石塔紀行(3) 
    層塔・宝塔・
  宝篋印塔・五輪塔
  
近江 (東部)
    の石塔巡拝
  
 
   
 
  旭野神社石造七重塔基礎
    
東近江市蒲生町 
 
 近江地方(滋賀県)には石塔の数が圧倒的に多
いので、便宜上東西に分けて掲載した。
 湖北の西浅井町・木ノ本町から、東近江市・日
野町を含む琵琶湖以東を、近江(東部)としたも
のである。

 写真は近江紋様と呼ばれる彫刻で、石塔の基礎
部分に彫られた孔雀の図像である。
 近江地方独特の意匠で、格狭間の中に描かれる
が、向かい合った二羽のケースもある魅力的な装
飾である。
 
 
 
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  大浦観音堂五輪塔
    
       長浜市 <西浅井町> 大浦
     
 
   
 
 琵琶湖の最北端に突き出た岬は葛籠尾(つづら
お)崎と呼ばれ、竹生島とは目と鼻の先である。
岬の付け根に当る東の入江が塩津であり、西の入
り江が大浦である。
 大浦集落の中ほどにこの観音堂が在って、俗に
腹帯観音堂とも呼ばれている。
 五輪塔は観音堂の右手奥に、小五輪塔や板碑や
石仏群と並べて祀られている。
 最初の印象は、間違いなく古い塔だと感じたこ
とだった。全体的なシルエットが、いかにも古式
の風格とでも言えそうな堂々たる落ち着きを示し
ていたからだろう。
 ふっくらとこの上なく形の良い空輪(宝珠)、
屋根の緩い傾斜と微かな軒反りを示す火輪(笠)
どっしりとした膨らみを示す水輪、厚みの無い地
輪(基礎)など、全ての要素が鎌倉中期は下らな
いであろう古式を示していることに気付かされる
のである。
 火輪の一面に梵字が見え、また基礎にはウーン
らしい種子などが各面に彫られているが、判読出
来る状況ではなかった。或る本によれば「シリキ
エン」という梵字が彫られており、それが文殊菩
薩を象徴していると記されているのだが、小生に
は確認出来なかった。
 銘は無いが、近江屈指の古さと美しさを持つ名
五輪塔のひとつだろう。   
 
 
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  長福寺跡五輪塔
    
       長浜市 <西浅井町> 菅浦
     
 
   
 
 白洲正子さんの名著「かくれ里」に描かれた菅
浦の里は、前述の大浦から葛籠尾(つづらお)崎
という岬の先端に向かって湖岸を暫く走った行き
止まりに在る、小さな港を中心とした素朴な集落
である。
 この里は、中世の自治組織である“惣”の記述
として著名な「菅浦文書」で知られている。又、
何故かここには天平期の悲運の天皇と言われる淳
仁天皇の御陵と伝わる場所が、須賀神社の後方に
在る。御陵までの石段は、靴を脱いで裸足で上ら
ねばならなかった。
 集落の中央に広場があり、そこに「淳仁天皇菩
提寺菅浦山長福寺跡」と記された石碑が立ち、傍
らに写真の五輪塔が竹垣に囲まれて建っていた。
 淳仁天皇と菅浦に関する伝説の真偽は不明なの
だが、ここに在る五輪塔はどう見ても天皇が在世
した奈良時代末期とは丸で関係は無さそうだ。御
陵も在るので供養塔の可能性も薄く、直接天皇に
結びつく要素は全く無さそうである。
 肩が張って硬い感じの空輪、急傾斜の屋根とぎ
こちない軒の反りを示す火輪、上部が膨らんだ壺
型の水輪、背の高い地輪などといった特徴は、明
らかに南北朝以降の様式を示すと考えられる。
 だが、さしたる名品でもないこの五輪塔は、ほ
とんど何処にも紹介されてはいないが、伝説に満
ちた“隠れ里”の雰囲気を五輪に染み込ませた、
歴史の証人のような石塔と感じられてしまったの
だった。叙情的な旅人の単なる感傷に過ぎないの
だろう。
 
 
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  西徳寺七重塔
    
       長浜市 <木ノ本町> 赤尾
     
 
   
 
 この寺の在る場所は、信長の死直後に覇権を争
った羽柴秀吉と柴田勝家の合戦場となった賎ガ岳
の南麓に当たる。
 寺の本堂北側に池泉庭園が在り、かつて庭を目
的に訪ねたことがあったので、今回はそれ以来の
再訪ということになった。

 本堂の東側やや小高い場所に、こんもりと繁っ
た樹林を背景にしてこの七重石塔が建っている。
 高さは3m30とのことで、近年倒壊したもの
が再建されたのだそうだ。
 基礎の四面は、格狭間の中に宝瓶に挿された三
茎蓮が描かれている。近江らしいその意匠の一面
の脇に、弘安十年 (1287) という鎌倉中期の年号
が彫られている。近江の在銘層塔の中では、松尾
寺 (米原市)に次ぐ最古の部類に入るだろう。
 相輪が半壊しており、また上部の屋根の一部が
破損しているのが惜しいが、各層の軒は力強い反
りを見せている。また、屋根の裏に垂木型を造り
出しており、石工の丁寧な仕事が示されている。
 初重軸部(塔身)の四方には、彫り込んだ舟形
光背の中に四方仏像が厚肉彫りされている。
 松尾寺九重塔のような洗練された美しさとは別
の、やや粗野ながら鎌倉期のおおらかさを十分感
じさせる魅力的な石塔である。
 
 
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  宝厳寺五重塔
    
       長浜市竹生島
     
 
   
 
 琵琶湖に浮かぶ竹生島は、以前は東浅井郡びわ
村に属していたのだが、現在は合併に伴って長浜
市に編入されている。どうもピンとこないが、致
し方ない。

 船着場から弁天堂へと続く石段を真っ直ぐ登り
きった所に、低い柵に囲まれてこの石塔が建って
いる。

 苔むしているので明確には見えないのだが、基
礎には輪郭を入れ、その中に格狭間が彫られてい
るようだ。蓮華などの文様は見当たらない。
 初重軸部には、舟形光背の中に四方仏坐像が半
肉彫されている。

 年号等の銘は刻まれていないようだ。
 年号が無いと、我々素人にも出番が回って来た
ようで、つい張り切ってしまうのは何故だろう。
 各層の笠は割と肉厚であって、両端に反りの少
ない大らかな姿を示している。
 どうやら、鎌倉中期から後期にかけたあたりの
年代が想定できそうである。

 相輪が当初のものかどうかは不明だが、全体的
に泰然とした好ましい石塔である。
 
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  八坂神社九重塔
    
       米原市三吉
     
 
   
 
 名神高速道路の米原インターを出て、中山道を
少し関が原方面に進んだ右奥が三吉という集落で
ある。郵便局や小学校に息郷という名前が付いて
いるので、従来はそれが町名だったのだろう。
 その小学校の東側の田圃を隔てた山裾に、この
神社がひっそりと祀られており、社殿へ登る石段
の右側にすっきりとした形の九重石塔が見えた。

 初重軸部には舟形光背の中に四方仏が浮彫され
ており、正面の像の左に元亨三年 (1323) 鎌倉後
期の年号が刻まれている。
 基礎は正面のみに、輪郭を巻いた中に格狭間が
意匠されており、近江らしい三茎蓮文様が彫られ
ている。

 全体像が優雅で伸びやかに見えるのは、各層の
屋根の厚さが薄く横に長いことに由来するからだ
ろう。或いは、鎌倉期の重厚なスタイルから、端
正で華奢な南北朝様式へと移行していく端緒が見
えているのかもしれない、とも思えた。

 この辺りは中山道の番場宿に近く、かすかに旧
道の風情の残った情緒在る集落が続いている。
  
 
 
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  松尾寺九重塔
    
       米原市上丹生
     
 
   
 
 前述の三吉から中山道を更に東へ行った次の集
落が醒ヶ井で、旧中仙道の宿場であった。 
 松尾寺に行くにはそこから丹生川渓谷に沿って
南へ4キロの山中に在る醒ヶ井養鱒場まで行き、
さらに林道をかなり登らねばならない。
 林道は山門までで、車を止めるとそこからまた
急坂と急な石段となり、ようやく本殿にたどり着
くことが出来た。
 寺は無住だが、境内は以外に整備されていた。
 車とはいえ難儀な道中ということもあって、思
い入れの濃かった石塔とは、なんとも感動的な出
会いとなった。

 いかにもどっしりと安定した、秀麗かつ堂々た
る石塔である。鎌倉そのもの、という第一印象を
感じたが、文永七年 (1270) 鎌倉中期という銘が
あるそうで、素人の感も捨てたものではない。
 鎌倉中期ならではの反りの小さな肉厚の笠、舟
形にくり抜いた光背の中に浮彫された見事な四仏
や、基礎の格狭間に彫られた宝瓶三茎蓮など、全
てが卓越した古塔のみが示すであろうオーラのよ
うな輝きを放っている。
 相輪の先は宝珠で、通常はその下に請花がある
のだが、ここではその代わりに四方仏坐像が意匠
されているのが珍しい。
 近江屈指の一級品との出会いだった。
 
 
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  徳源院宝篋印塔群
    
       米原市清滝
     
 
   
 
 伊吹山の南麓、旧山東町の清滝にある名刹とし
て知られる。旧中仙道の柏原宿から、山間に入っ
た静かな聖域である。

 三重塔の奥に広大な墓所があり、石段を登った
細長い高台に、先祖代々近江の守護職だった近江
源氏佐々木京極氏の墓塔が十八基、横一列に並ん
でいた。
 大小の差異はあるものの、いずれも大型の宝篋
印塔であり、古塔を中心に居並ぶ光景は誠に壮観
だった。
 初代京極氏信塔の永仁三年(1295)から、十八代
高吉塔の天正九年(1581)までが揃っている。時代
の変遷に伴って、宝篋印塔の様式がどう変わって
いくのかを学ぶ最良のテキストとなっている。
 写真は右が初代氏信塔である。隅飾は三弧で、
蓮華座に月輪内の梵字「ア」が彫られている。塔
身には堂々たる筆致の金剛界四仏種子、基礎の格
狭間には近江特有の三茎蓮華を見る事が出来る。
基礎上部には反花も彫られており、鎌倉後期らし
い重厚さの中に、卓越した意匠の装飾を施した傑
作であると思う。
 左は三代貞宗塔で嘉元二年(1304)の銘のある、
これもほぼ同様の意匠で飾られた鎌倉後期の秀逸
な塔である。
 ちなみに、十九代以下京極高次までの宝篋印墓
塔は、手前の下の段に並んで建っていた。
 
 
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  西明寺宝塔
    
       甲良町池寺
     
 
   
 
 湖東三山の一つとして著名なこのお寺には、深
閑とした広大な寺域に国宝建築の本堂と三重塔が
重厚な姿をとどめている。
 三重塔の脇から裏手の山へ登りかけた辺りに、
この壮麗かつ泰然とした宝塔が祀られていた。

 完存する相輪が美しいし、笠はずっしりとした
貫禄を示すかの如くおおらかである。ここからは
鎌倉期ならではの豪放な気質が感じられる。
 一方、隅棟の瓦彫刻は繊細であり、軒の下線が
上線両端の反りの大きさに比べ反りがほとんど見
られないのは、やや時代が下るのではないかと思
わせる要素だった。

 塔身に銘文が在り、嘉元二年(1304)という鎌倉
後期の年号が確認出来た。豪放でおおらかな鎌倉
期の造形美を残しつつ、やや技巧が中心となって
しまった南北朝への予兆を感じさせる様な、ある
意味では最も完成された様式とも言えるだろう。
 塔身上部には勾欄は無く、縁板状作り出しがあ
り、写真でも判るように四方に扉形が彫られてい
る。
 基礎四方には、上下かまちと左右の束を作り出
した壇上積式に格狭間を設け、その中に開蓮華が
浮彫りにされている。近江では特に類例の多い、
意匠の一つである。
 全体的に完成された、近江を代表する秀麗な遺
品の一つと言えるだろう。
 
 
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  若一神社宝塔
    
       甲良町正楽寺
     
 
   
 
 甲良町は戦国の大名佐々木京極氏や尼子氏の出
身地として知られ、日光東照宮の建築に携わった
江戸時代の甲良大工の名でも知られている。
 正楽寺の集落には、北朝の武将であった佐々木
京極道誉の菩提寺である勝楽寺がある。
 この若一(にゃくいち)神社は、かつて勝楽寺
の境内に在った鎮守社で、近年(大正八年)にな
って現在地に移築されたものだそうだ。
 本殿前に建つ写真の宝塔も、神社の移転と同時
に移されたのだという。
 この宝塔は高さ
2.2mほどで、堂々としたその佇
まいに感動した。専門書にも滅多には紹介されて
いない、言わば“隠れ名品”の可能性もあったか
らであった。
 ある資料によれば、或る人物が父の十三回忌供
養を目的に造立したとの刻銘が在り、また延慶四
年 (1311) という鎌倉後期の年号も刻まれている
そうである。確認を試みたが、言われてみれば程
度の判読しか出来なかった。
 宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢と完存する相輪
が露盤に載っている。
 緩やかな傾斜の屋根、厚い軒とかなり剛毅な反
りは時代に相応しい美しさを示しているだろう。
笠裏の二段の垂木型が、重厚さを演出している。
 軸部はほぼ円筒形で、開かれた扉型が彫られて
いる。基礎には、格狭間の中に近江式文様の開蓮
花が意匠されている。  
 
 
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  市会所宝篋印塔
    
       愛荘町市
     
 
   
 
 愛荘町は旧愛知川町と秦荘町とが合併して出来
た町で、南側で東近江市の能登川と五個荘に接し
ている。
 この市(いち)という集落は旧愛知川町に在っ
て、JRと近鉄の愛知川駅から東に200mほど
歩いた辺りの住宅地である。県道から少し入った
所に八幡神社があり、隣接して市の公民館とも言
うべき会所が並んでいる。宝篋印塔はその前の広
場に建っていたのだった。

 堂々たる佇まいではあるが、欠落した相輪部分
に他塔の笠を載せているセンスが信じられない。
 笠上は六段、笠下は二段で、隅飾は二弧輪郭付
きでやや外側に傾斜しているという、格別変わっ
た意匠ではないが、量感に満ちておりいかにも洗
練された笠だなあと感じた。隅飾内には全て、蓮
華座上に小月輪が彫られ、中に梵字「ア」が刻ま
れている。

 塔身には、蓮華座に載る月輪内の種子が彫られ
ている。写真の梵字は「ウーン(阿しゅく)」、
右の陰部分は「アク(不空成就)」、つまり金剛
界四仏の種子が薬研彫りされているのである。
 基礎上は二段で側面を壇上積様式とし、四面に
格狭間を彫り、三面に三茎蓮、残りの一面に二片
の散蓮華を配してある。いかにも近江の宝篋印塔
といった意匠で、この地を旅する楽しさを彩って
いると言えるかもしれない。   
 
 
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  真照寺宝篋印塔
    
       愛荘町東円堂
     
 
   
 
 前述の愛知川の市から、南へ約2キロほど直進
した辺りに東円堂という集落が在る。
 家並みに隠れるようにして、この浄土宗寺院の
お堂が建っている。目的の宝篋印塔は、本堂の前
にさりげなく建っていた。

 この宝篋印塔の最大の特徴は、塔身の上、つま
り笠の下部分と、塔身の下、つまり基礎の上部分
の両方に、単弁の反花が意匠されていることであ
る。笠下に彫られることも珍しいし、基礎上の反
花が単弁であることもまた誠に珍しいだろう。
 上下の蓮弁で塔身を挟むという、こんな優雅な
意匠の宝篋印塔が人知れず守られてきたことに感
動した。美意識だけではなく、篤い信仰心が伴わ
なければ成せる業ではないだろう。
 基礎は壇上積式に格狭間、中に三面は開蓮華、
一面に宝瓶三茎蓮が浮彫されている。
 塔身には、金剛界四仏の種子が彫られている。
写真の梵字は「タラーク(宝生)」である。
 笠は上六段で、隅飾は輪郭を巻いた二弧、ほぼ
垂直に立っている。
 残念ながら無銘で制作年代は不明だが、隅飾や
格狭間の意匠からも鎌倉後期が推定できる。
 喪失した相輪に代えて他塔の部品が載せられて
いるが、この風潮何とかならないものだろうか。
 
 
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  広照寺宝篋印塔
    
       長浜市 <西浅井町> 大浦
     
 
  
 
 旧愛知川町の畑田という集落に、この浄土宗の
お寺が建っている。境内に隣接して墓地があり、
近世の墓碑が並ぶ最奥に大小三基の宝篋印塔が祀
られている。
 写真の宝篋印塔が最も大きく、かつ保存状態の
良い塔で、他の二基はかなり古そうだが破損摩滅
が激しいのが残念だった。
  
 宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢が完備した相輪
が堂々としており、上六段下二段の笠も重量感に
溢れている。
 中は無地だが輪郭を巻いた隅飾は、微かに先端
に反りを見せるものの、ほぼ垂直に立っているよ
うに見える。このことだけでも、鎌倉後期は下ら
ない、と言えるだろう。
 塔身には、金剛界四仏の種子が、月輪の中に薬
研彫りされている。かなり繊細な彫りであること
から、後期でもかなり末期に入ってからの制作か
もしれない。
 基礎上には複弁反花座が意匠されており、それ
なりに格調高い意味合いを示す石塔であることは
間違いないだろう。
 壇上積式の基礎には、鎌倉期らしい形の格狭間
が意匠され、近江の三茎蓮が彫られている。

 写真の左端に、もう一基の宝篋印塔が写ってい
る。    
 
 
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  大城神社御旅所五輪塔
    
       東近江市五個荘金堂町
     
 
   
 
 旧五個荘町の金堂という集落の町並は、近江商
人発祥の地のひとつとされるだけに、風格の有る
豪商の邸宅が連なっている。
 菅原道真を祭る大城神社の御旅所の前の広場は
金堂の馬場と呼ばれ、その隅に写真の五輪塔が祀
られている。
 高さが
2m12ある大きな五輪塔で、地輪に正安
二年 (1300) という鎌倉後期の初めの年号が彫ら
れている。在銘の五輪塔としては、近江最古とさ
れている。

 地輪は、写真からも判る通り、二石を合わせた
珍しいものである。
 水輪は、上部がやや膨らんだ壺形の球形で、縦
長の印象を受ける。
 火輪は、笠屋根の程良い傾斜と反り、やや厚い
軒口の反り具合が、鎌倉中後期の落ち着いた様式
を示している。
 空輪は、ふっくらとした形の良い宝珠形で、五
輪が完璧に揃った姿はやはり美しい。
 四方に五輪塔四門の梵字が彫られているが、摩
滅気味なのが惜しまれる。写真で見る通り、空風
輪部分の梵字の方向が少々ズレているようだ。
 
 
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  八幡神社五重塔
    
       東近江市五個荘石塚町
     
 
   
 
 金堂の大城神社同様、佐々木氏観音寺城の鬼門
守護神として崇拝を受けたと言われている鎮守社
である。
 境内の左奥、社務所の前にこの石造五重塔が建
っていた。格別囲いなどがしてあるわけではない
ので、中世の石塔がさりげなく無防備に置かれて
いることに些か驚いた。

 基礎と相輪は別物と思える。塔身(初重軸部)
の四方には、刳り貫かれた舟形光背の中に厚肉彫
りの四方仏像が彫刻されている。かなり摩滅して
いるが、元来は端正な彫りだったであろうことが
想像される。
 塔身からは、正安二年 (1300) という年号が判
読されているが、これは前掲の金堂の馬場の五輪
塔と全く同じ制作年号であり、双方の作品の間に
石工など何らかの相関関係が存在したかも知れな
い。
 正安という年号は永仁に次ぐ鎌倉後期の初めで
あり、中期の面影を残した優美な雰囲気がこの塔
からも感じられる。塔全体のイメージは、中期末
の西徳寺七重塔(弘安十年)にとてもよく似てい
る。
 摩滅と破損が甚だしいのが残念だが、軒の優雅
な曲線と両端の反り具合からは、漂うような鎌倉
期の美しさを感じ取ることが出来る。
 
 
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  乾徳寺宝篋印塔
    
       東近江市五個荘川並町
     
 
   
 
 旧五個荘町川並という場所にある寺で、東近江
市という陳腐な命名に些かの噴飯を覚えている。
 紅葉の名所として知られる寺だが、江戸時代の
創建なので、何故鎌倉後期の宝篋印塔が存在する
のかは明確ではない。

 この宝篋印塔は墓地の隅に建っているが、近年
発見されて周辺が整備されたらしい。
 何よりも、基礎から永仁五年(1297)という、鎌
倉後期の年号が発見されたことがとても鮮烈だっ
た。
   
 写真で見る通り、基礎には優美な格狭間が作ら
れ、中に素朴な近江三茎蓮が彫られている。
 塔身には、背後をくり抜き半浮彫された四方仏
坐像が意匠されている。
 笠は上部六段で、隅飾の先端が微かに反ってい
る様に見える。三弧の輪郭内にはそれぞれ小さな
月輪が浮き出る様に彫られ、その中に梵字「ア」
が彫られている。
 彫刻装飾が過多かとも思われそうだが、石塔全
体の像容が誠に壮麗であり、繊細な品位も感じら
れることで見事な均衡を保持しているようだ。

 失われた相輪に代わって小五輪塔の部材が置か
れているが、全くの無意味であり、古塔の尊厳を
汚すものと考える。   
 
 
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  百済寺塔身輪式宝篋印塔
    
       東近江市百済寺
     
 
   
 
 湖東三山の一つ百済寺には、先日降った雪が残
っていた。本坊喜見院の庭を見てから、老杉鬱蒼
たる参道の石段を滑らぬように注意しながら本堂
へと登った。
 その名の通り聖徳太子開基という深い歴史を有
していたが、信長の侵攻の際に焼き尽くされ、現
在の堂宇は全て江戸期に再建されたものらしい。

 本堂右手の雪の中に、問題のこの石塔が建って
いた。塔身以外は完璧な宝篋印塔なのだが、塔身
の角が削られて五輪塔の水輪に似た球形となって
いることが最大の特徴である。輪篋折衷と呼ぶ向
きもあるが、これは塔身輪式宝篋印塔または球心
宝篋印塔とでも呼ぶほうが理に叶っているかもし
れない。

 無理矢理組み合わせたのではないか、という危
惧があったのだが、実物を見る限り、相輪・笠・
球心・基礎など完備しており違和感は全く無い。
 塔身の四方仏、直立する隅飾、格狭間の蓮華模
様など、鎌倉期らしい剛健さを秘めた落ち着きを
感じさせる美しい石塔である。
 
 
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  西福寺宝篋印塔・五輪塔
    
       東近江市下中野町
     
 
   
 
 前掲の百済寺同様、旧八日市市と旧永源寺町に
挟まれた旧愛東町に属していたが、合併によって
東近江市に統合された。この下中野地区は、百済
寺からは約2キロという距離にある田園地帯であ
る。
 西福寺は浄土宗の小さな寺院で、隣接する墓域
に数基の石塔が保存されている。
 写真左端の宝篋印塔は、相輪上部を欠くが、上
六段下二段の笠は端正で、輪郭を巻いた隅飾はや
や小さ目ながらほぼ直立していて見事だ。中に梵
字が彫られていたようにも見える。
 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて
おり、上二段の基礎には輪郭内に格狭間が意匠さ
れている。鎌倉後期は下らないものと思われる。
 右端の五輪塔は、なで肩の空輪(宝珠)急傾斜
の屋根(火輪)、やや扁平な水輪などから、南北
朝に近い鎌倉後期という制作年代が推定できる。
 
 
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  曹源寺宝篋印塔
    
       東近江市愛東外町
     
 
   
 
 同じ旧愛東町の外という集落で、後述の霊感寺
の在る旧永源寺町の山上町とは愛知川を挟んで隣
接している。
 曹源寺は集落の中心に在る臨在宗永源寺派の寺
院で、写真の宝篋印塔のほかに美しい宝塔が本堂
横の築山の中に建っている。
 宝篋印塔は何とも美しい塔で、いかにも古色蒼
然という印象を受けた。
 残念なことは相輪が後補であることだが、最初
に目に付いたのが笠の隅飾が軒と一体に造られて
おり、きりっと垂直に立っていることだった。側
面に仕切り段の無い“のべ作り”と呼ばれるもの
で、馬耳状の一弧無地の隅飾は八日市の妙法寺薬
師堂の宝篋印塔と同じ作りである。
 上七段というのも珍しいが、重量感に満ちた笠
は、実に堂々としていて美しい。
 上下各二段に挟まれた塔身は、彫刻の無い全く
の無地である。
 基礎の側面にも格狭間など一切の彫刻が無いの
が不思議なのだが、全体のシルエットは調和が取
れた傑作だと言えるだろう。
 鎌倉中期は下らない古式の宝篋印塔である。
 もう一基の宝塔は、永仁二年 (1294) の銘の在
る鎌倉後期の作である。   
 
 
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  善勝寺宝篋印塔・笠塔婆
    
       東近江市青山町
     
 
   
 
 旧愛東町の集落のひとつである青山町に在る善
勝寺は、創建時は天台宗だったが、江戸時代に浄
土宗に改められたそうだ。
 寺の入口付近に、写真の宝篋印塔と笠塔婆が建
っている。

 宝篋印塔から受ける最初の印象は、相輪が立派
に完存していることと、笠の部分がやや扁平であ
ることだろう。
 特に笠は、低い段ながら上七段で、これも背の
低い隅飾は馬耳状の一弧無地、軒とはのべ作りに
なっている。形状は対照的だが、様式は前述の曹
源寺宝篋印塔に酷似している。
 下二段の笠の下、上二段の基礎の上に四方無地
の塔身が載っている、というところも全く同じで
ある。どちらが先かは不明だが、こちらも鎌倉中
期頃の制作と見ることが出来そうだ。
 同形式の宝篋印塔がもう一基、墓地の中に保存
されている。

 笠塔婆は文和三年 (1354) 南北朝前期の作で、
高さは約1m60である。刳り貫かれた舟形光背
の中に、定印を結ぶ阿弥陀如来が上下に二尊彫ら
れている。側面に梵字らしき痕跡があるが、磨耗
が激しく判読は不可能だった。
 
 
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  瑞正寺宝篋印塔
    
       東近江市勝堂
     
 
   
 
 勝堂は愛荘町に隣接する地域で、旧湖東町に属
していた町である。町外れに在る勝堂古墳群は、
県下屈指の古墳として知られる。

 集落を南北に貫通する県道に面して、この寺院
が建っている。
 本堂の左奥に幅の狭い墓地が在り、この宝篋印
塔が新旧の墓石と並んで保存されていた。
 石造美術関連の書物には、ほとんど紹介されて
いない石塔だが、一目見てかなり古いな、と思っ
たのが第一印象だった。そう思わせたのは、笠の
形状が最初に目に飛び込んで来たからだろう。
 上六段下二段の笠で、輪郭を巻いた隅飾は三弧
で、中には連座に載る日輪内に梵字が彫られてい
る。種子の配列は判読出来なかった。
 そして隅飾がほぼ垂直に立っている。笠全体が
示す重厚なイメージもあり、明らかに鎌倉中期ご
ろの容貌を示しているのである。
 塔身に彫られた種子は、金剛界四仏を象徴する
梵字で、写真は左がアク(不空成就)右がキリー
ク(阿弥陀)である。反対側には、タラーク(宝
生)とウン(阿しゅく)が確認出来た。
 後日、或る資料で調べたところ、永仁期の制作
とのことで、鎌倉中期という印象はまあまあ近か
ったのか、と感じた次第。
 
 
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  常福寺宝篋印塔
    
       東近江市大清水町
     
 
   
 
 旧愛知川町に隣接する清水地区に在る浄土真宗
の寺院である。この地域には古い寺院が密集して
おり、この辺りが歴史の在る集落であることを物
語っている。
 常福寺はそんな集落の南端に建っている。

 写真の宝篋印塔は寺の背後の墓地のほぼ中央、
歴代住職の卵塔に挟まれて建っている。
 相輪は、先端の宝珠から伏鉢までが完存してお
り、秀麗な塔を一層美しく演出している。
 上六段下二段の笠は均整の取れた姿であり、隅
飾は輪郭を巻いた三弧で、中は無地である。ほぼ
垂直ながら、微妙に外側へ傾いている。
 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて
いる。写真はキリーク(阿弥陀)で、やや弱々し
い筆致ながら、しっかりと彫られている。
 壇上積の基礎四面には格狭間が意匠され、その
中に写真の正面には近江らしい三茎蓮が、他の三
面には開蓮華が浮彫されている。

 銘文が無いので制作年代は不明だが、全体に柔
和な優雅さが感じられること、完璧なまでに均整
が取れている事、微妙な傾斜の隅飾、優美な梵字
などを総合し、小生の印象は鎌倉最末期から南北
朝初期あたりとするのが適当ではないかと思う。
 
 
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  興福寺宝篋印塔
    
       東近江市五智町
     
 
   
 
 五智如来を祀るお寺として知られ、創建は聖武
天皇時代にまで遡る古刹だが、現在は臨済宗永源
寺派の禅寺となっている。
 宝篋印塔は書院裏の庭園内に在るので、御住職
にお願いをして見学させて頂いた。

 相輪は上部に折れた痕跡があるが、修復されて
ほぼ完存している。
 上六段下二段は通常型で、やや小さめの隅飾は
輪郭を巻いた二弧、中は無地である。ほぼ垂直だ
が、微かに外側へ傾斜している。
 塔身には梵字が彫られているいることが確認出
来るが、かなり摩滅しているので判読出来ない部
分もある。写真の梵字は左がア、右がキリークら
しいので、金剛界四仏と考えるのが常識だろう。
 壇上積の基礎上部に、背の高い複弁反花座が意
匠されているのが特徴である。
 基礎四面には格狭間が彫られ、中に開蓮華が浮
彫されている。
 小生は確認出来なかったのだが、資料によれば
嘉暦元年 (1326) 鎌倉後期という年号が刻まれて
いるとのことである。
 全体に均整のとれた秀塔と言えるだろう。
 
 
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  金念寺宝篋印塔
    
       東近江市金屋町
     
 
   
 
 旧八日市市の中心に近い、住宅街の真ん中に在
る浄土宗の立派な寺院である。
 境内を見回して何処にも宝篋印塔は見当たらな
いので、お寺の奥様にお尋ねすると、石塔内庭に
置かれているとのこと。見学をお願いすると、快
く許可を下さり案内までして下さった。
 宝篋印塔は写真のように、庭園内の巨石の上に
置かれていた。
 相輪は九輪の上で折れており、上部が欠損して
いる。請花に蓮弁が彫られており、伏鉢も立派な
ことから、見事な相輪が想像出来る。
 上六段下二段の笠で、輪郭を巻いた二弧の隅飾
の中には、月輪内の梵字が彫られている。梵字は
かなり摩滅しているが、部分的にア字が確認出来
た。隅飾はやや外側に傾斜している。
 複弁反花座に載る塔身の四方には、金剛界四仏
の種子が彫られていると思われる。背後へ回れな
かったので確認出来なかったが、キリーク(阿弥
陀)やタラーク(宝生)があることからそう判断
出来るだろう。いずれにせよ、梵字は彫りが浅く
て力弱く、やや魅力に欠ける。
 基礎の格狭間には開蓮華が浮彫されており、様
式的に前述の興福寺宝篋印塔に類似しているよう
に感じられた。
 しかし、資料によれば、こちらの塔は南北朝期
の制作であるらしい。   
 
 
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  妙法寺薬師堂宝篋印塔
    
       東近江市妙法寺町
     
 
   
 
 旧八日市市の妙法寺という集落の真ん中に、こ
の薬師堂という小さなお堂が建っている。宝篋印
塔はそのお堂のすぐ脇に、花などに飾られて祭ら
れていた。
 塔身正面に彫られた、蓮華に座す阿弥陀如来像
に対する信仰なのかもしれない。
 基礎には、両側の余白を広く取って輪郭線を入
れ、中に格狭間を彫っている。
 全体がどっしりとして見えるのは、笠の隅飾り
が軒と一体となった直立一弧の古式であるからだ
ろう。
 塔身の阿弥陀像左右に、永仁三年(1295)という
銘が入っている。鎌倉後期の最初とはいえ、中期
以前には作例のほとんど無い宝篋印塔の中では、
比較的古い方だといえるだろう。
 相輪は従前には下半分が喪失していたのだが、
今回は完全な形になっているので目を疑ってしま
った。しかし、それほどの違和感は無く、上手に
下半分が修復されたものだろう。
 宝篋印塔に限らず、石塔の部材については種々
の問題が提起される。別の部材が組み合わされて
いるのではないか、という疑問が最大のポイント
なのだが、歴史的時間の中では当然有り得ること
だろう。様式のズレ、材質の違い、美意識の違い
などを基準に判断する、しか方法は無い。
 
 
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  光林寺宝篋印塔
    
       東近江市妙法寺町
     
 
   
 
 前掲の薬師堂と同じ集落で、ここは国道に面し
た寺域の大きなお寺である。
 本堂の南側が広い墓地になっており、宝篋印塔
はその一画に建っていた。近世の墓石が並ぶ中、
この鎌倉時代後期の秀麗な宝篋印塔は古塔ならで
はのオーラを放っていた。

 基礎の四方は格狭間が彫られ、中には蓮華があ
しらわれている。
 塔身には金剛界四仏が、梵字種子によって表さ
れている。やや彫りは浅いが、大らかな筆致であ
る。写真は左が阿シュク (ウーン)、右が不空成
就 (アク) である。ちなみに、あとは阿弥陀 (キ
リーク) と宝生 (タラーク) の二仏である。
 隅飾りは輪郭の付いた三弧形式で、その中に蓮
華座に乗る月輪に梵字「ア」が刻まれている。
 相輪は完存しており、破綻は無い。

 基礎に嘉元二二年とあり、嘉元四年(1306)を表
している。鎌倉時代後期ということだが、全体に
洗練され均整の取れた逸品である。

 近江には石造品の遺構が多く残されており、特
に宝篋印塔に関しては傑作の密集地であるとも言
える。
 
 
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  大蔵寺三重塔
    
       東近江市寺町
     
 
   
 
 永源寺へ向かう国道の北側、愛知川に沿った旧
八日市市東部地区である。
 寺の沿革については全く不明なのだが、この層
塔に関しては或る資料に、その存在のみが記され
ていたことで注目していたのだった。
 狭い寺域の右側に、夥しい数の小五輪塔や石仏
・板碑などが積み上げられた一画があり、その中
央に写真の石造三重塔が建っていた。

 宝珠から伏鉢までが完全に揃った相輪が、屋根
と一体に造り出された露盤に載っている。
 比較的緩やかな傾斜の屋根と、軽やかな反りの
軒口、その両端の美しい反り具合などが、鎌倉中
期もしくは中期にかなり近い後期ごろの作品かと
思われた。
 二・三層目の軸部と屋根は一石から彫られてお
り、別石の形式の多い三重塔としてはむしろ珍し
い多層石塔の様式を備えている。
 初重軸部はほとんど判別出来ないほど摩滅して
いるのだが、おそらくは四方仏の種子が彫られて
いたのだろうと思われる。
 基礎は埋もれていて大半が見えない。
 現在は荒廃した雰囲気に満ちているが、大らか
な古式の風貌を残した秀塔だったことは間違いな
いようだ。
 
 
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  地福寺宝篋印塔
    
       東近江市糠塚
     
 
   
 
 八日市市が五個荘や蒲生などと共に東近江市に
統合されてしまい、石造美術や松尾神社の庭園で
お馴染だった“八日市”という地名が消えてしま
ったのが残念である。
 この寺は旧八日市市の西、近江鉄道の市辺駅に
近い糠塚という田園地帯の集落に在る。
 門を入った直ぐ左側が小さな墓地で、土塀に沿
った場所に建武三年 (1336) という南北朝初めの
年号が記された宝篋印塔が建っている。   
 基礎には開蓮華が浮き出た格狭間が彫られ、複
弁の反花座に載っている。
 塔身の四方には、月輪に囲まれた金剛界四方仏
の種子梵字が彫られている。正面はタラーク(宝
生)で、右がウーン(阿しゅく)である。
 笠は下部が二段、上部は五段で、二弧の隅飾り
には輪郭内の月輪に梵字バン(大日)が彫られて
いる。小振りな宝篋印塔ながら、なかなか気の利
いた装飾だといえる。
 相輪は太い割りに華奢に見えるのは、上部の宝
珠と下部の請花が極端に尻すぼみになっているか
らだろう。これは南北朝の特徴で、豪放な鎌倉期
から典雅な様式へと移行しつつある過渡期の作品
であると言えるだろう。
 左に立つ板碑は、室町期の名号板碑である。
 
 
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  大蓮寺宝篋印塔
    
       東近江市市辺町
     
 
   
 
 浄土宗の大きなお寺で、旧八日市市の西部、近
江鉄道の市辺駅と長谷野駅の間に位置している。
 立派な本堂の右側に、様々な石造美術が集めら
れた場所が有り、鎌倉時代の見事な如来形三尊石
仏などと一緒に、この堂々たる宝篋印塔が祀られ
ていた。

 2m30強はある大きな宝篋印塔なのだが、何
か不自然さを感じるのは、基礎が未完成であるか
らだった。壇上積式が未完成で、側面には上下の
線しか彫られていないのである。
 基礎の載る基壇は、見事な複弁反花で飾られて
おり、やや勿体無い気がする。
 塔身には、金剛界四仏の種子(梵字)が彫られ
ている。写真は左がタラーク(宝生)、右がウー
ン(阿しゅく)である。やや迫力を欠いた筆致な
ので、鎌倉期は過ぎているのだろう。
 上六段、下二段の笠は威厳のあるもので、隅飾
は輪郭を巻いた二弧、中は無地であり、少し外側
に反りを見せている。
 相輪は完存するが、肩の張った宝珠、ややずん
ぐりとした九輪など、これも鎌倉は過ぎているよ
うに思えた。
 総合的に判断して、南北朝期の制作だろうと思
われる。
 
 
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  引接寺薬師堂宝篋印塔
    
       東近江市今崎
     
 
   
 
 前述の大蓮寺とは近江鉄道の長谷野駅を挟んだ
東側に在る集落で、延暦寺領とされた由緒ある地
区である。寺はその当時の創建とされるが、守護
神として鎮座した日吉神社が隣接する。
 神社の参道脇に小さな薬師堂があり、その堂前
に写真の宝篋印塔が置かれている。

 笠や塔身の背面部分がかなり損傷しているが、
残された部分の完成度の高さから、かつての見事
な全体像が想像されてくる。
 相輪は、九輪部分の上部から上が喪失している
が、伏鉢や請花の典雅な形からはさぞ剛毅だった
であろう相輪の姿が推定出来る。

 笠は上六段下二段で、輪郭を巻いた三弧の隅飾
には蓮座に載る月輪内に梵字が陰刻されている。
隅飾は、微かに外側へ傾斜しているが、ほぼ垂直
と言っても良いかもしれない。
 塔身には、四方仏坐像が彫られているが、具体
的な尊像名は小生には判別出来なかった。
 上二段の基礎の側面は壇上積で、中に格狭間を
意匠し、開蓮華を厚肉彫している。
 近江における宝篋印塔の、鎌倉後期の傑作のひ
とつと言える。
 
 
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  養源寺宝篋印塔
    
       東近江市上大森町
     
 
   
 
 大森地区は旧八日市市の南東に在る集落で、特
に上大森の整然とした町並や重厚な建築からは、
裕福な層が住んでいた面影が伺える。
 曹洞宗のこの寺院は、そんな家並の間に瀟洒な
佇まいを見せている。
 門を入って直ぐの右手に、鉄柵に囲まれた鎮守
社と並んでこの宝篋印塔が祀られていた。

 基礎の意匠を見ると、正面と裏面には格狭間内
の宝瓶三茎蓮華、右側南面に開蓮華、左側北面に
珍しい二片の散蓮華が彫られている。基礎上には
複弁の反花座が設けられており、その上に塔身が
載っている。
 塔身には金剛界四仏の種子が彫られているが、
蓮座に載る月輪内の梵字はやや摩滅気味である。
筆致はやや迫力に欠ける。
 笠は下二段上五段で、力強い造形的表現を示し
ている。隅飾は輪郭を巻いた二弧で、中は無地で
あり、微かな反りはあるもののほぼ垂直に立って
いる。
 相輪は、ずんぐりとした九輪部分が好みではな
いが、豪快な伏鉢や複弁の請花、九輪、単弁の請
花、割りとふっくらとした宝珠などが完存してい
る。総合的に見て、鎌倉後期の作と推定できる。
 
 
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  極楽寺五輪塔
    
       東近江市大森町平尾
     
 
   
 
 大森地区から少し離れた一画に平尾の集落があ
り、その中央にこの小さなお寺が建っている。宗
派を調べ損なったが、門前に「不許酒肉入山門」
と刻んだ石標があるので禅宗である事は知れる。
 山門を入った直ぐ左手に、高さ2m65の大振
りな五輪塔が建っている。

 薄い基壇の上に複弁の反花座が設けられ、その
上に載った大和様式の五輪塔である。
 五輪それぞれの四面に、五輪塔四門(発心・修
行・菩提・涅槃)の種子が薬研彫りされている。
写真は正面(発心門)で、上からキャ(空)・カ
(風)・ラ(火)・バ(水)・ア(地)という梵
字が彫られている。梵字の筆致は弱々しい。
 空輪の宝珠はやや肩が張っているがふっくらと
しており、風輪の請花は空輪に合わせて大らかで
ある。
 火輪の笠は、やや傾斜のきつい屋根で、軒口は
両端で極端に反り上がっている。このあたりは、
最も南北朝的な特徴だろう。
 やや扁平な壺形球体の水輪と、地輪(基礎)の
バランスは悪くない。
 無銘ながら、南北朝期の秀作と言えるだろう。
 
 
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  長福寺宝篋印塔
    
       東近江市大森町
     
 
   
 
 平安初期に創建されたと伝えられる天台宗の古
刹だが、現在は小さな本堂だけが残る静かな寺院
である。十一面観音を本尊とし、近江西国三十三
観音霊場の第二十八番札所となっている。
 宝篋印塔は本堂の右手前に、竹垣に囲まれて建
っている。

 相輪は、修復の跡が見られるが、宝珠から伏鉢
までが完備している。
 笠は、上六段下二段で、均整の取れた良い形を
している。隅飾は輪郭を巻いた二弧で、内部は無
地であり、微妙な傾斜は見られるがほぼ垂直に立
っているようだ。
 塔身には金剛界四仏の種子が彫られているが、
かなり摩滅しているために梵字の魅力は余り感じ
られない。しかし全体像のバランスから見ると、
塔身は幅も高さも申し分の無い大きさだと言える
だろう。
 基礎の上部には複弁の反花が意匠されているの
で、優雅な佇まいを誇っている様に見える。基礎
側面は四面ともに輪郭を巻き、格狭間が意匠され
ている。中には近江文様の三茎蓮華が彫られてお
り、背面だけが開蓮華となっている。
 無銘の宝篋印塔だが、総合的に判断して、鎌倉
後期は下らないだろうと思う。
 
 
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  正寿寺宝篋印塔
    
       東近江市柏木
     
 
   
 
 柏木の集落は旧八日市市の東端に位置し、お寺
は民家を少し大きくしたような素朴な佇まいで、
門前に農地が広がっていて牧歌的な雰囲気すら感
じられた。
 本堂左手の植栽の中の基壇に、古びた二基の宝
篋印塔が建っていた。

 写真は向かって右側の塔で、正応四年(1291)と
いう鎌倉後期の初めという魅力的な年号が基礎部
分に刻まれている。
 相輪は、なで肩でふっくらとした宝珠から、請
花、九輪、蓮弁の請花、伏鉢と完備しており、当
初からのものと考えられる。
 笠は上五段下二段で誠に重厚であり、ほぼ垂直
に立つ隅飾は輪郭を巻いた二弧で、中には蓮華座
に載る月輪に梵字「ア」が彫られている。
 塔身には、刳り貫かれた舟形の中に四方仏が半
肉彫りされており、釈迦や阿弥陀を含む顕教四仏
(他は薬師、弥勒)と考えられる。石仏としても
十分鑑賞に値する造形である。
 基礎は上二段で、各面共左右に幅広く輪郭を取
り、中にふっくらとした格狭間を意匠している。
格狭間の形にも時代性が表れており、鎌倉期なら
ではの力強い曲線の張りが感じられる。
 
 
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  多聞院宝篋印塔
    
       東近江市中羽田町
     
 
   
 
 竜王町へと抜ける雪野山トンネルの入口背後の
山裾、木立に囲まれて森閑とした雰囲気に満ちて
この寺院の本堂が建っていた。
 石段を登った本堂の左手に、二基の宝篋印塔が
建っている。写真は塔の右後方から撮ったものな
ので、右側面と背面が写っている。
 手前の塔(西塔)と奥の塔(東塔)は大きさが
全く違うのだが、構造や意匠はとても似ている。
 一部に修復の跡が有るが、相輪は宝珠から伏鉢
まで完備している。笠は上六段下二段、隅飾は輪
郭を巻いた二弧で中は無地、微かに外側に反りが
見られる。塔身には、どちらも金剛界四仏の種子
が薬研彫りされている。
 詳細に眺めて見つけた両塔の差異は、四仏の配
列が違うことだった。時計回りに、奥東塔はタラ
ーク・キリーク・アク(写真右面)・ウーン(写
真左面)と通常であるのに対して、手前西塔はキ
リーク・タラーク・バン <金剛界大日>(写真右
面)・ウーン(写真右面)となっている。
 基礎の上部は、手前塔が二段であるのに対し、
奥塔には複弁反花座が意匠されている。
 両塔共に銘は無いが、様式的に鎌倉後期の制作
が推定出来る秀塔と言えるだろう。
 
 
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  円通寺宝篋印塔
    
       東近江市上羽田町
     
 
   
 
 先述の中羽田町に隣接する上羽田町の集落の中
心に建つ円通寺を訪ねたが、御住職は不在で境内
に宝篋印塔らしき姿は発見出来なかった。
 町の古老に伺い、現在墓地はそっくり集落から
少し離れた、畑の中に設けられた共同墓地に移設
されたと判った。
 墓地の中央、山のように積み上げられた無縁の
墓石や石塔群の最上部に、写真の見事な宝篋印塔
が建っていた。
 完存する相輪、垂直に立つ隅飾、薬研彫りの鮮
やかな梵字、形の良い格狭間などのバランスの良
さが、最初から鎌倉後期の制作を予感させたが、
やはり嘉暦元年 (1326) という銘を塔身に見るこ
とが出来た。
 笠は上六段下二段、輪郭を巻いた二弧の隅飾の
中は無地だった。
 塔身の梵字は金剛界四仏の種子で、写真はアク
(不空成就如来)である。
 基礎上部には複弁反花座が設けられており、側
面には、幅広の輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、
中に開蓮華文様を浮彫している。
 やや様式化しつつあるとは言え、いかにも鎌倉
期らしい毅然たる雰囲気に満ちた美しい塔だ。
 
 
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  霊感寺宝篋印塔
    
       東近江市山上町
     
 
   
 
 愛知川沿いの山上町は旧永源寺町に属していた
が、合併で東近江市に編入された。
 県別地図にも表示されていない観光的には無名
の寺だが、石造美術愛好家にとっては決して外せ
ない重要な場所なのである。
 写真の宝篋印塔は、寺の左奥に在る墓地の一画
に祀られており、乾元二年 (1303) という鎌倉後
期の珍しい年号が記されている。

 基礎は壇上積式で、側面の三面に格狭間が彫ら
れ、その中に最も注目すべき「孔雀文様」が意匠
されているのである。羽を伸ばした横向きの一羽
がそれぞれ描かれている。写真の正面は左向き、
他の二面は右向きである。近江ならではの愛らし
い意匠で、石塔巡りの楽しみの一つとなっている
のである。
 基礎上には複弁反花座が彫られ、金剛界四仏の
種子が彫られた塔身が載っている。写真の梵字は
正面のキリーク(阿弥陀)で、右はタラーク(宝
生)である。
 笠は上五段下二段で、輪郭を巻いた二弧の隅飾
がほぼ垂直に立っている。微妙に外側に反ってい
るようにも見える。
 宝珠に火焔が彫られているとされる相輪は完存
しているが、石質が違うようにも見える。
 
 
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  石塔寺三重塔
    
       東近江市石塔
     
 
   
 
 石造の五重塔や十三重塔は多いが、三重塔の事
例は案外稀少である。
 この石塔は奈良時代の初め、朝鮮百済から来た
石工の仕事と言われ、確かに従来の日本の石塔の
印象からはやや異質な感が有る。
 しかし、全景を眺めると、あたかも優雅に舞い
踊る人の姿のようにも見え、また木造の三重塔の
シルエットにも近い様な気がして来る。

 塔身とは不揃いな相輪部分は後補だとして、各
層の間隔が従来の石塔のものより広いように見え
るが、肉厚で伸び伸びとした屋根の反りと一体化
させることで、見事な均整美を生み出している。

 この清楚で、無駄な装飾の一切無い、研ぎすま
されたような美的感覚に、限り無い尊敬と憧憬を
抱かざるを得ない。これほど美しい石塔を、今ま
で日本では見たことが無い。

 先般韓国を旅する機会を得、扶餘の町の郊外、
長蝦里という農村に残る百済時代の三層石塔を訪
ねたのだが、その全体像は石塔寺のこの塔にとて
もよく似ていると感じられた。
 韓国には統一新羅・三国時代の夥しい数の三層
石塔が残っているが、日本のこの塔も含め百済式
の石塔は誠に貴重である。
 
 
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  石塔寺五輪塔
    
       東近江市石塔
     
 
   
 
 最古の石造三重塔で知られるこの寺だが、一体
全部で何基の石塔が境内に祀られていることだろ
う。三重塔周辺だけでも、無数の五輪塔で埋め尽
くされている感がある。夥しい数の人達の信仰の
累積、としか言い様もない。
 その中で、一段高い場所に置かれているのが写
真の二基である。いずれもが、重要文化財に指定
されている、というので驚いた。
 左の塔の基礎には嘉元二年 (1304) 鎌倉後期の
銘があるのだが、空風輪が不釣合いであり、偏平
な水輪にのみ梵字「バ」が彫られているのが奇妙
である。
 右の塔には貞和五年 (1349) 南北朝前期の銘が
見られるが、五輪の梵字の内水輪のみが異体であ
り、これもまた奇妙である。
 学術的にも貴重な銘文が確認されたことで重要
文化財に指定されたらしいが、部材が寄せ集めの
可能性もあり、全体的には秀逸な五輪塔とは申せ
疑問だらけの重文指定と言わざるをえない。
 
 
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  涌泉寺九重塔
    
       東近江市鋳物師
     
 
   
 
 旧蒲生町の鋳物師(いもじ)という、大層珍し
い名前の集落にある寺である。近江鉄道の朝日野
駅から近く、牧歌的な風景の中を歩くと、木立に
囲まれたこの寺の屋根が見えてくる。

 写真は、本堂横の小堂の前に建つ、どっしりと
した感じのする九重石塔の姿である。
 基礎は失われていて自然石が利用されている。
 初重軸部だけ石の色が白っぽく感じられたが、
近年洗ったからなのだそうで、四方仏の彫像は見
事であり、一つの面に永仁三年(1295)鎌倉後期
の初めという年号が入っている。

 前述の松尾寺の九重塔も同様だが、各層の笠と
軸部に厚さがかなりあるので、堂々としているも
のの塔全体が細長く感じられる。
 洗練され垢抜けたデザインとは言い難いが、こ
れは“近江らしさ”であり、私は実はこの素朴さ
故に近江が贔屓になっているのかもしれないので
ある。

 この旧蒲生町は層塔の密集地で、前述の石塔寺
を筆頭に、鎌倉以前の古層塔が私の知る限りでも
八基は数えられるほどである。ここ涌泉寺の他、
前述の石塔寺、後述の赤人寺のものと、三基の層
塔が国の重要文化財に指定されている。   
 
 
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  赤人寺七重塔
    
       東近江市下麻生町
     
 
   
 
 前述の涌泉寺から北へ約1キロのところに、下
麻生という集落がある。ここは山辺赤人の生まれ
た地と言われ、赤人を祭る山辺神社が鎮座してい
る。神社に隣接してこの寺のお堂が建っており、
“あかひと”寺とも“しゃくにん”寺とも呼ばれ
るらしい。

 本堂の真裏の狭い庭の片隅に、この荘重な花崗
岩の石塔が建っていた。
 相輪が失われているのが残念だし、笠のあちこ
ちに損傷が見られるものの、全体的な立ち姿から
受ける印象はとても美しい。基礎から軸部、そし
て笠に至るバランス感覚が抜群に優れているから
なのだろう。

 基礎には輪郭の中に格狭間を刻み、さらに三茎
蓮が線刻されている。
 初重軸部には金剛界四方仏が梵字で表現されて
おり、趣味の良い書体で薬研彫りしてある。写真
に写っている梵字はウーン(阿しゅく)で、その
左が正面に当たるタラーク(宝生)である。
 銘が刻まれていたがはっきりしなかった。資料
によれば、文保二年 (1318) 鎌倉後期制作とのこ
とで、笠の両端がピンと反っている事からも、文
保はともかく後期という事は想定出来るだろう。
 
 
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  旭野神社七重塔
    
       東近江市上麻生町
     
 
   
 
 この塔の建つ旭野神社は、実は先述の赤人寺と
涌泉寺の間にある上麻生という集落にある。二つ
の重要文化財に指定された石塔を訪ねた後、もう
一基重要な七重塔が在ることを知り、再び戻った
のだった。

 全体の塔の印象は、先述の赤人寺のものと比べ
ると、やや鈍重な感は拭えない。おそらくは、笠
の肉厚なところが重々しさとなって伝わるからな
のだろうが、これはこれで近江らしいと言うこと
が出来るかもしれない。

 それに引き換え、この塔の洗練された存在感を
伝えるのが、基礎の格狭間に刻まれた近江式孔雀
の図柄であろう。羽を広げ、悠々と飛ぶ一羽の孔
雀の像が、優雅に彫り込まれている。
 これを見るために戻った、と言えるかもしれな
い。写真の正面がそれだが、他の面は三茎蓮文様
だった。これらの近江式文様と呼ばれる意匠は、
西へは伝わったのだが、関東では余り見かけられ
ないものだ。

 基礎上部の単弁反花の意匠が層塔に彫られるの
は珍しいし、初重軸部の梵字四方仏も見事な薬研
彫りが成されていて見所となっている。写真には
タラーク(宝生)が写っている。
 
 
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  梵釈寺宝篋印塔
    
       東近江市岡本町
     
 
   
 
 日本最古の木像宝冠阿弥陀如来像を拝んだ後、
境内に安置された形の良い宝篋印塔に目が釘付け
になってしまった。
 嘉暦三年 (1328) という鎌倉末期の銘があるの
だが、全体像は中後期の雄渾な面影を残している
ようにも見える。
 写真の塔身には金剛界四方仏の梵字が彫られて
おり、南正面にタラーク(宝生)が見える。その
右側 (東)は通常ウーン(阿しゅく)なのだが、
北側のアク(不空成就)と入れ替わっている。理
由は不明だが、単純ミスの可能性もある。残りの
一つは西のキリーク(阿弥陀)である。
 基礎の側面は格狭間で飾られているが、写真で
見る通り、正面の格狭間内に一羽の孔雀が彫られ
ている。他の面には蕾・開蓮華・散蓮華の三種が
彫り分けられており、何とも細やかな配慮の行き
届いた意匠であると言える。
 基礎上部の単弁反花がさりげない優雅な装飾で
あり、このあたりは鎌倉期の武骨さから、南北朝
の洗練された形式への脱皮を物語っているように
も見える。
 相輪は見るからに新しくみえるのだが、実は流
失していたものが門前の田の中から近年発掘され
たからだそうで、この塔のものであることが確認
されたそうである。
 
 
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  法光寺宝篋印塔
    
       日野町北脇
     
 
   
 
 前掲の安部居から国道を1キロ程北上した左手
の山麓に、この静かな曹洞宗の山寺が静かに建っ
ている。宝篋印塔の見学をお願いすると、応対さ
れたのは御住職の尼様であった。
 御本尊の薬師如来像(平安期)の拝観もさせて
頂き、静かなひと時を過ごすことが出来た。

 この宝篋印塔は、やや破損が目立つものの、嘉
暦二年 (1327) 鎌倉後期の銘を持っている。
 基礎は、壇上積式の輪郭いっぱいに彫られた格
狭間に、様々な近江文様が施されている。写真の
陽の当たる面は西面で、宝瓶三茎蓮華が彫られて
いる。陰になって見えないが、北面は右向きの近
江孔雀、東面は西面と同じ、南面は開蓮華、と誠
に多彩な意匠である。

 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて
いる。写真は右がアク(不空成就)、左はウーン
(阿しゅく)である。
 笠は、上五段下二段で、小さめの隅飾は輪郭を
巻いた二弧、中は無地でほぼ垂直に立っている。
どっしりとした重厚な笠である。
 相輪は、九輪の六輪目より上部が欠落している
のは惜しいが、豪快な伏鉢や請花からも創建時の
豪快さが想像される。
 
 
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  念法寺宝塔
    
       日野町安部居
     
 
   
 
 日野町の北部に位置している真宗大谷派の寺院
で、八日市へと向かう国道307号線からは行き
易かった。
 立派な山門や本堂は、江戸期の建築である。
 写真の宝塔は本堂の左手に建つ鐘楼の脇で、自
然石を基盤にして建っていた。
 基礎の側面は、太い輪郭を巻いた中に格狭間が
彫られている。
 塔身軸部には、四方に扉型が彫られており、中
に六字名号が彫られている。摩滅しているので、
知らなければ見逃してしまうだろう。
 塔身上部の帯状張り出しの上に、勾欄と首部が
作り出されている。
 笠は、屋根裏に垂木型が意匠されており、軒口
は両端でかなり反り上がっている。屋根の傾斜は
緩いが三筋の降棟が彫られており、装飾を意識す
る時代へと移りつつある背景を物語っているのか
もしれない。
 笠上部には露盤が設けられており、そこに相輪
が載っている。相輪は最下部の伏鉢が喪失してお
り、請花から上が残っているらしい。別物である
可能性も考えられる。
 鎌倉末期から南北朝への移行期に制作されたも
の、というのが小生の印象である。
 
 
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  八幡神社宝篋印塔
    
       日野町里口
     
 
   
 
 日野町役場のある松尾から、日野商人街道と呼
ばれる旧道を2キロ程東へ行った集落である。
 八幡神社は街道に面して建っていた。
 写真の宝篋印塔は、本殿の建つ玉垣の中、向か
って右側に建っていた。

 相輪は欠落しており、笠の一部は崩壊してはい
るが、美しいフォルムは失われていない。
 笠は上五段下二段で、隅飾は輪郭のある二弧で
中は無地、ほぼ垂直に立っている。
 塔身には金剛界四仏の梵字が彫られている。写
真は、左がウーン(阿しゅく)、右がアク(不空
成就)である。アクの横に銘文が彫られ、貞治五
年(1366)南北朝中期の年号が確認されているとい
う。肉眼ではそれとなく見えた、という程度であ
る。梵字の彫りは弱々しく、いかにも南北朝とい
う書体だろう。
 ここでは、上に二段を載せた基礎が最大の見所
である。壇上積みの形式で、格狭間の中に宝瓶に
飾られた三茎の蓮華が意匠されている。いかにも
近江らしい意匠である。
 四面ともに異なった意匠で、写真は蓮華が三つ
共上向き、右隣は三つ共下向き、左隣は上向きと
下向きが混在、奥は散蓮華の花びらが彫られてい
るのである。いかにも手の込んだデザインではな
いかと思うが、全体的な造形力は退化へと向かっ
ているのかもしれない。
 
 
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  摂取院宝篋印塔
    
       日野町内池
     
 
   
 
 内池は前掲の里口に隣接する集落である。近鉄
日野駅のすぐ東に当たる。
 摂取院は、蒲生氏郷の曾祖父高郷の菩提寺とし
て建立された浄土宗の寺院である。

 本堂の前の一画に広い墓地があり、交差する通
路の中央に写真の宝篋印塔が建っている。
 一見して違和感が感じられるのは、相輪部分に
置かれた小宝篋印塔の笠と別物の相輪のせいだろ
う。小生の最も嫌いな全く別の部材を組み合わせ
た事例で、信じ難いセンスとしか言い様がない。

 笠は上六段下二段で、三弧隅飾の輪郭内は無地
である。隅飾の先端はほぼ垂直に立っている。
 塔身には、金剛界四仏の梵字が四方に彫られて
いる。写真は右がアク(不空成就)、左がウ-ン
(阿しゅく)で、ウーンの脇に元応二年 (1320)
鎌倉後期の年号が彫られている。相当磨滅してい
て判読は困難だった。
 梵字は、やや切れ味の鈍い書体で、薬研彫りの
溝は浅く、鎌倉期の力強さは失われている。
 基礎は上に二段を備えた壇上積式で、格狭間の
中に宝瓶三茎蓮文様を意匠している。背面のみ蓮
の無い無地だった。
 早急に相輪の醜悪な部材を外し、相輪も無けれ
ば無いままの姿に、一刻も早く戻してほしいと念
じる次第である。
 
 
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  禅林寺層塔
    
       日野町猫田
     
 
   
 
 摂取院の南に猫田という集落が在り、禅林寺は
入り組んだ判りにくい場所に隠れるように建って
いる。
 創建は不明だが、江戸初期に黄檗宗として再建
されたのだという。

 境内に入って直ぐ右手、お堂の前に写真のいか
にも古そうな層塔が建っている。
 現在は四重塔だが、形状からも当然従来は五重
塔であっただろうと思われる。
 相輪は完全に失われている。
 基礎の正面に梵字「ア」が彫られているが、こ
れは胎蔵界大日如来を象徴している。

 各層の屋根と軸部は別石で、屋根は緩い傾斜で
軒口は薄く、両端の反りも微妙で見るからに古式
を思わせる。軸部の大きさは、初層と二層目に段
差があるように思われる。
 かなり磨滅はしているものの、鎌倉中期は下ら
ない初期にかけて制作されたものと推察出来る。

 層塔の右に石燈籠が建っているが、完存する宝
篋印塔の部材に燈篭の火袋と基礎を加えた悪質な
仕立てで、管理者の方がまともな美意識と歴史観
をお持ちならば、即刻正常な宝篋印塔に戻してい
ただきたい。
 
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  比都佐神社宝篋印塔
    
       日野町十禅師
     
 
   
 
 日野町に十禅師という珍しい名の集落があり、
その村外れに木立に囲まれた静かな別天地とも言
える当社が在る。
 参道を歩けば、拝殿の手前左手に大きなこの宝
篋印塔を見る事が出来る。

 先ず目に入るのは基礎の装飾だろう。四方は輪
郭線に縁取りされ、その中の格狭間には写真の向
かい合った二羽の孔雀のほか、蓮華の花や銘文な
どが彫り込まれている。近江文様を代表する孔雀
が、特に素晴らしかった。
 次に塔身の梵字種子だが、ここでは胎蔵界四仏
が彫られている。写真は、蓮座に載った月輪の中
に彫られた「ア(宝幢如来)」である。
 笠の隅飾は三弧であり、笠上の段が七段と豪華
な造りになっている。堂々として見えるのは、こ
れらの意匠によるものだろう。
 塔身に銘文が彫られているのだが、摩滅してい
てほとんど読めない。嘉元二年(1304)という紀年
銘があるはずなのだが、言われてみれば微かにと
いった程度だった。
 相輪は失われているものの、全体に品格の漂う
落ち着いた風格ある宝篋印塔である。近江地方の
鎌倉時代後期を代表する秀作である、と言える。
 
 
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  慈眼院宝篋印塔
    
       日野町大窪
     
 
   
 
 大窪は日野中心部松尾の南に隣接する地区で、
慈眼院は山門の中に整然とした雰囲気が感じられ
る曹洞宗の禅寺である。
 本堂前の松の大木の根元に、写真の宝篋印塔が
建っている。

 相輪は、宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢が完全
に揃っている。九輪に折れた際の割目が有るが、
ほとんど問題無い。単弁八葉の下部請花や見事な
伏鉢が力強い。
 笠は上五段下二段で、隅飾は二弧輪郭内は無地
でやや外側に傾いている。
 塔身には金剛界四仏の梵字が月輪内に彫られて
おり、写真の梵字はアク(不空成就)だが、右側
に暦応二年(1339)南北朝前期の年号が彫られてい
る。言われて微かに読める程度である。
 梵字の彫りは浅く、薬研彫に迫力が感じられな
い。南北朝の特徴の一つ、だと言えるだろう。
 基礎は基盤が無く、直接地面に置かれている。
上部に複弁反花座と薄い一段を設け、塔身を受け
止めている。側面は壇上積式で、中に格狭間を意
匠している。格狭間内には、三面に三茎蓮文様が
描かれており、背面のみに散り蓮華が彫られてい
る。
 近江文様の魅力もさることながら、近江の石造
美術の質の高さがしみじみと感じられる。
 
 
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  蒲生貞秀廟所宝塔基礎
    
       日野町村井
     
 
   
 
 古い家並が続く村井の町の中心に、室町以降こ
の地を統治した日野城主蒲生貞秀の菩提寺である
信楽(しんぎょう)院が建っている。
 寺の裏手は谷になっており、畑の向こうの竹薮
の丘陵に貞秀の廟所が在る。
 墓石は江戸期の五輪塔だが、その台石に鎌倉後
期の宝塔の基礎が流用されている。出自は不明で
ある。
 壇上積式輪郭の中に格狭間が彫られ、中に向か
い合う二羽の孔雀が意匠されている。次に掲載す
る比都佐神社の宝篋印塔基礎にも匹敵する、近江
文様の傑作のひとつである。
 左右の側面には中心が開花と蕾の二種の宝瓶三
茎蓮が、そして背面には開蓮華が配され、さなが
ら近江文様の原点の様な存在となっている。
 
 
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  雲迎寺宝篋印塔
    
       日野町音羽
     
 
   
 
 日野町の中心から四日市へ通じる国道477号
線を、西へ4キロほど行ったあたりの山あいに、
この浄土宗の寺院が建っている。
 さつき寺という愛称を持つほど、境内はさつき
で覆われている。

 本堂の西側に大きなさつきの築山が在り、中腹
に写真の宝篋印塔が建っていた。貞和五年(1349)
の銘が確認された、南北朝前期の塔である。

 相輪は、立派な伏鉢と単弁文様の請花が特徴だ
が、九輪の上端から上が喪失している。
 笠は、上六段下二段で、隅飾は二弧、輪郭内は
無地、ほぼ垂直に立っている。この地方の宝篋印
塔の隅飾は、南北朝期でも垂直に立っており、大
きな傾斜を見せる事例は少ない。

 塔身には、四方に金剛界四仏の梵字が薬研彫り
されている。その筆致に力強さは見られない。
 写真の梵字は、影部分がキリーク(弥陀)、右
側がタラーク(宝生)である。
   
 基礎上部の単弁三葉反花が、心憎い装飾となっ
ている。
 基礎は壇上積様式で、格狭間の中に三面は宝瓶
三茎蓮の文様が、そして残りの一面は素地という
意匠になっている。
 
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  八幡神社宝篋印塔
    
       日野町北畑
     
 
   
 
 先述の音羽で西明寺へと通じる県道へと入り、
直ぐに北畑へと通じる分岐に着く。
 北畑集落の中程に八幡神社があり、本殿へは石
段を登って行くことになる。
 本殿の御神体は、神社だというのに阿弥陀如来
で、神仏混淆の名残なのだろう。

 本殿の左側の崖を背にして、切石の基壇上に端
正な宝篋印塔が建っていた。

 塔身正面の梵字キリーク(弥陀)の横に、正安
元年(1299)鎌倉後期という、中期に限りなく近い
魅力的な年号が彫られている。
 塔身には、金剛界四仏の梵字が、月輪や蓮座は
無くそのまま薬研彫されている。筆致はやや浅い
が、大らかな書体である。

 相輪は、上の宝珠から下の伏鉢までが完存して
おり、特に下請花の単弁八葉の花弁が美しい。
 笠は、上五段下二段で、ほぼ直立する二弧の隅
飾の輪郭の中は素地である。
 上部に二段を構えた基礎は、壇上積み式で中に
格狭間が彫られている。残念ながら、格狭間の中
は無地だった。

 笠の背面の一部が破損しているが、全体に均整
の取れた秀逸な古塔の一つだろう。
 
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  西明寺宝塔
    
       日野町西明寺
     
 
   
 
 北畑から県道をさらに登って行った突き当り、
町の東端竜王山の山裾に建つ臨済宗永源寺派の寺
院である。元は天台宗だったそうだ。
 本堂裏の山中に墓地があり、歴代住職の卵塔と
並んで右端あたりに写真の宝塔が建っている。
 傾斜したままで、やや乱雑に扱われている感が
あるが、鎌倉後期の特徴を示すれっきとした古塔
である。

 相輪は、九輪の中程から上が欠落している。
 上に露盤を備えた笠は屋根の傾斜が緩やかで、
棟降が効果的に意匠されている。
 軒口は程良い厚さで緩い曲線、両端がやや強く
反り上がっている。
 笠裏には、一重の垂木型が彫られている。

 写真は右側面からのものだが、正面にのみ扉型
が線彫りされている。
 塔身上部は、装飾の無い勾欄と首部とによって
構成されている。
 上部に円形座を設けた基礎は、側面に輪郭を巻
き、中に格狭間を彫っている。

 墓地左側に、笠のみが鎌倉期の宝篋印塔や、乾
元二年(1303)鎌倉後期の年号が入った宝篋印塔の
基礎などが保存されている。
 
 
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  寂照寺宝篋印塔
    
       日野町蔵王
     
 
  
 
 日野町の東外れに蔵王という集落があり、この
寺は街道に沿った小高い丘の上に静かに建ってい
る。
 本堂の前庭左手に、写真のような宝篋印塔と宝
塔の二基がさりげなくたたずんでいた。
 宝篋印塔の隅飾が古式の馬耳状であるのを見た
だけでも、この塔が相当古いものであることが判
るだろう。

 隅飾は一弧で装飾は無いが、それが逆に簡素な
がら格調高い洗練された味わいを感じさせる。
 塔身には、蓮華座に載る四方仏が半肉彫で表さ
れており、均整の取れた立ち姿となっている。
 基礎には輪郭、格狭間が意匠され、その中に三
本の蓮華が彫り込まれている。やや摩滅していて
写真ではよく見えない。
 塔身や基礎の優れた装飾と、笠の簡素な古式と
はやや異質だが、これは鎌倉中期から後期への過
渡期だったのではないかと解釈した。

 写真奥の石造宝塔も見応えのある作品で、鎌倉
後期のものである。いずれも相輪は後補である。
 
 
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  寂照寺宝塔
    
       日野町蔵王
     
 
   
 
 宝篋印塔については前項に掲載したのだが、こ
のお寺の境内には重要文化財に指定された鎌倉後
期の宝篋印塔と、この石造宝塔とが並んで建って
いる。
 静かな山里の鄙びた古寺の狭い前庭であり、こ
の貴重な二基の石塔がさりげなく並ぶ様は、何と
も贅沢な眺めであり、石造美術愛好家にとっては
至福の時間だと言える。

 上から順番に観て行こう。
 相輪は堂々とした太さで、宝珠・請花・九輪・
請花・伏鉢が完存して露盤に乗っている。但し、
後補の可能性を挙げる人もいるらしい。
 重厚な感じのする笠は、屋根の四隅に降棟を彫
り、傾斜は微妙な膨らみを見せている。軒の両端
に反りがあり、厚さも鎌倉末期の様式そのままの
ようだ。笠下に一重の垂木型が設けられ、二段に
造られた首部と縁板状の彫られた塔身に繋がって
いる。
 塔身の四方には、セオリー通りに扉型が彫られ
ている。教義からも必然的といえる様式なのでは
あるが、どうも意匠として優れていると思ったこ
とは一度も無い。
 基礎四面には格狭間が彫られ、三茎蓮や開蓮華
が各面に彫られている。背面のみ無地である。
 近江の石造宝塔の基礎には、ほとんどの場合、
こうした格狭間に蓮華文様が施されており、近江
式と称されている。
 銘は無いが、鎌倉末期の制作と考えて間違い無
さそうである。
 
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  正法寺宝塔
    
       日野町鎌掛
     
 
   
 
 日野の中心部からはかなり離れた、山の中の小
さな集落にこの寺はある。
 大きな墓地があるのだから、お寺としては現役
なのだろうが、本堂周辺や境内はひっそりと静ま
り返っていた。
 宝塔は境内より一段高い、墓地への上り口の階
段脇に建っていた。
 いかにも堂々とした風格は、一目で鎌倉後期と
素人にも言えるほど典型的なフォルムに見える。
 重要文化財の解説看板には正和四年(1315)の造
立、と記されていたので満更でもない気分になっ
た。
 基礎の四方には輪郭・格狭間が施されており、
特に正面だけに蓮華が彫られている。
 塔身の上部は縁取りをしたようになっており、
軸部四方に扉型が彫られている。
 二段の首部と軒下の垂木型が荘重であり、厚い
軒の反りは両端で剛毅な曲がりを示している。
 相輪も完璧で、どこを切り取っても鎌倉後期と
しての見事な特徴を見ることが出来る。
 ただ、そのことは、様式が時代と共に定型化し
てきている証拠であり、それ以降は造形的な力強
さを次第に失っていくこととなるのである。
 
 
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