石塔紀行(3) |
層塔・宝塔・ 宝篋印塔・五輪塔 |
近江 (東部) の石塔巡拝 |
旭野神社石造七重塔基礎 東近江市蒲生町 |
近江地方(滋賀県)には石塔の数が圧倒的に多 いので、便宜上東西に分けて掲載した。 湖北の西浅井町・木ノ本町から、東近江市・日 野町を含む琵琶湖以東を、近江(東部)としたも のである。 写真は近江紋様と呼ばれる彫刻で、石塔の基礎 部分に彫られた孔雀の図像である。 近江地方独特の意匠で、格狭間の中に描かれる が、向かい合った二羽のケースもある魅力的な装 飾である。 |
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大浦観音堂五輪塔 |
長浜市 <西浅井町> 大浦 |
琵琶湖の最北端に突き出た岬は葛籠尾(つづら お)崎と呼ばれ、竹生島とは目と鼻の先である。 岬の付け根に当る東の入江が塩津であり、西の入 り江が大浦である。 大浦集落の中ほどにこの観音堂が在って、俗に 腹帯観音堂とも呼ばれている。 五輪塔は観音堂の右手奥に、小五輪塔や板碑や 石仏群と並べて祀られている。 最初の印象は、間違いなく古い塔だと感じたこ とだった。全体的なシルエットが、いかにも古式 の風格とでも言えそうな堂々たる落ち着きを示し ていたからだろう。 ふっくらとこの上なく形の良い空輪(宝珠)、 屋根の緩い傾斜と微かな軒反りを示す火輪(笠) どっしりとした膨らみを示す水輪、厚みの無い地 輪(基礎)など、全ての要素が鎌倉中期は下らな いであろう古式を示していることに気付かされる のである。 火輪の一面に梵字が見え、また基礎にはウーン らしい種子などが各面に彫られているが、判読出 来る状況ではなかった。或る本によれば「シリキ エン」という梵字が彫られており、それが文殊菩 薩を象徴していると記されているのだが、小生に は確認出来なかった。 銘は無いが、近江屈指の古さと美しさを持つ名 五輪塔のひとつだろう。 |
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長福寺跡五輪塔 |
長浜市 <西浅井町> 菅浦 |
白洲正子さんの名著「かくれ里」に描かれた菅 浦の里は、前述の大浦から葛籠尾(つづらお)崎 という岬の先端に向かって湖岸を暫く走った行き 止まりに在る、小さな港を中心とした素朴な集落 である。 この里は、中世の自治組織である“惣”の記述 として著名な「菅浦文書」で知られている。又、 何故かここには天平期の悲運の天皇と言われる淳 仁天皇の御陵と伝わる場所が、須賀神社の後方に 在る。御陵までの石段は、靴を脱いで裸足で上ら ねばならなかった。 集落の中央に広場があり、そこに「淳仁天皇菩 提寺菅浦山長福寺跡」と記された石碑が立ち、傍 らに写真の五輪塔が竹垣に囲まれて建っていた。 淳仁天皇と菅浦に関する伝説の真偽は不明なの だが、ここに在る五輪塔はどう見ても天皇が在世 した奈良時代末期とは丸で関係は無さそうだ。御 陵も在るので供養塔の可能性も薄く、直接天皇に 結びつく要素は全く無さそうである。 肩が張って硬い感じの空輪、急傾斜の屋根とぎ こちない軒の反りを示す火輪、上部が膨らんだ壺 型の水輪、背の高い地輪などといった特徴は、明 らかに南北朝以降の様式を示すと考えられる。 だが、さしたる名品でもないこの五輪塔は、ほ とんど何処にも紹介されてはいないが、伝説に満 ちた“隠れ里”の雰囲気を五輪に染み込ませた、 歴史の証人のような石塔と感じられてしまったの だった。叙情的な旅人の単なる感傷に過ぎないの だろう。 |
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西徳寺七重塔 |
長浜市 <木ノ本町> 赤尾 |
この寺の在る場所は、信長の死直後に覇権を争 った羽柴秀吉と柴田勝家の合戦場となった賎ガ岳 の南麓に当たる。 寺の本堂北側に池泉庭園が在り、かつて庭を目 的に訪ねたことがあったので、今回はそれ以来の 再訪ということになった。 本堂の東側やや小高い場所に、こんもりと繁っ た樹林を背景にしてこの七重石塔が建っている。 高さは3m30とのことで、近年倒壊したもの が再建されたのだそうだ。 基礎の四面は、格狭間の中に宝瓶に挿された三 茎蓮が描かれている。近江らしいその意匠の一面 の脇に、弘安十年 (1287) という鎌倉中期の年号 が彫られている。近江の在銘層塔の中では、松尾 寺 (米原市)に次ぐ最古の部類に入るだろう。 相輪が半壊しており、また上部の屋根の一部が 破損しているのが惜しいが、各層の軒は力強い反 りを見せている。また、屋根の裏に垂木型を造り 出しており、石工の丁寧な仕事が示されている。 初重軸部(塔身)の四方には、彫り込んだ舟形 光背の中に四方仏像が厚肉彫りされている。 松尾寺九重塔のような洗練された美しさとは別 の、やや粗野ながら鎌倉期のおおらかさを十分感 じさせる魅力的な石塔である。 |
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宝厳寺五重塔 |
長浜市竹生島 |
琵琶湖に浮かぶ竹生島は、以前は東浅井郡びわ 村に属していたのだが、現在は合併に伴って長浜 市に編入されている。どうもピンとこないが、致 し方ない。 船着場から弁天堂へと続く石段を真っ直ぐ登り きった所に、低い柵に囲まれてこの石塔が建って いる。 苔むしているので明確には見えないのだが、基 礎には輪郭を入れ、その中に格狭間が彫られてい るようだ。蓮華などの文様は見当たらない。 初重軸部には、舟形光背の中に四方仏坐像が半 肉彫されている。 年号等の銘は刻まれていないようだ。 年号が無いと、我々素人にも出番が回って来た ようで、つい張り切ってしまうのは何故だろう。 各層の笠は割と肉厚であって、両端に反りの少 ない大らかな姿を示している。 どうやら、鎌倉中期から後期にかけたあたりの 年代が想定できそうである。 相輪が当初のものかどうかは不明だが、全体的 に泰然とした好ましい石塔である。 |
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八坂神社九重塔 |
米原市三吉 |
名神高速道路の米原インターを出て、中山道を 少し関が原方面に進んだ右奥が三吉という集落で ある。郵便局や小学校に息郷という名前が付いて いるので、従来はそれが町名だったのだろう。 その小学校の東側の田圃を隔てた山裾に、この 神社がひっそりと祀られており、社殿へ登る石段 の右側にすっきりとした形の九重石塔が見えた。 初重軸部には舟形光背の中に四方仏が浮彫され ており、正面の像の左に元亨三年 (1323) 鎌倉後 期の年号が刻まれている。 基礎は正面のみに、輪郭を巻いた中に格狭間が 意匠されており、近江らしい三茎蓮文様が彫られ ている。 全体像が優雅で伸びやかに見えるのは、各層の 屋根の厚さが薄く横に長いことに由来するからだ ろう。或いは、鎌倉期の重厚なスタイルから、端 正で華奢な南北朝様式へと移行していく端緒が見 えているのかもしれない、とも思えた。 この辺りは中山道の番場宿に近く、かすかに旧 道の風情の残った情緒在る集落が続いている。 |
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松尾寺九重塔 |
米原市上丹生 |
前述の三吉から中山道を更に東へ行った次の集 落が醒ヶ井で、旧中仙道の宿場であった。 松尾寺に行くにはそこから丹生川渓谷に沿って 南へ4キロの山中に在る醒ヶ井養鱒場まで行き、 さらに林道をかなり登らねばならない。 林道は山門までで、車を止めるとそこからまた 急坂と急な石段となり、ようやく本殿にたどり着 くことが出来た。 寺は無住だが、境内は以外に整備されていた。 車とはいえ難儀な道中ということもあって、思 い入れの濃かった石塔とは、なんとも感動的な出 会いとなった。 いかにもどっしりと安定した、秀麗かつ堂々た る石塔である。鎌倉そのもの、という第一印象を 感じたが、文永七年 (1270) 鎌倉中期という銘が あるそうで、素人の感も捨てたものではない。 鎌倉中期ならではの反りの小さな肉厚の笠、舟 形にくり抜いた光背の中に浮彫された見事な四仏 や、基礎の格狭間に彫られた宝瓶三茎蓮など、全 てが卓越した古塔のみが示すであろうオーラのよ うな輝きを放っている。 相輪の先は宝珠で、通常はその下に請花がある のだが、ここではその代わりに四方仏坐像が意匠 されているのが珍しい。 近江屈指の一級品との出会いだった。 |
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徳源院宝篋印塔群 |
米原市清滝 |
伊吹山の南麓、旧山東町の清滝にある名刹とし て知られる。旧中仙道の柏原宿から、山間に入っ た静かな聖域である。 三重塔の奥に広大な墓所があり、石段を登った 細長い高台に、先祖代々近江の守護職だった近江 源氏佐々木京極氏の墓塔が十八基、横一列に並ん でいた。 大小の差異はあるものの、いずれも大型の宝篋 印塔であり、古塔を中心に居並ぶ光景は誠に壮観 だった。 初代京極氏信塔の永仁三年(1295)から、十八代 高吉塔の天正九年(1581)までが揃っている。時代 の変遷に伴って、宝篋印塔の様式がどう変わって いくのかを学ぶ最良のテキストとなっている。 写真は右が初代氏信塔である。隅飾は三弧で、 蓮華座に月輪内の梵字「ア」が彫られている。塔 身には堂々たる筆致の金剛界四仏種子、基礎の格 狭間には近江特有の三茎蓮華を見る事が出来る。 基礎上部には反花も彫られており、鎌倉後期らし い重厚さの中に、卓越した意匠の装飾を施した傑 作であると思う。 左は三代貞宗塔で嘉元二年(1304)の銘のある、 これもほぼ同様の意匠で飾られた鎌倉後期の秀逸 な塔である。 ちなみに、十九代以下京極高次までの宝篋印墓 塔は、手前の下の段に並んで建っていた。 |
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西明寺宝塔 |
甲良町池寺 |
湖東三山の一つとして著名なこのお寺には、深 閑とした広大な寺域に国宝建築の本堂と三重塔が 重厚な姿をとどめている。 三重塔の脇から裏手の山へ登りかけた辺りに、 この壮麗かつ泰然とした宝塔が祀られていた。 完存する相輪が美しいし、笠はずっしりとした 貫禄を示すかの如くおおらかである。ここからは 鎌倉期ならではの豪放な気質が感じられる。 一方、隅棟の瓦彫刻は繊細であり、軒の下線が 上線両端の反りの大きさに比べ反りがほとんど見 られないのは、やや時代が下るのではないかと思 わせる要素だった。 塔身に銘文が在り、嘉元二年(1304)という鎌倉 後期の年号が確認出来た。豪放でおおらかな鎌倉 期の造形美を残しつつ、やや技巧が中心となって しまった南北朝への予兆を感じさせる様な、ある 意味では最も完成された様式とも言えるだろう。 塔身上部には勾欄は無く、縁板状作り出しがあ り、写真でも判るように四方に扉形が彫られてい る。 基礎四方には、上下かまちと左右の束を作り出 した壇上積式に格狭間を設け、その中に開蓮華が 浮彫りにされている。近江では特に類例の多い、 意匠の一つである。 全体的に完成された、近江を代表する秀麗な遺 品の一つと言えるだろう。 |
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若一神社宝塔 |
甲良町正楽寺 |
甲良町は戦国の大名佐々木京極氏や尼子氏の出 身地として知られ、日光東照宮の建築に携わった 江戸時代の甲良大工の名でも知られている。 正楽寺の集落には、北朝の武将であった佐々木 京極道誉の菩提寺である勝楽寺がある。 この若一(にゃくいち)神社は、かつて勝楽寺 の境内に在った鎮守社で、近年(大正八年)にな って現在地に移築されたものだそうだ。 本殿前に建つ写真の宝塔も、神社の移転と同時 に移されたのだという。 この宝塔は高さ2.2mほどで、堂々としたその佇 まいに感動した。専門書にも滅多には紹介されて いない、言わば“隠れ名品”の可能性もあったか らであった。 ある資料によれば、或る人物が父の十三回忌供 養を目的に造立したとの刻銘が在り、また延慶四 年 (1311) という鎌倉後期の年号も刻まれている そうである。確認を試みたが、言われてみれば程 度の判読しか出来なかった。 宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢と完存する相輪 が露盤に載っている。 緩やかな傾斜の屋根、厚い軒とかなり剛毅な反 りは時代に相応しい美しさを示しているだろう。 笠裏の二段の垂木型が、重厚さを演出している。 軸部はほぼ円筒形で、開かれた扉型が彫られて いる。基礎には、格狭間の中に近江式文様の開蓮 花が意匠されている。 |
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市会所宝篋印塔 |
愛荘町市 |
愛荘町は旧愛知川町と秦荘町とが合併して出来 た町で、南側で東近江市の能登川と五個荘に接し ている。 この市(いち)という集落は旧愛知川町に在っ て、JRと近鉄の愛知川駅から東に200mほど 歩いた辺りの住宅地である。県道から少し入った 所に八幡神社があり、隣接して市の公民館とも言 うべき会所が並んでいる。宝篋印塔はその前の広 場に建っていたのだった。 堂々たる佇まいではあるが、欠落した相輪部分 に他塔の笠を載せているセンスが信じられない。 笠上は六段、笠下は二段で、隅飾は二弧輪郭付 きでやや外側に傾斜しているという、格別変わっ た意匠ではないが、量感に満ちておりいかにも洗 練された笠だなあと感じた。隅飾内には全て、蓮 華座上に小月輪が彫られ、中に梵字「ア」が刻ま れている。 塔身には、蓮華座に載る月輪内の種子が彫られ ている。写真の梵字は「ウーン(阿しゅく)」、 右の陰部分は「アク(不空成就)」、つまり金剛 界四仏の種子が薬研彫りされているのである。 基礎上は二段で側面を壇上積様式とし、四面に 格狭間を彫り、三面に三茎蓮、残りの一面に二片 の散蓮華を配してある。いかにも近江の宝篋印塔 といった意匠で、この地を旅する楽しさを彩って いると言えるかもしれない。 |
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真照寺宝篋印塔 |
愛荘町東円堂 |
前述の愛知川の市から、南へ約2キロほど直進 した辺りに東円堂という集落が在る。 家並みに隠れるようにして、この浄土宗寺院の お堂が建っている。目的の宝篋印塔は、本堂の前 にさりげなく建っていた。 この宝篋印塔の最大の特徴は、塔身の上、つま り笠の下部分と、塔身の下、つまり基礎の上部分 の両方に、単弁の反花が意匠されていることであ る。笠下に彫られることも珍しいし、基礎上の反 花が単弁であることもまた誠に珍しいだろう。 上下の蓮弁で塔身を挟むという、こんな優雅な 意匠の宝篋印塔が人知れず守られてきたことに感 動した。美意識だけではなく、篤い信仰心が伴わ なければ成せる業ではないだろう。 基礎は壇上積式に格狭間、中に三面は開蓮華、 一面に宝瓶三茎蓮が浮彫されている。 塔身には、金剛界四仏の種子が彫られている。 写真の梵字は「タラーク(宝生)」である。 笠は上六段で、隅飾は輪郭を巻いた二弧、ほぼ 垂直に立っている。 残念ながら無銘で制作年代は不明だが、隅飾や 格狭間の意匠からも鎌倉後期が推定できる。 喪失した相輪に代えて他塔の部品が載せられて いるが、この風潮何とかならないものだろうか。 |
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広照寺宝篋印塔 |
長浜市 <西浅井町> 大浦 |
旧愛知川町の畑田という集落に、この浄土宗の お寺が建っている。境内に隣接して墓地があり、 近世の墓碑が並ぶ最奥に大小三基の宝篋印塔が祀 られている。 写真の宝篋印塔が最も大きく、かつ保存状態の 良い塔で、他の二基はかなり古そうだが破損摩滅 が激しいのが残念だった。 宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢が完備した相輪 が堂々としており、上六段下二段の笠も重量感に 溢れている。 中は無地だが輪郭を巻いた隅飾は、微かに先端 に反りを見せるものの、ほぼ垂直に立っているよ うに見える。このことだけでも、鎌倉後期は下ら ない、と言えるだろう。 塔身には、金剛界四仏の種子が、月輪の中に薬 研彫りされている。かなり繊細な彫りであること から、後期でもかなり末期に入ってからの制作か もしれない。 基礎上には複弁反花座が意匠されており、それ なりに格調高い意味合いを示す石塔であることは 間違いないだろう。 壇上積式の基礎には、鎌倉期らしい形の格狭間 が意匠され、近江の三茎蓮が彫られている。 写真の左端に、もう一基の宝篋印塔が写ってい る。 |
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大城神社御旅所五輪塔 |
東近江市五個荘金堂町 |
旧五個荘町の金堂という集落の町並は、近江商 人発祥の地のひとつとされるだけに、風格の有る 豪商の邸宅が連なっている。 菅原道真を祭る大城神社の御旅所の前の広場は 金堂の馬場と呼ばれ、その隅に写真の五輪塔が祀 られている。 高さが2m12ある大きな五輪塔で、地輪に正安 二年 (1300) という鎌倉後期の初めの年号が彫ら れている。在銘の五輪塔としては、近江最古とさ れている。 地輪は、写真からも判る通り、二石を合わせた 珍しいものである。 水輪は、上部がやや膨らんだ壺形の球形で、縦 長の印象を受ける。 火輪は、笠屋根の程良い傾斜と反り、やや厚い 軒口の反り具合が、鎌倉中後期の落ち着いた様式 を示している。 空輪は、ふっくらとした形の良い宝珠形で、五 輪が完璧に揃った姿はやはり美しい。 四方に五輪塔四門の梵字が彫られているが、摩 滅気味なのが惜しまれる。写真で見る通り、空風 輪部分の梵字の方向が少々ズレているようだ。 |
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八幡神社五重塔 |
東近江市五個荘石塚町 |
金堂の大城神社同様、佐々木氏観音寺城の鬼門 守護神として崇拝を受けたと言われている鎮守社 である。 境内の左奥、社務所の前にこの石造五重塔が建 っていた。格別囲いなどがしてあるわけではない ので、中世の石塔がさりげなく無防備に置かれて いることに些か驚いた。 基礎と相輪は別物と思える。塔身(初重軸部) の四方には、刳り貫かれた舟形光背の中に厚肉彫 りの四方仏像が彫刻されている。かなり摩滅して いるが、元来は端正な彫りだったであろうことが 想像される。 塔身からは、正安二年 (1300) という年号が判 読されているが、これは前掲の金堂の馬場の五輪 塔と全く同じ制作年号であり、双方の作品の間に 石工など何らかの相関関係が存在したかも知れな い。 正安という年号は永仁に次ぐ鎌倉後期の初めで あり、中期の面影を残した優美な雰囲気がこの塔 からも感じられる。塔全体のイメージは、中期末 の西徳寺七重塔(弘安十年)にとてもよく似てい る。 摩滅と破損が甚だしいのが残念だが、軒の優雅 な曲線と両端の反り具合からは、漂うような鎌倉 期の美しさを感じ取ることが出来る。 |
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乾徳寺宝篋印塔 |
東近江市五個荘川並町 |
旧五個荘町川並という場所にある寺で、東近江 市という陳腐な命名に些かの噴飯を覚えている。 紅葉の名所として知られる寺だが、江戸時代の 創建なので、何故鎌倉後期の宝篋印塔が存在する のかは明確ではない。 この宝篋印塔は墓地の隅に建っているが、近年 発見されて周辺が整備されたらしい。 何よりも、基礎から永仁五年(1297)という、鎌 倉後期の年号が発見されたことがとても鮮烈だっ た。 写真で見る通り、基礎には優美な格狭間が作ら れ、中に素朴な近江三茎蓮が彫られている。 塔身には、背後をくり抜き半浮彫された四方仏 坐像が意匠されている。 笠は上部六段で、隅飾の先端が微かに反ってい る様に見える。三弧の輪郭内にはそれぞれ小さな 月輪が浮き出る様に彫られ、その中に梵字「ア」 が彫られている。 彫刻装飾が過多かとも思われそうだが、石塔全 体の像容が誠に壮麗であり、繊細な品位も感じら れることで見事な均衡を保持しているようだ。 失われた相輪に代わって小五輪塔の部材が置か れているが、全くの無意味であり、古塔の尊厳を 汚すものと考える。 |
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百済寺塔身輪式宝篋印塔 |
東近江市百済寺 |
湖東三山の一つ百済寺には、先日降った雪が残 っていた。本坊喜見院の庭を見てから、老杉鬱蒼 たる参道の石段を滑らぬように注意しながら本堂 へと登った。 その名の通り聖徳太子開基という深い歴史を有 していたが、信長の侵攻の際に焼き尽くされ、現 在の堂宇は全て江戸期に再建されたものらしい。 本堂右手の雪の中に、問題のこの石塔が建って いた。塔身以外は完璧な宝篋印塔なのだが、塔身 の角が削られて五輪塔の水輪に似た球形となって いることが最大の特徴である。輪篋折衷と呼ぶ向 きもあるが、これは塔身輪式宝篋印塔または球心 宝篋印塔とでも呼ぶほうが理に叶っているかもし れない。 無理矢理組み合わせたのではないか、という危 惧があったのだが、実物を見る限り、相輪・笠・ 球心・基礎など完備しており違和感は全く無い。 塔身の四方仏、直立する隅飾、格狭間の蓮華模 様など、鎌倉期らしい剛健さを秘めた落ち着きを 感じさせる美しい石塔である。 |
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西福寺宝篋印塔・五輪塔 |
東近江市下中野町 |
前掲の百済寺同様、旧八日市市と旧永源寺町に 挟まれた旧愛東町に属していたが、合併によって 東近江市に統合された。この下中野地区は、百済 寺からは約2キロという距離にある田園地帯であ る。 西福寺は浄土宗の小さな寺院で、隣接する墓域 に数基の石塔が保存されている。 写真左端の宝篋印塔は、相輪上部を欠くが、上 六段下二段の笠は端正で、輪郭を巻いた隅飾はや や小さ目ながらほぼ直立していて見事だ。中に梵 字が彫られていたようにも見える。 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて おり、上二段の基礎には輪郭内に格狭間が意匠さ れている。鎌倉後期は下らないものと思われる。 右端の五輪塔は、なで肩の空輪(宝珠)急傾斜 の屋根(火輪)、やや扁平な水輪などから、南北 朝に近い鎌倉後期という制作年代が推定できる。 |
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曹源寺宝篋印塔 |
東近江市愛東外町 |
同じ旧愛東町の外という集落で、後述の霊感寺 の在る旧永源寺町の山上町とは愛知川を挟んで隣 接している。 曹源寺は集落の中心に在る臨在宗永源寺派の寺 院で、写真の宝篋印塔のほかに美しい宝塔が本堂 横の築山の中に建っている。 宝篋印塔は何とも美しい塔で、いかにも古色蒼 然という印象を受けた。 残念なことは相輪が後補であることだが、最初 に目に付いたのが笠の隅飾が軒と一体に造られて おり、きりっと垂直に立っていることだった。側 面に仕切り段の無い“のべ作り”と呼ばれるもの で、馬耳状の一弧無地の隅飾は八日市の妙法寺薬 師堂の宝篋印塔と同じ作りである。 上七段というのも珍しいが、重量感に満ちた笠 は、実に堂々としていて美しい。 上下各二段に挟まれた塔身は、彫刻の無い全く の無地である。 基礎の側面にも格狭間など一切の彫刻が無いの が不思議なのだが、全体のシルエットは調和が取 れた傑作だと言えるだろう。 鎌倉中期は下らない古式の宝篋印塔である。 もう一基の宝塔は、永仁二年 (1294) の銘の在 る鎌倉後期の作である。 |
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善勝寺宝篋印塔・笠塔婆 |
東近江市青山町 |
旧愛東町の集落のひとつである青山町に在る善 勝寺は、創建時は天台宗だったが、江戸時代に浄 土宗に改められたそうだ。 寺の入口付近に、写真の宝篋印塔と笠塔婆が建 っている。 宝篋印塔から受ける最初の印象は、相輪が立派 に完存していることと、笠の部分がやや扁平であ ることだろう。 特に笠は、低い段ながら上七段で、これも背の 低い隅飾は馬耳状の一弧無地、軒とはのべ作りに なっている。形状は対照的だが、様式は前述の曹 源寺宝篋印塔に酷似している。 下二段の笠の下、上二段の基礎の上に四方無地 の塔身が載っている、というところも全く同じで ある。どちらが先かは不明だが、こちらも鎌倉中 期頃の制作と見ることが出来そうだ。 同形式の宝篋印塔がもう一基、墓地の中に保存 されている。 笠塔婆は文和三年 (1354) 南北朝前期の作で、 高さは約1m60である。刳り貫かれた舟形光背 の中に、定印を結ぶ阿弥陀如来が上下に二尊彫ら れている。側面に梵字らしき痕跡があるが、磨耗 が激しく判読は不可能だった。 |
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瑞正寺宝篋印塔 |
東近江市勝堂 |
勝堂は愛荘町に隣接する地域で、旧湖東町に属 していた町である。町外れに在る勝堂古墳群は、 県下屈指の古墳として知られる。 集落を南北に貫通する県道に面して、この寺院 が建っている。 本堂の左奥に幅の狭い墓地が在り、この宝篋印 塔が新旧の墓石と並んで保存されていた。 石造美術関連の書物には、ほとんど紹介されて いない石塔だが、一目見てかなり古いな、と思っ たのが第一印象だった。そう思わせたのは、笠の 形状が最初に目に飛び込んで来たからだろう。 上六段下二段の笠で、輪郭を巻いた隅飾は三弧 で、中には連座に載る日輪内に梵字が彫られてい る。種子の配列は判読出来なかった。 そして隅飾がほぼ垂直に立っている。笠全体が 示す重厚なイメージもあり、明らかに鎌倉中期ご ろの容貌を示しているのである。 塔身に彫られた種子は、金剛界四仏を象徴する 梵字で、写真は左がアク(不空成就)右がキリー ク(阿弥陀)である。反対側には、タラーク(宝 生)とウン(阿しゅく)が確認出来た。 後日、或る資料で調べたところ、永仁期の制作 とのことで、鎌倉中期という印象はまあまあ近か ったのか、と感じた次第。 |
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常福寺宝篋印塔 |
東近江市大清水町 |
旧愛知川町に隣接する清水地区に在る浄土真宗 の寺院である。この地域には古い寺院が密集して おり、この辺りが歴史の在る集落であることを物 語っている。 常福寺はそんな集落の南端に建っている。 写真の宝篋印塔は寺の背後の墓地のほぼ中央、 歴代住職の卵塔に挟まれて建っている。 相輪は、先端の宝珠から伏鉢までが完存してお り、秀麗な塔を一層美しく演出している。 上六段下二段の笠は均整の取れた姿であり、隅 飾は輪郭を巻いた三弧で、中は無地である。ほぼ 垂直ながら、微妙に外側へ傾いている。 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて いる。写真はキリーク(阿弥陀)で、やや弱々し い筆致ながら、しっかりと彫られている。 壇上積の基礎四面には格狭間が意匠され、その 中に写真の正面には近江らしい三茎蓮が、他の三 面には開蓮華が浮彫されている。 銘文が無いので制作年代は不明だが、全体に柔 和な優雅さが感じられること、完璧なまでに均整 が取れている事、微妙な傾斜の隅飾、優美な梵字 などを総合し、小生の印象は鎌倉最末期から南北 朝初期あたりとするのが適当ではないかと思う。 |
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興福寺宝篋印塔 |
東近江市五智町 |
五智如来を祀るお寺として知られ、創建は聖武 天皇時代にまで遡る古刹だが、現在は臨済宗永源 寺派の禅寺となっている。 宝篋印塔は書院裏の庭園内に在るので、御住職 にお願いをして見学させて頂いた。 相輪は上部に折れた痕跡があるが、修復されて ほぼ完存している。 上六段下二段は通常型で、やや小さめの隅飾は 輪郭を巻いた二弧、中は無地である。ほぼ垂直だ が、微かに外側へ傾斜している。 塔身には梵字が彫られているいることが確認出 来るが、かなり摩滅しているので判読出来ない部 分もある。写真の梵字は左がア、右がキリークら しいので、金剛界四仏と考えるのが常識だろう。 壇上積の基礎上部に、背の高い複弁反花座が意 匠されているのが特徴である。 基礎四面には格狭間が彫られ、中に開蓮華が浮 彫されている。 小生は確認出来なかったのだが、資料によれば 嘉暦元年 (1326) 鎌倉後期という年号が刻まれて いるとのことである。 全体に均整のとれた秀塔と言えるだろう。 |
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金念寺宝篋印塔 |
東近江市金屋町 |
旧八日市市の中心に近い、住宅街の真ん中に在 る浄土宗の立派な寺院である。 境内を見回して何処にも宝篋印塔は見当たらな いので、お寺の奥様にお尋ねすると、石塔内庭に 置かれているとのこと。見学をお願いすると、快 く許可を下さり案内までして下さった。 宝篋印塔は写真のように、庭園内の巨石の上に 置かれていた。 相輪は九輪の上で折れており、上部が欠損して いる。請花に蓮弁が彫られており、伏鉢も立派な ことから、見事な相輪が想像出来る。 上六段下二段の笠で、輪郭を巻いた二弧の隅飾 の中には、月輪内の梵字が彫られている。梵字は かなり摩滅しているが、部分的にア字が確認出来 た。隅飾はやや外側に傾斜している。 複弁反花座に載る塔身の四方には、金剛界四仏 の種子が彫られていると思われる。背後へ回れな かったので確認出来なかったが、キリーク(阿弥 陀)やタラーク(宝生)があることからそう判断 出来るだろう。いずれにせよ、梵字は彫りが浅く て力弱く、やや魅力に欠ける。 基礎の格狭間には開蓮華が浮彫されており、様 式的に前述の興福寺宝篋印塔に類似しているよう に感じられた。 しかし、資料によれば、こちらの塔は南北朝期 の制作であるらしい。 |
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妙法寺薬師堂宝篋印塔 |
東近江市妙法寺町 |
旧八日市市の妙法寺という集落の真ん中に、こ の薬師堂という小さなお堂が建っている。宝篋印 塔はそのお堂のすぐ脇に、花などに飾られて祭ら れていた。 塔身正面に彫られた、蓮華に座す阿弥陀如来像 に対する信仰なのかもしれない。 基礎には、両側の余白を広く取って輪郭線を入 れ、中に格狭間を彫っている。 全体がどっしりとして見えるのは、笠の隅飾り が軒と一体となった直立一弧の古式であるからだ ろう。 塔身の阿弥陀像左右に、永仁三年(1295)という 銘が入っている。鎌倉後期の最初とはいえ、中期 以前には作例のほとんど無い宝篋印塔の中では、 比較的古い方だといえるだろう。 相輪は従前には下半分が喪失していたのだが、 今回は完全な形になっているので目を疑ってしま った。しかし、それほどの違和感は無く、上手に 下半分が修復されたものだろう。 宝篋印塔に限らず、石塔の部材については種々 の問題が提起される。別の部材が組み合わされて いるのではないか、という疑問が最大のポイント なのだが、歴史的時間の中では当然有り得ること だろう。様式のズレ、材質の違い、美意識の違い などを基準に判断する、しか方法は無い。 |
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光林寺宝篋印塔 |
東近江市妙法寺町 |
前掲の薬師堂と同じ集落で、ここは国道に面し た寺域の大きなお寺である。 本堂の南側が広い墓地になっており、宝篋印塔 はその一画に建っていた。近世の墓石が並ぶ中、 この鎌倉時代後期の秀麗な宝篋印塔は古塔ならで はのオーラを放っていた。 基礎の四方は格狭間が彫られ、中には蓮華があ しらわれている。 塔身には金剛界四仏が、梵字種子によって表さ れている。やや彫りは浅いが、大らかな筆致であ る。写真は左が阿シュク (ウーン)、右が不空成 就 (アク) である。ちなみに、あとは阿弥陀 (キ リーク) と宝生 (タラーク) の二仏である。 隅飾りは輪郭の付いた三弧形式で、その中に蓮 華座に乗る月輪に梵字「ア」が刻まれている。 相輪は完存しており、破綻は無い。 基礎に嘉元二二年とあり、嘉元四年(1306)を表 している。鎌倉時代後期ということだが、全体に 洗練され均整の取れた逸品である。 近江には石造品の遺構が多く残されており、特 に宝篋印塔に関しては傑作の密集地であるとも言 える。 |
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大蔵寺三重塔 |
東近江市寺町 |
永源寺へ向かう国道の北側、愛知川に沿った旧 八日市市東部地区である。 寺の沿革については全く不明なのだが、この層 塔に関しては或る資料に、その存在のみが記され ていたことで注目していたのだった。 狭い寺域の右側に、夥しい数の小五輪塔や石仏 ・板碑などが積み上げられた一画があり、その中 央に写真の石造三重塔が建っていた。 宝珠から伏鉢までが完全に揃った相輪が、屋根 と一体に造り出された露盤に載っている。 比較的緩やかな傾斜の屋根と、軽やかな反りの 軒口、その両端の美しい反り具合などが、鎌倉中 期もしくは中期にかなり近い後期ごろの作品かと 思われた。 二・三層目の軸部と屋根は一石から彫られてお り、別石の形式の多い三重塔としてはむしろ珍し い多層石塔の様式を備えている。 初重軸部はほとんど判別出来ないほど摩滅して いるのだが、おそらくは四方仏の種子が彫られて いたのだろうと思われる。 基礎は埋もれていて大半が見えない。 現在は荒廃した雰囲気に満ちているが、大らか な古式の風貌を残した秀塔だったことは間違いな いようだ。 |
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地福寺宝篋印塔 |
東近江市糠塚 |
八日市市が五個荘や蒲生などと共に東近江市に 統合されてしまい、石造美術や松尾神社の庭園で お馴染だった“八日市”という地名が消えてしま ったのが残念である。 この寺は旧八日市市の西、近江鉄道の市辺駅に 近い糠塚という田園地帯の集落に在る。 門を入った直ぐ左側が小さな墓地で、土塀に沿 った場所に建武三年 (1336) という南北朝初めの 年号が記された宝篋印塔が建っている。 基礎には開蓮華が浮き出た格狭間が彫られ、複 弁の反花座に載っている。 塔身の四方には、月輪に囲まれた金剛界四方仏 の種子梵字が彫られている。正面はタラーク(宝 生)で、右がウーン(阿しゅく)である。 笠は下部が二段、上部は五段で、二弧の隅飾り には輪郭内の月輪に梵字バン(大日)が彫られて いる。小振りな宝篋印塔ながら、なかなか気の利 いた装飾だといえる。 相輪は太い割りに華奢に見えるのは、上部の宝 珠と下部の請花が極端に尻すぼみになっているか らだろう。これは南北朝の特徴で、豪放な鎌倉期 から典雅な様式へと移行しつつある過渡期の作品 であると言えるだろう。 左に立つ板碑は、室町期の名号板碑である。 |
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大蓮寺宝篋印塔 |
東近江市市辺町 |
浄土宗の大きなお寺で、旧八日市市の西部、近 江鉄道の市辺駅と長谷野駅の間に位置している。 立派な本堂の右側に、様々な石造美術が集めら れた場所が有り、鎌倉時代の見事な如来形三尊石 仏などと一緒に、この堂々たる宝篋印塔が祀られ ていた。 2m30強はある大きな宝篋印塔なのだが、何 か不自然さを感じるのは、基礎が未完成であるか らだった。壇上積式が未完成で、側面には上下の 線しか彫られていないのである。 基礎の載る基壇は、見事な複弁反花で飾られて おり、やや勿体無い気がする。 塔身には、金剛界四仏の種子(梵字)が彫られ ている。写真は左がタラーク(宝生)、右がウー ン(阿しゅく)である。やや迫力を欠いた筆致な ので、鎌倉期は過ぎているのだろう。 上六段、下二段の笠は威厳のあるもので、隅飾 は輪郭を巻いた二弧、中は無地であり、少し外側 に反りを見せている。 相輪は完存するが、肩の張った宝珠、ややずん ぐりとした九輪など、これも鎌倉は過ぎているよ うに思えた。 総合的に判断して、南北朝期の制作だろうと思 われる。 |
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引接寺薬師堂宝篋印塔 |
東近江市今崎 |
前述の大蓮寺とは近江鉄道の長谷野駅を挟んだ 東側に在る集落で、延暦寺領とされた由緒ある地 区である。寺はその当時の創建とされるが、守護 神として鎮座した日吉神社が隣接する。 神社の参道脇に小さな薬師堂があり、その堂前 に写真の宝篋印塔が置かれている。 笠や塔身の背面部分がかなり損傷しているが、 残された部分の完成度の高さから、かつての見事 な全体像が想像されてくる。 相輪は、九輪部分の上部から上が喪失している が、伏鉢や請花の典雅な形からはさぞ剛毅だった であろう相輪の姿が推定出来る。 笠は上六段下二段で、輪郭を巻いた三弧の隅飾 には蓮座に載る月輪内に梵字が陰刻されている。 隅飾は、微かに外側へ傾斜しているが、ほぼ垂直 と言っても良いかもしれない。 塔身には、四方仏坐像が彫られているが、具体 的な尊像名は小生には判別出来なかった。 上二段の基礎の側面は壇上積で、中に格狭間を 意匠し、開蓮華を厚肉彫している。 近江における宝篋印塔の、鎌倉後期の傑作のひ とつと言える。 |
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養源寺宝篋印塔 |
東近江市上大森町 |
大森地区は旧八日市市の南東に在る集落で、特 に上大森の整然とした町並や重厚な建築からは、 裕福な層が住んでいた面影が伺える。 曹洞宗のこの寺院は、そんな家並の間に瀟洒な 佇まいを見せている。 門を入って直ぐの右手に、鉄柵に囲まれた鎮守 社と並んでこの宝篋印塔が祀られていた。 基礎の意匠を見ると、正面と裏面には格狭間内 の宝瓶三茎蓮華、右側南面に開蓮華、左側北面に 珍しい二片の散蓮華が彫られている。基礎上には 複弁の反花座が設けられており、その上に塔身が 載っている。 塔身には金剛界四仏の種子が彫られているが、 蓮座に載る月輪内の梵字はやや摩滅気味である。 筆致はやや迫力に欠ける。 笠は下二段上五段で、力強い造形的表現を示し ている。隅飾は輪郭を巻いた二弧で、中は無地で あり、微かな反りはあるもののほぼ垂直に立って いる。 相輪は、ずんぐりとした九輪部分が好みではな いが、豪快な伏鉢や複弁の請花、九輪、単弁の請 花、割りとふっくらとした宝珠などが完存してい る。総合的に見て、鎌倉後期の作と推定できる。 |
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極楽寺五輪塔 |
東近江市大森町平尾 |
大森地区から少し離れた一画に平尾の集落があ り、その中央にこの小さなお寺が建っている。宗 派を調べ損なったが、門前に「不許酒肉入山門」 と刻んだ石標があるので禅宗である事は知れる。 山門を入った直ぐ左手に、高さ2m65の大振 りな五輪塔が建っている。 薄い基壇の上に複弁の反花座が設けられ、その 上に載った大和様式の五輪塔である。 五輪それぞれの四面に、五輪塔四門(発心・修 行・菩提・涅槃)の種子が薬研彫りされている。 写真は正面(発心門)で、上からキャ(空)・カ (風)・ラ(火)・バ(水)・ア(地)という梵 字が彫られている。梵字の筆致は弱々しい。 空輪の宝珠はやや肩が張っているがふっくらと しており、風輪の請花は空輪に合わせて大らかで ある。 火輪の笠は、やや傾斜のきつい屋根で、軒口は 両端で極端に反り上がっている。このあたりは、 最も南北朝的な特徴だろう。 やや扁平な壺形球体の水輪と、地輪(基礎)の バランスは悪くない。 無銘ながら、南北朝期の秀作と言えるだろう。 |
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長福寺宝篋印塔 |
東近江市大森町 |
平安初期に創建されたと伝えられる天台宗の古 刹だが、現在は小さな本堂だけが残る静かな寺院 である。十一面観音を本尊とし、近江西国三十三 観音霊場の第二十八番札所となっている。 宝篋印塔は本堂の右手前に、竹垣に囲まれて建 っている。 相輪は、修復の跡が見られるが、宝珠から伏鉢 までが完備している。 笠は、上六段下二段で、均整の取れた良い形を している。隅飾は輪郭を巻いた二弧で、内部は無 地であり、微妙な傾斜は見られるがほぼ垂直に立 っているようだ。 塔身には金剛界四仏の種子が彫られているが、 かなり摩滅しているために梵字の魅力は余り感じ られない。しかし全体像のバランスから見ると、 塔身は幅も高さも申し分の無い大きさだと言える だろう。 基礎の上部には複弁の反花が意匠されているの で、優雅な佇まいを誇っている様に見える。基礎 側面は四面ともに輪郭を巻き、格狭間が意匠され ている。中には近江文様の三茎蓮華が彫られてお り、背面だけが開蓮華となっている。 無銘の宝篋印塔だが、総合的に判断して、鎌倉 後期は下らないだろうと思う。 |
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正寿寺宝篋印塔 |
東近江市柏木 |
柏木の集落は旧八日市市の東端に位置し、お寺 は民家を少し大きくしたような素朴な佇まいで、 門前に農地が広がっていて牧歌的な雰囲気すら感 じられた。 本堂左手の植栽の中の基壇に、古びた二基の宝 篋印塔が建っていた。 写真は向かって右側の塔で、正応四年(1291)と いう鎌倉後期の初めという魅力的な年号が基礎部 分に刻まれている。 相輪は、なで肩でふっくらとした宝珠から、請 花、九輪、蓮弁の請花、伏鉢と完備しており、当 初からのものと考えられる。 笠は上五段下二段で誠に重厚であり、ほぼ垂直 に立つ隅飾は輪郭を巻いた二弧で、中には蓮華座 に載る月輪に梵字「ア」が彫られている。 塔身には、刳り貫かれた舟形の中に四方仏が半 肉彫りされており、釈迦や阿弥陀を含む顕教四仏 (他は薬師、弥勒)と考えられる。石仏としても 十分鑑賞に値する造形である。 基礎は上二段で、各面共左右に幅広く輪郭を取 り、中にふっくらとした格狭間を意匠している。 格狭間の形にも時代性が表れており、鎌倉期なら ではの力強い曲線の張りが感じられる。 |
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多聞院宝篋印塔 |
東近江市中羽田町 |
竜王町へと抜ける雪野山トンネルの入口背後の 山裾、木立に囲まれて森閑とした雰囲気に満ちて この寺院の本堂が建っていた。 石段を登った本堂の左手に、二基の宝篋印塔が 建っている。写真は塔の右後方から撮ったものな ので、右側面と背面が写っている。 手前の塔(西塔)と奥の塔(東塔)は大きさが 全く違うのだが、構造や意匠はとても似ている。 一部に修復の跡が有るが、相輪は宝珠から伏鉢 まで完備している。笠は上六段下二段、隅飾は輪 郭を巻いた二弧で中は無地、微かに外側に反りが 見られる。塔身には、どちらも金剛界四仏の種子 が薬研彫りされている。 詳細に眺めて見つけた両塔の差異は、四仏の配 列が違うことだった。時計回りに、奥東塔はタラ ーク・キリーク・アク(写真右面)・ウーン(写 真左面)と通常であるのに対して、手前西塔はキ リーク・タラーク・バン <金剛界大日>(写真右 面)・ウーン(写真右面)となっている。 基礎の上部は、手前塔が二段であるのに対し、 奥塔には複弁反花座が意匠されている。 両塔共に銘は無いが、様式的に鎌倉後期の制作 が推定出来る秀塔と言えるだろう。 |
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円通寺宝篋印塔 |
東近江市上羽田町 |
先述の中羽田町に隣接する上羽田町の集落の中 心に建つ円通寺を訪ねたが、御住職は不在で境内 に宝篋印塔らしき姿は発見出来なかった。 町の古老に伺い、現在墓地はそっくり集落から 少し離れた、畑の中に設けられた共同墓地に移設 されたと判った。 墓地の中央、山のように積み上げられた無縁の 墓石や石塔群の最上部に、写真の見事な宝篋印塔 が建っていた。 完存する相輪、垂直に立つ隅飾、薬研彫りの鮮 やかな梵字、形の良い格狭間などのバランスの良 さが、最初から鎌倉後期の制作を予感させたが、 やはり嘉暦元年 (1326) という銘を塔身に見るこ とが出来た。 笠は上六段下二段、輪郭を巻いた二弧の隅飾の 中は無地だった。 塔身の梵字は金剛界四仏の種子で、写真はアク (不空成就如来)である。 基礎上部には複弁反花座が設けられており、側 面には、幅広の輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、 中に開蓮華文様を浮彫している。 やや様式化しつつあるとは言え、いかにも鎌倉 期らしい毅然たる雰囲気に満ちた美しい塔だ。 |
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霊感寺宝篋印塔 |
東近江市山上町 |
愛知川沿いの山上町は旧永源寺町に属していた が、合併で東近江市に編入された。 県別地図にも表示されていない観光的には無名 の寺だが、石造美術愛好家にとっては決して外せ ない重要な場所なのである。 写真の宝篋印塔は、寺の左奥に在る墓地の一画 に祀られており、乾元二年 (1303) という鎌倉後 期の珍しい年号が記されている。 基礎は壇上積式で、側面の三面に格狭間が彫ら れ、その中に最も注目すべき「孔雀文様」が意匠 されているのである。羽を伸ばした横向きの一羽 がそれぞれ描かれている。写真の正面は左向き、 他の二面は右向きである。近江ならではの愛らし い意匠で、石塔巡りの楽しみの一つとなっている のである。 基礎上には複弁反花座が彫られ、金剛界四仏の 種子が彫られた塔身が載っている。写真の梵字は 正面のキリーク(阿弥陀)で、右はタラーク(宝 生)である。 笠は上五段下二段で、輪郭を巻いた二弧の隅飾 がほぼ垂直に立っている。微妙に外側に反ってい るようにも見える。 宝珠に火焔が彫られているとされる相輪は完存 しているが、石質が違うようにも見える。 |
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石塔寺三重塔 |
東近江市石塔 |
石造の五重塔や十三重塔は多いが、三重塔の事 例は案外稀少である。 この石塔は奈良時代の初め、朝鮮百済から来た 石工の仕事と言われ、確かに従来の日本の石塔の 印象からはやや異質な感が有る。 しかし、全景を眺めると、あたかも優雅に舞い 踊る人の姿のようにも見え、また木造の三重塔の シルエットにも近い様な気がして来る。 塔身とは不揃いな相輪部分は後補だとして、各 層の間隔が従来の石塔のものより広いように見え るが、肉厚で伸び伸びとした屋根の反りと一体化 させることで、見事な均整美を生み出している。 この清楚で、無駄な装飾の一切無い、研ぎすま されたような美的感覚に、限り無い尊敬と憧憬を 抱かざるを得ない。これほど美しい石塔を、今ま で日本では見たことが無い。 先般韓国を旅する機会を得、扶餘の町の郊外、 長蝦里という農村に残る百済時代の三層石塔を訪 ねたのだが、その全体像は石塔寺のこの塔にとて もよく似ていると感じられた。 韓国には統一新羅・三国時代の夥しい数の三層 石塔が残っているが、日本のこの塔も含め百済式 の石塔は誠に貴重である。 |
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石塔寺五輪塔 |
東近江市石塔 |
最古の石造三重塔で知られるこの寺だが、一体 全部で何基の石塔が境内に祀られていることだろ う。三重塔周辺だけでも、無数の五輪塔で埋め尽 くされている感がある。夥しい数の人達の信仰の 累積、としか言い様もない。 その中で、一段高い場所に置かれているのが写 真の二基である。いずれもが、重要文化財に指定 されている、というので驚いた。 左の塔の基礎には嘉元二年 (1304) 鎌倉後期の 銘があるのだが、空風輪が不釣合いであり、偏平 な水輪にのみ梵字「バ」が彫られているのが奇妙 である。 右の塔には貞和五年 (1349) 南北朝前期の銘が 見られるが、五輪の梵字の内水輪のみが異体であ り、これもまた奇妙である。 学術的にも貴重な銘文が確認されたことで重要 文化財に指定されたらしいが、部材が寄せ集めの 可能性もあり、全体的には秀逸な五輪塔とは申せ 疑問だらけの重文指定と言わざるをえない。 |
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涌泉寺九重塔 |
東近江市鋳物師 |
旧蒲生町の鋳物師(いもじ)という、大層珍し い名前の集落にある寺である。近江鉄道の朝日野 駅から近く、牧歌的な風景の中を歩くと、木立に 囲まれたこの寺の屋根が見えてくる。 写真は、本堂横の小堂の前に建つ、どっしりと した感じのする九重石塔の姿である。 基礎は失われていて自然石が利用されている。 初重軸部だけ石の色が白っぽく感じられたが、 近年洗ったからなのだそうで、四方仏の彫像は見 事であり、一つの面に永仁三年(1295)鎌倉後期 の初めという年号が入っている。 前述の松尾寺の九重塔も同様だが、各層の笠と 軸部に厚さがかなりあるので、堂々としているも のの塔全体が細長く感じられる。 洗練され垢抜けたデザインとは言い難いが、こ れは“近江らしさ”であり、私は実はこの素朴さ 故に近江が贔屓になっているのかもしれないので ある。 この旧蒲生町は層塔の密集地で、前述の石塔寺 を筆頭に、鎌倉以前の古層塔が私の知る限りでも 八基は数えられるほどである。ここ涌泉寺の他、 前述の石塔寺、後述の赤人寺のものと、三基の層 塔が国の重要文化財に指定されている。 |
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赤人寺七重塔 |
東近江市下麻生町 |
前述の涌泉寺から北へ約1キロのところに、下 麻生という集落がある。ここは山辺赤人の生まれ た地と言われ、赤人を祭る山辺神社が鎮座してい る。神社に隣接してこの寺のお堂が建っており、 “あかひと”寺とも“しゃくにん”寺とも呼ばれ るらしい。 本堂の真裏の狭い庭の片隅に、この荘重な花崗 岩の石塔が建っていた。 相輪が失われているのが残念だし、笠のあちこ ちに損傷が見られるものの、全体的な立ち姿から 受ける印象はとても美しい。基礎から軸部、そし て笠に至るバランス感覚が抜群に優れているから なのだろう。 基礎には輪郭の中に格狭間を刻み、さらに三茎 蓮が線刻されている。 初重軸部には金剛界四方仏が梵字で表現されて おり、趣味の良い書体で薬研彫りしてある。写真 に写っている梵字はウーン(阿しゅく)で、その 左が正面に当たるタラーク(宝生)である。 銘が刻まれていたがはっきりしなかった。資料 によれば、文保二年 (1318) 鎌倉後期制作とのこ とで、笠の両端がピンと反っている事からも、文 保はともかく後期という事は想定出来るだろう。 |
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旭野神社七重塔 |
東近江市上麻生町 |
この塔の建つ旭野神社は、実は先述の赤人寺と 涌泉寺の間にある上麻生という集落にある。二つ の重要文化財に指定された石塔を訪ねた後、もう 一基重要な七重塔が在ることを知り、再び戻った のだった。 全体の塔の印象は、先述の赤人寺のものと比べ ると、やや鈍重な感は拭えない。おそらくは、笠 の肉厚なところが重々しさとなって伝わるからな のだろうが、これはこれで近江らしいと言うこと が出来るかもしれない。 それに引き換え、この塔の洗練された存在感を 伝えるのが、基礎の格狭間に刻まれた近江式孔雀 の図柄であろう。羽を広げ、悠々と飛ぶ一羽の孔 雀の像が、優雅に彫り込まれている。 これを見るために戻った、と言えるかもしれな い。写真の正面がそれだが、他の面は三茎蓮文様 だった。これらの近江式文様と呼ばれる意匠は、 西へは伝わったのだが、関東では余り見かけられ ないものだ。 基礎上部の単弁反花の意匠が層塔に彫られるの は珍しいし、初重軸部の梵字四方仏も見事な薬研 彫りが成されていて見所となっている。写真には タラーク(宝生)が写っている。 |
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梵釈寺宝篋印塔 |
東近江市岡本町 |
日本最古の木像宝冠阿弥陀如来像を拝んだ後、 境内に安置された形の良い宝篋印塔に目が釘付け になってしまった。 嘉暦三年 (1328) という鎌倉末期の銘があるの だが、全体像は中後期の雄渾な面影を残している ようにも見える。 写真の塔身には金剛界四方仏の梵字が彫られて おり、南正面にタラーク(宝生)が見える。その 右側 (東)は通常ウーン(阿しゅく)なのだが、 北側のアク(不空成就)と入れ替わっている。理 由は不明だが、単純ミスの可能性もある。残りの 一つは西のキリーク(阿弥陀)である。 基礎の側面は格狭間で飾られているが、写真で 見る通り、正面の格狭間内に一羽の孔雀が彫られ ている。他の面には蕾・開蓮華・散蓮華の三種が 彫り分けられており、何とも細やかな配慮の行き 届いた意匠であると言える。 基礎上部の単弁反花がさりげない優雅な装飾で あり、このあたりは鎌倉期の武骨さから、南北朝 の洗練された形式への脱皮を物語っているように も見える。 相輪は見るからに新しくみえるのだが、実は流 失していたものが門前の田の中から近年発掘され たからだそうで、この塔のものであることが確認 されたそうである。 |
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法光寺宝篋印塔 |
日野町北脇 |
前掲の安部居から国道を1キロ程北上した左手 の山麓に、この静かな曹洞宗の山寺が静かに建っ ている。宝篋印塔の見学をお願いすると、応対さ れたのは御住職の尼様であった。 御本尊の薬師如来像(平安期)の拝観もさせて 頂き、静かなひと時を過ごすことが出来た。 この宝篋印塔は、やや破損が目立つものの、嘉 暦二年 (1327) 鎌倉後期の銘を持っている。 基礎は、壇上積式の輪郭いっぱいに彫られた格 狭間に、様々な近江文様が施されている。写真の 陽の当たる面は西面で、宝瓶三茎蓮華が彫られて いる。陰になって見えないが、北面は右向きの近 江孔雀、東面は西面と同じ、南面は開蓮華、と誠 に多彩な意匠である。 塔身には、金剛界四仏の種子が薬研彫りされて いる。写真は右がアク(不空成就)、左はウーン (阿しゅく)である。 笠は、上五段下二段で、小さめの隅飾は輪郭を 巻いた二弧、中は無地でほぼ垂直に立っている。 どっしりとした重厚な笠である。 相輪は、九輪の六輪目より上部が欠落している のは惜しいが、豪快な伏鉢や請花からも創建時の 豪快さが想像される。 |
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念法寺宝塔 |
日野町安部居 |
日野町の北部に位置している真宗大谷派の寺院 で、八日市へと向かう国道307号線からは行き 易かった。 立派な山門や本堂は、江戸期の建築である。 写真の宝塔は本堂の左手に建つ鐘楼の脇で、自 然石を基盤にして建っていた。 基礎の側面は、太い輪郭を巻いた中に格狭間が 彫られている。 塔身軸部には、四方に扉型が彫られており、中 に六字名号が彫られている。摩滅しているので、 知らなければ見逃してしまうだろう。 塔身上部の帯状張り出しの上に、勾欄と首部が 作り出されている。 笠は、屋根裏に垂木型が意匠されており、軒口 は両端でかなり反り上がっている。屋根の傾斜は 緩いが三筋の降棟が彫られており、装飾を意識す る時代へと移りつつある背景を物語っているのか もしれない。 笠上部には露盤が設けられており、そこに相輪 が載っている。相輪は最下部の伏鉢が喪失してお り、請花から上が残っているらしい。別物である 可能性も考えられる。 鎌倉末期から南北朝への移行期に制作されたも の、というのが小生の印象である。 |
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八幡神社宝篋印塔 |
日野町里口 |
日野町役場のある松尾から、日野商人街道と呼 ばれる旧道を2キロ程東へ行った集落である。 八幡神社は街道に面して建っていた。 写真の宝篋印塔は、本殿の建つ玉垣の中、向か って右側に建っていた。 相輪は欠落しており、笠の一部は崩壊してはい るが、美しいフォルムは失われていない。 笠は上五段下二段で、隅飾は輪郭のある二弧で 中は無地、ほぼ垂直に立っている。 塔身には金剛界四仏の梵字が彫られている。写 真は、左がウーン(阿しゅく)、右がアク(不空 成就)である。アクの横に銘文が彫られ、貞治五 年(1366)南北朝中期の年号が確認されているとい う。肉眼ではそれとなく見えた、という程度であ る。梵字の彫りは弱々しく、いかにも南北朝とい う書体だろう。 ここでは、上に二段を載せた基礎が最大の見所 である。壇上積みの形式で、格狭間の中に宝瓶に 飾られた三茎の蓮華が意匠されている。いかにも 近江らしい意匠である。 四面ともに異なった意匠で、写真は蓮華が三つ 共上向き、右隣は三つ共下向き、左隣は上向きと 下向きが混在、奥は散蓮華の花びらが彫られてい るのである。いかにも手の込んだデザインではな いかと思うが、全体的な造形力は退化へと向かっ ているのかもしれない。 |
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摂取院宝篋印塔 |
日野町内池 |
内池は前掲の里口に隣接する集落である。近鉄 日野駅のすぐ東に当たる。 摂取院は、蒲生氏郷の曾祖父高郷の菩提寺とし て建立された浄土宗の寺院である。 本堂の前の一画に広い墓地があり、交差する通 路の中央に写真の宝篋印塔が建っている。 一見して違和感が感じられるのは、相輪部分に 置かれた小宝篋印塔の笠と別物の相輪のせいだろ う。小生の最も嫌いな全く別の部材を組み合わせ た事例で、信じ難いセンスとしか言い様がない。 笠は上六段下二段で、三弧隅飾の輪郭内は無地 である。隅飾の先端はほぼ垂直に立っている。 塔身には、金剛界四仏の梵字が四方に彫られて いる。写真は右がアク(不空成就)、左がウ-ン (阿しゅく)で、ウーンの脇に元応二年 (1320) 鎌倉後期の年号が彫られている。相当磨滅してい て判読は困難だった。 梵字は、やや切れ味の鈍い書体で、薬研彫りの 溝は浅く、鎌倉期の力強さは失われている。 基礎は上に二段を備えた壇上積式で、格狭間の 中に宝瓶三茎蓮文様を意匠している。背面のみ蓮 の無い無地だった。 早急に相輪の醜悪な部材を外し、相輪も無けれ ば無いままの姿に、一刻も早く戻してほしいと念 じる次第である。 |
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禅林寺層塔 |
日野町猫田 |
摂取院の南に猫田という集落が在り、禅林寺は 入り組んだ判りにくい場所に隠れるように建って いる。 創建は不明だが、江戸初期に黄檗宗として再建 されたのだという。 境内に入って直ぐ右手、お堂の前に写真のいか にも古そうな層塔が建っている。 現在は四重塔だが、形状からも当然従来は五重 塔であっただろうと思われる。 相輪は完全に失われている。 基礎の正面に梵字「ア」が彫られているが、こ れは胎蔵界大日如来を象徴している。 各層の屋根と軸部は別石で、屋根は緩い傾斜で 軒口は薄く、両端の反りも微妙で見るからに古式 を思わせる。軸部の大きさは、初層と二層目に段 差があるように思われる。 かなり磨滅はしているものの、鎌倉中期は下ら ない初期にかけて制作されたものと推察出来る。 層塔の右に石燈籠が建っているが、完存する宝 篋印塔の部材に燈篭の火袋と基礎を加えた悪質な 仕立てで、管理者の方がまともな美意識と歴史観 をお持ちならば、即刻正常な宝篋印塔に戻してい ただきたい。 |
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比都佐神社宝篋印塔 |
日野町十禅師 |
日野町に十禅師という珍しい名の集落があり、 その村外れに木立に囲まれた静かな別天地とも言 える当社が在る。 参道を歩けば、拝殿の手前左手に大きなこの宝 篋印塔を見る事が出来る。 先ず目に入るのは基礎の装飾だろう。四方は輪 郭線に縁取りされ、その中の格狭間には写真の向 かい合った二羽の孔雀のほか、蓮華の花や銘文な どが彫り込まれている。近江文様を代表する孔雀 が、特に素晴らしかった。 次に塔身の梵字種子だが、ここでは胎蔵界四仏 が彫られている。写真は、蓮座に載った月輪の中 に彫られた「ア(宝幢如来)」である。 笠の隅飾は三弧であり、笠上の段が七段と豪華 な造りになっている。堂々として見えるのは、こ れらの意匠によるものだろう。 塔身に銘文が彫られているのだが、摩滅してい てほとんど読めない。嘉元二年(1304)という紀年 銘があるはずなのだが、言われてみれば微かにと いった程度だった。 相輪は失われているものの、全体に品格の漂う 落ち着いた風格ある宝篋印塔である。近江地方の 鎌倉時代後期を代表する秀作である、と言える。 |
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慈眼院宝篋印塔 |
日野町大窪 |
大窪は日野中心部松尾の南に隣接する地区で、 慈眼院は山門の中に整然とした雰囲気が感じられ る曹洞宗の禅寺である。 本堂前の松の大木の根元に、写真の宝篋印塔が 建っている。 相輪は、宝珠・請花・九輪・請花・伏鉢が完全 に揃っている。九輪に折れた際の割目が有るが、 ほとんど問題無い。単弁八葉の下部請花や見事な 伏鉢が力強い。 笠は上五段下二段で、隅飾は二弧輪郭内は無地 でやや外側に傾いている。 塔身には金剛界四仏の梵字が月輪内に彫られて おり、写真の梵字はアク(不空成就)だが、右側 に暦応二年(1339)南北朝前期の年号が彫られてい る。言われて微かに読める程度である。 梵字の彫りは浅く、薬研彫に迫力が感じられな い。南北朝の特徴の一つ、だと言えるだろう。 基礎は基盤が無く、直接地面に置かれている。 上部に複弁反花座と薄い一段を設け、塔身を受け 止めている。側面は壇上積式で、中に格狭間を意 匠している。格狭間内には、三面に三茎蓮文様が 描かれており、背面のみに散り蓮華が彫られてい る。 近江文様の魅力もさることながら、近江の石造 美術の質の高さがしみじみと感じられる。 |
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蒲生貞秀廟所宝塔基礎 |
日野町村井 |
古い家並が続く村井の町の中心に、室町以降こ の地を統治した日野城主蒲生貞秀の菩提寺である 信楽(しんぎょう)院が建っている。 寺の裏手は谷になっており、畑の向こうの竹薮 の丘陵に貞秀の廟所が在る。 墓石は江戸期の五輪塔だが、その台石に鎌倉後 期の宝塔の基礎が流用されている。出自は不明で ある。 壇上積式輪郭の中に格狭間が彫られ、中に向か い合う二羽の孔雀が意匠されている。次に掲載す る比都佐神社の宝篋印塔基礎にも匹敵する、近江 文様の傑作のひとつである。 左右の側面には中心が開花と蕾の二種の宝瓶三 茎蓮が、そして背面には開蓮華が配され、さなが ら近江文様の原点の様な存在となっている。 |
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雲迎寺宝篋印塔 |
日野町音羽 |
日野町の中心から四日市へ通じる国道477号 線を、西へ4キロほど行ったあたりの山あいに、 この浄土宗の寺院が建っている。 さつき寺という愛称を持つほど、境内はさつき で覆われている。 本堂の西側に大きなさつきの築山が在り、中腹 に写真の宝篋印塔が建っていた。貞和五年(1349) の銘が確認された、南北朝前期の塔である。 相輪は、立派な伏鉢と単弁文様の請花が特徴だ が、九輪の上端から上が喪失している。 笠は、上六段下二段で、隅飾は二弧、輪郭内は 無地、ほぼ垂直に立っている。この地方の宝篋印 塔の隅飾は、南北朝期でも垂直に立っており、大 きな傾斜を見せる事例は少ない。 塔身には、四方に金剛界四仏の梵字が薬研彫り されている。その筆致に力強さは見られない。 写真の梵字は、影部分がキリーク(弥陀)、右 側がタラーク(宝生)である。 基礎上部の単弁三葉反花が、心憎い装飾となっ ている。 基礎は壇上積様式で、格狭間の中に三面は宝瓶 三茎蓮の文様が、そして残りの一面は素地という 意匠になっている。 |
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八幡神社宝篋印塔 |
日野町北畑 |
先述の音羽で西明寺へと通じる県道へと入り、 直ぐに北畑へと通じる分岐に着く。 北畑集落の中程に八幡神社があり、本殿へは石 段を登って行くことになる。 本殿の御神体は、神社だというのに阿弥陀如来 で、神仏混淆の名残なのだろう。 本殿の左側の崖を背にして、切石の基壇上に端 正な宝篋印塔が建っていた。 塔身正面の梵字キリーク(弥陀)の横に、正安 元年(1299)鎌倉後期という、中期に限りなく近い 魅力的な年号が彫られている。 塔身には、金剛界四仏の梵字が、月輪や蓮座は 無くそのまま薬研彫されている。筆致はやや浅い が、大らかな書体である。 相輪は、上の宝珠から下の伏鉢までが完存して おり、特に下請花の単弁八葉の花弁が美しい。 笠は、上五段下二段で、ほぼ直立する二弧の隅 飾の輪郭の中は素地である。 上部に二段を構えた基礎は、壇上積み式で中に 格狭間が彫られている。残念ながら、格狭間の中 は無地だった。 笠の背面の一部が破損しているが、全体に均整 の取れた秀逸な古塔の一つだろう。 |
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西明寺宝塔 |
日野町西明寺 |
北畑から県道をさらに登って行った突き当り、 町の東端竜王山の山裾に建つ臨済宗永源寺派の寺 院である。元は天台宗だったそうだ。 本堂裏の山中に墓地があり、歴代住職の卵塔と 並んで右端あたりに写真の宝塔が建っている。 傾斜したままで、やや乱雑に扱われている感が あるが、鎌倉後期の特徴を示すれっきとした古塔 である。 相輪は、九輪の中程から上が欠落している。 上に露盤を備えた笠は屋根の傾斜が緩やかで、 棟降が効果的に意匠されている。 軒口は程良い厚さで緩い曲線、両端がやや強く 反り上がっている。 笠裏には、一重の垂木型が彫られている。 写真は右側面からのものだが、正面にのみ扉型 が線彫りされている。 塔身上部は、装飾の無い勾欄と首部とによって 構成されている。 上部に円形座を設けた基礎は、側面に輪郭を巻 き、中に格狭間を彫っている。 墓地左側に、笠のみが鎌倉期の宝篋印塔や、乾 元二年(1303)鎌倉後期の年号が入った宝篋印塔の 基礎などが保存されている。 |
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寂照寺宝篋印塔 |
日野町蔵王 |
日野町の東外れに蔵王という集落があり、この 寺は街道に沿った小高い丘の上に静かに建ってい る。 本堂の前庭左手に、写真のような宝篋印塔と宝 塔の二基がさりげなくたたずんでいた。 宝篋印塔の隅飾が古式の馬耳状であるのを見た だけでも、この塔が相当古いものであることが判 るだろう。 隅飾は一弧で装飾は無いが、それが逆に簡素な がら格調高い洗練された味わいを感じさせる。 塔身には、蓮華座に載る四方仏が半肉彫で表さ れており、均整の取れた立ち姿となっている。 基礎には輪郭、格狭間が意匠され、その中に三 本の蓮華が彫り込まれている。やや摩滅していて 写真ではよく見えない。 塔身や基礎の優れた装飾と、笠の簡素な古式と はやや異質だが、これは鎌倉中期から後期への過 渡期だったのではないかと解釈した。 写真奥の石造宝塔も見応えのある作品で、鎌倉 後期のものである。いずれも相輪は後補である。 |
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寂照寺宝塔 |
日野町蔵王 |
宝篋印塔については前項に掲載したのだが、こ のお寺の境内には重要文化財に指定された鎌倉後 期の宝篋印塔と、この石造宝塔とが並んで建って いる。 静かな山里の鄙びた古寺の狭い前庭であり、こ の貴重な二基の石塔がさりげなく並ぶ様は、何と も贅沢な眺めであり、石造美術愛好家にとっては 至福の時間だと言える。 上から順番に観て行こう。 相輪は堂々とした太さで、宝珠・請花・九輪・ 請花・伏鉢が完存して露盤に乗っている。但し、 後補の可能性を挙げる人もいるらしい。 重厚な感じのする笠は、屋根の四隅に降棟を彫 り、傾斜は微妙な膨らみを見せている。軒の両端 に反りがあり、厚さも鎌倉末期の様式そのままの ようだ。笠下に一重の垂木型が設けられ、二段に 造られた首部と縁板状の彫られた塔身に繋がって いる。 塔身の四方には、セオリー通りに扉型が彫られ ている。教義からも必然的といえる様式なのでは あるが、どうも意匠として優れていると思ったこ とは一度も無い。 基礎四面には格狭間が彫られ、三茎蓮や開蓮華 が各面に彫られている。背面のみ無地である。 近江の石造宝塔の基礎には、ほとんどの場合、 こうした格狭間に蓮華文様が施されており、近江 式と称されている。 銘は無いが、鎌倉末期の制作と考えて間違い無 さそうである。 |
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正法寺宝塔 |
日野町鎌掛 |
日野の中心部からはかなり離れた、山の中の小 さな集落にこの寺はある。 大きな墓地があるのだから、お寺としては現役 なのだろうが、本堂周辺や境内はひっそりと静ま り返っていた。 宝塔は境内より一段高い、墓地への上り口の階 段脇に建っていた。 いかにも堂々とした風格は、一目で鎌倉後期と 素人にも言えるほど典型的なフォルムに見える。 重要文化財の解説看板には正和四年(1315)の造 立、と記されていたので満更でもない気分になっ た。 基礎の四方には輪郭・格狭間が施されており、 特に正面だけに蓮華が彫られている。 塔身の上部は縁取りをしたようになっており、 軸部四方に扉型が彫られている。 二段の首部と軒下の垂木型が荘重であり、厚い 軒の反りは両端で剛毅な曲がりを示している。 相輪も完璧で、どこを切り取っても鎌倉後期と しての見事な特徴を見ることが出来る。 ただ、そのことは、様式が時代と共に定型化し てきている証拠であり、それ以降は造形的な力強 さを次第に失っていくこととなるのである。 |
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