京都(南部) の庭園紀行 |
東福寺方丈南庭園 京都市東山区 |
御所より南、つまり中京区・下京区・東山区 ・西京区・南区・山科区・伏見区および向日市 ・宇治市以南を南部とした。 大きな庭園密集地は禅刹東福寺であるが、郊 外にも優れた庭園が残されていて旅の楽しさを 味わう事が出来る。 現在では拝観や撮影が比較的困難な桂離宮や 西芳寺・西本願寺などが在るが、いずれも庭園 史に残るべき傑作であり、庭園愛好家に対して はより寛大なる門戸の開放を切望する。 |
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高台寺円徳院庭園 |
(東山区下河原) |
学生時代の庭巡り以来何十年も気になってい たこの庭を、ようやく正式に見る事が出来た。 昔は隣に有った文の助茶屋の横の垣根の隙間 から、拝観謝絶のこの庭を覗き見しては、草ぼ うぼうだがきっと良い庭に違いない、とずっと 思っていた。豪快な自然石の橋が見えていたの である。 秀吉の正室おねの寺である高台寺の塔頭で、 相変わらず非公開であったのだが、TVドラマ にちなんだ特別公開がきっかけで、昨今は自由 に見学できることとなった。 思い入れが強かったとはいえ、初めて見た円 徳院の庭は、衝撃的とも言える程の感動を与え てくれた。石組を主体とした桃山期の庭が、か くも無傷のまま京都に埋もれていたとは。 草は全て除去され、豪放華麗な石組が余すと ころ無く出現している。指示した人の意図に敬 服するし、許可した寺にも絶賛の拍手を送りた い。作庭当初には有り得ない筈の植栽類は極力 排除するべきなのであり、真に庭園への理解が ないかぎり出来ぬ仕事である。 |
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高台寺庭園 |
(東山区下河原) |
徳川氏の庇護を受けて、北政所が建立した壮 麗な寺であった。火災等で現在は衰微したが、 それでも開山堂や霊屋などに桃山期の絢爛たる 優美さを残している。 庭園は開山堂へ通じる渡廊の両側に意匠され ている。 写真は渡廊の西側に広がる偃月池で、亀島が 浮かび、護岸も含め意欲的な石組が造られてい る。桃山期の豪壮な気風を残しつつ、やや女性 的な優しさが伺える江戸初期の石組だと思う。 小堀遠州作というが、確証は無い。 東側には築山が在り、印象的な立石を中心に 石が組まれている。 霊屋の高台寺蒔絵、時雨亭、傘亭という茶席 なども必見である。 |
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知恩院庭園 |
(東山区林下町) |
大方丈の南側と東側に、建物を囲むようにし 池泉が矩形に広がっている。 この地割は鎌倉から南北朝にかけての様式で ある。横浜の称名寺を造営した事で知られる、 六波羅探題であった金沢貞顕が建立し、庭園に 造詣の深かった足利尊氏が好んだ常在光院の遺 構としての面影は充分感じ取ることが出来る。 大きな丘の斜面を背景にしているので、さな がら深山を想わせる幽邃な雰囲気に満ちていて 精神が洗われる。 護岸石組等にはかなりの改修が見られるが、 複雑な入江や出島を意匠した当初の地割の美し さが、この庭全体の気品と閑寂な空間を創出し ている。 この庭園は、浄土宗大本山としての大寺のイ メージとは全く異質の、風趣に富んだ洒脱な感 がある。 しかし、多くの拝観者は、庭よりも七不思議 などといった通俗的な話題の方に興味を示して いるようだ。 |
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長楽寺庭園 |
(東山区円山町) |
円山公園の東南、東山山麓の森閑とした雰囲 気に包まれた別天地だ。最澄開基と伝えられる 古刹であり、建礼門院に所縁の寺として知られ ている。 庭園は山畔を利用した池泉鑑賞式で、しっと りとした幽邃な情緒が感じられる。 江戸初期の作庭とされているが、奥行のある 渓谷の景と滝石組のあたりが魅力だろう。 遠目ながら、豪快な石組の存在を確認するこ とが出来る。 従来は池の水位はもう少し上なのだろうが、 磯辺の栗石の汀の景観や石を重ねた岩島への飛 び石の構造などが、詳細に眺められて興味深か った。 ここでは、石組の造形よりも、地割の美しさ と静寂な清涼感を味わうべきだろう。 |
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青蓮院庭園 |
(東山区粟田口) |
寺の入口にそびえる楠の巨木が、歴史を経た 門跡寺院としての風格を感じさせる。 庭園は相阿弥作と伝えるが、相阿弥が実際に 造ったと立証される庭は無いというのが定説と なっている。 庭園は池泉部分と、流れと築山を主体とした 部分に分かれている。 写真は、江戸初期の石組が残っていると思わ れる滝口と、それに続く連続石組部分である。 滝石組は奥まっていて良く見えないが、当代の 力強さを示している。 他の石組はやや弱々しいイメージで、後世に 改修されているかもしれない。事実、築山や流 れの部分は、明治の自然主義作家小川治兵衛の 手が入っているとのことである。 |
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清水寺成就院庭園 |
(東山区清水) |
観光客で溢れる清水寺にあって、ここだけは 通常非公開の閑寂な仙境と言える。 北側の山畔に滝石組を築き、西に向かって景 色が開けていく設計は、単なる借景を超えた見 事な演出というべきだろう。 地割など随所に室町期の面影を見る事が出来 るが、ほとんどは江戸初期に大きく改修された ようだ。 先ず目に入るのが、写真の立石で、この象徴 的な石は“烏帽子岩”とでも言えそうなほど庭 の中心的な存在になっている。 他の石は丸石や伏石が多く、立体的な石組に よる造形性に欠けており、その点小生好みの庭 ではない。しかし、上品で穏やかで静謐な空間 に見合った石組を意図したとすれば、落ち着い た地割の妙が生む独特の清浄な景観を評価しな ければならないのだろう。 |
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建仁寺本坊庭園 |
(東山区小松町) |
祇園に隣接する臨済宗の禅刹で、かつては京 都五山の第三位を誇っていた。栄西禅師の開基 した建仁二年(1202)が、寺名の由来となってい る。 写真の庭園は方丈の南庭で、小生が学生時代 に訪問した頃には一面の白砂敷きであった。 近年に造築された枯山水の平庭だが、禅刹に 相応しい簡素ながら強靭な意志の感じられる美 しい庭だと思う。 作庭は岡崎つる家の庭で知られる植熊こと加 藤熊吉氏で、白砂の空間を生かした立石と伏石 の配置が巧妙である。 土塀、唐門、法堂、境内の松などが背景にあ るので、庭内の植栽がやや煩雑に感じられる。 龍安寺のような緊迫感は無いが、きりっと引 き締まった好感の持てる清楚な庭である。 |
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建仁寺両足院庭園 |
(東山区小松町) |
建仁寺境内の東側に位置する、通常は非公開 の塔頭寺院である。今回は、院内に咲く半夏生 (はんげしょう)の特別公開で、併せて庭園茶 室を見学することが出来た。 庭園は半夏生が白く咲き乱れる書院池泉庭園 (江戸中期)と、江戸初期の方丈枯山水庭園と に分かれている。 池泉部分には花見物の人が大勢いて庭園撮影 は不可能だったが、写真の枯山水庭園をじっく りと眺める人はほとんどいなかった。 桃山の風情を残した江戸初期の石組、と言っ ておけば無難なんだろうが、三尊石を中心とし た連続石組は、やや丸石が多いものの見応えの ある非凡な造形だった。 白砂に方形の飛石を配した、山門から玄関に 至る露地の意匠にも、優れた美意識が感じられ た。 |
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智積院庭園 |
(東山区東瓦町) |
書院の庭園であるが、縁側と山畔との間に幅 の狭い池泉が在り、斜面を利用して滝石組や集 団石組が組まれている。 写真は正面の滝石組付近の眺めで、滝添石や 玉澗流の石橋など、大層意欲的な石組である。 相変わらずここでも植栽が多過ぎるのではな いかと思われるが、どうして造庭当初の石組を 主体とした美しさを求めようとしないのかが甚 だ疑問であり問題である。 個々の石の表情は凡庸で、石相互の緊張感に も欠けており、気の向くまま散漫に石を置いた といった風情である。しかし、もし植栽を排し たとすれば、山畔の斜面に林立する石峰群が出 現するのではないだろうか。石橋にも、きっと 緊迫したスリルが感じられるに違いない。 池泉は右方に深く入り組んでおり、奥行の在 る幽邃な景観を創出している。架けられた橋も 魅力的である。 当寺には長谷川等伯の傑作障壁画が多数保存 されており、これらを総合的に観賞すれば、限 り無い幸福感を抱くことが出来る。 |
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旧積翠園庭園 |
(東山区妙法院前側町) |
平重盛の小松殿遺跡とも伝えられ、もしそう であればこの池泉庭園は平安末期の庭というこ とになる。 現在は東山武田病院から某マンションに、更 にフォーシーズンズ・ホテルへと管理が移行し ており、庭園の状態が心配されるところだ。知 的な認識が求められるだろう。 江戸時代に改修されたとはいえ、往古の幽邃 な雰囲気が良く残された池泉回遊式の遺構であ る。 地形による制約なのか池は細長く造られ、幾 つかの島が配されている。 特に注目すべきなのが、写真の中央奥、島の 岸辺に沿って一列に並んだ立石群である。 これは夜泊石と呼ばれる剛健な意匠で、後世 の西芳寺や金閣寺にも類例が見られる。 市内に在っておおらかな平安文化を伝える庭 園として、誠に貴重な遺構である。 |
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東福寺本坊庭園 |
(東山区本町) |
もう何十年も前になるが、この庭園を初めて 見た時の衝撃の大きさは、今でも忘れることが 出来ない。 従来は一面の白砂敷きであった方丈の前庭に 組まれた石組は、庭園と言うよりもむしろ林立 する石のオブジェである。 昭和14年(1939)に完成された意欲的な造形 だ。同時に、昭和の半世紀をかけて数多くの作 品を残した、重森三玲という作庭家の名前を知 ったのだった。 東福寺には氏の作品が多い。本庭以外にも、 龍吟庵、光明院、霊雲院などが在る。中には、 アイディアだけが空回りした様な、デザインだ けが浮いて見える妙な庭の部分も在るのだが、 本庭に見られる伝統を踏まえた中での自由な発 想と斬新な美意識は、80年以上経った今日見 ても色褪せることは全く無い。 |
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東福寺普門院庭園 |
(東山区本町) |
紅葉の名所として高名な通天橋を渡ると、右 手に楼門が見える。開山である聖一国師入定の 聖地で、正面に開山堂楼閣が聳え、左側に塔頭 普門院の方丈が建っている。 楼門から正面の開山堂を結ぶ石畳の通路の右 側は池泉庭園になっており、左側には方丈前庭 としての白砂に鶴亀の石組が浮かぶという、と ても珍しい設計である。 写真は普門院方丈の縁から、鶴島石組と通路 の向こうの池泉を眺めたものである。 豪壮な鶴石は、いかにも江戸初期の石組らし く、明快な力強さと繊細な美意識とを備えてい る。高梁の頼久寺を連想していた。 また、白砂の市松模様が印象的であり、池泉 庭園や築山の緑との対比がなんとも絶妙で美し い。 |
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東福寺光明院庭園 |
(東山区本町) |
故重森三玲氏の作庭で、京都では私の好きな 庭の筆頭にくる。やや前衛的な要素も有るが、 苔・白砂・大刈込が鮮やかな地割を構成し、ス リルに満ちた石組が絶妙の美しさだ。 光明の如く一直線に延びる石の配列は夜泊石 と言われる古い技法にも似ているが、単なる模 倣ではなく、より生き生きとした石の立て方が 見られる。 それにしても、三尊石組などに秘められた美 意識の、何と研ぎ澄まされている事だろうか。 石組のバランス感覚は華道のオブジェにも共 通するものが感じられるので、生け花のルーツ は庭園に有ったのかもしれない。 この寺は東福寺の塔頭で、本坊を始め霊雲院 ・龍吟庵などにも同氏作庭の高名な枯山水が有 るが、繊細で鮮烈な美意識という一点において 光明院が遥かに他から抜きん出ている。 京都を訪ねた時に、必ず立ち寄る庭の一つで ある。 |
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東福寺芬陀院庭園 |
(東山区本町) |
東福寺の塔頭寺院で、室町時代の画僧雪舟が 作庭したと伝えられる、鶴島と亀島石組を中心 にした枯山水庭園が伝えられている。 またしても私の嫌いな鶴亀なのだが、伝統的 に蓬莱思想が尊重されていたために、この手法 が多く用いられたので致し方は無い。陳腐な写 実による亀が嫌いなだけである。 右側が亀島であるが、ここでは集団石組的な 手法で亀島を構成しており、静寂を突き抜ける ような、斬新で造形的な鋭さを感じ取れる。 植栽がやや大きいが、以前はほとんど無かっ たように記憶している。 鶴島は近年補修されたとのことであるが、や やバランスが悪いように見える。 しかし、きりっと引締まった石組による造形 は、雪舟の関与の真偽は別にしても充分観賞に 値する傑作であると思う。 |
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東福寺龍吟庵庭園 |
(東山区本町) |
南禅寺開山の無関普門が遷化したことで知ら れる当庵では、現存する最古の方丈建築を見る ことが出来る。 方丈南庭は白砂に砂紋が描かれた古式だが、 写真の西庭には重森三玲が作庭した枯山水庭園 がある。龍吟の名に因み、龍を模した石組が施 されているのだが、龍そのものの形を石組で表 現するというのは、一般的には何とも短絡で陳 腐に感じられそうだ。 しかし、一度でいいから、この石組を御覧い ただきたい。写真は龍頭の部分であるが、何と 言う感覚の鋭さであろうか。青石そのものの表 情も良いし、傾斜の具合の繊細なセンスには舌 を巻かざるを得ない。単なる写実ではなく、デ フォルメされた美意識の写実なのである。 白モルタルで区切られた黒砂と白砂は、飛翔 する龍の突き抜けようとする黒雲と白雲を表現 している。伝統的な古庭園に馴染んだ人の目に はやや違和感が残るが、三玲の作品を知ること でかえって斬新なデザインとして容認出来るよ うになる。伝統は打ち破られねばならないが、 破られさえすれば良いわけでは決してなく、優 れた創造力が伴わねば単なる伝統の喪失でしか ない。 三玲の唱えた「永遠のモダン」とは、こうし た意味合いを含んでいたようだ。 |
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東福寺霊雲院庭園 |
(東山区本町) |
当山には重森三玲が作庭・修復した庭園が二 つ連なっている。 方丈西庭は龍門瀑を中心にした臥雲庭という モダンな意匠の庭園である。雲紋を表現した赤 砂の処理に、若干の違和感を覚えるのは私だけ ではないだろう。 方丈南庭は九山八海庭と呼ばれ、江戸期の庭 を三玲が復元したものである。中央に置かれた 細川氏遺愛石を載せた須弥台はさして優れた意 匠とは思えないが、滝石組周辺はさすがに三玲 ならではの非凡な感性が発揮されている。 私は滝の真正面からではなく、写真のように 斜めから眺めた石組の連なりがとても気に入っ てしまった。もっともこの部分には、三玲とし ては甚だ穏やかで渋い石組が成されている、と 言ったほうが良いのかも知れない。 |
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泉涌寺御座所庭園 |
(東山区泉涌寺山内) |
月輪山麓に在る真言宗寺院で、後鳥羽上皇を 筆頭に多くの御陵が造営されたことから“御寺 (みてら)”と称される。 本坊の御座所は、京都御所にあった御殿を明 治天皇が移されたものだそうで、特別拝観の際 に訪ねることが出来た。 庭園は元禄期の造庭とのことだが、手前の白 砂と瀟洒な池泉との対比が美しい。石組や地割 に格別の創意は認められないが、低い土塀の向 こうに月の輪御陵を拝する環境は並大抵の気品 ではない。 単純に自然の景観や雰囲気を取り込んだだけ の庭園は評価しないつもりでいたのだが、ここ の庭は「庭園の造形性とは」などといった次元 とは丸で別の世界に位置している、と気付かさ れた。 背景に重厚な歴史と存在感が備わっていれば こそだろう。 |
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泉涌寺善能寺庭園 |
(東山区泉涌寺山内) |
皇室の菩提所として高い格式が感じられる境 内を抜け、仏殿の北側の谷を下りると塔頭であ る本寺が見える。 航空殉難者慰霊堂となっているお堂だけが、 広い境内にポツリと建っており、その背後に見 事な庭園が在った。 立石の力強い作風から、重森三玲氏の作品で あることは即断出来る。 ガランと荒れ果てた境内には似合わない、造 形美に満ちた誠に意欲的な池泉庭園である。 寡黙な伏石と雄弁な立石との対比が、石組に 生き生きとした生命力を与えている。室町や桃 山期の石組が持っていた強靭な主張を、現代に 蘇らせた氏の作品からは、むしろ鮮烈な斬新さ が感じられる。 日本庭園の伝統的な手法から脱却して、かな り前衛的な表現をした作品も多いのだが、私は その数歩手前に位置するここの庭がとても気に 入った。 |
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二条城二之丸庭園 |
(中京区二条) |
ここも修学旅行までが押しかける観光スポッ トだが、真にこの庭園の美しさに感動した人が 何人いるのかは甚だ疑問である。 小堀遠州が作事奉行で、その配下の賢庭が作 庭した、という説が妥当だろう。 権力者の庭は好かぬが、ここの庭園の持つ美 しさが、単に権力や財力によってのみ成り立っ たのではないところに感動出来る。 確かに豪華絢爛であり、使われているのは名 石と呼べそうな石ばかりである。だが、そこに 全体の意匠を設計する眼力と、細部の石組に対 する卓越した美意識と技術が無ければ、単なる 銘石博覧会となってしまう。 写真の石組の、なんと流麗で躍動的であるこ とか。しかも配石の妙ともいうべき、変化に富 んだ護岸の美しさ。 石を組むことによって生まれる美の集積と、 それらを随所に配置する妙によって成立した、 壮大な美の世界がここには形成されているので ある。 |
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渉成園(旧枳殻邸)庭園 |
(下京区間之町正面) |
将軍家光が寄進した東本願寺の別邸で、平安 期の源融が造営した六条河原院の跡とされてい る。現在の庭は石川丈山によるもので、江戸初 期の意匠が随所に残されている。 広大な園池に大小の島を配した回遊式庭園に は、平安期寝殿造り形式の風雅な面影が微かに 残されているようだ。 写真は、印月池と呼ばれる中心の池に浮かぶ 蓬莱島と護岸で、ここにはかつて臥龍堂という 鐘楼が建てられていた。 築山の豪壮な石組、護岸の変化に富んだ石の 配列など、非凡な造形がちりばめられている。 かつては鐘楼の鐘の音を合図に、舟で茶室縮 遠亭へと渡ったそうで、舟遊式庭園を髣髴とさ せる優雅な庭である。 |
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西本願寺庭園 |
(下京区堀川) |
虎渓の庭という名称で有名な、対面所という 大書院の庭園である。 枯山水だがあたかも池泉庭園であるかのよう な護岸石組や、鶴亀二島石組が成されている。 写真の切石橋は豪壮無比で、左の亀島と蓬莱 島としての鶴島とを結んでいる。写実的な鶴亀 を意識させる意匠は嫌いだが、ここでは意識せ ずとも、石組そのものの造形的主張が遥かに優 っている。 最大の見所は、写真中央の滝石組だろう。三 尊石組の手法であり、桃山期を思わせるような 剛毅な立体感を示している。しかし、庭園全体 としては名石ばかりが張り合って、豪華極まり ないのではあるが、やや饒舌過ぎる表現となっ ている。 中島二つに石橋が三本という池泉の地割は、 橋の素材の差はあるが、後述の三宝院に類似し ているという説が正しそうで、賢庭の作が考え られるようだ。 <要予約> |
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西本願寺滴翠園庭園 |
(下京区堀川) |
左側の杮葺建築が聚楽第の遺構を移築した飛 雲閣で、滴翠園と呼ばれる池泉庭園の一画に建 っている。西本願寺境内の東南隅であり、伝廊 で繋がった黄鶴台(浴室)のむこうには、隣接 する興正寺の伽藍が連なっている。 飛雲閣の移築と同時に造庭されたとされる。 建築と庭園とが完全に一体化しており、複雑に 入り組んだ滄浪池の汀線と、重厚な建築群とが 夢のような世界を創出している。 築山には茶亭も配置されているが、意図的な 石組などは見られない。写真の切石橋は虎渓の 庭のものに似ている。 飛雲閣の最下層に造られた御船入りから、池 へと出られる趣向が面白い。 |
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本圀寺真如院庭園 |
(下京区柿本町) |
都林泉名勝図会にも描かれた室町末期の枯山 水庭園で、織田信長が将軍足利義昭を招いた際 の造庭とされている。 江戸末期以来の荒廃・改修を経て昭和初期に 重森三玲によって調査・修復が行われた。 小ぶりな石を使っているにも関わらず、淡い 趣味の良さが感じられるのは室町期の庭の名残 なのだろうか。 最大の特徴は、やはり、扁平な石を鱗状に並 べた“流れ”の表現である。図会にも描かれて いるので、決して三玲の創作ではない。 日本庭園は山水を自然のまま、或いは抽象化 して描いてきた。しかし、この時代にかくも図 案化された山水表現が存在したことは、類例の 無さからも、時代を遥かに超越した芸術だった のだろうとしか言い様がないのである。 |
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本圀寺勧持院庭園 |
(下京区柿本町) |
現在は山科へ移転しているが、かつて西本願 寺に隣接していた本圀寺の子院であり、加藤清 正ゆかりの歴史を有する寺院である。 或る敏の春、京都訪問の際に立ち寄ったのだ が、拝観謝絶となっておりがっかりした。従前 は門が常時開いていて、何時でも見学可能であ った。 仕方なくまたここでも、かなり前の写真を引 っ張り出さざるを得なくなってしまった。 白砂の庭の東部端と南部端に築山を盛り、階 段状に石組を配しているまことに豪快な枯山水 である。 写真は東南角部分の滝石組で、栗石の流れ、 玉澗流の石橋など豪壮な抽象の中に、絵画的な 要素も見られる核心部分である。 豪快な桃山の武家風に見えるが、やや無骨で あり風雅さに欠ける上、名古屋城二の丸庭園に 類似した部分も見られるので、加藤清正作庭説 を否定するのは早計かもしれない。 <非公開> |
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教王護国寺観智院庭園 |
(南区八条大宮) |
東寺(教王護国寺)の北門を出た所に、国宝 の客殿の残る塔頭のこの寺院が建っている。宮 本武蔵の水墨画でも知られるが、通常は非公開 である。 庭園は客殿の南庭で、白砂敷きの背後に築山 が設けられ、洞窟石組のような配石が施されて いる。桃山期の作庭と記した資料を見たことが あるが、このあたりの力強い石組を指している のだろうか。 それに比して、白砂中に配された石組の陳腐 さには、思わず目を覆ってしまった。遣唐使船 を守護する龍神、神亀、鯱などの姿を模したと されるが、ただ似せただけの余りにも幼稚な姿 としか言い様がない。誰が何時造った石組なの だろうか。 白砂と築山石組だけの景色を想像してみると なかなかの抽象庭園となるのだが。 |
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西芳寺庭園 |
(西京区松尾) |
天下に「苔寺」として名高い寺で、苔を賛美 する人は多いが、鎌倉時代を想起させる池庭と 無類の造形美を誇る枯山水部分の石組の魅力を 語る見物客は稀少である。 夢窓国師作庭が定説となっているのだが、禅 以前の大和絵的な景観からはもっと古い時代に 造営されたであろうことが考えられる。 夜泊石組など古い手法が残る池庭部分の雰囲 気は格別である。さらに上部には力強い枯滝集 団石組が在り、少し手前に写真の石組が見られ る。亀島石組という説明が書かれているが、こ れもまことに優雅で雄渾な石組である。 近年、苔の被害を理由に、拝観料を莫大にし て入場制限をしているが、築庭当初には無かっ た苔であり、意味無き愚行と知るべきだろう。 現在の写真が撮れず、大昔の古い写真を引っ 張り出して掲載した事の言い訳でもある。 |
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松尾大社庭園 |
(西京区嵐山) |
造園界の鬼才として多作を誇った、故重森三 玲氏の遺作として知られる。当神社には、曲水 と蓬莱思想を主題とした二庭、そして古代磐座 をイメージした本庭の三庭が造られている。 前二庭は、重森氏の前衛的表現意欲が旺盛で あり、やや大仰な作品となったのに対し、この 庭の石組は神域に相応しい磐座であり、それが 息を呑むほどの迫力と輝きを示している。 石組の美しさに対する感動は、紀州粉河寺や 阿波国分寺以来、と言える程衝撃的なものだっ た。庭園とかモニュメントといった概念を遥か に超越した、或る「創造物」としか言いようが 無い程の仕業である。 石と石とが示すもの、そして語リ合う様が凝 縮され、洪水となって見る者に襲いかかってく る。従来の庭園に対して抱いていた概念を、根 底から覆すまことに恐ろしい石組である、と言 わざるを得ない。 |
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桂離宮庭園 |
(西京区桂御園) |
前回の訪問では、運悪く雨の強く降る写真撮 影には最悪の条件だったが、今回は運よく晴れ た。しかし見学には前後に係員が付いていて、 立ち止まることも難しかった。 写真は、松琴亭付近から、天橋立と呼ばれる 中島や石橋を眺めたものだ。 複雑に入り組んだ池畔を巡る回遊は大層魅力 的で、現れる景色の変化を計算して成された設 計にはため息が出てしまう。 書院の座敷から眺める景観が本意なのだが、 庭全体に散りばめられた茶室や草庵との自然な 融合も、この庭の表情に大きな変化を与える。 庭園から書院、茶室から露地、敷石から垣根 に至る迄の全てが、質素な山荘という装いの中 に、当時最も洗練された美が凝縮されて秘めら れている。壮大な総合美の中で、個々の石組の 出来栄えなどはほとんど気にならない。 |
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勧修寺庭園 |
(山科区勧修寺) |
醍醐天皇が900年に創建した、由緒正しい 平安期の門跡寺院である。打ち続く戦乱によっ て壮麗な伽藍は喪失したが、氷池園という池泉 庭園にのみ当時の面影が微かに残されている。 広大な氷室ノ池を中心とした池泉舟遊式庭園 で、平安期の面影は池中の多島形式に見ること が出来る。 庭園は写真のようにかなり荒廃しており、地 割もはっきりとしない。中島は現在三島在り、 二つの出島も元は中島と考えられるので、蓬莱 五島を表わしていたものと思われる。 舟遊を楽しむ平安貴族たちの姿を想像するに は、やや荒れ果て過ぎているかもしれない。 |
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城南宮庭園 |
(伏見区下鳥羽) |
ここは白河上皇の鳥羽離宮の旧跡に建つ、平 安期以来の古い社である。平安京の南の鬼門守 護のために造営されたそうだ。 近年、中根金作氏によって、境内の南に楽水 苑という庭園が造られた。 平安・室町・桃山・現代という四つの様式で 造り分けられている。いずれもそれなりに力作 だが、小生は写真の室町の庭が一番気に入って いる。 手前は蓬莱島ともいうべき亀島だが、護岸石 組の脈絡の無さには目をつぶるとして、背後の 滝石組や三尊の護岸、築山の立石などが総合的 に創出している景観の全体像は申し分ない。 それにしても、豪快な滝石組を覆い隠してし まう程の植栽の繁茂を、なぜ放置しているのだ ろうか。 |
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安楽寿院庭園 |
(伏見区竹田) |
平安期の三尊石仏や鎌倉期の五輪塔を見るた めに、このお寺へは度々訪れている。しかし、 非公開の庭園は、長い間ずっと見学することが 出来なかった。 特別公開という観光の功徳が長年の夢をかな えてくれたと解釈するべきなのだろう。しかし 自由な撮影は禁じられた。 築庭は江戸初期とされる枯山水で、中央の築 山部分を回り込むようにして、左奥の滝から流 れ出た渓流が表現されている。 石は小振りだが、滝石組や石橋、築山の立石 などには洗練された趣味が感じられる。 手前の飛び石は悪趣味なもので、後世の補修 だろうと思う。 |
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御香宮神社庭園 |
(伏見区桃山) |
清和天皇の御世に、境内から香水が湧出した ことにその名前の由来があるという。 桃山建築の特色を見せる本殿や表門が見所で ある。 ここで「遠州ゆかりの石庭」と書いた看板を 発見した。伏見に住む友人と散歩がてらに訪ね たもので、庭園の所在はそれまで知らなかった のである。 写真がその“石庭”である。 後方の枯滝石組などは植栽に隠れて良く見え ないが、栗石を用いた流れの表現もある。 平石や丸石が多いので、やや雑然とした感は あるが、気力に満ちた配石に芸術的な意欲が感 じられた。 小堀遠州が関わった伏見奉行所の庭の石材を 利用し、中根金作氏が昭和に作庭した、という のが遠州ゆかりの真相であった。 |
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醍醐寺三宝院庭園 |
(伏見区醍醐) |
太閤秀吉の花見で知られる醍醐寺の塔頭で、 賢庭を中心に造築されたという。秀吉自身も、 その縄張りに関わったらしい。 桃山文化を象徴するような豪華さと、絶頂に 昇りつめた一種の物悲しさとを秘めた何とも美 しい庭園である。 壮大なスケールであることと、原則として撮 影禁止であるために、希望のアングルを望むの は無理で、幸運なこの写真は庭園のほんの一部 を切り取れたにすぎない。 写真の石橋は庭園ほぼ中央の亀島に架けられ ており、橋添石や護岸が見事な構成である。島 の反対側に架けられた土橋の意匠も斬新で、写 真に撮れなかったのが惜しい。 石組が上品なのは秀吉以前に在った室町期の 庭の名残であり、単に豪華絢爛なだけの権力者 の庭に終わっていない理由がそこに有る。 写真右奥に、元は太閤の聚楽第に在った名石 として名高い藤戸石が写っている。見事な三尊 石組を構成している。 左奥の本堂前には、太閤に相応しく瓢箪と盃 を、苔と砂で表現した枯山水部分が有る。 |
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石清水八幡宮社務所庭園 |
(八幡市) |
男山石清水八幡宮に、重森三玲の作庭した庭 園が在ることを知る人は少ないだろう。 社務所と塀に囲まれているので、通常は中へ 入って見学することは出来ない。ただし、社務 所横の門扉の格子越しに、その一部を覗く事は 出来る。 神社に枯山水庭園、というのは妙な取り合わ せなのだが、壺庭的な空間のデザインと理解す れば違和感は全く無い。 永仁銘の石灯籠を中心に、海神の性格を持つ 八幡宮に因んで、白砂を海洋に石を小島に見立 てた枯山水庭園であるという。 男山頂上という立地条件から、石は八幡宮社 殿周辺から運び込まれた十四石に石灯籠を加え て、七五三の石組として組まれたそうである。 そのため石は凡庸ではあるが、神社の神域に 相応しい清楚で上品な石組構成となっている。 参道入口付近には、崩壊した石鳥居の部材を 廃物利用したモダンでモニュメンタルな枯山水 が在り、鳩峯寮庭園と呼ばれている。 |
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楊谷寺庭園 |
(長岡京市浄土谷) |
大阪府島本町との県境に近く、京都から至近 とはいえここまで来るとさながら幽邃境を歩く 気分になる。 山麓の斜面に建つこのお寺は、眼病に霊験の ある清泉が湧くことで知られ、楊(柳)谷観音 と呼ばれている。私達が訪ねた時も、眼病平癒 を祈願する大勢の参拝者が見られた。 庭園は本堂の左手の奥まった所にあり、山畔 を利用して滝を組み、石橋の架かった渓谷の景 が立体的に意匠されている。 写真は最下部の池泉から渓谷部分を撮ったも ので、植栽の繁茂はあるものの、立石多くなか なか迫力の在る景観を創出している。 江戸の初期から中期にかけて造築されたのだ ろうと、勝手に推測している。散漫な石の扱い の中に、毅然と主張をする石が残されている、 といった風な至極感覚的で論拠の無い判断なの だが。 こうした庭園を前にするといつも、果たして これはどういう芸術なのだろうか、という根本 的な疑問に突き当たってしまう。自然の景観を 抽象化したイメージまで昇華させるという作業 がどこまで成されているのだろうか、いやむし ろ、自然そのままを箱庭の如く、庭に持ち込ん だだけではないのかという素朴な疑問である。 |
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興聖寺庭園 |
(宇治市宇治山田) |
紅葉の名所として雰囲気のある琴坂を登り、 中国式の山門を入る。ここは道元禅師を開基と する、曹洞宗の修行道場である。 庭園は僧堂のあちこちに配されており、写真 の本堂前庭、方丈の内庭、開山堂前の庭、など が主なものである。内庭が最も豪華だが、小振 りな丸石を積んだ滝組は悪趣味で論外だろう。 しかし、本堂前の枯山水は見事で、特に参道 の本堂に向かって右に展開する石組が力強い。 中心の剛毅な立石は蓬莱石であり、三尊石の 様にも見える。他にも亀石組などが意匠されて おり、やや平石が多いとはいえ抽象的な配石が 意欲的に成されている。 宇治川の中洲に建つ、鎌倉期の石造十三重塔 も拝したい。 |
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三室戸寺庭園 |
(宇治市菟道) |
西国三十三カ所の第十番札所として知られる 天台宗系の寺院である。8世紀宝亀年間に、光 仁天皇が開基した古刹とされる。 紫陽花や蓮の美しい“花の寺”としても人気 が高いそうだ。 「与楽園」と命名された庭園は参道の左右に 築造されており、池泉庭園と写真の枯山水部分 に分かれている。 設計したのは当節最も著名な作庭家中根金作 氏で、平成元年に完成した庭園だそうだ。そう いえば昔札所を巡拝した際には、この庭園はま だ無かったと記憶する。 多くの丸石や、妙に形を整えた植栽の存在が 気になって仕方ないが、立石の手法などに非凡 な感覚があるだけに、管理の問題とすれば惜し いという印象が強い。 |
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平等院庭園 |
(宇治市宇治蓮華町) |
言わずと知れた宇治の平等院鳳凰堂であり、 池泉は近年美しく改修された。 浄土を表現した園池と中島に建つ阿弥陀堂と は、相乗しながら光満ちた荘厳な曼荼羅を形成 しているように見える。 かつて鳳凰堂前の池畔は石垣風の護岸だった が、発掘により玉石の汀が復元されたことは平 安の景観が戻ったことであり、悦ばしいことで ある。 中島や護岸の石組などが失われており、藤原 頼通が舟遊したであろう園池の姿は想像するし かないのだが、彼岸である阿弥陀堂を写す浄土 再現のための池としての美しさは少しも色褪せ ていない。 鳳凰堂、阿弥陀如来坐像、雲中供養菩薩群像 や堂内壁扉図など、旅人にとっても正にこの世 の浄土を観る思いがする。 |
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酬恩庵庭園 |
(京田辺市薪) |
薪の一休寺として有名な寺で、創建僧大応国 師の恩に報いるために一休宗純が再建したもの である。 一休禅師の廟の前に、室町期の枯山水庭園が 在る。須弥山を象徴する、上品な石組が見事だ が入園出来ず、門扉の隙間から眺めるのみだ。 写真は方丈の北東に造られた枯山水庭園の、 枯滝石組部分の景観である。 方丈建築の屋根の陰が強く半分が暗くなって しまっているが、石組の示す迫力は充分伝わる と思う。 丸い巨石を中心としているので、若干締まり の無い印象だが、まあそこが江戸初期という時 代性なのだろうと思う。桃山期の豪壮な華麗さ や、室町の鋭敏な優雅さとは、明らかに違う。 方丈の南には、やや女性的な枯山水の虎丘庭 園が在り、様々な様式の庭園を観る楽しみがこ こには有る。 |
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海住山寺庭園 |
(木津川市加茂町) |
聖武天皇や良弁僧正が創建に関わったと伝え られているので、天平期に起源のある滅法古い 寺院である。 国宝の五重塔と十一面観音像を拝しに当山を 訪れた際に、本坊の庭園が特別公開されていた のは幸運だった。この時まで、この庭の存在す ら知らなかったのである。 庭園は背の低い土塀の手前に苔の平庭式枯山 水、背後に仏生寺山を借景とした様式で設計さ れている。江戸時代の作とされているが、石組 よりも植栽が中心となってしまっている。 平庭内の植栽を全て排除し、土塀の向こうの 林を伐採すれば一流の枯山水借景庭園が出現す ることを保証する。 |
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浄瑠璃寺庭園 |
(木津川市加茂町) |
九体寺とも称され、九体の阿弥陀如来像や四 天王立像が安置された本堂(阿弥陀堂)、三重 塔、そして浄土庭園などが残されている。 写真は、三重塔から阿弥陀堂を背景とした池 庭を写したものだ。 中央に象徴的な立石が見えるが、この部分は 現在唯一の中島となっている。 平等院同様、平安期の池庭は多島式であった はずなので、池庭の姿には昔日の面影は無い、 とも言えるのである。 学生時代に訪ねた時には、池は甚だしく荒廃 していたと記憶するが、近年森蘊氏によって整 備されたのだそうだ。 平安期の浄土式庭園として、たおやかな雰囲 気を今に伝える、数少ない遺構の一つである。 |