石仏・磨崖仏紀行 |
京・大和の石仏 |
仏教美術の中心であった奈良・京都には、歴史 的に重要な木像や金銅製の仏像が数多く残されて いる事で知られる。 実は石仏の分野も同様で、日本最古の石仏であ る奈良時代前期に造られた滝寺磨崖仏、飯降磨崖 仏、石位寺三尊石仏などは、全て大和の国に存在 している遺蹟なのである。 京都府の旧加茂町や笠置町は大和との国境に近 く、奈良の影響を受けた仏像や石仏も多い。特に 岩船寺や浄瑠璃寺のある当尾(とうのお)地区で は、多くの魅力的な石仏や石造美術を観ることが 出来る。 京都は知られざる石仏の宝庫であり、鎌倉時代 を中心とした阿弥陀仏などが密集している。京都 で石仏巡りをする人を見ることは余り無いが、密 かにお薦めをするものである。 |
当尾石仏群の内の「唐臼の壺」阿弥陀磨崖仏 京都府木津川市加茂町 |
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大原弥陀石仏 |
京都市左京区 |
大原勝林院の墓地に阿弥陀如来石仏が在る、と 聞いて訪ねてみた。しかし、境内の何処を探して も墓地らしきものは見当たらず、途方にくれて拝 観受付の女性に聞いたが知らないと言う。 無住の寺を管理する塔頭の宝泉院で尋ねてみる と、親切な御住職が案内すると言うではないか。 その場所へ行くには、美しい宝篋印塔の脇を抜 け、三千院の裏山へと少し登って行かねばならな かった。自分たちだけでは絶対に判らない場所で ある。三千院の境内にもつながっているらしい。 石仏は覆屋の中に安置された堂々たるお姿で、 御住職も久しぶりのお参りと喜んでおられた。 昼なお暗い谷間なので、石仏の像容がよく見え ない。かなり摩滅しているようだが、それでも頭 部の螺髪は繊細に彫られ、優しく美しいお顔をな さっておられることは判った。 まるで木彫の仏像を思わせるような見事な彫り であり、鎌倉期の石仏が多い京都でも屈指の阿弥 陀像だと思う。技術的な表現に走る前の、鎌倉中 期の大らかさが感じられるのが嬉しい。 大原を何度も訪ねたことがあるのに、この石仏 の存在すら知らなかったのは不覚だった。 |
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戸寺弥陀石仏 |
京都市左京区 |
洛北八瀬から大原へと向かう街道を行くと、高 野川に架かる花尻橋を渡ることになる。少し先に 江文神社の御旅所があり、そこにこの美しい石仏 を祀る小さなお堂が建っている。 単弁の蓮座に座しているのは石像の阿弥陀如来 で、二重になった円光の光背を背にしながら定印 を結ぶお姿は、何とも優雅で格調の高い像容とな っている。光背と石仏は一石から彫りだされたも ので、石質は花崗岩である。 総高は105cmとさして大きくは無いが、木彫 のようなすらりとした美しさが魅力的である。 鎌倉中期的な写実性に満ちており、先述の大原 石仏や後述の石像寺阿弥陀三尊石仏と共に、京都 では最も端正な阿弥陀石仏の一つであろう。 これらはいずれも、比叡山西塔香炉岡の弥勒石 仏を源流とした系列に属していると考えられる。 品格のある面相、流麗な衣文、二重円光式の光 背、光背に彫られた梵字などが共通する特徴であ る。もっとも、ここ戸寺石仏の光背は無地で、梵 字は彫られていないが、十分に叡山系としての影 響を受けているようだ。 |
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恵光寺石仏群 |
京都市左京区 |
或る著名な石仏関連の著書に「専光寺」と誤記 され、それが波及して誤記のまま転載された事例 を幾つか知っている。現地へ行ったことのない人 が、資料として使用したからなのだろうか。 「恵光寺」が正しい。 場所は洛北、鞍馬街道に面しており、小野小町 の遺構として著名な小町寺と呼ばれる補陀落寺の 真向かいに当たるお寺である。 石仏は参道の石段を登ったあたりに、大小六体 の石仏が横一列に並べられている。 写真はその内の大きな二体で、左は施無畏印の 如来、右は定印の阿弥陀如来である。 いずれも端正な彫りの石像であり、像容の格調 の高さからも鎌倉後期は下らないものと思う。 この辺りは死者葬送の地であったそうで、浄土 に救いを求めた庶民の願いを、こうした石仏たち はずっと聞き続けてきたのだろう。 |
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北白川石仏 |
京都市左京区 |
今出川通りを百万遍から銀閣寺方面へと向かう と、右手に京都大学の校舎がしばらく続く。 それが途切れたあたりを少し入った所に吉田神 社へと上る石段があり、その前に覆屋があって二 体の石仏がまつられている。 石仏は二体とも阿弥陀如来坐像で、写真は特に 優れた右側の像である。 高さは1.5mほどの花崗岩製で、お顔が大き く愛嬌があって、とても優しい表情をしている。 衣文の様式や二重円光に梵字の配された光背な どは、明らかに叡山式石仏の系統であることを示 している。 蓮台から下は埋まってしまったようだが、下半 身の表現がやや稚拙に思える。しかし腕のすぐ下 に、組んだ足の裏と指が彫ってあるのが、何とも ユーモラスに感じられてならなかった。 比叡山の慈覚大師円仁が伝えた念仏行法の叡山 浄土教は、源信や空也へと受け継がれて市井へと 下ったのである。極楽往生を願った大衆の間には あっという間に、浄土教を通じた阿弥陀信仰が広 がっていった。 京都に残る一連の叡山系阿弥陀石仏の数々は、 そうした民衆の浄土信仰を背景にして生まれたも のだったのであろう。 |
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霊鑑寺石仏 |
京都市左京区 |
鹿ケ谷の哲学の道から、東山山麓へと入った突 き当りに在る臨済宗の禅寺である。但し、門跡尼 院としての格式が高く、通常は一般公開されてい ない。 私たちは特別公開の日に、江戸期の庭園を見学 させていただき、それに併せてこの愛らしい小石 仏を見せていただくことが出来た。 磨耗が進んでいるために、やや印象が散漫にな ってしまうが、大らかな表現の中に質感が感じら れる古仏独特のオーラが感じられた。 左手は施無畏印で、右手次第では薬師如来も考 えられるが、どうやら手のひらは伏せられている ので弥勒如来像かと思われる。 光背に月輪が五つ彫られ、更に中に梵字が彫ら れており、前述の北白川石仏と同様に比叡山系の 影響を受けているようだ。 後日、文献などからこの梵字は大日法身真言で あると知った。とすれば、板碑などでも良く目に する真言であり、ア・バン・ラン・カン・ケンと 記されているはずなのだが、ほとんど判読するこ とは不可能だった。 寺格同様に、品性と風格に満ちた石仏である。 |
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聞名寺石仏 |
京都市左京区 |
東大路通りに面しており、二条通りから少し下 がった仁王門に近い東側に、このお寺が建ってい る。元は市街中心に在った寺だが、火災が原因で 江戸初期にこの地に再建されたのだという。 境内にある墓地には、無数の無縁仏の墓碑や小 石仏などが並べられている。そうした中で、写真 のように一段高く、この石仏がまつられていた。 端正な顔立ち、流麗な衣文、大きく組んだ膝頭 や梵字を刻んだ二重円光式の光背、等を伴った定 印阿弥陀仏であることから、ここでも叡山系の石 仏であることが知れる。 光背に刻まれた梵字は弥陀を象徴する種子「キ リーク」であり、陽刻された月輪の中に陰刻され ている。また、その配列が頭光部分に五個、身光 部分の左右に三個づつ、合計十一個の月輪が彫ら れており、こうした様式だけは後述の石像寺阿弥 陀三尊石仏の阿弥陀像にとてもよく似ている。 技巧的な彫りの良く残った石仏だが、鎌倉中期 頃の大らかでのびのびとした表現からはやや後退 しており、鎌倉後期から南北朝あたりに石像寺石 仏を参考にして制作されたことを示しているので はないだろうか。 |
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般舟院阿弥陀石仏 |
京都市上京区 |
千本今出川の交差点から東へ少し行くと、北側 に中学校に隣接して般舟(はんじゅ)院という小 さなお寺と御陵が並んでいる。 後土御門天皇などの御分骨所として格式ある寺 格を誇っていたが、明治の神仏分離令によって歴 代尊牌は東山泉涌寺へ移されたという。境内の大 半も中学校になってしまったのだそうだ。 近年、住職によって土地や建物が競売にかけら れたり、仏像が隠匿されたりといった醜聞もあっ て、寺の衰退は極まっているようだ。 寺の西側に御陵があり、その築地壁の西側に樹 木の繁った塚がある。式子内親王(後白河天皇の 第三皇女)の塚であると伝わっている。 写真は、その塚の前に祀られた阿弥陀如来石仏 である。花崗岩製ながら、かなり磨耗している。 定印が無ければ、どういう仏像かすら判断できな かっただろう。 それでも、蓮華座に結跏趺坐し定印を結んだ姿 には肉厚の剛毅な表現が見られ、鎌倉期らしい勢 いを感じることが出来る。 この寺がたどった激動の歴史が生んだ波乱を思 うと、その総てをじっと見つめていたこの石仏が 一体何を語っているのだろうか、と聞き耳を立て てみたくなってしまった。 |
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石像寺阿弥陀三尊石仏 |
京都市上京区 |
現在でも厚い信仰を受けている、釘抜き地蔵と して知られる町の中の小さなお寺である。 しかし、石仏愛好家にとっては、その地蔵堂の 背後に建つ石仏堂がとてつもなく重要なのだ。 なぜなら、そこには卓越した美意識を感じさせ る、別格の石造阿弥陀三尊像が祭られているから である。 重要文化財に指定されたほどの傑作で、昔から ものの本で写真を見て知っていた。しかし、何時 訪ねても、信仰篤い線香の煙と花や垂れ幕などが 障害となって、石仏の実際のお顔すら見えない状 態だったのである。 今回近くを通ったので、久しぶりにお参りをし て驚いた。線香以外一切の障害が無く、暗いのだ けれどともかく、石仏全体の詳細を初めてじっく りと拝見することが出来たのである。 写真は中尊の阿弥陀如来像で、蝋燭と線香の煤 によってお顔が真っ黒になってはいるものの、端 正な顔立ちや光背の梵字で表した弥陀の種子「キ リーク」などが大変美しい。 脇侍は右に観音菩薩、左に勢至菩薩が立ち、中 尊と同じ意匠の種子をあしらった二重円光光背の 立像である。 元仁元年(1224)という、鎌倉中期の魅力的な年 号が記されているそうだ。 |
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善想寺阿弥陀石仏 |
京都市中京区 |
二条城の南、三条商店街の更に南、六角通大宮 から西へ入った寺町の中に在る浄土宗の寺院であ る。洛陽地蔵巡りの札所で、泥足地蔵と呼ばれる 地蔵立像が一般的には知られている。 本尊は華麗な仏像として知られる阿弥陀三尊で ある。 本命は別の石仏で、本堂の前から墓地へ入った 直ぐ右手に、写真の阿弥陀石仏が覆屋の中に祀ら れている。 自然石を舟型光背とし、定印を結んで結跏趺坐 した像容は、圧倒的な存在感を示している。 古仏であり、本来は露天の雨ざらしであったが 故の磨滅は致し方なく、それはむしろ風格とすら 感じさせられる。 全体的に流麗で柔和な印象を受けるが、横から 眺めると胸は厚く、肩や両膝も大きく張った力強 さも見せている。 平安期の象徴的な阿弥陀像に比べ、明らかに写 実的な表現へと移行していく過程が見えるような 気がする。磨耗が激しいので断定は出来ないが、 鎌倉期を下がる事はない写実性が感じられる。 中世の石仏に何と阿弥陀仏の多いことかを、改 めて感じてしまう。庶民の目線まで降りて来た仏 教が、浄土信仰という形で深い信仰を集めていた からだろう。 |
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善導寺石仏 |
京都市中京区 |
鴨川に沿って建つホテルに隣接する小さなお寺 の境内に、この愛らしい石仏が立っている。 高さが1mにも満たない小さい作なのだが、弘 安元年(1278)の銘が入った美術史的にも貴重な釈 迦三尊像である。 中央の釈迦像で先ず気が付くのは、衣の流れる ような襞の美しさである。翻波式とも言われ、室 生寺や嵯峨清涼寺の釈迦像にその原形が見られる が、元来は大陸からの影響だろう。 左は文殊菩薩で頭上に五髻(ごけい)というマ ゲを載せ、宝剣や梵篋という箱を持つ珍しい像だ が、写真では細部の内容がよく見えないのが残念 である。 更に珍しいのは従来脇侍として右側には普賢菩 薩が描かれるが、ここでは如来像になっている。 弥勒仏とのことであるが、余り見かけない三尊形 式である。 小作品ながら卓越した鋭い美意識が感じられ、 並々ならぬ意匠感覚と奔放な発想に満ちた、京都 の鎌倉期石仏の中では小生一押しの傑作である。 |
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安養寺石仏 |
京都市東山区 |
京都円山公園の背後、東山山麓に位置するこの 寺を訪ねたのは、弁天堂に在る美しい宝塔を見る ためだった。 折角なので本堂へお参りをしたのだが、境内に 安置されたこの阿弥陀如来石仏が、この存在は知 っていたものの、かくも美しい傑作であったとは 知らなかった。 東山一帯に分布する鎌倉期の石仏に関しては、 既に聞名寺阿弥陀、慈芳院薬師などを見てはいた のだが、今まで見逃していたこの石仏にこの日巡 り会えた幸運に感謝しなければならないだろう。 全体のフォルムが見事であり、細部の描写も端 正である。特にきりりとした表情の面貌は木彫の ような写実性を見せ、衣の襞や蓮座の表現も鎌倉 期の作風を明確に示している。 元来は鎌倉期以後の写実的な石仏より、平安期 の茫洋とした大らかな表現が好みなのだが、この 鎌倉ならではの力強く、しかも品格を保った美意 識の前では、評価の力点をやや幅広くしなければ ならぬと感じさせられたのだった。 格狭間の意匠された台座は、宝篋印塔からの転 用だが違和感はそれほど無い。 |
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慈芳院石仏 |
京都市東山区 |
五条通りと東大路が交叉する五条坂から、南へ 下がった次の小路を西へ入った所にこじんまりと したこのお寺がある。 石仏は本堂の直ぐ左手の覆い堂の中に、堂々と したお姿で祀られていた。今でも生きた信仰の仏 様らしく花や線香が絶えないようだ。 右手が施無畏印で、左手に薬壺を持っているこ とからも、この石仏が薬師如来像であることが判 る。かなり摩滅が激しいのが残念だが、舟形の光 背など全てが花崗岩の一石から彫り出された全体 像からは、品格のある端正な面相や美しい衣文の 襞、ふっくらとした仏身など、写実的な像容表現 が想像できる。 鎌倉中期とも思われる、比較的大らかな写実が 成されているこの石仏は、何度も訪ねたことのあ るかなり昔からの小生のアイドルでもあった。 薬師如来が座している蓮華座に、大きな特徴が 見られる。それは蓮座が通常より厚く造られてい ることであり、また、そこに三段に重なった蓮弁 が彫り出されていることである。 国東半島で最も美しい宝塔とされる岩戸寺の国 東塔の蓮華座にも三段のウロコ状の蓮弁が彫られ ているが、それに匹敵するほどの見事さである。 |
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京都国立博物館 (阿弥陀三尊石仏) |
京都市東山区 |
東山七條の国立博物館前庭には、各種の石造美 術品が展示されている。 覆屋に入っているこの三尊石仏は、本来は伏見 竹田の安楽寿院に祀られていた三基の三尊像の一 つである。かつてその近くの成菩提院が在った旧 跡の田圃の中に埋まっていたという。 中央は定印を結ぶ結跏趺坐の阿弥陀如来で、右 は蓮台を捧げる観音菩薩、左は合掌する勢至菩薩 である。両脇侍の首を中央へ傾けた姿が何とも魅 力的である。 凝灰岩製のため磨耗が激しいが、平安後期の優 れた作品だったことが伺える。 安楽寿院には、残りの二基が祀られている。 |
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油掛石仏 |
京都市右京区 |
嵯峨天竜寺油掛町の、有栖川に沿った辻に小さ なお堂があり、そこに「油掛地蔵」と呼ばれる石 仏が祀られている。 現在でも深い信仰を集めており、常に新しい花 や香の煙が絶える事は無いようである。 石仏に油を掛ける風習は伏見や奈良にも残って いるそうだが、石仏をよく見ると「地蔵」ではな く定印結跏趺坐の阿弥陀如来像である。野辻に置 かれた石仏は、一般的には全て「お地蔵さん」な のだろう。 頭部光背の左右に梵字が刻まれており、右がサ (観音)左がサク(勢至)で、阿弥陀三尊を象徴 しているのである。 像の左右に積もった油層を削った所から、貴重 な銘文が発見されたのだそうだ。左に「願主平重 行」、右に「延慶三年(1310)鎌倉後期」と彫ら れており、市内の在銘中世石仏は前述の石像寺、 善導寺に次ぐ貴重な存在となった。 油がこびりついているために像容がはっきりと しないが、石像寺の阿弥陀如来の端正さを想像さ せるような風貌である。 |
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広沢池石仏 |
京都市右京区 |
大覚寺や名古曾滝で知られる大沢池と共に、嵯 峨野の自然に満ちた風光を彩る静寂な雰囲気を残 している。観月の名所であり、遍照寺山の山影を 写す池畔には、芦が生い茂っている。 池の西側に小さな観音島が浮かび、橋が渡され て半島のように突き出ている。かつては、遍照寺 という寺の堂塔が並んでいた場所である。 島には兒(ちご)神社が建っており、遍照寺に 仕え池に身を投げた稚児の伝説を残す。 写真の石仏は島の先端近くに立っており、明ら かに千手観音であり、また頭上に十一面の化仏を 備えている。 何とも愛らしい石仏で、まるで入水した稚児の 生き写しとすら思えるほどである。 銘文からは、寛永十八年(1641)江戸初期の造立 で、作者は龍安寺近くの蓮華寺に伝わる五智如来 石仏の作者と同じ樋口平太夫という人であると知 れる。 千手を象徴する腕が丹念に彫られており、近世 の石仏ではあるが、昔から愛好する石仏のひとつ であった。このサイトでは、中世の石仏を主体に 掲載しているので、趣旨には反するのだが、この 愛すべき像容から是非にもご紹介したかったとい う次第。 |
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大沢池石仏群 |
京都市右京区 |
大覚寺の裏手、平安前期には嵯峨院離宮の苑池 であった大沢池の池畔に護摩堂があり、その前に この石仏群が並んでいる。苑池庭園石組の遺構で ある、名古曽の滝も近い。 写真は、最も重要な五体の内の三体で、右から 薬壺を持つ薬師如来、釈迦如来、宝冠を頂いた胎 蔵界大日如来である。花崗岩の自然岩前面に彫ら れており、いかにも鎌倉中期らしい古仏の風格と 滅び行く野仏の風情とを備えていて美しい。 この三体の左側には、阿弥陀如来像や弥勒菩薩 像が並んでおり、大日を中心とした四方仏ではな いかと考えられそうである。 石の持つ永遠性が石仏という造形を生んだのだ ろうと思うが、迫真の表現が成される木彫の仏像 に比して、穏やかで親しみ易い表情を示す石仏は 庶民の信仰に最も近い位置に目線を据えて造立さ れたのかもしれない。 |
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化野念仏寺二尊石仏 |
京都市右京区 |
嵯峨野の果てに位置する、古来より葬送の地と された化野(あだしの)にある寺であり、風葬さ れ野晒しとなった遺骸を埋葬し菩提を弔うために 創設されたという。 その墓碑ともいうべき夥しい数の五輪塔や石仏 が並べられた境内の景観は、死の連想と背中合わ せの壮絶な景観である。 写真の二体の石仏は、門前の参道左側の崖地に 埋め込むようにして置かれている。 右の石仏は、膝の上で定印を結ぶ阿弥陀如来坐 像であり、左の像は、右手を施無畏印とし、左手 を与願印とした釈迦如来坐像である。 二体共かなり磨耗してしまっているが、品格の ある面相、肉付けの美しい仏身、優雅な衣文、二 重の蓮華座などからも、まことに優れた鎌倉期の 石仏である事が判る。 特に釈迦如来の石仏については類例が少なくと ても希少なのだが、化野に隣接した嵯峨二尊院の 本尊が釈迦・阿弥陀二尊であることに倣ったのだ ろうか。 いずれにしても、京都では屈指の優しく美しい 石仏であり、嵯峨野を訪ねる楽しみの一つとなっ ている。 |
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北之庄二十一尊磨崖仏 |
京都府亀岡市千代川町 |
千代川町の山手の北之庄という集落の外れに、 嶺松寺という寺院がある。その左手から石段をし ばらく登ったところに覆屋があって、その中に石 仏の彫られた巨石が祀られている。 巾は5m、高さは1.5mもある大きな岩で、 写真のような月輪が20個横並びに彫られた珍し いものである。写真右端の月輪にのみ二体の仏像 が彫られているので、全部で二十一尊ということ になるのである。 詳細に眺めたが、像容がはっきりとしているの は阿弥陀、薬師、如意輪観音くらいで、あとは全 く判らなかった。 従前は背後の山の上に八王子権現として祀られ ていたものが、昭和中期の台風の際に山崩れで落 下したものだそうだ。 近江の日吉大社山王二十一社の本地仏を表した ものとされるが、武蔵の慈恩寺等で二十一仏の板 碑を見たことがある。 南北朝の作とされ、神仏習合の典型でもある本 地垂迹説を石仏として具現化させた、最も古い事 例の一つであると考えられている。 |
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和束弥勒磨崖仏 |
京都府和束町 |
宇治田原町の南に位置する和束(わづか)町は、 まことに山と谷の深い京都でも最辺境の町のよう に見えた。 だが、急峻な山のほとんどの斜面は見事なお茶 の段々畑になっており、高級な宇治茶として出荷 されている。 木津から伊賀上野への国道を進み、海住山寺あ たりで和束方面へ分岐する県道を行く。 町の中心となる家並の少し手前、白栖という集 落辺りの川を隔てた対岸の崖に、この磨崖仏が見 えた。 至近距離まで近付くには、橋を渡って対岸の畦 道を山伝いに歩いて行かなければならなかった。 上げられた右手は施無畏印、下げた左手は与願 印の、なんとも大らかで見事な彫りの弥勒菩薩立 像である。 光背が深く彫り込まれているので、像は量感豊 かであり、雄渾な面容、流れる衣紋、まことに堂 々たる石仏像である。 右の岩壁に正安二年(1300)の刻銘があり、鎌倉 後期を代表する傑作だと言えると思う。 |
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当尾阿弥陀三尊石仏 |
京都府木津川市加茂町 |
奈良坂の般若寺から柳生へ通じる道を行けば、そこは 南山城である。岩船寺から浄瑠璃寺へと、のどかな山道 の旧道を下っていくと、多くの石仏が点在する当尾(と うのお)石仏群に出る。 一願不動、藪の中地蔵、唐臼の壺、首切り地蔵など、 見るべき石仏は枚挙に暇が無いほどだが、中でも特に美 しいのが写真の阿弥陀三尊坐像である。 大きな花崗岩に彫られており、阿弥陀如来を中心に蓮 華を捧げる観音菩薩が右、合掌する勢至菩薩が左、いず れも蓮台の上に座している。 永仁七年(1299)、大工伊行末の在銘であり、鎌倉中期 の大らかで温かみのある作風が滲み出ている。 「笑い仏」と称される三尊の微笑は、飛鳥時代の法隆 寺や中国北魏の仏像以来絶えていた「古代の微笑」の復 活とでも言ってみたいような気がしている。 |
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当尾薮の中地蔵磨崖仏 |
京都府木津川市加茂町 |
先述の“笑い仏”から“唐臼の壺”を経て、風 情のある山道を浄瑠璃寺へと下った所が東小(ひ がしお)の集落である。 バス道を少し浄瑠璃寺の方へ戻った辺りの崖地 に、“薮の中地蔵”と呼ばれる磨崖仏群がある。 写真は、右の岩に彫られた地蔵菩薩と十一面観 音像で、右岩に接した左岩には、定印の阿弥陀如 来坐像が彫られている。 写真左の地蔵菩薩立像は、右手に錫杖、左手に 宝珠を捧げている。優しく穏かな表情が魅力の地 蔵像で、安定感のある体躯が堂々としていて素晴 らしい。 また右側の十一面観音は、左手に花瓶を持つの は普通だが、右手に地蔵菩薩と同じ錫杖を持って いる。これは、桜井長谷寺の観音像と同じ“長谷 型”と呼ばれる形式で、石仏では珍しい例かもし れない。 少しうつむき気味の観音像は何とも優美で、胸 に抱くようにして花瓶を持つ姿はまことに女性的 である。 左側の岩面に「弘長二年(1262)」という鎌倉中 期の銘があり、在銘石仏としては南山城随一の古 さだ。また「大工橘安縄」という作者名や、大勢 の願主名が彫られている。 浄瑠璃寺観光の際には必見と申し上げておく。 |
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笠置寺磨崖仏 |
京都府笠置町 |
木津川に沿った峻険な霊峰が、数々の伝説や逸 話を伝える笠置山である。 巨大な岩石が累々と横たわる様は、何等かの見 えざる神秘的な力の存在を予感させるに充分な雰 囲気に満ちている。 写真は、高さ10mもの線彫り大磨崖仏で、弘 法大師が刻んだ虚空蔵菩薩とも、或いは像容から 見て弥勒菩薩とも言われている。 前面が目もくらむ岩場であるために、真正面か らの撮影は不可能で、誰が撮ってもこのアングル になってしまうだろう。 頭上に宝冠を載せ、切れ長な目、豊満な相貌、 胸の瓔珞、壮大な蓮台に結跏趺座した姿は大変美 しい。 法隆寺の金堂壁画を連想させるほどの完成度を 見せる線画であり、まして磨崖仏であることを考 えると、およそ類例を見ないほどの傑作であると 言える。 揺るぎの無い線が、何と美しいことだろうか。 木漏れ日の中に立ち上る霊気のようなものを感 じた私達は、しばらくこの場から立ち去ることが 出来なくなってしまった。 |
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洞の仏頭石 |
奈良市高畑町 |
奈良東大寺大仏殿の入口から県新公会堂の前を 抜け、通常は車両通行止めの春日山遊歩道を月日 亭という料亭近くまで登っていくと、左手の山裾 に数基の石仏や板碑・仏塔などがまとまって祀ら れている。 最も注目すべきは、板状の自然石に彫られた建 長六年(1254)鎌倉中期の薄肉彫地蔵菩薩立像なの だが、倒れたままで写真が上手く撮れなかった。 もう一つの見所が、写真の仏頭石である。 花崗岩製の六角柱の上に、阿弥陀如来かと思わ れる仏頭が彫られている。今までに全く見たこと のない様式であろう。 六角の各側面には、蓮華座に載った六観音立像 が半肉彫されている。写真は、左が十一面観音、 右が准胝観音である。他の面には、如意輪・聖観 音・千手・馬頭が彫られており、端正で繊細な彫 りは見事である。 観音像の下に、向き合う狛犬の像が配されてい るのも珍しいだろう。 塔身部分に永正十七年(1520)室町後期の年号が 彫られており、阿弥陀如来の写実的な表現からも 想定は出来ていた。古仏の風格は見られないが、 優れた彫りの表現力と独創的な形態意匠の感覚は 特筆に値するだろう。 |
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頭塔石仏群 |
奈良市高畑町 |
近年復元された「頭塔」は、古墳のような円形 を形作っていた土が除かれ、石垣を重ねた階段ピ ラミッドの様な衝撃的な姿になってしまった。 石仏愛好家にとっては、かつて石仏の数々が円 墳のような土盛りの四方に置かれていた時代が懐 かしく思い出される。現在の姿のほうが、本来の 原形に近いとは解っているのだが。 写真は土盛り当時のもので、現在22基ある石 仏の中で最多のモチーフである「浮彫如来及び両 脇侍像」の一つである。 豊満な像容、優雅な宝相華の天蓋や飛雲など、 大陸の影響も感じられるほど大らかで優美な表現 が見られ、凡百の石仏とは次元の違う造形性が感 じられる。 それもその筈で、奈良時代後期の神護景雲元年 (767)に、東大寺良弁の高弟実忠和尚が建立した 土塔であり、石仏も同時代のものと推察できるか らなのである。 この土塔を初めて見て感じたのは、インドのサ ンチーなどで見られるストゥーパ形式の仏舎利塔 だったのではないか、ということだった。当然な がら、石仏は仏舎利塔を荘厳する意味で、塔の四 方に置かれたものだろう。 |
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地獄谷聖人窟磨崖仏 |
奈良市高畑町 |
私達は奈良市内からタクシーで春日奥山周遊道 路を登り、地獄谷入口で下車した。聖人窟と春日 山石窟を見てから、旧柳生街道を歩き再び奈良へ と下ろうという算段だった。 かつては山岳密教的な聖地であり、修行僧の本 尊であったと考えられる中尊は、右手を施無畏印 に結び、左手を与願印としている。線彫りされた 像容は至極荘重であり、全体に彩色され、金箔の 痕跡も見える、まことに美しい仏画像である。 かなり古そうだな、とは感じたが、よもや奈良 時代説まで有るとは知らなかった。小生の第一感 では、鎌倉初期から平安末期まで遡れるか、とい ったところだった。 そもそもこの中尊が釈迦なのか弥勒なのか、ま た廬舎那仏ではないかとも言われ、学会でも謎の 石仏だそうである。素人の出る幕は、全く無い。 右に十一面観音、左には薬師如来像が彫られて おり、唐招提寺の金堂諸仏の配列と同じだという ことから、天平近くまで遡れるという説が出たそ うだ。たとえ何時代であろうとも、その価値を些 かも下げることはない。 |
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春日山石窟磨崖仏 |
奈良市高畑町 |
旧柳生街道の石切峠に在り、穴仏とも呼ばれる 聖地で、東西二つの石窟から成り立っている。 写真は、東窟西側の壁に彫られた四体の地蔵菩 薩像である。蓮華座に立ち、何かを捧げ持つ姿は 大らかで優美な雰囲気を醸し出している。 石窟の一部から保元二年(1157)という墨書きの 銘が出たそうで、崩落や修復が有ったとはいえ、 制作年代は平安末期と判明しているとのことだ。 東壁には三体の観音像が彫られ、西窟には金剛 界五仏や多聞天などの諸仏が彫られている。大半 が面を喪失しているが、優美な表現はここでも平 安期の特徴を示している。 私達はここから石畳の柳生街道を歩き、朝日観 音や夕日観音を拝してから、高畑の集落へと下っ て行った。 |
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滝坂道弥勒磨崖仏 |
奈良市高畑町 |
新薬師寺で知られる高畑の里から、春日奥山の 石切峠を越えて柳生の庄まで通じる古道は柳生街 道の一部で、滝坂道と呼ばれている。 私達は春日山石窟から石畳の滝坂道を、高畑へ とのんびり下って行った。 途中には、首切り地蔵、朝日観音、夕日観音、 寝仏などが在り、苔むした古磨崖仏が次々と現れ て楽しかった。 写真はその内の「朝日観音」と呼ばれる三体の 磨崖仏の内の二体であり、左が中尊、右が地蔵像 であり、中尊の左にもう一体の地蔵が彫られてい る。よく見れば、中尊は観音像ではなく如来形の 弥勒仏であり、その両側に地蔵が配されているの だった。 朝日が当たると美しく映えるところから、そう 呼ばれるようになったそうだ。 中尊の弥勒仏は像高2.3mの薄肉彫り如来形立 像で、像の左右に文永二年(1265)と彫られた銘文 が確認されており、鎌倉中期の造立であることが 判る。 二重円光背の中に立つ中尊は、鎌倉期らしい荘 厳で剛毅な表情をしている。右手は下げられた与 願印、左手は胸前の施無畏印で、如来の吉祥相卍 が胸に刻まれている。 写真には無い中尊左の地蔵像は、中尊と同一の 作者によるものと思われるが、写真の矢田寺型地 蔵は室町初期頃の追刻と考えられる。 |
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二条町地蔵堂石仏 |
奈良市二条町 |
平城宮跡の北側を、車で西大寺方面へ走った際 に、二条町交差点の道中央に小さなお堂が建って おり、何やら石仏が数体祀られていることにかな り昔から気が付いていた。 車を停めにくい場所だったので、毎回横目に見 ながら通過していたのだが、今回平城京跡をくま なく歩く機会があったので、懸案のお堂へも行く ことが出来た。 そこには地蔵堂と弘法井戸があり、数基の板碑 などと並んで写真の地蔵石仏が安置されていた。 2m弱という大型の舟形光背に、蓮華座に立つ 姿で厚肉彫りされている。 何とも穏やかで優しい表情に、信仰心の薄い小 生ですら思わず引き込まれてしまいそうな魅力が 感じられる。ごく自然体で立っておられるお姿か らは、全ての衆生を救済するという力みや誇張さ れた表現が全く感じられない。 左手に宝珠を捧げ、右手で錫杖を持っている。 光背に浮彫された錫杖の柄を、右手を捻った形で 握るという珍しい表現が成されている。 大らかさの残る写実といった作風から、鎌倉期 は下がらないだろう、と想像した。 弘法井戸の奥に、天文十六年(1547)室町後期の 板碑が建っている。不動を中心にした五尊が彫り 出されている。 |
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尼ヶ辻阿弥陀石仏 |
奈良市尼ヶ辻町 |
尼ヶ辻の旧暗越奈良街道が三条大路と分岐する 地点に、伏見崗という旧跡が整備され、写真の阿 弥陀如来石仏が安置されたお堂が建っていた。伏 見崗は、東大寺大仏造立を守護した聖人の遺跡、 とのことだった。 約2mという大きな舟形光背に蓮華紋の頭光を 刻み、厚肉彫りされた阿弥陀如来の立像である。 印相は、右手を上げ左手を下げ、両手共に一指と 二指で輪を作る弥陀来迎印で、動きの感じられる 写実的な仏像と言える。 鎌倉期の作品だろうと思う。 頭部の螺髪は風変わりな表現で、五劫院の五劫 思惟像の髪の毛伸び放題の頭を思い出していた。 端正だが親しみやすい面相で、重厚さよりも庶 民の方へ目線を送る優しさに溢れている。 印を結んだ右手の表現がとても印象的だったの は、胸前に浮き上がる様に彫られていたからだろ う。柔らかな衣服の線、瞑想するが如き柔和な顔 など、均整の取れた意匠となっている。 尼ヶ辻にはもう一体、重要な石仏が在る。三条 大路のお堂に祀られた、文永二年(1265)鎌倉中期 の地蔵立像石仏である。技術的にも繊細な表現が 成された傑作である。 |
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王龍寺磨崖仏 |
奈良市二名町 |
奈良の西部、近鉄富雄駅の北西にあるゴルフ場 に近い、静寂な雰囲気に満ちた森の中にある黄檗 宗の禅寺である。しかし、荒廃の時代を経たとは いえ、創建は聖武天皇の勅願とも伝えられる古刹 だ。 本堂の内陣に、高さが5mもあろうかと思われ る巨岩が取り入れられており、そこに本尊の十一 面観音立像が彫られている。 舟形に彫り込まれた光背の中に、半肉彫りされ た美しい磨崖仏だった。 暗闇の中に照らし出された観音像は、ハッと息 を飲むような新鮮な感動を与えてくれた。 繊細に彫られた頭上の十一面化仏は見事で、写 真ではよく見えないが、頂上仏背後の岩面に円形 の頭光が線彫りされている。 右手はさげて与願印を示し、左手は胸前に上げ て三茎の蓮華を挿した花瓶を持っている。 写真でも確認出来るが、光背内部の左下に銘文 があり、南北朝の初めである建武三年(1336)に造 立されたことが判る。 面相などに鎌倉期の大らかな表現の名残を留め つつも、衣文の表現などにやや様式化してしまう 時代へと移行していた気配を感じてしまうのは、 銘から制作年代を知ってしまった先入観からなの だろうか。 |
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北出橋磨崖仏 |
奈良市阪原町 |
柳生街道(国道369号)の阪原集落北側に、 白砂川に架かる北出橋がある。橋の東南岸に続く 崖面に、写真の磨崖仏が彫られている。来迎印の 阿弥陀如来立像で、壺型の深い二重光背の中に厚 肉彫りされている。 像の右に文和五年(1356)南北朝初期の年号が確 認出来る。 像の高さが1m足らずという小振りながら、蓮 台に立つ姿がとても流麗で、周辺の清流や牧歌的 な風景に溶け込んでいるように思えた。 しかし、野の仏と言うには勿体ない程の出来栄 えの石仏で、民間信仰の域を超えた大和ならでは の石工文化の高さを伺い知ることが出来る。 北出橋のたもとには、明応五年(1496)室町中期 の銘がある一石六地蔵石仏が建っている。 |
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南田原磨崖仏 |
奈良市田原町 |
奈良高畑から名張へと通じる県道を行き、田原 の分岐を福住方面へと折れてしばらく進む。路傍 に大きな岩が露出した場所があり、そこに「切り つけ地蔵」と呼ばれる磨崖仏が残されている。 ここには室町期に制作されたと思しき弥勒仏や 六地蔵もあるが、見るべきはこの阿弥陀如来立像 である。 深くくり抜かれた石龕に置かれた石仏像のよう に見えるが、実は像は岩と一体であり、ほとんど 丸彫りに近い厚肉彫りであった。 蓮華座の上に立つ像高1.7mの堂々たる阿弥 陀像であり、右手を挙げ、左手を下げた来迎印を 示しているお姿は、とても磨崖石仏とは思えぬ程 の見事な像である。 木彫の仏像にも劣らぬ程の技量が発揮されてお り、かくも見事な石仏を通りすがりの路傍で拝む ことが出来るのが不思議に感じられた。 実は像の両側に銘文が刻まれており、そこには 元徳三年(1331)という鎌倉後期の年号と、願主東 大寺大法主定詮、石大工行恒という名前を読むこ とが出来る。 何故このような場所に東大寺の僧が磨崖仏を造 立したかは不明だが、旅人も含め遍くこの地方の 人々に弥陀の慈悲が伝わることを祈念したものだ ろう。 伊派の石大工の一人として、その優れた技巧で 知られる伊行恒の作品は、紀州藤白峠の地蔵峰寺 に安置された地蔵石仏を見て知っている。 |
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実相寺石仏 |
大和郡山市矢田町通 |
大和郡山市街を東西に走る矢田町通りの中間あ たりに建つ浄土宗の寺院である。 本堂にお参りをし石造十三重塔を見学した後、 本堂の前に建つ小堂の中に安置された写真の石仏 を拝見した。 堂内は暗く、光線の具合も悪かったので、写真 の出来栄えは最悪だったが、魅力的な石仏ゆえに 御紹介をした次第である。 方形の石に輪郭を巻き、内部を彫り込んで仏像 を半肉彫りしてある。 来迎印の阿弥陀如来立像で、やや様式化された 像容ではあるものの、親しみやすい面相と柔和な 衣紋の線に惹かれるものが在る。 左右の脇侍は丸で童子のように愛らしく、右は 蓮台を捧げる観音菩薩、右は合掌する勢至菩薩の 像で、阿弥陀三尊来迎の場面が彫られていた。 肩肘を張らずに彫られた安らぎが感じられ、剛 毅な鎌倉期の影響から完全に脱皮したかの印象を 受ける。おそらくは南北朝後期の作品ではないだ ろうか。 |
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藤尾阿弥陀磨崖仏 |
生駒市藤尾 |
生駒の暗峠へと続く旧奈良街道の、藤尾集落を 過ぎた辺りに左へ入る旧道が残っており、少し入 った路傍に阿弥陀堂が建っている。 堂内には写真の阿弥陀石仏が祀られている。 祭壇があるので見難いが、単弁の素朴な蓮華座 に載る阿弥陀如来立像である。 光背の上部が欠落しているが、楕円形の板石に 薄肉彫りされている。昔見た時には、もう少し目 鼻がはっきりしていたと記憶するが、磨耗は石仏 の宿命であり誇るべき年輪と考えるべきだろう。 印相は阿弥陀来迎相で、衣服の衣紋などが線彫 りされた優雅な石仏である。 先達の著書や、堂前に立てられた案内板によれ ば、板石の両側面に刻銘があり、左に「南無阿弥 陀仏」右に「文永七年(1270)」鎌倉中期と記され ているそうである。 この暗峠街道周辺は魅力的な石造美術の宝庫で あり、円福寺宝篋印塔、興融寺五輪塔、輿山往生 院宝篋印塔、石仏寺、西畑磨崖仏など、一級品が 密集しており、何度足を運んだことだろう。 この阿弥陀様へのお礼参りは遅過ぎた感が強か ったかもしれない。 |
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長岳寺石棺仏 |
天理市柳本町 |
石造美術の宝庫であるこの寺の境内を、じっく りと歩くのはとても楽しい。 写真は、寺域のちょっと小高い場所に在る高さ 2m余の石棺仏で、弥勒菩薩が厚肉彫りされたも のである。材質は凝灰岩かと思われる。 確固たる彫像技術に裏打ちされた見事な石造彫 刻で、下から見上げた姿は大変美しかった。細部 の表現は大胆かつ端正であり、面相や衣の襞は壮 麗で、鎌倉時代の作品であろうと確信した。 活気に満ちた鎌倉時代の彫刻も、時代の経過と 共にその大胆さを失い、微細な技術や様式へと推 移していった。その意味では、この石仏は鎌倉後 期は下らないものと思う。 境内には鎌倉期の笠塔婆、五輪板碑、宝篋印塔 などが、また山門前には阿弥陀石仏や五輪塔、奥 の院には地蔵や不動石仏が在り、さながら石造美 術館の様相を呈している。 本堂の本尊、秀麗な阿弥陀三尊像は見逃せない し、庭園好きの方には、客殿に面した江戸中期の 瀟洒な池泉庭園も見所となっている。 |
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専行院石棺仏 |
天理市柳本町 |
柳本の古い家並みの続く旧道を纏向方面へと歩 くと、町外れの辺りにこの専行(せんぎょう)院 という小さなお寺がある。 近年発掘された纒向(まきむく)遺跡は近い。 門を入ると塀に沿って、かなりの数の小さな地 蔵石仏などが並べられていた。 その中で一際目に入るのが写真の石仏で、これ も長岳寺の弥勒仏と同様、近隣の古墳から出た石 棺を利用して彫られた石棺仏である。 真逆光だったために、像容がはっきり見えない のが難点だが、随所に様々な特徴の見られる興味 深い石仏であろう。 舟形にくり抜いた深さが大きく、丸彫りに近い くらいの厚肉彫りが成されている。 首が摩滅のためか極端に細くなっているので、 顔の部分が異様に浮き上がったように見えるのが 面白い。 舟形下部の蓮華座の表現がユニークであり、衣 の裾が広がった来迎印相の阿弥陀の立ち姿には、 古仏を思わせる格調が感じられた。 この石棺仏は無銘なのだが、写真右端の地蔵石 仏には建治二年(1276)という鎌倉中期の年号が彫 られており、作風が阿弥陀石棺仏と類似している ことから、同一作者によるものとする説が有力で ある。小生もこの点に注目してみたが、反証出来 そうな材料は見つからなかった。 |
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別所双仏石 |
天理市福住町 |
一般的に野仏というのは地蔵や馬頭観音、道祖 神や庚申といった江戸期のイメージが強いが、さ すがは大和で、山里の路傍に明徳元年(1390)と彫 られた石仏がさりげなく立っている。南北朝最末 期、約六百年前に彫られたものである。 天理市と言っても大和高原の山の中、まるで絵 に描いたような村の辻で、周辺の景色とすっかり 一体化している。 石棺仏のようでもあり、まるで双体道祖神のよ うでもあるが、右がれっきとした阿弥陀如来、左 が地蔵菩薩である。この組み合わせによる二尊並 立像は珍しいほうだが、極楽へ導いてくれる阿弥 陀様と、例え地獄へ落ちようがそこから救い上げ てくれるお地蔵様の両方にお願いすれば完璧だ、 と考えた結果なのだろうと思う。 涙が出るほどいじらしく感じられる、庶民の素 朴な信仰の発露が生んだ石仏である。 石仏が美しいのはその造形美もさる事ながら、 この短絡だが純真な祈りの姿が背景に秘められて いるからこそなのであろう。その意味で、大和高 原は美しい野仏の宝庫である。 |
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下入田石仏 |
天理市福住町 |
名阪国道の福住インターから北へ向かうと、左 手に下入田の集落が見え、右手には田圃と森が開 けて見える。その牧歌的な景色に溶け込むように して、写真のような風変わりな形の石仏が立って いた。 近年、周辺と共に整備されたようだが、以前の 野に埋まった石仏の滅び行くかのような風情は失 われ、むしろ堂々としてとても立派になったよう な気がする。 自然立石に二重光背を彫りくぼめ、その中に蓮 華座に載る阿弥陀如来立像が半肉彫りしている。 応長元年(1311)鎌倉後期という、石造美術全盛 期の年号が発見されているそうだ。 かなり風化が進んでおり、面相はもちろん印相 も明瞭ではないが、どうやら来迎印を結んでいる ようだ。 それでも、捨て難い魅力が感じられるのは、や はり古仏が放つ格別の風格が、美しい田園の風景 と見事に融合しているからだろう。 笠石は両端が反った自然石で、次掲の的野の笠 石仏に似ているが、ほぼ隣接しているので笠を載 せるという意匠からは、何らかの影響を受けた可 能性は強い。 下入田の公民館脇には、南北朝期の五輪塔など の旧八幡寺跡の石造物が祀られている。 |
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旧常照院石仏 |
奈良県山添村的野 |
大和高原の都祁村や山添村は、誠に石造美術の 密集地であり、旅する私達に美しいものを見る喜 びを感じさせてくれる、取り分け魅力的な一帯で ある。 この寺の在る的野の集落には、多くの石仏や石 塔が保存されている。 中でも的野八幡神社に隣接するこの寺には、板 碑などと共に、写真のように風変わりな石仏が在 る。何よりも自然石の笠が載っているのが珍しい が、当初からのものである。像は阿弥陀如来立像 で、肉厚の彫りが並々ならぬ技術を示しており、 像容も端然として優美な美しさを見せている。 上品下生の来迎印で、当時の熱烈な阿弥陀信仰 を物語っている。円形の光背には後光が線彫りさ れており、全体にバランスのとれた傑作である。 おまけに、像の側面には、建長五年(1253)とい う年号銘が見られ、れっきとした鎌倉中期の石仏 であることが証明された。 路傍の野仏のような風情を持った、何とも好ま しい珠玉の石仏であると言える。 的野では、南北朝の不動明王や鎌倉後期の阿弥 陀像なども是非見たい。 |
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金屋石仏 |
桜井市金屋 |
桜井駅の北、三輪山の山麓に金屋という集落が 在る。山の辺の道の終点に当たり、集落の中程に 建てられた収蔵庫に、写真の石仏二基が収められ ている。 写真は扉格子の隙間からの撮影なので最悪の出 来だが、光線の具合で浮彫の線がもっとくっきり と出るだろう。 石棺、厨子扉、などといった諸説があるようだ が、2m余の板石に彫られた二体の如来形像は圧 倒的な迫力と美術的な完成度を示している。 向かって右が釈迦如来、左が弥勒仏とされてい るが、かつて読んだ美術史関連の書物では、複雑 な説法印の弥勒、施無畏・与願印の釈迦、と記さ れていたと記憶していた。 実物を見ると、右が説法印になっており、それ が釈迦だとなっている。左右が入れ替わってしま ったのではないか、と感じてしまった。小生の記 憶違いだろうか。 いずれにせよ、太線による二重光背の表現、複 雑な衣紋の線条、重厚な面相、堂々たる体躯や複 雑な印相などが、温和で量感に満ちた見事な手法 で表された稀代の傑作、と考える。小生が大好き な、興福寺の板彫十二神将像(国宝)を想起させ られていた。 |
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石位寺三尊石仏 |
桜井市忍坂 |
重要文化財としてお堂の中に祀られており、我 が国石仏中最古の白眉であるといえる。 それにしても、何と美しく、洗練された造形で あろうか。 三角むすび形の硬質砂岩に、椅子座に腰掛けた 中尊と、両脇に合掌して立つ菩薩の三尊が半肉彫 りされている。 どういう三尊なのかは不明だが、童顔にもかか わらず清冽な、しかも聖なる少年のような面相に は限り無い魅力が感じられる。 古拙な美を湛えた飛鳥仏から、写実的な力強さ を示す天平仏へと進展する時代が白鳳であり、興 福寺仏頭の純粋な美しさにも似た印象を受けると ころからも、白鳳の石仏と言われる所以が理解出 来る。 天蓋の下で二重の光背を負い、両手を膝上で結 ぶ中尊の座した椅子や、三尊の乗る蓮華座が見下 ろしたような奥行きを感じさせる表現になってい るところも、白鳳時代の塼仏や押出仏に似ている という。 確かに、先般東京国立博物館で見た法隆寺関連 の三尊塼仏の中に奈良時代前期のものがあり、石 位寺三尊石仏にとても似た様式のものがあった。 左右に流れる菩薩の着衣の裾の美しさや、唇な どに微かに残る朱の鮮やかさ、左端に彫られた謎 の水瓶など、下世話な話題も含め、この傑出した 石仏が白鳳の時代から千四百年以上も伝えられた ことは奇跡にも近い、と言えるだろう。 |
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飯降多尊磨崖仏 |
宇陀市室生 |
ここは向淵(むこうじ)の飯降(いぶり)とい う寒村の集落近くにあり、針から室生寺への道の ほぼ中程である。向淵はすずらんの群生地として 知られる。 北側山裾の岩に彫られた石仏で、地元では「石 薬師」と呼ばれる磨崖仏である。 奈良時代前期の遺構とされ、余りの荒廃剥落の 激しさに、前述の石位寺の石仏との対照的な運命 の差を感じてしまう。 像容はほとんど不明だが、中央に椅子に座した 二如来像があり、その両側に茎の付いた蓮華座に 立つ菩薩像が彫られているらしい。 その他にも、菩薩や羅漢、四天王像も配されて おり、壮大な多尊仏の構図が示されているらしい のだが、写真で見るような状況が現実である。 滅び行く野仏の如き哀れさと、燃え尽きそうな 美の末路を見る思いが忘れられず、暗闇で撮った 唯一の写真を掲載した次第である。 |
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下笠間磨崖仏 |
宇陀市室生 |
笠間川流域に在る笠間の集落は、上笠間と下笠 間とに分かれている。 そのいずれにも、中世に制作された阿弥陀如来 磨崖仏が残されている。上笠間のものは天文三年 (1534)だから、室町時代後期のものである。 写真の下笠間のものは、永仁二年(1294)の刻銘 から鎌倉後期のものと判る。 全体的に体躯の均整がとれており、決して技術 にばかりは走らない、質実かつ優美さを秘めた表 現がいかにも鎌倉らしい。 頭光背には、四方へと放たれる放射光が美しく 線彫りされている。阿弥陀の穏やかな表情は慈愛 に満ちており、笠間川に在る滝に由来する滝山阿 弥陀という名で親しまれた理由もうなづける。 向淵の穴薬師三体地蔵と飯降多尊磨崖仏、辻堂 (つちんど)墓地の阿弥陀三尊など、この地域には 古い石仏が多く残されており、優れた石工の存在 とその伝統が継承されたことを物語っている。 室生寺も近く、忘れられたようにひっそりと佇 む、美しい磨崖仏を是非訪ねていただきたいもの である。 |
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専称寺石仏 |
明日香村祝戸 |
明日香の岡寺の南、石舞台のさらに少し南に祝 戸の里がある。集落の街道沿い、一段小高い所に この小さなお堂が建っている。 厨子の中に祀られた石仏は、自然石の表面に薄 肉彫りされた如意輪観音像である。黒い蛇紋岩の 色が個性的な像容を、より印象的なものにしてい る。石全面に二重円光背を彫り、その前に左右三 本づつの手を持つ六臂という姿で表現されている のである。 右膝を立てた上に、第一番目の右手で頬杖をつ いた思惟瞑想の姿も、よく見かける様式だろう。 蓮座も大らかに描かれており、全体的に至極妖 艶豊満でありながら、通俗的な下品さを少しも感 じさせない優美なお姿である点が誠に好ましい。 如意輪観音像はその天衣無縫なお姿から、得て して品位を失った下劣な表現の像が多く、余り好 きな尊像ではないのだが、ここだけは全くの別物 であると思う。 像高僅か40センチという小像ながら、鎌倉初 期とも思われる造形的な表現の傑作だろう。 東大寺に鎌倉期慶派の傑作が在る如く、飛鳥の 遺蹟にも鎌倉期の秀逸な石仏が存在している。 |
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