関東以北の庭園 |
称名寺庭園 (神奈川県横浜市) |
東国で都の文化に負けないだけの栄華を誇っ ていた唯一の場所が奥州平泉なのだが、その洗 練された美意識の名残を毛越寺の池庭に見る事 ができる。 残念ながら江戸には、造形的な美意識の介在 する庭園は少なく、浅草の伝法院・芝離宮以外 は大味な大名庭園の遺構しか残っていない。 東京生まれの私にとっては大変残念だが、文 化の質の違いと諦めるしかない。 江戸文化の粋を承知しているつもりだが、庭 園の分野に限っては不作だったとしか言えない のである。 しかし、地方を詳細に歩けば、キラリと光る 知られざる庭園が無いわけではない。関西と比 較すれば差は歴然たるものだが、その点は何卒 割り引いて御覧を頂きたい。 |
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旧芝離宮恩賜庭園 |
(東京都港区) |
権力と財力が造らせただけのよう成金的な庭 が嫌いで、都内の大名庭園や明治の財閥富豪庭 園を敬遠していた。 しかし、この築山石組を見てからは、妙な偏 見を捨てることとなった。 本庭園を詳細に眺めれば、地割、石組、景観 など、総てにおいて他庭を圧するほど傑出して いる事が判る。 江戸初期、元禄年間の築庭で、小田原藩主大 久保忠朝邸の園地であった。 大池泉の随所に配された築山や中島には、目 を見張るような優れた石組が施されている。造 形的な石組、という物差しで測れば、都内随一 の庭園と言えるだろう。 |
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浅草寺伝法院庭園 |
(東京都台東区) |
「観音様」で知られる浅草寺の一院で、かつ ては知楽院と呼ばれていた。 遠州作庭説もある江戸初期の庭園であるが、 従来から在った二つの池の、西と北に設けられ ている地割の手法が、鎌倉から南北朝にかけて の意匠に似ているとする説もある。 いずれにせよ、庭の大半が近年の改造によっ て、江戸初期の面影を失っているのは惜しい。 護岸の飛び石や雪見灯篭はその悪例で、唯一当 初の景観を保っているのが写真の枯滝石組付近 の意匠である。 滝中央の巨立石とその前方に双立する立石と が、まるで三尊形式のようにも見え、作者の非 凡な美意識を見ることができる。ただ、滝石組 全体としての、やや力弱い感は否めない。 都心に在ることが信じられない程の幽邃な池 泉地割と、瀟洒な江戸初期の枯滝石組は、造形 性に欠ける大味な大名庭園の多い東京において は、まことに貴重な存在と言わざるを得ない。 |
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靖国神社庭園 |
(東京都千代田区) |
戦没者慰霊のためにお参りする人は多いのだ が、社殿の裏側にこんな本格的な石組主体の池 泉庭園が在る事を御存知の方は少ないだろう。 江戸時代から伝わった大名庭園の大半が公園 緑地化されてしまった東京では、造形的なセン スを感じさせる庭園が非常に少ない。そんな中 で立石多く、意欲的に石が組まれているという 意味において、とても貴重な存在である。 しかし、神社の歴史からしても当然ながら、 明治後期時代の築造である。 だが、成金趣味的な大仰さが特徴の当代にあ って、やや粗野ながら力強い石組を中心に、ま ことに趣味の良い地割であることに感動した。 池泉に二つの島が浮かび、豪快な石橋で結ば れている。さらに栗石を敷いた荒磯の表現も、 明治時代としては古庭をよく理解した人の手に よるものだろう。 以前、茶会の際に拝見した時よりかなり整備 されたようだが、美しさが前面に出てきたよう に見える。 |
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称名寺庭園 |
(神奈川県横浜市) |
金沢八景の一つ、称名晩鐘で知られる鎌倉時 代創建の名刹である。 北條実時の別邸が始まりで、邸内に持仏堂を 構え称名寺と称したらしい。その後下野薬師寺 の審海上人を開山として迎え、真言律宗の寺院 として発展した。 実時遺品の蔵書が、金沢文庫として今日まで 伝えられている。 実時の孫三代金沢貞顕の時代に全盛を迎え、 貞顕によって、実時時代から既に在った池が、 本格的な浄土式苑池へと修築された。 苑池造営の期間は、貞顕書状などの古文書か ら、文保元年(1317)から元亨三年(1323)の間だ と判明している。 現在大半の建築は失われているが、当時は諸 堂伽藍の建ち並ぶ弥勒浄土の具現された庭であ り、まことに壮麗な景観だったと思われる。 当サイトの表紙の写真が、この庭園の全景で ある。金堂の前に広がる苑池で、山門から朱塗 りの反橋を渡って中島に至り、さらに平橋で本 堂と結ばれている。 荒廃した苑池に残る岩島の鋭い表現に、当代 の美意識を見る思いがした。 |
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瑞泉寺庭園 |
(神奈川県鎌倉市) |
梅の名所として名高いこの寺の裏山から、奇 妙な遺構が発掘されたのは1970年前後のこ とだった。種々の文献に書かれていた、開祖夢 窓疎石が作庭した庭園が発見された、と一時評 判となった。 写真で見る通り、岩盤をくり抜いた池泉と岩 島、背後の岩壁と“やぐら”のような洞窟等、 一木一草無いこの池泉庭園の姿は、通常の日本 庭園の景観からはおよそかけ離れているとしか 思えない。 洞窟は水月観道場・天女洞という。 池泉右側に滝組らしきものが見える。実際に 水を落下させるために、崖中腹に貯水池を設け るなどの仕組みが作られているそうだ。 左側には木橋が架かっており、今は無き山上 一覧亭への登坂路が続いている。 疎石が座禅を組んだ葆光窟も残されており、 一覧亭からの眺望も併せ、疎石の作庭構想を裏 付けている。池泉はあるものの、究極の石庭と いう表現しか出来ない戦慄的な造形である。 |
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早雲寺庭園 |
(神奈川県箱根町) |
箱根湯本温泉の早雲寺へは、三昧橋を渡って 旧東海道を行けばよい。鄙びた山門がすぐそれ と判るが、本堂の真裏に関東では唯一とも言う べき、江戸初期の枯山水(涸池)庭園が残され ていることを知る人はほとんどいない。 戦国の遺児北条早雲の開基になり、歴代の墓 所も有る由緒正しい寺である。 複雑に入り組んだ細長い涸池は、江戸初期の ものであり、また優れた意匠である。豪快な石 組が見所だが、やや石が丸みを帯びているのが 残念ではある。しかし、関東中探しても、江戸 初期の、しかもこれだけ卓越した意匠の枯山水 庭園はどこにも見当たらない。 寺の看板には、北条幻庵の作と記されている が、もしそうなら桃山期の庭となるので、現状 の石組を見る限り有り得ないだろう。 |
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能仁寺庭園 |
(埼玉県飯能市) |
武蔵の板碑を探訪した際に立ち寄ったが、意 外な名園が東京近郊に存在したことに驚いた。 写真の滝石組などは豪快で、江戸の初期から 中期にかけての庭という印象を持った。だが、 丸い池、中島、飛び石などがやや不似合いで、 江戸末期など色々な時代が、複雑に混在してい るのかもしれない。建築も、現在のものと庭と の間には何の関係も無い、と思われるほど離れ ている。 近寄って見えないのが残念だが、滝添石など 優れた意匠だと思う。 全体的には力強さに欠けるが、景観はまこと に美しく、中央部分の護岸や築山に意欲的に組 まれた石組は壮麗である。 右手に洞窟石組が見られるが、関東でも稀少 な後述の永源寺庭園にも同様の意匠が在り、何 らかの関連が有るのかも知れない。 |
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永源寺庭園 |
(群馬県藤岡市鬼石町) |
関東地方にはいわゆる京風の庭園がほとんど 見られず、江戸の大名屋敷における大仰で悪趣 味な回遊式のものしか造られなかった。 そんな中でこの永源寺の庭は、江戸末期の作 庭とはいえ、全体に室町的な風雅で洒脱な石組 と地割で構成されている、観賞主体の庭園であ る。 しっとりとした静寂な雰囲気の中に、石組を 主体とした、思ったより内容の深い庭が展開す る。中央に滝石組が有り、小振りな石ながら均 整がとれていて味わいが有る。 写真は向かって左側の出島で、センスの良い 中心石に立体的な石組がなされ、趣味の良い石 橋が架けられている。橋添石はいかにも弱々し いが、この辺りを力強い石組で盛り上げようと いう、気の利いたセンスは江戸末期には失われ てしまったらしい。 蓬莱式庭園にふさわしい舟石や、意欲的な洞 窟石組なども見られる。 時代的にも表現は淡白だが、石組の生命力が 感じられる関東地方では貴重な存在である。 |
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輪王寺大猷院庭園 |
(栃木県日光市) |
日光東照宮の奥に設けられた徳川家光の廟所 であり、華美な東照宮に比べると荘重さが感じ られる建築群が素晴らしい。 二つの門や国宝の拝殿・本殿は金彩が主体だ が、抑制された華美といった風情が好ましい。 参道を進み、仁王門を入ると右手に水盤舎が 建っており、その裏手に庭園の遺構が残されて いる。 注視しなければただの崖地なのだが、良く観 察すれば、かなり高度な石組が成されているこ とに気が付くだろう。 樹木や植栽の繁茂で見え難くなっているが、 明らかに枯滝を意匠した鋭い感覚の感じられる 石組である。 斜面を利用し、立石を中心に組まれているこ とから、江戸初期の造庭だろうと想像した。大 猷院建造の時期と一致しているのだろうか、と も思われた。 石組の質の高さから、従来の庭園はもっと広 かったのだろうし、どういう性質の庭園だっ たのかを想像した。もしかすると、大猷院を建 築する以前から在った庭園の名残なのかもしれ ない。 |
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大覚寺庭園 |
(茨城県石岡市) |
親鸞上人法難の地とされる板敷山の麓に建立 された、浄土真宗の寺院である。 何かの本に当庭園の話題が載っており、随分 前に訪ねたことがあったのを思い出した。昔の アルバムで見つけたのがこの写真である。 当時旧八郷町に龍門瀑の庭があると聞き、訪 ねたのだった。 本堂前に広がる池泉と、出島など変化に富ん だ汀線、さらに正面の龍門瀑様式の滝石組に感 心した記憶がある。関東では珍しい存在だった からである。 現在どうなっているのか気になるのだが、近 いくせになかなか再訪問の機会がないままだ。 |
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旧松平氏御薬園庭園 |
(福島県会津若松市) |
松平氏の居城鶴ケ城の北東に位置しており、 園名はここに薬園が設けられていた事に由来す る。造庭は江戸中期で、清流の注ぐ苑池と中島 が景観の中心となっている。 東山や磐梯山をも望む景勝の地であり、取り 立てて派手な石組などは見られないが、巧みな 地割が幽邃な雰囲気を醸成している。 写真には、女滝付近の流れと護岸石組、中島 に建つ楽寿亭や、後方の御茶屋御殿が写ってい る。大名庭園らしからぬ静謐で清楚な趣から、 幕末に示された会津藩の純粋な信義に通じるも のが感じられたような気がしていた。 |
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白水阿弥陀堂庭園 |
(福島県いわき市) |
屋根の曲線が何とも秀麗な阿弥陀堂の前面に 広がる、壮大な浄土式の苑池である。地方には 珍しい平安期の阿弥陀堂建築で、藤原清衡の娘 徳尼が夫であった岩城則道の供養のために建て たとされる。 白水は故郷平泉の「泉」を分字したのだ、と 伝えられているそうだ。 阿弥陀堂の建つ中島のほかにも、数島あった とも言われるが、近年の復元改修によって栗石 による汀線の荒磯の景観が見事に復活した。 苑池内には立石多く、雄大な景観の中で鋭い アクセントとなっている。 深い緑の山を背景にした風光明媚な場所に在 って、阿弥陀三尊を本尊とする阿弥陀堂を中心 に、流麗荘厳な浄土の世界が描かれていたこと を想像する時、その姿を写す苑池もまた光り輝 いているように見えたに違いないと思えた。 |
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珍蔵寺庭園 |
(山形県南陽市) |
曹洞宗の禅寺に相応しい凛とした空気が、山 門を入ると強く感じられた。 森厳な雰囲気の樹林に囲まれた庭園は、山畔 の斜面を利用して石を組み、最下部に細長い池 泉を配している。 庭の大半が植栽に覆われているので、滝石組 や段状石組などはほとんど隠れていて見ること が出来ない。池泉までが、水草に厚く覆われて いた。 日本庭園における植栽や樹木をどの様に評価 するかは難しいのだが、池泉・石組・植栽など が、バランス良く組み合わされているのが原則 で、あとは庭の眼目が何処にあるか、という美 意識が問われるのだろう。 |
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法泉寺庭園 |
(山形県米沢市) |
直江兼続が建立した臨済宗の寺院で、上杉藩 の修学道場として設けられた禅林文庫の庭園で あった。 創建当初は広大な池泉庭園だったのだが、近 代になってからの火災や区画整理などが影響し て、現在は涸池となっている。 写真は涸池奥の滝組付近を写したもので、左 手が中島、右手も中島で更に右手に太鼓橋が架 かっている。 手前は広大な涸池で、水があった頃にはさぞ 美しい景観だったであろうことが想像される。 護岸等に際立った石組は見られないが、せめ て滝石組付近の植栽を整備していただければ、 米沢三名園の第一と言えるような景観が出現す るはずなのだが。 |
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光禅寺庭園 |
(山形県山形市) |
桜咲く五月初めの奥州を旅した際、山形市内 に名園在りの評判を聞いた。 山門から境内いっぱいに、山桜や枝垂れ桜が 満開だった。 墓地では、中世の板碑や五輪塔も見ることが 出来た。 庭園は本堂の裏側にあり、東北に在っては誠 に洗練された部類に入るであろう上質の池泉庭 園だった。 左奥に滝石組、右側に三尊形式の遠山石組、 そして美しい出島の護岸石組や鶴石組など、小 振りな丸石が多いのだが、意欲的に石の組まれ た秀逸な江戸中期の庭だ。 庭園の美しさは石組と地割にある、というの が持論だが、ここでは入り組んだ池泉の汀線が 素晴らしい。築山の野筋の美しさを強調した庭 か、とも思ったが、だとすれば邪魔となるはず の繁茂した植栽も、ここではそれ程苦にはなら ない。 |
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旧酒井氏邸庭園 |
(山形県鶴岡市) |
鶴岡は庄内藩主酒井氏の城下町で、酒井家の 御用屋敷であった御隠殿が、藩校であった致道 館の名前を取って致道博物館となっている。旧 酒井家の庭園が残っており、この地方の民俗的 資料の蒐集と共に公開されている。 山畔を利用して滝石組を組み、栗石で州浜を 表現する手法は、京都御所など事例は少ないが 江戸初期のものである。しかし、山畔の石組の 弱さや護岸石組の軟弱さ、そしてやや幅の広い 池の形などから、初期の感覚を少し残した江戸 中期と言っておく方が無難と心得た。 しかし、東北地方ではまことに貴重な江戸期 庭園であり、やや質は落ちるものの、大名庭園 にもかかわらずれっきとした石組中心の観賞庭 園であることや、州浜の表現がユニークで面白 いことなどに感動したのを覚えている。 |
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玉川寺庭園 |
(山形県鶴岡市) |
ここは現在鶴岡市に合併されたが、かつての 羽黒町で、出羽三山神社への上り口に当たって いる。 書院の背後、鬱蒼とした山林を背景にした、 東北には珍しい造形性に富んだ、石組を主体と する鑑賞式の庭園である。 植栽が繁茂し過ぎで、大半の石組を隠してし まっているのが残念である。 正面の立石が印象的であり、蓬莱山を象徴す るのか、或いは鶴石を具現しているのだろう。 池中には亀島など、造形性に富んだ石組の三 つの島が意匠されている。 山畔に滝が落ちているが、書院座敷からは見 えない。 池の対岸を回遊出来るが、ここでは座して景 観を楽しむべきだろう。 |
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井岡寺庭園 |
(山形県鶴岡市) |
鶴岡に住む友人を訪ねた際に案内をして頂い た、当初の旅の予定には入っていなかった知ら れざる庭園である。 この寺は現地では、枝垂れ桜の名所として知 られた存在で、季節には大勢の参拝客で溢れる のだそうだ。 庭園は江戸末期に作庭された池泉鑑賞式のも ので、桜の木は写真の左奥に有る。 本堂の裏側に山畔を背にして池を掘り、意欲 的な石組を多数据えた好ましい庭園だった。 “鄙にも稀”と言ったら、鶴岡に誇りを持つ 友人が「鄙はないだろう」と怒った。 しかし、斜面上部に須弥山のような石組が見 られるのだが、丸石が多いことと植栽が繁り過 ぎていることが、この庭の造形的な価値を損ね ている、という小生の意見には賛成したようだ った。 |
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總光寺庭園 |
(山形県酒田市) |
旧松山町(現酒田市)にある曹洞宗の禅寺で ある。本堂裏に、写真の様な美しい庭園が築か れている。 江戸後期の作と現地の案内に記されていた。 写真右手前は中島で、亀島のように見える。 写真左奥に滝石組が設けられているが、陰影 と植栽に隠れて見えない。 中央は築山に組まれた須弥山と思われる力強 い石組で、この庭園の中心的存在である。 築山や野筋の景観を主体とした名園だけに、 石組を隠すような植栽は出来るだけ排除したい ものだが、手入れの困難さを思えば、それはき っと観る側のわがままでしかないなのだろう。 |
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旧有備館庭園 |
(宮城県大崎市岩出山) |
岩出山は伊達政宗の居城が在った所で、有備 館は伊達氏の治世下で設けられた隠居所が、学 問所として利用されたものだという。 庭園は、壮大な池泉に四つの島を設けた回遊 式で、石組の全く見られない景観中心の穏やか な庭である。 忘れてはならないのは、この池中の島は自然 のものではなく、人工的に造設された意匠であ る、ということである。美しい自然の景色を眺 めるのと同じ次元では、庭園が人工的に再構築 された自然、という原理の意義が失われてしま うからである。 |
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毛越寺庭園 |
(岩手県平泉町) |
東京生まれの私にとって最も残念なことは、 地元の東京はおろか、関東以北には胸躍らせる ほど感動した庭が一つも無いという事である。 強いて挙げれば、箱根早雲寺・飯能能仁寺・ 鬼石永源寺ぐらいだろうか。 そんな中で、この奥州藤原三代ゆかりの庭園 だけは別格と言えるだろう。 平安時代の遺構というだけでも貴重だが、か くも都から遠い辺鄙の見本みたいな場所に、こ れほどまでに洗練された浄土庭園が造営された ことは驚きである。 壮大なスケールの中に、中島・出島・干潟・ 州浜・亀島などが見事な景観を見せている。 写真は石組が最も美しい部分で、手前が出島 の一部、奥が亀島の石組である。緊張した傾斜 で鋭く天を突く中心石の美的感覚が、平安末期 という時代に既に存在していたことだけでも感 動的ではないか。 |
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観自在王院跡庭園 |
(岩手県平泉町) |
平泉には前記の毛越寺庭園のほかに、当院や 無量光院などに庭園が造られていた。いずれも 臨池伽藍と呼ばれる、阿弥陀堂を中心とした極 楽浄土の姿を表現したものであった。 当院跡は毛越寺の寺域と隣接しており、壮大 な面積を誇っている。 この苑池は舞鶴ヶ池と呼ばれ、近年の発掘修 復によって復元された。 大阿弥陀堂や小阿弥陀堂など、多くの壮麗な 建築が苑池の周辺に建ち並んでいたのである。 写真は池の北側から西を眺めたもので、手前 に東側へと続く州浜の一部が写っている。西側 には出島や石組なども見えて、宇治平等院を模 したとされる浄土庭園の往時を偲ばせている。 |
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小田野氏邸庭園 |
(秋田県仙北市角館) |
武家屋敷と枝垂れ桜で知られる角館だが、各 武家屋敷が小規模ながら質素な庭園を擁してい ることが貴重だと言える。さながら薩摩の知覧 に比すことが出来るだろう。 石黒家、青柳家、岩橋家、河原田家、松本家 と共に、この小田野家が主だった武家屋敷で、 其々に雰囲気のある庭園が維持をされている。 「解体新書」の挿絵で知られる小田野直武の 実家で、当時の中級武士の住まいや暮らしを知 ることが出来る。 庭園は地味で幾つかの石組が配されただけの 苔庭だが、こうした造形美を愛でる感覚を持っ た侍に拍手を送りたい気分だった。 |
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清藤氏盛美園庭園 |
(青森県尾上町) |
津軽の弘前市から黒石市、尾上町にかけての 地域には江戸末期から明治にかけて造られた、 大石武学流と称される豪快な様式の庭園が数多 く分布している。 庭園文化的には、所詮頽廃した時代の産物な のだが、辺鄙な津軽という地域性と、そこにか くまでも集中的に庭園が造営されたという文化 的価値を評価したいと思う。 石組が最も意欲的で美しいという一点から、 この盛美園を取り上げた。 この時代の特徴である燈篭は目障りだが、滝 石組の豪華さは特筆できる。 石が丸や四角であることも、この時代の感覚 で致し方無いが、地割は大変に変化に富んでい て美しい。 黒石の加藤氏沢成園、弘前の瑞楽園や小野氏 秀芳園など、傑作は枚挙に暇が無い。 |
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法源寺庭園 |
(北海道松前町) |
五月の連休に札幌の親類を訪ね、その帰りに 福山城と呼ばれた松前城址の桜見物をした。北 海道とはいえ松前は江戸時代の城下町であり、 同時に多くの寺院や庭園を見る事が出来た。 松前家歴代の墓所の有る法幢寺の庭園は江戸 初期とされるが、植栽や樹木が繁茂しすぎて、 滝や石組のほとんどが見えなかった。 血脈桜という銘木の有る光善寺の庭を観てか ら、隣接する法源寺庭園を訪ねた。 小さな滝石組だけが残されており、周辺はか なり荒廃している。石が雑然と並んでいる所を 見ると、涸池が在ったのかもしれない。 北海道という立地環境を考えすぎるために、 宮廷文化的とも思える庭園芸術などなんとも馴 染めないのだが、滝石組は中国の山水画を連想 させるような洒落た感覚であった。比較的ちま ちまとした石の組み方が、江戸時代末期の性格 をよく表している。 南端とは言え、北海道に江戸時代の古庭園が 残されていたことに、大いなる感動を覚えた。 |
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