石仏・磨崖仏紀行
  京・大和の石仏 
 
 仏教美術の中心であった奈良・京都には、歴史
的に重要な木像や金銅製の仏像が数多く残されて
いる事で知られる。
 実は石仏の分野も同様で、日本最古の石仏であ
る奈良時代前期に造られた滝寺磨崖仏、飯降磨崖
仏、石位寺三尊石仏などは、全て大和の国に存在
している遺蹟なのである。

 京都府の旧加茂町や笠置町は大和との国境に近
く、奈良の影響を受けた仏像や石仏も多い。特に
岩船寺や浄瑠璃寺のある当尾(とうのお)地区で
は、多くの魅力的な石仏や石造美術を観ることが
出来る。

 京都は知られざる石仏の宝庫であり、鎌倉時代
を中心とした阿弥陀仏などが密集している。京都
で石仏巡りをする人を見ることは余り無いが、密
かにお薦めをするものである。
 
 
      
 
 当尾石仏群の内の「唐臼の壺」阿弥陀磨崖仏
     
京都府木津川市加茂町
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   大原弥陀石仏
    
       京都市左京区
    
 
         
 
 大原勝林院の墓地に阿弥陀如来石仏が在る、と
聞いて訪ねてみた。しかし、境内の何処を探して
も墓地らしきものは見当たらず、途方にくれて拝
観受付の女性に聞いたが知らないと言う。
 無住の寺を管理する塔頭の宝泉院で尋ねてみる
と、親切な御住職が案内すると言うではないか。
 その場所へ行くには、美しい宝篋印塔の脇を抜
け、三千院の裏山へと少し登って行かねばならな
かった。自分たちだけでは絶対に判らない場所で
ある。三千院の境内にもつながっているらしい。

 石仏は覆屋の中に安置された堂々たるお姿で、
御住職も久しぶりのお参りと喜んでおられた。
 昼なお暗い谷間なので、石仏の像容がよく見え
ない。かなり摩滅しているようだが、それでも頭
部の螺髪は繊細に彫られ、優しく美しいお顔をな
さっておられることは判った。

 まるで木彫の仏像を思わせるような見事な彫り
であり、鎌倉期の石仏が多い京都でも屈指の阿弥
陀像だと思う。技術的な表現に走る前の、鎌倉中
期の大らかさが感じられるのが嬉しい。
 大原を何度も訪ねたことがあるのに、この石仏
の存在すら知らなかったのは不覚だった。
  
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   戸寺弥陀石仏
    
       京都市左京区
    
 
         
 
 洛北八瀬から大原へと向かう街道を行くと、高
野川に架かる花尻橋を渡ることになる。少し先に
江文神社の御旅所があり、そこにこの美しい石仏
を祀る小さなお堂が建っている。
   
 単弁の蓮座に座しているのは石像の阿弥陀如来
で、二重になった円光の光背を背にしながら定印
を結ぶお姿は、何とも優雅で格調の高い像容とな
っている。光背と石仏は一石から彫りだされたも
ので、石質は花崗岩である。
 総高は105cmとさして大きくは無いが、木彫
のようなすらりとした美しさが魅力的である。

 鎌倉中期的な写実性に満ちており、先述の大原
石仏や後述の石像寺阿弥陀三尊石仏と共に、京都
では最も端正な阿弥陀石仏の一つであろう。
 これらはいずれも、比叡山西塔香炉岡の弥勒石
仏を源流とした系列に属していると考えられる。
 品格のある面相、流麗な衣文、二重円光式の光
背、光背に彫られた梵字などが共通する特徴であ
る。もっとも、ここ戸寺石仏の光背は無地で、梵
字は彫られていないが、十分に叡山系としての影
響を受けているようだ。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   恵光寺石仏群
    
       京都市左京区
    
 
        
 
 或る著名な石仏関連の著書に「専光寺」と誤記
され、それが波及して誤記のまま転載された事例
を幾つか知っている。現地へ行ったことのない人
が、資料として使用したからなのだろうか。
「恵光寺」が正しい。
 場所は洛北、鞍馬街道に面しており、小野小町
の遺構として著名な小町寺と呼ばれる補陀落寺の
真向かいに当たるお寺である。 

 石仏は参道の石段を登ったあたりに、大小六体
の石仏が横一列に並べられている。
 写真はその内の大きな二体で、左は施無畏印の
如来、右は定印の阿弥陀如来である。
 いずれも端正な彫りの石像であり、像容の格調
の高さからも鎌倉後期は下らないものと思う。
   
 この辺りは死者葬送の地であったそうで、浄土
に救いを求めた庶民の願いを、こうした石仏たち
はずっと聞き続けてきたのだろう。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   北白川石仏
    
       京都市左京区
    
 
         
 
 今出川通りを百万遍から銀閣寺方面へと向かう
と、右手に京都大学の校舎がしばらく続く。
 それが途切れたあたりを少し入った所に吉田神
社へと上る石段があり、その前に覆屋があって二
体の石仏がまつられている。

 石仏は二体とも阿弥陀如来坐像で、写真は特に
優れた右側の像である。
 高さは1.5mほどの花崗岩製で、お顔が大き
く愛嬌があって、とても優しい表情をしている。
 衣文の様式や二重円光に梵字の配された光背な
どは、明らかに叡山式石仏の系統であることを示
している。
 蓮台から下は埋まってしまったようだが、下半
身の表現がやや稚拙に思える。しかし腕のすぐ下
に、組んだ足の裏と指が彫ってあるのが、何とも
ユーモラスに感じられてならなかった。

 比叡山の慈覚大師円仁が伝えた念仏行法の叡山
浄土教は、源信や空也へと受け継がれて市井へと
下ったのである。極楽往生を願った大衆の間には
あっという間に、浄土教を通じた阿弥陀信仰が広
がっていった。
 京都に残る一連の叡山系阿弥陀石仏の数々は、
そうした民衆の浄土信仰を背景にして生まれたも
のだったのであろう。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   霊鑑寺石仏
    
       京都市左京区
    
 
         
 
 鹿ケ谷の哲学の道から、東山山麓へと入った突
き当りに在る臨済宗の禅寺である。但し、門跡尼
院としての格式が高く、通常は一般公開されてい
ない。
 私たちは特別公開の日に、江戸期の庭園を見学
させていただき、それに併せてこの愛らしい小石
仏を見せていただくことが出来た。

 磨耗が進んでいるために、やや印象が散漫にな
ってしまうが、大らかな表現の中に質感が感じら
れる古仏独特のオーラが感じられた。
 左手は施無畏印で、右手次第では薬師如来も考
えられるが、どうやら手のひらは伏せられている
ので弥勒如来像かと思われる。

 光背に月輪が五つ彫られ、更に中に梵字が彫ら
れており、前述の北白川石仏と同様に比叡山系の
影響を受けているようだ。
 後日、文献などからこの梵字は大日法身真言で
あると知った。とすれば、板碑などでも良く目に
する真言であり、ア・バン・ラン・カン・ケンと
記されているはずなのだが、ほとんど判読するこ
とは不可能だった。
 寺格同様に、品性と風格に満ちた石仏である。
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
  聞名寺石仏
    
       京都市左京区
    
 
         
 
 東大路通りに面しており、二条通りから少し下
がった仁王門に近い東側に、このお寺が建ってい
る。元は市街中心に在った寺だが、火災が原因で
江戸初期にこの地に再建されたのだという。

 境内にある墓地には、無数の無縁仏の墓碑や小
石仏などが並べられている。そうした中で、写真
のように一段高く、この石仏がまつられていた。
   
 端正な顔立ち、流麗な衣文、大きく組んだ膝頭
や梵字を刻んだ二重円光式の光背、等を伴った定
印阿弥陀仏であることから、ここでも叡山系の石
仏であることが知れる。
 光背に刻まれた梵字は弥陀を象徴する種子「キ
リーク」であり、陽刻された月輪の中に陰刻され
ている。また、その配列が頭光部分に五個、身光
部分の左右に三個づつ、合計十一個の月輪が彫ら
れており、こうした様式だけは後述の石像寺阿弥
陀三尊石仏の阿弥陀像にとてもよく似ている。

 技巧的な彫りの良く残った石仏だが、鎌倉中期
頃の大らかでのびのびとした表現からはやや後退
しており、鎌倉後期から南北朝あたりに石像寺石
仏を参考にして制作されたことを示しているので
はないだろうか。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
  般舟院阿弥陀石仏
    
       京都市上京区
    
 
         
 
 千本今出川の交差点から東へ少し行くと、北側
に中学校に隣接して般舟(はんじゅ)院という小
さなお寺と御陵が並んでいる。
 後土御門天皇などの御分骨所として格式ある寺
格を誇っていたが、明治の神仏分離令によって歴
代尊牌は東山泉涌寺へ移されたという。境内の大
半も中学校になってしまったのだそうだ。
 近年、住職によって土地や建物が競売にかけら
れたり、仏像が隠匿されたりといった醜聞もあっ
て、寺の衰退は極まっているようだ。

 寺の西側に御陵があり、その築地壁の西側に樹
木の繁った塚がある。式子内親王(後白河天皇の
第三皇女)の塚であると伝わっている。

 写真は、その塚の前に祀られた阿弥陀如来石仏
である。花崗岩製ながら、かなり磨耗している。
定印が無ければ、どういう仏像かすら判断できな
かっただろう。
 それでも、蓮華座に結跏趺坐し定印を結んだ姿
には肉厚の剛毅な表現が見られ、鎌倉期らしい勢
いを感じることが出来る。

 この寺がたどった激動の歴史が生んだ波乱を思
うと、その総てをじっと見つめていたこの石仏が
一体何を語っているのだろうか、と聞き耳を立て
てみたくなってしまった。  
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   石像寺阿弥陀三尊石仏
    
       京都市上京区
    
 
         
 
 現在でも厚い信仰を受けている、釘抜き地蔵と
して知られる町の中の小さなお寺である。
 しかし、石仏愛好家にとっては、その地蔵堂の
背後に建つ石仏堂がとてつもなく重要なのだ。
 なぜなら、そこには卓越した美意識を感じさせ
る、別格の石造阿弥陀三尊像が祭られているから
である。

 重要文化財に指定されたほどの傑作で、昔から
ものの本で写真を見て知っていた。しかし、何時
訪ねても、信仰篤い線香の煙と花や垂れ幕などが
障害となって、石仏の実際のお顔すら見えない状
態だったのである。
 今回近くを通ったので、久しぶりにお参りをし
て驚いた。線香以外一切の障害が無く、暗いのだ
けれどともかく、石仏全体の詳細を初めてじっく
りと拝見することが出来たのである。

 写真は中尊の阿弥陀如来像で、蝋燭と線香の煤
によってお顔が真っ黒になってはいるものの、端
正な顔立ちや光背の梵字で表した弥陀の種子「キ
リーク」などが大変美しい。
 脇侍は右に観音菩薩、左に勢至菩薩が立ち、中
尊と同じ意匠の種子をあしらった二重円光光背の
立像である。
 元仁元年(1224)という、鎌倉中期の魅力的な年
号が記されているそうだ。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   善想寺阿弥陀石仏
    
       京都市中京区
    
 
         
 
 二条城の南、三条商店街の更に南、六角通大宮
から西へ入った寺町の中に在る浄土宗の寺院であ
る。洛陽地蔵巡りの札所で、泥足地蔵と呼ばれる
地蔵立像が一般的には知られている。
 本尊は華麗な仏像として知られる阿弥陀三尊で
ある。

 本命は別の石仏で、本堂の前から墓地へ入った
直ぐ右手に、写真の阿弥陀石仏が覆屋の中に祀ら
れている。

 自然石を舟型光背とし、定印を結んで結跏趺坐
した像容は、圧倒的な存在感を示している。
 古仏であり、本来は露天の雨ざらしであったが
故の磨滅は致し方なく、それはむしろ風格とすら
感じさせられる。
 全体的に流麗で柔和な印象を受けるが、横から
眺めると胸は厚く、肩や両膝も大きく張った力強
さも見せている。
 平安期の象徴的な阿弥陀像に比べ、明らかに写
実的な表現へと移行していく過程が見えるような
気がする。磨耗が激しいので断定は出来ないが、
鎌倉期を下がる事はない写実性が感じられる。

 中世の石仏に何と阿弥陀仏の多いことかを、改
めて感じてしまう。庶民の目線まで降りて来た仏
教が、浄土信仰という形で深い信仰を集めていた
からだろう。   
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   善導寺石仏
    
       京都市中京区
    
 
         
 
 鴨川に沿って建つホテルに隣接する小さなお寺
の境内に、この愛らしい石仏が立っている。
 高さが1mにも満たない小さい作なのだが、弘
安元年(1278)の銘が入った美術史的にも貴重な釈
迦三尊像である。

 中央の釈迦像で先ず気が付くのは、衣の流れる
ような襞の美しさである。翻波式とも言われ、室
生寺や嵯峨清涼寺の釈迦像にその原形が見られる
が、元来は大陸からの影響だろう。
 左は文殊菩薩で頭上に五髻(ごけい)というマ
ゲを載せ、宝剣や梵篋という箱を持つ珍しい像だ
が、写真では細部の内容がよく見えないのが残念
である。

 更に珍しいのは従来脇侍として右側には普賢菩
薩が描かれるが、ここでは如来像になっている。
弥勒仏とのことであるが、余り見かけない三尊形
式である。

 小作品ながら卓越した鋭い美意識が感じられ、
並々ならぬ意匠感覚と奔放な発想に満ちた、京都
の鎌倉期石仏の中では小生一押しの傑作である。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   安養寺石仏
    
       京都市東山区
    
 
         
 
 京都円山公園の背後、東山山麓に位置するこの
寺を訪ねたのは、弁天堂に在る美しい宝塔を見る
ためだった。
 折角なので本堂へお参りをしたのだが、境内に
安置されたこの阿弥陀如来石仏が、この存在は知
っていたものの、かくも美しい傑作であったとは
知らなかった。

 東山一帯に分布する鎌倉期の石仏に関しては、
既に聞名寺阿弥陀、慈芳院薬師などを見てはいた
のだが、今まで見逃していたこの石仏にこの日巡
り会えた幸運に感謝しなければならないだろう。

 全体のフォルムが見事であり、細部の描写も端
正である。特にきりりとした表情の面貌は木彫の
ような写実性を見せ、衣の襞や蓮座の表現も鎌倉
期の作風を明確に示している。

 元来は鎌倉期以後の写実的な石仏より、平安期
の茫洋とした大らかな表現が好みなのだが、この
鎌倉ならではの力強く、しかも品格を保った美意
識の前では、評価の力点をやや幅広くしなければ
ならぬと感じさせられたのだった。
 格狭間の意匠された台座は、
宝篋印塔からの転
用だが違和感はそれほど無い。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   慈芳院石仏
    
       京都市東山区
    
 
         
 
 五条通りと東大路が交叉する五条坂から、南へ
下がった次の小路を西へ入った所にこじんまりと
したこのお寺がある。
 石仏は本堂の直ぐ左手の覆い堂の中に、堂々と
したお姿で祀られていた。今でも生きた信仰の仏
様らしく花や線香が絶えないようだ。

 右手が施無畏印で、左手に薬壺を持っているこ
とからも、この石仏が薬師如来像であることが判
る。かなり摩滅が激しいのが残念だが、舟形の光
背など全てが花崗岩の一石から彫り出された全体
像からは、品格のある端正な面相や美しい衣文の
襞、ふっくらとした仏身など、写実的な像容表現
が想像できる。
 鎌倉中期とも思われる、比較的大らかな写実が
成されているこの石仏は、何度も訪ねたことのあ
るかなり昔からの小生のアイドルでもあった。

 薬師如来が座している蓮華座に、大きな特徴が
見られる。それは蓮座が通常より厚く造られてい
ることであり、また、そこに三段に重なった蓮弁
が彫り出されていることである。
 国東半島で最も美しい宝塔とされる岩戸寺の国
東塔の蓮華座にも三段のウロコ状の蓮弁が彫られ
ているが、それに匹敵するほどの見事さである。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   京都国立博物館
   (阿弥陀三尊石仏)
    
       京都市東山区
    
 
        
 
 東山七條の国立博物館前庭には、各種の石造美
術品が展示されている。
 覆屋に入っているこの三尊石仏は、本来は伏見
竹田の安楽寿院に祀られていた三基の三尊像の一
つである。かつてその近くの成菩提院が在った旧
跡の田圃の中に埋まっていたという。
 中央は定印を結ぶ結跏趺坐の阿弥陀如来で、右
は蓮台を捧げる観音菩薩、左は合掌する勢至菩薩
である。両脇侍の首を中央へ傾けた姿が何とも魅
力的である。
 凝灰岩製のため磨耗が激しいが、平安後期の優
れた作品だったことが伺える。
 安楽寿院には、残りの二基が祀られている。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   油掛石仏
    
       京都市右京区
    
 
         
 
 嵯峨天竜寺油掛町の、有栖川に沿った辻に小さ
なお堂があり、そこに「油掛地蔵」と呼ばれる石
仏が祀られている。
 現在でも深い信仰を集めており、常に新しい花
や香の煙が絶える事は無いようである。

 石仏に油を掛ける風習は伏見や奈良にも残って
いるそうだが、石仏をよく見ると「地蔵」ではな
く定印結跏趺坐の阿弥陀如来像である。野辻に置
かれた石仏は、一般的には全て「お地蔵さん」な
のだろう。
 頭部光背の左右に梵字が刻まれており、右がサ
(観音)左がサク(勢至)で、阿弥陀三尊を象徴
しているのである。

 像の左右に積もった油層を削った所から、貴重
な銘文が発見されたのだそうだ。左に「願主平重
行」、右に「延慶三年(1310)鎌倉後期」と彫ら
れており、市内の在銘中世石仏は前述の石像寺、
善導寺に次ぐ貴重な存在となった。

 油がこびりついているために像容がはっきりと
しないが、石像寺の阿弥陀如来の端正さを想像さ
せるような風貌である。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   広沢池石仏
    
       京都市右京区
    
 
         
 
 大覚寺や名古曾滝で知られる大沢池と共に、嵯
峨野の自然に満ちた風光を彩る静寂な雰囲気を残
している。観月の名所であり、遍照寺山の山影を
写す池畔には、芦が生い茂っている。

 池の西側に小さな観音島が浮かび、橋が渡され
て半島のように突き出ている。かつては、遍照寺
という寺の堂塔が並んでいた場所である。
 島には兒(ちご)神社が建っており、遍照寺に
仕え池に身を投げた稚児の伝説を残す。
   
 写真の石仏は島の先端近くに立っており、明ら
かに千手観音であり、また頭上に十一面の化仏を
備えている。
 何とも愛らしい石仏で、まるで入水した稚児の
生き写しとすら思えるほどである。
 銘文からは、寛永十八年(1641)江戸初期の造立
で、作者は龍安寺近くの蓮華寺に伝わる五智如来
石仏の作者と同じ樋口平太夫という人であると知
れる。
 千手を象徴する腕が丹念に彫られており、近世
の石仏ではあるが、昔から愛好する石仏のひとつ
であった。このサイトでは、中世の石仏を主体に
掲載しているので、趣旨には反するのだが、この
愛すべき像容から是非にもご紹介したかったとい
う次第。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   大沢池石仏群
    
       京都市右京区
    
 
        
 
 大覚寺の裏手、平安前期には嵯峨院離宮の苑池
であった大沢池の池畔に護摩堂があり、その前に
この石仏群が並んでいる。苑池庭園石組の遺構で
ある、名古曽の滝も近い。
 写真は、最も重要な五体の内の三体で、右から
薬壺を持つ薬師如来、釈迦如来、宝冠を頂いた胎
蔵界大日如来である。花崗岩の自然岩前面に彫ら
れており、いかにも鎌倉中期らしい古仏の風格と
滅び行く野仏の風情とを備えていて美しい。

 この三体の左側には、阿弥陀如来像や弥勒菩薩
像が並んでおり、大日を中心とした四方仏ではな
いかと考えられそうである。

 石の持つ永遠性が石仏という造形を生んだのだ
ろうと思うが、迫真の表現が成される木彫の仏像
に比して、穏やかで親しみ易い表情を示す石仏は
庶民の信仰に最も近い位置に目線を据えて造立さ
れたのかもしれない。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   化野念仏寺二尊石仏
    
       京都市右京区
    
 
        
 
 嵯峨野の果てに位置する、古来より葬送の地と
された化野(あだしの)にある寺であり、風葬さ
れ野晒しとなった遺骸を埋葬し菩提を弔うために
創設されたという。
 その墓碑ともいうべき夥しい数の五輪塔や石仏
が並べられた境内の景観は、死の連想と背中合わ
せの壮絶な景観である。
 写真の二体の石仏は、門前の参道左側の崖地に
埋め込むようにして置かれている。
 右の石仏は、膝の上で定印を結ぶ阿弥陀如来坐
像であり、左の像は、右手を施無畏印とし、左手
を与願印とした釈迦如来坐像である。
 二体共かなり磨耗してしまっているが、品格の
ある面相、肉付けの美しい仏身、優雅な衣文、二
重の蓮華座などからも、まことに優れた鎌倉期の
石仏である事が判る。
 特に釈迦如来の石仏については類例が少なくと
ても希少なのだが、化野に隣接した嵯峨二尊院の
本尊が釈迦・阿弥陀二尊であることに倣ったのだ
ろうか。
 いずれにしても、京都では屈指の優しく美しい
石仏であり、嵯峨野を訪ねる楽しみの一つとなっ
ている。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   北之庄二十一尊磨崖仏
    
       京都府亀岡市千代川町
    
 
        
 
 千代川町の山手の北之庄という集落の外れに、
嶺松寺という寺院がある。その左手から石段をし
ばらく登ったところに覆屋があって、その中に石
仏の彫られた巨石が祀られている。
 巾は5
、高さは1.5mもある大きな岩で、
写真のような月輪が20個横並びに彫られた珍し
いものである。写真右端の月輪にのみ二体の仏像
が彫られているので、全部で二十一尊ということ
になるのである。
 詳細に眺めたが、像容がはっきりとしているの
は阿弥陀、薬師、如意輪観音くらいで、あとは全
く判らなかった。
 従前は背後の山の上に八王子権現として祀られ
ていたものが、昭和中期の台風の際に山崩れで落
下したものだそうだ。
 近江の日吉大社山王二十一社の本地仏を表した
ものとされるが、武蔵の慈恩寺等で二十一仏の板
碑を見たことがある。
 南北朝の作とされ、神仏習合の典型でもある本
地垂迹説を石仏として具現化させた、最も古い事
例の一つであると考えられている。   
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   和束弥勒磨崖仏
    
       京都府和束町
    
 
         
 
 宇治田原町の南に位置する和束(わづか)町は、
まことに山と谷の深い京都でも最辺境の町のよう
に見えた。
 だが、急峻な山のほとんどの斜面は見事なお茶
の段々畑になっており、高級な宇治茶として出荷
されている。

 木津から伊賀上野への国道を進み、海住山寺あ
たりで和束方面へ分岐する県道を行く。
 町の中心となる家並の少し手前、白栖という集
落辺りの川を隔てた対岸の崖に、この磨崖仏が見
えた。
 至近距離まで近付くには、橋を渡って対岸の畦
道を山伝いに歩いて行かなければならなかった。

 上げられた右手は施無畏印、下げた左手は与願
印の、なんとも大らかで見事な彫りの弥勒菩薩立
像である。
 光背が深く彫り込まれているので、像は量感豊
かであり、雄渾な面容、流れる衣紋、まことに堂
々たる石仏像である。
 右の岩壁に正安二年(1300)の刻銘があり、鎌倉
後期を代表する傑作だと言えると思う。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   当尾阿弥陀三尊石仏
    
       京都府木津川市加茂町
    
 
        
 
 奈良坂の般若寺から柳生へ通じる道を行けば、そこは
南山城である。岩船寺から浄瑠璃寺へと、のどかな山道
の旧道を下っていくと、多くの石仏が点在する当尾(と
うのお)石仏群に出る。
 一願不動、藪の中地蔵、唐臼の壺、首切り地蔵など、
見るべき石仏は枚挙に暇が無いほどだが、中でも特に美
しいのが写真の阿弥陀三尊坐像である。
 大きな花崗岩に彫られており、阿弥陀如来を中心に蓮
華を捧げる観音菩薩が右、合掌する勢至菩薩が左、いず
れも蓮台の上に座している。
 永仁七年(1299)、大工伊行末の在銘であり、鎌倉中期
の大らかで温かみのある作風が滲み出ている。
 「笑い仏」と称される三尊の微笑は、飛鳥時代の法隆
寺や中国北魏の仏像以来絶えていた「古代の微笑」の復
活とでも言ってみたいような気がしている。
  
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   当尾薮の中地蔵磨崖仏
    
       京都府木津川市加茂町
    
 
         
 
 先述の“笑い仏”から“唐臼の壺”を経て、風
情のある山道を浄瑠璃寺へと下った所が東小(ひ
がしお)の集落である。
 バス道を少し浄瑠璃寺の方へ戻った辺りの崖地
に、“薮の中地蔵”と呼ばれる磨崖仏群がある。
 写真は、右の岩に彫られた地蔵菩薩と十一面観
音像で、右岩に接した左岩には、定印の阿弥陀如
来坐像が彫られている。

 写真左の地蔵菩薩立像は、右手に錫杖、左手に
宝珠を捧げている。優しく穏かな表情が魅力の地
蔵像で、安定感のある体躯が堂々としていて素晴
らしい。

 また右側の十一面観音は、左手に花瓶を持つの
は普通だが、右手に地蔵菩薩と同じ錫杖を持って
いる。これは、桜井長谷寺の観音像と同じ“長谷
型”と呼ばれる形式で、石仏では珍しい例かもし
れない。
 少しうつむき気味の観音像は何とも優美で、胸
に抱くようにして花瓶を持つ姿はまことに女性的
である。

 左側の岩面に「弘長二年(1262)」という鎌倉中
期の銘があり、在銘石仏としては南山城随一の古
さだ。また「大工橘安縄」という作者名や、大勢
の願主名が彫られている。
 浄瑠璃寺観光の際には必見と申し上げておく。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   笠置寺磨崖仏
    
       京都府笠置町
    
 
         
 
 木津川に沿った峻険な霊峰が、数々の伝説や逸
話を伝える笠置山である。
 巨大な岩石が累々と横たわる様は、何等かの見
えざる神秘的な力の存在を予感させるに充分な雰
囲気に満ちている。

 写真は、高さ10mもの線彫り大磨崖仏で、弘
法大師が刻んだ虚空蔵菩薩とも、或いは像容から
見て弥勒菩薩とも言われている。
 前面が目もくらむ岩場であるために、真正面か
らの撮影は不可能で、誰が撮ってもこのアングル
になってしまうだろう。
 頭上に宝冠を載せ、切れ長な目、豊満な相貌、
胸の瓔珞、壮大な蓮台に結跏趺座した姿は大変美
しい。

 法隆寺の金堂壁画を連想させるほどの完成度を
見せる線画であり、まして磨崖仏であることを考
えると、およそ類例を見ないほどの傑作であると
言える。
 揺るぎの無い線が、何と美しいことだろうか。
 木漏れ日の中に立ち上る霊気のようなものを感
じた私達は、しばらくこの場から立ち去ることが
出来なくなってしまった。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   洞の仏頭石
    
       奈良市高畑町
    
 
         
 
 奈良東大寺大仏殿の入口から県新公会堂の前を
抜け、通常は車両通行止めの春日山遊歩道を月日
亭という料亭近くまで登っていくと、左手の山裾
に数基の石仏や板碑・仏塔などがまとまって祀ら
れている。

 最も注目すべきは、板状の自然石に彫られた建
長六年(1254)鎌倉中期の薄肉彫地蔵菩薩立像なの
だが、倒れたままで写真が上手く撮れなかった。

 もう一つの見所が、写真の仏頭石である。
 花崗岩製の六角柱の上に、阿弥陀如来かと思わ
れる仏頭が彫られている。今までに全く見たこと
のない様式であろう。
 六角の各側面には、蓮華座に載った六観音立像
が半肉彫されている。写真は、左が十一面観音、
右が准胝観音である。他の面には、如意輪・聖観
音・千手・馬頭が彫られており、端正で繊細な彫
りは見事である。
 観音像の下に、向き合う狛犬の像が配されてい
るのも珍しいだろう。

 塔身部分に永正十七年(1520)室町後期の年号が
彫られており、阿弥陀如来の写実的な表現からも
想定は出来ていた。古仏の風格は見られないが、
優れた彫りの表現力と独創的な形態意匠の感覚は
特筆に値するだろう。   
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   頭塔石仏群
    
       奈良市高畑町
    
 
        
 
 近年復元された「頭塔」は、古墳のような円形
を形作っていた土が除かれ、石垣を重ねた階段ピ
ラミッドの様な衝撃的な姿になってしまった。
 石仏愛好家にとっては、かつて石仏の数々が円
墳のような土盛りの四方に置かれていた時代が懐
かしく思い出される。現在の姿のほうが、本来の
原形に近いとは解っているのだが。
 写真は土盛り当時のもので、現在22基ある石
仏の中で最多のモチーフである「浮彫如来及び両
脇侍像」の一つである。
 豊満な像容、優雅な宝相華の天蓋や飛雲など、
大陸の影響も感じられるほど大らかで優美な表現
が見られ、凡百の石仏とは次元の違う造形性が感
じられる。
 それもその筈で、奈良時代後期の神護景雲元年
(767)に、東大寺良弁の高弟実忠和尚が建立した
土塔であり、石仏も同時代のものと推察できるか
らなのである。

 この土塔を初めて見て感じたのは、インドのサ
ンチーなどで見られるストゥーパ形式の仏舎利塔
だったのではないか、ということだった。当然な
がら、石仏は仏舎利塔を荘厳する意味で、塔の四
方に置かれたものだろう。
    
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   地獄谷聖人窟磨崖仏
    
       奈良市高畑町
    
 
         
 
 私達は奈良市内からタクシーで春日奥山周遊道
路を登り、地獄谷入口で下車した。聖人窟と春日
山石窟を見てから、旧柳生街道を歩き再び奈良へ
と下ろうという算段だった。

 かつては山岳密教的な聖地であり、修行僧の本
尊であったと考えられる中尊は、右手を施無畏印
に結び、左手を与願印としている。線彫りされた
像容は至極荘重であり、全体に彩色され、金箔の
痕跡も見える、まことに美しい仏画像である。
 かなり古そうだな、とは感じたが、よもや奈良
時代説まで有るとは知らなかった。小生の第一感
では、鎌倉初期から平安末期まで遡れるか、とい
ったところだった。

 そもそもこの中尊が釈迦なのか弥勒なのか、ま
た廬舎那仏ではないかとも言われ、学会でも謎の
石仏だそうである。素人の出る幕は、全く無い。
 右に十一面観音、左には薬師如来像が彫られて
おり、唐招提寺の金堂諸仏の配列と同じだという
ことから、天平近くまで遡れるという説が出たそ
うだ。たとえ何時代であろうとも、その価値を些
かも下げることはない。
  
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   春日山石窟磨崖仏
    
       奈良市高畑町
    
 
        
 
 旧柳生街道の石切峠に在り、穴仏とも呼ばれる
聖地で、東西二つの石窟から成り立っている。

 写真は、東窟西側の壁に彫られた四体の地蔵菩
薩像である。蓮華座に立ち、何かを捧げ持つ姿は
大らかで優美な雰囲気を醸し出している。
 石窟の一部から保元二年(1157)という墨書きの
銘が出たそうで、崩落や修復が有ったとはいえ、
制作年代は平安末期と判明しているとのことだ。

 東壁には三体の観音像が彫られ、西窟には金剛
界五仏や多聞天などの諸仏が彫られている。大半
が面を喪失しているが、優美な表現はここでも平
安期の特徴を示している。

 私達はここから石畳の柳生街道を歩き、朝日観
音や夕日観音を拝してから、高畑の集落へと下っ
て行った。
  
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   滝坂道弥勒磨崖仏
    
       奈良市高畑町
    
 
         
 
 新薬師寺で知られる高畑の里から、春日奥山の
石切峠を越えて柳生の庄まで通じる古道は柳生街
道の一部で、滝坂道と呼ばれている。
 私達は春日山石窟から石畳の滝坂道を、高畑へ
とのんびり下って行った。
 途中には、首切り地蔵、朝日観音、夕日観音、
寝仏などが在り、苔むした古磨崖仏が次々と現れ
て楽しかった。

 写真はその内の「朝日観音」と呼ばれる三体の
磨崖仏の内の二体であり、左が中尊、右が地蔵像
であり、中尊の左にもう一体の地蔵が彫られてい
る。よく見れば、中尊は観音像ではなく如来形の
弥勒仏であり、その両側に地蔵が配されているの
だった。
 朝日が当たると美しく映えるところから、そう
呼ばれるようになったそうだ。

 中尊の弥勒仏は像高
2.3mの薄肉彫り如来形立
像で、像の左右に文永二年(1265)と彫られた銘文
が確認されており、鎌倉中期の造立であることが
判る。
 二重円光背の中に立つ中尊は、鎌倉期らしい荘
厳で剛毅な表情をしている。右手は下げられた与
願印、左手は胸前の施無畏印で、如来の吉祥相卍
が胸に刻まれている。
   
 写真には無い中尊左の地蔵像は、中尊と同一の
作者によるものと思われるが、写真の矢田寺型地
蔵は室町初期頃の追刻と考えられる。  
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   二条町地蔵堂石仏
    
       奈良市二条町
    
 
         
 
 平城宮跡の北側を、車で西大寺方面へ走った際
に、二条町交差点の道中央に小さなお堂が建って
おり、何やら石仏が数体祀られていることにかな
り昔から気が付いていた。
 車を停めにくい場所だったので、毎回横目に見
ながら通過していたのだが、今回平城京跡をくま
なく歩く機会があったので、懸案のお堂へも行く
ことが出来た。

 そこには地蔵堂と弘法井戸があり、数基の板碑
などと並んで写真の地蔵石仏が安置されていた。
 2m弱という大型の舟形光背に、蓮華座に立つ
姿で厚肉彫りされている。

 何とも穏やかで優しい表情に、信仰心の薄い小
生ですら思わず引き込まれてしまいそうな魅力が
感じられる。ごく自然体で立っておられるお姿か
らは、全ての衆生を救済するという力みや誇張さ
れた表現が全く感じられない。
 左手に宝珠を捧げ、右手で錫杖を持っている。
光背に浮彫された錫杖の柄を、右手を捻った形で
握るという珍しい表現が成されている。
 大らかさの残る写実といった作風から、鎌倉期
は下がらないだろう、と想像した。

 弘法井戸の奥に、天文十六年(1547)室町後期の
板碑が建っている。不動を中心にした五尊が彫り
出されている。   
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   尼ヶ辻阿弥陀石仏
    
       奈良市尼ヶ辻町
    
 
         
 
 尼ヶ辻の旧暗越奈良街道が三条大路と分岐する
地点に、伏見崗という旧跡が整備され、写真の阿
弥陀如来石仏が安置されたお堂が建っていた。伏
見崗は、東大寺大仏造立を守護した聖人の遺跡、
とのことだった。

 約2mという大きな舟形光背に蓮華紋の頭光を
刻み、厚肉彫りされた阿弥陀如来の立像である。
印相は、右手を上げ左手を下げ、両手共に一指と
二指で輪を作る弥陀来迎印で、動きの感じられる
写実的な仏像と言える。
 鎌倉期の作品だろうと思う。

 頭部の螺髪は風変わりな表現で、五劫院の五劫
思惟像の髪の毛伸び放題の頭を思い出していた。
 端正だが親しみやすい面相で、重厚さよりも庶
民の方へ目線を送る優しさに溢れている。
 印を結んだ右手の表現がとても印象的だったの
は、胸前に浮き上がる様に彫られていたからだろ
う。柔らかな衣服の線、瞑想するが如き柔和な顔
など、均整の取れた意匠となっている。

 尼ヶ辻にはもう一体、重要な石仏が在る。三条
大路のお堂に祀られた、文永二年(1265)鎌倉中期
の地蔵立像石仏である。技術的にも繊細な表現が
成された傑作である。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   王龍寺磨崖仏
    
       奈良市二名町
    
 
         
 
 奈良の西部、近鉄富雄駅の北西にあるゴルフ場
に近い、静寂な雰囲気に満ちた森の中にある黄檗
宗の禅寺である。しかし、荒廃の時代を経たとは
いえ、創建は聖武天皇の勅願とも伝えられる古刹
だ。

 本堂の内陣に、高さが5mもあろうかと思われ
る巨岩が取り入れられており、そこに本尊の十一
面観音立像が彫られている。
 舟形に彫り込まれた光背の中に、半肉彫りされ
た美しい磨崖仏だった。
 暗闇の中に照らし出された観音像は、ハッと息
を飲むような新鮮な感動を与えてくれた。

 繊細に彫られた頭上の十一面化仏は見事で、写
真ではよく見えないが、頂上仏背後の岩面に円形
の頭光が線彫りされている。
 右手はさげて与願印を示し、左手は胸前に上げ
て三茎の蓮華を挿した花瓶を持っている。

 写真でも確認出来るが、光背内部の左下に銘文
があり、南北朝の初めである建武三年(1336)に造
立されたことが判る。
 面相などに鎌倉期の大らかな表現の名残を留め
つつも、衣文の表現などにやや様式化してしまう
時代へと移行していた気配を感じてしまうのは、
銘から制作年代を知ってしまった先入観からなの
だろうか。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   北出橋磨崖仏
    
       奈良市阪原町
    
 
        
 
 柳生街道(国道369号)の阪原集落北側に、
白砂川に架かる北出橋がある。橋の東南岸に続く
崖面に、写真の磨崖仏が彫られている。来迎印の
阿弥陀如来立像で、壺型の深い二重光背の中に厚
肉彫りされている。
 像の右に文和五年(1356)南北朝初期の年号が確
認出来る。
 像の高さが1m足らずという小振りながら、蓮
台に立つ姿がとても流麗で、周辺の清流や牧歌的
な風景に溶け込んでいるように思えた。
 しかし、野の仏と言うには勿体ない程の出来栄
えの石仏で、民間信仰の域を超えた大和ならでは
の石工文化の高さを伺い知ることが出来る。
 北出橋のたもとには、明応五年(1496)室町中期
の銘がある一石六地蔵石仏が建っている。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   南田原磨崖仏
    
       奈良市田原町
    
 
         
 
 奈良高畑から名張へと通じる県道を行き、田原
の分岐を福住方面へと折れてしばらく進む。路傍
に大きな岩が露出した場所があり、そこに「切り
つけ地蔵」と呼ばれる磨崖仏が残されている。
 ここには室町期に制作されたと思しき弥勒仏や
六地蔵もあるが、見るべきはこの阿弥陀如来立像
である。

 深くくり抜かれた石龕に置かれた石仏像のよう
に見えるが、実は像は岩と一体であり、ほとんど
丸彫りに近い厚肉彫りであった。
 蓮華座の上に立つ像高1.7mの堂々たる阿弥
陀像であり、右手を挙げ、左手を下げた来迎印を
示しているお姿は、とても磨崖石仏とは思えぬ程
の見事な像である。
 木彫の仏像にも劣らぬ程の技量が発揮されてお
り、かくも見事な石仏を通りすがりの路傍で拝む
ことが出来るのが不思議に感じられた。
   
 実は像の両側に銘文が刻まれており、そこには
元徳三年(1331)という鎌倉後期の年号と、願主東
大寺大法主定詮、石大工行恒という名前を読むこ
とが出来る。
 何故このような場所に東大寺の僧が磨崖仏を造
立したかは不明だが、旅人も含め遍くこの地方の
人々に弥陀の慈悲が伝わることを祈念したものだ
ろう。
 伊派の石大工の一人として、その優れた技巧で
知られる伊行恒の作品は、紀州藤白峠の地蔵峰寺
に安置された地蔵石仏を見て知っている。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   実相寺石仏
    
       大和郡山市矢田町通
    
 
         
 
 大和郡山市街を東西に走る矢田町通りの中間あ
たりに建つ浄土宗の寺院である。
 本堂にお参りをし石造十三重塔を見学した後、
本堂の前に建つ小堂の中に安置された写真の石仏
を拝見した。
 堂内は暗く、光線の具合も悪かったので、写真
の出来栄えは最悪だったが、魅力的な石仏ゆえに
御紹介をした次第である。

 方形の石に輪郭を巻き、内部を彫り込んで仏像
を半肉彫りしてある。
 来迎印の阿弥陀如来立像で、やや様式化された
像容ではあるものの、親しみやすい面相と柔和な
衣紋の線に惹かれるものが在る。
 左右の脇侍は丸で童子のように愛らしく、右は
蓮台を捧げる観音菩薩、右は合掌する勢至菩薩の
像で、阿弥陀三尊来迎の場面が彫られていた。
 肩肘を張らずに彫られた安らぎが感じられ、剛
毅な鎌倉期の影響から完全に脱皮したかの印象を
受ける。おそらくは南北朝後期の作品ではないだ
ろうか。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   藤尾阿弥陀磨崖仏
    
       生駒市藤尾
    
 
         
 
 生駒の暗峠へと続く旧奈良街道の、藤尾集落を
過ぎた辺りに左へ入る旧道が残っており、少し入
った路傍に阿弥陀堂が建っている。
 堂内には写真の阿弥陀石仏が祀られている。

 祭壇があるので見難いが、単弁の素朴な蓮華座
に載る阿弥陀如来立像である。
 光背の上部が欠落しているが、楕円形の板石に
薄肉彫りされている。昔見た時には、もう少し目
鼻がはっきりしていたと記憶するが、磨耗は石仏
の宿命であり誇るべき年輪と考えるべきだろう。

 印相は阿弥陀来迎相で、衣服の衣紋などが線彫
りされた優雅な石仏である。
 先達の著書や、堂前に立てられた案内板によれ
ば、板石の両側面に刻銘があり、左に「南無阿弥
陀仏」右に「文永七年(1270)」鎌倉中期と記され
ているそうである。

 この暗峠街道周辺は魅力的な石造美術の宝庫で
あり、円福寺宝篋印塔、興融寺五輪塔、輿山往生
院宝篋印塔、石仏寺、西畑磨崖仏など、一級品が
密集しており、何度足を運んだことだろう。
 この阿弥陀様へのお礼参りは遅過ぎた感が強か
ったかもしれない。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   長岳寺石棺仏
    
       天理市柳本町
     
         
 
 石造美術の宝庫であるこの寺の境内を、じっく
りと歩くのはとても楽しい。

 写真は、寺域のちょっと小高い場所に在る高さ
2m余の石棺仏で、弥勒菩薩が厚肉彫りされたも
のである。材質は凝灰岩かと思われる。

 確固たる彫像技術に裏打ちされた見事な石造彫
刻で、下から見上げた姿は大変美しかった。細部
の表現は大胆かつ端正であり、面相や衣の襞は壮
麗で、鎌倉時代の作品であろうと確信した。

 活気に満ちた鎌倉時代の彫刻も、時代の経過と
共にその大胆さを失い、微細な技術や様式へと推
移していった。その意味では、この石仏は鎌倉後
期は下らないものと思う。

 境内には鎌倉期の笠塔婆、五輪板碑、宝篋印塔
などが、また山門前には阿弥陀石仏や五輪塔、奥
の院には地蔵や不動石仏が在り、さながら石造美
術館の様相を呈している。
 本堂の本尊、秀麗な阿弥陀三尊像は見逃せない
し、庭園好きの方には、客殿に面した江戸中期の
瀟洒な池泉庭園も見所となっている。
  
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   専行院石棺仏
    
       天理市柳本町
    
 
         
 
 柳本の古い家並みの続く旧道を纏向方面へと歩
くと、町外れの辺りにこの専行(せんぎょう)院
という小さなお寺がある。
 近年発掘された纒向(まきむく)遺跡は近い。

 門を入ると塀に沿って、かなりの数の小さな地
蔵石仏などが並べられていた。
 その中で一際目に入るのが写真の石仏で、これ
も長岳寺の弥勒仏と同様、近隣の古墳から出た石
棺を利用して彫られた石棺仏である。
 真逆光だったために、像容がはっきり見えない
のが難点だが、随所に様々な特徴の見られる興味
深い石仏であろう。

 舟形にくり抜いた深さが大きく、丸彫りに近い
くらいの厚肉彫りが成されている。
 首が摩滅のためか極端に細くなっているので、
顔の部分が異様に浮き上がったように見えるのが
面白い。
 舟形下部の蓮華座の表現がユニークであり、衣
の裾が広がった来迎印相の阿弥陀の立ち姿には、
古仏を思わせる格調が感じられた。

 この石棺仏は無銘なのだが、写真右端の地蔵石
仏には建治二年(1276)という鎌倉中期の年号が彫
られており、作風が阿弥陀石棺仏と類似している
ことから、同一作者によるものとする説が有力で
ある。小生もこの点に注目してみたが、反証出来
そうな材料は見つからなかった。   
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   別所双仏石
    
       天理市福住町
    
 
         
 
 一般的に野仏というのは地蔵や馬頭観音、道祖
神や庚申といった江戸期のイメージが強いが、さ
すがは大和で、山里の路傍に明徳元年(1390)と彫
られた石仏がさりげなく立っている。南北朝最末
期、約六百年前に彫られたものである。

 天理市と言っても大和高原の山の中、まるで絵
に描いたような村の辻で、周辺の景色とすっかり
一体化している。

 石棺仏のようでもあり、まるで双体道祖神のよ
うでもあるが、右がれっきとした阿弥陀如来、左
が地蔵菩薩である。この組み合わせによる二尊並
立像は珍しいほうだが、極楽へ導いてくれる阿弥
陀様と、例え地獄へ落ちようがそこから救い上げ
てくれるお地蔵様の両方にお願いすれば完璧だ、
と考えた結果なのだろうと思う。
 涙が出るほどいじらしく感じられる、庶民の素
朴な信仰の発露が生んだ石仏である。

 石仏が美しいのはその造形美もさる事ながら、
この短絡だが純真な祈りの姿が背景に秘められて
いるからこそなのであろう。その意味で、大和高
原は美しい野仏の宝庫である。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   下入田石仏
    
       天理市福住町
    
 
         
 
 名阪国道の福住インターから北へ向かうと、左
手に下入田の集落が見え、右手には田圃と森が開
けて見える。その牧歌的な景色に溶け込むように
して、写真のような風変わりな形の石仏が立って
いた。
 近年、周辺と共に整備されたようだが、以前の
野に埋まった石仏の滅び行くかのような風情は失
われ、むしろ堂々としてとても立派になったよう
な気がする。

 自然立石に二重光背を彫りくぼめ、その中に蓮
華座に載る阿弥陀如来立像が半肉彫りしている。
応長元年(1311)鎌倉後期という、石造美術全盛
期の年号が発見されているそうだ。
 かなり風化が進んでおり、面相はもちろん印相
も明瞭ではないが、どうやら来迎印を結んでいる
ようだ。
 それでも、捨て難い魅力が感じられるのは、や
はり古仏が放つ格別の風格が、美しい田園の風景
と見事に融合しているからだろう。
 笠石は両端が反った自然石で、次掲の的野の笠
石仏に似ているが、ほぼ隣接しているので笠を載
せるという意匠からは、何らかの影響を受けた可
能性は強い。

 下入田の公民館脇には、南北朝期の五輪塔など
の旧八幡寺跡の石造物が祀られている。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   旧常照院石仏
    
       奈良県山添村的野
    
 
         
 
 大和高原の都祁村や山添村は、誠に石造美術の
密集地であり、旅する私達に美しいものを見る喜
びを感じさせてくれる、取り分け魅力的な一帯で
ある。
 この寺の在る的野の集落には、多くの石仏や石
塔が保存されている。

 中でも的野八幡神社に隣接するこの寺には、板
碑などと共に、写真のように風変わりな石仏が在
る。何よりも自然石の笠が載っているのが珍しい
が、当初からのものである。像は阿弥陀如来立像
で、肉厚の彫りが並々ならぬ技術を示しており、
像容も端然として優美な美しさを見せている。

 上品下生の来迎印で、当時の熱烈な阿弥陀信仰
を物語っている。円形の光背には後光が線彫りさ
れており、全体にバランスのとれた傑作である。
 おまけに、像の側面には、建長五年(1253)とい
う年号銘が見られ、れっきとした鎌倉中期の石仏
であることが証明された。

 路傍の野仏のような風情を持った、何とも好ま
しい珠玉の石仏であると言える。
 的野では、南北朝の不動明王や鎌倉後期の阿弥
陀像なども是非見たい。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   金屋石仏
    
       桜井市金屋
    
 
         
 
 桜井駅の北、三輪山の山麓に金屋という集落が
在る。山の辺の道の終点に当たり、集落の中程に
建てられた収蔵庫に、写真の石仏二基が収められ
ている。
 写真は扉格子の隙間からの撮影なので最悪の出
来だが、光線の具合で浮彫の線がもっとくっきり
と出るだろう。

 石棺、厨子扉、などといった諸説があるようだ
が、2m余の板石に彫られた二体の如来形像は圧
倒的な迫力と美術的な完成度を示している。

 向かって右が釈迦如来、左が弥勒仏とされてい
るが、かつて読んだ美術史関連の書物では、複雑
な説法印の弥勒、施無畏・与願印の釈迦、と記さ
れていたと記憶していた。
 実物を見ると、右が説法印になっており、それ
が釈迦だとなっている。左右が入れ替わってしま
ったのではないか、と感じてしまった。小生の記
憶違いだろうか。

 いずれにせよ、太線による二重光背の表現、複
雑な衣紋の線条、重厚な面相、堂々たる体躯や複
雑な印相などが、温和で量感に満ちた見事な手法
で表された稀代の傑作、と考える。小生が大好き
な、興福寺の板彫十二神将像(国宝)を想起させ
られていた。   
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   石位寺三尊石仏
    
       桜井市忍坂
    
 
         
 
 重要文化財としてお堂の中に祀られており、我
が国石仏中最古の白眉であるといえる。
 それにしても、何と美しく、洗練された造形で
あろうか。

 三角むすび形の硬質砂岩に、椅子座に腰掛けた
中尊と、両脇に合掌して立つ菩薩の三尊が半肉彫
りされている。
 どういう三尊なのかは不明だが、童顔にもかか
わらず清冽な、しかも聖なる少年のような面相に
は限り無い魅力が感じられる。
 古拙な美を湛えた飛鳥仏から、写実的な力強さ
を示す天平仏へと進展する時代が白鳳であり、興
福寺仏頭の純粋な美しさにも似た印象を受けると
ころからも、白鳳の石仏と言われる所以が理解出
来る。

 天蓋の下で二重の光背を負い、両手を膝上で結
ぶ中尊の座した椅子や、三尊の乗る蓮華座が見下
ろしたような奥行きを感じさせる表現になってい
るところも、白鳳時代の塼仏や押出仏に似ている
という。
 確かに、先般東京国立博物館で見た法隆寺関連
の三尊塼仏の中に奈良時代前期のものがあり、石
位寺三尊石仏にとても似た様式のものがあった。

 左右に流れる菩薩の着衣の裾の美しさや、唇な
どに微かに残る朱の鮮やかさ、左端に彫られた謎
の水瓶など、下世話な話題も含め、この傑出した
石仏が白鳳の時代から千四百年以上も伝えられた
ことは奇跡にも近い、と言えるだろう。   
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   飯降多尊磨崖仏
    
       宇陀市室生
    
 
        
 
 ここは向淵(むこうじ)の飯降(いぶり)とい
う寒村の集落近くにあり、針から室生寺への道の
ほぼ中程である。向淵はすずらんの群生地として
知られる。

 北側山裾の岩に彫られた石仏で、地元では「石
薬師」と呼ばれる磨崖仏である。
 奈良時代前期の遺構とされ、余りの荒廃剥落の
激しさに、前述の石位寺の石仏との対照的な運命
の差を感じてしまう。

 像容はほとんど不明だが、中央に椅子に座した
二如来像があり、その両側に茎の付いた蓮華座に
立つ菩薩像が彫られているらしい。
 その他にも、菩薩や羅漢、四天王像も配されて
おり、壮大な多尊仏の構図が示されているらしい
のだが、写真で見るような状況が現実である。
 滅び行く野仏の如き哀れさと、燃え尽きそうな
美の末路を見る思いが忘れられず、暗闇で撮った
唯一の写真を掲載した次第である。
 
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   下笠間磨崖仏
    
       宇陀市室生
    
 
         
 
 笠間川流域に在る笠間の集落は、上笠間と下笠
間とに分かれている。
 そのいずれにも、中世に制作された阿弥陀如来
磨崖仏が残されている。上笠間のものは天文三年
(1534)だから、室町時代後期のものである。

 写真の下笠間のものは、永仁二年(1294)の刻銘
から鎌倉後期のものと判る。
 全体的に体躯の均整がとれており、決して技術
にばかりは走らない、質実かつ優美さを秘めた表
現がいかにも鎌倉らしい。

 頭光背には、四方へと放たれる放射光が美しく
線彫りされている。阿弥陀の穏やかな表情は慈愛
に満ちており、笠間川に在る滝に由来する滝山阿
弥陀という名で親しまれた理由もうなづける。

 向淵の穴薬師三体地蔵と飯降多尊磨崖仏、辻堂
(つちんど)墓地の阿弥陀三尊など、この地域には
古い石仏が多く残されており、優れた石工の存在
とその伝統が継承されたことを物語っている。
 室生寺も近く、忘れられたようにひっそりと佇
む、美しい磨崖仏を是非訪ねていただきたいもの
である。
  
 
-------------------------------------------------------- 
   
     
   専称寺石仏
    
       明日香村祝戸
    
 
         
 
 明日香の岡寺の南、石舞台のさらに少し南に祝
戸の里がある。集落の街道沿い、一段小高い所に
この小さなお堂が建っている。

 厨子の中に祀られた石仏は、自然石の表面に薄
肉彫りされた如意輪観音像である。黒い蛇紋岩の
色が個性的な像容を、より印象的なものにしてい
る。石全面に二重円光背を彫り、その前に左右三
本づつの手を持つ六臂という姿で表現されている
のである。
 右膝を立てた上に、第一番目の右手で頬杖をつ
いた思惟瞑想の姿も、よく見かける様式だろう。

 蓮座も大らかに描かれており、全体的に至極妖
艶豊満でありながら、通俗的な下品さを少しも感
じさせない優美なお姿である点が誠に好ましい。
 如意輪観音像はその天衣無縫なお姿から、得て
して品位を失った下劣な表現の像が多く、余り好
きな尊像ではないのだが、ここだけは全くの別物
であると思う。
 像高僅か40センチという小像ながら、鎌倉初
期とも思われる造形的な表現の傑作だろう。

 東大寺に鎌倉期慶派の傑作が在る如く、飛鳥の
遺蹟にも鎌倉期の秀逸な石仏が存在している。
 
 
-------------------------------------------------------- 
     このページTOPへ        
     日本の石仏 (豊後・近江などの石仏) へ 
    
     石造美術TOPへ 
 
     総合TOPへ    掲示板へ