山陰・山陽地方の庭園 |
三仏寺 投入堂(国宝) 鳥取県三朝町三徳山 岩をよじ登り鎖に伝わって、ようやくこの聖 地に達する。 |
京都を中心とした庭園文化が地方へと伝播した背 景に、文化を発信した藩主の趣味の良さが不可欠と すれば、山口や松江や岡山は大層恵まれていたと言 えるだろう。 中国地方では、真偽はともかく雪舟作と伝わるに ふさわしい名庭が数多く残されている。余り知られ ていない美しい庭も、併せてご紹介する。 |
|
曹源寺庭園 |
(岡山市中区) |
岡山市街には旭川と百間川が流れており、二つの 川の間に円山という丘陵が横たわっている。円山の 南麓に建つ当寺は、樹林を背景とした誠に風光明媚 な地区である。 岡山池田家二代藩主綱政公が創建した臨済宗の禅 寺で、歴代藩主の墓所も在る池田家菩提寺である。 総門、三門、仏殿が直線に連なる寺域は森閑とし ており、並みの寺とは格段違う格式の高さを感じさ せる。 仏殿の右に方丈が建ち、その奥に深い緑を背にし た壮大な池泉庭園が広がっていた。後楽園などを造 築し、庭園に格別の思い入れがあった藩主綱政公の 家来、津田永忠の作と伝わる。江戸初期の最後、元 禄年間の庭園である。 楕円形の大池泉で、この期の池泉庭園には中島が 配されるのが通例であったが、ここでは、池の正面 に、あたかも中島と思えそうな出島が意匠されてい る。石組の大半が、この出島に集中している。 写真は、その出島の中央部に組まれた石組で、そ の向こう側に三段の滝組が成されているのだが、樹 木や植栽に囲まれて見えない。写真の石組は、滝石 組そのものではないが、滝組最下部の脇に配された 集団石組である。枯滝石組のようにも見える豪快な 石組で、出島全体の中でも一際目を引く存在となっ ていた。 出島の左右護岸にも石組が成されているが、丸石 が多く、江戸中期にかかった時代性を示しているよ うにも見えた。 |
|
金山寺庭園 |
(岡山市北区) |
JR津山線牧山駅の西側の、岡山市内とはいえ何 とも辺鄙な山間に建つ、奈良時代に創建されたと伝 わる古刹なのである。 現在は天台宗のお寺だが、近年重要文化財だった 本堂が消失したそうだ。 御住職にお願いをして、江戸期の庭園を見学させ ていただいた。「重森先生が調査に見えたこと、よ く覚えています。草ぼうぼうでお恥ずかしいが。」 と申されて案内して下さった。 雑草が繁茂していたが、池泉の地割や石組はちゃ んと保存されていたので安心した。 右奥の滝石組、石橋、飛び石と出島、手前にもう ひとつの石橋、などが確認出来る。さらに左手の築 山にも趣味の良い石組が見えた。 雑草を除去すれば、たちまち見違えるような庭園 が出現するだろう。 |
|
妙教寺庭園 |
(岡山市北区) |
創建は奈良時代と伝わる古刹で、現在は日蓮宗寺 院となっている。正式には最上稲荷山妙経寺と称し 最上稲荷”とも、地名から“高松稲荷”とも呼ば れている。豊川稲荷(妙厳寺)も同様だが、明治の 廃仏毀釈を逃れた、神仏混淆の名残ともいえそうで ある。 庭園は、客殿書院の奥に展開しているのだが、右 手に茶席、左手に渡り廊下が迫っていて、妙に細長 い平面プランとなっている。当初はもっと広かった のだろうが、年代と共に建築が増えてきた、ものと 思われる。 最上部に豪快な枯滝を組み、山畔の斜面を利用し て枯流とし、中段にも枯滝を意匠して豪壮な石組が 連続している。桃山期とされる理由がここいら辺り にありそうである。 写真は、大分前に撮影したものなので現状は判ら ないが、植栽が繁茂し過ぎて庭の命とも言える石組 を完全に覆ってしまっている。絵の前に紙を貼った ようなものではないだろうか。この植栽を愛でるの は、その紙が綺麗だなどと言っているのに等しいの だ、ということを知るべきだろう。 ずっと手前に池泉があるが、後世に改悪されたも ので、実に陳腐な池泉と化している。 成すべきことは明白で、稀代の名庭を生き返らせ る見識を、管理者にはぜひ持っていただくことを切 望するものである。 |
|
旧杉原氏邸庭園 |
(岡山市北区足守町) |
従前は吉備郡足守町だったが、現在は岡山市北区 に合併されている。 豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の兄木下家定に始 まった足守藩の城下町で、現在も武家屋敷や商店の 家並みを見る事が出来る。 杉原(椙原)氏は代々伝わる国家老の家柄で、江 戸中期に建築された家老屋敷が庭園と共に残されて いた。 円形の枯池の正面に枯滝石組みが三尊形式で組ま れ、鶴石や亀石、舟石らしい遺構も見られることか ら、遠州流の庭園と解説に記されていた。 土地柄の遠州流説はともかく、家老とはいえささ やかな地方武士の屋敷に、かくも本格的な枯山水庭 園が築かれた事は注目に値する。小庭ながら、当主 の審美眼の洒脱さが感じられて嬉しかった。 |
|
蓮台寺庭園 |
(岡山県倉敷市児島町) |
奈良時代に行基が開基したとされる由緒深い古刹 で、現在は厄除け霊山として知られる真言宗の寺院 である。 旧児島市の由加に在るが、正式には瑜伽と記す山 の麓に位置している。 隣接する由加神社と併せて「由加山」と称してい る。 客殿で円山応挙の絶筆「竹鶏図」を拝観した後、 客殿のすぐ裏側に築造されている枯山水庭園を見学 した。 余りにも植栽が多いので、石組の概要すら見えな い。奥の院へ登る石段の脇でもあり、傾斜はかなり 急だが、石組はしっかりと組まれているように見え る。江戸末期作の庭園とされているが、斜面に組ま れた石組の面白さが予見される。ツツジ鑑賞のため だけの庭にしておくことは、余りにも見識不足と言 わざるを得ないだろう。 |
|
頼久寺庭園 |
(岡山県高梁市) |
小堀遠州が作ったとされる庭というのは数多いの だが、大徳寺孤篷庵などの数庭以外確証の有るもの は少ないと言う。天下の大名が直接作庭するなど滅 多に無い筈だから当然だが、ここには実際遠州が滞 在していたという記録が有るらしい。 石組、白砂、大刈込が主役の庭で、特に背後の刈 込の壮観な眺めが絶賛されるが、私は刈込も含めた 地割の見事さと、写真の鶴島石組の卓越した美意識 がこの庭の価値を決定付けていると思う。 中心に立つ石と他の石とが作り出す、緊張したモ ニュメンタルな関係こそが、石組の美しさの原点だ といえる。 庭は一人の作者によってのみ造られるのではなく 或る指導者の元で、或る技術集団が携わって完成す るものだろうと思う。 その意味では「遠州指揮の庭」程度は信じてみた い気分になる。 この辺りは高梁城下の寺町で、しっとりとした古 い町の情緒を味わいながら歩くのも悪くない。他の 何箇所かの寺院にも、古い庭園が残されている。 |
|
旧松山城居館跡庭園 |
(岡山県高梁市) |
小堀遠州が造築したとされる松山城の御根小屋書 院は現存しないが、跡地には現在県立高梁高校が建 っている。 その高校の玄関前に、一部だが当時の庭園跡が残 されている。 写真は池泉庭園の中心であった枯滝石組である。 三尊様式の何とも豪放な立石群で、護岸に亀頭石が 残っていることから、築庭当時には鶴石を兼ねた蓬 莱石組でもあったことが想定出来そうである。 出島の在る心字池だが、この石組周辺以外の護岸 などは、大半が修復改造されてしまっている。 それ故に、桃山の気風を伝えるこの石組を含め、 遠州の作庭した遺構であると信じたい気分である。 |
|
巨福寺庭園 |
(岡山県高梁市) |
前述の頼久寺から南、臥牛山麓に沿った一帯は龍 徳院、巨福寺と続く寺町である。この寺は、14世 紀に創建された日蓮宗の寺院で、「こうふく」寺と 読む。 庭園は山側に細長い枯池を配し、中央奥に三尊形 式の枯滝組を設けた枯山水庭園である。 石は総じて小振りではあるものの、護岸石組など にも立石が多く、枯滝の右に連なる築山にも多くの 石が意欲的に組まれている。 余り上等とは言えない写真しか撮れなかったのが 残念だが、江戸初期の地割とやや力弱い中期の石組 という要素が感じられる。景観良く、趣味の良い枯 山水、と言えそうである。 |
|
薬師院庭園 |
(岡山県高梁市) |
寺町をさらに南へ歩くと、松蓮寺と並んだこの薬 師院が見えて来る。小高い場所に建つ二つの寺は、 その石垣と白い土塀が丸で城壁の様に見える。 花山天皇の開基と伝わる10世紀創建の古刹で、 薬師如来を本尊とする真言宗の寺院である。 庭園は山麓の斜面を利用して、細長い流れが二つ の池泉を結んでいる。 写真は左手の池泉と築山部分で、護岸や池中、山 畔に至るまで、立石を中心とした意欲的な配石を見 ることが出来る。写実と抽象の間を散歩する気分に させてくれた、小生の思い出の中では“隠れ傑作” という存在である。 やや石が散漫な感は拭えないが、江戸末期にもこ んな庭が在ったか、という驚きは大きい。 |
|
重森三玲記念館庭園 |
(岡山県吉備中央町) |
稀代の造園家であり、日本庭園史上に多大な功績 を残した故重森三玲氏の故郷は、旧賀陽町現在の吉 備中央町の吉川であった。 氏に所縁の吉川八幡宮に隣接して、氏を顕彰する ための記念館が創設された。 ここには、氏に関する多くの資料が展示されてお り、氏が創作した処女作茶室「天籟庵」が、茶庭・ 露地と共に邸宅から移築されている。創造力に溢れ た瑞々しい感性が発揮された、創作的な茶室だ。 記念館の創設に併せて、天籟庵を背景にした空間 に、三玲の庭を思わせるような石庭が創作された。 重森千青(ちさお)氏の力作であり、三玲の境地に は程遠いものの、意欲的に組まれた石組からは“石 を組む”という庭の原点を思わせる、情熱のような 熱いものが感じられて嬉しかった。 奥の三尊石組みが「三」を、手前の石組が「令」 を表わし、写真の左外に組まれた四石による「王」 を併せて「三玲」を象徴したのだという。 ストレート過ぎてやや陳腐さが感じられるモチー フなのだが、いけばなや書道に格別秀でた才能のあ った三玲氏に捧げた、“白砂に描いた石の書”と理 解できるのではないかと感じた。 |
|
安養寺庭園 |
(岡山市中区) |
写真からは想像がつかないほど、手前の建物と庭 園との間には隙間が無かったので、広角レンズで無 理矢理撮ったものである。 現在の建物と庭とは余りにも接近しすぎているの で、当初の建築とは全く関係が無いだろう。おそら く当初の庭の相当部分は削られ、ほんの一部が残っ ているものと思われた。しかしそれでも、残された 蓬莱山かと思われる豪快な石組は、圧倒的な美しさ を呈していた。 崩落したり倒壊した石組も見受けられたが、中央 の遠山石から下方の池泉へと至る階段状の石組は、 桃山期の豪壮な美意識を備えた力強いものである。 池に掛かる二枚の薄い石橋は、創建当初のもので はなさそうだが、趣味の良いもので決して邪魔には なっていない。 また、植栽がかなり繁茂しており、これが豪健な 石組の魅力を大きく奪っていることに気が付かねば ならない。一見甚だ荒廃した庭に見えるが、本来の 庭園美を充分に秘めた小生には好みの庭である。 |
|
安国寺庭園 |
(岡山県津山市) |
津山の町では、衆楽園を見てからこの安国寺を訪 ねた。 石組主体の庭園が好きな私には、ほとんど石組の 見られない回遊を目的とした大名庭園である衆楽 には失望した。景観は美しいとしても、護岸などの 安易な処理が目立ったからである。 それ故に、やや荒廃してはいるものの、石組を主 体に意匠されたこの庭の迫力の方に魅力を感じたの だった。 山畔に沿って細長い池泉が展開する手法は江戸初 期のものであるが、石組にやや弱さが見られるので 中期に近いかもしれない。 写真は左側の出島周辺のもので、亀頭石らしき斜 立石が亀島を暗示する。 さらに奥の斜石は、暗いためにはっきりと見えな いが、枯滝石組の一部らしい。 右側に配置された石橋や全体的な護岸石組は、造 形力を失いつつある時代を物語ってはいるものの、 端正な造形には好感が持てる。 |
|
大通寺庭園 |
(岡山県矢掛町) |
矢掛の宿場町を抜け、しばらく行くとこの静かな 寺にたどり着く。 石寿園の名の通り、書院の北側に累々と築かれた 石組を中心にして、造形意欲満々の庭園が展開して いた。 地元の文人画家の作と判明しているそうで、時代 は江戸末期とのことだ。 手前の瓢箪池、反石橋の意匠、右手奥の洞窟石組 や左奥の豪壮な三尊石組など、見どころいっぱいの 庭となっている。 石を組み、理想世界をイメージさせる空間を構築 する、という作者の意図は見事に成功していると思 う。しかも、安直な自然模倣をするのではなく、石 組という抽象的な観念の世界を造形したのであり、 自然主義が横行した時代にあって見事と言うしかな い。 角の無い丸石が利用されている事や、回遊用の石 段が目立つこと、不細工な灯篭が存在する事などに は目をつぶることにした。 |
|
興禅寺庭園 |
(鳥取県鳥取市) |
鳥取は裏日本へ通じる要衝の地として栄え、城下 町らしい雰囲気を今日に伝える魅力的な町である。 見るべき古庭園の多い事に驚いた。観音院・旧宝 隆院・芳心寺・本慈院その他、美しい景観を保って いる名園揃いである。 中でもこの興禅寺は、石組好きの私にとって、最 も感動した庭だった。 手前に細長い池泉を設け、山畔へ向けた築山に石 を組む、という典型的な江戸初期の地割である。 蓬莱庭園であり、築山の石組は枯滝で鶴石組を兼 ね、手前出島の石組が亀石組となっている。 鶴亀のワンパターンは好みでは無いのだが、そう した既成概念とも言うべき視点を意識させぬ程の力 強い石の組み方が何とも魅力だった。築山のさりげ ない石組も、なかなか洒脱である。 |
|
観音院庭園 |
(鳥取県鳥取市) |
書院に座してこの庭を眺めた時、先ず目に入るの は手前の大きな池泉と山畔を利用して大らかに傾斜 する築山である。 広大すぎて対岸の石組が良く見えないのが難点だ が、左側の中島は明らかに亀島として意匠されてお り、ここでも蓬莱式のワンパターンかと思ったが、 鶴が見当たらなかった。 しかし、ここの解説書には、右手前の出島が鶴島 として意匠されていると書かれており、成程そうい うものかとは思ったが、最後まで感服は出来なかっ た。 景色が大きいので捉えどころが無いのだが、全体 的に大らかで広がりの感じられる静寂な空間が素晴 らしい。 滝石組部分は植栽に隠れて見えず、護岸には小さ な石が用いられており、格別抜きん出た石組などは 全く見られないのだが、山畔の斜面と池泉の優雅さ が絵画的であるところに魅力がある。 |
|
本慈院庭園 |
(鳥取県鳥取市) |
天文年間(16世紀)に創建された日蓮宗の寺院 である次掲芳心寺の塔頭で、山門へ至る参道の手前 の左手にこの寺が在る。 写真に写っている小さな池と、斜面に組まれた石 組の一団だけで構成された小庭である。この空間だ けのために意匠されたとは思えず、おそらくはもっ と大きかった庭園の一部だったのではなかろうか。 石を組んだというよりも、斜面に石を積み上げた という方が相応しいかもしれない。中央が滝組のよ うにも見え、一見無骨な荒廃庭園という印象を受け る中、少し見直してみる気にさせられた。 荒々しく見えるが、様式化した中に活路を見出そ うとする、江戸末期の造形的意欲の痕跡を感じたの は、小生の思い入れ故の偏見だったのだろうか。 |
|
芳心寺庭園 |
(鳥取県鳥取市) |
鳥取市には幾つかの著名な古庭園がのこされてい るが、この庭ですら知る人はあまり多くはないだろ うと思う。 芳心寺の山門の脇に小さな池泉庭園が在ったが、 前述の通り塔頭寺院である本慈院の庭園である。 芳心寺庭園は書院の奥にあり、山畔との狭い空間 が巧みに利用されている。 ほとんど紹介されたことの無い庭園だが、幽邃な 雰囲気がとても素晴らしいし、石組に鋭い美意識の 片鱗を見ることが出来るのが嬉しかった。 滝石組や護岸石組が意欲的に成されており、江戸 中期ごろかと思われるにしては、きりりとした美し さが感じられる。 残念なことは樹木や植栽が繁茂しすぎており、肝 心の石組の大半を隠してしまっていることだった。 ここでは石組が命であり、植栽の適度な伐採を切 望するものである。 |
|
深田氏邸庭園 |
(鳥取県米子市) |
事前に庭園の見学をお願いしてあったのだが、快 くご承諾を頂戴し、当主御夫妻にご案内していただ いた。小川氏と同様に名門の家系とはいえ、一般の 民家の庭が、それも専門家の判定では鎌倉時代にま で遡るとされる庭が、今日まで営々と伝えられた事 に敬意を表さざるを得ない。 蓬莱庭園としての池庭には、恒例の鶴亀両島の石 組が有る。私はこの画一的な様式が余り好きではな いが、深田邸の鶴亀はものが違う。形状は鶴亀をイ メージさせるが、石組として生き生きとしているの が嬉しかった。 この庭で何よりも注目したのが、写真の三尊石組 であった。石質そのものがいかにも古い時代を想定 させるし、三尊の並び方がなんとも大らかであり、 少しも巧んでいないところに惹かれてしまった。 三石のバランスの良否よりも、三尊の仏が具現し たかの如き雰囲気を創出するという稀有の意匠を賞 賛したい。 出来るだけ植栽を減らしつつ、今日の環境が末永 く維持されんことを心から願うものである。 |
|
雲樹寺庭園 |
(島根県安来市) |
安来市の中心から南へ10キロの場所に建つ、鎌 倉末期に創建された臨済宗の禅寺である。参道に在 る同時代の四脚門と、新羅時代鋳造の朝鮮鐘(いず れも重文)で知られている。 庭園は、方丈の背後の斜面を背景として造庭され た枯山水庭園である。 写真で見る通り、出島の在る池へ山畔から渓谷が 流れ込む様を抽象化してある。築山や護岸の石組は 峨々たる峰々を象徴し、石橋がそこへ至る渓谷の径 を意味しているのだろうが、やや配石の力量不足は 否めないだろう。 芸術性の高さは抽象の意味深さに比例する筈で、 その意味からはやや凡庸な抽象に終わってしまった 感が強い。 江戸末期の作とのことだが、当代らしいという見 方もありそうだ。 |
|
足立美術館庭園 |
(島根県安来市) |
中根金作、小島佐一両氏が作庭した“日本一”有 名な庭園だろう。 小生はこの庭に何の先入観も偏見も持たずに接し てみたかったのだが、そもそもそう考えることが既 に偏見になっていたかもしれない。 ともあれ、いきなりの第一感は「壁いっぱいに描 かれた細密画」だった。 と同時に思ったのは、これだけの壮大なスケール に、ちまちました小細工のような植栽や石は似合わ ない、ということだった。凄いのだが何かが違う。 修学院上の茶屋には、滝石組も鶴亀石組も不要で あるように、ここでは通常の植え込みや配石ではな く、大刈込や大瀑布といったスケールの違う躍動的 な表現方法に挑戦してほしかったというような気も する。 常識外れな大きさの空間に、常識的な作庭をつな ぎ合わせただけの庭、というのが小生のへそ曲がり 的感想であった。 |
|
乗光院庭園 |
(島根県松江市 <旧東出雲町>) |
この旧東出雲町は、松江、安来両市に挟まれて合 併話が絶えなかったが、近年松江市に併合されたと いう。 このお寺は、旧東出雲町の上意東という在に建っ ている。石段を登り、山門を入ると直ぐに本堂が建 っている。 庭園は本堂の裏側の山畔の傾斜を背景として築庭 されており、石組と植栽が用いられた枯山水庭園で ある。 上部に鶴石を兼ねたような三尊形式の滝石組が組 まれ、そこから渓流となって山裾を右から左へと流 れ出る、という景観となっている。滝周辺に若干の 立石が見られるが、やや弱々しい表現となっている のは、江戸末期という時代性なのだろうか。 ここでもサツキの植栽が大き過ぎ、山畔に組まれ た石組が見えない。残念なことに、石組が主役であ ることが忘れられているのである。 |
|
桜井氏邸庭園 |
(島根県奥出雲町) |
和鉄の大供給地であったこの一帯で、松江藩から 製鉄業務の認可を許されていた桜井家は、この地方 随一の名家として隆盛を極めた。18世紀に建築さ れた屋敷群は、国の重要文化財に指定されており、 往時の繁栄振りを伝えている。 庭園は屋敷の書院南部から東部へと鍵型に開けて おり、山畔から滝が流れ落ちている。松平不昧公が この庭を訪ねた際、背景の山を寿宝山、滝を岩浪と 命名したそうで、少なくとも不昧公在世の頃(江戸 末期)の作庭と考えられるだろう。 写真は、鍵型池泉の左側からの眺めで、池泉に突 き出た出島と先端の岩島、岩浪滝から続く渓流と石 組、などを写したものである。 滝はどこまでが自然なのか判然としないが、穏や かで清雅な庭園景観の中心を成している。 迫力に欠けた江戸末期の自然主義の庭、と言って しまえばそれまでだが、滝下部分や護岸にはかなり 意欲的な立石も見られ、創造性に欠けた時代とされ る中にも、それなりの造形的な工夫が凝らされてい たことを表わしている。 |
|
絲原氏邸庭園 |
(島根県奥出雲町) |
桜井家と同様に武家の出ながら、製鉄業で成功し たこの地の名家である。 壮大な規模の屋敷と庭園は、藩の財政を支える程 であった当家の存在感を証明しているようだった。 書院の南側に広がる池泉庭園で、右手の山畔を利 用したまことに水清き庭である。写真には写ってい ないが、右方に自然の滝が落ちている。流れに沿っ た護岸石組があるが、植栽に隠れてほとんど見えな い。 池泉は写真中央奥へと続いており、石橋の向こう に更にやや小さい池泉が連なっている。手前の立石 が示すように、配石感覚に優れた人が作庭したと思 われ、かなりの数の石組が確認出来るのだが、いか んせん植栽が密林の如く繁っており、完全に植木の 見本市になってしまっている。 事業と同様に、ぜひ庭の本質を見極めた管理をし ていただきたいものと強く念ずる次第である。 |
|
旧卜蔵氏邸庭園 |
(島根県奥出雲町) |
古代より奥出雲では砂鉄精錬が行われ、近世には 製鉄の豪商が多く輩出された。桜井氏邸、絲原氏邸 と共に著名な卜蔵氏邸だが、現在その庭園は横田町 公民館の庭となっている。 私達が訪ねたのは99年の夏だったが、かなり整 備されており、かつて枯れていた滝や池には水が有 って、従来の姿に戻っていたようだった。 豪壮な滝石組は三段になっており、見事な立石が 組まれている。植栽で見えない部分もあるが、なか なかに見応えのある滝である。 桜井氏と絲原氏の庭園は江戸末期から明治のもの だが、ここは明らかに2世紀は遡れるだろうと思っ たら、案内看板に元禄期の作庭と書いてあった。 江戸初期、出雲地方屈指の古名庭だと思う。 |
|
康国寺庭園 |
(島根県出雲市国富) |
平田市のお寺という思いが強いので、現在は出雲 市に併合されてはいるものの、鰐淵寺や一畑薬師と 共にやはり“平田市”でなくては困る。 鎌倉末期の元亨期に創建された臨済宗の禅寺で、 やや赤味を帯びた一面の砂庭である。唯一の点景が 飛び石と敷石で、茶庭のセンスを枯山水に持ち込 んだというような、当時としては斬新な意匠だった のだろう。 松平不昧公の庭師澤玄丹による、天保年間(江戸 末期)の作である。 松江の菅田庵に見られる露地の美しさと、広大な 枯山水とのコラボだったのかもしれない。 砂庭を取り囲んでいる大刈込や植栽との対比、さ らに左側に広がる人工池の向こうの自然、などを取 り込んだ借景の要素も見られる。 |
|
小川氏邸庭園 |
(島根県江津市) |
山陰旅行の際に私が妻と訪ねた時、当家の奥様が 歓待してくださった。この庭園を誇りに思われてお り、最も美しい姿で管理維持されることに喜びを感 じておられる、と伺った。名家とは言え民家の、そ れも気の遠くなるような時代の庭が、今日まで伝わ った事だけでも奇跡に近いのだが、こうした認識が 家訓として継承されたからこそだろう。 雪舟作庭説などあまり信じる気は無いが、その山 水を彷彿とさせるような鋭い抽象が成されているこ とは事実だ。石組には室町期らしい、品格有る絵心 いっぱいのセンスが溢れている。 近年石組周辺の植栽だけを一切撤去したとのお話 には、思わず膝を叩いてしまった。庭に対するしっ かりした歴史認識と美意識がなければ、到底出来ぬ 決断である。お陰で、石組の命が蘇った。 事実古い専門書の写真では、かなりの石組が繁茂 した植木の陰に隠れて見えなかったようで、現状と は雲泥の差だった。 三尊石を滝組の中心として、滝が下部の枯池に落 ち込む様を力強く石を組むことによって表現した、 震えるほど感動的な作品である。 |
|
大麻山神社庭園 |
(島根県浜田市三隅町) |
三隅の町からやや離れた、石見連山一画の大麻山 山頂にこの神社は在る。 庭園は社務所の書院に面しており、元来は旧社坊 尊勝寺の庭園であったという。江戸初期の造庭との ことだが、石組の表情がこれを立証している。 山畔全体に雄渾な石組が意欲的に配されており、 見事な景観を見せる。 かなり植栽が繁茂して石を隠してしまっているの だが、それでもなお充分な見応えが有る。 中央が枯滝を象徴する三尊石組で、景観の中心的 な存在となっている。 全体に石はやや丸みをおびたものが多いのだが、 配石の妙とでも言うべきか、力感豊かな迫力と美し さを備えている。 築山の頂上からは日本海が望め、改めてこの庭の 特異な立地条件を思い知らされることになった。 |
|
龍雲寺庭園 |
(島根県浜田市三隅町) |
当寺の所在は石州半紙で知られる旧三隅町で、現 在は浜田市と合併している。かつては棚田が広がっ ていた高城山麓の、穏やかな風光の中に建つ曹洞宗 の古刹である。 本堂の裏手に、写真の池泉庭園が広がっている。 斜面を利用して築山とし、山裾に細長い池泉を設け ている。山畔の左右両側に、三尊石手法の滝石組を 置き、池へ流れ落ちる様を石組で表現している。 写真は右側の滝組付近の景観で、石橋や護岸石組 が見られるが、石が小振りであり何よりも石組に力 が感じられない。しかし、江戸中期頃の貴重な遺構 なので、かなりの荒廃は残念だが、上手に保存して ほしい。 四角の刈込は棚田を意匠したものなのだろうか、 完全に浮いている。 |
|
万福寺庭園 |
(島根県益田市) |
山口の常栄寺と九州英彦山の旧亀石坊には、明確 な雪舟作庭を裏付ける資料が残されているが、それ 以外にも益田の医光寺、前述の小川氏邸、宮島の旧 西方院など雪舟の作庭とされる庭は多く、この万福 寺もまたその範疇に入る。 短絡に雪舟造庭説を受け入れるつもりは無いのだ が、寺伝等客観的な資料も有るので、ここは一番信 じてみることにした。 この庭を前にして最初に感じたのは、築山の須弥 山石組を象徴的に見せるための中景としての集団石 組と、池や汀の護岸、さらに右側の出島と滝組が前 景となっていることだった。大層絵画的であり、ま たすこぶる抽象的でもある。 意匠の全てが山口の常栄寺庭園における美意識に 類似しており、また石組の表現にも室町期の気品が よく表されている。雪舟説を意識せずとも、この庭 園の示す引締まった美しさには感動する。 |
|
医光寺庭園 |
(島根県益田市) |
益田では万福寺と共に、雪舟作庭説の伝わる庭園 である。素晴らしい庭に違いはないが、こちらの印 象は雪舟の水墨山水の世界とは、やや異質の美意識 で成り立っているように思えた。 一方、やや小振りの石を絵画的に配した手法は、 室町期の庭を証明しており、出島の石組は万福寺や 旧亀石坊に似ているような気もしてくる。素人の限 界を感じたので、時代的詮索はこのあたりで中止す ることにした。 中央の出島は、左奥の亀島に対する鶴島であった のだろうが、趣味の良い石組で、景観の中心となっ ている。亀島の右の植栽に隠れた所に枯滝石組があ り、これも室町期らしい美しさである。 山畔の刈込は立派だが作為的過ぎて、この抽象絵 画的な石組主体の美しい庭に合わない。昭和に修復 の手が入っているとのことだが、今日見る優れた景 観は、充分に古庭の風格を保持している。 |
|
明王院庭園 |
(広島県福山市) |
国宝の本堂と五重塔と合わせ、庭園及び石造七重 塔の見学を事前に申し込んであった。 庭園は写真の如くこじんまりとした池泉庭園で、 桃山期の作庭とも言われているが、見た限りでは江 戸中期くらいかと思えた。 書院の背後、護摩堂の崖下に位置し、そこへ通じ る渡り廊下が庭園を囲んだ形になっている。 植栽が多く石組や護岸が隠れているが、左側の滝 石組や鶴亀石組あたりには創造的な意欲が感じられ た。周辺の建造物に調和するような作庭が成された ようで、大仰な主張は無いものの、品格ある小庭と 言うことができるだろう。 書院東側の苔の平庭も、落ちつた雰囲気の空間と なっている。 |
|
安国寺庭園 |
(広島県福山市) |
足利直義の建立した安国利生塔の一つが鞆の安国 寺だが、その後は荒廃を極め本堂と庭園の一部が残 存しているに過ぎなかった。 庭園は1965年に故重森三玲氏によって復元さ れ、安国寺恵瓊によって作られた桃山期の庭が蘇っ たのである。 1982年に、仙酔島へ行きたいという家内の両 親の希望で、鞆の浦を旅した際に訪ねて以来、安国 寺訪問は久しぶりだった。現在の庭園の状況がどう なっているのか気になっていたのだが、周辺はかな り整備されたものの、庭園は従前のまま保存されて いるようだった。 庭園全体は平庭枯山水で手前に鶴島・亀島・石橋 などが意匠され、一番奥に築山が設けられている。 写真は、築山に立てられた枯滝石組と、流れや護 岸石組などである。斬新な滝の意匠が恵瓊のものな のか、はたまた三玲氏のものなのかは判然とはしな いが、いずれにせよ優れた造形感覚を見て取ること が出来る。 私はスコットランドのあちこちに見られる、古代 の立石(メンヒル)を連想していた。 |
|
浄土寺庭園 |
(広島県尾道市) |
聖徳太子開基と伝わる古刹で、国宝の本堂、多宝 塔や石造塔など多くの文化財が保存されている。 以前見た庭園は、全庭が植栽に囲まれていて、さ ながら植木見本市状態だったが、大きく繁茂してい た植栽がすっかり除去され、築山全体の石組が見事 に顔を出していた。 どのような判断と決断が成されたかは不明だが、 作庭の履歴が立証された江戸末期の名庭がようやく 復活した事は間違いない。 花を愛で、植物を大切にする精神は尊いが、庭園 の命ともいえる地割や石組を覆い隠してしまっては 本末転倒と言えるだろう。英断に敬意を表したい。 |
|
照蓮寺庭園 |
(広島県竹原市) |
小京都竹原の町並の一番奥に、小早川家所縁のこ の寺が泰然と建っている。 庭園は本堂と書院の間、山畔の池泉を中心にして 展開している。 江戸初期の築庭とされるが、近年崖崩れの際に土 砂に埋まり、ようやく復元されたものと聞く。 写真は池泉内の中島で、反り橋と石橋が両岸を繋 いでいる。 中央に立てられた蓬莱石が印象的だが、島全体が 亀島石組となっている。背後の大刈り込みや山裾の 細長い池泉、鋭い石組など、江戸初期の特徴を残す 落ち着いた庭園である。 “小祇園”と称され、昔から名園として名高く、 頼山陽も本庭を詠った詩を残している。 |
|
料亭「半べえ」庭園 |
(広島県広島市) |
つつじ園として知られた広島遊園地を利用して、 昭和45年に故重森三玲が作庭した壮大な池泉庭園 である。現在は料亭「半べえ」の庭として一般公開 されている。 氏が晩年に手がけた松尾大社の池泉庭を彷彿とさ せる程、戦慄的な立石が所狭しと配されている。壮 大な龍門瀑や見事な青石の三尊石組など、贅を尽く した素材を思いきり用いられた費用リスクの無い仕 事だったようだ。 純粋に造形的な創造に取り組めたのだろうと思う と、作庭家冥利に尽きる作品と言えそうである。 |
|
縮景園庭園 |
(広島県広島市) |
成金自然主義の大名庭園が大嫌いなのだが、栗林 公園や徳島城千秋閣などといった例外も多く、ここ 広島浅野家の縮景園もその一つなのである。 なぜなら、この庭の築造に、当時広島藩に召抱え られていた上田宗箇が大きく関わっていたらしい、 という伝承が残っているからに他ならない。 中国西湖を縮景したとされるが、その規模にして は大味な印象は少なく、随所に宗箇らしい豪快な意 匠が散りばめられている。 写真は護岸石組の一部だが、桃山期らしい豪放な 感覚が伝わって来るではないか。宗箇が作庭した粉 河寺や千秋閣の壮絶なまでの迫力には及びもつかな いが、心なしか和歌山城の庭園には似ているような 気もする。 |
|
永興寺庭園 |
(山口県岩国市) |
“ようこう”寺と読む。 余り知られていないお寺だが、小生の父のルーツ である岩国最古の寺院ということなので御紹介して みた次第。 庭園は岩国市指定の名勝とのことで、お寺の説明 では夢窓国師の作とされているようだ。何の根拠も 無いのだが、写真の左手奥に龍門瀑らしき石組の痕 跡が残っており、そのあたりから派生した説だろう と思う。鯉魚石も確認出来た。 自然の岩盤と石組を組み合わせた平庭で、通路な どが設けられており、かなり改造されたらしい。石 組に見るべき部分もあるが、全体的には平板と言わ ざるを得ない。 |
|
松厳院庭園 |
(山口県岩国市) |
岩国市の南部に藤生(ふじゅう)町という一画が あり、そこの西側の山裾のような小高い場所にこの お寺が建っている。 室町時代の創建で当初は臨済宗だったそうだが、 現在は独立系の寺院となっている。 本堂の東側は一面苔の平庭になっており、背の低 い土塀の向こうに瀬戸内海を望むことが出来る。 本堂の南側に隣接して茶室「松濤軒」が設けられ ており、さらに南側に斜面を利用した築山と、その 裾を囲うようにして池泉が配されている。写真は茶 室に最も近い石橋から、滝石組を眺めたものだが、 上部に建っているのは観音堂である。 築山の斜面にはおびただしい数の石が意欲的に組 まれているのだが、植栽もまた溢れる程の量が生い 茂っている。折角の石組を覆い隠しており、そもそ も目障りなほど乱雑に見えてしまう。 一刻も早く、無粋な石灯篭と共に、植栽の大半を 除去する勇気を持てば、必ずや斜面に展開する石組 の美が復活するだろう。 最上部の滝石組も植栽でほとんどが隠れており、 美しいと思われている植栽こそが無用なのである。 名画を布で覆っているようなもの、と敢えて申し上 げておきたい。 |
|
漢陽寺庭園 |
(山口県周南市) |
中国道鹿野ICの東1キロに座す禅寺で、応安七年 (南北朝中期)に大内氏庇護のもと名僧用堂明機禅 師によって開かれた。 山門からの境内は、禅寺に相応しい凛然とした厳 粛な雰囲気に満ちていた。 ここには故重森三玲が心血を注いで創作した庭園 が六つもあるという、庭好きにはたまらない別天地 だった。 山門に至る参道の右手に構築された「曹源一滴の 庭」に度肝を抜かれる。巨石を累々と組み上げた創 造力には感服する。イメージは松尾大社や粉河寺に 通じているようだ。 写真は庭園群の中心的存在となっている方丈の南 庭「曲水の庭」である。従来は枯山水であるべき場 所なのだが、湧水豊かなこの地の特性を生かし、設 計に敢えて遣水を取り入れたそうである。観音霊場 に相応しい補陀落山をイメージした豪壮で造形力に 溢れた石組、苔を一面に配した築山、そして白砂の 対比が創出する空間の中に流れる静謐な清水。かく も庭を劇的に演出した造園家はいなかっただろう。 建物の周囲に築堤された他の四庭も、それぞれに 個性的な造形が成され、伝統を踏まえた上での意欲 的な挑戦に心が躍ってしまう。 |
|
普賢寺庭園 |
(山口県光市) |
この庭園にも、他の山口県の庭園同様雪舟の作庭 説が有るのだが、明らかに水墨山水画的な発想とは 異なっており、否定されねばならない。 広い平庭式枯山水で、石組はこの枯滝石組を中心 として左隅に集中している。 三尊石組でもあり、中心石は2m余りの巨石でま ことに剛健である。 一見桃山期を思わせるが、枯山水の地割と、豪快 な中にも、秘められた繊細でノーブルなセンスが感 じられ、限り無く桃山に近い室町末期とするのが最 善と考える。 三尊石の前には、畳状の石による石組が成されて おり、これは大変珍しいもので、不思議なリズム感 に満ちている。 簡明ながら実に豪放な庭園で、自由な発想から作 庭を行った作者の美意識はまことに非凡である。 |
|
桂氏邸庭園 |
(山口県防府市) |
毛利家の家臣であった桂忠晴が、江戸初期正徳年 間に作庭したものと伝わっている。しかし、石に鋭 さが全く見られないことから、江戸末期の作とも考 えられる。 案内の解説によれば、禅を修得していた忠晴が、 「碧巌録」の中の「智門般若体」という問答の寓意 を、石組によって表わしたものだそうだが、蒟蒻問 答でもあるまいに、そもそも禅問答を我々素人がそ う簡単に理解など出来るわけがなかった。 問答に出てくる兎と月の寓話を具象化したとされ る、奥のL字型の石組から“月の桂の庭”とも称さ れる。 龍安寺の如く、白砂と石のみで表現されているの で、禅の哲学や理念の奥深さをつい深読みしてしま いたくなる。しかしここでは、空間芸術としての石 庭を、モニュメンタルな作品として純粋な造形とし て観る以外に方法は無さそうである。 高度な禅の理念を具象化したものなのか、それと も真面目を装った石の冗談なのか、この庭と対峙す ること、そのものが禅問答のようである。 |
|
宗隣寺庭園 |
(山口県宇部市) |
鎌倉南北朝時代の庭園ということで、期待を抱い て訪山した。 背後の山畔を利用し手前に池泉を配した、まこと に幽邃な雰囲気に満ち溢れている庭園だった。 大小の池泉が瓢箪形で繋がっており、池中には写 真で見る通り干潟が作られ、更に数個の石が二列に 並んでいる。この石組は夜泊石組と呼ばれ、全てが 鎌倉時代を物語っている。 京都西芳寺や金閣寺、積翠園のものが最も有名だ が、いずれも夜停泊している宝船の景を象徴してい るらしい。 私たちが訪れた時は池がやや涸れて、干潟が露呈 していたが、もう少し水位が高ければ夜泊石らしく なっただろうと思う。小さな石だけの石組だが、洒 落た概念を抽象的に造形するという、中世の美意識 の奥深さが伝わってくるような貴重な遺構だろう。 写真は2019年に再訪した時に撮影したものだ が、日差しが強く上手く撮れなかった。池の水量は 理想的だったようだ。 重森三玲氏によって修復が成されたそうだが、夜 泊立石の鋭敏な美しさにその痕跡が残されているよ うに感じられた。 |
|
常栄寺庭園 |
(山口県山口市) |
山口に大内氏が居城を構えていた室町時代に、画 僧雪舟が築庭したとされる根拠が明瞭な作品の一つ である。 写真で観るように、手前には累々たる山並みを象 徴するが如き石組を壮大に組み、その奥の山畔に池 泉と滝石組を配するという、まことに気宇壮大な構 想である。画聖雪舟でなければとても成し得ない業 である、と言われれば、そんな気もしてくるし、正 直言えば、雪舟の描いた山水図のイメージとは余り 関係の無いデフォルメであるような気もする。 絵画の如く、近景・中景・遠景を意識した地割が 成されているのは事実だ。 作者はどうあれ、卓越した意匠から受け取るこ の出来る感動に、些かの曇りも無い。 庭園奥部へ歩いて行って見たが、龍門瀑形式の滝 石組や鶴亀石組の有る池泉部分は、より立体的であ り、また違った表情を見せていた。 |
|
龍蔵寺庭園 |
(山口県山口市) |
山口市の西、滝河内川の源流近く、鼓の滝と大銀 杏で知られる山奥の名刹である。 山門横に在る雪舟伝説の残る庭園を、故重森三玲 氏が補修した。 山畔に流れを取り込み、細長い池泉を設け、出島 や護岸に立石を配した石組を意匠している。 雪舟作と伝わるだけの秀逸な説得力のある石組が 見られるが、三玲氏の造形がどこまで食い込んでい るのかは不明だ。しかし、石組主体の、鮮烈な印象 を受ける秀逸な庭園である事に何の変わりもない。 |
|
善生寺庭園 |
(山口県山口市) |
山口市の東、JR上山口駅の直ぐ裏山に建つ中世 寺院である。 大内氏の重臣が創建した関係から、ここでも雪舟 作庭説が流布している。 本堂の南庭だが雑草が繁茂し過ぎているために、 美しいとされる池泉を中心とした地割が全く見えな いのが無念だ。 右奥滝組からの枯流れと、両側の石組の片鱗が見 えているが、金網越しに絵画を眺めるようなもので あり、真の美しさを鑑賞するには程遠い。 改修されているとは言え、非凡な造形性の感じら れる庭だけに、適切な整備を切望するのみである。 |
|
花江茶亭庭園 |
(山口県萩市) |
萩城(指月城)は毛利輝元が慶長年間に築いた、 毛利氏の居城であった。 城址の一画に、毛利家ゆかりの茶室「花江茶亭」 が建っており、その前面に枯池を配した枯山水庭園 が残されている。 庭園の中央へは石橋がかかっていて中島のようで あり、また築山のようにも見える。 写真は築山の頂上に組まれた三尊石組で、やや傾 斜した主石や添石の感覚には、鋭い美意識が感じら れる。 三尊石を中心にして、山畔から護岸へ至るまでか なりの石組が成されており、雑草などが繁茂しやや 荒廃はしているものの、全体が傑出した石組中心の 庭園となっている。 やや後方に陰陽石らしき石組が見られるが、単な る堕趣味であって庭園の造形に格別の意味は成さな い。 城址にはもう一つ庭園が在る。二の丸の東園址苑 池で、大正時代に旧状に復元されたものらしい。護 岸石組の整った、優雅な池泉庭園である。 山口県(周防・長門)の岩国が小生の第二の故郷 なので、格別の思い入れがあることを御容赦いただ きたい。 |
このページTOPへ |
次のページ (四国庭園) へ |
西日本の庭園 |
日本庭園TOPへ |
総合TOPへ 掲示板へ |