跡が見えたが、ほ
とんど消滅してしまっている。基礎の左側面に
応安三年 (1370) 南北朝中期の年号と「右為
道安」という銘文を確認出来た。
 反花座と一段の上に塔身が載っているが、明
らかに石の材質が違うように見える。最初から
意図されたものなのだろうか。かなり摩耗して
しまっているが、輪郭を巻いた中に金剛界四仏
の梵字が彫られているのが判る。
 笠は上五段下二段で、隅飾は輪郭を巻いた二
弧で中は無地。やや外側に反っている。
 相輪は完存しており、宝珠から伏鉢まで時代
性に見合った様相を呈している。

 あらゆる石塔に共通する問題として、違った
部材が組み合わされているケースが多い。
 私見だが、ここでも塔身の材質が明らかに違
っており、また見方によっては相輪も別物では
ないかという疑問も抱かれる。それでも、全体
的に大きな違和感さえ無ければ、歴史的な変遷
として許容出来る範囲内、とするべきだろう。
 
 
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浄明院宝篋印塔
    
    三重県津市乙部町
      
   
 
 津市街の中心から海寄りの市街地に、藤堂家
の菩提寺として江戸初期に建立された臨済宗の
寺院である。
 この寺の境内に、どのような経緯で鎌倉期の
宝篋印塔が祭られたのかは不明である。

 ここでも、一見しただけで、各部材の色も材
質もバラバラであると気付くだろう。特に、塔
身と相輪の先端部分が、別物であることは明ら
かである。江戸時代の後補と伝わるが、フォル
ムとしては色彩ほどの違和感は感じられず、モ
ノクロ写真であれば気が付かないだろう。

 基礎は、背面以外の三面に、輪郭を巻いた中
に格狭間が意匠されている。鎌倉期らしい大ら
かな形である。背面は無地で、本塔造立の趣旨
と、文保二年 (1318) 鎌倉後期という年号が刻
まれている。上二段に塔身が載る。
 塔身は砂岩系の材質で、全体の花崗岩とは全
く異質である。敢えてこの石を用いたのは何故
だったのだろうか。
 月輪の陽刻内に、金剛界四仏の梵字を彫る。
 笠は上六段下二段で、輪郭付き二弧の隅飾の
中には、陽刻された月輪の中に梵字ア(胎蔵界
大日如来)が彫り込まれている。隅飾がほぼ垂
直に立つ端正な笠である。
 相輪は、伏鉢から宝珠まで、一応役者は揃っ
ている。
 
 
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国津神社石造十三重塔
    
    三重県津市美杉町太郎生
      
   
 
 津市と言ってもかつては一志郡美杉村という
山里だったところで、太郎生は伊賀へ通じる伊
勢本街道に面した集落である。
 神社の縁起は不明だが、巨杉や欅に囲まれた
山里の社らしい森厳な雰囲気に満ちている。

 国の重要文化財として保存されている写真の
十三重塔は、現在でも石仏群や板碑が残る同地
区の日神(ひかわ)山王権現社から合祀の際に
移築したものである。
 制作年代に関する銘文は無い。

 初重軸部(塔身)の四方には、顕教四仏(阿
弥陀・釈迦・薬師・弥勒)の坐像が、舟形に彫
りくぼめた中に半肉彫りされている。優雅な美
しい像で、各像の特徴もはっきりとしている。
 各層の屋根は、軒口が厚く両端に力強く反り
上がっており、この辺りからも鎌倉後期に造立
されたものと推察出来る。また、各屋根の四隅
の降棟も先端が反っており、躍動感にあふれた
像容を創り出している。
 軒の裏側には、一重の垂木型が彫り出されて
おり、優れた石工によって丁寧な仕事が成され
たことを立証している。
 相輪は完存しているが、余りにも小振りであ
り明らかに後補された別物である。
 紀年銘の無い石造品を、美術的な価値から文
化財に指定をしたお役所に敬意を払う次第であ
る。    
 
 
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大五輪五輪塔
    
    三重県伊勢市楠部町大五輪
  
 
 
 伊勢外宮の東、伊勢インターを出て西北へ少
し行った辺りに楠部町がある。そこに、五輪塔
に由来すると思われる大五輪という地名の一画
があり、赤い鳥居が目立つ清丸稲荷という可愛
らしい社が建っている。
 見上げるばかりの五輪塔が、社前の空地に設
けられた基壇の上に堂々と建っていた。

 材質は花崗岩で、3m余りの豪壮な五輪塔で
ある。県の文化財に指定されているという。
 塔には、梵字や銘文など一切の表記は見られ
ないのだが、火輪(笠)の軒口の厚さや、水平
から両端で急に反り上がるっていることなどか
ら、南北朝以降であることは間違いなさそうで
ある。

 現地の説明板には、この地は大和西大寺の興
正菩薩叡尊により中興された弘正寺の跡地であ
り、この五輪塔は西大寺奥の院の五輪塔をモデ
ルとした西大寺の石工集団との関連があると思
われる、と記されていた。
 確かに、広い横幅で微妙に裾が広がっている
地輪(基礎)、扁平な水輪(塔身)、高さなど
は西大寺五輪塔に似ているような気がする。
 先端が三角錐、で固い偏平形の空輪(宝珠)
は、典型的な南北朝の様式である。
 全体に大味な印象は拭えないが、完存する大
型五輪塔として、また西大寺との関連も考える
と誠に貴重な遺構と言えるだろう。
 
 
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滝仙寺石造九重塔
    
    三重県伊賀市滝
      
   
 
 滝地区は従前は名賀郡青山町だったが、現在
は伊賀市に併合されている。青山町の中心の駅
は近鉄「青山町」で、集落は阿保(あお)とい
う町である。滝へは、阿保から伊賀上津を経由
して、県道を北東へ5キロほど入る。

 山門を入った境内の右手、墓地への登り口に
写真の九重塔が建っている。
 屋根の幅の低減率が少ないので、すっきりと
した印象だが、鎌倉期のものでないことだけは
素人にも判る。案の定、基礎部分に、造立目的
の銘文と共に、観応二年 (1351) 南北朝前期の
年号が確認出来た。
 層塔の基礎上に反花座というのは珍しいが、
どうやら大和式五輪塔の部材の転用らしい。
 初重軸部の四方には、顕教四仏と思われる坐
像が、舟形光背の中に半肉彫りされている。線
彫の蓮華座が繊細である。この部分だけが白い
のは、洗浄をしたのだろうか。軒裏に垂木型が
彫られているのは良い仕事だろう。
 各層の屋根には、微妙な反り曲線などは見ら
れず、やや不器用な固さが感じられる。これも
南北朝と言う、やや定型化しつつある時代性な
のであろうか。
 相輪には水烟や伏鉢などが完備しているが、
余り美しいと感じられないのは何故だろう。 
 
 
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安楽寺石造十三重塔
    
    三重県伊賀市青山羽根
      
   
 
 阿保の集落からは、川を隔てた南側に広がる
地域である。現在は真言宗豊山派の鄙びた寺だ
が、かつては伽藍を誇った大きな寺院だったら
しい。

 十三重塔は、本堂前庭の左手に建っている。
 残念なことに、塔身(初重軸部)は明らかな
後補であり、またちょっと古い写真では十二重
になっていて一層が欠落していたようだが、ど
うやら近年屋根を一層(最下層のように見える
が)後補したと思われる。

 基礎部分には、元応三年 (1321) 鎌倉末期の
年号と共に、祐禅という人が「億衆や法界の平
等利益を祈願」した旨の銘文が彫られている。
どこかの権力者にも聞かせたいような願文であ
る。    

 十三重塔などの層塔の屋根幅の低減率につい
ては、格別の法則があるわけではないが、鎌倉
から南北朝にかけて低減率が減っていく、つま
り立ち姿がほっそりとしていくということなの
である。
 前出の滝仙寺の塔に比べると、ここでは低減
率はやや多くなっている。元応三年という年号
との矛盾は無さそうである。後出の蓮徳寺塔や
射手神社、延寿院の各塔と比較すると面白いだ
ろう。

 相輪の上部と塔身本体が喪失しているのは惜
しいが、端麗な塔であったことを十分伺わせて
くれる秀塔だろう。   
 
 
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天照寺宝篋印塔
    
    三重県伊賀市青山霧生
      
   
 
 青山町の阿保から南東へ、川上川に沿って布
引峠方面へ向かって8キロ程登っていくと霧生
の里に着く。曹洞宗の名刹で、桜の名所として
も良く知られているそうだ。
 境内奥の歴代住職の墓と並んで、写真の宝篋
印塔が建っている。相輪の九輪部分に欠損があ
る以外は、全てが完備した整然とした像容であ
る。
 相輪は、宝珠、請花、九輪(現在は五輪)、
請花、伏鉢と、形よくまとまっている。
 笠は、上六段下二段、輪郭付き二弧の直立し
た隅飾、で構成されており、やや様式化された
傾向はあるものの、鎌倉末期から南北朝初期に
かけての美しい宝篋印塔の特徴を備えている。
 寺の案内板には、「隅飾が直立しているので
南北朝」と記されていたが、やや認識不足だろ
う。隅飾が直立する鎌倉期から南北朝に時代が
下がる程、両側への反り具合が大きくなる、と
いうのが定説だからである。

 塔身には金剛界四仏を象徴する梵字種子が、
やや彫りは浅いものの、薬研彫りで刻まれてい
る。
 基礎の四方には、輪郭を巻いた中に格狭間を
意匠している。
 蓮華上部の花弁が水平状であるのは鎌倉期の
特徴でもあるので、総合的に鎌倉の性格を有し
た南北朝初期とするのが適正かもしれない。
 崖地の上部に建つ、正平十七年 (1362) 南北
朝の銘のある五輪塔も見逃せない。
 
 
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蓮徳寺石造十三重塔
    
    三重県伊賀市湯屋谷
      
   
 
 伊賀上野から名張へ通じる国道中程から、ち
ょっと西側へ入った所に建つ真言宗の寺院であ
る。平安期に行基が開基したと伝わる古刹で、
本尊は薬師如来(秘仏)とのことであった。
 残念ながら脇侍の日光・月光菩薩像(重文)
も拝観できなかった。

 写真の十三重塔は、新装成った大石段を登っ
た境内の直ぐ右手に建っている。材質は花崗岩
である。基礎は、銘文や年号など、一切の文字
は刻まれていない無地である。
 塔身(初重軸部)の四方には、金剛界四仏を
象徴する梵字が、線彫りの月輪内に彫られてい
る。ちなみに正面は、阿閦如来を象徴する「ウ
ーン」で、左隣は「タラーク」、宝生如来を象
徴する梵字である。
 各層の屋根はやや厚めの軒口で、両端の反り
方は穏やかに見える。軒下に垂木型がある。
 屋根幅の低減率は、上へ行くほどほっそりと
する低減率を示しており、前出の安楽寺十三重
塔より低減していることから、少なくとも鎌倉
後期という推定は成り立つのではないか、と思
う。後出の射手神社の塔に似ているような気が
する。
 相輪は、伏鉢、請花、九輪の四輪目までしか
残っておらず、上部は完全に喪失している。
 伊賀・名張地方には、中世の十三重塔が多く
分布しており、石造品愛好家には興味尽きぬ一
帯である。  
 
 
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市場寺五輪塔
    
    三重県伊賀市菖蒲池
      
   
 
 前述の蓮徳寺から北へ2キロほど、伊賀上野
から名張へ向かう名張街道から東へ入った所に
建つ真言宗の寺院である。
 本堂が民家と屋根続きで、やや荒廃したイメ
ージがあるが、宝物庫には国の重要文化財に指
定された平安期の仏像(木造阿弥陀如来坐像、
木造四天王立像)が保存されていることで知ら
れているのである。

 五輪塔は、境内一画の鎖で囲った芝地に、写
真の様な端麗な姿で建っていた。
 五輪塔自体は、数枚の石を寄せ面を取った基
盤と、その上の大和様式を思わせる反花座に載
っている。丁寧な仕事をした基盤に載る「容易
ならざる五輪塔」と推察したが、銘文など一切
無いので由緒は不明のままである。
 やや背の高い矩形の基礎(地輪)、少し偏平
だが張りのある球形の塔身(水輪)、軒口が洗
練された曲線で、両端がやや強く反った笠(火
輪)、均整が取れてふっくらとして優美な請花
(風輪)と宝珠(空輪)は、五輪塔の方形、円
形、三角形、半円形、団形を象徴している。こ
れは仏教の五大元素(地水火風空)を表すもの
とされるが、ここでは全ての部材が見事に調和
がとれたフォルムとなっている。
 言い方を変えれば、無難に様式化された、と
も言えるので、鎌倉期の特徴を伝える南北朝初
期の作品である、と勝手に決めていた。どこか
に書いてあった事柄を転写しても意味が無いの
で、見て感じたことをそのまま書かせていただ
いた。
 
 
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仏土寺多宝塔
    
    三重県伊賀市東高倉
      
   
 
 この寺の境内には二基の石造多宝塔が並んで
建っており、どちらも5m前後の堂々たる姿を
誇っている。作例の少ない石造多宝塔として、
まことに貴重な遺構である。
 写真は比較的改修の少ない東塔だが、相輪と
基礎の大半は江戸中末期に地震による修復が成
されたらしい。
 紀年銘は無いのだが、屋根の勾配が比較的ゆ
るいことと、軒反りが屋根の先端にあることか
ら、本体は鎌倉後期の作と推定出来る。
 基礎が五段であることと、上層に加え下層の
屋根の下にも二段の段型が作られているので、
とても大きな塔になっている。
 塔身の梵字は金剛界四方仏の種子で、写真に
は左側の阿シュク(ウーン)と右側の不空成就
(アク)が写っている。
 下層屋根上の饅頭型は、独特の丸味を帯びた
鏡餅のような別石で造られているので不思議な
印象を受ける。石工の創造だったのだろうか。
 それにしても多宝塔といい宝篋印塔といい、
妙な形態でありながら、石塔としての本質的な
美しさを今日まで伝えて来れたことは、何とも
不思議としか言いようがない。
 
 
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射手神社石造十三重塔
    
    三重県伊賀市長田
      
   
 
 旧上野市中心街から真西へ3キロ行ったあた
りが長田で、その集落の外れにこの古い社が鎮
座している。祭神は応神天皇で創祀が天武天皇
の御世と伝えられる程、由緒深い古社である。
 西行がこの地で詠んだ「あづさ弓、引きし袂
(たもと)も力無く、射手の社に、墨の衣手」
という歌が気に入っている。

 朱塗りの鳥居をくぐり、参道に入って直ぐの
左右に各一基づつ、南北の石造十三重塔が建っ
ている。年代、手法、形状などほとんど同じだ
が、何故か写真の南塔だけが国の重要文化財に
指定されている。
 無地で方形の基礎の上に初重軸部が載ってお
り、月輪の中に金剛界四仏の種子(梵字)が薬
研彫りされている。写真はウーン(阿しゅく)
である。
 全体的には屋根の幅の逓減率が程々で、つま
り下と上の差がまあ中くらい、ややほっそりと
した姿に見えるのは、かなり鎌倉末期的ではあ
る、といえそうである。
 しかし、軒の反り具合には鎌倉後期の力強さ
が見え、軒の厚さもしっかりとしていることか
ら、限りなく鎌倉末期に近い後期、と勝手に推
察しておくことにする。
 銘文さえ無ければ素人の出番であり、これが
楽しみでやっているとも言えるのである。
 相輪が後世の補充であることも含め、北側の
塔もまったく同様であろう。
 
 
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来迎寺宝塔
    
    三重県伊賀市上友田
      
   
 
 滋賀県の甲賀市に接する旧阿山町の集落で、
現在は合併して伊賀市となっている。
 法然上人伊賀新二十五霊場の一つで、近年改
修された近代的な本堂が建っている。

 門を入って直ぐ左手に、この瀟洒な宝塔が建
っており、はっとするような美しさに思わず惹
き付けられてしまった。
 堂々とした相輪は完存しており、露盤に載る
姿は素晴らしい。
 笠は、屋根の四隅に降棟が意匠されており、
緩やかな傾斜が軽快な印象を創り出している。
軒裏に二重の垂木型が彫られており、両端の反
りは微妙である。
 首部には高さが有り、端正なイメージを醸し
出しており、その下に柱や欄干を彫った勾欄が
円形に巻かれている。
 塔身軸部の四方には、宝塔ならではの扉形が
刻まれている。
 基礎三面には輪郭を巻いた格狭間が彫られ、
判読は出来なかったが、応長二年 (1312) 鎌倉
後期の年号が刻まれているそうだ。
 基礎の載る基壇には反花座が意匠されている
が、これが何とも剛毅な複弁の蓮座である。
 全体に均整のとれた美しい宝塔で、伊賀では
一押しのとても気に入った石塔の一つである。
 
 
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西光寺宝篋印塔
    
    三重県伊賀市槇山
      
   
 
 伊賀市の最北西端、甲賀市との市境に近い山
里である。余り知られてないが、この寺には市
文化財に指定された五輪塔と写真の宝篋印塔が
ある。鎌倉後期と思われる五輪塔はやや崩壊が
見られるが、大和系の反花座に載る豪快な塔で
ある。

 ここでは、気に入った宝篋印塔を掲載する。
 境内の五輪塔の横から登って行った、裏手の
高台にある墓地の中に、写真で見る通り、秀麗
な宝篋印塔が建っていた。
 三段造りの基壇と大和様式の反花座に載って
おり、ひと目で重要だった人物の供養塔だった
であろうことが想像される。

 基礎には銘文などは彫られていない。
 二段の上に塔身が置かれ、四方に金剛界四仏
の梵字が剛健で雄渾な書体で薬研彫りされてい
る。写真の梵字はタラークで、宝生如来を象徴
しており、左回りでウーン(阿閦)アク(不空
成就)キリーク(弥陀)と続いている。
 下二段上六段の笠は、輪郭の付いた無地で二
弧の隅飾が四隅に立っている。微かに外側へ傾
斜している様だが、ほとんど垂直だと言える。
 相輪は、上の宝珠から下の伏鉢まで、見事に
揃っていて美しい。
 全体にはやや整い過ぎた力弱さが感じられ、
力強い梵字や直立する隅飾などから、鎌倉後期
の末期に近いあたりではないかと推量した。   
 
 
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穴石神社宝篋印塔 
    
    三重県伊賀市石川
      
   
 
 前掲の西光寺の南、山道を数キロ行ったここ
もかなりの山里である。
 鄙にも稀とも言うべき神社だが、実は延喜式
にも載った由緒ある社だった。
 入口の鳥居の脇、植栽に囲まれてこの宝篋印
塔が建っていた。当然ながら、何時の頃か、近
隣の仏教寺院から移築されたものと思われる。

 基礎にずんぐり形の風変わりな格狭間が彫ら
れているのだが、摩滅してよくは見えない。更
に延文四年 (1359) 南北朝中期の年号が彫られ
ているらしいのだが、全く判読できない。
 二段上の塔身四方には、金剛界四仏の種子梵
字が、輪郭を巻いた中に陰刻された月輪内に薬
研彫りされている。力弱い書体は、いかにも南
北朝という時代を表しているのだろう。
 下二段上六段の笠、直立する輪郭付二弧の隅
飾り、完存する相輪など貴重な遺構と言える。
ただ笠の背の高さや屋根幅の細さなど、随所に
力弱さが見えているのは、これも時代の流れだ
ったのだろう。

 実は、小生共がこの宝篋印塔を訪ねたのは、
平成28年の5月だったのだが、同年10月に
この宝篋印塔の相輪部分が盗難に遭ってしまっ
たそうである。全体が揃っていてこその石塔で
あり、一刻も早く相輪を元へ戻していただきた
いものである。
 
 
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丈六寺五輪塔
    
    三重県名張市赤目町丈六
      
   
 
 名張市の赤目滝へと向かう最寄りの近鉄赤目
口駅近くに、丈六という集落が在りその西端に
このお寺が建っている。周囲が妙に明るく整備
されているが、8世紀初頭に空海が開基したと
も伝えられる古刹である。
 本堂前の境内左手に、写真の様な堂々とした
五輪塔が建っていた。

 基礎(地輪)に彫られた梵字アクの横に、正
応四年 (1291) 鎌倉後期の年号が確認されてい
るのだがはっきりとは判読出来なかった。
 水輪のふっくらとしてやや扁平な球形、屋根
の落ち着いた傾斜や、軒口両端の古式で緩やか
で重厚な反りを見せる火輪、はちきれそうに大
らかな形の空風輪など、年号に相応しい力強さ
と均整の取れた美しさを感じさせてくれた。

 五輪の各面に梵字が彫ってある。これは五輪
塔四方門という種子で、東の発心門(キャ・カ
・ラ・バ・ア)、南の修行門(キャー・カー・
ラー・バー・アー)、西の菩提門(ケン・カン
・ラン・バン・アン)、北の涅槃門(キャク・
カク・ラク・バク・アク)が方角の上から順番
に彫られている。
 上記が正しい配列で、例えばアーの上はバー
でなければならないところが、なんとバになっ
てしまっている。
 欠損した箇所を背後に回してしまったため、
各門の梵字の配列が狂っているのだった。本末
転倒何をか言わんや、だろう。即刻元通りの姿
に戻してほしいものである。
 
 
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延寿院十三重塔
    
    三重県名張市赤目町長阪
      
   
 
 赤目四十八滝の遊歩道登り口に建つ天台宗の
寺院で、本尊は赤目不動として知られている。
 本堂手前の小高い所に、この十三重塔が建っ
ている。苔むし、かなり崩壊も進んでいる。

 塔身は全くの無地で、梵字や銘文は一切見ら
れない。時代考証は難しいが楽しみである。
 各層の屋根は軒の厚みもしっかりとし、軒裏
には垂木型が彫り出されている。軒口両端の反
りは品格ある力強さを示しており、鎌倉後期を
想定するのに十分だろう。
 明らかなのは八層目だが、何層かの屋根に後
補部分があるらしい。詳細は調査不足であり、
調べる必要はありそうだ。
 屋根の最上部に露盤が見える。相輪が失われ
ているのが残念である。深い老樹を背景にし、
きっと壮麗な建ち姿であったのだろう。
 ずっと問題にしてきた屋根幅の低減率だが、
ここでは前出の安楽寺の低減率に似ているよう
に思われる。つまり、鎌倉後期と南北朝初期の
真ん中あたりと推察できるのだが、あくまで低
減率という要素だけが根拠なので確定とまでは
いかない。限りなく南北朝に近い鎌倉末期、と
いうのが小生の出した結論である。

 境内には、国の重要文化財に指定された、徳
治二年 (1307) 鎌倉後期の年号を持つ石燈籠が
在るが、装飾の美しい名品、と言えるだろう。
 
 
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