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| 日本の石仏 京・大和の石仏 |
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| 仏教美術の中心であった奈良・京都には、歴史 的に重要な木像や金銅製の仏像が数多く残されて いる事で知られる。 実は石仏の分野も同様で、日本最古の石仏であ る奈良時代前期に造られた滝寺磨崖仏、飯降磨崖 仏、石位寺三尊石仏などは、全て大和の国に存在 している遺蹟なのである。 京都府の旧加茂町や笠置町は大和国境に近く、 奈良の影響を受けた仏像や石仏も多い。 特に、岩船寺や浄瑠璃寺のある当尾(とうのお) 地区では、多くの魅力的な石仏や石像美術を観る ことが出来る。 京都は知られざる石仏の宝庫であり、鎌倉時代 を中心とした阿弥陀石仏などが密集している。 京都で石仏巡りをする人を見ることは余り無い のだが、密かにお薦めをするものである。 当尾石仏群の内の「唐臼の壺」阿弥陀磨崖仏」 京都府木津川市加茂町 |
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| 大原弥陀石仏 (京都市左京区) |
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大原勝林院の墓地に阿弥陀如来石仏が在る、と 聞いて訪ねてみた。しかし、境内の何処を探して も墓地らしきものは見当たらず、途方にくれて拝 観受付の女性に聞いたが知らないと言う。 無住の寺を管理する塔頭の宝泉院で尋ねてみる と、親切な御住職が案内すると言うではないか。 その場所へ行くには、美しい宝篋印塔の脇を抜 け、三千院の裏山へと少し登って行かねばならな かった。自分だけでは絶対に判らない場所である。 三千院の境内にもつながっているらしい。 石仏は覆屋の中に安置された堂々たるお姿で、 御住職も久しぶりのお参りと喜んでおられた。 昼なお暗い谷間なので、石仏の像容がよく見え ない。かなり摩滅しているようだが、それでも頭 部の螺髪は繊細に彫られ、優しく美しいお顔をな さっておられることは判った。 まるで木彫の仏像を思わせるような見事な彫り であり、鎌倉期の石仏が多い京都でも屈指の阿弥 陀像だと思う。技術的な表現に走る前の、鎌倉中 期の大らかさが感じられるのが嬉しい。 大原を何度も訪ねたことがあるのに、この石仏 の存在すら知らなかったのは不覚だった。 |
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| 戸寺弥陀石仏 (京都市左京区) |
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洛北八瀬から大原へと向かう街道を行くと、高野 川に架かる花尻橋を渡ることになる。少し先に江文 神社の御旅所があり、そこにこの美しい石仏を祀る 小さなお堂が建っている。 単弁の蓮座に座しているのは石像の阿弥陀如来で、 二重になった円光の光背を背にしながら定印を結ぶ お姿は、何とも優雅で格調の高い像容となっている。 光背と石仏は一石から彫りだされたもので、石質は 花崗岩である。 総高は105cmとさして大きくは無いが、木彫の ようなすらりとした美しさが魅力的である。 鎌倉中期的な写実性に満ちており、先述の大原石 仏や後述の石像寺阿弥陀三尊石仏と共に、京都では 最も端正な阿弥陀石仏の一つであろう。 これらはいずれも、比叡山西塔香炉岡の弥勒石仏 を源流とした系列に属していると考えられる。 品格のある面相、流麗な衣文、二重円光式の光背、 光背に彫られた梵字などが共通する特徴である。 もっとも、ここ戸寺石仏の光背は無地で、梵字は 彫られていないが、十分に叡山系としての影響を受 けているようだ。 |
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| 恵光寺石仏群 (京都市左京区) |
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著名な石仏関連の著書に「専光寺」と誤記 され、それが波及して誤記のまま転載された 事例を幾つか知っている。現地へ行ったこと のない人が、資料として使用したからなのだ ろうか。「恵光寺」が正しい。 場所は洛北、鞍馬街道に面しており、小野 小町の遺構として著名な小町寺と呼ばれる補 陀落寺の真向かいに当たるお寺である。 石仏は参道の石段を登ったあたりに、大小 六体の石仏が横一列に並べられている。 写真はその内の大きな二体で、左は施無畏 印の如来像、右は定印の阿弥陀如来像である。 いずれも端正な彫りの石像であり、像容の 格調の高さからも鎌倉後期は下らないものと 思う。 この辺りは死者葬送の地であったそうで、 浄土に救いを求めた庶民の願いを、こうした 石仏たちはずっと聞き続けてきたのだろう。 |
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| 北白川石仏 (京都市左京区) |
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今出川通りを百万遍から銀閣寺方面に向かうと、 右手に京都大学の校舎がしばらく続く。 それが途切れたあたりを少し入った所に吉田神社 へと上る石段があり、その前に覆屋があって二体の 石仏がまつられている。 石仏は二体とも阿弥陀如来坐像で、写真は特に優 れた右側の像である。 高さは1.5mほどの花崗岩製で、お顔が大きく愛 嬌があって、とても優しい表情をしている。 衣文の様式や二重円光に梵字の配された光背など は、明らかに叡山式石仏の系統であることを示して いる。 蓮台から下は埋まってしまったようだが、下半身 の表現がやや稚拙に思える。しかし腕のすぐ下に、 組んだ足の裏と指が彫ってあるのが、何ともユーモ ラスに感じられてならなかった。 比叡山の慈覚大師円仁が伝えた念仏行法の叡山浄 土教は、源信や空也へと受け継がれて市井へと下っ たのである。極楽往生を願った大衆の間には、あっ という間に浄土教を通じた阿弥陀信仰が広がってい った。 京都に残る一連の叡山系阿弥陀石仏の数々は、そ うした民衆の浄土信仰を背景にして生まれたものだ ったのであろう。 |
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| 聞名寺石仏 (京都市左京区) |
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東大路通りに面しており、二条通りから少し下が った仁王門に近い東側にこのお寺が建っている。元 は市街中心に在った寺だが、火災が原因で江戸初期 にこの地に再建されたのだという。 境内にある墓地には、無数の無縁仏の墓碑や小石 仏などが並べられている。そうした中で、写真のよ うに一段高く、この石仏がまつられていた。 端正な顔立ち、流麗な衣文、大きく組んだ膝頭、 梵字を刻んだ二重円光式の光背、等を伴った定印阿 弥陀仏であることから、ここでも叡山系の石仏であ ることが知れる。 光背に刻まれた梵字は、弥陀を象徴する種子「キ リーク」であり、陽刻された月輪の中に陰刻されて いる。また、その配列が頭光部分に五個、身光部分 の左右に三個づつ、合計十一個の月輪が彫られてお り、こうした様式だけは後述の石像寺阿弥陀三尊石 仏の阿弥陀像にとてもよく似ている。 技巧的な彫りの良く残った石仏だが、鎌倉中期頃 の大らかでのびのびとした表現からはやや後退して おり、鎌倉後期から南北朝あたりに石像寺石仏を参 考にして制作されたことを示しているのではないだ ろうか。 |
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| 安養寺石仏 (京都市東山区) |
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京都円山公園の背後、東山山麓に位置するこの 寺を訪ねたのは、弁天堂に在る美しい宝塔を見る ためだった。 折角なので本堂へお参りをしたのだが、境内に 安置されたこの阿弥陀如来石仏が、この存在は知 っていたものの、かくも美しい傑作であったとは 知らなかった。 東山一帯に分布する鎌倉期の石仏に関しては、 既に聞名寺阿弥陀、慈芳院薬師などを見てはいた のだが、今まで見逃していたこの石仏にこの日巡 り会えた幸運に感謝しなければならないだろう。 全体のフォルムが見事であり、細部の描写も端 正である。特にきりりとした表情の面貌は木彫の ような写実性を見せ、衣の襞や蓮座の表現も鎌倉 期の作風を明確に示している。 元来は鎌倉期以後の写実的な石仏より、平安期 の茫洋とした大らかな表現が好みなのだが、この 鎌倉ならではの力強く、しかも品格を保った美意 識の前では、評価の力点をやや幅広くしなければ ならぬと感じさせられたのだった。 格狭間の意匠された台座は、宝篋印塔からの転 用だが違和感はそれほど無い。 |
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| 慈芳院石仏 (京都市東山区) |
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五条通りと東大路が交叉する五条坂から、南へ下が った次の小路を西へ入った所にこじんまりとしたこの お寺がある。 石仏は本堂の直ぐ左手の覆い堂の中に、堂々とした お姿で祀られていた。今でも生きた信仰の仏様らしく、 花や線香が絶えないようだ。 右手が施無畏印で、左手に薬壺を持っていることか らも、この石仏が薬師如来像であることが判る。 かなり摩滅が激しいのが残念だが、舟形の光背など 全てが花崗岩の一石から彫り出された全体像からは、 品格のある端正な面相や美しい衣文の襞、ふっくらと した仏身など、写実的な像容表現が想像できる。 鎌倉中期とも思われる、比較的大らかな写実が成さ れているこの石仏は、何度も訪ねたことのあるかなり 昔からの小生のアイドルでもあった。 薬師如来が座している蓮華座に、大きな特徴が見ら れる。それは蓮座が通常より厚く造られていることで あり、また、そこに三段に重なった蓮弁が彫り出され ていることである。 国東半島で最も美しい宝塔とされる岩戸寺の国東塔 の蓮華座にも、三段のウロコ状の蓮弁が彫られている が、それに匹敵するほどの見事さである。 |
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| 石像寺阿弥陀三尊石仏 (京都市上京区) |
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現在でも厚い信仰を受けている、釘抜き地蔵と して知られる町の中の小さなお寺である。 しかし、石仏愛好家にとっては、その地蔵堂の 背後に建つ石仏堂がとてつもなく重要なのだ。 なぜなら、そこには卓越した美意識を感じさせ る、別格の石造阿弥陀三尊像が祭られているから である。 重要文化財に指定されたほどの傑作で、昔から ものの本で写真を見て知っていた。しかし、何時 訪ねても、信仰篤い線香の煙と花や垂れ幕などが 障害となって、石仏の実際のお顔すら見えない状 態だったのである。 今回近くを通ったので、久しぶりにお参りをし て驚いた。線香以外一切の障害が無く、暗いのだ けれどともかく、石仏全体の詳細を初めてじっく りと拝見することが出来たのである。 写真は中尊の阿弥陀如来像で、蝋燭と線香の煤 によってお顔が真っ黒になってはいるものの、端 正な顔立ちや光背の梵字で表した弥陀の種子「キ リーク」などが大変美しい。 脇侍は右に観音菩薩、左に勢至菩薩が立ち、中 尊と同じ意匠の種子をあしらった二重円光光背の 立像である。 元仁元年(1224)という、鎌倉中期の魅力的な年 号が記されているそうだ。 |
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| 善導寺石仏 (京都市中京区) |
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鴨川に沿って建つホテルに隣接する小さなお寺 の境内に、この愛らしい石仏が立っている。 高さが1mにも満たない小さい作なのだが、弘 安元年(1278)の銘が入った美術史的にも貴重な釈 迦三尊像である。 中央の釈迦像で先ず気が付くのは、衣の流れる ような襞の美しさである。翻波式とも言われ、室 生寺や嵯峨清涼寺の釈迦像にその原形が見られる が、元来は大陸からの影響だろう。 左は文殊菩薩で頭上に五髻(ごけい)というマ ゲを載せ、宝剣や梵篋という箱を持つ珍しい像だ が、写真では細部がよく見えないのが残念である。 更に珍しいのは、従来脇侍として右側には普賢 菩薩が描かれるが、ここでは如来像になっている。 弥勒仏とのことであるが、余り見かけない三尊形 式である。 小作品ながら卓越した鋭い美意識が感じられ、 並々ならぬ意匠感覚と奔放な発想に満ちた、京都 の鎌倉期石仏の中では小生一押しの傑作である。 |
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| 大沢池石仏群 (京都市右京区) |
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大覚寺の裏手、平安前期には嵯峨院離宮 の苑池であった大沢池の池畔に護摩堂があ り、その前にこの石仏群が並んでいる。苑 池庭園石組の遺構である、名古曽の滝も近 い。 写真は、最も重要な五体の内の三体で、 右から薬壺を持つ薬師如来、釈迦如来、宝 冠を頂いた胎蔵界大日如来である。花崗岩 の自然岩前面に彫られており、いかにも鎌 倉中期らしい古仏の風格と、滅び行く野仏 の風情とを備えていて美しい。 この三体の左側には、阿弥陀如来像や弥 勒菩薩像が並んでおり、大日を中心とした 四方仏ではないかとも考えられそうである。 石の持つ永遠性が石仏という造形を生ん だのだろうと思うが、迫真の表現が成され る木彫の仏像に比して、穏やかで親しみ易 い表情を示す石仏は、庶民の信仰に最も近 い位置に目線を据えて造立されたのかもし れない。 |
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| 化野念仏寺二尊石仏 (京都市右京区) |
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嵯峨野の果てに位置する、古来より葬送 の地とされた化野(あだしの)にある寺で、 風葬され野晒しとなった遺骸を埋葬し菩提 を弔うために創設されたという。 その墓碑ともいうべき夥しい数の五輪塔 や石仏が並べられた境内の景観は、死の連 想と背中合わせの壮絶な景観である。 写真の二体の石仏は、門前の参道左側の 崖地に埋め込むようにして置かれている。 右の石仏は、膝の上で定印を結ぶ阿弥陀 如来坐像であり、左の像は、右手を施無畏 印とし、左手を与願印とした釈迦如来坐像 である。 二体共かなり磨耗してしまっているが、 品格のある面相、肉付けの美しい仏身、優 雅な衣文、二重の蓮華座などからも、まこ とに優れた鎌倉期の石仏であることが判る。 特に釈迦如来の石仏については類例が少 なくとても希少なのだが、化野に隣接した 嵯峨二尊院の本尊が釈迦・阿弥陀二尊であ ることに倣ったのだろうか。 いずれにしても、京都では屈指の優しく 美しい石仏であり、嵯峨野を訪ねる楽しみ の一つである。 |
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| 北之庄二十一尊磨崖仏 (京都府亀岡市千代川町) |
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千代川町の山手の北之庄という集落の 外れに、嶺松寺という寺院がある。その 左手から石段をしばらく登ったところに 覆屋があって、その中に石仏の彫られた 巨石が祀られている。 巾は5m、高さは1.5mもある大きな 岩で、写真のような月輪が20個横並び に彫られた珍しいものである。写真右端 の月輪にのみ二体の仏像が彫られている ので、全部で二十一尊ということになる のである。 詳細に眺めたが、像容がはっきりとし ているのは阿弥陀、薬師、如意輪観音く らいで、あとは全く判らなかった。 従前は背後の山の上に八王子権現とし て祀られていたものが、昭和中期の台風 の際に山崩れで落下したものだそうだ。 近江の日吉大社山王二十一社の本地仏 を表したものとされるが、武蔵の慈恩寺 などで二十一仏の板碑を見たことがある。 南北朝の作とされ、神仏習合の典型で もある本地垂迹説を石仏として具現化さ せた、最も古い事例の一つであると考え られている。 |
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| 和束弥勒磨崖仏 (京都府和束町) |
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宇治田原町の南に位置する和束(わづか)町 は、まことに山と谷の深い京都でも最辺境の 町のように見えた。 だが、急峻な山のほとんどの斜面は見事な お茶の段々畑になっており、高級な宇治茶と して出荷されている。 木津から伊賀上野への国道を進み、海住山 寺あたりで和束方面へ分岐する県道を行く。 町の中心となる家並の少し手前、白栖とい う集落辺りの川を隔てた対岸の崖に、この磨 崖仏が見えた。 至近距離まで近付くには、橋を渡って対岸 の畦道を山伝いに歩いて行かなければならな かった。 上げられた右手は施無畏印、下げた左手は 与願印の、なんとも大らかで見事な彫りの弥 勒菩薩立像である。 光背が深く彫り込まれているので、像は量 感豊かであり、雄渾な面容、流れる衣紋、ま ことに堂々たる石仏像である。 右の岩壁に正安二年(1300)の刻銘があり、 鎌倉後期を代表する傑作だと言えると思う。 |
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| 当尾阿弥陀三尊石仏 (京都府木津川市加茂町) |
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奈良坂の般若寺から柳生へ通じ る道を行けば、そこは南山城であ る。岩船寺から浄瑠璃寺へと、の どかな山道の旧道を下っていくと、 多くの石仏が点在する当尾(とう のお)石仏群に出る。 一願不動、藪の中地蔵、唐臼の 壺、首切り地蔵など、見るべき石 仏は枚挙に暇が無いほどだが、中 でも特に美しいのが写真の阿弥陀 三尊坐像である。 大きな花崗岩に彫られており、 阿弥陀如来を中心にして、蓮華を 捧げる観音菩薩が右、合掌する勢 至菩薩が左、いずれも蓮台の上に 座している。 永仁七年(1299)、大工伊行末の 在銘であり、鎌倉中期の大らかで 温かみのある作風が滲み出ている。 「笑い仏」と称される三尊の微 笑は、飛鳥時代の法隆寺や中国北 魏の仏像以来絶えていた、「古代 の微笑」の復活とでも言ってみた いような気がしている。 |
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| 当尾薮の中地蔵磨崖仏 (京都府木津川市加茂町) |
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先述の“笑い仏”から“唐臼の壺”を経て、風情の ある山道を浄瑠璃寺へと下った所が東小(ひがしお) の集落である。 バス道を少し浄瑠璃寺の方へ戻った辺りの崖地に、 “薮の中地蔵”と呼ばれる磨崖仏群がある。 写真は右の岩に彫られた地蔵菩薩と十一面観音像で、 右岩に接した左岩には、定印の阿弥陀如来坐像が彫ら れている。 写真左の地蔵菩薩立像は、右手に錫杖、左手に宝珠 を捧げている。優しく穏やかな表情が魅力の地蔵像で、 安定感のある体躯が堂々としていて素晴らしい。 また右側の十一面観音は、左手に花瓶を持つのは普 通だが、右手に地蔵菩薩と同じ錫杖を持っている。こ れは桜井長谷寺の観音像と同じ“長谷型”と呼ばれる 形式で、石仏では珍しい例かもしれない。 少しうつむき気味の観音像は何とも優美で、胸に抱 くようにして花瓶を持つ姿はまことに女性的である。 左側の岩面に「弘長二年(1262)」という鎌倉中期の 銘があり、在銘石仏としては南山城随一の古さである。 また「大工橘安縄」という作者名や、大勢の願主名 が彫られている。 浄瑠璃寺観光の際には必見、と申し上げておく。 |
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| 笠置寺磨崖仏 (京都府笠置町) |
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木津川に沿った峻険な霊峰が、数々の伝説や逸 話を伝える笠置山である。 巨大な岩石が累々と横たわる様は、何等かの見 えざる神秘的な力の存在を予感させるに充分な雰 囲気に満ちている。 写真は、高さ10mもの線彫り大磨崖仏で、弘 法大師が刻んだ虚空蔵菩薩とも、或いは像容から 見て弥勒菩薩とも言われている。 前面が目もくらむ岩場であるために、真正面か らの撮影は不可能で、誰が撮ってもこのアングル になってしまうだろう。 頭上に宝冠を載せ、切れ長な目、豊満な相貌、 胸の瓔珞、壮大な蓮台に結跏趺座した姿は大変美 しい。 法隆寺の金堂壁画を連想させるほどの完成度を 見せる線画であり、まして磨崖仏であることを考 えると、およそ類例を見ないほどの傑作であると 言える。 揺るぎの無い線が、何と美しいことだろうか。 木漏れ日の中に立ち上る霊気のようなものを感 じた私達は、しばらくこの場から立ち去ることが 出来なくなってしまった。 |
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| 頭塔石仏群 (奈良市高畑町) |
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近年復元された「頭塔」は、古墳のよ うな円形を形作っていた土が除かれ、石 垣を重ねた階段ピラミッドの様な衝撃的 な姿になってしまった。 石仏愛好家にとっては、かつて石仏の 数々が円墳のような土盛りの四方に置か れていた時代が懐かしく思い出される。 写真は土盛り当時のもので、現在22 基ある石仏の中で最多のモチーフである 「浮彫如来及び両脇侍像」の一つである。 豊満な像容、優雅な宝相華の天蓋や飛 雲など、大陸の影響も感じられるほど大 らかで優美な表現が見られ、凡百の石仏 とは次元の違う造形性が感じられる。 それもその筈で、奈良時代後期の神護 景雲元年(767)に、東大寺良弁の高弟実 忠和尚が建立した土塔であり、石仏も同 時代のものと推察できるからなのである。 この土塔を初めて見て感じたのは、イ ンドのサンチーなどで見られるストゥー パ形式の仏舎利塔だったのではないか、 ということだった。当然ながら、石仏は 仏舎利塔を荘厳する意味で、塔の四方に 置かれたものだろう。 |
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| 地獄谷聖人窟磨崖仏 (奈良市高畑町) |
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私達は奈良市内からタクシーで春日奥山周遊道 路を登り、地獄谷入口で下車した。聖人窟と春日 山石窟を見てから、旧柳生街道を歩き再び奈良へ と下ろうという算段だった。 かつては山岳密教的な聖地であり、修行僧の本 尊であったと考えられる中尊は、右手を施無畏印 に結び、左手を与願印としている。線彫りされた 像容は至極荘重であり、全体に彩色され、金箔の 痕跡も見える、まことに美しい仏画像である。 かなり古そうだな、とは感じたが、よもや奈良 時代説まで有るとは知らなかった。小生の第一感 では、鎌倉初期から平安末期まで遡れるか、とい ったところだった。 そもそもこの中尊が釈迦なのか弥勒なのか、ま た廬舎那仏ではないかとも言われ、学会でも謎の 石仏だそうである。素人の出る幕は、全く無い。 右に十一面観音、左には薬師如来像が彫られて おり、唐招提寺の金堂諸仏の配列と同じだという ことから、天平近くまで遡れるという説が出たそ うだ。たとえ何時代であろうとも、その価値を些 かも下げることはない。 |
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| 春日山石窟磨崖仏 (奈良市高畑町) |
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旧柳生街道の石切峠に在り、穴仏と も呼ばれる聖地で、東西二つの石窟か ら成り立っている。 写真は、東窟西側の壁に彫られた四 体の地蔵菩薩像である。蓮華座に立ち、 何かを捧げ持つ姿は大らかで優美な雰 囲気を醸し出している。 石窟の一部から、保元二年(1157)と いう墨書きの銘が出たそうで、崩落や 修復が有ったとはいえ、制作年代は平 安末期と判明しているとのことである。 東壁には三体の観音像が彫られ、西 窟には金剛界五仏や多聞天などの諸仏 が彫られている。大半が面を喪失して いるが、優美な表現はここでも平安期 の特徴を示している。 私達はここから石畳の柳生街道を歩 き、朝日観音や夕日観音を拝してから、 高畑の集落へと下って行った。 |
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| 滝坂道弥勒磨崖仏 (奈良市高畑町) |
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新薬師寺で知られる高畑の里から、春日奥山の石 切峠を越えて柳生の庄まで通じる古道は柳生街道の 一部で、滝坂道と呼ばれている。 私達は春日山石窟から石畳の滝坂道を、高畑へと のんびり下って行った。 途中には、首切り地蔵、朝日観音、夕日観音、寝 仏などが在り、苔むした古磨崖仏が次々と現れて楽 しかった。 写真はその内の「朝日観音」と呼ばれる三体の磨 崖仏の内の二体であり、左が中尊、右が地蔵像であ り、中尊の左にもう一体の地蔵が彫られている。 よく見れば、中尊は観音像ではなく如来形の弥勒 仏であり、その両側に地蔵が配されているのだった。 朝日が当たると美しく映えるところから、そう呼 ばれるようになったそうだ。 中尊弥勒仏は像高2.3mの薄肉彫り如来形立像で、 像の左右に彫られた銘文から、文永二年(1265)の造 立であることが判る。 二重円光背の中に立つ中尊は、鎌倉期らしい荘厳 で剛毅な表情をしている。右手は下げた与願印、左 手は胸前の施無畏印で、如来の吉祥相卍が胸に刻ま れている。 写真には無い中尊左の地蔵像は、中尊と同一の作 者によるものと思われるが、写真の矢田寺型地蔵は 室町初期頃の追刻と考えられる。 |
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| 王龍寺磨崖仏 (奈良市二名町) |
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奈良の西部、近鉄富雄駅の北西にあるゴルフ場に近 い、静寂な雰囲気に満ちた森の中にある黄檗宗の禅寺 である。しかし、荒廃の時代を経たとはいえ、創建は 聖武天皇の勅願とも伝えられる古刹だ。 本堂の内陣に、高さが5mもあろうかと思われる巨 岩が取り入れられており、そこに本尊の十一面観音立 像が彫られている。 舟形に彫り込まれた光背の中に半肉彫りされた、美 しい磨崖仏だった。 暗闇の中に照らし出された観音像は、ハッと息を飲 むような新鮮な感動を与えてくれた。 繊細に彫られた頭上の十一面化仏は見事で、写真で はよく見えないが、頂上仏背後の岩面に円形の頭光が 線彫りされている。 右手はさげて与願印を示し、左手は胸前に上げて三 茎の蓮華を挿した花瓶を持っている。 写真でも確認出来るが、光背内部の左下に銘文があ り、南北朝の初めである建武三年(1336)に造立された ことが判る。 面相などに鎌倉期の大らかな表現の名残を留めつつ も、衣文の表現などにやや様式化してしまう時代へと 移行しつつある気配を感じてしまうのは、銘から制作 年代を知ってしまった先入観からなのだろうか。 |
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| 南田原磨崖仏 (奈良市田原町) |
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奈良高畑から名張へと通じる県道を行き、田原の分 岐を福住方面へと折れてしばらく進む。路傍に大きな 岩が露出した場所があり、そこに「切りつけ地蔵」と 呼ばれるこの磨崖仏が残されている。 ここには室町期に制作されたと思しき弥勒仏や六地 蔵もあるが、見るべきはこの阿弥陀如来立像である。 深くくり抜かれた石龕に置かれた石仏像のように見 えるが、実は像は岩と一体であり、ほとんど丸彫りに 近い厚肉彫りであった。 蓮華座の上に立つ像高1.7mの堂々たる阿弥陀像 であり、右手を挙げ、左手を下げた来迎印を示してい るお姿は、とても磨崖石仏とは思えぬ程の見事な像で ある。 木彫の仏像にも劣らぬほどの技量が発揮されており、 かくも見事な石仏を通りすがりの路傍で拝むことが出 来るのが不思議に感じられた。 実は像の両側に銘文が刻まれており、そこには元徳 三年(1331)という鎌倉後期の年号と、願主東大寺大法 主定詮、石大工行恒、という名前を読むことが出来る。 何故このような場所に東大寺の僧が磨崖仏を造立し たかは不明だが、旅人も含め遍くこの地方の人々に弥 陀の慈悲が伝わることを祈念したものだろう。 伊派の石大工の一人として、その優れた技巧で知ら れる伊行恒の作品は、紀州藤白峠の地蔵峰寺に安置さ れた地蔵石仏を見て知っている。 |
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| 長岳寺石棺仏 (天理市柳本町) |
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石造美術の宝庫であるこの寺の境内を、じっく りと歩くのはとても楽しい。 写真は、寺域のちょっと小高い場所に在る高さ 2.5m余の石棺仏で、弥勒菩薩が厚肉彫りされたも のである。材質は凝灰岩かと思われる。 確固たる彫像技術に裏打ちされた見事な彫刻で、 下から見上げた姿は大変美しかった。細部の表現 は大胆かつ端正であり、面相や衣の襞は壮麗で、 鎌倉時代の作品であろうと確信した。 活気に満ちた鎌倉時代の彫刻も、時代の経過と 共にその大胆さを失い、微細な技術や様式へと推 移していった。その意味では、この石仏は鎌倉後 期は下らないものと思う。 境内には鎌倉期の笠塔婆、五輪板碑、宝篋印塔 などが、また山門前には阿弥陀石仏や五輪塔、奥 の院には地蔵や不動石仏が在り、さながら石造美 術館の様相を呈している。 本堂の本尊、秀麗な阿弥陀三尊像は見逃せない し、庭園好きの方には、客殿に面した江戸中期の 瀟洒な池泉庭園も見所となっている。 |
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| 専行院石棺仏 (天理市柳本町) |
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柳本の古い家並みの続く旧道を纏向(まきむく)方 面へと歩くと、ほぼ町外れの辺りにこの専行(せんぎ ょう)院という小さなお寺がある。 門を入ると塀に沿って、かなりの数の小さな地蔵石 仏などが並べられていた。 その中で一際目に入るのが写真の石仏で、これも長 岳寺の弥勒仏と同様、近隣の古墳から出た石棺を利用 して彫られた石棺仏である。 真逆光だったために、像容がはっきり見えないのが 難点だが、随所に様々な特徴の見られる興味深い石仏 であろう。 舟形にくり抜いた深さが大きく、丸彫りに近いくら いの厚肉彫りが成されている。 首が摩滅のためか極端に細くなっているので、顔の 部分が異様に浮き上がったように見えるのが面白い。 舟形下部の蓮華座の表現がユニークであり、衣の裾 が広がった来迎印相の阿弥陀の立ち姿には、古仏を思 わせる格調が感じられた。 この石棺仏は無銘なのだが、写真右端の地蔵石仏に は建治二年(1276)という鎌倉中期の年号が彫られてお り、作風が阿弥陀石棺仏と類似していることから、同 一作者によるものとする説が有力である。小生もこの 点に注目してみたが、反証出来そうな材料は見つから なかった。 |
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| 別所双仏石 (天理市福住町) |
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一般的に野仏というのは地蔵や馬頭観音、道祖 神や庚申といった江戸期のイメージが強いが、さ すがは大和で、山里の路傍に明徳元年(1390)と彫 られた石仏がさりげなく立っている。南北朝最末 期、約六百年前に彫られたものである。 天理市と言っても大和高原の山の中、まるで絵 に描いたような村の辻で、周辺の景色とすっかり 一体化している。 石棺仏のようでもあり、まるで双体道祖神のよ うでもあるが、右がれっきとした阿弥陀如来、左 が地蔵菩薩である。この組み合わせによる二尊並 立像は珍しいほうだが、極楽へ導いてくれる阿弥 陀様と、例え地獄へ落ちようがそこから救い上げ てくれるお地蔵様の両方にお願いすれば完璧だ、 と考えた結果なのだろうと思う。 涙が出るほどいじらしく感じられる、庶民の素 朴な信仰の発露が生んだ石仏である。 石仏が美しいのはその造形美もさる事ながら、 この短絡だが純真な祈りの姿が背景に秘められて いるからこそなのであろう。その意味で、大和高 原は美しい野仏の宝庫である。 |
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| 旧常照院石仏 (奈良県山添村) |
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大和高原の都祁村や山添村は、誠に石造美術の密 集地であり、旅する私達に美しいものを見る喜びを 感じさせてくれる、取り分け魅力的な一帯である。 この寺の在る的野の集落には、多くの石仏や石塔 が保存されている。 中でも的野八幡神社に隣接するこの寺には、板碑 などと共に、写真のように風変わりな石仏が在る。 何よりも自然石の笠が載っているのが珍しいが、 当初からのものである。像は阿弥陀如来立像で、肉 厚の彫りが並々ならぬ技術を示しており、像容も端 然として優美な美しさを見せている。 上品下生の来迎印で、当時の熱烈な阿弥陀信仰を 物語っている。円形の光背には、後光が線彫りされ ており、全体にバランスのとれた傑作である。 おまけに、像の側面には、建長五年(1253)という 年号銘が見られ、れっきとした鎌倉中期の石仏であ ることが証明された。 路傍の野仏のような風情を持った、何とも好まし い珠玉の石仏であると言える。 的野では、南北朝の不動明王や鎌倉後期の阿弥陀 像なども是非見たい。 |
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| 石位寺三尊石仏 (桜井市忍坂) |
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重要文化財としてお堂の中に祀られており、我が 国石仏中最古の白眉であるといえる。 それにしても、何と美しく、洗練された造形であ ろうか。 三角むすび形の硬質砂岩に、椅子座に腰掛けた中 尊と、両脇に合掌して立つ菩薩の三尊が半肉彫りさ れている。 どういう三尊なのかは不明だが、童顔にもかかわ らず清冽な、しかも聖なる少年のような面相には限 り無い魅力が感じられる。 古拙な美を湛えた飛鳥仏から、写実的な力強さを 示す天平仏へと進展する時代が白鳳であり、興福寺 仏頭の純粋な美しさにも似た印象を受けるところか らも、白鳳の石仏と言われる所以が理解出来る。 天蓋の下で二重の光背を負い、両手を膝上で結ぶ 中尊の座した椅子や、三尊の乗る蓮華座が見下ろし たような奥行きを感じさせる表現になっているとこ ろも、白鳳時代の塼仏や押出仏に似ているという。 確かに、先般東京国立博物館で見た法隆寺関連の 三尊塼仏の中に奈良時代前期のものがあり、石位寺 三尊石仏にとても似た様式のものがあった。 左右に流れる菩薩の着衣の裾の美しさや、唇など に微かに残る朱の鮮やかさ、左端に彫られた謎の水 瓶など、下世話な話題も含め、この傑出した石仏が 白鳳の時代から千四百年以上も伝えられたことは奇 跡にも近い、と言えるだろう。 |
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| 飯降多尊磨崖仏 (宇陀市室生) |
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ここは向淵(むこうじ)の飯降(いぶ り)という寒村の集落近くにあり、針か ら室生寺への道のほぼ中程である。向淵 はすずらんの群生地として知られる。 北側の山裾の岩に彫られた、地元では 「石薬師」と呼ばれる磨崖仏である。 奈良時代前期の遺構とされ、余りの荒 廃剥落の激しさに、前述の石位寺の石仏 との対照的な運命の差を感じてしまう。 像容はほとんど不明だが、中央に椅子 に座した二如来像があり、その両側に茎 の付いた蓮華座に立つ菩薩像が彫られて いるらしい。 その他にも、菩薩や羅漢、四天王像も 配されており、壮大な多尊仏の構図が示 されているらしいのだが、写真で見るよ うな状況が現実である。 滅び行く野仏の如き哀れさと、燃え尽 きそうな美の末路を見る思いが忘れられ ず、暗闇で撮った唯一の写真を掲載した 次第である。 |
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| 下笠間磨崖仏 (宇陀市室生) |
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笠間川流域に在る笠間の集落は、上笠間と下笠 間とに分かれている。 そのいずれにも、中世に制作された阿弥陀如来 磨崖仏が残されている。上笠間のものは天文三年 (1534)だから、室町時代後期のものである。 写真の下笠間のものは、永仁二年(1294)の刻銘 から鎌倉後期のものと判る。 全体的に体躯の均整がとれており、決して技術 にばかりは走らない、質実かつ優美さを秘めた表 現がいかにも鎌倉らしい。 頭光背には、四方へと放たれる放射光が美しく 線彫りされている。阿弥陀の穏やかな表情は慈愛 に満ちており、笠間川に在る滝に由来する滝山阿 弥陀という名で親しまれた理由もうなづける。 向淵の穴薬師三体地蔵と飯降多尊磨崖仏、辻堂 (つちんど)墓地の阿弥陀三尊など、この地域には 古い石仏が多く残されており、優れた石工の存在 とその伝統が継承されたことを物語っている。 室生寺も近く、忘れられたようにひっそりと佇 む、美しい磨崖仏を是非訪ねていただきたいもの である。 |
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| 専称寺石仏 (明日香村祝戸) |
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明日香の岡寺の南、石舞台のさらに少し南に祝戸 の里がある。集落の街道沿い、一段小高い所にこの 小さなお堂が建っている。 厨子の中に祀られた石仏は、自然石の表面に薄肉 彫りされた如意輪観音像である。黒い蛇紋岩の色が 個性的な像容を、より印象的なものにしている。 石全面に二重円光背を彫り、その前に左右三本づ つの手を持つ六臂という姿で表現されている。 右膝を立てた上に、第一番目の右手で頬杖をつい た思惟瞑想の姿も、よく見かける様式だろう。 蓮座も大らかに描かれており、全体的に至極妖艶 豊満でありながら、通俗的な下品さを少しも感じさ せない優美なお姿である点が誠に好ましい。 如意輪観音像はその天衣無縫なお姿から、得てし て品位を失った下劣な表現の像が多く、余り好きな 尊像ではないのだが、ここだけは全くの別物である と思う。 像高僅か40センチという小像ながら、鎌倉初期 とも思われる造形的な表現の傑作だろうと思う。 東大寺に鎌倉期慶派の傑作が在る如く、飛鳥の遺 蹟にも鎌倉期の秀逸な石仏が存在している。 |
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